2009年05月27日

「シネマの街角」〜硫黄島からの手紙〜

クリント・イーストウッド監督の「硫黄島」2部作。
最初に公開された「父親達の星条旗」も封切り間もなく観て来た。

「硫黄島」という戦場は、アメリカでは“教訓”として用いられる。
5日間で完全制圧という作戦は、36日間を要し、予想を遥かに上回る犠牲を出してしまう。
そのアメリカの作戦を狂わせたのは、硫黄島指揮官として赴任した栗林忠道中将(渡辺謙)の作戦変更にあった。
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栗林中将赴任前の硫黄島日本軍守備隊は、波打ち際殲滅戦法をとるため陣地を構築していた。
だが、硫黄島に赴任した栗林は、陸上の陣地をすべて放棄。
地下縦横にトンネルを掘らせ“出血持久戦”をとる。
栗林はアメリカに武官としての赴任経験を持ち、アメリカの強さを知っていた。
硫黄島での勝算はない。だが、この島を一日でも長く守ることが祖国を一日でも長く守ることになる。栗林は部下に激命する「玉砕は禁ずる!最後の一人まで硫黄島を守れ!それが祖国を守ることである」。
栗林が造り上げたのは、硫黄島という名の要塞島だった。

「硫黄島からの手紙」すでに観ている方が多いだろう。
秋草鶴次という著者の「十七歳の硫黄島」という書籍がある。
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映画では硫黄島の栗林中将を中心に描かれたが、この書籍では一人の少年兵が経験した地獄の硫黄島が綴られていく。
それは著者秋草鶴次本人の体験であり、「十七歳の硫黄島」は‘06年、文春新書から発刊されるまで未発表だった。
秋草氏がNHK「兵士達の証言」に出演されたのを観ているのだが、著者は誇大な量の書き溜めた資料と、硫黄島生存者への日米を超えた取材に時間を費やし、一冊の本になるには長い年月を要していた。

映画の最後。
硫黄島北部陣地に追い詰められた栗林中将は「常に魂は皆と共にある!」敵陣へ最後の夜間突撃を決行し散華する。

「十七歳の硫黄島」の最後は栗林中将の戦死が最後ではない。
日本軍硫黄島守備隊の多くが生き残っていた。
米軍は投降した日本兵をたて、抵抗を続ける残存兵力に投降を呼びかける。
「私は陸軍第八守備隊の三沢伍長だ!アメリカは君らの命を奪ったりしない!飯も水もある!みんな出て来てくれぇ!」
丸腰のアメリカ兵と共に投降を呼びかける。
だが、玉砕も投降も禁じられていた多くの日本兵が、投降勧告を無視してしまう。
著者は述べる。
「隠れている洞窟の奥から、爆発音が聞こえる。そして爆発音の前には必ず、お母さん!とか女房とか、恋人の名前が聞こえるんだ」
食べるものどころか水さえない。まして銃弾も残っていない。
僅かに残った手榴弾で、みんな自決していく。
何人かは米軍の投降勧告に応じ、洞窟から出て行ってしまった。
しかし、十七歳の少年兵には命令に逆らい生き残ることは出来なかった。靖国で会えるじゃないか・・・最後に。
負傷した体で少年兵は洞窟から這い出し、もう一度島と海を見ておきたかった。
「な、なんだ・・・」
海上がアメリカの戦艦に埋めつくされているのは分かっていた。
だが、島には幾つも米軍の陣地が築かれ、日本軍が立て篭もっていたはずの洞窟陣地はブルドーザーで埋められ、平らに整地されていた。
「生き埋めにされたんだ・・・」
一発の手榴弾を握った少年兵は、意識を失ってしまう。
彼が気付くのは、サイパン島の米軍基地野戦病院の寝台の上になる。

「父親達の星条旗」では、硫黄島に上陸した米軍は戸惑う。
彼らが想像していたのは、Dデイ、ノルマンディー上陸作戦のドイツ軍だった。
猛烈に襲い掛かる機銃掃射。
だが、上陸作戦は一発の反撃もなく終了してしまう。
「日本軍は、いないんじゃないか?」
彼らは慎重に島へと進軍を開始する。250px-H-hour_at_Iwo_Jima%2C_NH65311%3Bfig15.jpg250px-Iwo_Jima_amtracs.jpg

日本軍の機銃は、彼らが射程に入るのを息を殺して待ち受けていた。
擂鉢山の大砲陣地は揚陸される戦車部隊に照準を合わせた。

一斉に日本軍の砲火が咆哮を挙げた!
飛び散る米軍兵士。何万という米軍歩兵は進むことも退くことも不可能になった。
「父親達の星条旗」では、日本軍は誰も顔を出さない。
日本軍は、その銃火と砲火としてだけ描かれる。まさに、それは悪魔だった。
擂鉢山頂上に星条旗を揚げろ!
だが、星条旗は再び日本軍の手で破られる。
三回目の挑戦で星条旗は擂鉢山に翻った。
その光景を収めた一枚の写真。48295fe8.jpg
アメリカ政府は、その写真を利用し、厭戦的世論の誘導に乗り出す。
「星条旗を揚げた兵隊を全員硫黄島から呼び戻せ」
彼らは硫黄島の英雄として、全米各地を戦時国債販売に駆け巡ることになる。
「俺は、英雄なんかじゃない!硫黄島の英雄は、みんな死んでしまったんだ!俺は・・・俺は、戦友を残して帰ってきた負け犬に過ぎない!」
硫黄島の英雄は、深い苦しみに沈んで行く。

