1回生
(春)
大学の寮にはいる。かなり古く、一芸や、酒、などを覚える。これが大学生かと思った。2人で12畳の部屋。先輩の彼女いる時は友達の部屋にいく。2人部屋といっても仕切りはただのダンボール。
陸上部に入部、同時にフォークソング部に入部。ゲリラライブを食堂の上で行い、守衛さんに怒られ町内会長の家に謝りに行く。「星くずクラッカー」というブルーハーツ好きの寮生バンドを組む。音楽の楽しさを知る。ギターボーカルを担当する。
(夏)
ヒッチハイクを初めてやった。寮で流行っていた。京都南インターから簡単に車がつかまり2時間30分で岡山まで着いた。これをきっかけに私のヒッチハイク人生が始まることとなる。
浪人時代にやりたかったバックパッカーを決行する。近畿国立対抗選手権の次の日からタイ、ベトナム、カンボジアへ1ヶ月間、1人旅をした。ここでの出会いが大学生活をかえた。なんて広い世界があるんだろうとおもった。カンボジアで13万円盗まれた。3万円ほどで25日間を過ごした。
帰って次の日から、学科でキャンプ実習にいく。かなりハードであったが、1ヶ月の海外旅行で学んだことがすぐにいかされていた。どこでも生きていく力を見につけていた。誰とでも話せる力を身につけていた。1週間、山奥でキャンプをした。
(秋)
経済の先生と出会い、スポーツ健康マネジメントからの転科を考える。留学も考え出す。英語を勉強しだす。
(冬)
学科で長野スキーへ出かける。その後、チャリ(マウンテンバイク)で京都から岡山、岡山から小豆島、南港、京都というルートを1週間で旅する。ここで人との出会い、自転車と出会う。
2回生
(春)
転科をいち早く実行した。社会文化に入る。授業を一生懸命聞いていた。家庭教師を3件もつ。単価のいいバイトばかりを選んでやるようになった。時間は自分で作るもの。
(夏)
和歌山県美山で初のトライアスロン大会に参加する(2002年7月27日)30位まで入れば全国にいける大会で28位に入る。スポーツでのカルチャーショックをうける。
京都教育大学陸上部として、何年ぶりかに関西駅伝予選会に出場する。勧誘活動をがんばり、短距離も含めたチームであったが、盛り上がっていた。
大阪大学の合宿に参加させてもらった。
場所は長野県菅平であった。そこまで私は自転車で行った。
トライアスロンのために買った自転車であった。
1日で200キロ漕いだ。2日と半日で着いた。
そのまま、1週間の合宿に入る。足がつりそうであったがなんとか乗り切った。
強くなった。合宿が終わると、自転車で埼玉へ向かう。友達の家で1泊して、新幹線で岡山に帰る。
集中の授業があるためやむを得なかった。自転車で帰りたかった。
駅伝が終わると、休むまもなくオーストラリアへ短期留学した。
ここで、チェコ人のマーティンとカロリーナに出会う。
カロリーナはチェコのプロスノーボーダーで有名人。
そんな2人が、日本人ぽくない私のことを気に入ってくれ、
毎日サーフィンと、バーでの生活を過ごす。
学校の授業では、アドリアーナ先生は奇妙な動きをしたり、
急に歌いだしたり、マーティンとおもろいことをやっている私を「クレイジーケイ」と呼ぶ。
授業の最後に、先生から、「クレイジーの意味は、not stupid it means good.」といわれる。
楽しいということだろう。ユニークだということだろう。
これがクレイジーチャレンジの名前の由来である。
最後のお別れパーティーでは、100人が集まる中(知らない外人ばっかり、普通の客)
バンドマンにマーティンが頼み込み(ここにジャパニーズミュージシャンがいるって)
ブルーハーツを歌わせてもらう。その時の写真は「走る人!」の裏表紙真ん中あたりに載っている。
