Asano Seminar:Doshisha University
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INTERVIEW
輿掛良一さんのインタビュー
2007年4月16日 林眞須美さん支援会で講演された輿掛良一さんが、
大阪梅田の新阪急ホテルにて午後1時ごろからインタビューに応じてくださいました。

聞き手:2回生 鍜治由佳
【輿掛良一さんプロフィール】 くつかけりょういち。1956年、大分県生まれ。1981年の大分・女子短大生殺人事件(みどり荘事件)で不当逮捕された冤罪被害者。1審で無期懲役判決、2審で逆転無罪判決を勝ち取った(確定)。事件前まではホテル勤務。逮捕後に解雇。現在はダンプカーの運転手をしている。「当番弁護士の無料救急活動を支援する市民の会・大分」メンバー。労働組合「大分ふれあいユニオン」書記次長。
○○「みどり荘事件」とは>

 高裁で逆転無罪/当番弁護士制度発足の契機に大分市で一九八一年、女子短大生(当時十八歳)がアパート「みどり荘」の自室で殺された事件。輿掛さんは殺害された短大生の隣室に住み、殺人容疑などで逮捕された。大分地裁は、捜査段階の自白調書や科学鑑定の結果などを根拠に無期懲役の判決を下した。

 しかし控訴審では、自白の強要や科学鑑定のずさんさなど捜査の問題点が次々に指摘された。なかでも、DNA(遺伝子)鑑定の権威とされた大学教授が部下にまかせて作業に加わらないまま鑑定書を出していたことが分かり、鑑定の誤りを認める異例の展開をたどった。事件発生から十四年後の九五年六月、福岡高裁は自白調書や鑑定書の信用性を否定し、逆転無罪を言い渡した。

 輿掛さんは逮捕後、捜査員に「被害者の部屋からお前の指紋が出た」と嘘を告げられ、親に面会させることを条件に捜査員がねつ造した調書に署名したとされる。大分ではこの事件を教訓に九〇年、弁護士が当番制で常時待機し、被疑者や家族、知人からの求めに応じて警察署や拘置所に接見に出向き、無料で法律相談に応じる「当番弁護士制度」が発足。その後、急速に全国の弁護士会に普及した。

 参考文献:小林道雄著『〈冤罪〉つくり方 〜大分・女子短大生殺人事件〜』(講談社、1996年)※1993年発行の小林道雄著「夢遊裁判」(講談社)の改題

 輿掛さんインタビューの様子©浅野ゼミ
――今日はよろしくお願いします。
 「はい。お願いします。」

――いろいろお聞きしたいこともあるのですが、まずは当時輿掛さんが受けた警察からの捜査や取調べについて教えてください。

 「事件直後からの任意での事情聴取と、逮捕されてからの強制捜査、取調べという形で警察から捜査を受けました。事件直後、1981年6月27日から28日の深夜にかけて事件が起きたのですが、その事件直後に現場のみどり荘というアパートの自室で最初に事情聴取を受けました。その時は当日の行動や、勤め先などを聞かれて、聞かれるままに答えました。それが最初で、その次が朝方の午前4時ごろで、他の刑事が話を聞きたいということでした。自分はすでに一人の刑事に話を聞かれましたから、と言ったんです。そしたらその刑事は他の住民全員には署の方に来てもらって話を聞いている、後は君だけだから、そう言われたんです。ところが、後でわかったのですが、実際事情聴取という形で警察に呼ばれたのは自分だけだったんです。その時点から、警察は自分を疑っていた。しかし、自分はそのとき自分が警察に疑われているということには気付かなかった。そして、警察が言うままに協力していた。それが事件直後の事情聴取。
 次が、6月30日。この時も、警察の方から話を聞きたいと言われた。当時会社勤めで、午後から仕事だから午前だけなら良いと返事をし、大分署の方に行きました。すると、警察署のほうでポリグラフ検査の装置(うそ発見器)が準備されていた。その時、自分は協力しているのに、ポリグラフ検査をする意味がわからなかった。なんで正直に話しているのにうそ発見器にかけられなければならないのかと思った。『なんでそんな検査をされなければならないのか』と刑事に聞くと、『受けられない理由でもあるのか』と聞いてきた。そこで、検査を受けても悪いことはないから応じてしまった。それが2回目の事情聴取。午前中の予定だったのに、夜中まで続いた。」

