毎月第2月曜日発行           1999年11月15日月曜日発行 第16号

東京正平委ニュース

 発行所 カトリック東京教区正義と平和委員会 〒204清瀬市松山1-21-12カトリック清瀬教会内

        電話0424-91-0104 Fax0424-91-9615             電子メール:JAC01227@nifty.ne.jp                      

                  http://members.aol.com/tkyseihei/

   

25回カトリック正義と平和全国集会に参加して

 

19991114

 

 25回カトリック正義と平和全国集会・小樽大会が、1022日から24日までの3日間、北海道小樽市民センターで開かれ、全国から約200名が集まった。

 このプログラムは、22日の現地学習と23日の分科会が中心でテーマ「人間らしく生きる」ことを分かち合った。

 北海道での開催は、2度目である。「『正義と平和』の25年」誌によれば、その年表に次のように書かれている。「第12回正義と平和協議会・全国会議(札幌で開催)参加者170名 アピール『指紋押捺問題に理解を』、『首相の発言に対する抗議文』発表」。

 その時のテーマは「共に生きる」であり、861010日〜12日に行われた。当時の新聞は、次のように報道した。「10日から札幌市で開かれていた日本カトリック正義と平和協議会(相馬信夫会長)の第12回全国会議は12日、中曽根首相に対し『知的水準』発言と、その釈明の『単一民族国家』論を撤回するよう求める抗議アピールを採択して閉幕した。」「同協議会はローマ法王の呼びかけにこたえて、各国のカトリック教徒が結成しており、日本では74年に設立された。宗教者の立場から社会正義の実現を目指し、在日外国人の指紋押捺制度問題、部落差別問題、核廃絶運動などに積極的に取り組んでいる。」

 さて今回は、22日の現地学習では3コースに分かれ参加者は貴重な体験をした。@「アイヌ民族の歴史と人権を学ぶ」コース、A「北海道開拓における囚人労働の歴史を学ぶ」コース、B「北海道開拓におけるタコ部屋労働・朝鮮人強制労働の歴史を学ぶ」コースなどで、当日は朝830900にバスに乗り、終日の学習であった。

  夫々のコースには現地解説者の説明があり、問題点と理解を深めた。

 18302000の交流会でアピールが行われたが、参加者の自由な話し合いの中でのアピールは問題があるように思えた。

 23日は9001630まで分科会、自由時間、夕食のあとで19002200までネットワークが行われ、この日の日程を終えた。

 分科会は7分科会に分かれ次の通り。

第一分科会 差別と人権、第二分科会 環境と開発、第三分科会 労働者と人権、第四分科会 女性への暴力、第五分科会 平和、第六分科会 教育と人権、第七分科会 死刑廃止である。全部の分科会の様子はわからないが、第一分科会では、話し合いの結果として、「アイヌ・ネノ・アン・アイヌ(人間らしい人間)の復権を目ざして」として1、落書き事件や2、子どもたちとオニごっこなどの事例を記し、このことの克服のため指導者である司教たちに対し、大塚司教を通して善処を要望する文書を提出した。私が参加した分科会は第六分科会であるが、・ 教育現場からの報告では、北星学園余市高校の深谷哲也校長が自らの体験を語り、非行、暴力、いじめ、脅迫神経症や家庭崩壊などの中から立ち直った生徒の実例を話された。そして「出来る限り『管理』を少なくすること、子供たちは、つまづきや失敗を恐れるが、経験して成長するものである。」と自主性の尊重が大切であることを強調。 ・暴走族によるブラジル人少年殺人事件の事例をステファニー神父が、「日本人の差別意識が、多くの犯罪の根底にあり、これを越えない限り解決は困難」であると語った。 ・日の丸・君が代・教会については、私が発題し、新ガイドライン関連法案成立以来、盗聴法、国民総背番号のための住民基本台帳改悪など次々に国家管理を強化し、戦争への道をひた走る日本の現状を話し、その頂点にある日の丸・君が代の持つ問題性を訴えた。

 最終日の24日は900から全体会とアピールが行われ、1100の閉会のミサで解散した。この全国集会を準備され、最後まで奉仕された関係者の皆さんに心からの感謝を捧げる。神の祝福が豊かにありますように!

