ミステリー作家・藤岡真のみのほど知らずの、なんでも評論

机上の彷徨

このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。

       田舎者が江戸っ子を気取るみっともなさ(2009/01/10)



 地方出身者が江戸っ子のふりをするのはみっともないが、それがまた下手糞でバレバレとなると、もう目を覆わんばかりの惨状になる。唐沢はしょっちゅう、そんな馬鹿をやってるので、気がつく度に指摘してやってるのに一向に改まらない。
 そこで、どれほどみっともないか、一例を挙げて検証してみよう。
 以前「トンデモない一行知識の世界」でも取り上げられた件だが、もう一度こと細かにチェックしてみたい。
 以下、『キッチュワールド案内』から引用する。

 奥さんと言えば、筆者の友人に、親代々、湯島の下町で生まれ育った、純粋な江戸っ子がいる。今どき、自分の奥さんのことを、
「うちのかかア」
 と呼ぶのだから、筋金入りである。

 このかかアなる人物が飛び切り優秀な女性で、理系の大学院を出ていて、科学雑誌の編集者兼ライターであり、かつ大博物学者A氏の第一秘書を勤めていた。おまけに美人(手塚のキャラの女性っぽい顔立ち)で、コスプレ好きときている。ただし、千葉の房州産で、いわゆる江戸っ子の思考形態がどうしても理解できない。
 しばらく前に夫の両親と会食したのだが、江戸っ子というのは大事な客をもてなすときは外から寿司とかうなぎをとる。これが彼女にはどうもよそよそしく映ったらしい。しかも、本当の江戸前の寿司というのは、ネタにいろいろ加工を加えている。煮ハマグリとかコハダの酢〆海老でんぶの海苔巻きなどは、輸送手段が発達していなかった当時、ネタが悪くなるのをカバーするために考え出された苦肉の策なのだ。マグロの赤身のことを、今でも古い寿司屋は符丁で“づけ”と呼ぶ。これは冷凍設備のない時代に三陸地方からマグロを取り寄せる際、仕方なく醤油づけにして送ってきていた、その名残である。
 当然、代々江戸っ子のその家では、本寸法の、加工ダネたくさんの寿司をごちそうした。ところが相手は房州生まれ、私ゃ九十九里荒波育ち、と言うてイワシの子ではないと歌の文句にもあるように、毎日毎日、テテ噛むような魚を食べて育った女性である。出されたそれを目にして、
「こんなの、お寿司じゃない」
 と断言し、両親を激怒させた。

「それがよぉ」
 と、彼女の亭主が筆者にボヤくのである。
「親から翌日電話が来て、怒りやがるんだよ。“お前たちとは、もう親でもなければ子でもない”“二度とうちの敷居をまたぐな”って、……こうレトロな言い回しを二つも使って怒られると、江戸文化博物館にでも言ったような気になって仕方ねえ」
 聞いて、うらやましく思ったものである。この、ひとしなみに生活が平均化されてしまった時代において、日本国内でこんな文化摩擦を体験できる機会はめったにない。まあ、嫁しゅうとの争いは気の毒だが、
「大体よぉ、おれの実家なんざ、貧乏長屋の下駄屋だぜ。またぐような敷居なんざ、ありゃしねえじゃねえか」
 という、落語でそのまま使ってもおかしくないような彼のグチは、江戸文化の結晶ではないか、と思える。
(P.25~27)
 太字の部分に突っ込みを入れていきます。