――うそ発見器を使用しての事情聴取だったということですか。

 「質問に、すべて『いいえ』だけで答えてくださいと言われるんです。うそ発見器での質問が終わってから、話を聞きたいということで、再び事件当時の様子を聞かれたんです。姉が心配して電話をすると、警察は、警察署の周りに新聞記者がいて、返せないから待って下さいと、マスコミのせいにした。私が家に着いたのは結局12時過ぎだった。その日の事情聴取によって、大分合同新聞に重要参考人という風に報道されたんですよ。当時はマスコミにも知れてないはずなんですよね。それなのに、報道されたということは、警察関係者が新聞記者に話したとしか考えられないんですよ。それが2回目だった。

 その後、大分東署、県の運転免許試験所の控え室、そして別府署で事情聴取が行われました。その間、事件発生当時に着ていた下着や毛髪を提出するように言われて、こちらにも応じました。指紋とか足跡を出してくれと言われて全部出した。それで、自分の疑いは晴れたと思った。事件から1ヵ月が過ぎた8月まで、会社から自宅待機にしとけと言われていました。」

――その自宅待機の間に、警察署からの事情聴取が続いていたということですか。

 「警察が言ったところまで出向くと、警察の車に乗せられて、どこに行くかわからない。その度に場所が変わる。」

――質問をする警察官も変わるんですか。

 「立合い人は変わる。警察は二人ペアで取り調べをするんです。主任の警察官は変わらないが、補助は人が変わった。」

――立ち合っている人が違うということですね。

 「はい。その後、逮捕されたのが半年経過した1982年1月14日でした。」

――警察からの事件直後の事情聴取の中で、自分が犯人だと決め付けられているという感じを受けられましたか。

 「最初はまさか自分が疑われているとは思わなかった。だから、警察に話を聞かせてくれないかと言われて協力したんです。30日のポリグラフ検査から、自分が疑われていると気付いた。下着などを出せと言われたら、全部出しました。犯人だと疑われること自体が腹立たしくて、なんで自分は関係ないのに疑われなければならないのか、という思いが強かったんです。自分の無実が晴れれば、という気持ちが強かったから、なんでも出しました。」

