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ロカルノ 金田さんを悼む

2009年8月24日

  • 筆者 小原篤

写真拡大亡くなった金田伊功さん=アニドウ提供写真拡大会見中の今石洋之さん=スイス・ロカルノで写真拡大学生相手に講義をする板野一郎さん=同写真拡大会見中の小池健さん(左)と石井克人さん=同写真拡大舞台あいさつ中の丸山正雄さん=同写真拡大会見中の片渕須直さん=同

 アニメーター金田伊功さん(かなだ・よしのり)が7月21日、心筋梗塞で急逝しました。57歳の若さでした。07年秋にある会合でごあいさつをしただけで、取材する機会もありませんでしたが、訃報を聞いた時はしばし呆然として、その日は仕事が手につきませんでした。独特の奇妙なポーズとダイナミックな構図から生まれる破天荒なアクション、ほとばしるパッション。鉛筆1本、線1本で、見たことのない地平線の彼方へ私たちを連れて行ってくれました。

 30日には東京・杉並公会堂で「金田伊功を送る会」が開かれます(入場申し込みは終了)。宮崎駿監督らそうそうたる面々が発起人に名を連ねておりぜひとも取材に行きたいのですが、何と不運なことにこの日は総選挙の投開票日。新聞社は全員総出で開票速報の取材に当たらねばなりません。しかし幸運なことに、15日までスイスで開催されたロカルノ国際映画祭で何人もの方からコメントをいただきましたので、哀悼の意を込めてここに記します。野暮な解説は抜きで、響き合う熱い魂を感じ取っていただけたら幸いです。

 今石洋之さん(アニメーター、「天元突破グレンラガン」監督)「ひたすら目標にして、ガイナックスで独りで勝手にリスペクトしていました。ゲーム『武蔵伝2』のオープニングムービーで、金田さんがコンテを切り、作画と演出に僕を指名して下さった。一緒の仕事はその時だけでしたが、今となってはそれが僕の救いというか宝です。金田作画の魅力は、自由さと気持ちよさ。金田さんの作り手としての姿勢にも、自由さと気持ちよさを感じます。僕は演出になってからも金田さんの表現スタイルから影響を受け続けている。大好きなのは『大空魔竜ガイキング』(76〜77年)の最終回。金田さんの若い頃の魅力があふれ過ぎていてカオスなフィルムになってる。行き詰まっているとき見ると元気になります。1人のアニメーターの力で、あそこまでフィルムの熱を上げてしまうのはすごいです」

 板野一郎さん(アニメーター、「ブラスレイター」監督)「プロになってから金田さんの名前を意識し、ファンになり、すごさを知った。当時の僕はスタジオで、打ち合わせしているお姿を富野(由悠季)さんの背中越しにながめて、あいさつを交わす程度。作風とは正反対の口数の少ない静かな人で、もっといろいろお話ししたかったんですけど。作品を一つ挙げるとしたら『ガイキング』かな。ほかにも『無敵超人ザンボット3』(77〜78年)とか『無敵鋼人ダイターン3』(78〜79年)とか、金田さんと仲間たちのあの時の輝きを、今の若い人に知ってほしい。金田さんの名前の出る回は、シリーズのほかの回と違っていい意味で浮いていました。当時まだ高価だったビデオデッキを持ってる友人の家で金田さんのカットをコマ送りで見たり、サンライズでタイムシートを見せてもらったりした。原画1枚だけ見ると何が描いてあるかわからなかったりして『これでいいの?』。でも流れるとこれが大丈夫。大丈夫どころかカッコいい! 時間空間のデフォルメがアバンギャルドでセンセーショナル。天才的な感覚だと思った。でも自分もプロだからマネはしたくない。金田さんのいいところを吸収し、その上で自分の表現を探さなきゃと思って、『板野サーカス』が生まれた。金田さんあっての『板野サーカス』だと思っています。今のアニメーターは、技術はあっても独創性がなかったり、まじめで大人しかったり。もっと冒険して暴れて欲しい。アニメーターはキャラの顔を整えることばかり気にしない。ファンもキャラの顔が少々違ったって『作画崩壊だ』なんて非難しない。でないと、似たようなつまらないアニメばっかりになってしまう」

 小池健さん(アニメーター、「REDLINE」監督)「気持ちいい、カッコいい、洗練されている。アニメーターとして初めて名前を意識した人で、間違いなく僕がアニメーターになろうと思ったきっかけの1人です。高校生のとき家にビデオデッキが来て、コマ送りしました。広告チラシの裏にそれを描き写し、1枚1枚どれもカッコいいな、と思ってた。15年くらい前、1週間だけ同じ場所で仕事をしたことがあります。きさくな方でよくおしゃべりにつきあってくれました。金田さんのつくり出す躍動感、浮遊感は、僕の頭に焼き付いている。自分で動きを作る時、あの動きの気持ちよさを思い出すことが多いです。『銀河旋風ブライガー』(81〜82年)のオープニングはぜひ見て欲しい。僕にとってバイブルのようなものです」

