ミステリー作家・藤岡真のみのほど知らずの、なんでも評論

机上の彷徨

このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。

         『生活維持省』と『イキガミ』(2008/09/14)


         
              劣化コピーの醜さ


          ボッコ

 優れた短編小説には不思議な力があるようだ。そのせいで、一読、その小説が心の中に棲みついてしまい、以後、精神の一部として一生付き合っていくような関係になってしまう。この感情を的確に表現するのは難しいし、それが主旨でもないので、そうした作品のタイトルを記するだけに留めるが。

 泡坂妻夫 『ゆきなだれ』
 山川方夫 『夏の葬列』
 都筑道夫 『風見鶏』
 曽野綾子 『長い暗い冬』
 筒井康隆 『時の女神』

 海外の作品だと
 アーネスト・シートン 『町の雀ランディ』
 ロアルド・ダール 『犬にご注意』
 ロバート・F・ヤング 『ジャングルドクター』

 そして、星新一の『生活維持省』は、紛れもなくそうした作品の一つだ。この作品は、夥しい数のショートショートを発表した星新一の、ベスト3に入る大傑作。生活維持省という設定も素晴らしいが、なんといっても、美しい世界を淡々と描く、その筆力に圧倒される。悲惨な物語なのに、血腥さは皆無。そして、ある程度予測は出来るラストだが、哀しさを超えた深い余韻が残るのだ。

 あけはなたれた窓から流れこんでくる、若葉のにおいを含んだ風を受けながら、私は上役の机の前に立った。

 窓の外では、遠くの青空で入道雲が育ちはじめている。私は同僚と車に乗って仕事に出かける。車は、澄んだ水に青空を映しながら流れる小川にそってしばらく走り、村に近付いた。
 私の仕事は、上役から渡されたカードに記載された人物を訪ね、そこで任務を果たすこと。私は“死神”と呼ばれている―

 ネットでも随分話題になったから、ご存知の方も多いだろう。間瀬元朗が2004年にヤング・サンデーに発表した「イキガミ」のストーリーの根幹を成すアイデアである「国家繁栄維持法」というアイデアが、「生活維持省」と全くといっていいほど同じなのだ。しかし、そこから展開される物語(連作短編)は、お粗末といっていいほど破綻している。

 (以下ネタばれ ↓)

「生活維持省」というちょっとユルいネーミングとは裏腹に、ここが行っているのは「人口過剰」に因をなすあらゆる不幸を未然になくすための間引きなのである。狭い国土、交通事故、犯罪、発狂、自殺、そして戦争までが、すっかりなくなった平和な世界。それを維持するために、毎日、カードに記載された人間を間引いていくのが、“死神”の役目。
 一方、『イキガミ』の「国家繁栄維持法」は―
 国民は全員、幼少時にある注射を受けることを義務付けられている。この注射には千分の一の確率で、18歳から24歳までの間に発動するカプセルが含まれていて、これが発動すると人間は確実に死に至る。なんで、そんな酷いことをするのかというと、それは「平和な社会に暮らす国民に対し「死」への恐怖感を植え付けることによって「生命の価値」を再認識させる事を目的としている。国民は、この法律によって誰にカプセルが注入されたかを知ることができない。国民はその時期が来るまで「自分は死ぬのでは」という危機感を常に持ちながら成長することになる。その「危機感」こそが「生命の価値」に対する国民の意識を高め、社会の生産性を向上させる」からだという(以上Wikipediaから引用)。「イキガミ」という奇をてらったタイトルは、その選ばれた不幸な人間の下に、24時間前に渡される死亡予告通知書=「逝紙(いきがみ)」からきている。


(ネタばれここまで ↑)

