|
|
(書き方が紛らわしいけれど、
これはイオタ・ローさんに対するものです。)
アヴェ・マリア!
イオタ・ローさん。
彦左衛門さんは次のように仰っておられます。
> 相手に対して、言論上厳しい判断をぶつける事は、
> 直ちに相手を憎んだり、その人格を否定することには
> ならないんじゃないでしょうか。
私は、これに同意します。
けれども、言葉には常に「見かけ」というものがあり、
私もこの点「反省しなければならない」と思っている今日この頃です。
また、こうも。
> その同じイエス様が、パリサイの徒や律法学士には、
> 極めて厳しい批判、いや、罵倒、呪詛と言ってもいい言葉を投げつけている
これに関連して私が思い出すこと。
聖ピオ十世教皇様は、近代主義者達に対して「柔和に応ずる」ことを
願ったある人に対して、次のように鋭く言い返したそうです。
「親切など愚か者のためのものだ! 彼らは香油と石鹸と愛撫を
もって扱われるのを望むが、拳で叩かれるべきなのだ!
人は決闘では打撃を数えたり測ったりせず、ひたすら打つ!
闘いは慈悲をもって行われず、それは取っ組み合いの決闘である。
もしわれらの天主が恐ろしい方でなかったなら、
天主は今迄も例を作ることはなかっただろう。
しかし、天主があの誤謬を蒔き散らす者、羊の衣を着た狼、
神殿における裏切り者であるペリシテ人をどのように扱ったかを見るがよい。
天主は彼らを鞭をもって罰したのだ!」
しかしまた、イエズス様は最後にはこう仰っています。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは自分らが何をしているのか、
わからないのです。」(ルカ 23:34)
このことも、心のどこかには置いておきたいものです。
そして、イオタ・ローさんのご感想にも、私達は、
素直に耳傾ける部分が必ずなければならないと思います。
けれども、イオタ・ローさん、
「言い訳」に聞こえたらいけないけれども、
一つだけ言えば、次のようなことが確かに言えます。
「神の信者たちほど、悪魔によって憎悪を『煽られる』人達はいない。」
現実的なことです。
求道中の人にこんなことを言うのはアレですけれどね。
悪魔が何処かのガソリン・スタンドの敷地に立っている訳はないんです。
悪魔が何処かに立っているとすれば、それは必ず神の教会のそば、
そして、神の信者たちのそば(中でも、熱心な者たちのそば)なんです。
これを「オカルト的発想で嫌だワ。気持悪いワ」と言う人もいるのですけれど、
「悪魔が居るとすれば必ずそうするだろう」という類推は、
頭で考えても、筋の通ったことです。
煽られるのは憎悪ばかりではありません。
高慢(自分にある種の権威を一種「微妙なかたちで」感じていたい、
そして、それを保ち続けたい)、
偽善(自分を偉く見せたがる、自分を愛深い人間に見せたがる、
自分の霊魂を綺麗に見せたがる)などの悪徳も、
非常に煽られます。
イオタ・ローさんが幸いな求道をされますように。
http://gokyo.ganriki.net/index.html
|
|