明治から大正にかけて、30万人もの日本の若い女性が
売られたり騙されたりして、海外に売られていった。
2006年3月6日 月曜日
◆差別の歴史と現代社会 2月28日 宮崎学
大場
戦争中に主に南方にいた場合には敵性外国人としてインドに抑留されるんですね。在留邦人はインドの砂漠のデオリというすごい辺鄙なところに収容されて、ほとんどの日本人はそこで投げやりになって帝国臣民であるということの自信を逆に失って行く。しかし、ひとりからゆきさん達だけは収容所の中で天皇陛下の写真を自分の部屋に飾り、玄関の入り口に日の丸を掲げ、朝夕天皇陛下の写真を拝んで、宮城遥拝(皇居に向かってお辞儀)をするということを欠かさなかった。ほかの人は帝国臣民であることを半ば捨ててたのだが、からゆきさんは最後まで、戦争で日本が負けたという時になってもブラジルの勝ち組と同じで「日本の天皇陛下が負けるわけはない」ということで、収容所内で深刻な闘争が起こり、約20名がその内紛で亡くなる。それくらい天皇に対して最後まで敬愛の念を失わなかった。
この本のおキクさんのような人は明治から大正に売られたりだまされたりして南方やシベリアに行く。約30万人ほどの数になるが、ほとんど学校に行ける人たちではなかった。字が書けない読めない、そしてほぼ15,6歳で売られて風土病あるいはマラリア、性病で大体20歳くらいで亡くなっている。5年間くらい稼いでその間、仕送りをしている。いつどこで亡くなったかは家族は知らないまま死んでしまう。(現地の)日本人墓地に行くとからゆきさんの30センチくらいの小さいお墓がたくさん並んでいる。 そこにお墓を建てて貰った人はまだ良いほうで - 100人に1人でしょうね - 残り99人はジャングルに放り捨てられる。 まだ虫の息はあるのだがワニの餌で売られた人もいる。
昔は飛行機がなかったので夏目漱石、森鴎外などのようにヨーロッパに留学、 あるいは見聞を広めに行く人は必ずシンガポールあたりに立ち寄った。彼らはいっぱい手記を残している。シンガポールのくだりを見るとほとんどの方がからゆきさんのことを書いており、異口同音に「彼女達には微塵の暗さがない。愚痴、泣き言をこぼさない、どうしてあんなに朗らかで明るく突き抜けたように気分でおれるんだろう、不思議でしょうがない」ということを書いている。
宮様が南方に行かれると接待の時にからゆきさんがかり出された。シンガポールあたりは昔はよく宮様も外遊された。おキクさんも最後までとうとう名前を明かさないのだが、ある宮様の一夜のお相手に選ばれる。そして、その宮様にとても気に入られ「ぜひあなたを日本につれて帰りたい、 側室として置きたい」ということで執心された。おキクさんは自分は被差別部落出身だとは言わないのだが、 「一緒に生活できるような者ではありません」と一言で断られる。皇室の宮様と被差別の女性達が交わるはずがないのに外地で男女というか座標を変えて一晩一瞬交わる。国内であれば縦で交わることはないのだが、天皇と被差別であるからゆきさん心の中では敬愛の念というか近しいものを持っていたんだろうと思います。
例えば日露戦争のときバルチック艦隊がヨーロッパを出てアフリカ大陸の南を通って来るのだが、今なら信じられない話だが日本はバルチック艦隊の所在 - 今どこを航行しているか - について不明だった。ある時艦隊がマダガスカルに入った。そこでマダガスカルのからゆきさんたちが電報を日本に送った。 「バルチック艦隊が今マダガスカルに来ましたよ」と。その次はシンガポール。マラッカ海峡をバルチック艦隊が四十数隻黒い煙を吐いて日本に向かっている。それでからゆきさん達は「日本は滅ぼされる、 お終いだ」ということでその場で領事館に皆走り込み、かんざしを抜いたり着物を脱いだり、着の身着のまま、 あるいは自分の貯金を全部領事館に「お国のための戦争のために使って下さい」ということで投げ出した人がいっぱいいた。 外地で領事館で祝日のときはみんなが集まるのだが、そこに一張羅の着物を着てみんなの中に入っていって天皇陛下の写真を拝んで 「お祝いできることが私達にとって一番の喜びである」とも言った。 とても愛国的というか日本という国から捨てられた立場の人たちでありながら、一番実は国のことを思っていた。宮崎さんの本にあるが、彼女達はとても愛国的あるいは憂国的なのだが国家は醜業婦であるとして彼女達に対してとうとう最後まで希望も何も与ず、ただ彼女達は一方的に国なり天皇に対して影になるように健気な気持ちを通した。
◆からゆきさんの小部屋
◆Q6:自分の意思で出て行ったの、だまされて?
