このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。
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お前に言ってるんだよ、唐沢俊一
ガセを書くかパクるしか能の無い馬鹿、唐沢俊一が31日の『裏モノ日記』で、また出鱈目を書いている。広告業界のことなんかなにも知りはしないことは、もうとっくにばれているのだから、知ったかぶりはやめるように。土屋耕一氏の訃報に接して、
コピーライター、土屋耕一氏死去、78歳。『君の瞳は1000ボルト』も『A面で恋をして』も、土屋氏のコピーをそのままタイトルにしたヒット曲。
『君のひとみは10000ボルト』だ。『君の瞳は1000ボルト』では、語呂も悪く、歌詞としてメロディに乗らないだろう。そんな基本的なことも理解できないくせに、広告コピー云々など一丁前に語るんじゃないよ。さらに、
土屋氏の遊びの精神は糸井重里や河崎徹に受けつがれ、70年代末にコピーライターの黄金時代をもたらしたが、現代のCMコピーは、このような遊びの次元からはちょっと距離をおいて、よりダイレクトもしくはストレートなものになっている気がする。
人の名前くらいちゃんと調べて書け。川崎徹だ。しかも、川崎徹はCMディレクターであってコピーライターではない。「よりダイレクトもしくはストレートなもの」とは具体的になにを指すのか実例を挙げてもらいたい。ついでに、ダイレクトとストレートの違い(コピーライティングに於ける)を教えてくれないか。
遊んでいる余裕がなくなったのか、そもそも言葉で遊ぶだけの教養が消費者に無くなったのか。
無礼極まりない。教養がないのはお前だろう。
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2ちゃんねるに、わたしの書評に関して色々書き込まれているが、それはちょっとという意見もあるので、ここでわたしの考えを明らかにしておこう。埼玉から東京に引っ越したのに(ipngnd+marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp)相変わらずアク禁で、2ちゃんには書き込めないんで。
わたしが気になった一連のレスポンスを引用する。
73 :名無しのオプ:2009/03/17(火) 21:54:09 ID:wgS7/r2W
藤岡さんの評価ってやっぱりゆがんでるよ。
創作者はしかたないけど、ダニング罵倒で、あれが傑作かよ。
好みだからしかたないけどね
80 :名無しのオプ:2009/03/20(金) 10:40:05 ID:PSk9eJVv
>>73
俺はインシテミルを批判したときにそう思ったな。
謎を謎と考えるかっていうのも的外れに思えたし。
88 :名無しのオプ:2009/03/27(金) 17:52:16 ID:SfaYjO7h
>>80
インシテミルの時もそうだったし
イキガミ批判の時もそうだったけど
藤岡氏が求めているのは、「完成度」。
イキガミもインシテミルもある種の完成度は低いかもしれない。
だけど、多くの人は、藤岡が求める類の完成度が低くても気にならない。
気にならないから、藤岡が完成度が低いと責めたところで、ぴんとこないんじゃないかとおもう。
90 :名無しのオプ:2009/03/30(月) 04:13:49 ID:v4cO7LYF
難癖のつけかたが自己中な腐女子と似てるよね
自分の思うとおりの内容じゃないと怒り出す
〇〇と××がくっつかないなんておかしい!って言うのと同レベル
73は「しかたない」と二度に亘って書いているのなんとも微笑ましいね。そんなに気を使わなくてもよろしい。でも、評価がゆがんでいるのは当たり前で、なにか絶対的な評価基準があると思っているんだろうか。90の人に言わせたら、それこそ、きみは「自分の思うとおりの内容じゃないと怒り出す」って人なのかな?
