永琳の手から解き放たれた矢が、さらに『妖夢』の手の甲を射抜いた。
刀を握れずにいる隙に永琳が屋根の上から颯爽と飛び降り、鈴仙を瞬く間に『妖夢』の目の前から掻っ攫ってしまう。
一瞬で踏み込まれることのないギリギリの間合いをとった後、再び永琳は『妖夢』に弓を向けた。
「し、師匠・・・」
ぶるぶる震え続ける鈴仙の頭を、永琳の掌がぽん、と叩いた。
「隠れていなさい、優曇華。奴の相手は私がするわ」
「・・・」
永琳の背中に強く縋りつき、無言のまま鈴仙は頷いた。それでも、身体の震えはどうしても止まってくれない。
今、こうして生きていられるのが不思議なほどだ。永琳が現れても、極限の恐怖が冴え冴えと頭を揺さぶる。
怯える鈴仙の頭に、永琳がそっと手を置いた。
「怖いの?」
「・・・」
「安心なさい。そう長くはかからないわ。・・・それともなにか?私では頼りない、とでも?」
「えっ・・・」
背中に埋めていた顔を上げ、鈴仙が呆気にとられた。
『妖夢』の手に二振りの太刀が戻り、月光を浴び煌く。つかつかと足音が迫る中、永琳が矢を手にした。
「い、いえ・・・滅相もありませんっ・・・」
「なら、怖がる必要はないわよね。あなたの師匠は、この私・・・八意永琳なのだから」
頭を軽く撫でられると、不意に身体の震えが止まった。縋りついていた永琳の背中が、山のように大きく見える。
永琳の腕に力が篭もり、弓の弦がぎりぎりと緊張を増していく。永琳の背中から、鈴仙の手が離れた。
「・・・はいっ」
涙を拭いながら答える鈴仙の頬は、どこか赤く火照っていた。
(師匠・・・)
ここまで師匠を頼もしく思ったのは、本当に久しぶりだ。
『妖夢』も流石に永琳の実力は分かると見えて、鈴仙に対した時のように積極的に踏み込んだりはしない。
「八意永琳・・・あなたにだけは見つかりたくないと思っていたのですが」
「隠密行動はもう少し静かにやるものよ。あなたは騒がしすぎる。とっくに良い子はおやすみ、の時間。
こんな夜更けに、派手に物音立てて遊びまわっている悪い子は・・・私が寝かしつけてあげるわ」
間合いは『妖夢』の限界射程距離の一歩外。勝負は永琳の二矢を待たずして決する。
永琳が一矢で仕留めるか。それとも、仕損じて『妖夢』の一太刀が永琳を捕らえるか。
いずれにせよ二撃目はない。瞬きの間すら待たずに決着がつく。『妖夢』が間合いに踏み込んだ、その一瞬で。
「見つかってしまったものは仕方がありません。・・・いざ、尋常に・・・勝負」
重々しく張り詰めた空気が、二者の間に果てしなく静かに居座り続けた。鈴仙の頬を冷や汗が伝う。
永琳の表情にも、『妖夢』の表情にも、動揺の色は一切見られなかった。極限の集中のみがそこにあった。
しばし両者は微動だにせず構え続けていたが・・・刹那、『妖夢』の切っ先がわずかに動いた。
「!!」
次の一瞬、鈴仙は心臓が止まりそうになった。
永琳の腕が、突如として膨れ上がった。
「っ!?」
限界まで引き絞られた弦が解き放たれ、漆黒の虚空へと飛翔する。
矢唸りが響くよりも速く、渾身の一矢が『妖夢』の胸を貫いた。
影の血飛沫が、胸を貫通してなお止まらず伸びていく矢の軌跡を追うように躍り狂った。
「がっ・・・!!」
斬り込みの勢いが止まった。胸の中心に空洞を穿たれ、『妖夢』が永琳の目の前で膝をつく。
永琳の勝利だ。永琳の一矢は狙い違わず『妖夢』を射抜いた・・・のだが。
鈴仙の目は、変貌した永琳の右腕に向けられていた。
「し、師匠・・・まさか、それって・・・」
急激な筋肉の隆起で、肩口から袖にかけてが耐え切れずに跡形なく無残に破れてしまっている。
服を内側から引き裂いて存在を主張する岩山のような筋肉。右腕だけが巨大かつ筋骨隆々という不気味な図。
「特定部位の強化に特化した、改良版DCS・・・実験は成功ね」
「またかーっ!!」
右腕の筋力のみを極限強化して、放つ一矢に全力を乗せる。想像を絶する威力だった。色んな意味で。
『妖夢』が胸の中心を射抜かれながら立ち上がった。どうやら、心臓(にあたる部分)貫通は免れたらしい。
「・・・お見事。私の負けです」
「あら、微妙に手元が狂ったかしら。仕留め損ねたわね」
永琳がさらに一矢番え、『妖夢』の額に突きつけた。
「あなたは運が悪い。何せ、同じ死ぬのに矢を余計に一本浴びることになってしまうのだから」
「・・・敗れはしましたが、ここで殺されるわけにはいきません。私の使命はまだ達成されていない」
「けれど、逃れられはしない。潔く諦めることね。死に様は美しいに越したことはないわよ」
「どうでしょうか?・・・あなたは、私のことを何も知らない!」
『妖夢』が眼をかっと見開いた。鈴仙が注意しかけたその時には、もう遅い。
「師匠ッ!!気をつけ・・・ッ!!」
「・・・・!?」
永琳を狂気の瞳が襲った。流石の永琳も不意を突かれ、弦を引き絞っていた指を緩めてしまう。
その隙に『妖夢』の一太刀が永琳の胸を掠めた。斬り飛ばされた服の切れ端が宙を飛ぶ。
『妖夢』が刀を収め、自慢の速度を存分に披露した。永琳が再び弓を構えた時には、既に射程距離の外へ。
彼女の姿が夜空へ消えてしまうと、鈴仙は慌てて永琳の前へ。
「師匠、大丈夫ですか!?斬られて・・・」
「大丈夫。掠っただけよ。服が斬れただけだわ」
斬りつけられた胸元は服がはだけているだけで、特に目立った傷は見られなかった。鈴仙が胸を撫で下ろす。
けれど、『妖夢』に止めを刺し損ねてしまった。ここであの黒いスペルカードが功を奏することになるとは。
「・・・逃がしちゃいましたね」
「いいのよ。後悔しているのは簡単だけれど、物事は常に前向きに捉えるべき。
奴は期待以上に色々なことを教えてくれたわよ。・・・この私に手の内を晒すとは、良い度胸だわ」
年の功か、永琳はいつまでも悔いたりはしない。二億年の人生で、後悔からは何も生まれないことを熟知している。
弓を背中に差すと、急に永琳の手が鈴仙へと伸び、軽く抱き寄せた。
「怪我はないかしら、優曇華?」
「・・・っ・・・ぇ・・・は、はいっ・・・」
普段なら不気味がるところだが、何故か今夜は素直に彼女の優しさを受け入れられる。
軽く鈴仙の頭を撫でた後、永琳は足を玄関の方へと向けた。
「さあ、もう入るわよ。次のことは明日になってから考えましょう」
恍惚と永琳の背中に見惚れていた鈴仙も後を追った。もう既に、幻想郷の月は傾きつつあった。
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