  日本カトリック正義と平和協議会 事務局長 木邨健三

 

 

韓国カトリック教会史と現状

 

李鐘昇(イ・ジョンスン)神父 カトリック藤沢教会

 

1.カトリック教会史

 

はじめに

韓国の教会は、1784年に李承薫(イー・スンフン)が李王朝の使節の一員として中国の北京へ行ったときに、教理を学び、洗礼を受け聖書をはじめ、多くの書物や十字架、聖画などを持って帰国し、仲間の人々と研究をしながら何人かの人々に洗礼を授けたときに始まります。しかし、この後10年間、韓国の教会は、司祭が不在のまま、多くの迫害にもかかわらず発展し、最初の司祭、中国人文周模神父が入国したときには約4千人もの信徒がいたと伝えられています。1人の宣教師も布教もない状態で人々が真理を求め、神様の照らしを受けて始まった韓国のカトリック教会は、世界でも他に例のない自発的信仰共同体であり民族の誇りといえます。

 

初期の教会と迫害

中国に度々使節としていった学者たちは山奥の寺に集まり、カトリックの教理の勉強をしたのが、韓国のカトリックの始まり(まだ教会ではない)となりました。この学者たちの一人であった李承薫は、北京へ行って洗礼を受け、帰国後、熱心に布教活動をしましたが、グループの一人であるトマス金範寓(キム・ポウム)の家で集まっていた人々が、外国の宗教を信じた罪で逮捕され、金範寓は、ひどい拷問を受けて殉教します。彼は韓国最初の殉教者となり、彼の家のあった場所は、後に明洞大聖堂となります。

この迫害の後、李承薫らは、再び教会を建て直すためにために組織を作り、中心になている人々が神父役を務めて、ミサや秘跡を行いましたが、間もなく、北京の司教から、そのことが教会の規則に反するとの知らせを受け、それでは、是非、司祭を派遣して欲しいという要請を行いました。

1795年韓国に潜入した中国人神父周文模(ジュ・ムンモ)は信者の家に隠れながら、ミサを捧げ、秘跡を授け、伝道につとめました。1800年には信徒数は1万人を越える程になりますが、迫害はますます激しくなりまして、周神父は、1801531日沙南基(セナムト)で殉教されました。それから、儒教の根本道徳である祖先崇拝を偶像崇拝として否定するカトリックの教えは政府から異端として厳しく迫害され多くの殉教者を出しました。この大迫害で多くの血が流されることを憂えた黄嗣永(ファン・サヨン)は、教会の危難を救うために清国(中国)や西洋諸国の力を借りて、宣教の自由を李朝政府に認めさせるように、という北京の司教宛に手紙を絹布に書き、密かに送ろうとして失敗し、政府に押収されてしまいました。この手紙は、カトリックが外国の力を借りて、国を滅ぼそうとする宗教である、という見方を裏付ける結果となり、祖先崇拝の問題以上に邪教として迫害されるようになり、政府に厳しい鎖国政策をとらせることになりました。カトリックが外国の侵略の手引きをするものであり、カトリック信者は売国奴である、という考えを広く一般の人々に植えつけたという点で、この黄嗣永の白書事件は後々まで深刻な悪影響を残しました。

1829年また大迫害が起こり、3人の宣教師を含む約130人の殉教者が出ます。この迫害の中にあってパウロ丁夏祥(チョン・ハサン)は「上宰相書」を著し、カトリックの教理が決して李朝の倫理に反するものでなく、正しい教えであることを論理的に説明し迫害が不当であると堂々と主張しました。丁夏祥は殉教しましたが、この書は韓国最初の護教論として永く記念すべきものです。

この後も、迫害は続き1846年には、初めて韓国人司祭、金大建(キム・デコン)がマカオから入国後僅か1年余で沙南基において殉教しました。この頃の宣教師やカトリック信徒の中には、信教の自由をかちとるために、外国の勢力を借りようとする考え方が強くありました。このような考え方が政府だけでなく多くの国民に「キリスト教は外国の侵略の手先だ」という見方をさせることになり、とうとう1866年、最大の大迫害をもたらします。3年の間に宣教師9名、信者8千余名といわれる殉教者を出すことになりました。

このように1万名を越える信徒が拷問にも屈せず信仰を守り、殉教した韓国のカトリックの歴史は、世界でも類例のない輝きであります。

 

宣教の自由

頑固に鎖国政策をとり続けたが1876年、日本の強い圧力に屈し、江華島条約を結んだことからその後次々とアメリカ、ロシア、フランスとも条約を結び開国することになり、それにともなって信仰の自由、宣教の自由も認めざるを得なくなりました。こうして、カトリックは、やっと地下教会から脱し、公然と布教できるようになりました。

