◆【特別号】「陸軍史あちらこちら」 映画「八甲田山」に見る史実と創作のあいだ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆はじめに−「過去を否定する国民性」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
先日、ある場所で講話をさせていただきました。「歴史教育と自衛隊」というテーマです。そこでは、戦後の歴史教育と世論をふり返りました。
世論の形成は主にマスコミが担ってきたこと、歴史観については「学校で教える史観」が受け持ってきたことなどです。
でも、それらとは別に、世間には、地下に流れる水脈のような歴史への受け止め方があったこともお話ししました。
自虐的といわれる見方の他に、さまざまな解釈が国民の大多数の中には存在していたのです。田母神論文が多くの人たちに支持された背景を考えます。その時に、わが国民性の中にある『歴史は短い物差しで軽々しく判断しない』という健全さがあることを忘れてはいけません。多用な見方が許されて、さまざまな事実についての考え方が認められる。そういう社会をつくってきた、わが国民を誇りに思わなければならないと思います。
それでは、そうした国民の多くの史観形成に役立ってきたものはなんでしょうか。それは、いわゆる文芸作品であり、口頭伝承(こうとうでんしょう)といわれる言い伝えでありましょう。前にもお話ししましたが、わが国民には「時代の節目になると、過去を徹底して否定する」という傾向があります。
明治の初め、外国から来た「お雇い外国人」のある学者は、帝国大学の前身の学生たちの発言に唖然(あぜん)としました。当時、全国から選りすぐられた秀才たちです。その外国人学者は、伝統的な日本文化や人情の美しさ、自然のたたずまいに感動したことを学生たちに講義の合間に話しました。
すると、学生たちは納得しなかった。どころか、「そんなものはすべて否定する」と言うのです。「すべてを破壊しなくては、わが国はもうどうしようもなくなってしまう」、「私たちはそういった過去の文化から自由にならなくてはならない」、「古い日本はすべて破壊するのだ」という発言が相次いで、学者を困惑させたといいます。また、「彼等の自分たちの皇室に対する尊崇心のなさには驚いた」とも日記にありました。帝政の国からきた学者には、この国の将来がずいぶんあやういものに見えたことでしょう。
同じ事が、大東亜戦争に負けたときも起こりました。「過去の家族制度の重圧から個人を解放する」、「まちがった社会を破壊して理想の国を造る」、「天皇制ファシズムがすべての悪だ」、「わが祖国はソビエトだ」と声高らかに叫んだ人が、多く登場したのです。そういう方たちには、このままではいけないという危機感があったのでしょう。しかし、それはたくさんの弊害も生みました。
まず、冷静な「敗戦という失敗についての研究」がされなかったことです。「先進国」、「正しい国」の規準に合わせた価値判断がされました。ある人たちはアメリカと比べ、他の人たちはソビエト連邦をモデルとしたのです。お互いに社会の仕組みが違う国ですから、わが国の戦後社会が混乱したのはもっともでしょう。その混乱は、一方の雄、ソビエト連邦が崩壊するまで続いたといっていいと思います。
でも、両者が、不思議に一致していたことがありました。それは、過去のことをすべて否定して、戦前社会を真っ暗に描くことです。保守に愛された言論人も、革新といわれた人たちも、戦前社会の事実や実態をきちんと検証しなかった。とにかく「悪かった」という姿勢は変わりませんでした。
今回は、それらのことへの提言です。「陸軍史あちらこちら」と題して、戦前社会の制度や実態についてお話をしてみます。もし、皆様の支持がいただけたら、制度史が大好きな私の、玄人歴史家への質問状になる記事も、おりおり入れてみようと考えているからでもあります。