 しかし、妙な設定だよな。真面目に生きていても、夭逝するかも知れないと常に思い続けていれば自暴自棄になって、「イキガミ」が来たら何人も道連れにしてやろうと考える奴だっているはずなのだ。事実、連載の第一回(読みきりだった)では、「イキガミ」を渡された青年はかつて自分を苛めた連中への復讐に残された時間を費やす。残りの24時間をどう過ごすのかは自由らしく(監視もされていない)、これじゃあ、犯罪を奨励するようなものだ。いや、選ばれた人間がプロスポーツのスーパースターだったり、人気絶頂のタレントだったら、どんな社会現象が起こるか考えているのだろうか。大きな業績を上げかけている科学者だったら、医者だったら、芸術家だったら……。
 こんな出鱈目な政策が実行されるはずがないことを、作者間瀬元郎は考えたことはあるのだろうか。
 いや、この物語が一番酷いのは、主人公を「逝紙配達人」の藤本賢吾という青年にしていることである。藤本は自分の仕事に疑問を感じ、葛藤のためにしばし苦悩する。
 なんで?
 この男が悩む理由なんてどこにもないじゃないか。「国家繁栄維持法」は既に何十年も続いて実施されているのだし、この男はその実施にはなんら関与していないのである。ただ紙切れを届けるだけ。それが嫌だと悩むのは、本質とは関係なく、この男が駄目だからではないのか。

 連載はヤング・サンデー廃刊後も、ビッグコミック。スピリッツに移って続いている。最近は「若死にする若者の悲哀=難病物」となって、愚直な読者を泣かせているようだ。

 盗作?
 アイデアの盗用を著作権法で裁くことは難しい、しかし、星新一の高潔な精神を踏みにじった行為は許しがたく、糾弾されるのは当然だろう。

 『ボッコちゃん』 星新一 新潮文庫 1971

 ※『生活維持省』は『ボッコちゃん』に収録されています。

 ※ 何度か書いていますが、最近通勤時にマンガ雑誌を読むという習慣がなくなってしまいました。「イキガミ」に関しても、きちんと読んだのは、最初の数話くらいで、その後待合室などに置かれた雑誌などでたまたま目にしたくらいです(雑誌最新号は買って読みましたが)。上で指摘した点で改善しされているようなところがありましたら、お詫びします。


            禁盗作コピペ病(2008/09/12)



        インターネット時代の哀しき現代病

             盗作

 唐沢俊一が村崎百郎との共著『社会派くんがゆく! 復活編』で、自己の盗作事件を正当化し、被害者である漫棚通信ブログ版の主催者氏を悪質なクレーマーのように見せかけるという、前代未聞の卑劣な所業を出版物(単行本)上で行ったのは未だ記憶に新しいことだ。
 で、ネットなんか無力だと嘯く唐沢のために、今回、出版物という形で、唐沢の盗作が世の問われることとなった。
「本書はあくまでも盗作事件・疑惑の研究・検証を目的としており、糾弾を目的としたものではありません」と謳っているので、巷間の検証サイトに比べたら、やや物足りない印象は否めない。だけど、「ネタを盗んだ雑学王・唐沢俊一」という見出しだが、記事内ではちゃんと雑学王を自称しなんて書いているところは細かいながらちゃんとしている。4頁に亘って検証し「コピペ率98%」と判定する一方、「素直に謝罪しておけば、ここまでこじれて両者に禍根を残すこともなかったと思うのだが…」とする点を見ても、この事件の本質を理解していることが分かる。唯一、異議を申し立てたいのは――

 引用もとの2作品(引用者註、平野威馬雄『空飛ぶ円盤のすべて』、山川惣治『太陽の子サンナイン』)は、いずれも古本市場では入手が困難な作品だそうである。

 という箇所で、これについては、唐沢俊一本人からの

 「私が漫棚通信サイトの文章を自分の文章として盗んで引用したと断定するのなら、その犯行動機があまりに弱くありませんか (あの漫画作品は国会図書館などで いくらでも手に取ることが可能な本で、稀書というものでもありません ) 」

 という二枚舌メールを受け取っているんでね。

 因みに本書は9月12日現在、
 Amazon.co.jp ランキング: 本で11,848位
 『血で描く』は、
 Amazon.co.jp ランキング: 本で31,725位 であります。

 『禁盗作コピペ病』 コピー&ペースト研究会 茜新社 2008
 (「禁」は「マル禁」)


          100年の難問はなぜ解けたのか(2008/09/10)



