31(SAT)
30(FRI)
楽しいんですよね、と書いてみたものの、プレイしている間はなんだかんだで怖くて仕方がなかったりもしましたね。バイオハザード4。リヘナラドールとか、ほんと、ああ言うのはやめた方がいいと思う。
29(THU)
先日から遊んでいたPS2版バイオハザード4をクリアしました。これはおもしろかったですね。なまじ発売までの経緯(例のゲームキューブ独占撤回宣言とか)を知っているだけに「完成度が低そうだなあ」と侮っていたのですが、今まで遊ばなかったことを深く後悔させられました。なにしろボリュームとクオリティがすごい。遊んでいると開発者の苦労がひしひしと感じられて心苦しくなるほどです。
ただ、なんとなくですけど、全体的に掴みどころのなさみたいなものは感じますね。掛け値なしにおもしろいんだけど、おもしろさの核がないと言うか。とにかくおもしろいのに、それを人に伝えようと思った時に「おもしろいよ」としか言えない自分がいることにはたと気が付かされる。自分が何をおもしろいと感じたのか、うまく言語化できないんですよね。それがちょっと不満と言うか、気掛かりな点かなと思いました。どんなものかは忘れてしまったけれど、「それを見た」と言う感覚だけはしっかりと残っている夢のような感じですね。
そう言うわけなので細かい点を評価するしかなくなるわけですが、効果音がすごく良かったなあと思いました。存在感があると言うか、大抵のゲームの効果音って「演出」としての役割しか与えられてませんが(アインハンダーはそうしたゲームのひとつですね)、このゲームではそれがしっかりと「情報」になっている。ある程度プレイすれば、少し立ち止まって周囲の音を聞くだけでどこにどんな敵がいるか大体把握できるようになります。そうした「索敵」で得た情報によってその後の行動を決める感覚はなかなかリアルで楽しいと感じました。もっとも、どれだけ綿密な計画を練っても、大抵はエイミングで失敗して途中からパワープレイのごり押しになるんですが。でも、咄嗟の時の判断力を試されるようで、それもまた楽しいんですよね。
28(WED)
27(TUE)
26(MON)
25(SUN)
24(SAT)
23(FRI)
22(THU)
コレ、すごいですね……。で、何がすごいって、これがPS"2"のゲームだと言う…………み、見せ方次第だと思うんですよね! これと同じカメラワークでゲシュテルとか写したら、きっと同じくらいに……うん……。
それにしても、見ていて思うのは、あちらの開発者はものすごく日本のゲームのことを勉強しているなと。この動画の中だけでも日本のゲームに由来を見出せるような要素が何個もありますよね。それも取って付けたようなやり方じゃなくてオリジナリティにまで昇華させられている。明示されたボタンを押すことで派手なアクションが繰り広げられるとか、それこそ日本のゲームにもいくらでもあるけど、このゲームではそれが――なんて言うか、言葉を失ってしまうほどぶっ飛んだゲームデザインになってますよね。多分、ある種の人はこのゲームを見て「グラフィックだけ」と鼻で笑うと思うのだけど、自分はですが、このゲームは十年後も、二十年後も一定の評価を受け続けるだろうと思います。それもグラフィックに対してではなくそのゲームデザインに対してですね。すばらしい。ぜひ、今すぐにでも遊んでみたいな。(補記:あー、クソ楽しそうでむかつくなー!)