この頃プロテスタントも韓国に教会を作り布教を始めます。しかし、宣教に自由は得ましたが、このときカトリック教会は

1)相次ぐ迫害によって有能な指導者の信徒たちの殆どが、殉教するか背教してしまっており、

2)政府も対外的には宣教の自由を約束しながら、国内には、一般の人々にそのことを知らせようとしませんでした。

3)新しく入国した宣教師たちの中には、当時のヨーロッパ諸国の侵略や植民地政策を当然のことと考える人たちもいましたので、カトリックは外国の手先という一般の見方を変えることができませんでした。

4)そして長い迫害に対する恐怖から、教会は政治に関わりを持たず、死後の天国だけを望むという救霊だけを目的とした教えになって行きました。このため、悪政に苦しむ人々の心を惹きつけることができませんでした。

これに対し、プロテスタントは下層の人々の中に入り、教育と福祉に力を入れることで急速に信者の数を増やして行きます。このような大きな犠牲にもかかわらず、教会は現実の社会や政治から逃避し死後の福楽だけを願う信仰に偏ります。この傾向は、この後の日本の植民地時代にも変わることなく続きました。

 

安重根(アン・ジュングン)義士

教会の現実逃避に対し民族の独立を願う人々は、教会の反対を振り切って抵抗運動に身を投じたり、陰から協力した韓国人神父や信者たちなど、何人かを数えることができますが、決して多くはありません。

この中でも今も韓国随一の義士と讃えられるトマス安重根は、熱心なカトリック信者でした。安重根は、韓国が日本によって侵略され、次第に植民地化されつつあるとき、韓国の独立のために民衆の教育が最も大切であると考え、大学を作ることを提案しますが、フランス人のミュデル司教は「韓国人が学問を学ぶと、教えを信じる妨げになる」という理由で、却下してしまいます。彼は、その後、義勇軍を組織し、日本の侵略に抵抗して満州の間島地方で参謀中将として活躍、日本軍と戦って戦果を挙げましたが、結局、装備の劣る小兵力では勝ち続けることができず、ウラジオストックに逃れました。そこで、韓国侵略の総指揮官であった伊藤博文が満州へ来ることを知り、苦心の末ハルピン駅頭で単身、射殺に成功します。

安重根が単なるテロリストでなかったことは、彼が日本軍と戦ったとき捕虜にした日本兵たちに、自分の独立運動の意味を話して聞かせた上、無事に釈放したことや、旅順の監獄にいた3ヶ月余りの間に、日本人の看守や典獄検察官までが、彼の人格に心服したこと、或いは、取り調べに際して、伊藤博文を射殺した理由を15個条に整理して述べ、裁判官を驚嘆させたことなどで分かります。

 

しかし、これらのことは、かえって日本政府を刺激し、本来なら、23年の禁固が常識なのに「将来恐るべき人物だから是非死刑にせよ」と小村寿太郎外相が直接裁判官に圧力をかけ、無理矢理に死刑にしてしまいました。時に安重根31歳でした。彼が死刑を待つ獄中で書き残した「東洋平和論」は未完に終わりましたが、時代を超え広い視野に立った素晴らしい論文で現代にもそのまま適用するものです。教会は、当初、日本政府に遠慮してこの事件を非難し、安重根のカトリック信者としての資格を剥奪までしましたが、彼の死後80年にして、改めてその偉業を認め、今では人々の尊敬の的となっています。

 

日本の植民地時代

日本がついに韓国を併合して日本の植民地にしてしまったのは、19108月のことでした。初の朝鮮総督となった寺内正毅は、過酷な武断政治を行い、韓国の人々の自由を奪って、抗日運動を力で押さえつけます。このような日本の植民地政策を欧米諸国はむしろ支持し、カトリック教会も日本政府に迎合して総督府と協力する方針をとりました。このため、三・一運動にも一部の韓国人聖職者や信者を除いて多くの人々は参加も協力もしませんでした。三・一運動の中心となったプロテスタントの人々が、多くの血を流したのと対照的な動きです。