       問題の意味もその答えの内容も全く分からんが


            難問

 数学の難問というと、以前のエントリでも取り上げた「四色問題」という奴がある。多くの数学者を梃子摺らせた難問だったが、本書にも登場する数学者、ウルフガング・ハーケンがケネス・アッペルと共に1976に証明してみせた。「四色問題」は問題そのものが平易なため、数学者以外の人口にも膾炙したのではなかったか。「あらゆる地図(平面の)は四色で塗り分けられる。五色は必要ないし、三色では足りない」。難しい証明を考えるより、五色を必要とする地図を作成すればいいのだから、思い立てば誰だって取り組めるが、証明されるのには、124年という時間が必要だった。もっとも、この証明はコンピュータを駆使した甚だ面倒なもので(乱暴に言えば、総当りで片端から塗っていって、全部のパターンが四色で塗れたというやり方だ)、数学らしいエレガントさとは無縁なものだった。
 同じく、解決された問題に「フェルマーの最終定理」というものがある。3 以上の自然数 n について、Xn(n乗・以下同じ) + Yn = Zn となる 0 でない自然数 (X, Y, Z) の組み合わせがない、という定理のことである。nが2なら、X=3、Y=4の場合、Z=5となって(X, Y, Z) の組み合わせは存在する。この式が成り立つような自然数を探し出せば良いのだから、取り組むことは不可能ではない(そのやり方では証明できないが)。これまた最近、360年ぶりに証明が成されたのだが、答えを見たって、どんなことをやってなにを証明したのかなんて素人には全然分からない。
 それでも、上の二つの難問は、超難問だけど、問題の意味は分かるというものだった。

 ところが、本書で取り上げられる難問「ポアンカレの予測」は、そもそも問題自体が、「単連結な三次元多様体は三次元球面と同相である」ことを証明するというものだから、最初から問題そのものが理解出来ない(少なくともわたしはね)。
 この難問が誰によってどう解かれたかという、NHKスペシャル『天才数学者の光と影 』を書籍化したのが本書で、そんな訳の分からんものが面白いのかと思うだろうが、これがまあ、素敵に面白い。

 著者はNHKのディレクターで東京大学理学系研究科修了という学歴の持ち主。その著者がチンプンカンプンだという問題を一般視聴者に面白く見せるという至難の技が上手く功を奏したのは、この難問を解き明かした、グレゴリ・ペレリマンという人物が頗るつきに面白い人間だからだろう。
 この業績によって授与されるはずの、フィールズ賞の表彰式を欠席し、賞の受賞も賞金1億円も辞退する。なんで、また? そうした謎を、周りからじわじわと攻めていく内に、「ポアンカレの予想」という悪魔のような命題の正体と、ペレリアンの天才ぶりが次第にその全貌を現してくるのだが。

 サンクトペテルブルグに隠棲するペレリアンはさらなる難問に取り組んでいるらしい―― 本書で明らかになるのはそこまでの事実だが、数学という非日常的な世界の上っ面をなぜて、知的好奇心を刺激されるのはなかなか楽しい経験だった。

 『100年の難問はなぜ解けたのか』 春日真人 NHK出版 2008


          参りました!(2008/09/09)



             二日目         


 地下鉄で読もうと思っている、創元にもらった、D・M・ディヴァインの新刊『ウォリス家の殺人』が未だ見つからない。鮎川賞授賞式の案内も届かないし、ひょっとして、あれは幻だったのではないかいな。
 で、崩れた本の山から適当に一冊引っこ抜いて鞄にぶちこんだのだが。

        澁澤

 いやはや、もう何も言うことはないよな。なんせ、あの澁澤龍彦について、あの種村季弘が書いているのだ。一方的に身を委ねて、この文字で構成された王国を彷徨する以外になにが出来ようか。
 驚いた。澁澤の享年は59。わたしは現在57歳。この大海のような才能と教養の前では、わたしなんか穴の開いたバケツに過ぎない。バケツの分際で、ボロ柄杓がパクッてるのガセのと騒いでいるのだから、どんどん卑小な存在になっていくわけだ。嗚呼、嫌だなあ。
 なにをしたって敵いっこないという存在がある。
 それが分かれば少しは謙虚になれる。
 それだけでも読む意味のある本だ。付け足しみたいで恐縮だけど。頗る面白い。