――そこから無実が判明するまで14年かかったということなんですが、その14年間は輿掛さんにとってどのようなものでしたか。

 輿掛良一さん©浅野ゼミ
 「逮捕された時はまだ25歳だった。無罪判決が出たのが39歳。自分の友人は既に家庭を持って子どもを持って、という生活をしていた。だから事件に巻き込まれてなければ、自分もおそらくそういう人生を歩めていたのではないかという思いがあった。失ったものが自分だけならばまだ我慢できる面があるけど、自分だけではなく自分の親兄弟や、親戚までも巻き込んでしまったことが許せない。犯人の親兄弟、親戚ということで、被害を受けている。人にも言えない。だから、単に犯人とされた人の人生だけでなく、周りの人までも失っているものが大きいということを知ってもらいたい。
 その14年間という時間を失った分、得たものもある。その得たものの方を考えていきたいです。失ったものを考え出すと、生きていけないほど悔しい。恨みがどんどん大きくなるんですよ。だから自分は人との出会いという、得たものを考えて、社会復帰をしようと思った。自分が冤罪に巻き込まれて、例えば高裁段階で無罪にならなくて再審までいったりしていたら、もう年老いてしまっていて、社会に出たときは残りの人生を恨んで過ごしたな、と思います。そんな自分としては、そのような受け止め方でいます。私は出たときにはまだ40歳くらいだったので。
 それから、自分の人生を取り戻すといった考えで今まで生きてきたということです。苦労をかけた親も病弱だったから、自分が面倒を見ていかなければならなかった。だからできる限りの職業訓練を受けて、社会復帰して仕事を今も続けています。失ったものを考えると、もう世の中すべてうらみの対象になる。特に間違った捜査をした警察、検察、1審の裁判官、誤った報道を続けていたマスコミ。その人たちの中に、無罪判決が出てから自分の前に謝ってきた人は一人もいないんですよ。そういう人たちに対して、恨みというのは未だにあります。
自分の恨みを晴らすような人生だったら結局その人たちに負けたことになる。だから、謝罪を要求はしない。けど、その 人たちの生き様は批判したいし、批判し続けることが恨みを晴らすことだと思って、いろんなところで呼ばれたときは、その無責任ぶりを話すことにしているんです。
 常日頃、裁判官は罪を犯した人に対して、責任と反省を求めるのに、いざ自分が誤った判決を出したときといえば、一言の謝罪もない。これが現実。そして、警察、検察でも、責任を取れと取り調べを受けたときに言われ続けていた。なのに、誰一人、責任を取り切った人がいない、ということを訴えたい。本来それをチェックすべきマスコミも、チェック機能を果たしていない。
 ちょっと余談になるんですけど、冤罪事件がなぜ起きるのか考えてみます。冤罪被害を受けた人には取材に来るが、逆に冤罪を生んだ張本人、誤った捜査をした警察官や検察官、裁判官への取材はないんです。そこで、なぜ間違えたのかという取材をもっとしてもらいたいという思いがある。
 被害を受けた人のことは報道されても、冤罪を作った人たちの報道はされない。間違った捜査をしても、世間の人から非難される恐れはないという安心感を与えてしまっているんです。だから冤罪は繰り返される。」

――警察とマスコミは癒着しているとよく言われますが、そういうことも実際ありますよね。

 「警察が間違ったことをしても、それに対する厳しい記事はなかなか目にしない。今のマスコミは本来のマスコミの役割を忘れているんじゃないかな、と思いますよね。」

――情報がもらえなくなるから、警察に対してぺこぺこしなければならないということがありますよね。

 「私の無罪が確定してから、県議会で私を支援してくれた県議の人が県警本部長に、『事件によって失われた青年の人生についてどう思うか』と聞いた。すると、県警本部長は『捜査は適正であった、警察に責任はない』と答えた。それについて、大分の新聞記者がその本部長に議会が終わって取材に行った。県警は輿掛さんに謝罪をする気はないのかと聞いた。すると、本部長は『マスコミは謝ったのか』と言ったんです。当時の新聞記事は記者が勝手に書いたことであり、県警は一切発表していないという。いわゆるリークなんです。『記者は警察情報を求めて、あることないこと書いた。記者会見では言っていない、それは全部記者が勝手に書いたことだ』という。『マスコミが謝ってないのに、なぜ警察が謝らなければならないのか』という言い方をしてくる。」

――そう言われたら、何も言えないでしょうね。

 「マスコミも正式にはどこも謝罪していなかった。だから、それを批判できなかったんです。」

――1994年に起きた松本サリン事件の冤罪被害者の、河野義行さんの場合は、警察もマスコミも謝罪しました。輿掛さんの場合との違いは一体何でしょう。

 「地域性もあるし、松本サリンの場合は、真犯人がオウムであるということが明らかになった。自分の場合は、無罪になっても、真犯人が逮捕されなかった、その部分が大きい。真犯人が出れば、これ以上何も言えないから警察も謝るしかない。だから謝るんです。仕方なく、言い逃れができないからということですね。
自分の場合も、無実になった時点で、事件の時効15年まで1年以上残していたのに、再捜査なし、という警察発表があった。それに対してもマスコミは批判ができなかった。記者たちは捜査批判をしなかった。」