21(WED)
20(TUE)
なんか昨日の日記はお金を掴まされて書いたブログの宣伝文章みたいな絶賛ぶりですね。「倒すのがもったいなくなっちゃいますよね。アインハンダー、6,090円、ご購入はこちらのアマゾン(※アフィリエイトです)からどうぞ」みたいな。
ところで、ゲシュテルと言えばグラディウス外伝のヘビーダッカーとの類似点に触れずには置けない。地雷と画面奥からの射撃との同時攻撃とか、偶然にしてはできすぎてるよーな気がしますが、元ネタとかあるのかなあ。両作品は発売時期が近いだけに開発者の交流があったのだろうかとかいろいろと想像してしまいますよね。
あとヘビーダッカーはフロントミッション3のレトリーバーとも似てるけど、これはさすがに偶然だろうな……。
19(MON)
わー、なんだかんだで一週間掛かってしまった。更新最速記録を目指してみたんですが。例によっていろいろ端折って書いたので、「よくわからないよ」と言う場合はお知らせくださると幸いです。
ゲシュテルはいつもガチガチのパターンで撃墜するんで今回じっくりと戦ってみて「こんなに表情豊かなキャラだったんだ」と改めて驚かされましたね。もう見れば見るほど「愛情注がれてんなあ!」って思わされます。ここまでシームレスに動くキャラってPS2世代はおろか最近の次世代機のゲームでもそうお目にかかれないんじゃないだろうか。倒すのがもったいなくなっちゃいますよね。「ゲシュテルと遊ぼう!」みたいなミニゲームとかあると良かったのになあと思いました。
18(SUN)
17(SAT)
16(FRI)
Shigeru Miyamoto "A Creative Vision" Keynote at GDC 2007をなんとなく見たんですが、どうなんでしょうね、ちょっと啓蒙的な傾向が強くて、会場の聴衆も反応に困っているような場面がちらほらと見られたような。内容自体はまあまっとうな主張で一貫しているし、逆に考えればそうした聴衆とのギャップは宮本茂氏の先進性の表れなんだとも受け取れますが。
関係ないけど、宮本茂ってなんか食堂のおばちゃんみたいな雰囲気がありますよね。割烹着とか似合いそうだなあ、とビデオを見ながら思ったりしました。着せてみたいんだ。
15(THU)
……こ、これいいなあ! カップリング曲とか追加してCD化しないかな。絶対ほしいですよね。
14(WED)
PCで作業をやりながらBGMとしてMega Man 2 NES Speed Run(YouTube)を裏で動かすのだけど、なかなか具合がいいですね。他のシリーズとなるとやっぱり好き嫌いとか出るけど、2はそう言うのがまったくないよーな気がします。
それにしても動画の方もすごいですね。ため息がもれてしまう。それで見惚れて手が止まってちゃ意味がないけど。
13(TUE)
12(MON)
なんかあまり自信ないんですが、とりあえず五面前半の攻略をアップしてみました。またあとでいろいろ修正するかも。間違いなんかがあればお知らせくださると幸いです。
最高倍率のところがいつになく突き放した説明になってますね……詳しく書きたいんだけど、文字びっしりになったら読み辛いと言うレイアウト上の欠陥がありますからねえ。自分が悪いんだけど。あと、アインハンダーをプレイしたことがない人が読んだ時に「難しそうなゲームだな」と敬遠されないような内容を目指していると言うのもあります。マニアックな内容はここや掲示板の方でいくらでもフォローできますからね。
マニアックな内容と言えば例のクレーンの破壊方法ですが、自分はライオットとワスプを使います。ライオットを上にして適宜発射しながら下ワスプを乱射。クレーンの動きにタイミングが合えばこれでなんとか破壊できます。破壊できなくてもペナルティはまったくないのでいつも運試しみたいな気持ちで挑戦してますね。極めようとすれば事前にライオットを破壊して通常弾を使えばいいかもしれない。もっとも、そこまでするリターンもまったくないんですけどね。
11(SUN)
10(SAT)
9(FRI)
とあるゲーム関係の特集記事(リンク禁止だそーで、残念ながらご紹介できません)に「ゲームも科学技術の一つに過ぎない」と書かれていたのだけど、そうなんでしょうか? 自分は幼い頃からゲームで遊び、またその情報にもたくさん触れてきましたが、そうした定義は初めて知りました。
昨日の記事もそうですが、最近はゲーム=技術みたいな論調でゲームを語られることが多くてちょっとうんざりさせられますね。ゲームには科学技術の側面もある、と言う慎重な論調ならまだしも「科学技術に過ぎない」と断言されると「なんだかな」って首を傾げたくなります。遊び方を押し付けられるみたいで窮屈ですよね。
