日本の歴史について その五

数日前(2007年)の地元の新聞(神戸新聞)の文化欄で、国語学者の大野晋(おおの すすむ)氏のことが取り上げられていました。この方の説については、いつか取り上げてみたいと思っていたのですが、これを機に少し述べてみようと思うのです。この方は日本語の起源は南インドのタミル語であるとの説を主張していらっしゃるのですが、その説を発表される数十年前の昭和32年(1957年)に日本語の起源という著書を岩波新書から出されています。そこではアイヌ語、琉球語、古代朝鮮語、をはじめ西方のトルコ語、ツングース語、蒙古語(モンゴル語)を含むアルタイ語族、それからアジア南方のポリネシア語などを、文化や生活習慣を含めて比較研究されたものの概説が述べられています。それは、大野氏の専門分野以外の考古学、人類学にまで及んだものだったので、出版後その分野の学者たちから大きな非難を受けたということです。考古学での発掘や人類学や言語学で行う現地調査などを行わずに、その分野に関する説を述べるのは何事かというわけです。
大野氏はその各分野の学説を参考にして考察されているわけですが、そうすると、その説を信じてはいけないということなのでしょうか。そんな説だったら初から世間に発表しなければいいのにと思うのですが、学者さんの考えることは私には理解できません。自分の発表した説が違う分野で考察され、役に立ち、新たな学説が生まれることのどこがいけないのでしょうかね・・・。そんな狭量な学者が多かった中で、一人、九州大学医学部教授だった金関丈夫氏は「すばらしい学者が出た」と大野氏の説を絶賛したということです。その後、その息子さんであられる弥生考古学が専門の金関恕(ひろし)氏は大野氏をサポートするかたちで今日に至っているのですが、両氏が他の分野(考古学・人類学・言語学)の専門家と対話した記録が一冊の本になり、「考古学・人類学・言語学との対話」というタイトルで2006年の12月に岩波書店から出版されています。
その前の1994年には新版の「日本語の起源」が出版され、そこでは日本語の起源は南インドのタミル語であるという説が述べられ、そこに行き着くまでの経緯が述べられています。これは1957年に出版された初版とは内容は全く違っていて、新版というよりは続編とした方がふさわしいくらいです。





今年(2007年)88歳になられる大野晋氏は大正時代の生まれということになります。東京下町の生まれである氏が中学生の頃、山の手に友達ができて遊びに行くようになって驚いたことは、同じ東京でも下町と山の手では言葉や生活文化が大きく違っていたということだそうです。当時、山の手では西洋化の大きな流れが押し寄せていて、人々はバター、チーズ、シチューというものを食べ、ライカの写真機を使い、外来語が当り前に話されている。一方氏が生まれ育った下町では、二月の初午(はつうま)の稲荷祭り、春の海苔採り、夏祭りの神輿、朝顔の花数えなどといった日本古来の風習を軸に生活が営まれていたということです。そのときに氏は、西洋の文化をこれほど力を入れて取り入れても、そう容易くは西洋化はできるはずがない、西洋というものが分かるはずがないと感じたということです。そして、どうして日本はこのように西洋を追いかけなければならないのか、何が日本に欠けているのか、どうして欠けたのかという疑問が湧き上がり、いったい日本とは何なのかということが氏の問いとなり、それがその後の氏のライフワークとなった。
日本文化の成立の歴史を考察するには言葉の問題から目をそらすことはできない。そして、もし日本語の系統を明らかにすることができれば、日本文化の由来、日本人の物の見方、考え方の基本的な型の成立の次第を知ることができるではないかということで、日本語の系統と同系語の探求を始められたということです。
そういった経緯があり、先人の研究を探ってみると、日本語の比較言語学が壁に当って、問題の答えを求めあぐねているということが分かった。その問題を解決する手がかりを氏は考古学、人類学に求められた。しかしながら、日本文化の成立を考えるには北方アジアに求めるだけでは足りず、南方アジアにも目を向けなければならないと決心されるのです。そこまでの経緯が旧版の「日本語の起源」では述べられています。