 地方出身者の唐沢が必死ででっちあげた、不気味な江戸っ子像をとくと楽しむとしましょう。

*奥さんといえば
 この言葉は一体どこにかかるのか。

*純粋の江戸っ子
 生粋の江戸っ子だろ。親代々というのも変な言い方だなあ(後述)。

*「うちのかかア」
 と呼ぶのだから、筋金入りである。

 こんな人間は周囲にいくらでもいるがね。そうした連中が、皆、江戸っ子というわけでもないし。
 筋金入りであるって、なんの? 江戸っ子の? 奥さんを「かかア」と呼ぶだけでか? なんでこうした話になるのかは明白。唐沢は本物の江戸っ子を知らない。これぞ“筋金入り”の江戸っ子という例が挙げられないのだ。小生の伯母の一人が戦前、浅草馬道で瀬戸物屋をやっていた。生粋の江戸っ子である。戦時中、食料事情が悪いとき、祖父母と母がその伯母の家に遊びにいったら、卓袱台に並び切らないくらいのご馳走が出たそうな。凄い凄いと感心していたのだが、よく聞いたら前日配給された一月分の食料を全部出しちまったとか。身内を思いやる気持ち、見栄坊、こういうのを“筋金入り”と言うんだよ。その伯母さんは空襲のとき隅田川に逃げて亡くなった。

*千葉の房州産で、いわゆる江戸っ子の思考形態がどうしても理解できない。
 それは只の馬鹿だ。

*江戸っ子というのは大事な客をもてなすときは外から寿司とかうなぎをとる。
 そんなこたあない。すき焼きでもてなす家だってある。どうして田舎者のくせに「江戸っ子というのは」なんて振りかぶるのか。

*煮ハマグリ
*コハダの酢〆
*海老でんぶの海苔巻き

 以上、三つのネタを、唐沢は
*輸送手段が発達していなかった当時、ネタが悪くなるのをカバーするために考え出された苦肉の策
 と説明しているが、大嘘である。ハマグリを生で食わせる寿司屋があるか? 酢で洗ってないコハダなんざ生臭くて食えねえよ。海老でんぶの海苔巻きってなに? 太巻き寿司のこと? 寿司ネタのときは“おぼろ”と言うがね。キスやさよりはおぼろを挟んで握る。

*代々江戸っ子のその家
 そもそも江戸っ子の意味が分かっているのか?「先々代は大阪生まれの大阪育ちで」って江戸っ子がいますか? 上でも書いたけど、親代々のとか代々江戸っ子とか、単なる東京生まれの東京育ちのことだと思っているようだな。三代続いて、初めて江戸っ子と名乗れるんだよ(異論もおありかとも思うが、俗にそう言う)。

*本寸法
 本格的って意味ですかい。落語用語かな、無理に使う言葉ではない。

*私ゃ九十九里荒波育ち、と言うてイワシの子ではないと歌の文句にもあるように
 そんな歌はない。「トンデモない一行知識の世界」から引用する。

>私しゃ 九十九里荒波育ち
     波も荒いが 気も荒いよ   (三之宮神社 甚句)
>私しゃ 大原荒波育ち
     と言うて鰯の 子ではない (大原はだか祭 祭り唄)

 二つの唄を混同している。

*テテ噛むような魚
 トレトレノテテカムイワシは大阪弁の活きのいい鰯の慣用句。なんで大阪弁が出てくるのか。なんせ“ボボ”が大阪弁だと思っていたくらい方言に暗い唐沢のこと、これを江戸弁と勘違いしたことは充分に考えられる。

*「こんなの、お寿司じゃない」
 と断言し、両親を激怒させた。

 だから、この女は只の馬鹿だっての。

*お前たちとは、もう親でもなければ子でもない”“二度とうちの敷居をまたぐな”って、……こうレトロな言い回しを二つも使って怒られると、江戸文化博物館にでも言ったような気になって仕方ねえ

 唐沢は必死になって江戸っ子を描こうとしているようだが、“もう親でもなければ子でもない”“二度とうちの敷居をまたぐな”なんて言葉は東京じゃごく普通に使う言葉でね。高校生のときに上京してきた唐沢には「うわっ、落語みたい」と思えたかも知れないが。そんなささいなことで江戸文化博物館だって……情けなくなってくる。

*言ったような
「行ったような」。誤植といいたいのだろうがテキストで入稿しているのでは? 『血で描く』にも同じ誤字(変換ミス)がある。進歩しないねえ。

*日本国内でこんな文化摩擦を体験できる機会
 だから、この嫁が馬鹿なだけであって、文化摩擦でもなんでもない。

*実家なんざ、貧乏長屋の下駄屋だぜ。またぐような敷居なんざ、ありゃしねえ
 長屋の下駄屋ねえ。また絵に描いたようなものを。敷居って言葉の意味が分かっているのかね。敷居のない長屋って、壁に穴でも開けて住んでいるのか?

