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アキラ様のところでの長いコメント
アキラ様のところ光るナス 最初で最後(長くなっちゃった)に長いコメントを書かせていただいたのだが、最後のコメントがLivedoorの仕様か、どうしてもはじかれてしまうので、こちらに全文掲載してトラックバックをお送りします。
最初からそうすべきでした。
アキラ様、まず深くお詫び申し上げます。
尚、アキラ様のところにあるコメントは、Livedoorの仕様に合わせた長さにカットしたところがあります。
こちらに掲載したのが、原案です。
アキラ様。
ご回答ありがとうございました。
本日は何点か書き残したいことがございましてお邪魔いたしました。
1.まず、先日のご回答の件。
A氏、B氏がC氏が将棋を指しているところを見ているとして、A氏が「C氏はこれまで将棋というものと無縁の生活を送ってこられたんでしょう」という感想を漏らしたとして、B氏が「僕自身も、将棋の専門的な訓練を受けたことはないので、きっと彼(C氏)と五十歩百歩なんだろうと思います。」と返した場合に、私の「感性」ではB氏の返答は「少なくともA氏の見解寄りである」と取り、「単に承った」と取るのは難しいし、「一般的」に言っても、「五十歩百歩」という表現はその語源から言っても「低レベルのものを比べて似たり寄ったりである」という場合に使われることが圧倒的に多いと思いますので、(例えば「ニュートンとアインシュタインは五十歩百歩である」とはあまり言わないでしょう。言うとするならば、現在の進んだ知見により、高みから見て両氏の古い世界観について言及する場合などに使われることはあるでしょうが。更に、南郷さんとアキラ様がご言及の「宗教も科学も五十歩百歩」は、「けして正解に辿り付くことが無い人間の営みとして見た場合は」あたりの条件付きでしょう。ちなみに、不同意ですけどね)南郷さんの見解に同意でも不同意でも無いと「一般の人が」取るのは困難だと思います。ということで、南郷さんの「マチュアの将棋は五十歩百歩」あたりがアキラ様の真意なのかも知れませんが、「南郷見解寄りである」に読むことが不自然なこととは思えません。
ですので、「お間違えのないよう お願いいたします」と三度念を押すよりも「(真意はこうだから)そのように読んでください」が正しい表現ではないでしょうか。
2.ごん様に人格攻撃を受けた者の一人として、うちゃさんご指摘のアキラ様の発言について
私もニケ氏の「凱旋将軍歓迎」のようなエントリにおけるアキラ様の御発言を苦々しく見ていたものの一人です。
まず、ニケ氏のエントリ内容にアキラ様もお認めになる「反社会的行為」に対する苦言など影も形もなく、100%の肯定しか見られません。(どころか、大賞賛しています)
そういう場所でアキラ様は当の「反社会的行為」を行ったこと人物を「リスペクトする」(「覚悟に関して」という限定はついているとはいえ」と発言なさっているわけです。
そこで、質問。
a.アキラ様は御自分の発言がうちゃさんがおっしゃるような、
と読者に取られる可能性があるとお考えになりましたか、それとも「解釈の余地無く」(解釈の余地の無い文章など有り得ない、どんな文章も取り方は人それぞれ、は今回はカンベンしてください。南郷さんのおっしゃるグラデーションの一方の極の話になってしまいますので)そういうことは有り得ないとお考えでしたか。
b.一般に反社会的行為を行った人を賞賛する意見表明をしたネット上のブログなり、HPなりに、その意見表明に対する異議を一切表明せず、その行為者当人を(限定付きとは言え)「リスペクト」すると書かれた意見表明者に対し、読者が「その意見表明者はブログ主なり、HP管理人に賛同している」と考えるのはあたりまえだと私は思います。そして、「賛同している」と断言されても責任は書き手にあると思いますが、アキラ様はどうお考えになりますか。
c.アキラ様は「ごんさんの戦法、手法としては???というところは僕としてはありますけれど」と書かれていますが、「反社会的行為」というのは「戦法、手法」として認識されるべきものだとお考えですか。
ちなみに私は言論活動に対するそれ以外の「実力行使」は真っ先に「戦法、手法」のカテゴリーに分類してはいけないものだと考えております。
d.これは、今回のやり取りではっきりしたことですが、アキラ様は
