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尾崎豊さんの死と創価○会


    


 ウィキペディアの尾崎豊さんのところを覗いていたら、あるところに目が留まりました。
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1992(平成4)年4月25日、尾崎は突然この世を去る。早朝の足立区千住河原町の民家の軒先に傷だらけで倒れていたところを住人に発見され、通報で病院に運び込まれる。体が傷だらけだったが診察した医師は深酒のみという診断で尾崎は妻とともに自宅マンションに戻る。しかし、午後になり呼吸が止まっているのに気がついた家族が救急車を通報したが、搬送先の日本医科大学付属病院で死亡した。

葬儀は東京都文京区の護国寺にてファン葬が行われ、参列者は4万人近くに上り、美空ひばり、吉田茂に次ぐ規模であった。密葬は日蓮正宗流にて営まれ、墓所は埼玉県所沢市にある。

       (このページより)

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 葬儀を執り行ったのは、創価学会と敵対的な間柄の日蓮正宗。見れば、尾崎さんの死には自殺とは言い切れない、いくつもの謎があるらしいです。

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    (同じページより)

尾崎に覚醒剤での逮捕歴があることからしばしば誤解を受けるが、司法解剖時に検死をした支倉逸人によれば、尾崎の死因は、経時的な悪化による薬物中毒死ではなく、致死量の2.64倍以上の覚醒剤服用―オーバードーズ(薬の多量摂取)による急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫と結論付けられている。また、尾崎の遺体には暴行を受けたような傷やあざもあり、亡くなった日の状況がきわめて不自然であることから、他殺とする説もある。ただ警察は、状況捜査や司法解剖を行った結果から「事件性なし」として調査を終結している。そのため、尾崎豊が亡くなってから約2年後に、10万人近くの尾崎ファンの署名を集めた再捜査嘆願書が警察に提出されたが、受理されなかった。7年後の1999年には写真週刊誌『フライデー』に蘇生措置を施している様子の写真が掲載され、当時の捜査員の証言などもあって、その死因の不可解さが深まった。だが、検死をした支倉逸人の著書によれば、擦過傷と打撲傷をじっくり調べた結果、他殺をうかがわせるようなものはなかったとの記述がある。またそれを裏付ける、転倒したり暴れて転げ回っていたという証言がある。だが、はっきりしたことがわからないため、今までに尾崎の生涯を描いた多数の漫画作品やテレビ番組においても、尾崎が死んだ様子は全く触れられていない。
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 ここで1999年週刊誌に載せられた、心肺蘇生をしている時の尾崎さんの写真を見てください。
(尾崎豊さんが好きな人は、お気をつけて)
























心肺蘇生中の尾崎豊さん


















 尾崎豊さんである。

 また、ここで雑誌に載せられていたある暴力団員の話を見てください。

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このリンクより)

■怪死から15年…実行犯の衝撃告白!
時効直前スクープ!「俺が尾崎豊を殺した!」
実行犯の衝撃告白! 若きカリスマ・15年目の死の真実
取材・文◎ ○田○雄(ルポライター)写真提供◎共同通信社 月刊 keitaiバンディッツ2007年5月号(4月7日発売)

若きカリスマ・尾崎豊が死んでからもうすぐ15年。今なお彼の死は多くの謎を残し、真相は闇の中である。26歳の若さで尾崎はなぜ死んだのか――その真相を知る男が現れた!

1992年4月25日早朝、東京・足立区の民家の庭先で尾崎豊は異様な姿で発見された。

≪人の気配や物音がしたので外を見ると、素っ裸で立ち尽くす若い男がいたのでビックリしました。声をかけても返事は無いし、突然仰向けになって背中を地面にこすりつけたりして…。男の人の右まぶたの上は、卵半分くらい膨らんで腫れ上がってました。怖かったので、すぐ警察と救急車を呼びました≫(FRIDAY99年8月13日号)


これは「FRIDAY99年8月13日号」に載った素っ裸で倒れていた尾崎を発見した人物の証言。あの日あの場所で若者達のカリスマ・尾崎豊に何が起こったかについてはマスメディアやファンの間で論争が起こった。すでに彼の死後15年が経とうとし、今更取り上げる必要もないのだが、ある人物との接触が再び尾崎の死の真相に注目せざるを得なくなった。

