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私の子供の頃は、今のような電気製品がほとんどございませんでした。 それでも、ナショナルのラジオは、国営放送を聴くためにほとんどの家に置いてございました。 戦前には、すでに冷蔵庫や洗濯機や掃除機が発売されておりました。 それらは少し無理すれば買える金額でございましたが、戦時中はそうしたぜいたく品を買うような家庭はほとんど見かけませんでした。 洗濯は洗濯板で手洗い、掃除もすべてぞうきんがけでございます。特に寒い冬の日は、手が冷えてつらかったものでございます。 自動車や電話なども、よほど裕福な家ではないとめったに見かけないものでございました。 今思えば、電気製品はほとんどないにもかかわらず、それほど不便には感じませんでした。 気のせいかもしれませんが、電気製品を使うと、時間の流れが速くなるようでございます。 洗濯機を1時間回すのと、木製の洗濯板で1時間ゴシゴシこするのとでは、後者のほうがはるかに長く感じるのでございます。 昭和の時間はとても濃密でゆったりとしたものでございました。 現代は時間が希薄化していると申しましょうか、同じ1時間でも中身の薄い感じがいたします。 齢を取ると時間の進むが速くなると申しましても、硯で墨をすっていると、昔と同じようにゆっくり時間が流れてまいります。 1枚の紙に全神経を集中して水墨画を仕上げるときには、1秒がそれこそ10分にも20分にも感じるものでございます。 わずか数秒でも、それはそれは長い時間に感じるのでございます。 齢を重ねても、手を使う作業は、昔と同じように濃密なままに感じるのが面白いところでございます。 そう考えますと、ついつい豊かさとは何かと考えてしまいます。 現代人はいろいろ便利な電化製品や道具が手軽に移動できる交通手段が揃っておりますが、旅一つにしましても、味わいがないように思われます。 私が子供の頃には、30km位の場所には平気で徒歩で行ったものでございます。 静岡から東京まで120kmの道のりを野宿しながら、数日かけて友人たちとハイキングにも行ったことがございます。 自動車などがなくとも、関東全域、いえ日本中どこでもその気になれば歩いて行くことが出来たのでございます。 徒歩でしたら、お金もほとんどかかりません。 現代人は、わずか数十メートル先の自販機にタバコを買いに行くのにも車で移動します。 タバコ1つ買うために、1トン近い金属の塊を移動させるのが本当に豊かなのでございましょうか。 私は、通行者を押しのけて我が物顔で走り回る自動車こそが現代の貧しさの象徴のように思えてならないのでございます。 自動車1台で、大人100人分の二酸化炭素ガスを排出いたします。 自分の足で歩けるところまで歩くこともせず、高い自動車を買い、ガソリンを買い、有害ガスを排出し、それらすべてのためにあくせく働いて高い車を買うのが現代人でございます。 二度とない貴重な時間を働いて、そんなものを買って、いったい何が面白いのでございましょう。 私はエコカー減税には反対でございます。 エコカーを作って、わざわざ使える車を捨てて、新車に買い換える必要はございません。 そもそも、自動車をこれ以上増やさないことを考えるべきでございます。 たとえば、太陽光で動く自転車のようなエコ自転車を開発してはいかがでしょう。 移動手段はほかにもございます。 エコカーも含めて自動車はしだいに減らして、可能なかぎりゼロにしていくのが理想だと考えております。 同様に、わざわざ使えるテレビを捨ててデジタル放送に切り替える必要はあるのでございましょうか。 私はテレビも自動車も所持しておりません。主人も運転はしておりませんでした。 お金がなくても、テレビや自動車がなくても豊かな暮らしは可能でございます。 朝から晩まであくせく働かなくてもたっぷりと濃密な時間があった昭和の時代は、けっして貧しいものではなかったと感じております。
最終更新日
2009.08.07 18:58:31
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