8880みたいなのが一番困るんだよなあ。こちらが言っても書いてもいないことを挙げて「謎を謎と考えるかっていうのも的外れ」なんて批判されてもねえ。そんなこと一度も主張した覚えはない。わたしが言いたかったのは「奇妙な設定自体を謎と考えるか否か」ということだ。以前も書いたけど、もう一度確認の意味で書く。
ミステリにおける奇妙な設定での最高レベルの作品は、コナン・ドイルの『赤毛組合』ではないかと思う。まさか未読の方はいないと思うし、その程度のミステリファンにはいささか難解な話になると思うので(あくまでも『赤毛組合』未読レベルの人ね)、この先は読む必要ないから、ネタばらししてしまう。反転なんて面倒なこともしない。
『赤毛組合』は言わずと知れた、シャーロック・ホームズシリーズの一編。最高傑作といってもいいだろう。こんな話――
1890年のある日、ジェイベズ・ウィルソンという赤毛の男がホームズを訪ねてくる。ウィルソンは質屋で、店員のヴィンセント・スポールディングから、赤毛でありさえすれば高収入を得ることができるという話を聞かされた。赤毛を馬鹿にされた富豪、故エゼキア・ホプキンスソンの遺言をもとに設立された『赤毛組合』という団体があり、その会員になれば、簡単な仕事で週4ポンドの収入が得られると言うのだ。ウィルソンはモーニング・クロニクル紙に載った会員募集広告通り面接試験に向かうが、会場はロンドン中の赤毛が集まったかという大騒ぎ。しかし、面会人のダンカン・ロスと名乗る人物は、ウィルソンを一目見るなり合格を告げる。かくして、ウィルソンは大英百科事典を書き写すという簡単な作業で週4ポンドを得るようになったのだが。
順調と見られたウィルソンの副業は突然破綻する。ある日組合事務所に出所してみると、そこには「赤毛組合は解散した。1890年10月9日」と書かれていたのだ。ウィルソンはダンカン・ロスの行方を捜すが見つからず、シャーロック・ホームズの力を借りることにした。やがてホームズは、この椿事の裏で進行していた銀行強盗の計画を探り当てる。
お分かりだろうか、ここでの“謎”は、そもそも『赤毛組合』なるものがなんだったのかということであり、そこで行われていた「百科事典丸写し」がなんのためなのかではないのだ。ホームズ物の白眉ともいっていいほどの傑作で、島田荘司の『紫電改研究保存会』はこの作品のパロディーである。
『インシテミル』に対してわたしが疑問に思ったのは、あれだけの設備を造り、人を集め、妙に濃いミステリネタに沿って(以下ネタばれ)殺し合いをさせるという、主催者側の目的が全く理解できなかったからだ。ミステリマニアの大金持ちの狂人が、ミステリに書かれているようなことが実際に起こり得るのか試したくて、というのが目的なら(面白くもなんともないが)一応理解はできる。しかし、事業化を目論んで、実験的に行ったという理由は、はっきりいって全然駄目だ。なにをどう事業化するつもりなのか。当たり前のことだが、採算がとれるわけがない。施設の建設、人材の確保、殺人事件を隠蔽するというリスク、賞金、その莫大なコストに対して、利益をどう上げるつもりなんだろう。見物させる? 誰に、どれだけの料金で? そして、当然ながら殺人を目撃することになるそれらの人々の守秘は? 全く現実的ではない。そうして、一番嫌なのは、こんな書き方をすると、一部の読者(若年の幼稚な読者なんだろうな)から、「ミステリに現実のビジネスの話なんか持ち込むのはバカ」といった意見が寄せられることだ。わたしだってそう思う。いいかい、「現実のビジネスの話を持ち込」んだのは、他ならぬ作者自身なんだよ。そして、わたしはそのことを批判しているのだ。馬鹿呼ばわりするなら、どうか作者の方にしていただきたい。
『赤毛組合』は狂人の戯れ(見せかけの設定はそれに近い)でもなければ、赤毛ビジネス設立のテストでもなかった。巧みに計画された銀行強盗。そして、このおかしな設定がその計画の中心にあった、つまり、おかしな設定の“謎”が解かれたときに、事件の全貌も明らかになるという素晴らしいミステリなのだ。(ネタばれここまで)
88の人。「藤岡氏が求めているのは、「完成度」」。これは円堂都司昭の『「謎」の解像度』の受け売りですか? 「完成度」なんて漠然としたことを話しているのではない。円堂氏は『女王国の城』を語る際にわたしの言葉を引用しているが、そこは「完成度」をテーマにしていたからであって、わたしの主張はもっと具体的なものだ。そして、「イキガミもインシテミルもある種の完成度は低いかもしれない。 だけど、多くの人は、藤岡が求める類の完成度が低くても気にならない。 気にならないから、藤岡が完成度が低いと責めたところで、ぴんとこないんじゃないかとおもう」と書いているが、『イキガミ』の話は措いておいて「多くの人は、藤岡が求める類の完成度が低くても気にならない」ってのは酷すぎるなあ。ミステリの評価軸で「完成度」というのはかなり重要なものであって、それが低くても気にならないというのは、随分低レベルな読者だと思うよ。低レベルなのはそちらの勝手だし、だからわたしの批判が「ぴんとこない」というのも理解できるけど、それは結局「わたしは馬鹿だ」と言っているだけのことだと思う。わざわざ書き込まなくてもいいのでは?