そういった経緯から、氏はインドのドラヴィダ語の中の一つであるタミル語というものを知るに至るのですが、日本語とトラヴィダ語の間に共通したものがあるということは、1850年代にインドで宣教活動をしていたイギリス人コールドウェルという人物が著書を出版して指摘していたということです。その著書については存在は知られていたものの、日本人の言語学者はあまり興味を示さなかったようです。そのおよそ100年後の1960年にはイギリスのオックスフォード大学のバロウ教授とアメリカのカリフォルニア大学のエメノー教授による南インドのドラヴィダ語と英語の比較辞典が出版されていたということですが、大野晋氏は1979年にこの辞典と出会うわけです。
氏は日本語の古語辞典(岩波古語辞典)を20年がかりで編纂した経歴があり、その経験から、他の辞書を入手した場合、始めの30ペ−ジほどを読むと、その辞書がどのくらい一生懸命作られたものかということが判るのだそうです。また、著者が何が好きか、何が得意で、何が不得手か、どんな性格の人かということまでおよそ判るのだとか。これは一言で云ってしまえば、氏の洞察力が優れているということでしょうが、こういったことは分野を問わず、その道を究めた人に共通していることではないでしょうか。
たとえば、ベルクソンという人は記憶というものは脳に記録されているものではないということを、言語障害のひとつである失語症のほんのわずかな症例からそのことを直観しました。また、肥田春充という人は霊魂の不滅を、現世における幸・不幸あるいは善悪正邪の応報から洞察しています。これと同様のことは18世紀の哲学者カントも「視霊者の夢」という論文で述べています。他の例を挙げると、刀の目利きは刀身の些細な違いからその刀が作られた時代や作者が判ります。また絵や音楽の専門家は少しの断片からその作者や時代が判るでしょう。こういった誰にも見えていること、知られていることの内から本質を見抜くということは、学問の世界でも重要なのだということを大野晋氏の言葉から改めて気付かされたのです。





日本周辺は石器時代の頃から交易が盛んだったということが今日では分かっていますが、それは主に海上交通を手段としていました。
交易範囲は北海道から東南アジアまで及んでいたようです。ですからその間に他の国から影響を受けたということは当然考えられます。
古墳時代前後には朝鮮半島からの影響を大きく受けていることはほぼ間違いないようで、以前この随想でも取り上げた「天日槍(あめのひぼこ)」は朝鮮半島の新羅(しらぎ又はしんら)の王子ということで、製鉄技術や機織(はたおり)、焼き物の技術を日本に伝えたということになっています。ところが言葉は外来語として入ってきたものはあるものの、根本的に変わってしまうといことはなかったようです。
その後時代が下り中国から漢字が伝わり、古事記、日本書紀、万葉集などが漢字を使って書かれました。これは日本語の発音を漢字の訓読みと音読みに当てたものです。そして平安時代になると、中国の影響を大きく受け漢文が日本に入ってきます。その後漢字の音読みからひらがなが作られます。世界で最初の(しかも女性作家による)小説、源氏物語はこのひらがなが使われています。
因みに、江戸時代中期の本居宣長が34年かかって編纂した古事記伝は、漢字の音・訓表記のみで書かれていた古事記を、江戸時代の人に読めるように漢字かな交じり文字に書き換え、あわせて注釈を添えたものです。ですから、それまでは古事記は一般的に読めるものではなかった。現在、この古事記が読めるのも宣長さんの恩恵なのです。この事に関しては八切止夫氏などは評価されていませんが、取り敢えず今はこの事には触れずに話を進めます。
古墳時代以降の日本が他国から受けた影響はほぼ分かっていますが、それ以前、弥生時代、縄文時代の日本語というものはまだよく分かっておらず、様々な説が挙げられています。その一つが大野晋(おおの すすむ)氏の弥生時代の日本語は南インドのタミル語の影響を受けているというものです。それではその前の縄文時代はどうかということはさらに考察が難しいようですが、琉球語(沖縄の方言)が縄文時代の言葉とつながっているのではないかという説もあります。これは言語学者の小泉保氏が挙げられている説です。この琉球語というものは、専門的に比べると万葉時代などのいわゆる大和言葉にひじょうに近い言葉なのだそうです。一方、北海道のアイヌ語は琉球語と違い、日本語との共通性は少ないということです。アイヌ語には文字がなく、古代のアイヌ語との比較ができないのものの、それほど大きな違いはないようです。このことに関しては、梅原猛氏は、アイヌ語研究の第一人者である金田一京助氏のアイヌ語は日本語が流入したものであるという説は間違っていると主張されています。大野晋氏の説では、タミル語の影響を受ける以前の日本語はよく判っていないということで、仮にX(エックス)語とされていますが、梅原猛氏の説によるとこのX語がアイヌ語ということになります。





