本人いわく、弁護士の書生→中央大法学部→ヨーロッパヒッピー生活→美容師→美容学校教師という変わった経歴であった。 それを信じなくとも、その後まもなく美容学校教師を辞して、演歌歌手→ソロ舞台→吉本難波花月出演と変わった人生を歩んだ人である。
ジイサンにあった頃、22歳の私はスタイリストデビューをして間もない頃であった。 一応ヘアカットはできるものの、今の若者と同じように迷いと選択を繰り返し、見えない将来への不安をいつも抱いていた。
私の横に座っていた担任がジイサンに美容師としての私の将来を聞いた。
「ええなぁなかなか、美容師に向いとるな。」
ジイサンがそう答えると、担任は少し驚いたような表情をした。
大学浪人に失敗して美容学校へ行った私のことを、担任は心配していた。 校内コンテストの数日前に私の実家へ泊り込みで教えに来たにもかかわらず、私は入賞すらできないでいた。 手先の不器用さに、将来への不安を持っていた様子である。
「30代は特にええなぁ。 大阪でもまあまあのこと行くで。」
26歳の誕生日を迎えてすぐに、私は渡米した。
ジイサンの言葉を励みに苦手であったワインディングコンテストでも西日本で準優勝し、東京へ行って2年を過ごした後のことだった。
31歳には全米ヘアカットのチャンピオンであった茂木氏とサロンを共同経営し、各国の雑誌にも紹介された。
35歳で日本に戻り、全国を講習で回り、香港のカラーショップも任された。
ジイサンの言ったように、30代の私の美容人生はバラエティに富んでいた。
「40からは・・・・・」
ジイサンは何も言わなかった。
絶句したように、ジイサンは黙った。
私にはどうでもいい遠い将来のことだった。
22歳の自分にとって、自分が選んだ職業が適職で、良い結果を出せることがわかっただけで、十二分だった。
ジイサンの霊視もだいぶ時間が経ち、担任は礼を言って私と一緒に帰途についた。
担任はまたジイサンに会う予定があるので、私のことを聞いておくと約束した。
つづく