長文、お付き合いいただき感謝いたします。
※88ご本人から「自分は的外れという言葉は使ってない。」という指摘がありました。ごめんなさい、80の間違いです。お詫びして訂正します。
※コンプライアンスの問題なのか、今年になってから、会社からは2ちゃんに書き込み出来ません。
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また(何度目だよ)発覚した唐沢の盗用
kensyouhanさんが、唐沢の『秀吉怪談』は、『座敷牢人の壺蔵』というサイトからのコピペ改竄ではないかと指摘されていたが、主催者本人がサイトのBBSに以下のようなことを書き込んでいる。
207.Re: はじめまして 名前:浪 日付:3月29日(日) 16時34分 お知らせいただき、ありがとうございます。 「唐沢俊一検証blog」を確認しましたが、そこで検証されているように、唐沢氏は原文を見ることなく、私の訳文の言葉をテキトーに置き換えて載せているようで、安易なことをするものだなあ、というのが感想です。もちろん、昔の本にある話を話題として提供する際は必ず原文に当たらなければならない、などと考えているわけではなく、二次的資料に依っても全くかまわないのですが、それならそれと分かるような書き方をするべきでしょう。
「黄昏の掲示板」より。
手首を切り落とさなければ、盗癖は改まらないということですか。
うーん。暴力には訴えたくないし。
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ええと、どこがフギュアと関係があるの?
ラジオライフに連載されている『古今東西トンデモ事件簿』での盗用が発覚し、担当編集者は退社、以来パクリ防止のために編集部から与えられたお題に沿ったネタに限られた唐沢の連載が、もはや『事件簿』とは程遠い、他人の著作をだらだら紹介するだけの酷いものになったことは、ここで再三指摘してきた。「酷いものになった」と書いたけど、それ以前は「パクリ」と「ガセ」で書かれた別の意味で酷いものだったんだけどね。
普段の日記では、資料集めが大変の、原稿を書くのが忙しいのと、紙屑の作成に苦吟していると訴えているが、成果物はこの惨状。では、他の連載はどうなっておるのかと、上記『フィギュア王』の連載『唐沢俊一のトンデモクロペディア』をチェックしてみた。今回は「47th 『秀吉怪談』である。
タイトルを見て、あれれと思った方も多いだろう。秀吉ですぜ、秀吉。唐沢ときたら『ジャパニーズ・フィギュア・アートシーン』での横領問題が有名だから、そこら辺の“濃い話”でも聞かせていただけるのかと思ったら、いきなり秀吉だもんなあ。
『フィギュア王』のため誤解されないように書いておくが、他の連載陣、河崎実、中野貴雄、樋口真嗣、珍屋阿部、吉村明彦、中沢健、たいらめぐみ、芝田隆広、吉田豪、そして、唐沢なをき(しかし、豪華なメンバーだね)は、本当に面白いフィギュア&特撮ネタを語っている。今月のゲスト、牛場賢二(実相寺組の証明技師)は『ウルトラQザ・ムービー』の逸話を語り、美術スタッフが作った自分のフィギュア(仏像!)を紹介しているし、藤原組長は「モスラ香炉」制作の苦心談を語っている。このモスラの幼虫型香炉、香を焚くと、口から煙が糸のように立ち上るという優れものなんであります。
こうした連載の中で、完全に浮き上がっていて、しかも、面白ければそれなりに評価のしようもあるけで、面白くもなんともない唐沢の文章は、読者を嘗めていると言っていいだろう。
NHKの大河ドラマ『天地人』では、イケメン俳優が勢ぞろいだが、秀吉役の笹野高史は例外だ、というどうでもいい話から始まり、ルイス・フロイスは秀吉を醜男と書いているとか、手の指が6本あったとか、“重眸(ひとみが二つ)”だったとか、主に容姿に関する奇怪さを書き並べ、江戸時代の随筆集、『真佐喜のかつら』の中の、こんな記述を紹介する。
別に変わったこともございませんでしたが、ただ、太閤様は一間のご寝所に入られ、中から掛け金を掛けてしまわれます。目が覚めるまで決して起こしてはならぬ、とのお言いつけなのですが、ときには急なご用事で家臣の方々がおいでになることもあり、そのときはやむをえず障子の外から声をおかけいたします。そのとき、障子に穴をあけこっそり中を覗き見いたしますと、太閤様のお姿が、広いお座敷いっぱいに膨れておいでになるときがございました。また、そこまでではなくとも三四畳敷くらいに広がっておられることもあり、まことに身の毛のよだつ思いでございました。何につけ、われわれとは違ったお方でございました。
へえ……。
で、それがどうしたの、と思って、ソルボンヌK子の下手糞なイラストを見たら、肥満した武士(秀吉のつもりなんだろう)の上半身前部にジッパーが描かれて、
秀吉膨張の謎
デカくなりたい…
着ぐるみオタクだった!!