 著者の種村季弘も既に鬼籍に入ってしまった。

 『澁澤さん家で午後五時にお茶を』 種村季弘 学研M文庫 2003


             参りました!(2008/09/07)




                 一日目


           スフィンクス

 地下鉄で読もうと思っている、創元にもらった、D・M・ディヴァインの新刊『ウォリス家の殺人』が未だ見つからない。仕方なく、本棚を見たら、あれま、直井明の『本棚のスフィンクス』という本を見つけちまった。買うだけ買って、読みもしない本は多々あるが、むろんこの本はそういう類の本ではない。推理作家協会賞を受賞した『87分署グラフィティ』以来の直井ファンのわたしが、なんで買ったまま忘れていたのか知らん。
 奥付を見て分かりました。今年の4月30日発行の本。即ち、転勤転居で書斎が滅茶苦茶の時期に購入し、本棚に置いたまま忘れていたのである。試にページを開き、ふと目に付いた「グレアム・グリーン『第三の男』原作と映画」の章を読んでみたら、確か読んだ記憶がある。多分、購入後、地下鉄内でここだけ読み、ずっと忘れていたに違いない。

 しかし、先日ご紹介した『夢想の研究』に勝るとも劣らない、力のこもったエッセイである。なんせ副題が掟破りのミステリ・エッセイ。『幻の女』『偽のデュー警視』『大いなる眠り』といった既に評価の定まったような作品たちを俎上に乗せて、小気味よく捌いていくのでありますから、面白くないわけがない。
 国外生活が長く、生前のエド・マクベインとも親しかった著者の教養は半端ではなく、もはやこちらは読みながらうなり続けるしかないといった按配。過去の映画をDVDで見て、脇役の名前をネットで検索して「この役者は××では、こんな役をやっていた」なんて中途半端な薀蓄を開陳して、一丁前の評論家面しているような奴は、この書を読んで筆を折りたまえ。
 唯一、「ガンクレージー」の章で紹介される拳銃、とくに『From Russia With Love』のSWのリボルバーの写真なんて、いかにジェフリー・ブースロイド(この人が誰か説明すると長くなるので、検索するなりして調べてね)の助言があったにせよ、007のイメージではないよなあ。
 映画の007は、こと銃器の描写に関しては滅茶苦茶で、ベレッタをボロカスに言ってワルサーPKKを誉めそやすのも、ちょっと「?」だよなあ。ダブルアクションのPPKよりシンプルな構造の軍用拳銃M1934の方が、ずっとスパイ向けだと思える。しかも、映画では肝心の殺しのシーンで、なぜかボンドはサイレンサーを装備したブローニング380を使っている。どこから持ってきたのだろう。いや、そもそもショートリコイルのオートマチックにはサイレンサーは装備出来ないし、いわんや銃口内に螺旋が切ってあって、そこに捻じ込むなんてあり得ません。ここで殺される殺し屋はSWオートマチックにサイレンサーを装備して使っているけど、これも嘘だし、左手でサイレンサーを握ったりしたら、ショートリコイルが出来ないから回転不良を起こす。最後に隙を見て、ボンドに向かって弾鉄をひくが弾切れ。ボンドが「その銃は7連発だからもう弾はない」という台詞が、当時リアルだと誉めそやされたが、オートマチックは弾を撃ちつくすとスライドが下がりっぱなしになるので、こんな事態起こりえないのだ。つまり、拳銃関係がいいかげんなのが007の世界観ということ―

 しまった。知らぬ間に自分語りに陥っていた。

 エド・マクベインと親しかった著者の語る「エド・マクベインとの対話」の章がこの書の圧巻だろう。
 この本、直井明77歳の著作なのだ。凄いなあ。

 
『本棚のスフィンクス』 直井明 論創社 2008


             夢想の研究(2008/09/02)