*江戸文化の結晶
 散々ない知恵絞ってでっち上げた江戸っ子像がこれだもんなあ。

 千葉出身の奥さんと湯島の下駄屋の間に、出身地の違いだけで、文化的摩擦が生まれるとは到底思えない。刺身を酢飯に乗せただけで、ネタが新鮮を売り物にする寿司屋など、北海道にいけばいくらだってあるだろうよ。しかし、見栄っ張りの唐沢は、東京と北海道の文化的なギャップなんて絶対に語りたくない。だから、千葉出身の嫁を創造したのだろう。そして、上で指摘されたような、個人の資質(只の馬鹿)のせいにされぬように、理系の大学院のライターの秘書の(荒俣先生ですか)と「馬鹿じゃないよ」という要素を必死で並べたのだろうな。しかし、アメリカ人がガイドブック見ながら書いたような江戸っ子の描写で、嘘は全部ばれた。
 このインチキな「江戸っ子」の造形一つ見ても、全く小説を書く才能がないことが分かるよなあ。

キッチュ 『キッチュワールド案内』 早川書房 2002


          大誘拐 岡本喜八(2009/01/09)



『唐沢商会のマニア蔵』(スタジオDNA 2002)P.113の「シネマもろとも」はこんな文章から始まる。

 映画に限らず小説でもマンガでも、予備知識ゼロで接して理解できるものなどほとんどない。

 おいおい。いや、いちいち突っ込みませんよ、所詮馬鹿が書いていることですから。で、『ネバーエンディングストーリー2』は前作の知識がなければ分からんとか『黒の過程』は宗教の知識なしに見てもついていけないとか『ディック・トレーシー』はアメコミの知識がないと「なにやっとんじゃこれは」としかいいようがないとか(フラップトップは?)『トータル・リコール』はベトナム戦争の後遺症にあえいでいるアメリカ知らなくては理解できないとか偉そうな御託が並べられる。そして――

 そこへいくと東宝の『大誘拐』☆☆☆☆★(註;☆=20点 ★=10点 100点満点)は、岡本喜八という監督に対する予備知識がなくても十分に楽しめる、いわば喜八映画入門編、といった感のある佳作で実に楽しい。若いファンはまずこの作品を見てから『ああ爆弾』『幽霊列車』といった傑作に接すればいいだろう。マニアたちは逆に物足りなさを感ずるかも知れないが、運転手(奥村公延)の腕時計の機種の選択を見るだけで、この監督の演出力がにぶっていないことがわかるはずなのである。(俊一)

 ええと。『幽霊列車』ってなに? まさか赤川次郎原作の土曜ワイド劇場『幽霊列車』のことかい。不愉快だなあ。岡本喜八といったら、『独立愚連隊』『肉弾』『殺人教時代』『ブルークリスマス』なんてところを代表作に挙げるのが一般的だろう。それをわざとらしくTVドラマを持ってくるのは、自分の知識をひけらかしたいからに違いない(本気で『幽霊列車』を、上に列挙したような作品を凌駕する傑作だと思っているなら、本当の馬鹿だ)。奥村公延の腕時計ってなんですか? それを書かないのがカッコイイとでも思っているのかね。
『大誘拐』はわが国ミステリ史上に輝く金字塔。天藤真の大傑作である。その映画化作品を、唐沢ごときに「いわば喜八映画入門編、といった感のある佳作」なんて位置づけされる筋合いはない。

誘 『大誘拐 RAINBOW KIDS』DVD 東宝 2006 


          日本世間噺大系(2009/01/08)




           どうして嘘を書くのだろうか?