「硫黄島からの手紙」悪魔の日本軍の素顔が描かれていく。
栗林の作戦に承服せず、最期は玉砕を主張する伊藤中尉(中村獅童)は一人米軍戦車を求め地雷を胸に、戦死者の群れの中に横たわる。
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だが、待ち受ける戦車は一向に現れなかった。
「俺は・・・何のために・・誰のために死のうとしているんだ・・・」
伊藤の胸に拭いがたい想いが溢れた。

西竹一中佐(伊原剛志)。1932年ロサンゼルスオリンピック馬術の金メダリスト。
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彼も砲術隊隊長として硫黄島に赴任していた。
アメリカという国を愛し、ジャズを愛する通称バロン西。
伊藤中尉が捕らえた負傷したアメリカ兵捕虜。恨みを晴らすとでもいうように伊藤は捕虜を惨殺しようとする。
「許さん!」西は捕虜に対しての条約を守れと手を出させないばかりか、部下と共に治療に当たる。
「あなたは?」目を負傷した米軍歩兵は西の英語に驚き訪ねる。
「あなたは、アメリカを知っているのか?」
「あぁ・・・ロサンゼルスのジャズバーでは常連だった」
「ロス!?・・・僕の故郷です」
「そうか、この戦争が終ったら帰れるさ」
「えぇ・・・その時は、あなたを我家に招待させてください」

だが、西は米軍の砲撃で両目を負傷してしまう。
「いいか、この軍刀で介錯してくれ」
死ぬことを許さず、部下の命を守った西は自決の道を選んだ。

「バロン!バロン西!出て来てください!我々は貴方を客として迎えます!どうか出て来てください!間もなく一斉攻撃を加えます!西中佐!バロン西!出て来てください!」
ロサンゼルスオリンピック金メダリスト西竹一をアメリカ人は知っていた。
「西は出て来ないのか!?」米軍指揮官も最後まで攻撃命令を待っていた。
だが、西竹一は自決してしまう。250px-Ronson_flame_tank_Iwo_Jima.jpg



日本の最終防衛ラインは、サイパン、グアムだった。
だが、ミッドウェー海戦謎の敗北後、その最終防衛ラインは米軍に奪還され、ついに本土である硫黄島が絶対防衛圏となっていた。
テニアン島を奪取した米軍は、大型獣爆撃機B−29の爆撃圏内に日本を収めたが、硫黄島を手に入れることによって護衛戦闘機の随行が可能になる。
すでに南方諸島が米軍に渡った時点で、日本には間違っても勝利はなくなっていた。
ミッドウェーの敗北で連合艦隊は有名無実といって差し支えない。
実際、硫黄島で栗林中将が必死の戦闘を繰り広げる間、本土からの援軍支援はなく、硫黄島を“捨て駒”とした公文も発見されている。
後に続く、戦艦大和の沖縄海上特攻作戦も同様だった。
当時の無能な軍部と、非力な文官のもたらした悲劇なのだが、何故アメリカが原爆の使用まで終戦に持ち込めなかったのか?
日本列島は裸の殿様だったのである。
アメリカは既に戦後の世界勢力図の優位な展開に取組んでいたのだろう。

「硫黄島からの手紙」に、それまでのアメリカ戦争映画には描かれたことのないシーンがある。
一兵卒、清水(加瀬亮)は勝ち目のない戦場を仲間と抜け出し米軍に投降する。
彼らは米軍兵にタバコを与えられ「よかった・・・これで生きて帰れるかもしれない」。

「どうするんだ?」米軍歩兵は投降してきた日本兵を見詰めていた。
「また、すぐに攻撃命令が出る。奴らは捕虜じゃない、夜間襲撃をしてきた日本人だ」
清水は米軍兵に射殺されてしまう。
今までのアメリカ戦争映画では絶対に描かれないシーンだ。


硫黄島の戦い、日本守備隊20,933名、内戦死者20,129名。
米軍 戦死者6,821名 戦傷者21,865名。
硫黄島には現在でも13,000余りの遺骨が眠っている。
現在は米軍と自衛隊が共同管理している。

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東京から南に1200km。
その200km北には小笠原諸島がある。
悲惨と言うよりも残酷な時代。
生まれなかったことに感謝し、悲劇の渦中に人生を閉じた若者を忘れてはいけない。


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By初代フサフサ映画
posted by フサフサU at 19:40| 神奈川 雨| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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