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21世紀のディーラートップに聞く・インタビューを終えて
カーピアセロム本誌雑誌より抜粋

第十三回(2007年新春号) ネッツトヨタ道都 社長 澤 博一氏

 澤社長が若い頃、バスケットボールの選手で活躍していたと聞いて驚いた。本人自身が「私くらい背の低い選手がいなかった」語っているが、このハンディキャップをプラス思考に変えたからこそ、名トップガードとして活躍できたと思う。そして、とかくストレスがたまりやすいディーラー経営を澤社長はごの強靱な精神力と忍耐力で支えたきたのだろう。
 自動車業界に入って今年で47年目を迎えるという澤社長。今もチャレンジ精神と改革の志は一向に衰えない。いくつもの拠点や会社を再建してきた澤社長だが、スポーツ精神である“コミニュケーション力”が社員をヤル気にさせる最大のキーワードと心に深く刻んでいる。その意味では澤社長の経営は一口で言うと「バスケットボールから学んだ経営学」でもある。
 澤社長は一筋に「理論と実践」にチャレンジしてきた貴重なディーラー経営者の一人と言えよう。
(佐藤)

第十二回(2006年錦秋号) 北海道ふそう 社長 松原 史朗氏

 松原社長が就任して3年あまり。しかし同社にはこの間にあまりにも多くの出来事が降りかかった。最たるものが、世間はリコール隠しとして「ふそう車」を特別な目で見た。とりわけハブボルトの折損・ホイル脱落による人身事故は、人々の不安をあおった。「官庁や一部大口ユーザーから入札や購入の停止があったり、バス会社でも旅行会社などからふそう車のボイコットがあった。また幼稚園でも父兄からの要望で同様の動きが一時期あり、そのときは辛かった」と振り返る。
 相次ぐリコールの対応に追われているさなか、同社の不正車検問題が表面化し、一般紙社会面などの矢面に立たされた。マスコミの取り上げ 方は厳しいものがあった。これには松原社長の独立した2人の子息からも「親父の会社、大丈夫か」と心配の電話が入ったという。おそらく多くの社員が同じ経験をしたはずだ。
 加えてこのたびのメーカーとの統合。かつて経験したことのない業務や対応に追われる毎日が続いている。同社が苦難の3年間を乗り切ってきたのは、松原社長の快活な性格と常に前に向き合う旺盛な気概がけん引しているといえるだろう。
 かつて大型4系列の3分の1を占めていた道内ふそう車シェア。4分の1まで低下した販売の復権には時間がかかるかもしれないが、信頼回復に向けての下地はほぼ出来上がった印象だ。
(垂水 恒明)

第十一回(2006年新緑号) トヨタレンタリース新札幌 社長 村上 英範氏

 柿本会長から期待を受けて、社長に就任した村上社長には明確な目標があった。
 『ともかく、累積赤字を解消し、会社を利益体質の会社にすること。また、社員が待遇面、職場環境などで、働きがいのある、夢のある会社に育て上げること』だから、社長というよりも、現場の気持ちで社員と一緒になって、考え、共働するよう心がけていたその結果、何と就任3年目で長年の課題であった累積赤字を解消し、今や利益体質の会社に仕上げたのである。
 「努力家、真面目、勉強家、面倒見が良い」が人物評。また、村上社長はともかく「負けず嫌い」な性格だ。会社があらゆるコンテストや、大会で優勝することにチャレンジ。その上「地域NO1の会社に」「グループ7社で貢献度NO1の会社に」が目標だ。
 グループ内では同志であったネッツトヨタ函館鳥谷部社長(現、相談役)を最大の良きライバル、心の支えにしていたはずである。
 村上社長の好きな言葉は「闘魂」。内面的に闘争心を駆り立てるタイプ。好きな人物には、温厚な性格で、辛抱と忍耐で国を治めた徳川家康をあげている。村上社長の性格、心境、立場を考えれば納得できる人物像。
 「自分の持っているものを全て出し、最善を尽くすつもりでいる」という言葉には、トヨタカローラ札幌や柿本会長に感謝の気持ちや忠誠心がにじんでいる。
 村上社長はマラソン型というより、短距離競走型の経営者と言えるかも知れない。
(佐藤 公)

