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イラスト・木村りょうこ |
朝、始業前に医局でコーヒー片手に新聞を読みつつ過ごす。朝日がさわやかに窓から差し込み、激務の日常にひとときのゆったりした時間だ。私が社会情勢をしっかりと知るのはこの時間だけ。くつろぎながらもついつい夢中になって新聞を読んでしまう。
誰かが医局に入ってきた。「おはうぃ〜っす」。新聞から目を上げず、誰だか確認せぬまま一応あいさつの言葉を発した。
「おはよう。昨日さぁ、テレビで『白い巨塔』見たんだけど、財前が医局に入ってくると医局員が全員立ち上がってあいさつするの。すごいねぇ。今時あんな医局あるのかねぇ?」
声の主はそう言いながら前のソファに腰を下ろした。あああ! その声はH部長! 部長といえば教授に匹敵する役職なのに、私ときたら立ち上がってあいさつするどころか、新聞から目も上げずに「おはうぃ〜っす」。
なんてこった! 朝ののどかな私のひとときは緊張の時間に変わった。今更目を上げることもできず「そ、そうですよね〜」と力無く相づちを打つ。動揺を隠そうと、ペラリとページをめくりながらH部長をのぞき見た。部長はテーブルの上の器に入ったあられをぽりぽりとつまんで食べている。
「あんな風な態度を取ってもらえるなんて今時ないよね。古き良き時代だよねぇ」
「え…ええ、まぁ」
H部長は温厚で通っている。それにしても、財前先生ほどじゃなくてもいいから下の者にちゃんとした態度くらいは取って欲しいですよね。分かります、その気持ち。こちとら相変わらず新聞を広げているものの、もう紙面なんか読んじゃいない。後悔先に立たず。この緊張の空間を何とかしてくれと神に祈りたい気分。
すると、どたどたと騒がしい足音が近づいてくる。バターンと乱暴に扉を開けたのは研修医だった。この際、神様じゃなくても研修医にだってすがりたい。
「おはようっす。腹減った〜!!」当直明けとおぼしき研修医君は、若者らしいさわやかさで、あいさつの声も大きく元気がいい。「何か食うもんないっすかね?」と言うやいなや研修医君は、H部長が食べていたあられを器ごと持ち上げると、そのまま入ってきた時と同じ勢いで医局から出ていってしまった。
最後のあられをつまんだまま、器のあったあたりをじっと見つめるH部長。ひええぇぇえ! 私はますます新聞を高く持ち上げて、今の出来事を見なかった振りをした。やっぱり研修医なんか頼りにならん!!(一体なんの頼りだ?)
次に扉を開けて現れたのは普段からスマートなG先生だ。やった! チャンス! G先生と入れ替わりにこの場を離れよう。普段はちょっと慇懃無礼なG先生だけど、こういう時はむしろそのほうがいいくらいだ。H部長のお相手はG先生にお任せだ。
「おはようございます!」助かったと思った私は、声も大きく、新聞を畳みながら腰を浮かせた。…が次の瞬間、自分の馬鹿さ加減に涙が出そうになった。H部長の時が新聞読んだままで「おはうぃ〜っす」で、G先生の時には入ってくるなり新聞畳んで立ち上がりながら「おはようございます」かぁ!? 一体、どっちが偉いんだ? この態度の差をH部長はどう思うのか? あああ! 私ときたらなんて馬鹿なまねを! ち、違うんです、H部長、誤解しないで! 私はその、別に…部長のこと尊敬してます、もちろんG先生より役職が上だって分かってます、と心の中で言い訳をしつつ、浮いた腰をゆっくりいすに戻した。
「おはようございます」
G先生は、いつも通りスマートに2人にあいさつしながらソファに座った。手には自分の分だけのコーヒーを持っている。もうこうなったらG先生に賭けるしかない。なんとか、H部長を持ち上げるようなことを言ってくれい! G先生は一口コーヒーを飲んで、いつものように冷静沈着に言った。
「H部長、班会議の書類、早く出してください。あと先生の分だけです」
その時の私の心象風景はムンクの『叫び』のようだった。
「ああ、ふぁかった。ほめん、ふぐやるよ(ああ、わかった。ごめん、すぐやるよ)」
H部長は、口いっぱいにほお張ったあられのせいで、十分返事ができない。そのうえ慌てて立ち上がって、ばほばほとむせてしまった。そんなH部長を見るG先生の目はいつものようにクールで冷たかった。「あ…あの、お茶を!」、とりなそうとする私をH部長は制止して、背中を丸めてせき込みながら医局を出ていった。ああ、こんなにいい人なのに……。H部長ごめんなさい。でもここの部が穏やかでのびのびとしているのは、全部H部長の人柄のおかげです。
医局の窓からは、朝日がさっきと同じように差し込んでいる。G先生は私の置いた新聞を広げつつ言った。「白い巨塔、見てる? やっぱ財前は田宮二郎だよね。僕、時々雰囲気が似ているっていわれるんだ」
白い巨塔なんか嫌いだあ!