言語の系統の比較をするには、単語、それから文法の対応を調べるのが重要だということですが、日本語のような構造では助詞・助動詞が特に大切なのだそうです。こういった比較言語学というものは
ヨーロッパでのインド・ヨーロッパ語を対象にして確立された学問ですので、それをそのまま日本語に取り入れることができるのかという疑問を大野氏自身もお持ちのようですが、そのルール、手続きは参考になるのではないかと思われるのです。
そういったことを踏まえて、先に述べたように、大野氏は1979年にトラヴィダ語と英語の比較辞典と出会うわけですが、その辞書の中のタミル語に関する説明が最も詳しいので、この背後にはもっと大きな辞書があるに違いないと直感されるわけです。そのことは後に事実だと判明するわけですが、そのことよりも、その辞書の中に日本語と対応する単語が多く目に付いたことの驚きの方が大きかったということです。氏はすぐにインド大使館へ電話をかけ、タミル語に詳しい人を紹介してもらい教えを請うことになるわけですが、1980年には自らインドへ赴くことになるのです。そこで講演を行ったりするうちに協力者が次々と現われ、タミル語の権威ある学者との共同研究が始まることになります。
その研究の成果は「日本語の形成」という700頁を超える著書となって2000年に発表されています。一方、言語を考察していく上でどうしても切り離すことができないのが生活習慣、あるいは文化・文明といわれるもので、そのことについては「弥生文明と南インド」という著書を2004年に出されています。また大野晋氏はそれだけではなく、人類学、考古学の専門家を交えての公開討論会も積極的に企画され、それを記録し、「シンポジウム・弥生文化と日本語」、それから「考古学・人類学・言語学との対話」という本にして出版されています。これらに目を通してみると、氏の情熱がひしひしと伝わってきて、思わず引き込まれてしまうのです。ところが、日本の専門家の中にはこのことを頑なに認めようとしない人もいるということで、中には新聞紙上であからさまに批判を行う学者さんもいるそうです。
たしかに、大野氏自身も認めていられるように日本語とタミル語の間には相違点が四点あり、それがなぜなのかということが説明される必要があるということですが、それ以上に、比較言語学上否定することのできない多くの類似点が存在するのです。驚くことにその中には、日本独特のものとされている五七五七七という和歌の形式も含まれているのです。





