オウム真理教の言語学「宗教」〈「希望」と「恐怖」を両親として「無知」に対して「不可知なもの」の本質を説明してやる娘〉
-----ビアス『悪魔の辞典』正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠(ねずみ)の糞(ふん)が落ちていると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と香(かんば)しい涙の果実が却(かえ)って沢山に摘み集められる
------永井荷風『ぼく東綺譚』私は死ぬこと自体はそんなに怖くはなかった。ウィリアム・シェイクスピアが言っているように、今年死ねば来年はもう死なないのだ。
------村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
95年は阪神大震災してよりはオウム真理教の年として歴史に記憶されるだろう。
オーム電気とか出版のオーム社も誤解されて大変だったらしい。オーム電気は電話で「オー、エッチ、エム電気です」と答えているそうだ。
シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』の中にも暗殺者と間違えられて、詩人のシナが懸命に「私は詩人のシナだ」というのにシナなら一緒という群衆心理で殺されるのだ。
若い人にとって「オーム」と聞くと『風の谷のナウシカ』だ。こちらも教祖のような役割を果たしているが、「王蟲」という字があててある。何しろ、原作が提中納言物語の「蟲愛づる姫君」なのである。同じオームでも中国ではトラのことを大蟲といった。「虫」というのも蛇のことを指していた。このことから分かることは「虫」というのは虫編のつく生き物の総称だということだ。
さて、オウム真理教の一連の事件のおかげで何でオウムというのですか、とよく聞かれた。聞いた人はオウム返しになるが、まとめて書いておきたい。
AUMというのは言葉が元々Aから始まり、Mで終わった名残である。これで世界の初めと終わりを示す。
荒俣宏が「母音の宇宙的解釈」(『理科系の文学誌』工作舎)で触れている。
言葉はやはり、「あらゆるものに先立って」存在したのかもしれない。ここで、期待を確信に高める決定打を呈示してくれるのは、空海の書いた言語宇宙哲学の啓示『吽(うん)字義』である。世界のあらゆる現象と概念を四つの原音で表現しようとした『吽字義』は、もともとインド最古の聖典『ヴェーダ』が読まれる際に初めと終わりに唱えられていた聖音<オーム>を源にしており、この<オーム>は宇宙の太初音と太終音を包み込む一音一字の宇宙像そのもの、つまりブラフマンとアートマンの合一を表すシンボルのことだ。<オーム>は中国や日本に渡って阿吽(あうん)と表記されるようになったが、この音はのちに<A><U><M>の三音に分かれて東洋的な三位一体のシンボルとなった。空海はこの象徴を引き継いで独自の宇宙的言語シンボルを完成させたのだが、話は長くなるので、『吽(うん)字義』ともども詳細は次の機会に回したい。
よく考えてみると日本語の五十音図も「あ」から始まり、「ん」で終わる。大体、何でこんな五十音順ができたか不思議に思ったことはないだろうか。
実は日本語の五十音図というのは悉曇学からきている。この悉曇学というのは『広辞苑』(岩波)によれば「(梵語 siddham 成就・吉祥の意)梵字の字母。転じて、インドの音声に関する学問をいう。広くは摩多(マタ)(母音)と体文(タイモン)(子音)とを総称し、音節と同義。狭くは摩多の一二韻のみを指す。中国では隋代にはじめて悉曇の称があり、わが国には天平(729〜749)年間南インドから伝わる。法隆寺の古貝葉(コバイヨウ)の文字は字体がすぐれて有名。元慶(877〜885)年間、安然に「悉曇蔵」の著がある。五十音図の配列には悉曇の影響顕著。」なのである。