一番多いのは、だまされて売られたケースでしょう。女衒(ぜげん)とよばれた人商人(ひとあきんど)(人買い人売りを業とする者)に、「シンガッパ(シンガポールのこと)のホテル奉公は大きなゼニになるぜ」などと、ことば巧みにだまされたのです。そして外国の貨物船の船員などとグルになって、下関や門司、長崎や口之津、あるいは神戸、横浜や清水の港などから密航させたのです。それらにかかった費用と称して、当時の金でおよそ500円ぐらい、今でいうと500万円ぐらいを本人の借金とさせたのです。それを返すために、売られていった地でどうしても稼ぎをしなくてはならなかったのです。ちなみに、今も密入国や偽造のパスポートで日本へやってくるジャパゆきさん(男も含めて)たちは、同じ額ぐらいの手数料を払っているようです。
次に、自分の意思で渡った人も少なくありません。同じ村の知り合いや親戚に連れ出されたり、大金を手にして着飾って帰ってくる成功したからゆきさんを目のあたりにして「あたしも――」と自分の一存で決める者もいました。ことに島原・天草でそういう話をききます。
3つ目として、親が女衒(ぜげん)その他にカネをもらって売り渡したケースです。なかには7歳で売られた子もいるそうです。
◆Q12:で、本人たちは最後はどうなったの?
私が各国に散らばる日本人墓地にあるからゆきさんの墓を調べて、一体いくつぐらいで亡くなったんだろうと平均寿命を出してみたら、21,6歳でした。これは昔風の”数え”の歳であって、今風の"満"の数え方でいくと20歳ぐらいになります。半分ははたちそこそこで死んでいってることになります。売られて4、5年でマラリアなどの風土病、性病、肺病、阿片などで若い命を散らしていったのです。故国の家族は命日を知ることもなかったでしょう。仕送りがこなくなると、何かあったのでは、と案じるだけだったでしょう。
日本人墓地に墓を建ててもらったからゆきさんは、私の考えでは100人に1人、多くて2人ぐらいのものだったでしょう。ほとんどはそこいらで焼いて埋めるか、海や密林に放り投げるか、だったといいます。まだ息はあるのにワニのえさに売られた娘も少なくない、と語った人もいます。
身請けされて、現地人や中国人、あるいは白人の妻となったり、セカンドワイフにおさまったりする者もたくさんいました。日本人同士で所帯をもった者もいました。
太平洋戦争のはじまりと同時に日本に戻された者も多いのですが、戦中・戦後も異国にあって、誰知らずひっそりと世を去る老からゆきさんも多くいました。現在ではどの国にも、生存しているからゆきさんはいないと思われます。
◆からゆきさんの分布
このようにほぼ世界中に広がっていったからゆきさんの数は、20万とも30万ともいわれています。なお、この分布地図は政府の統計資料や旅行記などをもとに作成したが、もちろん正確な地図をつくるのは不可能なので、この地図もおおよそこんな状況だったと参考までに示してみただけのものです。
ただ、華僑と同じように世界の到るところに、しかも日本人の影すら見当たらない地域にも、すでに100年前にからゆきさんたちは足跡を印したのです。この分布と重なり合って日本人墓地がある所が多いので、これらの国に旅に行かれる方は、からゆきさんの墓にお参りしてみてはいかがでしょうか。
(私のコメント)
1月27日の株式日記で「日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?」と書きましたが、それと似たような事は明治から大正にかけても行なわれていて、騙されて売り飛ばされて、海外で売春婦として働かされていた。もちろんこのような事は歴史教育で教えるわけはなく、ほとんどの人が知らない。
戦国時代のことは資料も限られたものしかないから、正確な事はわかりませんが、キリシタン追放令の10条に日本人を南蛮に売り渡すのを禁止している事からも、日本の若い娘が大勢連れ去られて売春宿に売られていたようだ。あとは天正少年使節団などがヨーロッパの各地で日本女性が売春婦として働かされていることなどが記録として残っている。