日本政府が、韓国の人々に対してとった最も酷い政策は、韓民族性を抹殺しようとしたものでした。彼らは、これを皇民化政策とと呼び、韓国人を日本人と同じように待遇するのだと言いながら、他方では、差別政策をとり続けたのです。創氏改姓や韓国語の禁止などの皇民化政策と共に教会にとって具体的な問題となった最大のものは神社参拝でした。日韓併合直後から天皇の写真に敬礼を強制していきた日本政府は、1930年代に入って戦争が激しくなるに従い、各地に天照大神などを祀った神社を作って参拝することを強制し、ミッションスクールの学生にまで参拝することを義務づけます。これは明らかにキリスト教の教えに反するものであり、最初の頃はカトリックもプロテスタントも異端であるとして、神社参拝を認めようとしませんでした。日本政府は、日本カトリック教会からの質問に対し、神社参拝は信仰とは関係のない愛国心、と天皇に対する忠誠心、とを表す行事であるという回答をしたので、教会は宗教とは無関係な行事として神社参拝を認め、ついに教皇庁も1936年、神社参拝をしても差し支えない、という公式の見解を出しました。しかし、日本政府は事実上、これを信仰の対象として強制していったのです。昔、祖先崇拝は異端だ、いう指示をにより、多くの殉教者を出した韓国の教会は、今、神社参拝は差し支えないという見解に従って、天皇崇拝、日本軍国主義の前に屈したのでした。

プロテスタントの中には、このような風潮に抵抗し、どこまでも神社参拝を拒否して殉教した人々が50余名にも及びます。三・一運動以来、流されたプロテスタントの血は韓国民の中に深く根を下ろしことになります。

 

解放後の教会

19458月、日本の敗戦と共に韓国は植民地から開放され独立への道を歩むことになります。しかし、その道は、苦難に満ちたものでした。ソ連の参戦によって、南と北に分断されて米国とソ連の軍政下に置かれた韓国は、混乱の中から、新しい体制作りのために社会も、教会も努力しますが、19506月北朝鮮の武力侵入は、悲劇的な犠牲と対立をもたらしました。このような状況の中で、韓国の教会は次第に韓民族の教会としての成長を始めます。

韓国人の最初の司教が誕生したのは、まだ日本の植民地時代であった1942年に慮基南(ノ・ギナム)神父をソウル教区長に、ついで司教に叙階したのが始まりでした。日本の敗戦と共に日本人司祭たちは皆去って、ここに韓国人によるカトリック教会の体制が生まれ1960年にはイエズス会の経営する西江大学が設立され1969年には、金寿換(キム・スウハン)枢機卿が選任され、韓国人の司牧による韓国カトリック教会が実現するに至りました。この時期にカトリック教会は、第二ヴァチカン公会議を開催し(196265)新しい時代に対応した新しい教会の在り方を示しますが、韓国の教会もこれに従って社会に対する関わり方を変えて行きます。その一つが、プロテスタントとの協力であり、もう一つが独裁権力に対する反対運動でした。

1970年の新共同訳聖書の刊行は、カトリックとプロテスタントの協力の象徴であり1974年朴大統領の独裁に対する民主化運動によって池学淳(チ・ハクスン)司教や朴桐圭(パク・ヒョンキュ)牧師らが逮捕された事件、及び1976年、三・一運動57周年記念の合同祈祷会が明洞大聖堂で開かれ、民主救国宣言が発表された事件などは反権力運動の典型と言えます。

こうして、韓国のカトリック教会は民族の教会として民衆と共に歩む姿勢を示すことにより、急速な発展を遂げ、現在信徒数380万人で、約1000万人と言われるプロテスタント信者と合わせると、韓国国民の1/4以上が、クリスチャンという時代を迎えました。

 1984年には、韓国カトリック教会創立200周年記念式に訪韓された教皇ヨハネ・パウロ二世が、ソウルにおいて103名の殉教者の列聖式を行われました。バチカン以外の地で列聖式が行われたのも、また103名もの方々が同時に列聖されたのも世界で初めてのことでした。しかし、同時に韓国の教会は今なお迫害の下にあり、受難の教会であることを見逃すことはできません。北朝鮮における共産党政権の成立によって多くの宣教師や信徒が南へ避難しましたが、北に残った宣教師や信徒たち多数が殉教し、教会は地下に潜らざるを得なくなっています。現在どれだけのクリスチャンが存在しているかについては、殆ど、情報がありませんが、この恐ろしい迫害の中で今なお、信仰を捨てず秘かに祈り続けている人々がいることは、僅かに洩れてくる話しの中でも推察することが出来ます。

 

 

 

 

盗聴法の廃止を求める市民団体共同声明と署名運動を成功させよう

 