これについて、どなたがすでに指摘済みかもしれませんが、私には「レイプ、セクハラされた方にも非がある」と全く同じ考え方であると思いますがいかがですか。
あ、別にそう考えていらっしゃるならそれはそれで構いませんが、私の「感性」では、メール等なら「まだしも」、「被害者」が見えるところ、聞こえるところでそのような意思表明をなさるのは「正気の沙汰でない」と考えます。
大げさになりますが、「ホロコーストで粛清されたユダヤ人側にも非がある」という人は必ず存在するでしょうが、それを例えば遺族の前で発言するようなものだと考えます。
ちなみに、私がこれを書く気になったのは、ごん様の今回のコメントを拝読したこと、「反社会的行為後」にも私が個人的に人格攻撃を受けていることなどから、ごん様が何もわかっていらっしゃらないと感じたからです。
一応私への個人的な人格攻撃については、内容を明らかにしておかないとごん様にアンフェアだと思いますので、書き残させていただきます。
全て、ごん様への言及など一つも無い私のコメントに対してごん様が横から私に人格攻撃してきたものです。
1.漂流生活的看護記録 水の伝説、略して水伝 にて
アレってなんだかわかりませんが、褒めているのではないでしょうね(笑)
他人に対して「センスない」は「頭が悪い」と同様の人格攻撃。(共に「脳」に対する悪罵ですしね)
御自分は後者を言われて「反社会行為」をしてしまっているのに。
愚樵空論 ニセ科学と自虐史観批判(1) にて。
まあ、一言付け加えておきますが、バカバカしいので、本当に怒っているわけでもないし、問題にしたいわけでもありません。
どうでもいいことだとは思っております。
3.アキラ様は「僕はおそらく愚樵さんの方に感覚が近いので」とおっしゃっていますが、それは例えば愚樵氏が自身でお認めになっている、
というような「感性」でしょうか。
それでしたら、ダブスタにならないように考えたり、論理が破綻しないよう議論のルールを守ろうとする人とは話が噛み合うわけがないと思うのですがいかがでしょう。
>南郷力丸さん
「人格攻撃」についてはここに深くお詫び申し上げます。しかし、一つ反論があります。
とおっしゃっていますが、一度指摘されているにも関わらず二度目も7%論に乗ってしまったように見えるのは、愚樵氏や、アキラ氏や、各種偉大な教祖様が提唱なさっている「信じなければわからないこともある」という美しい教えの実践なのではないでしょうか。
むしろ「天晴れ」と言ふべきではないでしょうか。
最初からそうすべきでした。
アキラ様、まず深くお詫び申し上げます。
尚、アキラ様のところにあるコメントは、Livedoorの仕様に合わせた長さにカットしたところがあります。
こちらに掲載したのが、原案です。
アキラ様。
ご回答ありがとうございました。
本日は何点か書き残したいことがございましてお邪魔いたしました。
1.まず、先日のご回答の件。
A氏、B氏がC氏が将棋を指しているところを見ているとして、A氏が「C氏はこれまで将棋というものと無縁の生活を送ってこられたんでしょう」という感想を漏らしたとして、B氏が「僕自身も、将棋の専門的な訓練を受けたことはないので、きっと彼(C氏)と五十歩百歩なんだろうと思います。」と返した場合に、私の「感性」ではB氏の返答は「少なくともA氏の見解寄りである」と取り、「単に承った」と取るのは難しいし、「一般的」に言っても、「五十歩百歩」という表現はその語源から言っても「低レベルのものを比べて似たり寄ったりである」という場合に使われることが圧倒的に多いと思いますので、(例えば「ニュートンとアインシュタインは五十歩百歩である」とはあまり言わないでしょう。言うとするならば、現在の進んだ知見により、高みから見て両氏の古い世界観について言及する場合などに使われることはあるでしょうが。更に、南郷さんとアキラ様がご言及の「宗教も科学も五十歩百歩」は、「けして正解に辿り付くことが無い人間の営みとして見た場合は」あたりの条件付きでしょう。ちなみに、不同意ですけどね)南郷さんの見解に同意でも不同意でも無いと「一般の人が」取るのは困難だと思います。ということで、南郷さんの「マチュアの将棋は五十歩百歩」あたりがアキラ様の真意なのかも知れませんが、「南郷見解寄りである」に読むことが不自然なこととは思えません。
ですので、「お間違えのないよう お願いいたします」と三度念を押すよりも「(真意はこうだから)そのように読んでください」が正しい表現ではないでしょうか。