「俺が尾崎豊をリンチして殺した!」

こう語る男が現れたのだ。

その人物との接触に至っての経緯はその後の事実確認から、尾崎に非常に近しい人物の存在との関係が明るみになってしまう為、ここではお話しできないのだが男の話はかなりの信憑性があると編集部では判断、そして今回の掲載に踏み切った。

果たして男の話は「真実」なのか、それとも単なる「戯言」なのか…彼の口から語られる尾崎豊死後15年目の死の真相とはいったい…。

◆1992年4月25日 あの日尾崎にいったい何が起こったのか?
その男との待ち合わせは相手側の指定した某シティーホテルだった。ひっそりとしたホテルの廊下で男の部屋のドアをノックすると、痩せぎすで青白い顔をした男が窓際のソファーに座り外を眺めていた。

「まあ、座ってください」

それだけ言って柔和な顔になった男に促され、私は汗を拭いながら正面に座った。

男の名前は後藤ひろし(仮名/48歳)。

詳しい素性は本人の意向で話せないが、後藤は当時都内の某暴力団組織に属しており、特に興行目的のトラブル処理に当たっていたという。身長180センチを超える大男だ。

私が自己紹介をしようとするとそれを遮るかの如くいきなり向直り、

「これからあの日(尾崎豊が死亡した日)の真実をあんたに話す。だけどいいか、同じ質問に二度は答えない、それと今から話す事はあくまでも俺の"単なる戯言"だと思って聞いてくれ、それから録音も写真も一切ダメだ、絶対に嘘は書かないで欲しい」

これが彼が提示した彼の告白<原文は告発>においての条件だった。その時の男の蛇の様な目を見て私は身動きが取れなくなってしまった。そして同時にこの男の目からは真実に対する切なる意思が感じられた。

男と話しにいく前にまずはまとめておかなければいけない彼の死に関する疑問がある。

1).検案書では同時にメタンフェタミン中毒と記されている事。

2).尾崎の公式に発表されている死因は肺水腫だが、先に述べた週刊誌記事には明らかに誰かに殴られた痕が残っており、死体検案書には「外傷性くも膜下出血」と記されている事。

3).さらに尾崎がなぜ尾崎ハウスと呼ばれるあの場所で、しかも全裸だったのかという疑問点。 これらに対して男は口を開く。

「あの日俺は、いや俺らは尾崎をあの民家の近くのある場所に呼び出した。はっきりした関係は明かせないが、尾崎と俺はそれ以前から面識があったから尾崎にしてみても俺らと会うこと自体は普通の事だったから当然『分かった。すぐ行く』ってなったわけだ。だからあの日あいつ(尾崎)はあそこにいた」

医師や警察の公式発表によれば、尾崎の体からは多量のアルコールと死因「肺水腫」の原因ともなった致死量の2倍にも達する覚醒剤が体内から発見されている。つまり尾崎の体の中は酒と覚せい剤だらけだったことになる。この男に呼び出された時点での尾崎はすでにこの状態だったのだろうか…。

「あの日俺らは尾崎を呼び出したって言ったけど、『お前を殺すから来い』って言っても来るバカはいないよな。だから俺らは『酒を呑む』を前提としてあいつを呼び出したんだよ」

記者◎「では、体内から発見された覚せい剤は…?」

「あの日、尾崎は完全なシラフだったよ、俺らと会う前はね。その話をする前にあんた覚せい剤やったことある?」

記者◎「もちろん、無いですけど…」

「普通、酒とシャブの両方一緒にやるとどっちかの量が減るもんなんだよ、二つ同時に死ぬまでやるなんてことは物理的に絶対に無理な話。公式の発表にも有るけど酒もシャブも両方半端な量じゃなかった訳だけど、その場合普通なら心臓麻痺で死ぬよ。シャブは必ずしも自分の意思で入るとは限らねぇだろ…例えばアンタが一緒に食事している人間を毒を盛って殺すとしたらどうする? 飲み物の中に大量の毒を入れるでしょ。ずいぶん回りくどくなったけど、これだけ言えばわかるよね」