今でもサンスクリット語の辞書は五十音で引けるが、この順序は調音点の後ろの方から前の方に配置されていて音声学的にも合理的な順序なのである。
日本語に「阿吽の呼吸」というのがあるが、あ‐うん【阿吽】というのは梵語a-humの音写からきたもので「阿」は開口音、口を開いて発音する最初の音声で、「吽」は合口音、「吽」は口を閉じて発音する音声で、字音の終末とする。悉曇の字母の初韻と終韻なのである。また、阿は呼気、吽は吸気であるとともに、それらは万有の始源と究極とを象徴する。さらに阿字には不生(ふしょう)、吽字には摧破(さいは)の意があるなどとする。
『広辞苑』(岩波)を見ると次のように記述してある。
(1)最初と最後。密教では、「阿」を万物の根源、「吽」を一切が帰着する智徳とする。
(2)寺院山門の仁王や狛犬(コマイヌ)などの相。一は口を開き、他は口を閉じる。
(3)呼気と吸気。
東大寺に行った人は快慶や運慶の作ったとされる金剛力士像の阿形(“あ”を発音するように口を大きく開いている)、吽形(“ん”を発音して口を閉じている)という仁王像を見たことがあるだろう【最近は運慶の作とされる】。
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阿形 吽形 狛犬はどの神社にも魔除けとして置いてある。小さい頃はてっきり獅子だと思っていたが、高麗犬ということだ。
向田邦子の『あ・うん』というのはプラトニックな三角関係の小説だが、奥さんは夫もその友達の自分に対する恋心も阿吽の呼吸で知っているのである。
ところで、オウムは「オン」としても知られる。『広辞苑』第4版には「インドで、祈祷・讃歌・呪文などの最初に用いる神聖な音。これはa,u,mの三字に分解され、さまざまな神秘的解釈がなされる。密教で、多くの真言の最初に用いる。」とあるが、第2版では「古代インドの哲学書ウパニシャッドの秘密語。帰依。密教ではこの一語を念誦すれば無上の功徳が得られるという」だった。つまり、全ての「真言(マントラ=神聖で強力な語・音)の「種子」と考えられている。
例えば、解釈の一つにAUMのAは宇宙の創造(誕生)、Uは持続(生存)、Mは破壊(死)を意味するという。『平凡社百科事典』ではAが維持、Uが破壊、Mが創造を表すとしている。密教的な解釈については、空海の『吽字義(うんじぎ)』と『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』に詳しいという。
いずれにしろ、破壊があって創造があり、また破壊が起こるという円環の思想である。
装飾した“AUM” シバ神(オウムのサティアン=梵語で「真理」だが毒ガス工場など教団関連施設をそう呼んだ)内のシバ神は発砲スチロール製だったことが知られている)の背後の火炎の輪はAUMの円環を示す。円環的思想というのは他にもウロボロス(尻尾をくわえた蛇)などにも表れているし、百科事典をencyclopediaというのは「円環的知識(教育)」という意味である。バラバラに知識を提示してあるが、ホントはバラバラではないぞ、という思想がある。雑学を誇っている人もいるが、雑学は力をもたない。オウム信者の多くは賢かったといわれるが、バラバラな知識を持っているだけで狭義のように円環的な知恵を持つことはなかった。
「イニシエーション」も秘儀の伝授として使われ、グル(霊的指導者)の麻原教祖や高弟らによって行われた。薬物を使用する「キリストイニシエーション」や、手からエネルギーを注入するという「シャクティーパット」などが有名だった。