             本物がここにいる

         夢想


 静岡暮らしの間に、すっかり週刊誌を読むという習慣がなくなってしまった。地下鉄は読書か睡眠の場になっている。わたしのように、新書古書矢鱈滅多ら購入する方ならお分かりだろうが、そうした人間の常として、その全部を読むわけではない。だから、未読のまま措かれている本も多々あるのだ。それらを見直して、読んでみるのにも地下鉄は最適な空間だと思える今日このごろ。
 いや、無論、瀬戸川猛資の『夢想の研究』は、そうした一冊ではない。しかし、同じ著者の『夜明けの睡魔』、実際擦り切れるほど読んだ(恥ずかしながら、この書を手に取らなかったら、ロス・マクドナルドを読むことはなかったろう)のに、こちらは、随分あっさりと読了してそのままになっていた。それが、昨日出がけに、創元から謹呈されたD・M・ディヴァインの新刊『ウォリス家の殺人』がどこかに紛れてしまったので、仕方なく手近な所にあった本書を鞄に抛り込んで出かけたのだ。

 いやはや、驚いた。初読のとき、一体どんな気分で読んでいたのだろう。なんて物凄い本なのだ。冒頭の乱歩とドイルのエピソード。この点に注目した人は今までいたかしら。映画『十二人の怒れる男』の鋭い分析。なんで『男』なのかってのも、本当にその通りなんだが、その答として、瀬戸川は同じシドニー・ルメットの『グループ』と『オリエント急行殺人事件』を挙げて解説する。もはや著者の独擅場。自分の目がいかに節穴だったか、しみじみ思わせてくれる。
 そして、第三章「帝王伝説」で、ついに全身に鳥肌が立った(佐野洋に言わせると、おかしな表現らしいが、本当だからしょうがない)。
 1937年のある晩のこと、L.AでSFファンの小さな集いがあった、第1回SF大会が開かれる2年前のことで、ファンと作家の懇親会みたいなものだったのだろうと著者は推理する。そこで17歳の二人の少年が巡り合う。地元のレイという名の少年とイリノイ州出身の、同じレイという名の少年だ。ふたりは出会うや、たちまち意気投合して、そして、夢を語り合う。

 この拙い文章を読んでくださっている方の中には「なんだ、そんなの有名な話じゃないか」というかたもおられるかも知れないし、「おいおい、まさか……」と興味津々な方もおられるだろう。わたしは後者でね、読み進めて、心地よい感動に包まれて、つい涙を滲ませてしまった。
 申し訳ないが、この二人のレイを知らない方に説明しても、なかなかこの感動は伝わらないと思うので、事実だけを提示しよう。
 二人のレイとは、レイ・ブラドベリィとレイ・ハリーハウゼンなのだ。
 びっくりしたでしょう。ふたりには、恐竜の人形をコマ撮りで撮影した、共同制作の8mm映画もあるらしい。
 うーん。これだよなあ。
 この本、この後、これでもかこれでもかと物凄い話題を提供してくれるのだ。わたしの“嫌い”な丸谷才一が「真珠思ひ出」という解説を寄せているが、これまた必読である。悔しいけど引用する。

 彼は健全な論理、しゃれたレトリック、上質の文体で、批評といふ遊びにせつせと精を出しながら、われわれ読者を楽しませ、啓発した。それは文明の教師としてまことに粋な務めぶりであった。かうして現代日本は彼により、じつに多くのことを学びつづけ、刺激を受けつづけるはずであったのに、彼はもうゐない。天がもう二十年、せめて十年、時間を与へてくれたならと残念に思ふけれど、まあこれは仕方がない。しかし彼が持ってゐた優れた資質と力量、大きな可能性のあかしとしては、ここに『夢想の研究』といふ一冊の本がある。

 馬鹿が書いた馬鹿な本ばかりチェックしていると本当に馬鹿になりかねない。そんな気分のときに救われた想い。
 ちょっと古い本だけど入手できない本ではない。お薦めします。

 『夢想の研究』 瀬戸川猛資 創元ライブラリ 1999


           無題(2008/08/30)



 タイトルをつける気にもならない。

 唐沢俊一HPの日記、「裏モノ日記」 8月27日から。

  アフガン狂時代
 伊藤和也さんのご冥福をお祈りします。
 
 アフガンでタリバンと思われる集団に拉致された日本人、伊藤和也さんらしき人の死体が発見されたとのニュース。
 危険が最近増している現地での農業指導に、信念を持って当たったからには
このような死も覚悟の上であったろう。
 いたずらに嘆くより男子の本懐と讚えたい。