このことは、現在の自衛隊についての理解を深めることにもつながると思っています。それは、同時に、これからも連載する『海を渡った自衛官』をより理解していただくことにも役に立つと考えるからです。(荒木 肇)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━
◆【特別号】「陸軍史あちらこちら−(1)」 荒木 肇
映画「八甲田山」に見る史実と創作のあいだ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
▼映画「八甲田山」と、「八甲田山死の彷徨」
新田次郎氏と言えば、山岳小説の書き手、そういうとご本人は嫌がられたと聞きました。氏の本領は、むしろ歴史小説ともいわれます。その新田氏が1970(昭和45)に発表されたのが、1903(明治35)年に実際に起きた「歩兵第5聯隊」の雪中行軍遭難事件を元に書かれた『八甲田山死の彷徨』でした。これは当時、大ベストセラーになり、77年には映画化され、現在もDVDやVTRで見ることができます(『八甲田山』)。
映画のあらすじは次の通りです。最初のシーンは日露戦争の前夜のことでした。弘前の第8師団司令部に青森歩兵5聯隊、弘前同31聯隊の2つの部隊の幹部が集まりました。それぞれ大佐の聯隊長、少佐の大隊長、そして中隊長である大尉たちでした。師団長が正面に座り、師団参謀長の大佐が地図を前に立っています。参謀長は言いました。きたる日露戦では、敵艦隊が青森湾に侵入し、海岸線はおびやかされる可能性がある。そこで、八甲田山系を縦走し、連絡路を研究する必要が出てきた。どうだ、2つの聯隊で研究して実験できないか。
主務者は、31聯隊では徳島大尉(高倉健さんでした、格好良かったです)、5聯隊は神田大尉(北大路欣也さん、これもまた雰囲気が良かった)です。徳島大尉は外国語もよく出来て、冬山についても経験が豊富。どうやら、士官学校出身の士族らしい。というのも、神田大尉は、資料を弘前に借りに出かけて徳島大尉につぶやきます。『自分は平民出身の教導団出ですから、外国語が苦手です』
それぞれの聯隊では、準備に入りました。徳島隊は看護卒(後の衛生兵)やラッパ手をのぞいて下士以上准士官、将校ばかりの小隊編成。神田隊は、大隊の各中隊から選ばれた兵卒、下士、准士官以上で編成された「集成中隊(しゅうせいちゅうたい)」でした。その上、大隊長の山田少佐が大隊本部を作り、随行(ずいこう)するというのです。神田大尉は不安をもちましたが、上官の命令です。あきらめるしか仕方ありません。
徳島隊が出発したと聞いて、山田少佐は「八甲田で出会う」ことにこだわって、準備も十分でないうちに神田大尉に雪中行軍の開始を迫りました。そして、田代温泉を目指した5聯隊の行軍隊は、案内人も断り、山田少佐の指揮で山中に入ります。途中、指揮権を奪われた形になる神田大尉に映画は同情的です。そうして「神田隊」は遭難します。
徳島隊も苦労しました。でも、準備周到。次の宿営地までの案内人も必ず用意されていたのです。秋吉久美子さん扮する道案内の農家の若嫁とも交流し、危難を乗り越えて成功します。途中、遭難を覚悟した神田大尉の放った『天は我を見離したか』という言葉が映画放映当時に流行しました。
小説の原作とは、必ずしも完全には一致しない描写や、セリフ、設定はありました。若い女性の案内人がいたこと、徳島大尉の号令で彼女に敬礼をすることなどです。小説には、そうした場面はありません。むしろ、案内人に冷たい態度で賃金を払う徳島大尉の態度を、隊員だった平民出身見習士官(みならいしかん)の目を通して批判的に描いているくらいです。そうした改変は、原作者の新田氏も承認されていることでしょう。映画化にあたって、いくつも妥協されたことが分かります。映画を作れば、女性の登場は仕方ありません。
