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オバマ政権の退役軍人長官、エリック・ケン・シンセキ氏(66)と、被爆地で外科医院を営む新関顕(しんぜきけん)さん(76)。2人の一族は110年前、日米に分かれた。太平洋戦争は敵同士となった国に住む「2人のケン」の人生にも大きな影を落とした。
東京・麻布台の外務省外交史料館にハワイ移民の名簿が大量に保管されている。1899(明治32)年にカウアイ島へ渡ったエリック氏の祖父、光蔵氏の記録もある。「広島市江波(えば)一二八番地」と記された当時の住所の近くに、今も顕さんは暮らす。
64年前の光景は、記憶に強烈に焼き付いている。見知った人が原爆症で次々と倒れていく。闇の中、軍の射撃場跡地で一晩中燃えさかる火葬の炎と、まきを投げ入れる人たちの鬼のようなシルエット。「戦争だけは子供たちには経験させてはいけない」。8月6日が来るたび、思いを深める。
当時は小学6年生。5月27日の海軍記念日に生まれ、江田島の海軍兵学校に進むのが夢だった。集団疎開先の山寺でドーンという地響きを感じた翌日の夕方、焼け焦げた衣服で訪ねてきた母に惨状を聞いた。
8月17日、焼け野原に立った。「がれきの山にぼうぜんとした」。家は爆風で一部壊れたが、死者はなかった。だが、爆心地近くの伯母の家は跡形もなくなっていた。伯母はザクロのように赤く焼けただれた腕で1歳4カ月の三女を抱いて逃げたが12日後、力尽きた。ただ一人生き残ったその子を顕さんの両親が引き取り、家族に加えた。
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広島からハワイへ渡ったシンセキ家の人々は1941年12月7日(現地時間)、真珠湾(パールハーバー)へ向かう日本の戦闘機と立ち上る黒煙を目撃した。二つの祖国の戦争が始まり、暮らしは厳しさを増した。日系人には「敵性国人」のレッテルが張られ、日本語学校長など指導的な立場にあった数百人が「反逆の可能性がある」として戦時収容所に送られた。張り詰めた環境の中で翌年、エリック氏は生まれた。
米国への忠誠を証明するため軍に志願した日系人の若者の列には、母方の叔父2人も連なった。エリック氏は今年6月の講演で「子供のときのヒーローは軍に加わっていた若い日系2世たちだった」と語っている。高校卒業後、陸軍士官学校に進学。ベトナム戦争での負傷を乗り越え、人種の壁を破る栄達を果たしてきた。4年前に来日した際の講演では「たくさん努力もしたし、たくさんの運もあった」と振り返った。
退役軍人の医療や年金をつかさどる長官として請われて講演する機会も少なくない。パールハーバーがもたらした苦難については毎回のように語るが、ヒロシマを口にしたことはない。記者の取材依頼にも応じなかった。
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米国各地に散ったシンセキ家は数年に1度、「リユニオン(再会の集い)」を開く。家紋が入ったそろいのシャツを身につけ、親族同士のきずなを確かめ合う場だ。顕さんは昨年、オレゴン州から広島を訪れた一族の一人に「ハワイで開く次回の集まりに出てほしい」と招かれた。「もう一人のケン」と初めて会う機会が訪れる。
その時が来たら、こう伝えたい。
「爆心地に立ち、その周りにも街があり多くの人が暮らす家庭があったことを、それが一瞬にして滅亡したことを、まぶたに思い浮かべてみてほしい」【真野森作】
毎日新聞 2009年8月2日 東京朝刊