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まるで記憶の風化への警告のようだ。竹原市大久野島沖の海底から、旧陸軍の毒ガス弾かもしれない金属塊が引き揚げられた。終戦から64年を迎えたきょう、戦争は決して過去のものではないことをあらためて感じる。
先の戦争で命を落としたのは300万人。アジアの国々では2千万人を超えるともいわれる。日本の戦後は、無謀な戦争への謙虚な反省から始まったことを思い返したい。
政権交代をかけた総選挙の陰に隠れているためか、いつもは8月になると活発になってくる戦争をめぐる議論が、今年はどうも低調に思える。
その中で目立つのが前航空幕僚長の田母神俊雄氏だ。「わが国が侵略国家だったというのはぬれぎぬ」との論文を書いて職を追われた後も、日本の核武装などを唱える。戦争は外交の「交渉事」で、必要悪であると主張する。
多くの犠牲の末に生まれたのが武力による問題解決を禁じた憲法9条だ。核武装論は、憲法に触れるおそれがあるだけでなく、現在の日米関係などから考えれば現実的でもない。
それでもこんな論法に、うなずく人もいるようだ。戦争がどれほど多くの人々を肉体的に、精神的に苦しめるのか。その実感がないだけに、つい勇ましい論に耳を傾けてしまうのだろうか。
政府・与党にも、似た雰囲気を感じる。官邸が設置した懇談会は今月、報告書を麻生太郎首相に出した。集団的自衛権を禁じた憲法解釈の変更や「武器輸出三原則」の見直しを求めている。北朝鮮の核問題があるにせよ、あまりの性急さには危惧(きぐ)を覚える。
かつては安全保障をめぐる議論の根底には「戦争の教訓」があった。自衛隊を海外に派遣していいか。米軍にどこまで協力するのか。自らの従軍体験を踏まえ、歯止めになろうとする政治家は与党側にもいた。今は与野党を問わず、机の上だけで戦争を語っているようにも見える。
二度と戦争は繰り返さない。当たり前だった国民の共通認識すら薄らいでいるのかもしれない。しかし戦争の時代を生き抜いた人たちの体験は、まだ十分に聞ける。語り継ぎ、聞き継ぐ意味はこれまでになく増してこよう。
廿日市市の熊川賢さん(77)は今年、31人が戦争体験をつづった手記集を出版した。呉空襲を生き延び、父をルソン島で失った自らの記憶も添えた。
あのころ何を食べ、何を着て、どう傷つき、どう死んだか。「それがほとんど知られていない」との危機感からだという。
足元の戦争被害も、もっと掘り起こしたい。尾道市因島では戦後60年たって、多数の犠牲者が出たともされる空襲の聞き取りが始まっている。
「忘れまい」とする意志が、戦争の歯止めになる。家で、近所でおじいちゃん、おばあちゃんからじっくり話を聞いてみる。きょうはそんな日にしたい。
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