今年の八月一二日、参議院本会議で「強行採決」された盗聴法の廃止を求める市民団体共同声明と署名運動を開始することになりました。

一度国会で法案が通って成立したらそれで終わりというのが、今までの日本の反対運動でした。国会で成立した法律は国会で廃止すればよいのです。欧米ではそれが当たり前です。隣国の韓国でも国民全員に住民登録などのIDカードを携帯するという法案が通過しましたが、市民によるねばり強い反対運動は金大中政権を動かし、ついにこの法律は廃止されました。

この日本でも施行までの1年の間に盗聴法の廃止という大きな目標に取り組むことになりました。それが盗聴法廃止を求める市民団体共同声明と署名運動です。

この盗聴法廃止運動はいままで盗聴法反対運動をともに展開してきた国会議員、弁護士、インターネット関係者、労組が共同で取り組みます。

市民団体共同声明は日本消費者連盟、週刊金曜日、日本カトリック正義と平和協議会など二〇団体の呼びかけで開始されています。一千の市民団体の賛同が目標です。盗聴法の廃止を求める署名運動は、現在最後の準備にはいいっています。十一月中旬には開始されることになります。

盗聴法は国会で議論すればするほど問題点が明らかになり、法律的にも技術的にも欠陥が指摘された欠陥法であり、世論調査でも市民の半数以上が反対した法律です。しかも手続き的に参議院法務委員会で明確な「採決」なきままに可決されました。あらゆる意味で問題のある法律です。盗聴法は廃止以外ありません。市民団体共同声明運動と署名運動で盗聴法の廃止を実現しましょう。

市民団体共同声明、廃止署名が必要な方、団体はカトリック正義と平和協議会までご連絡下さい。

破防法以上の悪法、団体規制法に反対しよう・「団体規制法」が必要な理由はありません。

現在、政府・法務省はオウム真理教対策を口実に「団体規制法」を制定しようとしています。「団体規制法」は破防法以上に危険な違憲・違法の悪法です。

法務省・公安調査庁は、「団体規制法」が必要な理由としてオウム真理教の危険性をあげています。しかし、現在オウム真理教は警察、公安調査庁、地域住民、マスコミなどの社会的監視下にあり、「社会的に危険な具体的行為」をおかすことは不可能な状況にあります。にもかかわらず、政府・法務省はオウム真理教は危険とのキャンペーンを大々的におこない、オウム対策法として「団体規制法」は必要と世論操作をしています。

私たちも、オウム真理教がおこなった地下鉄サリン事件をはじめとする一連の事件は絶対に許すことはできません。オウム真理教がいまだに一連の事件について態度表明をしていないことは厳しく批判されなくてはならないと考えています。しかし、現在オウム真理教は社会の厳しい視線のもとにあり、以前のような行動はできる状況にはありません。「団体規制法」が必要な理由は全くありません。

・諸団体の日常的な監視と規制をねらうでは、なぜ法務省・公安調査庁は「団体規制法」にこだわっているのでしょうか。それは九七年一月に公安審査委員会が公安調査庁のオウム真理教に対する破防法の団体解散請求を棄却決定したからです。法務省・公安調査庁はあのオウム真理教を団体規制できない現行の破防法には問題がある、公安調査庁の存否が問われると、破防法の抜本的「改正」=改悪へと動きはじめたのです。

そこで検討されたいくつかの事項のうちの最大の眼目が「保護観察制度」です。団体規制できなかった団体を簡単に観察処分にし、その団体に活動・財務報告を義務化させ、公安調査庁が立ち入り検査もでき、それに従わなければ団体活動を制限できるというものです。これは文字どおり観察処分にした団体を日常的に監視し、規制しようというものです。それを法務省・公安調査庁は予定通り破防法の抜本的な「改正」のなかでおこなおうとしました。しかし、破防法の「改正」には公明党が消極的だったこと、世論の強い反対が予想されることなどからオウム対策特別法として「団体規制法」を制定するということになりました。

・オウム対策は口実、最初から適用の拡大を前提、しかし、それでは「団体規制法」がオウム真理教のみを対象としたものにしぼられているかというとそうでもありません。他団体をも対象にできるようになっています。要するにオウム対策は団体規制の中に「観察処分」制度を導入するための口実なのです。確かに「団体規制法」は「過去に無差別の大量殺人を行った」団体を対象にすると規定しており、最初は対象がオウム真理教や一部の団体に限られるかもしれません。しかし、重要なことは、「団体規制法」の内容が法務省・公安調査庁が準備した破防法「改正」の内容と基本的に一致しているということです。「団体規制法」が制定されたならば必ずや適用条件が緩和され対象団体が拡大していくことになるでしょう。それは治安維持法の歴史が示しています。