生きている連中にジーヴァガとかクシティガルバなどのホーリーネーム(こちらは英語の“聖なる名前”で14階級に分けられた出家信者のうち、一定の修行レベルに達した者に与えられる教団内の宗教名)を与えるのはおかしい。信者らは通常この名前で呼び合う。「ああ言えば上祐」氏だってマイトレーヤで何と弥勒菩薩の名前が付いている。太秦広隆寺にあるあの静かな微笑を湛えた弥勒菩薩と一体どこに接点があるのだろうか。弥勒というのは釈迦に次いで仏となると約束された菩薩である。しかも『広辞苑』(岩波)によれば「兜率天(トソツテン)に住し、釈尊入滅後五六億七千万年の後この世に下生して、竜華三会(リユウゲサンネ)の説法によって釈尊の救いに洩れた衆生をことごとく済度するという未来仏。」というすごさだ。ちょっとマットレーヤという気分になる。
人間ほど愚かなものはない。人毛虫一匹創れないくせに、神様となると何十人も創る。
もっと許されないのは彼らが神様の名前を端折ってあだ名のように呼び合っていたことだ。
ついでに原発にフゲンだとかモンジュだとか名前を付けるのも仏教徒からするとおかしい。動燃のパンフレットの「新型炉命名の由来」には〈高速増殖原型炉「もんじゅ」と新型転換炉原型炉「ふげん」の名称は、釈迦如来の左右の脇士(わきじ)、文殊(もんじゅ)菩薩と普賢菩薩に由来する。両菩薩はそれぞれ、知恵と慈悲を象徴し、獅子(しし)と象に乗っておられます。それは強大な力をもつ巨獣を知恵と慈悲で完全にコントロールしている姿です。原子力の巨大なエネルギーもこのようにコントロールし、科学と教学の調和の上に立つのでなければ人類の幸福は望めません〉とあるという。
しかし、もんじゅは1995年12月8日にナトリウム漏出事故を起こし、ふげんは1997年4月14日、放射性物質トリチウム漏出事故を起こした。しかも、動燃は事故後に隠蔽工作をしたので大きな社会問題となった。
「プルサーマル」というのも見事な命名だ。長崎に投下された原爆はプルトニウム爆弾で以来、プルトニウムと聞くと本能的に身構える。これに対して、プルサーマルといわれてもピンとこないから、つい警戒を解除する。
原子力船むつが原因不明の沈没を遂げて、全く役に立たなかった戦艦陸奥の名前を連想させ、ホントは青森の旧名から取ったにもかかわらず、「おむつ」というあだ名が付いてしまったことへの反省なのであろうが(ホントかしら)、命名からして、おごりがあった。
原子の名前にもギリシャ神話の神様が使われているじゃないか、と反論されそうだが、こちらは宗教になっていない。
原爆で思い出したが、オウム真理教の一連の事件は長谷川和彦監督の映画『太陽を盗んだ男』によく似ている。この映画は高校の物理の教師(沢田研二)が原爆を作ってしまい、これをネタに野球中継を延長しろという要求から段々エスカレートしていく話である。しかも、自身が放射能の侵されながら戦っていく。後にロバート・デニーロの『ザ・ファン』というストーカーの映画が作られたが、これは『太陽を盗んだ男』のパクリである。
ちなみにフランスの高速増殖炉は「スーパーフェニックス」(巨大な不死鳥)と名付けられた。フランス・リヨン近郊のローヌ川沿いの町である。高速増殖炉は、理論上は、使った核燃料よりも多くの核燃料を生むという。職員の説明には、核技術の最先端に居るとの誇りが強く感じられた。後に冷却材のナトリウム漏れなどで運転が止まった。98年には廃炉と決まった。日本の「もんじゅ」だけが生き残っている。
広辞苑を編集した新村出によれば「バカ」はサンスクリットの「モーハ」から転じたという(異説がいっぱいある)。「はた(幡)」や「はち(鉢)」といった言葉もサンスクリット起源らしい。優曇華(ウドンゲ)はクサカゲロウの卵だが、サンスクリット語でウドンバラという植物を指す言葉から転じた。「阿弥陀」や「菩薩」など今に残る仏教語が多いサンスクリットだが、楽器のラッパ、2月を示す如月などもサンスクリット語だという(宮坂宥勝『暮らしのなかの仏教語小辞典』ちくま学芸文庫)。