大野晋氏の説によると、日本の縄文時代にはオーストロネシア語族の一つと思われる四母音、母音終わりの子音組織を持つ言語が話されていて、そこに紀元前数百年の頃、南インドから稲作・金属器・機織(はたおり)という当時の最先端の技術を持つ人々がやってきた。こうした文明が入ってくると言語も大きな影響を受けるため、それまでの言語の発音や単語を土台として、基礎になる言葉、文法、五七五七七という歌の形式を受け入れた。こうして弥生文明というものができあがり、そのときの言語は大和言葉の基となり、後の世に受け継がれていくことになる。当時、南インドでは文字はまだ使われていなかったので文字は伝わらなかった。
こうした南インドの文明は7000km離れた日本へ海上ルートを通って直接日本に入って来ただろうということですが、日本に入る直前の東シナ海で海流は朝鮮半島にも分かれているので、当然そちらにも文明は入っていったらしい。その後、紀元前108年に中国が楽浪郡を設置した影響で中国とのつながりが強まり、南インドとの交渉は薄れていった。紀元5世紀頃に日本は中国の漢字を学んで文字時代に入り、その漢字を万葉仮名として応用し、紀元9世紀になると仮名文字を作り上げ日本独特の文字を持つに至るのです。
その代表的文学が紫式部が書いた源氏物語ですが、先に述べたようにこれは世界で最初に書かれた小説なのです。
古代南インドでの五七五七七という形式を持つ歌はサンガムと云われるものです。このように歌の形式が対応していると判ったのも大野氏の研究の成果であり、それまで、インドのタミル語の研究者もそのことには気が付いていなかったということです。
紀元前200から紀元200までの400年間のタミル語によるサンガムの歌集は、年代順に四つの形式(アーシリヤ調・ヴァンジ調・カリ調。ヴェン調)に分けられるということで、そのうち四番目に発達したヴェン調という形式が五七五七七で歌われているのだそうです。ただ、ヴェン調では韻を踏むのが一般的だということで、その点は日本の歌とは違っています(日本の歌では韻は踏みません)





大野晋氏がタミル語の研究を始めて間もない頃(1979年)、協力者のタミル人の一人が話してくれたことのなかで、たいへん興味深いことがあったということです。それはタミルの古い祭りで、ヒンドウ文化が入ってくる前からあるもので、1月15日を中心に行われるのですが、その祭りでは人々は赤米でおかゆを炊いてカラスに供えるのだそうです。それを聞いた大野氏は氏の実家で行われていた1月15日に赤い小豆(あずき)がゆを炊いて食べる習慣を思い出したということです。この奇妙な一致を不思議に思った氏はいろいろと問い質してみると、1月15日の小正月の日本と南インドでの共通した行事は15項目ほど挙げることができたということです。そのうちのいくつかを書き出しますと、「1月14日の夕方にトンド焼きをする」、「注連縄(しめなわ)を張り、それに紙を垂らす」、「門松を立てる」、「丸い餅を二つ、三つ重ね、その上に柑橘類の果物を置き神に供える」。
こういったように、驚くほど似ている行事が行われているのですが、これは偶然の一致とは思えないのです。また東北地方では1月15日の夕方に、大豆の皮や蕎麦の殻に酒粕や豆腐粕を混ぜたものを器に入れ、それを「ホンガ、ホンガ」と言いながら家の周りに撒くことをするそうです。氏はそれを行うおばあさんに、「ホンガ、ホンガ」とはどういう意味なのか訊いたところ、それは知らない、と返事が返ってきたそうですが、実は南インドでも同じようなことを1月15日の夕方に行い、そのときは「ポンガロー、ポンガル」と言うのだそうです。(民俗学学者の柳田國男によると、長野県でも同様のことが行われていたらしい)このことをどう判断したらいいのでしょうか・・・。
こういった日本と南インドでの共通した事例は、他にも多く存在しているのです。例えば、墓と埋葬の仕方、機織の道具、焼き物の形状、土器に刻まれている記号、などなど。詳しいことは氏の著書、「弥生文明と南インド」に書かれてあります。
それから、野晋氏の著書「弥生文明と南インド」に記述されていることで興味深いことの一つに、子持ち壺と呼ばれているものの考察があります。

       

これは福岡県のスダレ遺跡から出土した弥生時代の壺です(高さ約40cm)。その形状から子持ち壺と呼ばれているものですが、用途は不明とされているそうです。





       