2.ごん様に人格攻撃を受けた者の一人として、うちゃさんご指摘のアキラ様の発言について
私もニケ氏の「凱旋将軍歓迎」のようなエントリにおけるアキラ様の御発言を苦々しく見ていたものの一人です。
まず、ニケ氏のエントリ内容にアキラ様もお認めになる「反社会的行為」に対する苦言など影も形もなく、100%の肯定しか見られません。(どころか、大賞賛しています)
そういう場所でアキラ様は当の「反社会的行為」を行ったこと人物を「リスペクトする」(「覚悟に関して」という限定はついているとはいえ」と発言なさっているわけです。
そこで、質問。
a.アキラ様は御自分の発言がうちゃさんがおっしゃるような、
「ニケ」の二次加害行為に対する積極的な荷担行為であり、見方によっては扇動ととられてもしかたないものである。
と読者に取られる可能性があるとお考えになりましたか、それとも「解釈の余地無く」(解釈の余地の無い文章など有り得ない、どんな文章も取り方は人それぞれ、は今回はカンベンしてください。南郷さんのおっしゃるグラデーションの一方の極の話になってしまいますので)そういうことは有り得ないとお考えでしたか。
b.一般に反社会的行為を行った人を賞賛する意見表明をしたネット上のブログなり、HPなりに、その意見表明に対する異議を一切表明せず、その行為者当人を(限定付きとは言え)「リスペクト」すると書かれた意見表明者に対し、読者が「その意見表明者はブログ主なり、HP管理人に賛同している」と考えるのはあたりまえだと私は思います。そして、「賛同している」と断言されても責任は書き手にあると思いますが、アキラ様はどうお考えになりますか。
c.アキラ様は「ごんさんの戦法、手法としては???というところは僕としてはありますけれど」と書かれていますが、「反社会的行為」というのは「戦法、手法」として認識されるべきものだとお考えですか。
ちなみに私は言論活動に対するそれ以外の「実力行使」は真っ先に「戦法、手法」のカテゴリーに分類してはいけないものだと考えております。
d.これは、今回のやり取りではっきりしたことですが、アキラ様は
また、ごんさんがあの行動に走ってしまうことになった発端は結局たんぽぽさんにあるという認識の前提が僕にはありますので、同様の理由で、彼女のような対応(プロバイダへの訴え以前)をしていればああいうことになり得るだろう、ああいうことになっちゃってもしょうがないかなぁ と思ってましたので、
それ以前に自分の諸々の発言があのような事態を招き得るということへの「覚悟」はなかったのかなぁ?というのが、僕の心象です。
これについて、どなたがすでに指摘済みかもしれませんが、私には「レイプ、セクハラされた方にも非がある」と全く同じ考え方であると思いますがいかがですか。
あ、別にそう考えていらっしゃるならそれはそれで構いませんが、私の「感性」では、メール等なら「まだしも」、「被害者」が見えるところ、聞こえるところでそのような意思表明をなさるのは「正気の沙汰でない」と考えます。
大げさになりますが、「ホロコーストで粛清されたユダヤ人側にも非がある」という人は必ず存在するでしょうが、それを例えば遺族の前で発言するようなものだと考えます。
ちなみに、私がこれを書く気になったのは、ごん様の今回のコメントを拝読したこと、「反社会的行為後」にも私が個人的に人格攻撃を受けていることなどから、ごん様が何もわかっていらっしゃらないと感じたからです。
一応私への個人的な人格攻撃については、内容を明らかにしておかないとごん様にアンフェアだと思いますので、書き残させていただきます。
全て、ごん様への言及など一つも無い私のコメントに対してごん様が横から私に人格攻撃してきたものです。
1.漂流生活的看護記録 水の伝説、略して水伝 にて
どちらにせよこんなコメントをここにしてくるとは相当のアレだよ、この人は
アレってなんだかわかりませんが、褒めているのではないでしょうね(笑)
とにかくセンスないよね。
他人に対して「センスない」は「頭が悪い」と同様の人格攻撃。(共に「脳」に対する悪罵ですしね)
御自分は後者を言われて「反社会行為」をしてしまっているのに。
愚樵空論 ニセ科学と自虐史観批判(1) にて。
この見苦しい心性
これも上と同じ。「頭が悪い」と言われて大騒ぎなさった方が、「心が汚い」と他人をなじる。orzこういった小汚い心性
まあ、一言付け加えておきますが、バカバカしいので、本当に怒っているわけでもないし、問題にしたいわけでもありません。
