- 演繹法の経済学
リチャード・A・ベルナーの「虚構の終焉(フィクション・エコノミクス)」を引続き取上げる。先週号は、いきなりこの本の最後の部分を取上げた。今週は、プロローグと第一部について述べる。ここは本書の核心部分ではないが、なかなか面白い。ベルナー氏はここで、ケインズ派、古典派、新古典派、マネタリストなど既存の学説が、バブル期から今日までの経済状況をうまく説明できないと主張している。
ベルナー氏は、まず金利水準と経済成長率にほとんど関係がないことを指摘している。さらに現実の経済では貨幣の流通速度の低下が見られるが、どの学説もこのことを説明できないとしている。
(もっとも筆者はこれを日本の過剰貯蓄体質で説明しているつもりである。特に土地の売却代金が性質上費消されにくく、大半が貯蓄され、さらにこれに金利が積み上がってマネーサプライは大きくなっている。しかしこれらのほとんどが凍り付いていることが、貨幣流通速度の低下の原因と筆者は考えている。)ところでベルナー氏の攻撃は、新古典派の中でもニュークラシカルと呼ばれている勢力に対して一番厳しい。供給サイド重視派、構造改革派・ニュークラシカル派の人々である。彼等は、いつも規制緩和、自由貿易、国営企業の民営化を主張している。
ところで日本もドイツも、規制緩和や自由化をずっと続けてきたが、これに伴って経済成長率は逆に低下してきた。実際、規制緩和や自由化が比較的進んでいた英米より、カルテル体質だった頃の日本とドイツの方が高い経済成長をずっと続けていた。企業経営に関しても、英米のような株主利益尊重の国より、従業員や地域社会を大事にしてきた日本とドイツの方が国の経済運営がうまく行っていた。
ベルナー氏は、経済学は、帰納法的、つまり現実の経済の動きから一般的な法則性を導き出すべきものであるが、ニュークラシカルの経済学者やエコノミストは演繹法の手法を採っていると指摘している。演繹法では、疑う余地のない公理というものから出発する。総需要と総供給は常に均衡しており、生産環境は完全雇用の元で行なわれている。パラメータである価格、賃金、金利は十分伸縮性があり、例え不均衡が発生しても、パラメータが動いて均衡状態に復元すると頭の中で考える。
このような理想的な経済においては、政府は不効率でありかえって邪魔な存在である。したがって彼等は財政を削減し、減税を行い、できる限り政府を小さくすることが正しい方向と信じている。しかし彼等は現実が理論と異なっていることを十分知っているとベルナー氏は指摘する。普通、現実が理論と違った場合、理論そのものが間違っているか、あるいは前提としている条件が現実離れしているか吟味し、必要な修正を行なうのが科学的な姿勢である。しかしニュークラシカル派は、むしろ自分達の理論に間違いがなく、間違っているのは現実の方と決めつけ、なんと「改革」の名のもとに現実の方を変えようとする。
「改革」のためには規制緩和や情報の公開が必要と主張する。競争促進政策や時価会計の導入もこの流れの一つである。このような改革を進めることによって国民の効用は極大化すると悲しいほど単純に考えている。さらに国内にとどまらず効用の極大化のためには、規制緩和や情報の公開を国際規模に広げることが必要と考える。このようにベルナー氏が指摘する構造改革派やニュークラシカル派の問題点は、本誌経済コラムマガジンがずっと主張してきたこととほとんど重なる。
ではニュークラシカルと呼ばれる構造改革派は、現実の経済をよく知っているかと言うと、不思議なほどに現実を知らない。変えるべき現実のことなんか知る価値もないというのだろう。失業が発生していても、総需要が不足しているとは考えない。労働者の持っている技術が劣っているか、高い賃金を求め過ぎと考える。遊休の生産設備についても、そのような設備は既に陳腐化していると決めつける。
したがって必要な政策は、失業に対しては教育訓練、人材派遣会社の規制緩和や最低賃金制の廃止である。「賃金を安くすると人が集まらない」と言えば、直に「それなら外国人を入れれば良い」と答える。つまり彼等は国境の概念が薄いのである。生産については、低収益企業の退出と生産設備の廃棄である。
しかしこのような政策を押し進めれば経済が縮小するだけでなく、市場の寡占化や独占化を招くが、不思議とニュークラシカルの人々は大企業には甘い。これを反映してか日本の公正取引委員会は「弱き」をくじき、「強き」におもねるのことを信条としている。例えば建築・土木業界は小さな企業が多く、工事内容は同質なためどうしても価格競争に陥りやすく、弱い立場にある。しかし政府の競争政策は、このような弱い業界の談合には厳しく、逆に大企業や大銀行の合併にはむしろ甘い。実際、「弱き」の代表のようなタクシー業界では、競争促進政策でタクシードライバーが酷い目に会っている。
