2007年05月20日

Twitterと言語モデル


■ブログへのコメントとトラックバックの違い

 Twitterを初めてまず気づいたことは、Twitterが「言語」という意思疎通システムに極めて近い形態をとっているという点だ。

 通常、ブログ等のサービスでは個人が思索したことがらを発表する場としてのページがあり、そのエントリを読んだ閲覧者がコメントをつけていく形でコミュニケーションがなされていく。

 これはコメントをする人の心理から言えば、他人の部屋に行ってその人の話を聞き、それについての意見を述べるような感覚だろう。
 だから、時として反論コメントに管理者のレスがつかなかったりすると「せっかく意見を書いたのにスルーされてしまった」と悲しい気持ちになってしまう経験は誰にでもあるのではないだろうか。

 これを一歩推し進めたのが、トラックバックである。
 あるエントリを読んだ第三者が意見を言う点では同じだが、トラックバックでの意思表明はエントリ発信者のページではなく、閲覧者が所有するページで行なわれる。
 コメントとトラックバックで語られることに内容的な大差は無いが、スタンスにおいては大きな開きがある。
 それは、トラックバックは「この人はこんなことを書いているが、俺はこう思う」という一次ソースのエントリとは一線を画した場で語られる意思表明であり、もはや一次ソースの発信者がトラックバック先にある自分のテキストを読もうが読むまいが一向に構わないという思想だ。

 一見すると、エントリへのコメントと比べてトラックバックはコミュニケーションの濃度が希薄になっている印象を受けるが、我々が日常使っている「言語」というシステムにはトラックバックのほうが近いのである。

■双方向とは一方通行が二重化したもの

 「言語」が意思の疎通を目的としたコミュニケーション手段だとするならば、それはいまだ不完全な手段であると言わざるを得ない。
 相手に伝達するという用は成すのだが、伝達されたかどうかの検証をする手段が無いからだ。
 相手に「わかった」と返事をされたとしても、先方が完全に意図を理解したという保障にはならない。
 通信に例えると、分割されたパケットが通信中に欠落しても再送要求がないままなんとなく結合され、不完全な形のまま先方に届くという具合だ。しかも先方は、それが完全なデータかどうか検証する術を持たない。

 言語による意思伝達システムに真実があるとすればただひとつ、「自分が情報を発信した」という事実だけだ。この事実は受信者の中にあるのではなく、発信者にしか内在しない。

 Twitterもまた、トラックバックのように自分の意思を表明するシステムである。
 独り言のように情報を発信し続け、それに関連していたりしていなかったりする他者の情報を受信し続ける。
 @をつけることで他のユーザにレスを返すことは可能だが、そのレスは他ユーザのページに書き込まれるBBSのようなものとは違い、発信者のページで管理される。
 参加者が互いに独り言をつぶやきながら会話的に連鎖していくコミュニケーション、それがTwitterだと言えるだろう。

■幻想を抱かせるmixiと現実を突き詰けるTwitter

 mixiは一貫して「仲間、友達、親近感」といったものを前面に押し出している。まず、会員の紹介でなければ入会できず、アカウントを持たないものには閲覧すらかなわないという演出がそうだ。
 あえて演出という言葉を使ったのは、これだけ肥大化した会員制ネットワークにもはや閉鎖的な秘匿性は無く、形骸化した会員制は連帯感向上にしか機能していないからだ。
 マイミクという擬似的な繋がりやコミュニティも、連帯感を高めるのに一役かっている。

 マイミクと同じような仕組みならTwitterにもあるじゃないか、という声もあるかもしれない。
 だが、TwitterのFriends/Followersシステムはマイミクとは真逆の構造で、言語の一方通行性をより明確にしたものだ。
 Twitterでは基本的にaddやremoveは自由で、相手の許可は要らない。相手の話を聞くのは自由だが、自分の話を相手が聞いてくれるかどうかは相手次第というわけだ。
 現実に置き換えて例えると、人気アーティストのCDを買ってきて聴くのは自由だが、そのアーティストに自分の歌を聴かせるのは自由ではない――という、ひどくあたりまえのシステムだ(そしてアーティスト本人も、自分が好きな小説の作者に会って話ができるわけではない)。
 そのあたりをボカして幻想のコミューンを築かせることに成功したのがmixiで、徹底して実際の意思疎通モデルを模したのがTwitterであろう。

 どちらにも長所があるが、mixiは情報の発信者が受信者に対して「甘え」を抱かせやすい構造にあることは懸念すべき部分であるように思われる。
 足あとだけを残してコメントして行かない閲覧者を「踏み逃げ」と称して忌避する動きなど最たるものであり、受信者に「閲覧」や「意思の表明」を強要することはまさしく甘えであろう。

 これは現実でも同じで、家族や友人、恋人が自分の意に沿わぬ言動をした時に「私のことを一番わかっているはずなのに、なぜこんなことを言うのだろう」と思ってしまうのに似ている。
 実際には近親者であろうと必ずしも意思の疎通が円滑に行なわれるとは限らないし、わかり合うためには恒常的なコミュニケーションを要する。
 そこに齟齬が生じた場合、受信者だけにその責を負わすのは不当と言えるのではないだろうか。
posted by 黒猫 at 21:29| 大連 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 論説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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