 石井克人さん(「茶の味」監督、「REDLINE」原作)「『茶の味』で我修院達也さんに演じてもらった元アニメーターのおじいさんは、金田さんがモデルです。僕は小学3年のころからセル画を集めたりアニメーターのマネ事をしたりしてましたが、金田さんがやった「銀河鉄道999」(79年)ラストの惑星崩壊シーンに『こりゃすげえ、かなわない』って圧倒された。金田さんのセルを集めようとしたけど、当時一番高くって買えなかった。『幻魔大戦』(83年)の公開初日に劇場に並んでプレゼントのセル画をもらったら、それが金田さんの火炎龍で、ヤッター!って大喜びでした。『ブライガー』のオープニングはビデオでコマ送りしながら3回くらいトレスしましたが、描いても描いても、あのポーズがなかなか決まらない。金田さんの後を追うアニメーターが流派のようにたくさん出てきましたが、金田さんのポージングは一段高いというか濃かった。肉感があって、タメから伸びる感じが野性的でしたね」

 丸山正雄さん(マッドハウス・プロデューサー)「設定のキャラに似せなくてもいい、違ってもいい、とみんなに認められたアニメーターが2人だけいる。それが月岡貞夫さんと金田伊功さん。『ガイキング』なんて主人公の顔が違うけど、『でもいいよ』とみんなが認めてしまう。思い切り仕事をさせてやろうという気を起こさせる、そんな特別な人だった。『キャラ表みてないんじゃないの?』とよくからかったけど本人は『似せようとしてるんですよ』と言ってた。『バース』(84年)は金田さんが思う存分やりたいようにやった。OVAがまだ定着してない時で、たった1人のアニメーターの個性で1つの作品を押し通すことが出来たんです。『絵はいいけど話がねぇ…』と金田さんに言ったら『話なんかどうでもいいじゃん!』って一蹴されちゃった。『孔雀王』(88年)の準備と称して僕とりんたろうと金田さんとでチベットへ行った時、高山病にかかった僕をずっとおぶってくれた。そんな面倒見のいい人で、そういう意味じゃあんな絵を描く人には見えない。ヘンじゃない、ヘンな人なの。ここ数年おつきあいがなかったので、亡くなったと聞いても実感がまったくないし、実感するのがイヤなので詳しいことは聞かないでいます。30日が来たら、実感せざるを得ないでしょうけど。りんたろうや僕より、若いのにね」

 片渕須直さん(「マイマイ新子と千年の魔法」監督)「ある忘年会で、僕が一番乗りかなと思ったらサングラスをかけた人が独りでボウリングをしてた。それが金田さんとの出会い。アニメーターらしくない、スタイリッシュでやんちゃな感じでした。実はご本人はマジメな人なんだけど。一緒に仕事をしたのは『魔女の宅急便』(89年)。当時吉祥寺にあったスタジオジブリにバイクの部品ドロが出没したことがあって、見張りを立てて『見つけた!』ってみんなで追いかけた。ゼイゼイハアハア言ってようやく僕らが取り囲んだところに、金田さんが悠然と歩いてきて、輪を割って男の前に立ち「ケーサツ、行こうか」。その瞬間、僕らは下っ端で金田さんが頭(かしら)って感じ。別格で僕らより一つ上、みたいな雰囲気持っている人だった。我々にとって、本当にいい兄貴でした。06年11月に亡くなったオープロの村田耕一社長のお葬式でお会いしたのが、たぶん最後です。焼き場へ行くバスで隣り合わせ『若い頃はね、アニメーターが机で死ぬなんてそんなカッコ悪いことないな、って思ってた。でもひょっとしたら、ちょっとカッコいいんじゃないかって気が最近してきたんだよな』と話していたのを、思い出します。あと2年ほどでスクウェア・エニックスを定年になる予定で、自分の作品を作ることを考えてリサーチを始めていた。そのノートを奥さんに見せていただいたら、ロボットやアクションではないみたいで、新しい金田さんの世界が見られたかも知れない。これを手がけるはずの人がいなくなっちゃったのは、さびしいなと思いました」

プロフィール

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小原 篤(おはら・あつし)

1967年、東京生まれ。91年、朝日新聞社入社。99〜03年、東京本社版夕刊で毎月1回、アニメ・マンガ・ゲームのページ「アニマゲDON」を担当。09年4月から編集局文化グループ記者。

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