 いやはや、全く理由が分からない。唐沢は『キッチュワールド案内』の中の「辛味論」と題した文章の中で、伊丹十三の文章を引いてナッチーボックンという韓国の胼胝の味噌煮の辛さを語っているのだが、その内容が元の伊丹の文章とは大分違うのである。

 伊丹十三のエッセイにも、この立原(註:立原正秋)がモデルの小説家の先生に、自分の書いたものを酷評されながら、無茶苦茶に辛い韓国のタコの煮物を食べさせられ、酷評のくやしさとタコの辛さに涙をポロポロこぼす、という話がある。(P.128)

 そんな話はない。
 伊丹のエッセイ『日本世間噺大系』の中の「芸術家」にはこう書かれている。

 先生は乃公(おれ)の方に原稿を押し返すと、火鉢の切り炭のぱちぱち弾ぜるのに手を翳して、それなり黙ってしまった。
「どうです」と批評を促しても「ウム」と口の中で云って空を睨んだきりだ。
(P.37)

 先生は酷評なんかしていないのだ。伊丹はすきっ腹にウイスキーのストレートと生の大蒜を食わされ、腹痛になり倒れてしまうのだが、

「なに、朝から何も食っておらんので胃袋が面喰ったんでしょう、もう大丈夫です。ところで私の原稿ですが――」
「ウム。原稿もナンだが、その前にちょっとこれをやってごらん」
 先生が、凭れていた火鉢から身を起こして、小皿を押して寄越す。
「今度は何です」
「見れば判るだろう。菹(キムチ)だよ、菹」
(P.40)

 この文章の中で、伊丹の小説原稿に関して書かれているのは、上に挙げた二箇所のみ。「酷評のくやしさに涙をポロポロこぼす」なんて描写は一切ないのだ。
 で。この菹が激辛で伊丹は再び悶絶し、さらに件のナッチーボックンでとどめをさされる。その状況下で先生は、もう一度菹を食べろと勧める。伊丹はヤケクソで菹に箸を伸ばしたのだが。

 あたりは何の物音もない筈なのに、乃公の頭の中では、猛烈なスコールが降りしきるようにザァーッという音が鳴っている。乃公は、その辛さのスコールの中でバリバリと菹を噛んでみた。噛んでみて吃驚した。あれほど凄まじかった菹の辛さが、今は全く感じられぬ。
 頭の中を遠慮なく突き通る、銀色の光の簾の彼方に、菹の像が、白く冷く、清清しい酸っぱみを帯びてくっきりと浮かんでいる。ナッチーボックンの壮絶な辛さの前では菹の辛さなど零に等しい。ただ酸っぱみだけが、全く系統を異にするゆえに、ぽつんと取り残されて息づいているのだろう。
(P.45)

 うーん。名文であるな。ところが唐沢の文章ではこうなっている。

 その中で先生が言う、
「キムチというのは、韓国では辛いものを食べた口なおしのために食べるのだ」
 というのは、本当のところであるらしい。
(P.128)

 本当のところもなにも先生はそんな言葉は一言も発していない。伊丹に対して、芸術家は辛いものを好むという持論を披露し、次々と辛いものを食わせるだけだ。

 酷いなあ。伊丹十三は立原正秋に小説を酷評されて泣いてもいないし、立原は「キムチは口直しだ」なんてへんてこな薀蓄も傾けていない。元の文章の持つ玄妙な味わいはどっかに吹っ飛んで、浅薄な劇辛話になっている。
 なんでわざわざ、嘘を書くのだろうか。全く理由がわからない。いや自己の文章は劣化コピーでなくてはならない、という一貫した信条の発露なのだろうか。
 伊丹、立原両氏(既にお二人とも鬼籍に入った)の名誉のためにも書いておきたい。
 伊丹 『日本世間噺大系』 伊丹十三 文藝春秋 1976
 キッチュ 『キッチュワールド案内』 唐沢俊一 早川書房 2002


          ちはやふる 3(2009/01/07)



              素晴らしい!