これは古代の南インドの墓から出土したもので、楽器を模した土器です。副葬品として墓に埋めていたものらしい。大きさはおよそ40cmで、上の福岡県から出土したものとほぼ同じ大きさです。形状がよく似ていますが、小さな壺の数が違っていて、日本のものは5個ですが南インドのものは4個付けられています。また、南インドのものは楽器を模したものですから周りの小さい壺は穴が胴体に貫通していません。ところが日本のものは楽器と同じように小さな壺も胴体に貫通しているのだそうです。壺の口も、日本のものはエラ状になっていて革を張ることを前提としているようです。ということは日本のものは実際に楽器として使っていたのでしょうか・・・興味が湧くところです。現在のところ、弥生時代の遺跡からは他にはこの形状の壺は発見されておらず、比較するものがありません。
古墳時代の子持ち壺はいくつか出土しています。古墳時代のものは台付きのものばかりで、弥生時代のもののように壺だけのものというのはまだ出土していないようです。ここ丹波篠山でも6世紀古墳時代の箱塚古墳群から子持ち壺が発見されているようです。記録によると、この壺も台付きのもので小壺は4個あり、その間に犬、猪、馭者、騎乗人物が飾られているということで、猪狩りの様子が表現されているのではないかとされています。
丹波篠山にほど近い京都府南丹市園部町の垣内古墳からも出土しています(参照)。





       

これは南インドで今でも実際に祭りで使われている楽器(太鼓の一種)で、大きさは高さが110cmあるということです。この楽器の存在がなければ、上に挙げた日本の子持ち壺が楽器か、あるいはそれを模したものであろうということは判明しなかったと云えます。





先に弥生時代の子持ち壺のことを述べましたが、縄文時代にも楽器として使われたのではないかと思われている壺が出土しています。それは
有孔鍔付土器
といわれるもので、このような形状のものも出土しています。壺の口のところに何やらあやしい穴が並んでいるので、これは何のための穴なのかということを、専門家は様々に考察しているようですが、今のところ結論は出ていないようです。壺の口に革を張るための穴だ、ということがもっともらしい感じがするのですが、現代のパーカッション奏者の中には、これの複製品に実際に革を貼り、太鼓として使っている人もいるようです。他の説には、何か酒のようなものを醸造するためのものではないかというもの、あるいは小動物を入れていたのではないかという説もあります。これも考えられないことはないが、ちょっと無理があるような気がします。たしかに、イタリアのポンペイの遺跡からはカタツムリを飼育していた壺が出土していますが、これは壺の全面に穴が開けられていて用途がはっきりしている。
紹介したサイトで解説されているように、縄文時代中期(約4000年前)には作られなくなり、その後は注口を持った有孔土器が出土するようになるようです。このことから、醸造説が有力ともされているようですが、この土器の大きさは様々あり、小さなものでは醸造は不可能なものまであるということで、どの説をとっても証拠が足りないようです。
このような出土品は他にも存在していて、中には明らかに楽器として使われていたようだが、どうやって音を発していたのか判っていないというものもあります。弦鳴楽器なのか、体鳴楽器なのか今でも議論が分かれているということです。
そういった出土品のうち、興味深いものの一つに鹿笛というものがあります。このサイトをご覧いただきたいのですが、ここで解説されているように縄文時代後期の遺跡から出土したもので、発掘されたのは1985年とされています。当初、この出土物の用途は判らず使途不明品とされていたそうだですが、後に調査を行った担当者が民族資料のなかに同じ形状のものを見出し、ようやくこれが鹿笛だということが判ったらしい。驚くことに戦前(昭和時代初期)まで鹿狩りで実際に使われていたということなのです。この昭和時代のものと縄文時代のものは形状、構造はほとんど同じで、材質も鹿の角が使われているのです。側面に吹き口があり、これが向こう側へ貫通していて途中に膜が張られています。それが振動して音が出るのですが、ですから、紹介したサイトで説明されている「サンゴ(鹿の胎児)の川などを貼って」という川は革のことだろうと思われます。古来から鹿狩りは雄に限られていたということで、ですからこの鹿笛の音は雌の声に似ているということになるのでしょうか。
俳人松尾芭蕉も鹿笛の音を好んでいたということですが、たしかにこの音は、悲しいような、寂しいような、日本人の心の琴線に触れる響きです。