――警察を見張る役割をマスコミが果たしていないということですね。マスコミの報道は、当時の誤った捜査を助長してしまったということですか。

 「それは大きいと思います。当初、目撃証言とか、自分とは関係ない真犯人に結びつくような報道もされていたんですよ。それがいつの間にか報道されなくなった。初めはモスグリーンの車が現場から走り去ったとかいう情報があったんです。また、複数犯であるとか、犯人は被疑者の顔見知り、などという情報もあったんですよね。安心して、ドアを開けたという報道がされていたのが、一切なくなったんです。」

――警察からの圧力ですか。

 「私を犯人だという見方の捜査をしたから、マスコミもそれに従ったということでしょうね。」

――一斉に同じ方向に、それしか見えなくなってしまったといことですね。


 「普通だったら、目撃情報や証言は確認を取れたんですか、とマスコミが警察をチェックするべきだったのに。その後の捜査がどうなったかということは記事にならなかった。」

――それで結局真犯人が見つからなかったということに繋がってしまったのかもしれないですね。

 「あと、被害者の体に付着していた体液は2種類出ているんです。それで、複数犯という可能性があった。また、被害者の体についていた体毛もO型のものだった。私はB型だから、違う血液型の体毛がつくのは特異でしかない。」

――結果的に無罪になったのは、そのような証拠が重要になったということですか。

 「そうですね。そのような裁判で明らかになったことも、実は一審の時には報道されていないんですよ。弁護側にとって有利なことが、一切報道されていない。マスコミが取り上げていない。裁判の中で明らかになったのに、報道されないんです。
 一審のときは、自分の無実を信じてくれるのは、弁護人と、母親、姉の4人だけでした。そういう孤立した状況の中できちんとしたチェックを果たすべきマスコミは、裁判を傍聴しに来ていたのであれば、報道すべきだったのではないでしょうか。」

――その当時に、無実になる有力な情報があるという報道をしたマスコミは一つもなかったのですか。

 「ゼロです。最初は大きく取り上げた記事が多かったのが、裁判が進むにつれて記事が減りました。求刑や、判決になったらまた大きく取りあげるといったように、偏った記事が多かった。」

――その記事を見た人は、大きな見出しだけ見て、『やっぱりな。』と思うんでしょうね。

 「裁判を受けている本人や弁護団は、証拠を一つずつ崩していったから、『これで無罪確定だな。』と思っている。そのような思いで一審判決に臨んだんですよね。判決前日に、弁護士さんと面会して、『明日判決やけど、無罪が出てもはしゃがないように。』と言われた。みんな無罪だという確信を持っていた。それが一般の人に伝わっていなかったというのは、それを伝えるべきマスコミが報道してくれていなかったということです。」

――弁護団の方にマスコミから取材が行ったりすることはなかったのですか。

 「おそらく判決前は行ったみたいですね。有罪になったら記者会見を開かなければならない、世間の人からしてみれば、それ見たことかというようなものです。」

――その時には無罪だというような報道にはならないですよね。

 「女子短大生殺人事件被告に無期懲役判決、という大きな見出しになりました。」

――マスコミは結局真実を報道しなかったのですね。

 「一審の時は、そうですね。」

――その後はどうだったんでしょうか。

 「保釈になった時に、控訴審の途中でマスコミ各社、新聞テレビ局全社と弁護士立会いのもとで取材を受けた。保釈というのは事実上の無罪ということなので、そのときはマスコミも取材をしなければならないという感じでした。ただ、なんで保釈になったのかということが分からないから、急遽申し入れて取材にくるといった感じです。それまでの法廷を毎回傍聴に来ていたら、どういう流れで保釈になったかわかるはずなんですよ。」

――そのときのマスコミ各社の様子はどんなものでしたか。

 「事件直後の記者とは人が入れ替わっていました。保釈のときには、若くて当時の状況を知らない記者が来た。だから事前に当時の新聞の報道を読んでから来てくださいと言っておいた。そして、取材のときに、『当時の報道をどう思いますか、ひどいですよね』と聞いてみました。しかし、誰も何も言わなかった。」

