1998年から2003年まで韓国大統領を務めた金大中(キムデジュン)氏が亡くなった。戦後の日韓関係史を語るうえで欠かせない政治指導者だった。
類を見ない波乱に満ちた生涯を送った政治家でもあった。その政治生活を支えたのは、前半生は執念と忍耐、後半生は信念とそこから生まれた寛容だった。
20歳代半ばで民主化運動に身を投じ、1961年に国会議員に初当選した。71年、軍政下の大統領選に立候補し善戦したことで、当時の朴正熙(パクチョンヒ)政権に迫害を受け、以後は日米両国に滞在して国外から韓国の民主化運動を指導した。
しかし73年8月、滞在中の東京のホテルから拉致され、ソウルで軟禁状態に置かれた。「金大中事件」である。80年に政治活動を再開するも、この年5月に起きた民主化要求暴動「光州事件」の首謀者として死刑を宣告された。その後、刑の執行を停止されたが米国への出国が条件だった。事実上の国外追放である。
それでも85年に帰国を強行し、大統領選に挑み続け4度目の挑戦で悲願を果たした。74歳になっていた。アジア通貨危機のさなかの大統領就任で政策手腕を危ぶむ声も多かったが、使命感に裏打ちされたリーダーシップと民主化運動で培ったカリスマ性で危機を乗り切った。
金大中氏を語るとき、忘れてならないのは、自ら平壌に赴いて北朝鮮の金正日(キムジョンイル)総書記と会談を行った韓国初の大統領であるということだ。もう一つは、日本の戦後の歩みを正当に評価し、言葉だけでない対日和解を目指した韓国の政治指導者だったということである。
南北首脳会談を実現したことなどでノーベル平和賞を受けたが、その後の北朝鮮の核開発や会談をめぐる金銭的疑惑で評価は分かれる。だが、金大中氏が目指したものが祖国統一を見据えた「同胞の和解」であり、氏がその扉を開いたことは記憶にとどめておかねばならない。
日韓間でも金大中氏が決断した「日本文化の解禁」などを受けて、両国に未来志向の若い世代が確実に育ちつつある。時代の要請ではあったかもしれないが、氏が身をもって語り続けた「和解の哲学」は引き継いでいきたい。哲学を語る政治家が少なくなった今、切にそう思う。
=2009/08/19付 西日本新聞朝刊=