第十回(2006年陽春号) 北海道日産自動車 社長 原田 彦エ門氏

 川上澄元会長は、メーカー出身の平尾氏(昭和16年生まれ、東大卒、道日産元専務)を社長に招聘(平成13年)し、自分は会長としての経営の夢を見ていた。
 その喜びの心境と感謝の意を表し(誌面上段参照)『いのち いっぱい じぶんの 花を』という相田みつをの色紙を社員に贈った。しかし、平尾社長は不幸にして、事故で車椅子での執務を余儀なくされ、副会長となった。ここで、川上元会長は50歳の原田氏を社長に指名し、初のプロパー社長が誕生した。
 原田社長は社長就任後まだ1年有余であるが、その資質を徐々に発揮してきている。就任当初は「経営に先見性のあった川上元会長、企画力豊富の平尾元社長の経営方針を引き継ぎ、また社内の意見を十分吸収していきたい」と抱負を述べていた。
 しかし、来年の創立60周年を迎え、新機軸な方針も打ち出している。社員には意識改革を求め、攻める集団の社風を目指している。
 課題は人材の早期育成と登用だろう。数年後には団塊時代の、多くの社員退職を迎える。
 原田社長は温厚さの中にも、スポーツ魂を持ち、芯が強く負けず嫌いの性格だ。一面、頑固なところもあるが、それは決断力があり、責任感が強いということだろう。
 原田社長にはプロパー社長として、若い社員が夢を持てる会社づくりを期待したい。
 生き残りを賭けて変動の激しい自動車販売業界という荒波の航海にいま、出発したばかりの原田社長だ。
(佐藤 公)

第九回(2005年冬将軍号) 北海道三菱自動車販売 社長 熊木 道郎氏

 リコール隠し発覚以来、減少し続けてきた三菱の新車販売がこのところ、上昇気運に転じてきた。三菱ディーラーの中でも道内三菱ディーラーの雄、北海道三菱自動車販売の熊木社長に直撃した。
 インタビューした熊木社長とは昨年6月に一度会っているが、その時の印象はクールで物静かな印象を受けた。
 今回は明るく、笑顔を見せながら淡々と当時の様子やこれからの抱負などを語ってくれた。「何よりも全社員が全知全能の努力で、就任2年目にして決算が黒字となったことが感慨無量だった」と熊木社長。
 社内に活動基準がある。「お客様にも、会社にも、そして仲間にも『嘘のない社員』『気配りのある社員』『いないと困る社員』になろう」。この言葉の「社員」を「社長」に置き換えてみると今の社員の熊木社長に対する信望と期待感の大きさが分かる。
 さらに熊木社長は、異動は『タイミング、能力発掘、緊張感を与えること、能力主義、適材適所など』がポイントと言う。しかし、このこともまさしく、メーカーの三菱自動車工業が熊木部長(当時)を北海道三菱社長に任命した最善の人事の条件といえまいか。
(佐藤 公)

第八回(2005年錦秋号) ホンダプリモ北札幌 社長 菊地 弘嗣氏

 菊地社長の不遇な少年時代を乗り越え、今日の成功をここまで導いたものは何か。頑張り屋で努力家、勿論それもある。しかし、それだけで事業が成功するとは限らない。よく世間では事を成しとげるのに必要な三条件に運・鈍・根(幸福と愚直と根気)をあげる。おそらく、菊地社長が初めて社会人としてディーラーに入社した時には自分が経営者になるという事は想定外(?)であったと思う。
 しかし、運というか巡り合わせというか、弱冠26歳でディーラー経営者の立場に立つ。菊地社長が語っているように「ホンダ」だから成功したとも言える。そして、本田宗一郎との出会いがいかに菊地社長に刺激と勇気、自信を与えたことか。菊地社長は「本田宗一郎社長にお話しを聞く機会が幾たびかありました。その度に学ぶことが多く、後に私の『会社経営』、『人の使い方』などに大きな影響を受けました」と述懐している。
 本人は「AB型なのでトップダウンではなくボトムアップ型、調整型」と性格を分析する。この人柄が信用を勝ち得、いろいろな団体のトップに請われる理由かもしれない。
 菊地社長はいずれ会社の将来を後継者である子息の弘太郎氏に託す。これから弘太郎氏がどんな運・鈍・根を勝ち得るのか、菊地社長の夢はそこにあると言えよう。
(佐藤 公)

