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【土曜訪問】

『責任』考え『連鎖』伝える 戦争を問い続ける 井出孫六さん(作家)

2009年8月15日

 同じ戦争の敗戦国なのに、ドイツと日本では戦争責任に対する国際評価が大きく違うのはなぜだろう。

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 中国残留孤児の歴史をあぶりだしたルポ『終わりなき旅』をはじめ『抵抗の新聞人 桐生悠々(ゆうゆう)』『非英雄伝』など一連の著作で、歴史の隠れた側面を照らしてきた作家の井出孫六さん(77)は今年五月、その理由を探りたくてドイツを旅した。

 訪れた都市の一つ、ニュルンベルクは第一回ナチス党大会の開催地。第二次大戦で街の九割が空爆で破壊され、戦後はナチスの戦犯が裁かれる軍事法廷の場となった。復興が進んだ街の中に「世界人権宣言の道」という名の遊歩道があり、その三〇条を各国の言葉で刻んだ石柱が目に留まった。ドイツ人だけでなく、この街に来た世界中の人が目にする石柱から、ナチスがしたユダヤ人迫害や人種差別政策について、世界に謝罪する気持ちが伝わってきたという。

 それに対して東京はどうか。「極東軍事裁判が行われた旧陸軍士官学校は建物の一部が復元され、市ケ谷記念館という形で残るが、戦争の責任について考えたり、謝罪の気持ちを伝えられるような場所になっていない」。日本には戦争加害者としての側面を世界に発信する場所が少ないことが、ドイツとの大きな違いになっていると感じた。

「原爆が投下された広島、長崎、地上戦があった沖縄などで大きな犠牲者が出たことを語り継ぐことも大切。その一方で、日本が戦争の加害者であったことも忘れてはならない。そうした姿勢を示さないと、世界から信用されない」

 長野県臼田町(現・佐久市)生まれ。大学卒業後、高校教諭や中央公論社勤務を経て、三十七歳のときに『秩父困民党群像』で作家デビュー。明治初期の画家で陸軍測地部の幹部だった川上冬崖(とうがい)の死の真相を描いた『アトラス伝説』で一九七五年に直木賞受賞。史実をたどる作品を手掛ける中、八〇年代に中国残留孤児・婦人の問題に取り組んだ。

 満州事変から太平洋戦争にかけて、長野県からは中国大陸の旧満州や内蒙古に多数の人が入植。戦後の混乱で日本に戻れず、多くの子どもが孤児になった事実を悲しみ、八一年から始まった中国残留孤児の訪日調査の会場で毎年、孤児たちに親と生き別れたときの話を聞いた。「日本語を忘れないように毎晩、童謡『故郷(ふるさと)』を歌った」と話す姿が目に焼きつき、残留孤児の話を八五年に雑誌『世界』に連載。翌年、『終わりなき旅』(大仏次郎賞)にまとめた。

 これまでに多くの残留孤児たちが帰国したが、高齢化や病気、低所得のため、暮らし向きの苦しい人が多い。後を追って来日した孤児の二世三世への支援も薄く、苦難が連鎖している。こうした現状を伝えるため、井出さんは今も全国各地を講演して回る。「孤児の問題は過去だけの話ではなくて、現在の問題でもある。戦争は戦時中だけでなく、戦後も多くの人たちの人生を狂わせる」

 ふだんは東京・府中で暮らす井出さんだが、夏の間は三十年前に買った、郷里に近い長野県茅野市の小さな別荘で過ごす。取材で訪ねたとき、『八月十五日ぼくはナイフをすてた』(九八年刊)を見せてくれた。戦況が厳しくなった一九四五年、当時旧制中学二年だった井出さんの体験をつづった児童書である。

 物語は、兄が思想犯として拘束されている井出少年が、内申書と口頭試問のみの中学入試に苦慮する姿から始まり、“神国日本”を信奉する中で終戦を迎え、揺れ動く気持ちが描かれている。

 戦時中は軍事教練や勤労動員に追われたが、敗戦後、教師の指示で日本史の教科書を墨で塗りつぶしたときに無力感に襲われた。自分や人々を抑圧した戦争は何だったのか。それが作家となる原点となった。「弱い立場の人の思想が弾圧されたり、心の自由が奪われることが許せなかった」

 六月に四年間務めた映画倫理委員会の委員長を退任して時間に余裕ができ、新しい著作の準備を始めようと思っているところ。

「私の身近にいる九十代の高齢者で、ずっと話せなかった戦争体験を最近になって語り始めた人がいる。その中の一人は出征した中国で捕虜を殺した体験がある。何かを伝えずには死ねないとの思いに駆られたのでしょう。貴重な話を聞き、文字にして残したい。それが文字とかかわり生きてきた私の責務だと思うのです」 (紙山直泰)

 

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