「ドラえもん」(藤子・F・不二雄作)について、富山県氷見市の空誓寺住職、もとひら了(53)には気に入らない点がいくつかある。
一、いじめがある
一、家族の愛情の描かれ方が希薄
一、のび太が成長しない
人の道を説く僧侶としてでは、ない。昨年二月、実家の寺を継ぐまでは一線級のアニメ制作者。テレビアニメ「ドラえもん」で、放映開始の一九七九年から八四年までチーフディレクターを務めた人物の思いである。
作者の藤子が病に倒れ、原作マンガが無かったアニメ映画「のび太のパラレル西遊記」(八八年)で、脚本を担当したのも彼。プロデューサーに訴えたものだ。「ドラえもんと、のび太が完全に別々になる話はどう?」。一笑に付されはしたが、思い描いたのは「のび太の自立」だった。
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「ドラえもんに頼ってばかり」「成長しない」−。こんな、のび太批判は多い。
マンガもテレビアニメも世界中に輸出されているが、アジアでの人気に引き換え、欧州では数カ国でアニメが放映されたぐらい。米国には上陸もしていない。「ドラえもん学」の富山大教授、横山泰行(64)は「欧米では人生の難事を自らの力で雄々しく解決しようという姿勢が好まれるからでは」と分析する。
ただ実は、一九九八年春ごろ、「成長するのび太」の物語がネット上を駆けめぐったことがある。作者は現在、京都大でナノ工学に取り組む研究者、佐藤宣夫(31)。
「突然、ドラえもんの機能が止まり、悲しんだのび太が懸命に勉強し、留学し、一流企業に入り、科学者となって、なおす」という筋立て。つまりは、のび太をドラえもんに依存できない状況=「現実」に追い込み、ものすごく「頑張らせる」話である。
佐藤が自身のホームページで公表するや、のび太の“依存”に歯がゆい思いをしていたファンの間で人気に火が付き、この話を基にして映画「ジュブナイル」までつくられた。
確かに、依存はしている。だが、のび太は本当にドラえもんがいないとやっていけないだろうか。
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そうでもなさそうだ。「ドラえもん学」の横山が言うように、ドラえもんは千七百近い秘密道具を出して、のび太がいじめられる度に助け船を出すが、それは、いつも「その場をしのぐだけで、結局、いじめ構造の解決にはつながってはいない」のである。
そして、それでも、のび太は、ジャイアンやスネ夫のいる世界を「のび太なりに“等身大”に生きて」(藤子)いるではないか。
藤子は言っている。「今の自分よりは少しはましになりたい、と思う。でも、毎日同じ反省を繰り返しながら、足踏みをしている」のが、のび太であり、「人間とは結局、そういうもの」だ、と。
そんなに頑張らなくてもいいから、まあ、なんとか生きていこうよ−。それが「ドラえもんのいない世界」へ向けた、藤子のメッセージだったのではないか。
タイムマシンで、あまり立派ではない未来の自分と会った、のび太が「よおし!がんばるぞ」と決心する話がある。だが、すぐ、こう続けるのだ。「しかし…毎日がんばりつづけるのは大へんだから、一日おき…」「いや、二、三日おき…」「いや、やれるはんいでがんばるぞ!」(敬称略)=第1部おわり