直接的なことは煙に巻いて喋っていたが、これまでの男の話をまとめると、あの日尾崎は「自分が尾崎を殺した」と語る後藤という男とその仲間に東京・足立区の「尾崎ハウス」近くの酒場に呼び出された。ここからは男が断言しないため推測も含めるが、そこで酒に大量の覚せい剤を混入され、それを尾崎が飲んだ、ということになる。そしてこの後、男の口からは"尾崎暴行"に関しての衝撃告白が飛び出した。

◆リンチの後、「帰りたい…帰りたい」と尾崎は虫の息になりながら呟いていた
これまでの後藤の話を仮に真実だとして、冒頭で触れた「リンチ」に関しての真相に触れてみる。この騒動の最大のミステリーは尾崎の死因が肺水腫であるにも関わらず、全身に暴行痕があり、事実、それにより外傷性くも膜下出血を引き起こしていたこと。尾崎死亡騒動当初は、「酔っ払った尾崎が近所のチーマーに絡んで返り討ちになった」などという説も都市伝説的に出たが、真相は今の今まで謎である。「俺らがリンチして殺した!」と語る後藤という男ならその謎を知っているのだろうか…。

「アンタあのフライデーの写真見たって言ったよな? ありゃどう見ても殴られたとしか思えねぇよな、その上で、これまでの俺の話を聞いてどう思う?」

記者◎「それはどういう事ですか?」

「あの日、酒場の後ふらふらになった尾崎と一緒に店を後にした。その時尾崎は本当に意識が無いくらい錯乱状態だった。それこそ酒かシャブの影響なのか体をふるわせて踊り狂っていたのさ。そんな尾崎を人目につかない場所に誘導し、その後サンドバックのようにボッコボコに殴り倒したのさ。ふらふらで立ち上がれない尾崎を無理矢理起こして何度も、何度もこの拳で殴ったよ」

記者◎「なぜそこまでして暴行する必要があったんですか。それになんであの民家で…?」

「その真相に関しては事情があって語れない。だけど俺らがあいつを呼び出した目的は始めから"殺る"事。それだけだった…。けどあの民家(現在尾崎ハウスと呼ばれる家)でリンチはしてない。俺らが殴り倒した後、尾崎は虫の息になりながら『帰りたい…帰りたい』って何度も呟いていたのを今でも覚えている。そんな状態であいつは夜通し彷徨ってあの家の軒先で全裸で倒れ込んだんだろう。俺は今まで何人もの人間を痛い目に遭<原文:合>わせてきたけど、そういう時誰もが決まって恐怖に震えるもんなんだよ、だけどあの時の尾崎から恐怖心はこれっぽっちも感じなかった…助けを請う言葉すら奴の口からは出てこなかったんだよ、ただ『帰りたい』それだけなんだ、小さな子供みたいにな

真実かどうかは断言できないが、男が語った話の上では尾崎は暴行された直後、大量の酒と覚せい剤、そして殴られた痛みの熱を振り払うため自らの服を脱ぎ全裸になったのだろう。

しかし、なぜこの男は15年も経過した今になって、突然マスメディアに対し自らの大罪を告白する気になったのだろうか。

「俺は先月医者からガンを宣告された。もって半年…だからというわけではない。もちろん良心の呵責もある。だけど、あくまでも俺が話せる事は尾崎豊は間接的にしろ俺らの手によって死んだということだけ。それ以上の真相は俺が墓ん中まで持っていく覚悟でいる」

そう言うと男はそれ以上口を開かず、虚ろな表情で窓の外を見詰めたままだった。私もそれ以上は何も言えず、お礼だけを述べてホテルの部屋を後にした。

自らも"単なる戯言"と前提する男の告白。それが事実かどうか明らかになる事はおそらく無い。ただ事実と仮定して今年の4月25日で15年になる『尾崎豊殺人事件』は時効を迎える。だとしたら、良心の呵責として男が本誌記者に告白したのであればタイミングが良すぎる気がしてならない。結局、男の口からは聞き出せなかった『それ以上の真相』とはいったい何だったのだろうか…。その事だけが気にかかる取材だった。

