8月21日、中華人民共和国での思い出
テーマ:研究・仕事今晩も原稿。
「研究は夜の方がはかどる」というのは大学院生以来、変化なし!
原稿をパソコンに打っている時に、日付を変わるのを見て、「あ…」と思い出した。
毎年そう。原稿をいつもこの時期は作成しているから、ふと思い出す日。
---
私はある夏、中華人民共和国に留学していた。
留学先は吉林省長春。
長春は、日本から遠い遠い所だけれども、旧満州国でもある。遠くて近い場所。
そういったこともあって、留学先は長春を選んだ。
---
歴史を
語られなかった過去を
「救う」ために、「記憶」するために、選んだ。
---
みんな、「北大(北京大学)でいいじゃない!」と言ったけど、
それは誰でも行けるツアーのようなものがあって、
日本人の団体で行く留学だったから嫌だった。
それじゃ、単なる旅行じゃないかと。
だから、私が選んだのは長春。
そもそも、北京は首都でありながら訛りがあるし、
長春を含む中国東北地方は、一番美しい中国語(普通話)を話すところ。
そして、日本人があまりいない。
これが条件だった。
---
長春に到着。
街並みは、傀儡国家だっただけあって、日本式の建物があちこちにまだあった。
それだけで、「私は非常に大きな挑戦をしたんじゃないか」って思った。
---
だけど、長春の人々は、とても温かかった。泣けるくらい温かかった。
大学の先生方、友人たち、留学生寮の管理人のおじさんとおばさん、
私専用のコックさん、事務局の方…。
毎日、寮の門をくぐる時、小さな管理人のお部屋から、
「今日は大学の後にどこ行くの」とか、「お湯がほしくなったら言ってね」などと、
いつも声をかけてくれるおばさん。
手元を見ると、編み物。
「それは誰に編んでるの」と聞くと、「まずは子どものよ」とニッコリ。
長春は夏が短いから、もう冬支度なんだ、と思った。
---
「日本人は嫌い」とはっきり言いながら(もっともだと思った)、
講義をしてくれた年配の先生。
でも、北京へ旅立つ前に、「あの…恥ずかしいのだけど、
日本語を教えてくれないかしら」と言ってくれた時の、
あの何かが溶けたような感覚。
「日本大好き!」の先生は、私に日本語専攻のお友達15人ほどを紹介してくれた。
その中で一番真面目なXiaohong(曉鴻)とすぐに仲良くなって、親愛なる「男朋友」に。
中国語主体で、日本語もミックスさせながら、英語のできる他大学の友人とは、英語と中国語で。
毎日、夕食ではマシンガントークで盛り上がったなあ。
話す間に、飲む、食べる…の繰り返し。
---
午前の講義が終わると、長春を散策。
もちろん、傀儡国家の主となった清朝のラスト・エンペラー溥儀の皇宮、
Weihuanggongにも行った。
そこには、展示室もあって、日本軍が中国人に何をしたのかが、
延々と、延々と綴られていた。
日本刀も、そして、少し離れた場所の、かの人体実験のあった痕跡も、
その標本も、すべて見た。
かなり誇張はされているのだろうと思ったけれど、
処刑道具が目の前に転がっているのは事実。
私は、息が止まる感じがして…でも目を背けることはしないように、
ただ黙々と、展示物、その説明書の全てに目を通した。
---
展示室の最後の壁だったと思う。
そこに、「世界和平(世界平和)」と大きく中国語で書かれていて、
周囲に世界の国々の言葉で世界平和と記されていた。
私は、実は、そこである白々しさを感じたのだ。
そして、同時に、悲しみと、怒りと、すべてがごちゃ混ぜになった気持ちになっていた。
「世界平和…」「世界和平…」と私とXiaohongが、同時に呟いたのを憶えている。
---
帰りに、Xiaohongが「僕は、ここにあなたを連れてきたけれど、大丈夫でしたか」と問うてきた。
私は「見るべき場所です。…ありがとう」と応じた。
少し歩いて、Xiaohongが右手の小さな通りを指さす。
何ということもない通り。
「ここで、中国人が虐殺されました。
日本人はこの通りの名前を知っていますか」とXiaohong。
「この通りの名前は知りません。でも虐殺があったことは知っています」と私。
その通りの名前は知らない。
虐殺もあちこちであったのだし、私たちが知っているのは、「大きな歴史的事実」でしかない。
私はその日は食欲もなく、でもXiaohongは、ずっとお茶をいれてくれて、他愛もない話、笑い話をしてくれた。
この人とは、「友人」になれる。確実にそう思った。
しかし、歴史と生々しく向き合っていたせいか、
過去に何かを問われているのに気づいたせいか、
私はその重圧で、疲れ果てて眠ってしまった。
---
その後は毎日、Xiaohongや友人たちと、早朝は大学のグラウンドでバスケをし、その後講義へ。
休み時間は卓球。
夕方は散歩。夜は外で夕食。
土日は買い物。
書店、デパートとあらゆる所へ行ったけど、書籍好きの私は、どれだけでも書籍を購入するので、
持ってくれるXiaohongは手がしびれると言っていた。
日本へ国際電話をかけに行った時、笑い泣きしながら家族と話す私を見て、
強面の電話交換手のおばさんが、帰りに「家族はみんな元気になったわよ」と
笑って話しかけてきた。そして、「またおいで」と言って、微笑んだ。
こういう時の気持ちは一緒。
みんな一緒。
Xiaohongは黙って微笑んで手を繋いでいてくれた。
---
そんな日々を過ごし、「もう少し長春にいて」と言われ始めた頃、
私は「帰国前に北京に寄る」と言って、早速北京へ飛ぶ手配をしてもらった。
そのまま長春にずっといたいと思っていたけど、私にはもう次の目的があった。
長春に来る前に滞在した北京に、もう一度戻ること。
果たして、どんな風景が見えるか、何を感じるか、それを試したかったから。
---
長春空港で、先生方、友人達、その他のみんなが見送りに来てくれた。
前夜に、送迎会をしてもらって、「Joaillerieは、もう家族だ」と言ってくれた。
空港で一人一人と握手して挨拶。
女性の先生や女友達とは泣きながら抱き合って。
そして…Xiaohongとは、ただただ黙って、手を繋いで空港内を歩いた。
最後にゲートをくぐる時、振り返ると、みんな泣いていた。
その瞬間、Xiaohongが、「Joaillerie!」と大きな声で私を呼んで、そして泣いた。
---
北京に着くと、夕陽があまりにも綺麗で、私は大泣きしてしまった。
8月21日。夕方。
忘れることはない。大切な日。
---
追記:異国の地から、大好きなブロガーさんより、早速プレゼントをいただきました。
一緒にこの体験を共有、共感してくださったこと、本当に嬉しく思います。
ありがとうございます!