どうでもいいことだとは思っております。
3.アキラ様は「僕はおそらく愚樵さんの方に感覚が近いので」とおっしゃっていますが、それは例えば愚樵氏が自身でお認めになっている、
粉塵爆発電網記憶言霊(コトダマ)のチカラ 追記(訂正)アリにての、氏御発言。論理が破綻していようが、ダブスタであろうが、あまり意に介していません。
というような「感性」でしょうか。
それでしたら、ダブスタにならないように考えたり、論理が破綻しないよう議論のルールを守ろうとする人とは話が噛み合うわけがないと思うのですがいかがでしょう。
>南郷力丸さん
「人格攻撃」についてはここに深くお詫び申し上げます。しかし、一つ反論があります。
言語では伝えたいことの7%しか伝わらないというのを「そんなに多いはずはない」とも「そんなに少ないはずはない」と思わずに「なるほど」と納得する人なんだから約7%のレベル
とおっしゃっていますが、一度指摘されているにも関わらず二度目も7%論に乗ってしまったように見えるのは、愚樵氏や、アキラ氏や、各種偉大な教祖様が提唱なさっている「信じなければわからないこともある」という美しい教えの実践なのではないでしょうか。
むしろ「天晴れ」と言ふべきではないでしょうか。
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Comments
一言のみ
No title
人格攻撃については、私もアキラさんのところで、ゲンタ氏と愚樵氏を「何を考えてるかわからないし、何も考えてないのかもしれない。」と同じように扱ってしまいました。これを亀格攻撃と思われてもしようがないでしょうし、ゲンタ氏に謝っておきたいと思います。
という美しい教えの実践であろうがなかろうが、7%に納得できるというのは、相手が伝えたいことの7%しか読むことができない。伝えたいことの7%しか書くことができない、そういう実感があるからだと思いますよ。なので「議論や言論、論理展開」という言語表現による世界での能力が7%というのは、本人の実感とそう乖離してないと思います。
という美しい教えの実践であろうがなかろうが、7%に納得できるというのは、相手が伝えたいことの7%しか読むことができない。伝えたいことの7%しか書くことができない、そういう実感があるからだと思いますよ。なので「議論や言論、論理展開」という言語表現による世界での能力が7%というのは、本人の実感とそう乖離してないと思います。
信じる者は掬われる
ついでに、「信じなければわからないこともある」については、私も同意ですよ。
ちょちょんまげさんは、私が「関西在住の烏帽子職人」と言ったら信じますか。居住地については信じるでしょう、既に「わかっている」から。職業については、どうでしょう。信じたら私の職業がわかります。信じなければわからないままです。
これが、科学と信仰の根本的な差ですね。個人レベルではなく、社会全体に対し、科学は「わかったこと」しか答えてくれない。一方の信仰は「わからない」ことまで答えてくれます。
ですので、「信じなければわからないこともある」といのは、そのとおりです。私は、わかりたくもないですが。
ちょちょんまげさんは、私が「関西在住の烏帽子職人」と言ったら信じますか。居住地については信じるでしょう、既に「わかっている」から。職業については、どうでしょう。信じたら私の職業がわかります。信じなければわからないままです。
これが、科学と信仰の根本的な差ですね。個人レベルではなく、社会全体に対し、科学は「わかったこと」しか答えてくれない。一方の信仰は「わからない」ことまで答えてくれます。
ですので、「信じなければわからないこともある」といのは、そのとおりです。私は、わかりたくもないですが。
ありがとうございました
こんにちは。
TBと質問、ありがとうございました。
向こうでの流れがあるということと、ここで直接お返事すると、いろいろな方々の ありとあらゆる問いかけに答えないといけないハメになりそうな気がして億劫ですので、大変申し訳ないのですが、そもそもの僕の記事のコメント欄で返答させていただきたいと、基本的には思っています。
しかし向こうは、いろいろな方のコメントが入って錯綜してしまうという弊害もあります、
ですから、ちょちょんまげさんと僕の2人以外の方々はやりとりに介入しないという条件を、もしも呑んでいただくことが可能であれば、こちらにお返事をさせていただきたいと思っています。
どちらがよいでしょうか?
