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イーハトーヴの坂道 宮澤賢治の作品と歩く歩き方をさがす

ごんぎつねからよだかの星へ



以前TVで、イラストレーターの黒井健さんが、愛知県半田市にある新見南吉の故郷を訪ねる番組がありました。黒井さんは、南吉が「ごんぎつね」をなぜ悲劇的な結末で終わらせなければならなかったかを調べていくうち、南吉のオリジナルが何らかの事情で書き換えさせられていたことを知ります。ごんが鉄砲に撃たれたあと、

ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました

の一文がオリジナルでは

ぐったりと目をつぶったまま、うれしくなりました

となっていたようなのです。私はとっさに「よだかの星」の最後の場面を連想しました。

「よだかの星」は、「グスコーブドリの伝記」と並んで自己犠牲の代表作のようにいわれがちですが、犠牲という言葉が一人歩きして作品を歪めているように思います。

賢治童話に流れている自己犠牲のモチーフは、それが必要なときは自分の命を投げ出す覚悟を持ちたいということで、命を投げ出す理由を捨象したり他人に強制したりすることではないと思います。釈迦が前世で腹を空かせた虎に我が身を与えたという捨身の話が、土台になっていると思われますが、賢治童話の賢治たる所以は仏典の焼き直しでなく現実に生きる人間としての苦悩が表現されている点です。「よだかの星」から「銀河鉄道の夜」まで一まとめに読み込んでみると、その姿が見えてきます。

鷹に改名を迫られ自己の存在理由まで失ったよだかは、殺し合う鎖の世界から一気に離脱することで新しい自分を見つけようとしました。「銀河鉄道の夜」で語られるバルドラの蠍の話は、それが更に昇華されています。井戸で溺死しようとする蠍は、鎖から逃げるのでなく寧ろ鎖の一つに身を置くことで、殺し合いの鎖を生かし合いの鎖に転換しようとしています。しかし、賢治がそれを単純に美談としていないのは、タイタニック号で難破した家庭教師の青年や、ザネリを助けて川に落ちたカンパネルラの苦悩からも分かります。当時の農村の現実を知る賢治が、無邪気に自己犠牲を吹聴するとは私は考えられません。

それでも当時の閉塞した苦しみを解決する回路があると信じる気持ちが、よだかやさそりを今でも燃えつづける星にしたのではないでしょうか。よだかの微笑は、修羅を潜り抜け、そうした役割を自覚したものの微笑なのです。

話は「ごんぎつね」に戻ります。ごんが最期に「はいそうです」とうなずいたのか、ひっそり嬉しくなったのかでは、作品の奥行きに天と地ほどの差があります。それは、すれ違いを題材にしたお涙頂戴劇ではなく、狐のけなげさが最期には理解してもらえた話になるからです。書き換えを求めた編集者の意図は不明ですが、これを読んだそしてこれから読む子ども達に対する責任は、軽視されていいものではないと思います。



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作成者:どすのメッキー
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