第七回(2005年盛夏号) 北海自動車工業 社長 高薄 健氏

 北海自動車工業は五番館自動車部の後を継ぎ、昭和12年にフォード車の販売特約店となった。
 初代社長は高薄敏男氏。二代目は長男の浩志現会長。そして、三代目が高薄健社長。健社長は高薄家の遠戚ではあるが継承ではなく、満を持しての登用といえる。
 高薄社長のお話を聞いて、経営に対する熱意、前向きさはともかく、ユニークな経営ビジョンに新鮮さと期待感を感じた。それは高薄社長の経営哲学が他社のトップとはどこか違うと感じるのだ。例えば、人材の育成。高薄社長はまずブレーンに外部から優秀な人材を招聘して社員育成の波長(組織)を広げる。社員採用も会社に夢を持つ者を自ら面接して目利きする。店舗の設備投資の考え方も異風。店舗の設備投資をしてから責任者を任命するのではなく、高薄社長はそこの責任者の能力と意欲の度合いに則して組織を作り投資を考える。お客様管理も徹底的にお付き合いをして信頼関係を築くことが会社のモットーという。また、高薄社長は“情熱”という言葉が随所に飛び出す。良い情報を得るためには人格を磨き、異業種の人や流行の発信源を鋭意見てまわる事という。
 「情報と感性人間」ともいえる高薄社長は新時代のディーラー経営を目指し、今月も帯広、札幌、東京など全国を飛びまわる。
(佐藤 公)

第六回(2005年春号) ネッツトヨタ函館 社長 鳥谷部 政勝氏

 鳥谷部社長はオーナー社長でなければ生え抜き(プロパー)の社長でもない。トヨタカローラ札幌から“後継者の育成”を旗印に任命されて来た身で、現地人(函館)からみれば部外者の経営者。その経営者が就任6年目にしてじもとディーラートップ、全国でもネッツ店トップクラスの業績を上げ注目を浴びている。
 函館は人間関係が良く、のどかな風土の保守的な町と言われている。だから、変化や改革をあまり好まない。しかし鳥谷部社長は社内の風土、文化、環境に風穴を開けるべく改善、改革を果たした。
 鳥谷部社長は正義感が人一倍強く、頑固一徹な性格だ。しかし、こころは優しく、情熱あふれる熱血漢の男だ。また、忍耐強い。それらの性格の形成は少年時代に築かれてきたのかも知れない。彼は開襟を開いて波乱万丈の少年時代の話を語ってくれた。
 「小樽生まれで余市で育ったのですが、小学校の時から親が病気で貧乏生活でした。だから、勉強どころか朝早くから夜遅くまでアルバイトをし生活を助けていました。朝早くからリンゴの袋かけ、木こり作業、高校時代も土方などをやりましたよ。終戦直後の時代は誰でもそんな経験が少しはあるのではないですか」と当時の苦労話を豪快な笑いで吹き飛ばす鳥谷部社長。
 鳥谷部社長のようなキャラクターの経営者が函館に、否ディーラー経営者にいて欲しいと思う。しかし、彼は「万事を尽くして天命を待つ心境。もう後は自分の人生を楽しみたい」と頑なに勇退を心に秘めているのだが…。
(佐藤 公)

第五回(2005年新春号) ネッツトヨタ札幌 社長 菅 義弘氏

 札幌トヨタ自動車の社長に「愛社如愛己」(社を愛すること 己を愛する如し)と言う言葉がある。札幌トヨタグループ3000人の社員の中で今、菅社長ほどこの言葉を重く受け止め自覚している幹部社員はいないのではないか。
 相茶俊介社長の側近(副社長)として、札幌トヨタ在籍42年間で得てきた知識とキャリアは、今や相茶社長のみならず札幌トヨタグループにとって貴重な人材(生き字引)となっている。
 菅社長はロサンゼルスのディーラーに3年余出向し、アメリカ的経営手法を学んだ。この誰もがめったに出来ない経験は菅社長の経営観(あるいは人生観)に大きな自信と影響力を及ぼしているはずである。他の経営者との差別化とも云えようか。アメリカ的な合理主義と日本的な人情性。この融合はどんな会社でも企業発展に必要な要素であろう。
 菅社長は「凡時徹底」主義をモットーとしているように実直で几帳面な性格のようだ。でも、一度信用したら任せる、人を信じるという包容力がある。
 ネッツトヨタ札幌の社長に就任して2年目。これから会社をどんな「メイク・ザ・スタイル」に成し遂げるのか菅社長の手腕に期待がかかる。
(佐藤 公)