8(THU)
西川善司の3Dゲームファンのためのグラフィックス講座 〜「CRYTEK CRYENGINE2.0」GDC 2007特別編〜 屋外の自然表現にこだわったリアル系グラフィックスマジックの秘密(GAME Watch)、こう言うのを読んでいて思うのだけど(この記事は全然読んでなくて見ただけですが)、結局のところグラフィックスのボリュームを出すためには現実を忠実にシミュレートするのが一番と言うことですよね。
その過程で、仮に現在判明しているあらゆる自然法則を正確にシミュレートできたとして、それでも「何か不自然だ」と言うことになったら、なんかおもしろいですね。例えばその不自然さは幽霊の存在を仮定していないことに由来するものかもしれない――と言うことはつまり幽霊は存在するのだ、と言う話になったり。
逆に、すべての法則を取り入れて「やはり不自然だ」と結論に行き着いても、それはそれでなかなかおもしろいと思う。今度は主観と客観の問題が出てくるわけですね。例えば視力が0.7の人が感じるリアリティと1.5の人が感じるリアリティとでは当然違いが出てくる。そうした理屈ではない要素をシミュレートすることは可能なのだろうか、と言う疑問が浮かび上がってきます。
ゲームにはシミュレーションのアンチテーゼたる側面もあると思うんですよね。シミュレーションでは決してアプローチできない「主観」の表現こそゲームによって行われるべきものではないのか、と思わされることもあるけど、ま、どうでもいい話ですね。アインハンダーで遊んでこよーっと。
7(WED)
6(TUE)
結局のところ弾幕シューティングゲームと言うのはその「答えは合ってるけど、字が汚いから0点」みたいなシューティングゲームと言う前時代的なジャンルの滑稽さを現代の相対化された視点から風刺し、パロディ化したものだと首領蜂だか怒首領蜂だかを初めて見た時(もう何年前になるだろう!)に自分は認識したのですが、それから数年後、怒首領蜂大往生の名声を各地で聞くようになってから「じゃあ、つまり、"あれ"は本気だったって言うの?」と驚かされた時の何か言いようのない――シューティングゲームファンとの間にいつの間にか出来上がってしまっていた深淵のようなギャップを見てしまった気持ちは、今もってして消えることのない自分の中のわだかまりのひとつですね。
コンピュータゲームと言う枠組みを拡張させるはずだったシューティングゲームと言うジャンルが、いつの間にかジャンルの自意識に蝕まれ収縮していく――いよいよ画面を覆い尽くさんばかりに増殖した弾を見ていると、ふとそんな妄想に囚われてしまうことがあります。
5(MON)
先日までリングオブレッドをやっていたせいか操作に習熟を求めるゲーム(シューティングとか)になんだか苦手意識ができてしまった。操作ミスと言う現象に理不尽さを感じてしまうんですよね。入力が強制なのに、さらに入力の正誤判定まで行われるってどうなんだろう。なんでもない地形に衝突してミスした時とか、なんか問題を解いた時に「答えは合ってるけど、字が汚いから0点」みたいな難癖を付けられたような気分になります。そうでもないだろうか。
まあ求めるものの違いなんでしょうけどね。
4(SUN)
ネットの行く先々で「FINAL FANTASY TACTICS 獅子戦争」の名前を見るようになったので、(本当は見たくなかったんだけど)つい誘惑に負けて公式サイトの方を覗いてしまいました。ああ、もう振り返らないって決めたのにッ、それなのにッ――FFT、すばらしいゲームでしたよねッ!!
それで再熱した個人的FFTフィーバーに乗じ、同サントラを引っ張り出して聞きながらファイナルファンタジータクティクス(FFT) −データベース−(R.I.P. −Gs' Cemetery−)の会話集をChapter 1から4まで一気に読んだんだけど、ひさしぶりに見てみたらいろいろ考えさせられますね。こちらの会話集には何度か目を通してるんだけど、プレイ当時はもとよりいつ読んでも人物や組織関係の複雑さに躓いて途中から物語のディティールを追えなくなるんですが、今回はなぜだかするすると頭に入ってきて、霧のようにもやもやとしていたFFTの全体像が少しだけはっきりとしてきたように思えました。