「八甲田山死の彷徨」は不朽の名作です。ただ、あくまでも、創作の部分が含まれた小説になります。作家は自由にそれを行う権利があり、発表された時代に合わせた史実の改変も許されるのです。だから、一部の方でありましょうが、いまだに、小説を史実と受け止められている、ノンフィクションと見ておられる方には注意をお願いしたいと思います。
▼小説が書かれた時代と映画化の時代
小説が書かれたのは元々、ずいぶん前だったそうです。1950年代だったらしく、ご専門の気象官の頃、小品にまとめられていたとのこと。なにぶん、1902年の出来事ですから、関係者もおられた頃です。ただ、事件当時の陸軍は秘密主義でした。遭難の事実は認めたものの、その真相は、今でもはっきりしません。そこに自由な解釈が入る余地はいくらでもあります。
まず、私は登場人物の経歴に関心をもちました。神田大尉は、平民出身で教導団出とのことです。どこか私たちには予断が入ります。そうか、当時の陸軍は、士族でなくては将校にはなれなかった。だから、徳島大尉は士族だったのか。神田大尉は士官学校出身ではなくて教導団だったのか。失敗の裏には、そうしたことも関係したのだろうか。
でも、どうもおかしい。大隊本部が「随行」するなどということがあるだろうか。雪中行軍隊全部の指揮を、もっとも経験の浅い大尉がとったのだろうか。集成中隊の中隊長ではあろうけれども、編成表には彼より先任の大尉が本部付としてたくさんいました。また、2つの聯隊を競わせるような参謀長の言い方にも、ひっかかります。日清戦争で陸軍がもっとも苦しんだのは凍傷です。冬季の八甲田山系、そんな所に追い立てるように貴重な軍人たちを行かせるでしょうか。
構図が見えてきました。作家が言いたかったのは、学歴による差別と実力主義の相克、指揮権を奪われるにいたったのは上司の手柄意識によるものという主張です。
昭和40年代は、「学園闘争」の時代でした。30年代の終わりに、東京オリンピック(1964)を成功させ、わが国は国際社会への復帰に自信を取りもどしました。国民の所得も増えて、大学への進学率も高まり、高校進学もあたりまえになった時代です。41年から45年の経済成長率は、なんと11.4%にもなっていました。
お隣の中国では「文化大革命」が起こり、若者たちが「造反有理(ぞうはんゆうり)」を旗印に、既成の権威に楯突いていました(今はもちろん、異なる解釈がされていますが)。ベトナム戦争が続き、おかげでわが国は順調に経済成長もとげていましたが、同時に世界との関わりを国民みんなが意識した時代でもあります。
40年代前半の最後の話題は、大阪吹田の「万国博覧会(1970)」です。前年に「東大安田講堂攻防戦」で学生運動は大きなピークをこえました。ニクソン・ショックや、石油ショックを乗りこえて、わが国は安定した行き方をとります。そんな中で、時代を象徴したのは、田中角栄首相の登場です。小学校卒の学歴しかない政治家が、実力で来い、具体案で来いと吠えました。地方と都会の格差を無くすのだといって総理大臣になりました。東京帝大を卒業し、官僚として指導層の経験者だった政治家に見事に勝ったのです。
当時、すでに大学生は昔のようなエリート意識などはとっくに持てなくなっていました。
同世代人口の男性の27%が4年制大学に進学する時代。短大や高専も入れれば、社会学でいう「みんな」のライン35%にも達していました。
しかし、組織の管理職や、権威の持ち主たちは、たいていが古い大学の卒業者でした。昭和1ケタ生まれの人々の間では大卒というのは、まだ10%にも達しない数でした。おそらくは、どこの組織でも、「自分には実力はあるのに、大学を出ていないから」という不満があった頃ではないでしょうか。また、無理解な上司による現場の実態を見ない介入。これもよくあることです。部下の成果を横取りするといった不正もあったに違いありません。
