日本から出た二人の国際ロータリー会長
ポール・ハリス、アーチ・クランフ……歴代RI会長とともに

レークプラシッドでハッピを着た東ヶ崎潔氏 1982年11月、スリランカ・コロンボで開催のRI会長主催南アジア親善会議開会式の一環。象に乗りパレードの先頭をゆく向笠廣次氏

忘れられないRI会長たち
 ロータリーの100年の歴史を語るとき、国際ロータリー(RI)会長についての話を忘れてはいけないでしょう。初代会長は、1910−11年度のポール P. ハリス。彼は、引き続き1911−12年度にも会長を務めています。ポール P. ハリスは、皆さまよくご存じのロータリーの創始者です。
 『奉仕の一世紀 ロータリー物語』(P296)には、1910年から1913年までは、新しい会長の年度が国際大会とともに始まったとあります。同書によれば、1910年の国際大会は8月15〜17日とありますので、ポール・ハリスの会長年度は、今よりも少し遅く始まったことになります。
 余談ですが、この年の国際大会はシカゴで開催され、登録者数60人と記録されています。
 さて、賢明な読者の皆さまは、前出の文章で「初代RI会長」ではなく、「初代会長」となっていることにお気づきでしょう。実は、1910年は初めてロータリー大会が開催された年で、この大会で「全米ロータリー・クラブ連合会」が新設され、その会長にポール・ハリスが選ばれたのです。従って、このとき彼は、全米ロータリークラブ連合会会長ということになります。ちなみに、この年度に初めて国境を越え、カナダにロータリーができました。
 ロータリーの名称は、1912−13年度に「国際ロータリー・クラブ連合会」に、そして、1921−22年度「国際ロータリー」という現在の名称に変更されました。
 歴代のRI会長の中には、ポール・ハリスのほかにも、今でもよく名前を聞く人が何人もいます。ロータリー財団の生みの親といわれるアーチ・クランフ。1923年の関東大震災のときに、RIから多大の救援が届きましたが、そのときの会長で『ロータリー通解』の筆者ガイ・ガンディカー。「四つのテスト」の草案者ハーバート・テーラー。『ロータリーモザイク』の筆者ハロルド・トーマス。
 RI会長の名前を挙げれば、次々と浮かんできますが、その中でも、日本のロータリアンにとって忘れることができないのが、日本から出た二人のRI会長、東ヶ崎(とうがさき)潔(きよし)氏と向笠(むかさ)廣次(ひろじ)氏でしょう。

世界市民 東ヶ崎潔RI会長
 東ヶ崎潔氏は、1968−69年度RI会長で、東京ロータリークラブ(RC)の会員でした。ガバナーになったのが1957−58年度です。RI会長のとき、「PARTICIPATE!(参加し敢行しよう!)」というテーマを掲げていますが、このテーマは、英語で言えば、1語、歴代で最も短いテーマになります。東ヶ崎氏は、1895年9月24日にアメリカで生まれています。RI会長に就任した1968年7月号の『ロータリーの友』には、「世界市民 東ヶ崎潔」というタイトルで『THE ROTARIAN』からの転載記事が掲載されています(本誌2002年8月号横組みP25〜27に再掲載)が、

 新RI会長は1933年以降日本に住んでいるが、生まれた地である米国とは深い絆で結ばれている。(中略)ジョージ・キヨシ・トガサキというその名前も、二つの文化の影響を表わしているものといえよう。