――自分には関係ないという感じですか。

 「そんな受け取り方でした。自分が書いた記事ではないという訳です。」

――今のお話から、当時のマスコミの報道のひどさが分かったのですが、事件発生当時の25年前と現在で、マスコミに関して変わったことと変わらないことは何ですか。

 「マスコミにも変わろうとしている人はいます。大きな事件が起きて冤罪だったということが明らかになったときは、なぜ冤罪事件が起きたのかという検証をします。しかし、また再び大きな事件が起きれば、他の社より自分の社が早く報道することに必死になる。報道合戦が繰り返されているんですね。
読者がそれを望んでいるのか、といえばそうではない。報道に携わる人たちが『他のテレビ局や新聞社より、うちのほうが詳しいですよ』という競争をしている感じがする。冤罪を助長する記事を書いていかに反省したかということが、次の事件に全然活かされていない。」

――マスコミのそのような体質は変えていけると思われますか。

 「私のところに取材に来た当時若かった新聞記者たちにお願いしたのは、新聞報道で報道された人がどれだけ人生を変えられてしまうか、今回のことで分かってほしいということでした。これから出世して上司になった時に、新聞やテレビの報道を変えてほしいと頼んだんですよ。だから、そういう報道被害を理解した人たちがテレビ局で指導する立場になったときに、報道は変わってきてくれると思っている。そこは期待をしています。」

――では、次に近いうちに適用される裁判員制度に関してどう思われるか教えてください。

 「裁判員制度には反対です。」

――それはなぜですか。

 「裁判員制度は市民感覚が導入されるから冤罪がなくなるんじゃないかという意見の人が多い。しかし私の体験からすれば、いわゆる市民感覚ほど恐ろしいものはない。なぜなら、私が逮捕されて連行される姿が映されたテレビ、新聞の画像からあいつが犯人だとほとんどの人が思っていたらしい。私を支援してくれていた人も、ほとんどがそう思っていたんです。それくらい、当時の報道から人々は決め付けてしまっていた。それが市民感覚なんですね。市民は事件が起きて連日報道されたその報道を見聞きしたうえで、裁判員に参加するわけですよね。」

――マスコミの情報に流される可能性が高くなるということですね。

 「被害者感情が強くなると思うんです。また、被害者や犯人とされた人と関係ない者が裁判員になるというわけではないと思います。」

――関係のある人が裁判員になってしまう可能性もあるということですか。

 「本人の申告がない限りなってしまうことはあると思いますね。知り合いであっても、知り合いではないと言えば、調べようがないですよね。その問題がクリアになっていないということが不安なんです。そして、その裁判員になった人たちが、仕事を休んでまで裁判員をして長くかかるのに、自分の意見をしっかりと言い続ける人たちであればいいんですが、周りの人の意見に流される人が日本人には多いんですね。
 安易な裁判員だったら却って怖いですよね。強く発言をする人が有罪を訴えているとしたら、その人に対して反対する意見を何人が言い切れるかということです。そういう社会では、日本人が裁判員制度できちんとした意見を言い続けることができるのか不安なんですよね。
 それよりも、裁判官の数を増やしてほしい。裁判官に余裕を与えて、事件件数を少なくして、じっくり書類が読めるように、裁判官を増やしてほしいんです。」

――裁判を受けられている間に、裁判官に余裕がないと感じられたんでしょうか。

 「裁判中は感じなかった、分かりようがなかったんですね。一審で、無実の証拠が明らかになったのに、なぜ気付いてくれないのかなあという思いはあったんですけど、有罪判決だから仕方がないという思いでした。
その後、現役の裁判官や元裁判官と話をする機会があったときに、今の裁判官は事件件数があまりにも多くて余裕がないという話を直に聞きました。裁判官の数は弁護士の数に比べてはるかに少ないんです。だから、裁判官の数をもっと増やしてほしいと思ったんです。」