まさに、小説が大ヒットしたのも、映画化が成功したのも、世間の大方に、描かれたフィクションの陸軍像を受け入れる気分があったからです。
▼実は「徳島」大尉が教導団出身の平民だった
徳島大尉のモデルになった福島泰蔵大尉は、彼こそ教導団出身の平民でした。教導団とは明治の初年(1873年)に開かれた、陸軍下士養成のための部隊です。下士は後に下士官(1932年)と改称されますが、上等兵以下の兵卒の熟練者であり、判任武官でした。戦前の官吏は、文官、武官ともに高等官と判任官とに分かれていました。高等官も、親任官、勅任官、奏任官と3つの身分で構成されていたのです。
軍隊の中で、親任官は大将であり、中将、少将は勅任官。大佐から少尉までは奏任官でした(軍医や主計、獣医官などもいました)。高等武官は国家の主権者である天皇陛下の辞令で任命され、判事と同じく終身官です。死ぬまでその官についての礼遇を受け、肩書きもつけられる。今の自衛官の退官者が、「元」空将などというのも、終身官ではないからです。
これに対して判任武官は、長官の権限で任免されました。伍長、軍曹、曹長と特務曹長とよばれる階級がありました。特務曹長は准士官で、現在の自衛隊にも、准陸・海・空尉の階級があります。服装は将校(士官)と変わらず、今も昔も、軍隊の主のような存在であることは変わりません。現役の下士は伍長になり、軍曹に進み、曹長となって軍務に励んでいました。教導団は、志願者に2年間の教育を与えて、現役の伍長を養成したのです。
福島大尉は映画で見られたような東北の出身ではありません。明治になる直前の1866(慶応2)年、群馬県の豊かな船問屋の長男に生まれました。その地は江戸時代から利根川を利用した水運が盛んでした。渡しの一つである世良田村平塚に実家『福甚』はあったそうです。ところが維新以来、馬車鉄道の開通や、陸路の整備が進みました。家業はかたむき、大尉の成長期には経済的に恵まれなくなりました。(『八甲田山から還ってきた男』高木勉:文春文庫による)
福島大尉の経歴の面白さは、明治の初めの有志の青年に多く見られるものでした。『坂の上の雲』の登場人物、秋山好古陸軍大将は師範学校に入学します。平民や、官軍側に立たなかった逆賊(ぎゃくぞく)藩の下級士族の息子にとって、官途につくには小学校教員がてっとり早かったのです。
ところが、師範学校制度が確立するのは1887年のことで、福島青年が通ったのは修学期間が1年間の時代。1886年に卒業します。授業生(訓導より格下の助教)に採用はされたものの、月給はわずか4円。米が一升(1.5キロ)で8銭くらいです。当時の人の米の消費量はたいしたもので、1日に6合くらい食べました。1月に20升くらい食べるとすると、それだけで2円近くになってしまいます。麦や雑穀を食べても、おかず代や、被服費、薪や炭、交際費、図書費などを考えると、暮らしはひどく貧しいものだったでしょう。しかも、2円を福島青年は実家に仕送りしていたそうです。大尉自身も、自分の人生で、もっともみじめで、苦しかった頃だったと、後にふり返っています。
福島青年は、教導団を受験することにしました。もともと教導団は、西南戦争のころまで、徴兵ではなかった壮兵(そうへい:旧藩士卒族出身の志願兵)を中心に入団させていました。それが、1882(明治15)年を境にして、士族と平民の比率は逆転します。生徒定員数も84年から86年まで2,227人にもなりました。これは82年からの軍備拡張政策に基づいたものでした。歩兵の常備聯隊数をみても、83年の16個から、84年の19個、86年の21個、87年の37個に増えています。下士の定員を満たすには、大量の志願兵が必要だったのです。
生徒の採用年齢は19歳から25歳でした。教育期間は歩兵・騎兵はおおよそ1年間。卒業者は、伍長もしくは二等軍曹(伍長の官名が一時廃止)になりました。福島青年が受験した頃には、試験科目は読書、作文、算学でした。そして、魅力的だったのは部内から士官候補生になる道が開かれていたことです。しかし、福島青年はあやうく、士官になりそこねる時期に入団することになりました。