という書き出しで始まっています。この記事には、詳細に東ヶ崎氏のことが紹介されていますが、以下にその一部を抜粋して紹介します。

 大不況が深刻化した1932年に、ジョージは米国での生活を引き払い、将来移民法が改正されて家族とともに渡米できる日の来ることを期して、東京に移住した。日本では、豊かな英語力と米国とのコネクションを見込まれ、世界教育者会議日本事務局長、1939年のニューヨーク万国博覧会コミッショナーなどを務めて国際理解の増進に貢献した。
 1941年に始まった太平洋戦争は、ジョージに深いジレンマを感じさせたが、日本の当局は彼の誠実さを信じて、ジャパン・タイムズの編集局長として働くことを認めていた。この微妙な時期に彼は日米両国についての豊富な知識をもって、数多くの好ましからざる誤解と溝の生じるのを防ぐよう努めている。
水曜会に入会
 その後ジャパン・タイムズの社長に就任したが、このころ元ロータリアンであった人々がつくっている水曜会に入会するよう勧誘された。日本には1920年にロータリークラブが生まれていたが、軍部より外国との結びつきを警戒され、1941年に解散を命じられていた。しかし会員たちは、ロータリーの気高い目的と主義を保っていこうとして、毎週水曜日に例会を開いていたのである。厳重な食糧配給下にあった当時の水曜会の会員たちは、毎週の例会日にはそれぞれ弁当を持ち寄って会合していたと、ジョージは回顧している。
 RI理事会が日本のロータリーをRIに復帰させることを決議した当時のRI会長は、S. ケンドリック・ガーンジィ(1947−48年度)である。その翌年のRI会長アンガス・ミッチェルは理事会と諮って、ロータリー復帰の可能性を調査させるために、時のRI事務局次長ジョージ R. ミーンズを日本に派遣した。この結果、戦後の日本における初めての国際奉仕団体として東京ロータリークラブが復活したが、ジョージもこのときのメンバーにその名を連ねている。
 ジョージは1955−56年度、東京ロータリークラブ会長に選出された。その翌年オランダで開かれた国際クリスチャン指導者会議に出席の途次、サンフランシスコに向かう船上で、フィラデルフィア国際ロータリー大会で講演をしてくれるようにとの依頼電報を受け取った。
 さらにその年はオーストラリアのシドニーで開かれたRIの太平洋地域大会で主要講演を行い、それから2年後ニューデリーで行われたアジア地域大会でも主要講演者として登壇している。

国際人 向笠廣次RI会長
 向笠廣次氏は、大分県の中津RCの会員です。1982−83年度にRI会長を務めました。彼のテーマである「MANKIND IS ONE(人類はひとつ)」、そして、1982年の国際協議会での「世界中の人々はみんないとこ同士なのです」という言葉は、今でも好んで使われています。1911年11月9日生まれの精神科医で、1967−68年度にガバナーを務めました。
 『友』1982年7月号に掲載されている向笠氏の紹介記事のタイトルは「ムカサ ザ コスモポリタン」。ここからも彼の国際人ぶりがよくわかります。これは、松平一郎元RI理事の執筆ですが、以下に、その要旨を紹介します(本誌2002年8月号横組みP28〜30に再掲載)。
人種の差には関心がない
 向笠君は、国際的にも名を知られた精神科のドクターである。彼が人類を考えるとき、国籍、肌の色、言語、宗教などによる区別には関心がない。あるのは頭脳の機能による幾つかの性格の分類だけである。
 第二次世界大戦直前、世界各国で行われた精神医学の調査によると、各国における人間の気質、あるいは性格の分類がその国の人口に対する比率は、ほとんど同一であることが報ぜられた。向笠君もその調査に参加し、日本の場合の比率も他国と一致していることを発見した。
 さらに人間の考え方の相似性について、向笠君はいう。どこの国の文学でも音楽でも、われわれは鑑賞し楽しめる。どこの国民の行為でも美談はわれわれの心を打ち、悲しいことはわれわれの涙を誘う。これは世界中の人間の考えることには差異はないという何よりの証拠であり、平和を求める心に変わりはない。
1人の20代後には100万人
 彼はさらに自分の家族のルーツを考えてみた。彼の長男で今すでに3人の子どもの父親となり、彼の後継者として精神科医であり、かつロータリアンでもある廣昭君が、子どものとき、父親に「僕のおじいさん、おばあさんは何人いるの?」と聞き、さらにその前は、その前はと問い続けられ、計算した結果、10代前までさかのぼると、1,024人となり、20代前には100万人、30代前には10億人という天文学的数字になることを知った。この計算は子孫についても同様で、仮にわれわれが2人ずつ子どもを持つとすれば、10代後に1,000人、20代後には100万人、30代後には10億人になる。坊ちゃんとの回答から得た結果は、人類は疑いもなくひとつの大きな家族であるということであった。
 向笠君は、彼の前任者スタン会長の、「ロータリーを通じて、世界理解と平和を」のテーマを全幅的に支持し、それらを阻む不信と猜疑とを取り除くために、ロータリーの持つあらゆるプログラムを通じ、友情の橋をかけることは必ず実現できると主張している。

 いかがでしょうか。日本のロータリーから偉大な二人のRI会長が出ています。向笠廣次氏がRI会長になって20年以上が過ぎました。三人目のRI会長を望む声も次第に大きくなってきています。

引用文献  ・参考文献 
デイビッド C.フォワード 菅野多利雄日本語訳監修『奉仕の一世紀 国際ロータリー物語』2004年
『ロータリーの友』1968年7月、1982年7月、2002年8月の各号
向笠廣次「来るべき年度」(国際ロータリー『1982 INTERNATIONAL ASSEMBLY』(国際協議会講演集・邦訳)1982年)
『ロータリーの友』2006年4月号から

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