- オレオレ詐欺
構造改革派・ニュークラシカル派は「景気対策として財政支出が行なわれても、国民は将来の増税を予測して消費を控えるのでトータルでは需要創出効果はない」と、まさに吹き出したくなるようなばかげた理論を平気で振りまいている。たしかに政府が財政政策を行なった場合、100人に一人くらい消費を控える者がいるかもしれないが、まったく効果がないとは経済理論以前のものである。このようなデタラメな嘘話を創作するなど、彼等は財政政策が効果がないことを説明するためには手段を選ばない。
リチャード・A・ベルナー氏は、日本でこれだけ構造改革派が経済学界を汚染し、マスコミ、政治家、官僚に影響を与えたのは、バブル崩壊後と指摘している。日本経済の低迷がかってなく長くなり、人々の不安が増大してからである。筆者もこの意見に賛成する。これ以降の文章は筆者の意見である。構造改革派・ニュークラシカル派のこれらの奇妙な経済理論は以前から知られていた。しかし米国に留学経験を持つが現実の経済や世間を知らない学者を除き、昔は日本の経済学者がもっとまともであり、このようなばかげた経済理論を相手にする者も少なかった。
構造改革派・ニュークラシカル派は経済理論の同好というより、一種の宗教、あるいは社会改革運動体である。唱える理論が正しいとか正しくないとかは問題にならない。最初から結論は決まっているのである。宗教の教典が理論的に正しいとか、現実の社会に適合しているとか検討しないのと一緒である。教典が正しいのであり、現実が間違っていると彼等は固く信じている。彼等は社会改革実現のため次から次ぎと珍妙な理論を思いつく。今日「オレオレ詐欺」というものがはやって問題になっているが、まさにこれと同じである。一つの嘘がばれても、次々と詐欺話を思いつく。
人が病気や倒産などで不幸になると宗教がやってくる。宗教の話が荒唐無稽でも、大きな不幸で精神がまいっていて判断力がなくなっていると、人々は簡単に宗教を信じるようになる。バブル崩壊後、構造改革派・ニュークラシカル派の論調が日本で隆盛を極めているのもこれと同じ現象である。
日本の若手の経済学者のほとんどがこの「邪教」に洗脳されてる。遣唐使のように米国の大学に留学した学者が特に酷い。本題から若干それるが、この理由を考えたい。昔は日本は全体的に貧しく、経済的に困難を極めていた。いかに豊になるか考える者や、また世の中の矛盾に関心のある人々が経済学にその解答を求めた。いずれにしてもベースには現実の経済があった。
しかし今日の若手の経済学者は、現実の経済のことはほとんど知らないようである。「企業の設備投資の決定方法」「公共事業の実施状況」「今日の労働環境」「手形取引の実状」「地方の経済の実状」など実社会の経験がなければなかなか分らない事柄だけでなく、「公的債務の正確な実態」などについてもほとんど知識がないようである。
例えば一頃、構造改革派・ニュークラシカル派の世間知らずのエコノミスト達は、徹底した銀行の資産査定を行ない、悪い銀行は潰せと騒いでいた。筆者は、本誌で徹底した資産査定なんか不可能だとずっと主張してきた。実際、たったダイエー一社に対して、産業再生機構の250人もの会計士や弁護士が掛かりきりで資産査定を行なっている。しかも査定には半年は必要という話である。つまり全ての銀行の資産査定(当然銀行の融資先の資産査定が必要)を正しく行なおとすれば、金融庁の検査の陣容では一世紀以上はかかる。今日健全と言われている銀行だって、本当のところは分らないのである。それにしても現実を知らないとは恐いものである。
一番の問題は、彼等がこのような現実の経済知識を持たなくとも、構造改革派・ニュークラシカル派では経済理論の展開ができることである。むしろ現実の話や知識は邪魔になる。したがって経済的理由で自殺者がどれだけ増えても、彼等は全く動じない。むしろ「改革」が進んでいる証拠であり、日本には明るいユートピアが待っていると目を輝かして語る。まさに「カルト」そのものである。
構造改革派・ニュークラシカル派の経済学者やエコノミストの、ばかばかしさとあほらしさはこんなものではない。今週号で取上げたのはそのほんの数パーセントである。きりがないので今週はここまでである。ただ経済が依然低迷している原因として、「まだ改革が進んでいないから」と明らかに嘘と分る言い訳だけはもう止めてもらいたい。現実の構造改革運動は、橋本政権から本格的に始まっており、既に8年も経っているのだ。この間に日本国民は、この大ばかどものためにどれだけ大きな犠牲を強いられたことか。
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