日本で伝統的に使われてきた機織(はたおり)の機械は、中国大陸から伝わってきたとされていて、椅子に腰掛けた状態で織る高機(たかはた)といわれるものと、床あるいは地面近くに腰を落として織る地機(じばた)といわれるものがあります。実際にこうした織り機を使ったことのある人の話を聞いてみると、高機は地機よりも数倍速く織ることができるそうです。織り上がった布の風合いもかなり違っていて、地機で織ったものは高機で織ったものよりも柔らかく仕上がるということです。地機は高機に比べると構造が単純で、だから、楽器やその他の道具と同じようにそれを使いこなすのは難しいということが云えます。布というものは古来から生活の必需品だったので、今のように機械で大量に供給出来なかった時代には、自分で織るということがあたり前だった。そして、その仕事はほとんどが女性の手で行われてきたのです。これは世界中を見渡してみても、ほとんどがそうのようです。
地機の構造が単純ということは言い方を換えると原始的とも云え、そしてさらに古い織りの方法も存在していて、それを専門に研究している人によると、その原始的な織り方を調べていくと世界のつながり方の一端を知ることができるのだそうです。
私は北海道の先住民族と云われているアイヌ民族と沖縄の琉球民族は共通したところを感じているのですが、織りの技法も共通しているのだそうで、それだけではなく、地名や風習にも共通点があるということです。
こうしてみると、アイヌ民族の伝統的な文様と縄文時代の土器や装身具の文様に共通したものもがあるというのは、織りの技法から見てみるとそれが当然と思われてくるのです。





縄文時代の遺跡からは当時の織物も出土していて、これまで発見されたもので最も古いものは縄文時代前期とされています。ですからおよそ1万年ほど前になるのでしょうか。この織物の織り方は、今でも南方アジア各地で古くからの民族の間で行われているものとほぼ同じだということです。また、驚くことに、西アジアのブータンやパキスタン、南米のペルー、中部アメリカのグァテマラで織られているものも、日本の縄文時代の織り方と共通しているのだそうです。日本でも八丈島の眞田織(さなだおり)の技法はアイヌの、それから縄文時代の織り方とほとんど同じで、織りに使う道具もよく似ているのだということで、たとえば、織り込んだ横糸を打つときに使うヘラ状の道具を、八丈島ではカッペタというのだそうですが、その形状はアイヌ民族が伝統的に使っていたものと同じなのです。
また、このカッペタという言葉はアイヌ語が語源だということです。
このヘラは弥生時代の登呂遺跡から発掘されているものとは全く違う形状をしていて、ですから、弥生人は縄文人とは違う人種だとも云えるのではないでしょうか。これは土器などを見てもそうとしか思えないことなのですが。
それから、これに関連して、白血病ウイルスの保持者の比率を調べることによって判ったことがあるということで、日本本土では保持者が少ないのに対して周辺の人たち、北海道のアイヌ民族、対馬、隠岐、五島列島、沖縄などの人々には保持者が多いのだそうです。こうしたことが織物の技法との共通性があるということは、そこに何らかの事実が隠されているのかもしれません。
アイヌや八丈島の織物の技法は東南アジアと同じで、それは一方では西アジアにかけて、それからもう一方は八重山諸島、沖縄から九州、本州、北海道へとつながり、それが中南米のグァテマラやペルーにまで及んでいるのです。こういったことに思いを馳せると、私は何とも不思議な感慨を覚えるのです。それから余談になりますが、縄文時代の装身具などのデザインとケルト民族のそれにも、私は共通したものを感じるのです。また、ユーラシア大陸の北東部を流れるアムール川流域、それから北欧スウェーデン、それにスペインのケルト文化が残っている所には
日本の正倉院とそっくりの校倉(あぜくら)造りの建物が残されています。校倉造りの建物は縄文時代の代表的な遺跡として知られる三内丸山遺跡にも建てられていた可能性もあるということです。これに関連して、
日本の縄文土器が南米のエクアドルや南太平洋のバヌアツで発見されたりもしています。このように日本の縄文文化は広く世界中に行き渡っているという事実が残っているのです。