 唐沢の日記はなぜかリアルタイムではアップされず、4~5日のタイムラグがある。確か、専門の業者に原稿を渡してアップするという手法をとっているはずだ。それにしては字組みなんか滅茶苦茶なんだけどね。
 さて、この日記、必ず“駄洒落”のタイトルが、つけられている。過去1週間でも――

 
 26日火曜日足軽・ミステリー・ツアー
 25日月曜日しんけいつうを注いだ作品
 24日日曜日iTunesは太郎の嫁になる
 23日土曜日タリラリラーンのクロアチア
 22日金曜日にほんごでこそぼ
 21日木曜日ベートーベンのDAIGO


 で、27日が『アフガン狂時代』である。元はなに? 『殺人狂時代』かしら。いや、そんなことはどうだっていい。『アフガン狂時代』と下手な洒落を飛ばして、いきなり

 伊藤和也さんのご冥福をお祈りします。

 とはなんのつもりだろう。まさか自分は鬼畜だから、こんな深刻な話題だって駄洒落にしちゃうんだよ、と言いたいのか。上でも書いたが、この日記がアップされたのは、29日だから、アフガニスタンで発見された邦人の遺体は、既に伊藤和也さんのものと確認されていた。しかし、日記は27日付けのものなのだ。唐沢も「伊藤和也さんらしき人の死体」と書いている(遺体と書いて欲しい所)。家族がどんな思いでいるかを考えたなら(たとえ事後にアップされる日記とはいえ)、この時点で「ご冥福をお祈りします」とはなんと不謹慎なことだろう。
 しかし、その後に続く、文章に比べたら、これとて霞んでしまう。

 いたずらに嘆くより男子の本懐と讚えたい。

 「本懐」とはどういう意味なのか、辞書を引いてもらいたい。志半ばで無念の死を遂げた伊藤さんを、自分のケツも拭けないような男が、言いも言ったり「讃えたい」。

 わたしは、この文章、なんとか自分を抑えて綴っている。しかし、他人の日記を読んで、殺意を覚えたのは久しぶりのことだ。


            唐沢俊一さんお詫びします(2008/08/29)




 あなたがmixi「上戸ともひこ」さんの日記に降臨したときのコメントを読み直し、反省することがあったのでここに記します。
 わたしは空手道場の塾頭です。それも実戦空手を標榜する流派の本部道場の塾頭です(こうした書き方が良くないことであることは分かっていますが、話を進める上で止むを得ないとご理解下さい)。そんな立場にありながら、わたしはあなたにメールを送り、DAICON会場での面会を求め、その際に「暴力はふるわないが、怖いなら仲間を何人連れてきてもかまわない」旨書き添えました。このときわたしは、そうした姿勢がフェアであなたも安心だろうと考えたからです。
 また、あなたが参加している企画の主催者と因縁浅からぬ人物が、わたしと今野敏先生の企画の進行者であるという事情から、あなたが逃亡を企てるなら、その人に協力を仰ぐとも記しました。空手の段数(段位と申します)こそ記載しませんでしたが、その人物が空手家であることは書き添えました(そのほうがあなたの企画の主催者氏が特定しやすいと思ったからです)。
 しかし、こうしたことは迂闊のそしりを免れないでしょう。
 空手というか、武道武術と縁の無い人間にとって、こうした書き方が「暴力をにおわせる」ものであることを全く考えていませんでした。
 わたしは、また冬コミに「殴り込む」といった物騒な書き方をしました。その度に「暴力はふるいません」と付記しましたが、これではマッチポンプです。
 あなたが、どんな恐ろしい気分だったか。それを思うと胸が痛みます。
 わたしは自分の立場を自覚して、私闘等の暴力は、空手を始めてから一度も行使したことはありません。しかし、一般の人に対し「わたしは空手家だ、でも暴力はふるわないから安心しろ」というのは脅しととられる可能性もあるのです。
 わたしは今後あなたとは、作家として対峙します。空手家であることは忘れて下さい。

 なお、このことはあなたの盗作事件(謝罪文掲載後すぐに再犯)を糾弾し続けることとは何も関係ないことだとお考え下さい。


        ついに狂った盗作王(2008/08/28)