ネットで使う「アバター」という言葉もサンスクリット語で地上に降りた神の化身を示す「アバターラ」(権化)から生まれた。ネットで他人と交流したり連絡したりする際に画面上に現れる自分の分身キャラクターのことである。顔や髪形、服装などを自由に組み合わせて好みのキャラを作れるのが人気だ。アバターをコンピューター用語として使い始めたのは米国人、ネットで流行させたのは韓国人だ。
堀辰雄が「切ないまなざし」と表現した奈良・興福寺の阿修羅像は戦いの鬼神だが、荒々しい憤怒の形相はしていない。憂い深く寄せたまゆは、苦しみを共にする〈共苦〉の相だという。広辞苑(第5版)によると阿修羅とは「絶えず闘争を好み、地下や海底に住み、天上の神々に戦いを挑む悪神」とのことである。しかし興福寺の阿修羅は、何故か少女の優しい風貌をしていてその矛盾が素晴らしい。像に添えられた説明書きにも阿修羅という名前の梵語(ぼんご)の語源には二つの矛盾する説があるという。「非(A)天(SURA)」と「生命(ASU)を与える(RA)」。前者が、天上にはない戦いの悲惨さを言い、後者が、敵を破ることで確保される生命の安全を言う。『日本大百科全書』によれば「インドの鬼神の一種。サンスクリット語、パーリ語のアスラasuraの音写語で、修羅と略称される。語源からすれば、sとhの交代により、古代ペルシア語のアフラahuraと関係がある。しかし、古代ペルシアではアフラは善神とみなされ、悪神ダエーバdaevaに対立すると考えられているが、インドではアスラを神(スラsura)にあらざる者、つまり非天と解釈した結果、その関係が逆になり、善神デーバdevaに敵対する悪神をよぶことばとなっている。そして善神と悪神との戦闘は、インドの大叙事詩『マハーバーラタ』にみえ、ビシュヌ神の円盤に切られて大量の血を吐きながら、刀、槍(やり)、棍棒(こんぼう)で打ちのめされたアスラたちが戦場に横臥(おうが)し、血に染まった彼らの肢体が、褐色の岩の頂のように累々と横たわっているようすが描かれている。ほぼ同様の叙述は、仏典にも所々に言及され、これらを通じてわが国の文学にも伝えられた。それで血なまぐさい戦闘の行われる場所を「修羅場(しゅらば)」という。 …」という。
聖ペテロは日本の閻魔様のように天国の門を管理する係になっている。地獄に堕ちた人が回りを見ると、ご馳走食べ放題で、見渡す限りの美女。何かの間違いではないかと辺りを見回すと「地獄」という扉があって、そちらを覗くと針の山、血の池などの、まさに地獄図が広がっている。前を通った美女に「どちらが本当の地獄なんですか?」と尋ねると「扉のあちらもこちらも地獄よ。ただ、あちらは信仰があつくて地獄がああいう所だと信じている人たちのための地獄よ」。
地獄も極楽も人間が勝手に作ったものである。
無関係な話だが、コーヒーのミルクでスジャータというのが売り出された時に驚いた。これは死にそうなブッダにミルク粥をもってきてくれた女の子の名前なのだ。一方、クリープというのは英語で「虫酸の走る嫌な奴」という意味だから命名は難しい。
もっと無関係な話だが、光学の「キヤノン」(キャノンではない)は観音様から名前を取っている。前身、精機光学研究所・創業者の御手洗毅は観音様信仰が激しく、試作のカメラのファインダーの上に千手観音を刻み、レンズには「カシヤパ(ブッダの弟子)」と付け、カメラ本体にはKWANONと書いて「カンノンカメラ」と称した。実際には、このカメラは市販されなかったというが、これをCANONと改め、発売した。火炎をあしらった千手観音の像を会社のマークにしていた時期もある。「キヤノン」が商標として登録されたのは1935年(昭和10年)、ギリシャ語「カノン」(規範)の意味合いも重ねたという。