          ちはやふる3

 野球漫画で延々と試合が続き、一試合終了するのに、2年も3年もかかる(雑誌での掲載の話ね)なんてのは珍しくもない。それだけ、野球にはドラマがあり、一つのプレイ、選手の一挙手一投足に、読者はハラハラし息を飲み手に汗握るからだろう。
 では、“かるた”は?

 百人一首。あのかるたとりのお話である。おいおい、そんなものが面白いのかって? そう思う方も多いだろう。まあ、ここのエントリをずっと読んで下さっている方は、単行本の第一巻が出たときにわたしが絶賛していたのを覚えて下さっているに違いない。あのころ小学生だった主人公も、いまや既に高校生。そう、主人公、綾瀬千早の美しくて魅力的なこと、久しぶりに二次元のヒロインに惚れちまった。
 ストーリーは、とにかく全国大会を目指して予選会に臨む、千早たちの戦いを描いているだけだが、一巻から綿々と続いている微妙な人間関係が、その戦いをギスギスしたものにしないでいるところが、大変素晴らしい。
 P.66の千早の袴姿が、ベストフォトジェニックだが、P.168右上の「囲み手」で札をとられた表情こそが、この3巻のベストショットだろう。
 なんか、もう、ヒロインの素晴らしさが突き抜けていて、それを追っているだけで、幸福な気分になれる一冊です。4巻は3月13日発売とか。

 『ちはやふる 3』  末次由紀 講談社 2008


      空手と物理学とスペース・シャトル(2009/01/05)



           星になった宇宙飛行士

            物理学

 年末に書庫の整理をしたので、本捜しが大分楽になった。とはいえ、見つからんもんは見つからん。とある空手の技術書を捜していたのだが。

 そうしたら『空手の物理学』(日経サイエンス社1984)という本が出てきた。これはサイエンスに掲載された記事を別刷りにした小冊子だが、実はちょっとした逸話があるのである。この本の裏表紙に逞しい黒人空手家が、ぶ厚いコンクリート板(10センチはあるか)を3枚重ねて、掌底で粉砕している写真が載っている。共同執筆者の一人、R・E・マックネアで著者の紹介にはこう書かれている。

 ヒューストンのジョンソン宇宙センター宇宙飛行士候補者。空手二段。

 ああ、と思われた方もいるのでは。1986年スペースシャトルチャレンジャーの爆発事故、その犠牲者の中にこんな名前がある。

 Ronald Ervin McNair:物理学者 35歳

 この事実を知っている人が何人いるだろうか。

 『空手の物理学』 M.S.フェルド他 松井秀治訳 日経サイエンス社 1984


          ネット、mixiの人脈(2009/01/04)



           ネット恢恢疎にして漏らさず

 一昨年の鮎川哲也賞受賞パーティで、柴田よしきさんに進められてはじめたmixiだが、いや思いもよらぬ皆様と知り合えあて、本当に良いものを紹介されたと感謝しとります。

 あの盗作野郎の件だって、サイトを持っていたおかげで、漫棚通信さん、知泉さん、伊藤剛さんと知り合えたわけだし、mixiのおかげで町山智浩さんとも連絡がとれるようになった。
 しかし、なにより面白いのは、裏亭なる人物のマイミクの方が、何人もmixiでメッセージを下さったことだ。なんだか分からんがチクりますといった低レベルのものから、前々からおかしいと思っていたが、確信になったといったものまで。また、かなり親しい方(著名な方である)から、これまで親しく付き合ってきたのでいきなり切り捨てるわけにはいかないが、一度きっちり話し合う必要があるだろうという真摯な意見表明があり、こちらも面白半分に対応するわけにはいかない。
 それでも、未だに忠犬ミク公みたいな奴もいて、巡回してあしあとを残していく。中に「と学会」のけっこう名の売れた方がいたので「巡回ですか」とメッセージを入れたら、「唐沢さんも藤岡さんも好きな作家です。好きな作家同士がいがみあっているのは悲しい」という馬鹿の極みのような言葉が返ってきた。「万引常習者」と「それをとっ捕まえる人間」。いがみあってるんじゃないよ。万引常習者に肩入れするなら、ファンなどと呼ばれたかねえや。