陸軍士官学校の制度が、それまでの士官生徒から士官候補生制度に生まれ変わる時代だったのです(87年)。士官生徒とは、中等学校卒業者を採用し、入校させ、学校で少尉に任官させてから各部隊に配置する方法でした。これに対して、候補生制度は、まず原隊(げんたい:本人が最初に所属する部隊)に入隊させ、仮に兵卒の階級を与え、部隊内での教育をして下士にさせる。それから士官学校へ入校して卒業まで下士の階級で学ばせる。卒業して原隊へ帰り、聯・大隊の将校団(聯隊長や大隊長を中心にした将校たちの親睦・研究組織)の承認を得て、初めて少尉に任官するといったシステムでした。兵卒や下士の生活を体験させ、将校団が幹部を育てるといったドイツ式の採用です。
また、87年の「勅令第17号陸軍各兵科現役下士補充条例」では、初めて、下士の補充は上等兵からの進級者、教導団生徒出身者をあてると示されました。下士から少尉への任官を認めないという制度もできました。これは、世間の教育制度の整備とも関連があります。下士は小学校高等科卒業程度、士官は中等教育を受けた者から選ぶというシステムに変わってきたのです。こうした中で、志(こころざし)ある生徒の中では、ひたすら勉学に励み、わずかの可能性に賭けて、士官候補生の指定を受けようとする者が出てくるようにもなりました。
▼福島大尉の信念
大尉の甥にあたる高木勉さんの著作には、魅力あふれる福島大尉の経歴がくわしく書かれています。大尉はもともと工兵科生徒だったこと。入団してすぐに士官候補生の指定を受けたこと。しかし、部隊に行ったのは翌年になり、工兵二等軍曹(伍長)になってから初めて歩兵への転科を認められたこと。そこで、高崎の歩兵聯隊で、また歩兵二等卒から始めなければならなかったこと。工兵から歩兵へ、なんらかの動機があったのでしょう。
福島歩兵少尉は日清戦争でも活躍します。厳しい寒さの中朝国境で冬を越しました。そこで寒地対策を真剣に考えるようになったといいます。そして、1896年には新設された台湾歩兵第1聯隊に赴任します。この頃、すでに中尉となり、親友には永田十寸穂(ますお)中尉がいました。この人は、後に昭和の動乱期、軍務局長として皇道派将校に斬殺される永田鉄山少将の実兄です。
97年には参謀本部の陸地測量部に転勤しました。この頃、わが国には精密な地図がありませんでした。福島中尉は地図の作製能力が高かったのでしょう。その理由として師範学校時代の地理学を学ばせてくれた恩師との出会いがあることを高木氏はあげています。しかし、1年余りで大尉に昇進し、新設されたばかりの弘前聯隊へ中隊長として赴任します。
ロシア軍が青森に上陸し、仙台に向かうという予想がされていました。そのため、第8師団は同じ県内に2つの歩兵聯隊をもちました。福島大尉はその聯隊で、優秀な中隊長でした。新しい装備である30年式歩兵銃の射撃術学生として、戸山学校にも派遣されています。このときの研究論文の最後に、大尉は次のように自分の信念を書きました。国民に劣等な兵器で敵に臨ませない、歩兵が戦場で勝利を得るには、このことが最も大切である。精巧な火器をもち、その上、士気優勢でなければならないのは各国戦史が示していると。
雪中行軍に臨み、苦難に耐えて成功に導いたのは、まさに装備や、その使用法に高い関心をもち、研究におこたりなかった成果と言えるでしょう。
なお、失敗した第5聯隊の実態は、小説の伝えるようなものではなかったと思われます。重度の傷害を負った大隊長を最後まで守った将校、下士、兵卒の姿からは、いわゆる統率の乱れというようなものは感じられません。最後に、気象状況は当時の技術や知識ではとても想像もできなかった厳しいものだったことは確かなようです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。
◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
|
2009-02-14 23:24
|
記事へ |
コメント(12) |
トラックバック(0) |
|
自衛隊 /
戦争 /
田母神論文 |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/trackback/708/
昔、夏に八甲田に行ったけど想像できなかったですね、何も無くて。何も無いのが問題?伍長さんだったっけ銅像は見てきましたよ。
映画は遠まわしに反戦映画ぽかった記憶があります。
夏に行かれましたか。私は冬でした。荒涼たる風景でしたね。何もない・・・という感じがぴったりです。
私は自衛官たちと車で行きましたが、麓の青森の町が曇り空だったのに、山の上では吹雪でした。ハイマツのような丈の低い木が見えるだけで、後は・・・何もありませんでした。
伍長の銅像も見ました。仰るように、「反戦」でしたね。まあ、作られた時代が、そういう頃でした。私は大学生で、駅前の映画館の大きな壁一杯に、北大路欣也さんの顔が出ました。
映画は、今観ても、オールスターという気分で、丹波哲郎、小林桂樹、大滝栄治などが記憶に残っています。また、今は有名な俳優が当時、兵隊役で死んでいたり。
面白かったのは、撮影は新潟県の新発田駐屯地、第30普通科連隊で行われたのですが、エキストラに自衛官が出ています。その体験者のH1尉に直に聞いた話ですが、旧陸軍は行進の時、振り出す手がフランス式のパー、自衛隊はアメリカ式のグーなので、監督にひどく怒られたとか(笑)。
私、ピンボケーー
あれを 映画館で見た頃は、
私の中で 一番右寄り思想の 愛国少女
ただただ 息苦しくなるような 重〜い映画って感じで、
上に立つ者の判断って大切だなぁとか、
自然を前にしたら 人間は なんて無力んなんだろうって、
感じた映画でした。
あーいう時代に、こんな訓練も必要だったんだ〜と
漠然と受け入れ、軍人さんって大変だーーと。
創った人たちの反戦が伝わっていなかった・・・笑
まぁ、こんな人間もいるから
自衛隊の皆さんがご苦労された甲斐がありました
私は「また負けたか八聯隊」の大阪に住んでいるので東北は気合を入れて行きました。北海道の方が何故か近く感じます。
日本の戦争や軍隊がらみの映画は根底に「反戦」または「悪い事をした、ごめんなさい」というものが多いですね。観た後で暗くなるような・・・。
日露関連では東宝の「日本海大海戦」
大東亜戦争関連ではこれも東宝の「奇跡の作戦キスカ」
両方とも海軍物ですが、好きな映画です。
シズオくんが コメントをくれましたので
転載します。 登山家としての意見もまた 違う視点で
おもしろいです。
シズオ 2009年02月15日 01:04
日本の山岳史はそのまま近代史と被ります。加藤文太郎、松濤明、奥山章、小西政継、植村直己、森田勝、長谷川恒男、山田昇。登山家自身の膨大な記録、著作があり、遺稿からは数多くのノンフィクションが世に出ています。例えば佐瀬稔さんが彼らについて著した作品などはそのまま俺にとっての昭和史の教科書となっています。極地法とアルパインスタイル、組織と個人の葛藤という登山には常に付きまとうテーマが、政治的メッセージの及ばない所で伸び伸びと描かれており、読み応えがあります。正直いってカナリ影響を受けています。もちろん俺自身のヘッポコ登山とは全然別のトコロで(笑)
ただ、やはり映画や小説となると具合が変わるのでしょうか。新田次郎さんの小説は、加藤文太郎をモデルにした”孤高の人”を上巻までしか読んだ事がありませんが、そういえば戦前の”主義者狩り”の描写など印象に残っています。小説が連載されていたのは戦後、60年代あたりでしたか。人物が生きた時代と、それが書かれた時代の事を考えて読まねばなりませんね。