このように戦国時代も明治大正時代も大勢の日本女性が売春婦として売り飛ばされたのですが、現代の日本人としては認めたくない事実なのだろう。しかし昭和初期ごろまで東北の貧しい農家は娘を売り飛ばしていたし、買い取った仲買人たちは娘たちを、より高い値段で売れる海外に売り飛ばした。
もちろんこのような人身売買は政府によって禁止されていたし、仲買人たちは捕まれば罪人として処罰された。しかし「高給が稼げるいい仕事がある」と騙して、それに応じてしまう貧しい農家がある限り、給料の前渡しの形で人身が売買されて、就職と言う形で海外の売春宿で働かされた。
最近問題になった「従軍慰安婦」といわれる人たちも、騙されて売り飛ばされた朝鮮の娘たちの事であり、売り飛ばした両親たちはわが子を売らなければならないほど貧しかったのだ。今の若い人たちからすれば信じられないような話ですが、それほど昔の話ではなく明治大正の頃までは日本は非常に貧しかった。
現代人が明治大正の貧しい時代のことを知らないのは、明治以降の日本の歴史を詳しく教えないからであり、テレビや映画などで描かれる明治大正の貧しい農家の様子を知る事は難しい。小林多喜二の「蟹工船」などの小説やプロレタリア文学などの作品などを読めば当時の貧しい農家の様子は分かるのですが、女は女郎として売られ、男は人夫として売られた。
からゆきさんと呼ばれた海外に売り飛ばされた日本の若い女性は20万にとも30万人とも言われますが、多くが20歳足らずで病気などで亡くなった。親たちはどのような事情で子供を売り飛ばしたのか分かりませんが、当時の貧しさを知らなければ親を責める訳にもいかないでしょう。しかしこれほどの大勢の女性が海外に売られたのに多くの人がこの事を知らない。
だから戦国時代といわれた100年余りの間に50万人もの日本の若い女性がキリシタンや大名によって売り飛ばされたと言う事も大げさな話ではないのでしょう。しかし株式日記を読んだ読者にはこれを「既知外テキスト」として切り捨てる人もいる。私はデタラメを書いているつもりはないのですが、それほど現代の日本人は日本の歴史を知らないのだ。
◆愛・蔵太の気ままな日記 2006年3月4日
「キリシタンが日本の娘を奴隷として50万人も買った」という既知外テキストを信じている人がまさかいようとは
(私のコメント)
戦国時代も明治大正も海外との交流が活発になり、わが子が高い値段で売れると言う事で、間引きされなかった女の子を商品として売り飛ばし、仕送りをさせてきたと言うのは信じられない事ですが、「からゆきさん」の存在を現在の日本の歴史教育から抹消しようとしているのは、あまりにも非人道的な過去の日本の歴史だからだ。それが分からなければ戦国時代も明治大正と言う時代も正しくは理解できなくなるだろう。
http://facta.co.jp/blog/archives/20060130000065.html
歴史教育と歴史研究を区別すべきなのにそれが出来ていない。日教組に非難を傾けるのは簡単でしょうが、それでも彼らの功罪は大きいと思います。
歴史教育と歴史研究を区別すべきなのにそれが出来ていない。日教組に非難を傾けるのは簡単でしょうが、それでも彼らの功罪は大きいと思います。
どっかの知性に欠けた国の人たちは、
それを教科書に入れろとかおかしなことを言いますが、
多感な年頃に性の話を歴史として教えるのは、
人格形成上、無駄な刺激になるように思います。
動乱の現場は目を背けたくなるようなことが
たくさんあるわけですが、それを教え込むべきかは
個別判断になりますね。
例え5分間でもいいから教えるべき。
事実は事実として教えなければ、
(韓国や中国がいう事実ではなくて、真実の意味の事実)
頭がお花畑のまま社会に出る事になる。
とても衝撃的でした。そして、歴史から消されようとする彼女たちに同情します。
確かに教科書では、このようなことを知ることはできません。
彼女たちは、貧しかったということは、字も書けなかったのでしょうか。何か、自分たちの日記のようなものが残っていればこの事実をもっと多くの人に知ってもらえると思いますが。。。
もっと、これについて詳しい情報は、どこにありますか?それにしても、心が痛いです。。。
「からゆきさんの小部屋」のリンクは見たの?
http://www.karayukisan.jp/no6/index.html