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 はたして、この男の人が口の出せないこととは何か・・・。何故、警察は明らかに殺しであるのに深く調べようとしないのか・・・。
 これはネタバレになってしまいますが、ビートたけしさんの映画『その男、凶暴につき』で、主人公の同僚の刑事が『麻薬』の横流しをしていたというところがあります。もしこれが、本当にある事だとすれば・・・(前にも書きましたが、創価○会は北朝鮮やチャイナの共産党上層部とかなり繋がりがあります)。
 ところで皆さんは、創価学会による『総体革命』を知っておられますか?
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   (このリンクより)

総体革命(そうたいかくめい)とは、創価学会で特に池田大作が第3代会長に就任した1960年以降辺りから強力に推し進められた政界、官界、言論界、教育界、法曹界、医療界他各界への人材投入による影響力確保を主眼とした浸透戦略の総称である。

着想としては同種の構想は創価学会の総体革命が日本の宗教界初の試みだったという訳ではなく、同じく法華経系の国柱会(旧立正安国会)が1945年日本の敗戦以前より法華系組織の中のエリートを強く志向し、入会は極めて難しく、実際のメンバーも軍人・思想家等当時の最先端をゆく人材が多く、その後も長く法華経系諸宗派の中で隠然たる影響力を保持したという事実がある。

その活動の是非については賛否両論あり、特に公務員としての決定権が威力を発揮する場合など、同じ学会員を優遇する傾向が公私混同だなどと対立勢力からの非難を受けた経緯もある。

創価学会では政界での公明党の勢力伸長に合わせ総体革命も一部で世俗の価値観に反した行き過ぎを方向修正する結果となったが、当初からの自派の影響力拡大が第一目的という精神は、より後発の摂理や冨士大石寺顕正会の布教戦略にも受け継がれた。

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 これはあくまで、僕が勝手に思った尾崎豊さんの死の裏です。



 尾崎豊さんの親が創価学会を見限り、いがみ合っている日蓮正宗に改宗
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 その時の多くの若者にかなり好かれている尾崎豊さんが、創価学会のことをなにか言うのではないかという恐れが、ある人々に生まれる
              ↓
 繋がりのある暴力団に顔が利くような人が、殺しを頼のむ
              ↓
 泥をかぶってくれるような、子分に殺らせる
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 警察庁の幹部に潜んだ創価学会員が、あの手この手で根回しして自殺ということにさせる


 これまで、『創価学会とは何か』を見た人には、これがただの思い付きではないことが分かってもらえるでしょうか。
 今の尾崎さんへの好きな人々が持つ熱さは知りませんが、もしこのことが明るみに出たら、いろんな所の創価学会会館の窓ガラスを壊してまわるのでしょうか。
 それにしても、戦後は平和だ、などと言われているが果たしてそうなのでしょうか。


 もしかしたら、この事も創価○会と関わりがあるのかもしれません。






 尾崎豊さんの名が晴れることを願います。







葉風 * * 03:02 * comments(4) * trackbacks(0) * pookmark

コメント

はじめまして。

尾崎の情報をさがしていて、このページに
たどりつきました。

あなたの書いていることには、根拠はあるのですか。

もし、まったく真実と違っていたとしたら、
責任は取れますか。
Comment by をぐを @ 2009/08/06 3:27 AM
はじめまして。このブログ主の葉風です。
書いていることの根拠はウィキやリンク先の書き込み、後は僕の勘です。あくまで噂の類いですが、写真などからして再捜査を行ってもいいくらい殺しの可能性があると思います。
ところで、まったく真実と違っていたらあなたは妊娠でもしてしまうのでしょうか?
Comment by 葉風 @ 2009/08/06 7:48 AM
僕も創価説はあるかと思います。。

ただ、葉風さんは創価を否定してるのに、
公明とくっついている麻生とか石原を支持するのか。。

それだけが残念です。
Comment by おpp @ 2009/08/16 3:39 AM
麻生さんも石原さんも創価学会は嫌いですよ。ただ表立って言えないわけがあるのです。詳しくはブログ内検索で、「創価学会とは何か」を探ってみてください。
去年の暮れには古賀議員が公明党と組まなくてもやっていけるんじゃないかとおっしゃって話題にもなったように、どこかの組織の犬でもない限り自民党議員さんは公明党とは手を切りたがっていると思います。
Comment by 葉風 @ 2009/08/18 9:38 AM
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