 やめるつもりでしたが、唐沢俊一が、mixiでなんら関係もない第三者(さきほど言及した方)の日記で暴れ捲くっているので、それをご報告しましょう。
 なんで、わたしのところに書かないのでしょうね。

 ●裏亭
 当方の日記もお読みください(笑)
 http://www.tobunken.com/diary/diary20080823120155.html

 ●上戸ともひこ
 >裏亭さま
 あ。ご本人様登場!!!
 もちろん読んだ上で書いたんですが、裏亭さんの日記にリンクを張らなかったのは公平さに欠けました。その点は申し訳ありません。
 でもぼくの主張は変わりないですよ(笑)。

 ●裏亭
 それはご本人のご自由ですから。
 ただ、あの人もこっちの後の予定くらい調べてから凸して欲しいですねえ。
 忙しいんだから、こっちは。

 ●上戸ともひこ
 >裏亭さま
 ご理解いただけてどうもです(笑)。
 お忙しいのでしたら、いずれ時間をとって、ぜひとも藤岡さんと直接対決してください。気長に待ってますので。

 ●上戸ともひこ
 などと書いていたら、藤岡さんの日記と検証ブログが更新されていたので見てください。公平さに欠けるので(笑)。

 ■藤岡さんの日記→http://www.fujiokashin.com/criticism.html

 ■検証ブログ→http://d.hatena.ne.jp/kensyouhan/

 鮎川哲也ばりのアリバイトリック……でもないか。
 あと、藤岡さんは日記にこう書いている。

 >(会場で何人かの人から、予告のメールなんか出さないで、急襲すればよかったのにと言われましたが、被害者をクレーマー呼ばわりするような人間ですから、ストーカー呼ばわりされたくなかったんで)

 ぼくもこれに同感。

 ●SHIN(※藤岡真です)
 この裏亭という人、なんで上戸ともひこさんのような第三者の日記に降臨して、うだうだ言うんでしょうかねえ。
 わたしの日記だって全体に公開しているんだから、言いたいことがあればそこで言えばいいのに。
 ホンマもんのへタレですわ。

 ●上戸ともひこ
 >SHINさん
 ぼくもそれが不思議なんです。>第三者<他に発散するところがなかったのかもしれません。
 本来ならSHINさんの日記にコメントするべきですよね。当事者なんですし、日記も全体公開にされているんですから。やはりヘタレとしか考えられないです。

 そもそも裏亭さまがどうしてぼくの日記にたどりついたのかも……。裏亭さま、これ読んでいたらコメントでもメッセージでもいいので教えてください。
 あ、それから、盗作に関することについて裏亭さまと議論するつもりは毛頭ありませんので。だって、もう決着の付いている事柄なんですから。忙しいんで、ぼくも(笑)。

 ●SHIN
 ねえ。
 なんか、自分の取り巻きの日記に降臨したみたいですもんねえ。

 検索して、この件に言及している日記に降臨し、あわよくば自分の取り巻きにしようとしたんでしょうね。馬鹿だね。

 ●裏亭
 すいません、私、暴力をにおわせるメールよこして人を脅かそうとする
ようなメンタリティの人間のところに書き込んだりする主義は持たないのです。

 ここを見つけたのはたまたま、別のキーワードで検索したら見つけたという
だけのことであります。

 ●SHIN
 >裏亭さん

「すいません」じゃなくて「すみません」でしょう? あなたが東京の下町育ちなら仕方ないけど。
 誤解されるような言い方はやめてください。わたしは暴力は絶対ふるわないし、それでも怖いなら、取り巻きの人を何人連れてきてもいいですよ、と伝えたはずですけど。

 ●上戸ともひこ
 >SHINさん
 まったくその通りです。ぼくでしたら、絶対取り巻きなんかにならないのでご安心を。

 >裏亭さま
 ぼくの日記を見つけた理由を教えていただいてありがとうございます。別のキーワードって「DAICON」でしょうか。
 SHINさんとどういうメールのやりとりをしたのかは知らないので「暴力をにおわせるメール」についてはなにも言えませんが(けれどもお二人の今までの言動を考慮すると、どうにも裏亭さまの言うことは信じがたいです)、かといって裏亭さまに決して好意的でない立場のぼくの日記にコメントを書き込んでどうしようというのかがわかりません。あ、別に答えていただかなくてもけっこうですよ。忙しいんで、こっちも。