おつるは
山奥の学校で 担任していたとき
大雪警報が出て 授業がなくなり 子供たちを
大雪の中 帰宅につきそうことになりました。
おつるは 車通勤でしたから 薄着でハイヒール。
でも 車に全員のせれないので 歩いて
吹雪の中を 連れて帰らなければなりません。
傘もない。
しかも 一番 遠い、4キロ離れた地区の子供たちの担当。
ハイヒールで薄着で
なんとか 子供たちを送り届けたあと・・・・
また復路を 吹雪の中 こんどは一人で 戻る・・・・
携帯は山の中で通じないので 他の先生方に連絡がとれず
車のお迎えにも来てもらえず
歩きながら 眠くなってきて
前も見えず・・・ 雪がつもって ハイヒールで
歩くのがたいへん・・・
あー このまま 雪の上で 寝てたーいとか
思いました。だんだん 寒さとかが まひしてくるんです・・・
そのとき 頭に浮かんだのが
八甲田山の映画でした・・・・
あーーーーーー しぬかと思った。 笑
************************
ところで 映画というものは 監督の思想や
大衆受けを狙ったりしてる部分があり
お金儲けもからんでいるし・・・
事実と違う側面が 多いんですね
私は、この映画や 戦争にかかわる映画を見たりしたら
tontonさんと同じく 悲惨な部分ではなくて
私はどうしても 軍人さんの服って
かっこいーーーー
思っちゃいまして・・・
おバカな私。
>重度の傷害を負った大隊長を最後まで守った将校、下士、兵卒の姿からは、いわゆる統率の乱れというようなものは感じられません。
こういう男のひとが かっこいーーーと
思うのです。
映画の話でいえば、「八甲田山」は考証的にも、なかなか優れた作品です。まあ、軍隊の体験者がたくさんいた時代です。だから、兵隊の身ごなしや、服装も、まずまず史実にのっとっております。
私が感心したのは、大隊に随行する軍医さんの帽子が、きちんと衛生部の深緑の鉢巻きになっていたことでした。
rickさんが挙げられていた「日本海海戦」でも、最後に出てきた海軍の軍医さんが、きちんと袖章や帽子のふちに、赤い線が入っていて正確に描かれていました。
また、「キスカ」という映画でも、参集した艦長たちが、それぞれ自己紹介で、『駆逐艦秋雲』とか、『駆逐艦不知火』とか、駆逐艦名を名乗り、自分の姓名官職を言わない・・・これも正確だったようです。
昔から日本の映画は、「反戦」というより「反軍」ですね。ただ、けっこう軍隊そのものを賛美する映画もあり、「大日本帝国」とか、『二百三高地』はまずまずのものでした。
特に後者は、歩兵少尉に扮する役者さんの軍刀の使い方が正確です。葵輝彦さんも今はあまり出られないですが、夏目雅子さんとのラブシーンもなかなかでした。
最近の軍隊映画は、どうも、考証が不正確だし、軍人を演じられる役者が減ってきたようです。
自衛官のさまざまな身ごなしこそ、軍人のそれです。一度、演習場の様子を、おつる様にもお見せしたいです。今度は、tonton様もいかがですか。
調べたことがあります。強かった東北師団とか、勇猛な九州師団とか。強いところには共通点があります。戦前の全国学力調査は徴兵検査の時に、文部省が実施していました。「壮丁学力検査」というのです。徴兵の体験者もほとんど書いていないので知られていませんが、これがなかなか興味深い物です。
というのは、学力の高い府県ほど強いといわれる。たとえば、岩手県や秋田県は学力が高く、熊本県や長崎も高いのです。大都市圏は大方が低い。
今も昔も大都市は所得階層の間の差がたいへん多い。だから壮丁で平均をとると、大阪や京都、東京は低くなります。
また、「・・・8聯隊」や「9聯隊」への悪評は西南戦争の頃からだそうです。
なお、自衛隊の普通科(歩兵)連隊番号は、あえて旧軍とは変えてあるため、今の8連隊は鳥取県の米子で、9連隊は廃止になっており存在しません。23,29,45もありません。そういえば、京都府の大久保駐屯地には45連隊があったのですが、削減でなくなりました。