カメラ会社には「実る田」からきたミノルタ、社長の茅野弘から取ったチノン、小林春一から取ったコパルなど変なのが多い。ニコンはドイツのIKON社から取ったと言われているから、これよりはましである。
殺人を「ポア」というがこれはチベット語で「魂を奪う」という意味らしい。いずれにしろ、多くの宗教が入り交じっていてこれなら何でも屁理屈がつく。その多くの神を受け入れる「八百万の神」という日本の宗教的土台にも大きな問題がある。「神仏混淆」「本地垂迹説」があったように互いが融合するところが恐ろしい。八百万の神が価値観の多様化につながっていればいいものを根っこは日本教で、外国人から見ると日本人全員がオウム教である。
僕の家では年末にキリストを祝い、年が明けるとお宮とお寺と尼寺でお参りをしてくる。どの家でも同じでこれに結婚式には蒲鉾を出さなければならない!などの土着宗教が絡んでくることもある。
柳田邦男は『この国の失敗の本質』(講談社)の中で最近の相次ぐ不祥事を取り上げて、日本人は「文化的な欠陥遺伝子を持っているとしか思えない」、戦後の日本も「精神主義の鋳型に入っていた大和魂なるものを『モノ信仰』に入れ替えただけ」と書いている。
最後にどうして松本智津夫という男が麻原という名前にしたのか、これは麻原と読んでマハラとなり、マハラジャを意図したのではないだろうか。マハラジャというのはもちろん、カレーライス屋の名前ではなく、「大王」という意味だ。どうせなら、つけ麺のお店を始めればもっと面白かったのにと思う。
ナチスもヒンズー教の一派の幸福の象徴をハーケンクロイツ(カギ十字)として悪用した。歌の多用や権威付けの繰り返しなどゲッペルスのプロパガンダ(宣伝)手法と同じである。
忘れてはならないのはこうした宣伝に乗せられてはいけない、ということであり、ついでにいえば、猥雑な世界こそ、ナチスやオウム真理教に対抗できる唯一の道なのである。まじめな人間ほどひっかりやすいが、僕らのように不真面目でいい加減な人間の方が危機には強いのである。真面目に危機管理などという人に限ってそうした陥穽に落ちてしまう。不真面目が嫌なら、「非真面目」と言い換えてもいい。
非真面目な人間にはあんな単純なトリックにどうしてみんな引っかかるのか不思議でしようがない。まともな宗教であるイスラム教の創始者マホメットにも次のような話が残っている。
マホメットが「山を動かす」というのでみんな固唾を飲んで見守っていた。いろいろな呪文を唱えたが、いっこうに山は動かない。マホメットは少しも騒がず「山が動いてきたら危ない。それが神の慈悲なのだ。私が山の側に行けば同じだ」といって山に向かって歩き出した。
同じような屁理屈が多くの超能力者にみられる。トリックをされないような状況になっている時には「今日、邪魔な念力を出しているものがいる」とか「必ず成功する訳ではないのは手品ではなくて超能力だからだ」というように…。
「こころの時代」という。キャンペーンというのは常に足りないものを求める時に掲げられる。つまり、「こころ」がどれだけ危機的かを示している言葉だ。「癒しブーム」ともいう。
オウムにひっかかったインテリたちは、はたから見ると些細な挫折感から入信していることが多かった。彼らはみなやさしかった。
精神科医の大平健は『やさしさの精神病理』(岩波新書)で「やさしい」人々というのは、親密な他者とでさえ、ある一定の距離を保とうとするという。自分自身の内面の奥まで他者に踏み込まれるのを嫌うと同時に、相手の内面に踏み込むことも嫌う。特に若者の間に、「やさしい」人が増えているという。僕らの時代は「賢さ」の時代だった。大学紛争は「賢さ」ばかり目立つ若者が多くて、「やさしさ」が足りなかった。今は「やさしさ」ばかり目立って「賢さ」が足りないような気がするが、いずれにしろ、「やさしい」人間は挫折に弱い。誰かに相談することができないからだ。互いに悩みをうち明け合っていれば、はたから見ると大した挫折ではないのだが、うち明けると相手まで苦しめるとまで考えてしまう。こうして、「やさしい」人々は解決の糸口をつかめないままになる。カウンセラーにうち明けられる人はまだいいが、「自己啓発セミナー」とか「科学的」な宗教に入ってしまう人も多い。