オイオイ(笑、そうきましたか。「着ぐるみオタク」という訳の分からん言葉で、この下らない文章を無理矢理、フィギュアネタにしようというわけですか。
で、この後も、ダラダラと『武辺咄聞書』の千利休の幽霊の話を紹介し、それでも規定の枚数が埋まらなかったようで、さらに駄文を綴る。
晩年の秀吉は世界制覇の野望にかられ、まずその手始めとして朝鮮半島に兵を送った。秀吉は部下の兵士たちに、朝鮮の人民を殺し、その耳を切り取って持ち帰れば、その数に応じて褒美を出すだろうと命じた。
こいつは、“推敲”ってことをしないのだろうか。部下の兵士たちに ~ その数に応じて褒美を出すだろうと命じた。戦国ゲームの片手間に厨房が書いた作文みたいな文章だな。いや、それよりなにより、耳を持ち帰るということの意味が分かっているのかいな。
当時は戦功の証として、敵の高級将校は死体の首(漢語では頭のこと)をとって検分したが、一揆(兵農分離前の農民軍)や足軽など身分の低いものは鼻(耳)でその数を証した。これをしないのを打捨という。また、運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬、酒漬にして持ち帰ったとされる。検分が終われれば、戦没者として供養しその霊の災禍を防ぐのが古来よりの日本の慣習であり、丁重に供養された。
「Wikipedeia 耳塚」より
朝鮮の人民というのも変な言葉だな。人民とは明治時代に作られた法律・政治用語で、官吏と軍人を除く一般人のことを示す。その後、君主国の国民たる「臣民」に対して共和国の国民を「人民」と呼ぶようになった。中華人民共和国などがその用例である。
秀吉は「朝鮮の非戦闘員を殺して耳を持ち帰れ」と命令したのか? その数に応じて褒美をとらすぞと。酷いもんだね。「嫌日」の歴史学者が書くような文章だ。あ、ひょっとして、そうした人のblogからパクったのかな(笑。
さらに唐沢はこう続ける。
その望みは、ライバルだった徳川家康が大阪城と共に秀頼を滅ぼすことで断たれるが、そのきっかけとなったのは、秀頼が寄進した鐘に刻まれた、“君臣豊楽、国家安康”の四文字だった。
八文字だと思うぞ。
いや「国家安康」の四文字に家康が「家」と「康」を切り離したと因縁をつけたから四文字でいいのだといいたいのかな。唐沢は書き忘れたのか、そのことには一切触れていない。どっちにしろ“君臣豊楽、国家安康”は八文字だ。
しかし、酷いの一言。よくもまあ、しゃあしゃあと連載を続けているものだ。
豪華な執筆者がそろっているこの雑誌、唐沢の連載は足を引っ張っているだけだと思う。
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第44回「世界を変えたサギ的名著」の巻
『ラジオライフ5月号』の特集が「盗み・サギの手口を全部バラす」であることを受けて、トンデモ本の専門家を以って任ずる唐沢は上記のテーマを書き下ろしているのだが。
今回は、こんな文章から始まる。
文藝春秋発行の雑誌『マルコ・ポーロ』が、『ナチ「ガス室」はなかった』という医師・西岡昌紀の記事が元でユダヤ人団体とイスラエル大使館の抗議を受け、廃刊になった事件があった。この記事は、発表されたのがあの阪神・淡路大震災の起こった1995年1月17日であったにも関わらず、日本のマスコミ・アカデミズム界を巻き込む大きな騒動になったので、記憶している方も多いだろう。
これだけの文章にも間違いとガセがある。雑誌名は『マルコ・ポーロ』ではなく『MARCOPOLO』。日本語の表記も『マルコポーロ』である。
問題の記事は「戦後世界史最大 のタブー。ナチ『ガス室』はなかった。」。そして、この記事が載った2月号が発売されたのが、1月17日なのだから当然ながら大震災の陰で「日本のマスコミ・アカデミズム界を巻き込む大きな騒動になった」りはしていない。発売直後に、サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)とイスラエル大使館によってなされた抗議も震災の報道のために話題になることはなく、日本のマスコミが取り上げたのは27日になってから。そして、議論が尽くされることもなく、文藝春秋社は1月30日に『MARCOPOLO』の廃刊、及び花田紀凱編集長の解任を発表したのである。