言論・思想・結社の自由を侵害する「団体規制法」に反対しましょう。

                 破防法の廃止を求める連絡会・東京

                             角田富夫

 

 

韓国カトリック正義具現全国司祭団「司祭憲章」制定

−創立25周年感謝ミサ 『神の正義実現に率先』誓う−

 

 「暗黒の中のたいまつ」奉呈・シンポジウム・文化公演などの行事

カトリック正義具現司祭団は創立25周年を迎え、第三千年期の司祭的生き方への要請に呼応するために「司祭憲章」を制定し、神の正義が実現する共同体をこの地に築くことを誓い合った。

 5日ソウル大司教区ミョンドン聖堂で開かれた25周年感謝ミサで公式発表された司祭憲章は聖職者達の社会正義活動に対する新・旧約の聖書的根拠を提示している「正義具現司祭団の記憶と奉献」、実践条項である「司祭の告白と誓い」から成っている。

 司祭団は特に、「司祭の告白と誓い」で「司祭の生は実に殉教であり、司祭の道は徹底的に自らを空しくすること、十字架の死そのもの」であると告白し、民族の和解と一致のために十字架を喜んで担い、政治・経済・社会・文化などあらゆる面で神を告白し、共同善の原理が実現するよう献身することを確認した。

 また、キリストの真理を変質させる偶像の十字架であるすべてのイデオロギーを拒否し、貧しく抑圧された人々を解放し、すべての人に自由を下さった聖霊の道具になり、三位一体の神の交わりにならい、良心あるすべての人々と連帯し、正義と平和、自由と平等が実現する美しい人間共同体をこの地に築こうと宣言した。

 憲章は今年1月の定期総会で制定を決議した後、運営委員会を中心に草案作成と修正作業を経て、発表された。

 司祭団はまた、この日ミョンドン聖堂文化館で「民族史における正義の流れ」をテーマに「十字架と人間と正義」(ハム・セウン/ソウルサンドドン教会主任司祭)、「わたしたちの歴史の中で見た正義の流れ」(イ・イファ/民族問題研究所所長)、「今日の生活の中での正義」(キム・クワンシク/21世紀研究所所長)などの発題と討論で第2回シンポジウムを開いた後、続いて文化公演、統一念願ハンギョレ(一つの民族)聖餐祭を開いた。


 司祭団はこれに先立ち、4日ミョンドン聖堂文化館で創立25周年記念行事を開幕し、「民族史の中での司祭団25周年」(イ・ヨンヒ/漢陽大名誉教授)と「十字架はわたしたちの道」(キム・ソンテ/チョンジュ(全州)教区カトリック神学院副院長)の講演を聴いた。続いて司祭団は文化館別館で「暗黒の中のたいまつ」(第1集〜第6集)奉呈式と祝賀レセプションを催し、日本カトリック司教会議正義と平和委員会深水神父(東京大司教区)に感謝の楯を送った。

(ピョンファ(平和)新聞 19991010日(日)号)

 

  青柳さん支援コーナー

★ 明治学園解雇無効青柳裁判 ★


明治学園解雇無効青柳裁判第5回公判報告

 

 去る922日、福岡地裁で第5回解雇無効の雇用関係確認訴訟及び団体交渉拒否損害賠償請求裁判が行われた。この日は、柴山校長による明治学園側の主尋問が午後1時半から3時半まであり、その後4時まで、青柳側より反対尋問が行われた。

主尋問はこの間、提出された準備書面の内容をなぞったもので目新しいものは何一つなかった。すなわち、1998411日の解雇通告については、ペルー人救援の刑事裁判の控訴審の有罪判決に基づき解雇した。さらに明治学園側の準備書面にあった青柳さんの勤務態度にさらりと触れただけで済ませた。この日の明治学園側は尋問の2/3を明治学園前での争議行為と情宣行動に対する被害の強調に費やした。明治学園側はここで裁判官の心証を勝ち取るシナリオを作っている。団交については形式団交の書面を述べ、今後も団交に応じるとして証言を終えた。

青柳側代理人津留雅昭弁護士は、明治学園のインドの子どもたちの支援、フィリピン・ネグロス島の飢餓救援、釜ヶ崎の日雇・野宿者への越冬物資の送付等の救援と、青柳さんのペルー人救援が明治学園の教育方針としている「愛と正義」の行為と一体ではないか、と鋭く柴山校長に尋問を始めたところで時間切れとなった。