もちろん、背景には見知らぬ他人と接触することが増え、コミュニケーション・ギャップの多い社会に僕らが生きていてストレスがたまるためなのだが、旧宗教がこれらの悩みに対応していないという問題がある。
内田樹は次のように書いている(『東京ファイティングキッズ』「まえがき」)。
それは彼らに知識が足りなかったからでも、知性に欠陥があったからでもないと私は思う。そうではなくて、あるフレームワークが失効してから、次のフレームワークを自力で再構築するまでの「酸欠期」をノンブレス(息継ぎなし)で泳ぎ抜くだけの「知的肺活量」が彼らには不足していたからである。
何かあったら、じっと一人で耐える「孤独力」が足りないのかもしれない。
でも、よく考えてみると科学と宗教が分離して考えられるようになったのはごくごく近代のことである。長い間、科学と宗教の間に矛盾はなかったし、立派な科学者が敬虔な信者であるということも稀ではない。「ケプラーの法則」のケプラーが宮廷の占星術師だったことを知れば十分だろうが、ガリレオだって、宗教に異議を最初から唱えようと思っていたのではなかった。
日本の最初の大学は東京帝國大学だったが、外国人には奇妙に映ったという。神学部のない大学というのは珍しいものだったからである。
神学は学問としての体系をもっている。「処女懐胎」だろうが、「復活」であろうが、きちんとした体系ができあがっている。アダムに臍があるべきかどうか、という問題についても数世紀かけて議論をして、ミケランジェロがほとんど最終的な、決定的な絵を描いた。
むしろ、日本で宗教=迷信という「信仰」が生まれた土壌というのを省察しなければならないだろう。
「ピタゴラスの定理」のピタゴラスも科学者であるというよりは哲学者、もっといえば宗教家であった。60歳前後にイタリアのクロトンにピタゴラス教団を創立し、密儀の学校として知られ、教団は南イタリアの覇権を握った。ピタゴラスが90歳の頃、世俗権力との確執が激しくなってピタゴラスは追放され、教団は各地に散らばって秘密結社化したという。『平凡社大百科事典』の次の記述を読んでほしい。
…ピタゴラス教団ではいっさいの教説がピタゴラスのものとされた。彼は絶対的権威をもった教祖であった。ここでは男女は平等に扱われ、<ピタゴラス的生活>を送るように指導された。清浄を保ち、肉食を断ち、沈黙の中で自己の魂を見つめれば、魂は元来、不死すなわち神的な存在であるが、無知ゆえにみずからを汚し、その罪をつぐなうために肉体という墓に埋葬されている。われわれが生と読んでいる地上の生活は、実は魂の死にほかならず、その死から復活し、再び神的本性を回復することが人生の目的である。それに失敗して無知な人生を繰り返すと、輪廻転生の輪から永久に抜け出せない。この苦しみから解放されるには魂は知恵(ソフィア)を求め、それによって本来の純粋存在に立ち帰らなければならない。<知恵の探求(フィロソフィア)>こそ、解脱のための最も有力な方法なのである。……
なお、ピタゴラス教団には変わった掟があり、とりわけ「そら豆を食べてはいけない」「燕が家の中に巣をかけてはいけない」というのが奇妙だった。中沢新一は『人類最古の哲学』(講談社)の中で、これがかぐや姫や燕石、“bird nester”(深窓の令嬢をものにすること)などの民俗と深く関係があることを解明している。