FFTのストーリーついてよく「途中から悪魔だかなんだかの話になって、つまらなくなった」と言う感想が聞かれて、自分も「確かに」と思っていたので、今回は聖石関係の話を特に意識して読んでみたのですが、どうだろう、本当に言われているほど(あるいは自分が思っていたほど)それはご都合主義的な存在だと言えるのかな。失われた聖域における神殿騎士バルクとの戦闘中に、ルカヴィ(作中における悪魔的存在)に魂を売ったバルクに向かって主人公のラムザが「自分の力で勝ち取らない“自由”に何の意味がある? 人間は“誇り”を失った瞬間から“自由”ではなくなるんだ! おまえのように“誇り”を失い貴族の顔色を窺った瞬間からすでに、“自由”を放棄していたんだ! この世に“平等”なんてあるものか! “平等”は与えられるものじゃない! 自分で勝ち取る“権利”なんだ!! ルカヴィの力を借りて手にした“自由”なんてニセモノだ! おまえは“裸の王様”なのさ!!」と主張するのだけど、多くの人はラムザを「融通の利かない正義感に燃える理想主義的青年」の型枠に押しはめ、その上で「ルカヴィはラムザの行き場のない正義感の受け入れ先として用意された虚構に過ぎない」と指摘していて、自分もそう思っていたんですが、実のところラムザはそれほど理想主義的な人間でもないんじゃないか。それは今引用した台詞から読み取れますよね。理想的な平等なんてものははなから信じていない。それは自分で勝ち取るものだとしている。
「草笛」の場面にしたって、ディリータとの間に横たわる巨大な断絶を安易に否定するようなことはしていない。友達として、ごく常識的な慰めの言葉をかけるに終わっている。何が言いたいのかと言うと、つまり、ラムザはきっとすごく現実的な人間なんじゃないか。ゴルゴラルダ処刑場におけるガフガリオンとの戦闘中に「おまえはベオルブ家の人間だ。おまえは、おまえに与えられた役目を全うしなければならン! それがおまえの運命なンだよッ!」「ティータを死なせたのも運命だというのかッ!? 違うッ! それは違う! 僕らは僕らの都合でティータを…そう、ティータを殺したんだ! 僕はずっと現実から逃げてきた。僕がティータを殺したんだ…」と言うやり取りがありますが、ラムザがルカヴィと言う悪に立ち向かうのは、決して自分の理想や都合なんかじゃなくて、それがラムザにとっての"現実"だからだと思うんですよね。だから、FFTは"血"の話になる。「ソウカ……貴様ハ……、カツテ…コノ私ヲ倒シタ者ノ…末裔カ……」と言う聖天使アルテマの台詞は、ラムザと言う人物の"現実"の正当性を証明するためのものじゃないでしょうか。ラムザの"現実"は、決して根拠がないわけではないと。歴史と言う名の既成事実――つまり現実を肯定するならば、ラムザの"血"も肯定されなければならない。ラムザ自身は気付いていない――気付くわけもない――けど、ラムザは自分の"血(救世主の末裔と言う事実)"に従っているだけに過ぎない、そう思うんですよね。
逆に言えば、"血"などと言った根拠がなければ正義なんてものは肯定されない――そうした逆説的なテーゼがFFTの物語の根底にはあるように思えますね。ラムザの正義なんてものも、結局は"設定"に過ぎなくて、そこに普遍性があるわけではない――ラムザの普遍性とは、つまり"どこまでも現実に立ち向かう姿勢"であると。
それじゃあ一体何のためにラムザの現実――つまるところイヴァリースと言う世界(ラムザは"血"によってイヴァリースと直に繋がった関係にある)は設定されたのだろうか。それは、きっと、ひとえにあのエンディング――あえてネタバレをしますが、ディリータの死を肯定するためだと思います。さっき書いたように、ラムザの存在意義とは"どこまでも現実に立ち向かう姿勢"を証明するためだと思うんですよね。ラムザの現実が正義に直結していたのは、それはあくまでFFTを買って遊ぶような年齢層に配慮したもので、そうした味つけを取り払ってラムザと言う人物を見てみればそこに徹底したリアリストが立っているのが見て取れる。ラムザは自分の現実を貫いた、貫けることを証明した。対してディリータはどうだろうか。現実と戦って"英雄"になったものの、彼もまた他の多くの為政者と同じように"英雄"と言う偶像によって民を支配した。ディリータの王政によって平和と平等は訪れたかもしれない、しかしそれはただ角度を変えて見せた、教会が提示しようとしたものよりも美しく見えるだけの新たな"ゾディアックブレイブ"伝説に過ぎない。ディリータが平和と平等をもたらしたのは、それは決してディリータの宿願なんかではなくて、あくまで民を治める方法――自分が王になるためだった。ディリータは、ただ平和と平等を利用しているだけだった――なぜなら平和や平等、ましてや"英雄"なんてものはディリータは信じていないのだから。もしディリータが自分の現実と向き合ったならば、彼の妹であるティータを殺した張本人たる"利用する者"には決してなれないはず。だから、イヴァリースは、あるいは物語はオヴェリア――ディリータが唯一愛した女性――の手を通してその偽善を断罪した。