特筆すべき点として、学園側はつい最近まで、刑事裁判の控訴審判決の内容を知らなかったことが判明した。学園側は、控訴審の判決文を読まずに解雇を決定していたのである。

次回は1117日(水)午前10時半から12時半間で、柴山校長に対する反対尋問。福岡地裁302号法廷。

 

 

 

神父でも、青柳さんの関係者は排除

 一貫した団交と和解拒否が門前交渉を生み出す  青柳さんの裁判で柴山校長に尋問

 青柳信行さんの明治学園に対する第6回解雇無効の雇用関係確認と団体交渉拒否損害賠償請求訴訟は11月17日、福岡地裁で前回に続いて明治学園の柴山恵子校長への反対尋問が行われました。前回の大半を費やして明治学園は青柳さんらが授業妨害をしたことを強調しましたが、門前交渉に出向いたのは明治がかたくなに団体を拒否した結果にすぎず、話し合いに応じておれば、明治の主張する授業妨害が生じなかったことが明らかにされました。合同労組の筒井修委員長と津留雅昭弁護士が尋問した主なやりとりは以下の通りです。

 〔無休休職の合意はなかった〕963月の第一審判決後、「許さない会」との協議の席上、明治学園は青柳さんに無給休職を通告しましたが、筒井さんの尋問の結果、柴山校長は三浦弁護士から報告を受けただけでした。前回(922日)の尋問では、「許さない会」が合意したと言っていましたが、「許さない会」は合意していなかった。記憶違いか、ウソを言っていたのかのどちらかであり、柴山校長の間違いがただされました。

 〔地労委のあっせんも拒否〕96622日、福岡地方労働委員会の河野委員が電話で団交ルールの確立を求めたのに対して、これをまったく無視。組合側は岩本弁護士を窓口にするように要請したことも拒否し、団交の前提であるルールの確立の努力さえしなかった。

 〔団交を拒み続ける〕明治学園は地労委の介入を拒み、当事者間で解決すると言いながら、青柳さん側の団交申し入れを拒否し、日時や場所、人数を一方的に押し付けるだけで、これでは正常で対等な関係の団交ができなかった。地労委は975月2日に団交に応じるように命令を出しながら、それでも明治学園は中央労働委員会に再審査を申し立て、中労委からの申し入れでやむなく団交に応じるようになりましたが、一貫して労働組合法7条に反する団交拒否をつづけていたことが明らかにされました。

 〔見かねた警察官が団交を勧める〕96年10月19日の「バザー」の日、通告通り組合は団交を開くことを求めましたが、明治学園は、これを拒否しました。その際、警備を担当した戸畑警察署の警備課長が「団交の期日ぐらい決めたらどうか」と柴山校長に忠告しています。しかし柴山校長は「聞いていないし、警察が言うはずがない。」と拒否しました。

 〔神父であっても断固拒否〕これまで明治学園の門前には、本田、大倉、上原、谷、福嶋、マルセルなど多数の神父が駆けつけています。上原、福嶋神父は、一時学園内に閉じ込められたりしましたが、柴山校長は「青柳さんの関係者全部排除する」と言い切りました。

 〔和解を断る〕罰金刑だけの第二審の判決後、解雇無効を求める地位保全の仮処分の審尋の際、草野裁判官は積極的に和解を勧めましたが、明治学園は自分達は間違っていないので、裁判所の判断を仰ぎたいとして和解を拒否しました。97年6月には、司教協議会の浜尾文郎会長が明治学園の今泉ヒナ子理事長等に「一刻も早く解決するために、和解されるよう最大の努力をしてほしい」と申し入れましたが、この日の尋問で柴山校長は「私達は裁判の中で解決するので、祈りながら見守ってほしい」と断ったそうです。                (報告者 山本 保)

次回は来年2月2日午後1時半から筒井さんの尋問と被告側の反対尋問。

 

 


 


  連載 「かなざわぶんこ」

苦難の20世紀を生きて(8)

−道険し、されど−         

金澤 恂

三つ児の魂 ー4ー

 既に故人となって、今は天国で安らかに眠っていることであろう私の両親は、私が幼い頃から、ことある毎に私に対して「他人に好かれる人間となれ。絶対に他人様から怨まれる人間となるな。」と言われつつ過ごして来た。