京都府には福知山の第7連隊が健在です。
おつるさんと共に拝見できれば幸いです。
そして、皆さまの日頃の鍛練に、
感謝の意を表すことができればと思います。
聞いたことがあります。
祖父は、満州で兵役についておりましたが、
高槻の連隊が酷〜く弱くて、いつも平定に手間取り、
司令部が業を煮やして
四国の連隊(徳島?)が回されてくると、
すぐに治まったと 話しておりました。
ちなみに、その高槻の連隊には、
母方の伯父が通信兵として兵役についていました。
しかし 二百三高地は見ましたよ。
あと 回天の映画、東条英機の東京裁判の映画
特攻隊の映画、家には大東亜戦争史(ちょっとアメリカから
みたような映像が多くて・・・涙)
戦争映画はかなりたくさん見ています・・
外国の戦争ものでは
愛と青春の旅立ち、GIジェーンが好き。
やっぱり 軍服フェチなのでしょうか。。。
何が悲しいといって 機能的ではないとはいえ
軍服に似てるといって 無くされてしまった 学ランや
海軍を思わせるといって否定されたセーラー服が
なくなったのはとっても残念です。
セーラー服は 1921年に福岡の女学校ではじまったと
されていますが、実は造船会社におつるの祖父が勤務
していて、明治生まれの母が九州で住んでいた時に
手づくりで 父親の仕事の海にちなんだセーラー服のデザインで服を作り 娘たちに着せていて 当時は
誰も着ていなかったのがだんだん広まったらしく
祖母は セーラー服は私が 考えたのよーとよく
言ってましたが ただの自慢
だったのかもしれず、本当かどうかわかりません。
数日前、私の父親の兄 叔父さんの出征のときの
20歳ぐらいの写真が偶然でてきました。
今度 靖国に3月に持っていって 祀ってもらいますが
その軍服姿は あまりにもかっこいいです。
とにかく軍服は好きですが
反戦ものの お涙ちょうだい的な悲劇の
映画は好きではありません。
海軍では1872(明治5)年に採用されていますが、1919(大正8)年に東京の山脇女学園が初めて制服に採用とあります(明治大正家庭史年表)。そして、1921(大正10)年に福岡女学院が制服を統一とあります。つまり、全員が着たのは、おつる様言われた通りです。
案外、女学生のセーラー服は新しいのですね。さて、軍服ですが、「八甲田山」のときは、詰め襟でした。しかも、冬服は黒だったのです。階級章は袖につけた線の数で表していました。緒方拳の軍曹は黄色の太線1本に細線が2本。神田・福島両大尉は目立たない線ですが3本つけています。幹部(将校)はズボンの中央に縦に「緋色」の線が入っているのです。この緋色は「歩兵」を表しているわけです。
現在の陸上自衛隊は、職種でカラーを採用しています。ワッペンを着けているのはご存知ですね。大内田1佐の説明にあったでしょう。あのワッペンの上部に付いている色が兵科(職種)を表します。それが、けっこう旧軍と同じなのです。普通科(歩兵)は赤をつけていますし、特科(砲兵)は山吹(黄色)で、航空は空色、施設(工兵)はエンジ(鳶色)、このあたりは昔と変わりません。
陸上自衛官は背広型のスーツタイプを着ていますが、夏の3種があるのが羨ましいです。開襟にもなるし、ネクタイも締められますが、半袖のベージュ色のシャツタイプになっています。階級は肩章で示していますが、米軍は肩章を着けるのは将校・士官だけなので、富士や厚木に来るアメリカ兵はビックリするようです。ジャパン・アーミーは将校ばっかりかって(笑)。
ちなみに、陸上自衛隊は冬、夏服の1種では、陸士(兵)は上膊部に、陸曹(下士官)は襟に、幹部(将校・士官)は肩に階級章を着けます。だから後から見ると、何も付いていなければ、陸曹だし、袖に太い緑線があれば幹部。帽子を見ると顎紐が金なら尉官、帽子の鍔に桜モールの飾りが有れば佐官か将官。