オウム事件は宗教と科学との接点をもう一度、日本人に問いかけた事件であった。
と、評論家風にまとめてみても、犬養首相のように「話せば分かる」といっても「問答無用」と殺されてしまったらおしまいだ。
不真面目な、猥雑なことを問題にしていたら抹殺されそうである。
彼ら(松本智津夫以外の人間)が目指していたのはまじめな人間ばかりの平和な、清潔な世界だったのだ。
※資料(朝日新聞2000年1月18日)
オウム真理教が18日、教団の名称を「アレフ」に変更した。アレフは、サンスクリット語では「無限の発展」を意味するといい、すでに予備校やレストランを経営するいくつかの会社が社名として使っている。突然「同姓」となってしまった会社の経営者らは「教団の関係組織と誤解されないか」と困惑する。教団側はアレフをあくまで新団体と位置づけ、信者も改めて募る考えを示すなど、オウムとの「決別」「別組織」をしきりに強調するが、公安当局は「団体規制法逃れ」の動きとみている。
横浜市都筑区仲町台1丁目にある衣類品卸売業の株式会社「アレフ」には18日、正午過ぎから得意先から「社員は信者なのか」など、30件近い問い合わせの電話があった。応対に追われた女性社員(32)は「最初は訳が分からなかった。大変ショックです」と話す。 同社は、1986年7月に設立し、従業員は5人。イタリアなどから主に紳士服を仕入れて、関東を中心に大手デパートやスーパーなどに卸している。 同社の男性幹部(36)は、「得意先にはちゃんと説明して冗談話で終わっているが、商売上これからは冗談にならない。社名の変更も含めて対策を考えたい」と頭を抱えている。
東京、大阪など全国に210店舗あるハンバーグレストラン「びっくりドンキー」を経営する「アレフ」(本社・札幌市)には、アルバイト学生などの家族から、「オウムと関係があるのか」との問い合わせがあった。
2年ほど前、オウム真理教関連とされる同名のコンピューター会社が報道で取り上げられ、同社に問い合わせが相次いだことから、マスコミ各社にファクスを流して無関係であることをアピールしたことがある。 同社広報室長の松尾真さんは「同じ団体と誤解されて迷惑しているが、これまで法的措置は取っていない」と話す。しかし、今回の改称で、以前からあった社名変更の話を本格的に検討するという。 東京都千代田区のアレフは主に雑誌や書籍、パンフレットなどの編集、デザインをしている。編集部の木住野訓男チーフは「編集協力アレフと出た時に、オウム関連の会社が協力したのかと誤解、敬遠されるのが心配です」と話す。
「私立大学の一部の願書には、履歴として予備校名を書く欄がある。ただでさえ入試を目前にナーバスになっている生徒は、あらぬ疑いを受け、不合格とされるのでは、と大きな不安を抱いています」
そう訴えるのは、大阪市中央区石町2丁目にある医学部・歯学部進学専門の大学受験予備校「アレフ」(生徒数150人)の経営者上田剛久さん(43)だ。
創業から20年。校名は、19世紀の数学者が新しい概念を表すために使ったヘブライ語の文字に由来するという。
新・新宗教の特徴について島薗進は『新新宗教と宗教ブーム』(岩波ブックレット1992)次の7点を挙げている。
□ 学生に聞くとYahooで「オウム真理教」を検索すると僕のホームページが一番に出てくるという。Yahooは申し込むとあちらが内容をチェックしてまとめ、その中に「オウム真理教の言語学」が選ばれたためなのだが、困ったものだ。なるほど、アメリカからオウムのエッセーを引用したいというメールがくるはずだ。
その後、Yahooの紹介文を替えてもらった。
という話を学生にしたら、「前にも聞いたよ」といわれた。オウム返しだった。
ちなみに僕はオウム真理教とは関係がない。浄土真宗である。敬虔ではないが…。
□ □カルト集団から家族を救うため