唐沢はこの後に
果たしてガス室があったかないかについては、読者の皆さんで判断していただきたい。
と、結んでいる。しかし、これに関しては、Wikipediaの「マルコポーロ事件」が詳細に検証している。
ジャーナリストの梶村太一郎と金子マーティン日本女子大学教授が、マルコポーロ事件に関連して「週刊金曜日」(1997年1月)誌上に「『ガス室はなかった』と唱える日本人へ捧げるレクイエム」と題する文章を寄稿し、ホロコースト否定論を糾弾した。これに対し終始西岡擁護の立場にあったホロコースト見直し論者木村愛二は、両者を名誉毀損で東京地裁に訴えたが、地裁は請求を棄却し、逆にガス室の存在を事実として認定したのである。
今、この唐沢の文言「果たしてガス室があったかないかについては、読者の皆さんで判断していただきたい」を、サイモン・ウィーゼンタール・センターに通報すれば、たちどころに唐沢は糾弾されるだろうが、ラジオライフの存続に関わるような事態に発展するのは、わたしの望むことではないのでやめておく。
で、この一連の「マルコポーロ事件」が今回のテーマ「世界を変えたサギ的名著」に関わってくるのかと思ったら、なんと唐沢はこう続けるのだ。
ナチのガス室の存在・非存在が争われた雑誌の誌名にとられた人物“マルコ・ポーロ”という人物が、そもそも果たして存在したかしないのか、その真偽について論争を呼んでいる人物なのだ。そう思うと、この誌名で“あった、ない”論争が巻き起こったのは、ある意味、非常にふさわしかった。
酷い日本語だね(毎度のことだが)。「果たして存在したかしないのか、その真偽」ってどういう意味? 存在したのが真実で、していなかったというのが虚偽だっていうのかね。「論争を呼んでいる」と現在形で書かれているが、そんな論争が成されていたとは寡聞にして知らないぞ。京都大学教授の杉山正明が『東方見聞録』の写本における内容の異同が激しすぎること、モンゴル・元の記録の中にマルコを表す記録が皆無なことなどを挙げて、マルコ・ポーロの実在に疑問を投げかけているが、「論争を呼んでいる」という話は聞かないし。「この誌名で“あった、ない”論争が巻き起こったのは、ある意味、非常にふさわしかった」に至っては妄想以外なにものでもないだろう。
で結局、唐沢の結論は「史上最大のサギ書『東方見聞録』を読む」なのである。「古今東西トンデモ事件簿」と銘打って、お手のものの「歴史上の詐欺事件の数々」を語るのかと思いきや、『東方見聞録』ときましたぜ。しかも、「史上最大のサギ書」と言い切った。その中身は――
まず、話を進める前に『東方見聞録』の百科事典的解説を少々しておこう。
と、文字通り、“百科辞典丸写し”風の文章が約1ページ続き、
ところが、その記述に疑義を唱えたのが、大英図書館の中国部主任フランシス・ウッドという女性だった。
ウッド女史は、『マルコポーロは本当に中国に行ったのか』(1995年。日本では草思社から1997年に翻訳)という本を書いて、幾つかのポイントを指摘し『東方見聞録』は偽書である、と結論づけた。
後はその要約が1ページ半。ウッドの指摘する「マルコポーロの記していない中国の風俗」に「万里の長城」が含まれているなど、ウッドの中国の風俗の理解にも間違いが見られるのだ。例えば万里の長城の築城は秦代および明代であり、明のひとつ前の時代である元代においては、万里の長城が最も荒廃していた時期であるのだが、唐沢は、こう切って捨てる。
「マルコ信者必死だな」というような感想が浮かんでくるような擁護論に聞こえてしまうのが何とも……。
何とも……(笑。
それに、フランシス・ウッドは『東方見聞録』に疑義を呈してはいるが、「“マルコ・ポーロ”という人物が、そもそも果たして存在したかしないのか」なんて議論は全くしていないのだ。
そして、唐沢はこう結論する。