「TRAIN-TRAIN」を大熱唱する。「サムライパワー」って叫んだら、みんな喜んでいた。
バンドマンからはTシャツをプレゼントしてもらう。
マーティンはなぜか泣いていた。こんな、最高の経験をオーストラリアで味わった。
帰国後、英語をしゃべる場を作りたいと、留学生との接触をはかりだす。
(秋)
英語学科の友達と英語サークルを作る。中国人、バングラデシュ人、タイ人、韓国人、ウクライナ人が集まった。それをうりに、日本人も集まり15人ほどの団体となった。部長を務める。
(冬)京都駅ビル大階段駆け上がり大会に参加する。大学の副学長とチームを組み、TVにも出演する。そのつながりで、副学長から「ラジオにでてみないか」と誘いを受ける。これが、「FM845」との出会いであった。京都のことを学生の視点で紹介してくれとのことだった。コミュニティーラジオ局であったが、パーソナリティーの人や、局長などに会うと、いい刺激となった。すぐにラジオサークルを結成(京都パワフルサンカ)、副部長となる。結局1年3ヶ月ほどやり続けた。毎週金曜日午後2時から2時15分の15分間を続けた。ここで、クレイジーチャレンジの話もした。リスナーからの反応も良かった、取材の仕方を学んだ。「ラジオで流しますよ」というと、商店街のオバちゃんはいろんなことをしゃべってサービスもしてくれた。
第3回世界水フォーラム(京都)へ参加した。英語で面接があり、倍率も3倍と高かったがなんとか採用され、1週間のうち5日参加した。イギリス人や、フィンランド人と出会う。英語サークルのメンバーは3名参加していた。さすが京都とおもった。このような会議をひらけれるんだから。かなり刺激を受けた。同世代の人の発表などボランティアをしながらいろんなブースをのぞいていた。そこで出会ったのがEMであった。(Effective
Microorganismsの略)有用微生物群である。これはおもしろいと思い、京都教育大にEMをもってこようとおもう。
台湾へ旅をした。5日でいけるところを探し、台湾に決めすぐに旅たった。屋台などが最高にいい刺激を与えてくれた。いろいろと考えさせられた。
3回生
(春)
京都教育大学陸上部の主将になる。近いうちに1部に昇格することをOBの前で宣言した。部員を大幅に増やした。盛り上がりをみせた。
学生科研費という学生の自主的なプロジェクトを支援する企画があった。それにEMで投稿して採用された。20万円まで費用が使えて、20万円使った。大学からお金をもらって研究することにやりがいを感じた。そこでEM研究グループを作った。また新しい仲間ができた。生ごみを肥料にすることと、池の水をきれいにすることを実験した。
(夏)
全国教育大学対抗選手権で北海道へいく。少人数でいい成績をとる。1500mで4分05秒のベストが出る。打ち上げでは「リンダリンダ」を「ビンダビンダ」で一気飲みをして盛り上げた。大阪教育大学の合宿(菅平)に参加させてもらった。ここでもたくさんの出会いがあった。
何年かぶりに女子の関西駅伝に合同チームで出場する。その監督を担った。
珠洲のトライアスロンに出場する。2003年8月24日、前日車で石川県まで行き、先輩の家に泊めてもらい、出場した。2.5キロ泳ぎ、100キロ自転車漕いで、23キロ走った。RUNでごぼう抜きして24位にはいる。RUNは区間3位にはいった。24日で24位だったので賞をいただいた。その次の日、車で京都まで帰った。かなりしんどかった。リポビタン駅伝などにも参加した。その何日か後、後輩と第1回クレイジーチャレンジを決行する。京都から岡山まで37時間寝ずに走った。このとき、和田さんや、片山さんが掲示板で応援してくれた。夜中も走り続けた。限界をしりたかった。備前の祖母の家までいき、暑さでぼろぼろになった体を休め、次の日実家まで帰った。家にはキムシゲが待っていた。親は驚いていた。自転車で帰り、ヒッチハイクで帰り、次は走ってかえってきたのだから。後輩は神戸まで走りきった。このスタイルがのちのちの日本縦断へとつながることになる。