 裏亭さん。マイミクの中の心ある方は、今年からどんどん抜けていくと思いますよ。今の時点で、十四人の名を挙げられます。


           本年の所感(2009/01/02)



 では、箇条書きに。

1、長編小説、出版社に渡している分以外、いくつかあるので、これをちゃんとした作品に仕上げましょう。

2、ホラー小説を書いています。それがどんな形で世に出るかはお楽しみ。

3、3年のブランクの後に空手道場に復帰しましたが、そんな甘いもんじゃない。本年は年初から鍛えなおす所存。

4、著作権をきっちり管理する部署を、社内で立ち上げ、会社の壁を越えて(電通、ADK)情報を交換するようにしたかったけど、さすがに時間がかかります。組織の立ち上がりは4月以降(これは決まり)、会社の壁を越えては、さてどうなるかしら。しかし、これが実現すれば

*パクリ表現(アイデア、コピー、音楽)の事前チェック。
*リスキーな人材のチェック(タレント、文化人、やばい奴はNG)。

得意先に対しても、説得力のある組織だと思うのですが。まあ、1年くらいはかかるかも知れませんが、そうなるといかがわしい人材は総て駆逐されます。そして、広告代理店が協働でNGにしたような人間は、メディアから、総スカンをくらうでしょうね。
いや、手続きは面倒くさいけどさ。

5、VOWにも引き続き投稿いたします。


            グルメ刑事(2009/01/01)

 


        これぞ正月、極めつけの一冊

 さて、楽しい、楽しいお正月の始まりです。
 リオデジャネイロではカーニバルのために1年を生きているとか。小生は正月のために1年を生きております。

 さて、となれば朝から酒である。

 
 司牡丹


 本年は、ご先祖(深尾和泉守重良)に因み、“深尾家の酒”司牡丹船中八策と参るとしよう。
 あまりものなどを肴に、早朝から下らん正月番組を見ながら呑むのが、正月の醍醐味。

 しかし、昨今のTV番組は1年中正月番組のようで、どうもエントロピーが増大しておるようだ。

 さて、ほろ酔い気分でTVを横目で見つつ、書を閲す。

 そう、今年は、これで参るぞ。正月のほろ酔い気分で読むのに最適の大傑作、嵯峨島昭の『グルメ刑事』であります。

                 
 グルメ刑事


 嵯峨島昭は東京大学国文の大学院在学中に『鯨神』で芥川賞を受賞した、大変な作家なのである。本作はミステリー。しかも、正月が舞台で北大路魯山人が活躍する“現代”の物語。これを読めば巷の“バカミス”なんかふっとんじまう。グルメを皮肉り(巷の名店がほぼ実名で登場し、滅茶苦茶に貶される)、マスコミを皮肉り、もう下らなくて下らなくて、悶絶するくらい可笑しくて、しかも、著者の知識と薀蓄は半端ではなく、しかも、芥川賞作家の名文で読めるのだ。目茶苦茶な話が。

 正月はこれだよ。

 なんで、こんな本が出てきたかと申しますと、年末の大掃除のとき、額装していた畑農照雄の版画「仮面道化」を見た豚児が、「この作者はどんな人なの?」と訊いたので、書庫整理中たまたま畑農さんが装丁した本書が目の前にあり、画家で版画家で、数々の装丁をされた方であり、以前ご自宅にお伺いして、猫と遊んだ話をしてやったのです。で、内容をパラパラ見たら、おおこれこそ正月に相応しい本。