果たして『東方見聞録』は貴重な歴史の記録なのか、それとも稀代のサギ的偽書なのか。少なくとも800年以上に渡り、世界をだまし続けてきたということを考えれば、まさに史上最大級のサギ書といって過言でないだろう。
おいおい、「果たして~なのか」と書いておいて、なんでいきなり偽書・サギ書という結論になるのかね。いっそ『聖書』とか『仏典』に書かれている内容を検証して、「これぞ人類史上最大の詐欺書だ」くらい言って欲しいところだな。そんなことできるわけ無いジャン、と他人の書いた本の要約でお茶を濁すなら、カール・シファキスの『詐欺とペテンの大百科』くらい面白い本を紹介してくれ。
ユダヤの陰謀論なら、昨年末、シオニストに偽装した、マドフ元ナスダック会長の500億ドル(4兆500億円)詐欺事件とか、面白いネタはいくらでもあるだろうってのに。
本当にこの連載、なんで続いてるんだろう。特集以外にも北尾トロの『超越大陸』(今月は姫路城の23分の1スケールを広大な土地に建てた男への取材)とか、今井亮一の『交通裁判ウォッチング』(今月は免許証の偽造で逮捕されたレーシングドライバーの裁判)とか面白い記事がたくさん載っていて、唐沢の『東方見聞録』なんて思いっきり浮いているのに。
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ご都合主義の作者、自分勝手な主人公
裏表紙の惹句にちょっとイヤな予感はしたのだ。
哀愁のラストが待つ絶品サスペンス!
これでハッピーエンドを期待する馬鹿はいないだろう。主人公、もしくは主人公の愛するものが失われる喪失感、簡単に言えば悲劇的な結末なんだろうとは想像がつく。それでも読んだのは、本書の解説で香山二三郎が、再三に亘りロバート・ラドラムの『暗殺者』を引き合いに出して本書を語っていたからだ。二十数年前『暗殺者』の下巻を後少しで読み終わるというとき、非情にも(なんか変だが)新幹線は新大阪に到着してしまい、わたしは改札内にある喫茶店に入りビールを注文して読了した。まさに「一読巻措く能わざる」とはこのことで、ビールをお代わりして読後の余韻に浸る快感は筆舌に尽くしがたかった。
そうした快感が再び味わえるかもと読み始めたのだが。
こんな話。
コンラッド・ハーストは「殺し屋」。カメラマン志望だった青年時代、安っぽいヒロイズムから戦時下のユーゴスラビアを訪れ、そこで恋人アンネケを失う。それがきかっけか、コンラッドは犯罪組織の殺し屋となり、命じられるがままに多くの人間を殺めた。ところが、いかなる心境の変化か、突然殺し屋を辞めようと決意する。そうとなったら、自分の正体を知っている組織のボス以下4人を殺すべきだと判断して、早速殺人計画を実行に移す。早くもヲイヲイである。なんて勝手な奴だよ。金のためとか、主義、信条のためとかならともかく、恋人に死なれて、ヤケクソで人を殺し捲くっていた男が、自己の過去は肯定して新たな道を歩むために4人殺しを正当化するのかい。
実は、この心境の変化の理由がはっきりしない。中途半端な自分探しが理由なのかとも思えるが、そのため読者は、コンラッドに共感できないまま読み続けることを強いられる。
連絡係だった男をあっさり殺し、組織のボス、ユリウス・エーベルハルトに狙いを定めるが、これが全くの別人。コンラッドは、自分が犯罪組織ならぬ別のなにかの命によって殺しを続けていたことに気付く。いや、それに気付いたからこそ、組織を抜けようとしたのだというなら、まだ分からんのじゃないのだが。
ネタバレ ↓
コンラッドを操っていたのはCIA。しかし、ここに登場するCIAの面々は呆れるほど軟弱で無能。4人殺したら殺し屋を辞める決意したはずのコンラッドは、当初の計画には入っていないCIA捜査官を次々にあっさりと殺してしまう。そして、旅先でコンラッドと知り合う、妙齢の女性はフランス対外治安総局のエージェントだったり、CIAの捜査官だったり。しかも、この女たちも、コンラッドの正体に気付いたインターポールの刑事も、決してコンラッドを殺そうとはしない。「ここから歩いていこうとしたら、狙撃手に背中を撃たれるのか?」というコンラッドの問いに、CIAの女性捜査官はこう答える。「CIAはほんとうは立派な、責任ある政府機関なのよ。そんなまねはしないわ」再びヲイヲイだよ。当のコンラッドを騙して散々人を殺させておきながら、よくもまあそんなことが言えるよなあ。結局コンラッドは無事で、なんというご都合主義だろう。