そのチャレンジの次の日、チェコに旅立つ。マーティンとカロリーナに会うためだ。13時間ほどかけてチェコに着く。空港にはマーティンがいた。すぐバーに行き、ビールを飲みまくった。朝まで飲み続けた。さすがにつかれて次の日ゆっくりしようとすると、朝早く起こされ、別荘(コテージ)へつれていかれた。そこがまたいい。最高の場所であった。魚をつったり、おいしいご飯食べたり、観光したり、歌ったり、ダーツしたり。最高の1週間をチェコですごした。カロリーナの友達の「DC」のボスと会った。ボードのチャンピオンで、どこの会場へ行っても顔パスであり、DC関係の店のものをたくさんお土産にもらった。チェコ滞在4日目くらいに、チェコマラソンにでる。東洋人は私だけ、「サムライパワー」といってゴールすると、5位入賞であった。なんか国際大会へでているようで、感動した。マーティンも喜んでいた。友達が5人ほどゴールに集まっていた。その夜はまたバーで朝まで飲み明かした。
帰りにイングランドへ寄って1泊した。物価の高さに驚いた。私のパワーの源は海外旅行にあるのかもしれない。それほどたくさんの刺激を受けていつも帰国していた。
帰国後、関西女子駅伝を無事に終える。「先輩にあんな時期に外国行くやつがおるか」と怒られる。反省。
(秋)
藤陵祭で(大学祭)でEM研究ブースと陸上部で模擬店(たこ焼き)をだす。
関西学年別対抗戦、3000sc6位初の入賞で私でも、なんとか勝負できるようになったと感じる。枚方ハーフマラソン1時間10分22秒で優勝、京都学生駅伝最長区間で区間5位、岡山井原ハーフで1時間10分23秒4位。陸上と公務員勉強に没頭。
(冬)
丸亀ハーフで1時間10分20秒。学連ハーフで遂に1時間9分47秒を出す。10分を切ったらご飯を食べに連れて行ってくれると約束していた針の先生に寿司をごちそうになる。大学生活で一番高級なご馳走であった。1人約1万5000円笑。宇治川10キロマラソンで9位入賞。そのまま、高知県春野に合宿。大教大、大阪市立大、京都工繊大、和歌山大などと合同練習をする。1000m×20本や30キロ走などを行う。かなり充実した練習ができた。主将として、チームをまとめる仕事を学ぶ。
京都シティーハーフを1時間11分57秒かかる。その2日後アメリカにとぶ。ロスの中学校時代の友達と会いハリウッドへ車で観光した。そのまま、1泊することなく長距離バスでサンノゼまで行った。長距離はバスが安くてお勧めである。何時間かかっただろうか、途中何度か休憩をはさんで到着する。そこはIT関係の会社の集まるサンノゼ。私の格好がこっけいにうつった。バックパッカーがくるとこではない。ここでは高校の友達にあった。車でサンフランシスコを案内してもらう。買い物をして、メキシカン料理を食べる。ここでクレジットカードが使えないことに気づく。なぜかはわからない。友達から少しお金を借り、ラスベガスへ行く。アメリカの広さを肌で味わう。砂漠をバスで長い間走った。風景が変わらない。それほどまっすぐな道だ。驚いた。ラスベガスでは10ドルしか遊ぶ金がなかったが、カジノをして、無料のアトラクションを眺め、野宿した。
私の大学日記
大学生活遊びまわって遊びまわって得たものが今の自分。
そして、今の人脈。
あの時がなければ今の自分はない。
4年間を私がどのようにすごしてきたかをここに紹介します。
今しかできないことを必死でやる。
大学生は恵まれた環境。
時間をお金だと思ってすごす。
人間力を鍛える時期。
頭悪くてもいい、クレイジーにハッピーに。