――では、次の質問に移ります。死刑制度についてどう思うか聞かせてください。

 「死刑制度については、制度そのものは存在してもいいと思っています。しかし、死刑確定者の執行は停止するべきだと思います。」

――事実上死刑制度は残しておいて、執行はしないということですね。

 「はい。なぜかというと、死刑囚の中に冤罪の可能性のある人たちがいるからです。」

――なぜ存続はいいと思われるんでしょうか。

 「福岡拘置所で死刑囚を遠くから見てきたということもあるんです。その態度は、死刑執行におびえる恐怖心がすごいらしい。いつ自分が執行されるか分からない。足音だけで誰が来たかわかるくらい神経が研ぎ澄まされている。死刑執行の恐怖におびえる毎日です。
 被害者感情として、自分の家族が被害にあった人からすれば、死刑にしてもらいたいという気持ちは分かります。しかし、執行されればそれで終わりです。一生の償いという意味では、死刑執行を待ち続けるほうが苦痛ではないかな、と思うんです。死刑判決になった人でも、被害者の供養を続けている人もいる。判決を待ちながら、被害者の冥福を祈るという形です。お経をあげている人の声を遠くから聞く時がありました。本当に罪の償いをして反省している人もいる。その人たちを執行してしまったらどうなのかな、という気持ちがあります。
 国による殺人は許されない。特に冤罪を訴えている人たちを執行するのは許されない。だから裁判で死刑判決はあっても、執行はするべきではないという考えなんです。」

――終身刑と同じような考えですね

 「今、無期懲役と死刑では差があるから終身刑を作ろうというけど、ならば仮釈放なしの無期懲役を作ればいいと思います。」

――無期懲役だとたいてい出てきますよね。

 「20年位したら出てきますね。出られる可能性がある。」

――そうすると、刑務所が埋まってしまうとも言われますが。

 「それならば刑務所を増やせばいい。それは社会の問題であって刑務所を作る予算を増やすべき。再犯の可能性が多いのだから、刑務所を増やせばよい。」

――最後に、マスコミを目指す学生たちに向けてなにかメッセージをお願いします。

 「『マスコミに入りたい』と思っていたときのことを大事にしてもらいたい。今、勉強していろいろな取材などをしたり、報道のあり方を学んでいる。報道の力は、世間的には非常に大きいんです。私の場合は冤罪報道もされたけど、逆に自分が無罪になったときにも報道してもらった。いい面もあるんです。
 そういう意味でもマスコミの役割というのは大きいから、これからマスコミに携わる人には、もっと思いやりのある取材をして、記事を書いてもらいたい。書く人によって、記事も変わってくる。同じような言葉でも、ちょっとした思いやりがある言葉に変えれば、記事が柔らかくなったり感動を与えたりします。逆に、ちょっと厳しい言葉を使えば、人を傷つけることもあるでしょう。そういう問題意識を持ったまま、マスコミの仕事をしてもらいたいです。
 例えば、まったく自分に関係ない大きな事件が起きたときに、自分の身内が起こした事件と同じような記事を書くかということなんです。自分に関係のない事件、事故でも、もし身内が起こしていれば・・・と思うような心遣いで書いてくれれば、不公平で一方的な、取材不足の記事は出ないはずです。もう少し調べて、視点を変えた取材をしてもらいたいなと思う。
 みんなが同じ方向で取材をすると、警察が思うような報道になってしまう。1歩引いて、遅れてもいいから、他の角度から事件を見ていこうというような考えを持ってもらいたい。遅れるというのはマスコミにとって記事の価値が下がるというのは分かるが、遅れればだめかというとそうではない。」

――時間をかけて一つひとつの事件事故と向き合って報道していくということが大切なんですね。

 「今は取材が早すぎると思うんですね。警察の捜査より早いのではないかと思う。現場にはカメラが居座って、そこまでする必要があるのかなと思う。視点を変えた取材をしてほしいと思います。」

――今日は長い間ありがとうございました。

掲載日:2007年6月22日
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