↑ ネタバレ
惹句に偽りはなく、確かに「哀愁のラスト」は待っているが、それが哀愁なのも総てはコンラッドの身勝手さのせいなのだ。作者はこのラストが書きたくて(気の利いたドンデン返しだと思ったのだろう)この小説を書いたのではないか。つまり途中の部分は単なる枚数稼ぎ。そりゃあご都合主義にもなるだろう。ところが残念なことにこのドンデン返しもさほど面白くない。「哀愁」というより「間抜け」といった方がいいような代物なのだ。
一つ笑ったこと。
わたしに限って言えば、外国人の登場人物の名前は、著名人の名前を組み合わせて創作している。例えば『白菊』に登場するロシアの芸術家、ゲンナジー・ポントリャーギンという名前は、読売交響楽団の指揮者ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーと数学者レフ・セミョーノヴィッチ・ポントリャーギンの合わせ技である。
本書の冒頭でコンラッドに殺されるドイツ人の老人の名前が、ハンス・クレンペラー(作者はベルギー人)。思わず苦笑しちまった。だって、ドイツ人のハンスときたら、アメリカ人のジョン、フランス人のピエールみたいな陳腐な名前、クレンペラーはニュー・フィルハーモニア管弦楽団の名指揮者オットー・クレンペラーからのいただきだろう。同じようなことやってるなあ、と思って読んでいたら、こんな台詞が出てきた。
「ハンス・クレンペラーの自殺の件についてお話がしたいのですが」
「どこかの作曲家のことですか。それとも指揮者だったかな?」
やっぱり(笑。
これで、『暗殺者』を引き合いに出しちゃ不味いでしょう、香山さん。
『コンラッド・ハーストの正体』
ケヴィン・ウィグノール 松本剛史 訳 新潮文庫 2009
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『ちはやふる』
過去2回のエントリで紹介させて戴いた、末次由紀の『ちはやふる』が、マンガ大賞2009の大賞を受賞しました。そうだろうなあ、とてつもなく面白いもの。おめでとうございます。末次さん、不幸な過去をふっとばして、ますます面白いマンガを発表して下さい。
マイミク安部夜郎さんの『深夜食堂』も4位に入賞いたしました。こちらも面白いよ。
日経トレンディネット
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ということで、ゲラチェックをなんとか完了させる。引越しのドサクサでなくなったりしたらエライことなので、近くのコンビニから創元社に送付。こんなこともメールで出来る様になると有り難いんだけどね。
明日、明後日は搬出、金曜日が搬入。その間、どこで寝るのかとか、どこで飯食うのかとか、光ケーブルの工事が入るからテレビだけ先に搬入せねばとか、定期はどうするとか、転入が終わったら免許証の住所変更もしなければならないし。後、もう一山。
しかし、何年かぶりの多忙な日々であります。
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常識だと思うんだけど
ちょっと見辛い写真で恐縮ですが、「日々是好日乎」3月11日のエントリで書いた、創元社の原稿のゲラです。上がゲラで、鉛筆や赤で細かい直し、疑問点などがびっしり書き込まれています。下の右側が登場人物の一覧表、1回きりでも登場した人物の名前、特徴、設定がメモされ、矛盾点等が生じないようにされています。左が、漢字表記の一覧表で、例えば「かもしれない」と「かも知れない」の2種類の表記があった場合、統一を指示されます。どの表記が何ページに存在するのかが一目瞭然です。この二つは各々数ページあります。過去3回の出版のときも同様でした。