こうした点、今の私自身を省みる時、その反対を常に活きている、活かされている私は、この父母の意向に背いて歩いている自分が如何に親不孝者であることがしみじみと骨身に沁みて判る。

 が、一見、親からの教えとは逆行する道と思われる、現在、歩み続けている自分の道を、決して後悔してはいない私、という者も、そこに現存している。否、そうした道程にこそ、私という者の存在価値が生れて来ると言えるのではなかろうかと思われてならない今日この頃の私である。

 若し、私が上記のような父母からの言うなりに従う者で終わってしまう人間であったのならば、誰からも「好かれる」人間でいられたのかも知れない。ゆめ、他人から「憎まれる」こともないであろう。けれど、現在の私には何時しか「それが何だ」と言う声が心の奥底から聞こえてくるのだ。やはり、キリスト者たる者は、1面に於いて「吼える獅子」ともなる必要もあるのではないだろうか。 世の不正義と厳然とした態度で闘う義務も。 そこに於いて、個人的には、兄弟である筈の同じキリスト者同士で、こうしたものへの見解の相違から口争いをするという状態に陥る場合も多々あり得る。

 私が常に己の座右の銘としている大切にしている言葉、それらの多くは勿論、聖書の中に記されているイエスが語られたといわれた、と言われている、お言葉である。その内でも最も私の心肝を揺るがす御言葉の一つに「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(マタイ712)である。 ことを成すに当たって、先ず、そのものが、このお言葉に合致したものであるか、否か、を秤に掛け、実践に移すのが、何時かしら、私の「決まり」のようになってしまった。 そして、一旦「これだ」と思いこんだ事柄であるのなら、生命を掛ける程までに、徹底的に行うのが、良いのか、悪いのかは知らないけれど、私の性格である。 こうした「性質」を「骨が在る」と褒めて呉れている友人も数多くいる反面、反感をかわれ、「憎々しく」思っている人たちも大勢いることも知っている。

 かと申して、「憎々しく」思っている者等のご機嫌を取る為に営々として築き上げた己の建物(?)を壊すことに何の意味があろうかと考える私、そんな弱音を吐く者であったのなら、最初から「設計図」する書く必要すらなかった筈ではなかったのではなかろうかと。

 けれど、私が建てようとしている「建築物(?)」を「憎々しく」思っている人たちの多くは得てして時の権力者、資産家、また、それ等の人たちの、お余りを頂こうとする犬にも等しい小さくされた者たち。 これ等の者たちに敗けてはいられない、敗けるものかと今日も頑張る「憎まれ通し」の私。

 

 

 

 

           東京正平委からのご案内

集 会     「日の丸・君が代強制反対12・3集会」

日 時 12月3日(金)午後7時〜午後9

場 所 日本キリスト教団信濃町教会

    JR信濃町駅下車3分

発言者 都内中高教員

主 催 「日の丸・君が代強制に反対するキリスト者・教師・生徒・市民のネットワーク」

後 援 NCC靖国問題特別委員会

    日本カトリック正義と平和協議会

 

学習会     「日の丸・君が代」

日 時 12月11日(土)午後3時〜午後5

場 所 幼きイエス会・ホール

    JR四ッ谷駅下車1分

講 師 船木暢夫さん

主 催 カトリック東京教区正義と平和委員会

 

 

集 会     「戦時・性暴力−過去〜現在−にどう立ち向かうか」

日 時 12月12日(日)午前10時〜午後4時半

場 所 早稲田大学国際会議場

    営団地下鉄早稲田駅下車5分

内 容 ビデオ上映、現場からの報告、アピール、パネルディスカッション

主 催 「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク

賛 同 カトリック東京教区正義と平和委員会

 

 

    「東京カトリック正義と平和委員会・12月迄の予定」

年間テーマ「つらぬけ平和憲法!」(東京正平委の合言葉)

 

開催日

開始時間

場所

内容

講師

1211日(土)

午後2時

幼きイエス会

講演会「日の丸・君が代について」

船木暢夫さん

1213日(月)

午後6時30分

会館

定例集会

 

 

あとがき

インターネット環境の出現により情報革命が起こりつつある。世界中のあらゆるコミュニケーションに関して限りなく風通しがよくなる。10年間は技術向上に向かい,後は究極のコミュニケーション環境をどのように人間が使うかにかかる。

使い方により薬にも毒にもなるものであるから,本質を見極めながら作り上げて行こう。(KN)