勝手言って本当にすみませんが、ご検討のほど、よろしくお願いいたします。
あと、こちらはコメント欄の字数制限はないのですか?
TBと質問、ありがとうございました。
向こうでの流れがあるということと、ここで直接お返事すると、いろいろな方々の ありとあらゆる問いかけに答えないといけないハメになりそうな気がして億劫ですので、大変申し訳ないのですが、そもそもの僕の記事のコメント欄で返答させていただきたいと、基本的には思っています。
しかし向こうは、いろいろな方のコメントが入って錯綜してしまうという弊害もあります、
ですから、ちょちょんまげさんと僕の2人以外の方々はやりとりに介入しないという条件を、もしも呑んでいただくことが可能であれば、こちらにお返事をさせていただきたいと思っています。
どちらがよいでしょうか?
勝手言って本当にすみませんが、ご検討のほど、よろしくお願いいたします。
あと、こちらはコメント欄の字数制限はないのですか?
アキラ様
いらっしゃいませ。
コメントありがとうございました。
さて、お尋ねの件。
流れは重要だと思いますので、そちらのコメント欄ということで、全く異存ありません。
ただ、そちらに4連投しようとしたところ、どうもLivedoorの方でIPアドレスで荒らし認定したらしく(笑)最後の奴が何度やっても通りませんでした。
ですので、すごく長いコメントになったらこっちに書くことになるかもしれませんが、お互いに両サイドを覗いてみるということでいかがでしょう。
また、こちらではアキラ様に回答を求めるコメントは無しということで、ギャラリーにお願いします。(感想及び、私に対する回答を求めるはあり、でいいですか?)
あと、ここはコメント欄の字数制限はない様ですね。
私もはっきりはわからないのですけど。
では、お互いにそれこそ「リスペクト」することを忘れずにはじめましょう。
この「騒動」の話にひと区切りついたら、ぜひ、アキラ様の「宗教・科学五十歩百歩論」にもチャレンジしたいですね。
アキラ様のような聡明な方がどうしてそっちに行ってしまうのか、すごく興味がありますので。
よろしくお願いします。
コメントありがとうございました。
さて、お尋ねの件。
流れは重要だと思いますので、そちらのコメント欄ということで、全く異存ありません。
ただ、そちらに4連投しようとしたところ、どうもLivedoorの方でIPアドレスで荒らし認定したらしく(笑)最後の奴が何度やっても通りませんでした。
ですので、すごく長いコメントになったらこっちに書くことになるかもしれませんが、お互いに両サイドを覗いてみるということでいかがでしょう。
また、こちらではアキラ様に回答を求めるコメントは無しということで、ギャラリーにお願いします。(感想及び、私に対する回答を求めるはあり、でいいですか?)