第四回(2004年秋号) ホンダクリオ札幌東 社長 高田 芳夫氏

 「趣味は」「休日の過ごし方は」などの個人生活に関する質問にも率直に答えてくれた高田社長。誠実さ、責任感、人情味。インタビューを終えて、高田社長が業界団体の数多くの主要ポストに就いている理由(わけ)がそこにあると実感した。
  また、高田社長は、社員の「いちばんちかくに」いる人でもある。「いちばんちかくに」は札幌ホンダグループのキャッチフレーズだ。「お客様にとって、何でも相談できる頼もしい存在。コンシェルジュ…」とある。「お客様」を「社員」に、「コンシェルジュ」を「社長」に置き換えてみると高田社長の面倒見の良さ、社員からの信頼の深さが伺える。
  高田社長は苦労人である。特に、創業時数年間のご苦労は創造に絶するものがあったと思う。日常、高田社長は昔の苦労話はあまり口にしない。いつも夢や高い目標を持ち続けチャレンジする、それが高田社長の人生観であり、持ち味である。苦労をバネにして、今日の札幌ホンダグループを築き上げ、大手ディーラーの地位を獲得した高田社長の生き様は、明日の社員の誇りともなろう。
  インタビューの中で、高田社長が格好を崩し、微笑みをもって話をしてくれたこと、それは話が自分の後継者に言及した時である。
  「35歳の長男が私と同じ道を志してくれることになりました」 経営者の顔が親の顔になった。
(佐藤 公)

第三回(2004年夏号) 札幌日産自動車 社長 杉本 亙氏

 杉本社長のお話はともかく理路整然として明快だ。また、几帳面な性格のように伺えた。
  社長応接室の正面に、美術年鑑が一冊整然と置かれている。杉本社長の人生観をすべて象徴しているようだ。
  美大出身ということで、とかく異色なディーラー経営者と見られがち。だが、本人は意に介しない。商売がクルマの販売であろうと、デパートの経営であろうと、経営の基本デザインは変わらないと説く。「人間の日常生活もデザイン」という杉本社長は自然体でディーラー経営に当たっているようだ。
  しかし、自動車販売は将来の着地点が不透明なところもある。杉本社長は、日産自動車というメーカーの枠にははまらず、お客様はなにを期待しているのか、お客様のメリットはなにかを第一主義に、地域に密着した新しい会社のありかた、業態、販売手法を目指して意欲的にチャレンジを試みている。生き残る会社とはお客様を味方にしてサービスをしている会社とも言う。
  杉本社長のモットーは「心・技・体」ではなくて「体・技・心」。現在48歳の杉本社長が大経営者として大きく羽ばたくときは、社長の思い、心情の「心」が社員に理解され、浸透したときであろう。その日は遠からず訪れるはずだ。
  そこには新しい未知なる、札幌日産自動車、いや杉本社長の「記号」が隠されているようだ。
(佐藤 公)

第二回(2004年春号) トヨタカローラ札幌 社長 柿本 純氏

 社長に就任して早くも10年(来年)になるがともかくアグレッシブに企業風土変革に取り組んでいる姿は常にフレッシュで若々しい。過去を振り返ることを嫌い、社員には常に今、何をなすべきかを考えさせ、新しい試みにチャレンジする志は「ディーラー改革の士」ともいえる。
  つい最近までは本社で朝一番に出勤する努力家。父親である柿本会長に「なかなか俺の言うことを聞いてくれない」と嘆かせるほどの芯の強さ、頑固なところもあるが、それは改革にかける意気込みとチャレンジ心の表れ。
  今は自ら先頭に立って改革のスピードを緩めないが、会社の成長は人材の育成にあることは百もご承知で、これからは部下に任せ「人を育てる」包容力も見せつつある。柿本社長の改革、例えば、少人数で運営するノウハウやお客様の対応策などが軌道に乗ったら自動車販売業の新しいあり方として業界で注目を浴びることになろう。
  ともかく、大きな組織(グループ)のステージであればあるほど柿本社長の真価が発揮できる。これから期待のできるスケールの大きな経営者の一人である。
(佐藤 公)

第一回(2004年新春号) 札幌トヨタ自動車 社長 相茶俊介氏

 札幌トヨタ自動車は今の札幌西武デパートの前身である五番館自動車部からの発祥である。現在の相茶俊介氏は歴代4代目の社長になる。
  父である相茶現取締役名誉会長の後継者になるが、創業58年を迎える道内ディーラーのトップ企業、しかもグループ会社(同社を入れて16社)約3,000人の頂点に立つ経営トップということでかなりプレッシャーを感じているのでは、と初めは考えていた。ところが、実際お話を聞いてみて相茶社長の謙虚な経営姿勢と創立以来変わらぬ経営方針の遂行からみて、これはかなりディーラー経営のこころを掴んでいて、内心は将来の展望に自信があるのではと拝見した。
  相茶社長はとくに人心の掌握術に長けており、今までのディーラー経営者には余り見られなかった新しいタイプの経営者といえる。また、相茶社長の理科系らしい合理的なものの考え方がスマートで、新しい社長像のようにも思えた。
  業界での信頼も年々高まってきており、自動車業界発展のためにも若きリーダーに期待するものはますます大きい。
(佐藤 公)

 

 
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