ラムザは自分の現実を手にしている、しかしディリータは――「人間は何に幸福を見いだすのだろうか? 何のために今を生きるのだろうか? そして、何を残せるだろうか?」と言うエピローグでの問いかけは、何かディリータに向けられたもののように自分には思えます。「彼こそが真の勇者であった…」とラムザを指して言う言葉には、神の死んだ世界――語り部アラズラム・デュライの生きる未来のイヴァリース、あるいは我々の生きる現実の世界――にこそ生きていくる説得力が含まれているように感じられますね。(実際、アラズラムが言及したのはあくまでラムザの"生きざま"であって、その正義については一切触れていませんよね。現代の価値観に基づいて"自由"を人間の生きる目的と捉えれば、アラズラムがラムザをあえて「勇者」と呼んだのも頷けるし、と同時にラムザを真の英雄として祀り上げようとしたデュライ白書の著者が火刑に処されたのも物語の真実性をより高める要素――いたずらに大河ロマン的リアリティを演出するだけのくだらないエピソードではないものとして読み解けます――つまり物語は"ラムザ英雄史観"を明確に拒絶している)(追記、エピローグ部分を読み返したら「人間は〜」以降の記述はオーラン――デュライ白書の著者によるものと書かれてました。でも大意に関わるものではないと思うので、該当部分はそのままにしておきます)
確かに、ルカヴィに代表される悪魔的な存在の登場は蛇足だったかもしれない。しかし、現実(あるいは真実)を真の意味で受け入れることに決めたラムザにとって、神や大儀、ましてや死んだ妹の名の下の権威を妄信する他の登場人物が果たして敵になり得るだろうか。もっと言えば、そうした登場人物は"利用する者"と言い換えられるかもしれません。"利用される者"にならないために自由になったラムザの前では、"利用される者"にならないために"利用する者"になったディリータすら霞んで見える。そしてラムザが自由を選んだ時(ゴルゴラルダ処刑場戦の直後、ベオルブ姓を受け入れた時)、対立する概念――つまりルカヴィと言う名の普遍的悪(人間の業)が湧き出てくるのは、ある意味では必然にも思える気がします。ルカヴィを、ラムザの居場所を作ってあげるための揺り篭、と捉えることはそう不自然でもないようにも思えるけれど、でもルカヴィがいなければラムザは本当に成立不可能な人物でしょうか。逆にルカヴィこそラムザがいなければ成立し得ない存在に見える。では、そのルカヴィとは何なのか――掘り下げればこれもなかなかおもしろいテーマだとは思うのだけど、しかしこれ以上文章の整合性を保てる自信がないのでこの辺にしておくことにします。あー疲れた。
ただ、付け加えておくと、ルカヴィの事実を知っていたのは窮極的にはヴォルマルフとエルムドアだけですよね。ダイスダーグも死の直前まで聖石に秘められた力のことは知らなかった――だからルカヴィの存在を仮定しなくても権力闘争部分のストーリーは成立するんですよね。そしてラムザが立ち向かうことを決めたのはあくまで兄・ダイスダーグの野望(ルカヴィを介さない権威による世界の支配)であって、その過程でルカヴィが絡んできたに過ぎない。死都まで赴いたのもアルマが目的だし。ラムザの目的上にたまたまルカヴィがいるだけであって、"ゾディアックブレイブ"伝説なんてなくても、ラムザはダイスダーグと対決したと思います。ゾディアックブレイブを付随物であるとして「蛇足だ」と批判するのは正しいかもしれないけど、それをこのゲームの本質のように取り扱ってしまうのはどうだろうか。いや、本質であるとは思うのだけど、それは決して権力闘争部分やラムザと言う人物の曖昧さを糊塗するものではないと思うんですけどね。
描写不足を指摘するならばルカヴィの主張をどこかで肯定する必要があったと思います。それでもラムザは迷わなかったと思うけど(ステキ!)、プレイヤーの問題意識に訴えかけることはできたはず。その点は松野氏も意識していたのか、FFTAではテーマとして盛り込まれているようですが、未プレイなので何とも言えないんですよね。PS2とかに移植してくれないかなあ。
3(SAT)
2(FRI)
ほげーっとネットを見ていてふと目に付いたのですが、コナミ殿堂セレクションのパッケージはなんでこんなに下品なデザインなんだろう! スーパーの特売品に張られている「表示価格より50円引き」のシールみたいですねえ。額縁バージョンも趣味の悪さでは似たようなもんですが。
それで画像をよく見たら「リバーシブルジャケット」とか書かれていたのだけど、果たしてそれで何が解決すると言うのだろう? まあ、でも、コナミのそう言う下世話なところは嫌いじゃないですけどね。
|