あと、ここはコメント欄の字数制限はない様ですね。
私もはっきりはわからないのですけど。
では、お互いにそれこそ「リスペクト」することを忘れずにはじめましょう。
この「騒動」の話にひと区切りついたら、ぜひ、アキラ様の「宗教・科学五十歩百歩論」にもチャレンジしたいですね。
アキラ様のような聡明な方がどうしてそっちに行ってしまうのか、すごく興味がありますので。
よろしくお願いします。
了解しました
お返事、ありがとうございました。
そう仰っていただけるなら、ではこちらに回答をさせていただきます。
僕のコメントも、長くなると思われますので。
よろしくお願いいたします。m(_ _)m
今日中には入れられると思います。
>では、お互いにそれこそ「リスペクト」することを忘れずにはじめましょう。
<
もちろんです。
誠実に正直に対応させていただきます。
もちろん そのような中で、僕の「ダメなヤツ」ぶりが如実になることも多々ありましょうが (^_^;)、キチッと想っていることはお伝えしたいと思います。
では、後ほど。
そう仰っていただけるなら、ではこちらに回答をさせていただきます。
僕のコメントも、長くなると思われますので。
よろしくお願いいたします。m(_ _)m
今日中には入れられると思います。
>では、お互いにそれこそ「リスペクト」することを忘れずにはじめましょう。
<
もちろんです。
誠実に正直に対応させていただきます。
もちろん そのような中で、僕の「ダメなヤツ」ぶりが如実になることも多々ありましょうが (^_^;)、キチッと想っていることはお伝えしたいと思います。
では、後ほど。
まずは前提の問題意識を
では、まいります。が、その前に。。。
Livedoorからコメントをハジかれた件、すみません。
僕も自分のブログに連投で返事を入れると、荒らし認定されてハジかれることがあります。 (^_^;)
自分のブログなのに・・・。
そうなると、24時間くらいはコメントを入れられなくなってしまうようです。
んで、ケータイから入れてみたり。。。
そういうこともありますので、こちらでじっくり話をさせていただけて ありがたいです。
さて、向こうのコメント欄でもお伝えしたのですが、改めて、ここでも先に僕の持っている問題意識を記しておきます。
発言者が元々のコメントによって示したかった想いや意図とは違うことになってしまう「勝手な読み込みによる決めつけ」=「たんぽぽ変換」は、やられる側からすれば「人格攻撃と感じられてしまう」立派なハラスメントになっている、ということが、昨年から僕がずっと持っている問題意識です。
それは、セクハラの構造と とてもよく似た構造を持っていると思います。
発言者自身が「そうではない、それは私の想いや意図とは違う」と主張するのであれば、その指摘はむやみにねじ曲げたり矮小化してはならないと僕は思いますし、すでに感情が絡んできてしまっていて お互いに分かり合えないかもしれないけれど、相手の主張をとりあえずはきちんと聞くべきだと思います。
そこが抜け落ちている状態で、「そう思われても無理はない」「これくらいで騒ぐのはおかしい」などと叩き続けるのであれば、またあるいは さらなる「勝手なまとめ方」で こちらの意見をあらぬ方向へねじ曲げ続けるのであれば、これはまさしく「二次加害」です。
ですからそういうことは避けて、そもそもを「このようにしか見えない」といったような別の表現にした方がよい、個人の意見の表明としてであれば、最低限のところはクリアするだろうから、と向こうでは申し上げています。
相手の発言のとり違えや誤解などは、日常的によく起こることだと思います。
しかし、そのような誤解を前提に話を自分の方でどんどん進めてしまうと、相手がまったく意図していないことを前提に話がどんどん進んでいってしまうということになりましょうから、相手とやりとりしていること自体に意味がなくなってしまいます。
そうなってしまえば、いくらコミュニケーションしても不毛でしかないでしょう。
そういった諸々のことを避けるために、相手の言っていることをなるだけ損なわないために、勝手な読み込みによる決めつけをなるだけ行わないように、相手の意図をねじ曲げて固定してしまわないように、丁寧にコミュニケーションを進めていくべきなのではないかと、僕は思っています。
そうでなければ、その「勝手な読み込みによる決めつけ」でもって お互いがお互いを攻撃し合い、非難し合うだけの不毛な関係にしかならないでしょう。
このような問題意識が前提にあるものですから、水伝騒動があれだけゴチャゴチャになってしまった以上、僕にはどうしても、片方のみがアカンと思えないのです。どうしても「どっちもどっちだよなぁ」と感じる。