 ●SHIN
 しかし、ここで管を巻くのと、わたしの日記にコメントを書くのとどこが違うのでしょうかねえ。
 それが、あなたのメンタリティの問題ですかw 

>上戸さん
 災難でしたね。変な親爺に折伏されそうになって。

 ●裏亭
 ああ、すいませんw
 パソコン通信時代の人間なのでどうしても、ネットに全体公開で
書き込むということは他者からのコメントを求めていること、という認識がありますので。
 あと、暴力は恐れません。連れてくる人間の空手の段数まで書き込むような
幼稚な方とは席を同じうはできないなと考えるまでです。

 書き込み、足跡はこれを最後にします。
 お騒がせいたしました。

 ●SHIN
 だから、よそ様の日記でそんなこと書いていないで、なんでわたしの日記にコメントしないのですか。「空手の段位」なんて書いていませんよ。今更嘘をついて、なに考えてるんですか?

 ああ、それから、「すみません」だよ。みっともないだけなんだけどね。

 上戸さんごめんなさい。

**********************************************

 本当になに考えれるんだろう。わたしの日記に降臨しただけで、殴られるとか思っているのかしら。
 しかし、裏亭氏の貴重な意思表明がありましたね。

 あと、暴力は恐れません。
 
 だそうです。再三再四、暴力は振るいませんと言ってるのに、暴力という文字に過敏に反応しちまうようです。


            唐沢俊一くんへの忠告(2008/08/28)



 きみばかり相手にしているわけにもいかないし、普通だったら致命傷と言うべきガセが、著作どころか日記にまで満載されているとばれたのに、のうのうと他人様の日記に自己弁護のコメントなんかつけてて、唐沢の面にしょんべん状態なので、小休止。
 しかし、今回の件を含め、きみの周囲にはどうしてまあ、きみの劣化コピーのような人物が集合しちまったんでしょうねえ。そんな輩からセンセイ、センセイと煽てられて生きていければそれでいいと居直っているのは分かりますが。ま、忠告してくれるようなお仲間もいないようなので一言。

 それはね。小説でも雑学でも芝居でもなんでもいいから、数をこなすのではなくて、じっくり、自分にも他人にも世間にも恥ずかしくない仕事を一つでいいからおやりなさい、ということです。
 これがおれの実力だ、文句あっか! と胸が張れたら、もう嘘八百を書き散らして保身に走る必要はないのですよ。
 24日付けのきみの日記を読んで、ある意味感心しました。

児童文学館のEさんから丁重なお礼メールいただき、恐縮。「次回はぜひ館で同様のイベントを行いたく思います。ご多忙とは思いますが、その節にはどうぞよろしくお願いいたします」との依頼があったので、ぜひともと返事をしておく。今回の強行軍での大阪行き、正直大変だったがやってよかったと思う。

 なんという自己満足でしょう。開会前サインをせがまれていい気になって遅参、わたしが怖かったので、電車に間に合わないと大嘘を付き、15分前に放り出して逃げる。
 主催者からしたら「何様のつもりだよ」というところでしょうか。しかも東京の落語イベントには15分の遅刻(何度も書きましたが、岸和田に14:30に着いていたなら、特急、地下鉄と乗り継いで、15:30前には充分に新大阪に入れるのです)。
 それが主催者からのメールを読んで――

 今回の強行軍での大阪行き、正直大変だったがやってよかったと思う。

 これって、仕事にありつけて嬉しいってことですよね。なにもかも中途半端にしといて、次の仕事が貰えれば総て良しですか。
 少なくとも広告の仕事は無理ですよ(実はそうでなくても無理なんだけどね)。

 純粋に小説一本で勝負してみてはいかがですか。『血で描く』の小生の書評をお読み戴けば分かるでしょうが、「笑い者」にしようという魂胆は毛頭ありませんから。
 では。


現在地:トップページ机上の彷徨

検索エンジン:SEO対策 SEO対策実績 ホームページ制作 ホームページ制作会社 検索エンジン登録 無料ホームページ アバター ホームページ制作静岡