 さて、呑んで読んで、酔ったら寝て、起きて食ってTVを見て、また読んで呑んで、贅沢に時間を過ごしますか。

 『グルメ刑事』 嵯峨島昭 カッパノベルス 1977


            TENGU(2008/12/28)


               衝撃のラスト

            tengu

 ああ、こんなお話だったのか。いや、王道と言ったらこれほど王道を行く物語はないだろう。王道の集大成と言ってもよい。
 陰湿で閉鎖的な集落で、突然殺人事件が発生する。被害者は、いずれもその肉体が粉砕されるほど残忍な殺され方をしている。犯人と思しき存在は、人間でもなければ獣でもない、“天狗”と呼ばれる謎の生き物らしいのだが。主人公が想いを寄せる薄幸の美女、密かに跳梁するアメリカ人たち、そして、地元の警察は彼らの言いなりになって証拠を隠滅する。
 DNA鑑定でもその正体が分からない“天狗”は、どうやらベトナム戦争と関係があるらしい。事件当時駆け出しの新聞記者だった主人公は、二六年ぶりに、事件の真相をつきとめんと行動を開始する。
 なんか、何度も読んだことがあるようなストーリーだな。どうせ“天狗”の正体は、アメリカ軍が開発した超人兵器かなんかなんだろう。主人公は、命を狙われ、アメリカの秘密組織と戦いながら、後一歩という所で真相にはたどり着けずに……。なんてストーリーを漠然と頭に浮べながら読んでいて驚いた。
 いや、お膳立ては予想通りなんだが、そこから派生するストーリーは全然別のものだった。主人公はタフなアウトドア派だが、拳銃をぶっ放すわけでもなければ、命を狙われるわけでもない。淡々と事実を追いかけながら、事件のルポを書き続け、それはAPを介してアメリカでも紹介される。そうして、かつての事件関係者から連絡を受けてアメリカに渡ることになる。

 バイオレンス巨編といったらその通り。残酷であり、淫靡であり、出会いもあれば別れもある。しかし、このラストの衝撃はちょっと一言では言い表せない。こんな結末を誰が予想しただろうか。ドンデン返しというのとも違う。一読をお薦めする。こんな発想はわたしにはなかった。

 『TENGU』 柴田哲孝 祥伝社文庫 2008


           失われた27年(2008/12/26)



  
          ただひたすらのアナーキー

            アレン

 唐沢俊一がなにを根拠に本書を、「好きな作家の27年ぶりの作品集」と呼ぶのか不明だった。というのは本書のあとがきで翻訳の井上一馬も、amazonの「内容(「BOOK」データベースより)」も、ウディ・アレンが25年ぶりに贈る待望の短編集としているからだ。27というのは、唐沢なりにアレンの作品の出版年から算出した数字なのかしら、とも考えたが、唐沢の資質からしてそんなことをする(出来る)はずがない。

 昨日、2ちゃんねるに、24日のエントリに対してこんなことが書き込まれた。

 325 :無名草子さん:2008/12/25(木) 23:10:47
>藤岡真様
SEXのすべての日本公開はアニーホールより後だと記憶しています。


 おっとと思い調べてみたら、ご指摘通り、『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう 』の日本公開は1981年だった。そこでピンときた。
 唐沢はこの映画が、アレンの初のヒット作(興行収益800万ドル)ということは知っていた、あるいはネットで知ったのだろう。それが1981年(27年前)の公開なら、それ以降、アレンの人気は一般的なものになってしまったはず。つまり、25年前ではなく、27年前に、自分は既にアレンに惚れ込んでいたことにしなければ、先見の明があったことにはならない。そう思い、27年という数字をでっち上げたんだろう。しかし、本のデータにも訳者の後書きにも、はっきりと「25年ぶり」と書かれているのに、朝日新聞の編集はあっさりと騙されたのだろうか。不思議だなあ。


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