そんな経験から、唐沢俊一の著作に、誤字、誤植と並んで表記の不統一がしばしば見かけられる、その理由がちょっと理解出来ないのです。以前その点について言及したら、2ちゃんねるに「校正はいちいちそんなこと言ってこない」とか「表記は作家が決めることで口出しなんか出来ない」とか、さも自分は出版の事情通だといった口調の書き込みがありましたが、唐沢の本を出版する出版社総てが、そんな杜撰な手法をとっているのでしょうか。因みに、わたしの場合は角川も徳間も講談社も、同じ手間をとって作品の質の向上に努めてくれました。
さらに、例えば唐沢の著作『近くに行きたい』は講談社から出ていますが、その中の「トーマス・マンの小説を読むと、主人公がしょっちゅう避暑にいくのに呆れる。『魔の山』も『ベニスに死す』も、避暑地の話である」なんていう出鱈目な文章が、なんで校閲でひっかからないのでしょうか。講談社の校閲は非常に厳しかったという記憶があります。
まさか、校閲者からの指摘に対して「おれは雑学の神様だぞ、ガタガタ言うな!」と言ってはねつけたのでしょうか。それとも、あまりのガセの多さに校閲者が己の職務を放棄したのでしょうか。
いずれにしても、常識的な出版の流れからは考えられないことなのです。出版社が誤解されないようにと思い、ちょっと書かせてもらいました。
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見事な失敗作
はいはい、諸般の事情により今頃読みました。
本好きで古本屋好きでミステリ好きな小生が、なんで今まで読まなかったんだろう。読まなかったけど、なんか気難しい古書マニアが何人も登場して、“グーテンベルグの聖書”とか、シェークスピアの初版本とか、巨大な革表紙の博物事典に挟まれて圧死する学者とか、そんな小説を漠然と想像していた。
でも、全然違うのね。
現代のアメリカ、デンバーで、古本の掘り出し屋が殺される。日本でいえば、100円均一の棚からお宝を探し出して、何万円という価格で売り飛ばす生業。で、それを捜査する警官が、これまた古書マニアで被害者のこともよく知っているという設定なんだが。
これから、ボロカスに貶すので、まず、面白かった点について書こう。
一つは、アメリカではミステリの初版本に、結構良い値がつくことだ。ポーの第一詩集『タマレイン』が25万ドルなんてのは、なるほどなあって感じだけど、キングとかトマス・ハリスとかちょっと古いけど、ガードナーとかロバート・ブロックとか軒並み数万円で取引される。ロスマクとかクリスティの初版本はさらなる稀覯本なのだそうだ。
もう一つは、アメリカの作家って、同業者や出版社をボロカスに書いても、出版してもらえるってこと。キングも作品によりけりだけど、クーンツとかクライブ・バーカーは貶し捲くるし、《リーダーズ・ダイジェスト》のコンデンスト・ブックに至っては「犯罪的なくらいおつむのたりない人間のために出版されている」。凄いなあ。
で、作品自体なんだが。タフで古本マニアの警官が主人公。タフな警官の話を書くか、古書マニアの話を書くか、迷った末に混ぜたんだろうなあ。混ぜるな、危険だよ、本当に。
主人公の発言、行動、全く共感が得られないし、主人公とヒロインの関係も、餓鬼みたいというか情けない。主人公の恋人は途中でいなくなるし、警官を馘首になった主人公のもとに、可愛くて賢くてやる気満々の女の子が「雇って」と登場するのもご都合主義。しかも、この女の子かなり重要な登場人物なのに、登場人物表にも書かれていない。ひょっとして、別の誰かなんじゃないのかなんて邪推しちまった。
とにかく主人公は事件を解決したいのか、稀覯本を探し出したいのかよく分からないし、なにより、さっぱり働かないから、事件はなかなか解決しない。
最後のある人物の一言が、まさに最後の一撃なんだが、もうどーでもいいよ状態になってるから、全然ショックじゃないんだよね。
この本、「このミス1997」の海外部門の一位なんだって。
信じられないね。
『死の蔵書』ジョン・ダニング 宮脇孝雄 訳 早川書房 1996