  

            これは縄文時代の装身具(耳飾り)







         これはケルト民族が使っていた手鏡の裏





15年ほど前、勾玉を作り始めた頃、勾玉に関する資料を熱心に集めていた時期がありました。東京神田の古書街にも足繁く通いましたが、そのときに新羅
(しらぎ・しんら)の古美術に関する本を見つけました。それには三国時代(5世紀頃)金冠の写真が大きく掲載されていたのですが、その金冠には装飾として多くの(58個)勾玉が付けられているのです。
これが発掘された当初は、付けられている勾玉は当地の石材を使い、そこで作られたものだろうとされていましたが、今では日本の新潟県糸魚川
(いといがわ)産の翡翠を使い、当地(糸魚川)で作られたものということが判明しています。つまりこの勾玉は日本から献上されたか、当然のものとして所有していたかどちらかだと思われるのです。
ここに取り付けてある勾玉をよく見ると、これらは石質、形状から判断して、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて作られたものだと思われます(勾玉は縄文時代から作られています)。ですから、これらの勾玉はこの金冠を作るために作られたものではなく、集められたものだと思います。どれも上質の糸魚川産の翡翠で、これだけの色あいの翡翠はなかなか見つかるものではなく、またそれがこれだけまとまって集められているというのも驚くべきことです。正に贅を尽くしたといった感じです。
微妙な形状の違いや穴の開け方から同じ工房、あるいは同一人物によって作られたとは思えない感じも受けますが、どれもすばらしい造形感覚を持った工人によって作られたのは間違いありません。
このなかに1個ちょっと変わった形状の勾玉が見られます。「子持ち勾玉」といわれているものです。この形状のものは縄文時代のものであるとする研究家もいます。これは加工するのが大変で、今のようにダイヤモンドカッターなどない時代に、よくもこういった加工をやったものだと感心します。糸魚川産の翡翠は硬玉翡翠ともいわれ、モース硬度は7以上あります。中国やミャンマー産の翡翠は軟玉翡翠といわれ、硬度は6位です。硬玉翡翠は硬いだけではなく強靭で、ダイヤモンドカッターでも削るのは大変です。水晶は、硬度は翡翠と同じ7ですが、もろい石質なので加工は容易です。因みにガラスの硬度は5、ノミ、鉋などの刃物の鋼
(はがね)は6位です。ですから翡翠は刃物では削ることはできません。ですが、加工することはできます。つまり割ったり、細かく砕いたりすることは可能で、日本古来からの水晶の加工地である山梨県の甲府地方では伝統的に硬い石を加工するのに、荒加工には鋼を使っているということです。その様子の写真を見ると、長さ20cmほどで太さが3mmくらいの釘のような鉄のタガネを、竹ひごの柄の付いた小さな金槌(かなづち)で叩いています。タガネも金槌の柄も弾力がありその微妙な弾力で原石を割らないように細かく砕いていくのだそうですが、これにはかなりの熟練が必要だということです。正に職人業ですね。
それから水晶に穴を開けるときにも鋼の道具を使うそうです。現在でも灯篭など石製品を仕上げるときには鋼鉄やタンガロイという非常に硬い鉄製のタガネが使われていますが、これは細長い菱形状の先端が針のように鋭いタガネで、これで細かく砕きならが穴を開けていくのだそうです。この方法は洋の東西を問わないようです。勾玉もこの方法で穴を開けた可能性は否定はできないような気がします。鉄は弥生時代には渡来人によって日本にもたらされているということですので、荒加工などには使われていた可能性は充分にあると思います。鉄よりも早くから使われていた銅や青銅などは、勾玉の穴あけ加工には持ってこいの素材だったのではないでしょうか。先に紹介した新羅の金冠に付けられている勾玉の中には、穴が小さいものがいくつか見られますが、このような小さな穴を開けるには竹や骨ではちょっと困難なのではと思えるのです。ですから、この穴は金属を使って開けられたものだと私は思います。





弥生時代よりももっと古い縄文時代前期にも碧玉など硬度が7ある石を加工した耳輪や指輪が作られていましたし、少し時代が下った頃には翡翠を加工したビーズのようなものが作られ、それには小さな穴が開けられています。ですからこの時代にも銅や鉄の加工道具があったとしか思えないのです。このような話は考古学者からみれば荒唐無稽なことでしょうが、これと同様のことは織物の出土品にも云えます。たとえば縄文時代の遺跡から、どう見ても織物の道具としか思えない木製品が出土しても、織られた布が見つからない以上はその時代に織物があったとは云えないというのが考古学というものらしいのです。想像を働かせてはいけないのでしょうね・・。
それから、漆を塗られた櫛や器なども縄文時代の早い時期から作られたということは出土品から判っていますが、この塗り面を写真で見てみると滑らかで漆の中にゴミなど不純物は混在していません。
ということは、漆を扱った人ならば判ることなのですが、漆の木から採集した樹液は不純物を漉さなければならず、そのためには漉すための布や紙などがどうしても必要なのです。それか何か他の代用品を特定しなければならない。
なんとももどかしいことで・・・
勾玉について少し述べてきましたが、ここまできたら、もう少しお付き合いをと思います。私はこれまで50個ほど勾玉を作りましたが、最も手間がかかるのは穴あけ加工です。ダイヤモンド・ドリルを使っても1cm貫通させるのに30分ほどかかります。古代はどうやって穴を開けていたのかということはほぼ解明されていまして、細い管状の竹や骨を使い、先端部に翡翠よりも硬い金剛石などを細かく砕いたものを水といっしょにまぶし、それを回転させて穴を開けます。竹や骨は柔らかいので先端部に金剛砂が挟まり、それが翡翠を削っていくのです。ダイヤモンドを加工するときには、ダイヤモンドの粉を銅板にまぶして行うらしいですが、これと同じ原理です。この方法ですと、実験を行った人によると1mm掘り進むのに2時間ほどかかったということです。ということは1cm貫通させるには20時間かかるということになる・・。
とてもやる気になりませんね(参照)。
拙作の勾玉は当サイトでも紹介しておりますが(参照)、50個ほど作ったもののなかで今手許にあるものをUPしています。

勾玉は日本独特のもので、これまで朝鮮半島を除いて世界の他の地域では出土していないようです。朝鮮半島から出土したものの中で、翡翠
(硬玉)のものは、先に述べたように日本で作られたものです。
日本では縄文時代後期
(紀元前2000年頃)から翡翠の勾玉が作られ始め、それは古墳時代後期(6世紀頃)まで続いたとされています。その間2600年間作られ続けたことになります。縄文時代の勾玉は翡翠で作られたものがほとんどですが、時代が下ると碧玉(へきぎょく)、瑪瑙(めのう)など他の石でもつくられるようになり、古墳時代になるとガラス製のものから硬度2の柔らかい滑石(爪でも傷が付く)で作られたものまで現われます。これは明らかに量産されたものと思われます。そうして勾玉は姿を消していきます。
滑石で作られた勾玉は、当時日本に入ってきた中国の神仙思想の影響で、滑石は不老長寿の薬として珍重されていたので、その滑石を使って勾玉を作ったのだという説もあります。
形状を見てみると、作られ始めた縄文時代にはいびつなものが多く、穴の位置も開いていればいいという感じです。それが、時代が下るとともに洗練されていき、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて形状としては完成されます。この頃作られた勾玉の中で最高のものと思われるものは島根県の命主社遺跡から出土した弥生時代のものでしょう。これは翡翠の質も宝石級です。それから福岡県周船寺
(すせんじ)の 観音山古墳から出土したとされる首飾りに付けられた5個の勾玉、これらは形状は独創的で、翡翠の質もかなりものもです。形が完成されると、ほどなく勾玉は消えていくのです・・・


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