しかしだからといって、僕自身の行為を正当化しようとしているわけでもないですし、「たんぽぽさんの方が悪い」と言っているわけでもありません。
僕自身の何らかの発言がハラスメントになっているであろうことを否定はしません。
あちらが正しい、こちらが悪い、あっちが先にやった、いやこっちだ、という話をしているのではなくて、
「勝手な読み込みによる決めつけ」は、やられる側からすれば「人格攻撃と感じられてしまう」立派なハラスメントになっている、ということを、皆さんお一人お一人 考えていただきたいのです。
もしもセクハラなどに敏感な感性を持ってらっしゃるのならば、その敏感な感性をこのようなことにも向けていただきたいのです。
それが、僕がまずは主張したいことであり、願いです。
Livedoorからコメントをハジかれた件、すみません。
僕も自分のブログに連投で返事を入れると、荒らし認定されてハジかれることがあります。 (^_^;)
自分のブログなのに・・・。
そうなると、24時間くらいはコメントを入れられなくなってしまうようです。
んで、ケータイから入れてみたり。。。
そういうこともありますので、こちらでじっくり話をさせていただけて ありがたいです。
さて、向こうのコメント欄でもお伝えしたのですが、改めて、ここでも先に僕の持っている問題意識を記しておきます。
発言者が元々のコメントによって示したかった想いや意図とは違うことになってしまう「勝手な読み込みによる決めつけ」=「たんぽぽ変換」は、やられる側からすれば「人格攻撃と感じられてしまう」立派なハラスメントになっている、ということが、昨年から僕がずっと持っている問題意識です。
それは、セクハラの構造と とてもよく似た構造を持っていると思います。
発言者自身が「そうではない、それは私の想いや意図とは違う」と主張するのであれば、その指摘はむやみにねじ曲げたり矮小化してはならないと僕は思いますし、すでに感情が絡んできてしまっていて お互いに分かり合えないかもしれないけれど、相手の主張をとりあえずはきちんと聞くべきだと思います。
そこが抜け落ちている状態で、「そう思われても無理はない」「これくらいで騒ぐのはおかしい」などと叩き続けるのであれば、またあるいは さらなる「勝手なまとめ方」で こちらの意見をあらぬ方向へねじ曲げ続けるのであれば、これはまさしく「二次加害」です。
ですからそういうことは避けて、そもそもを「このようにしか見えない」といったような別の表現にした方がよい、個人の意見の表明としてであれば、最低限のところはクリアするだろうから、と向こうでは申し上げています。
相手の発言のとり違えや誤解などは、日常的によく起こることだと思います。
しかし、そのような誤解を前提に話を自分の方でどんどん進めてしまうと、相手がまったく意図していないことを前提に話がどんどん進んでいってしまうということになりましょうから、相手とやりとりしていること自体に意味がなくなってしまいます。
そうなってしまえば、いくらコミュニケーションしても不毛でしかないでしょう。
そういった諸々のことを避けるために、相手の言っていることをなるだけ損なわないために、勝手な読み込みによる決めつけをなるだけ行わないように、相手の意図をねじ曲げて固定してしまわないように、丁寧にコミュニケーションを進めていくべきなのではないかと、僕は思っています。
そうでなければ、その「勝手な読み込みによる決めつけ」でもって お互いがお互いを攻撃し合い、非難し合うだけの不毛な関係にしかならないでしょう。
このような問題意識が前提にあるものですから、水伝騒動があれだけゴチャゴチャになってしまった以上、僕にはどうしても、片方のみがアカンと思えないのです。どうしても「どっちもどっちだよなぁ」と感じる。
しかしだからといって、僕自身の行為を正当化しようとしているわけでもないですし、「たんぽぽさんの方が悪い」と言っているわけでもありません。
僕自身の何らかの発言がハラスメントになっているであろうことを否定はしません。
あちらが正しい、こちらが悪い、あっちが先にやった、いやこっちだ、という話をしているのではなくて、
「勝手な読み込みによる決めつけ」は、やられる側からすれば「人格攻撃と感じられてしまう」立派なハラスメントになっている、ということを、皆さんお一人お一人 考えていただきたいのです。
もしもセクハラなどに敏感な感性を持ってらっしゃるのならば、その敏感な感性をこのようなことにも向けていただきたいのです。
それが、僕がまずは主張したいことであり、願いです。
で、質問への回答です。
質問もいろいろですから、ゆっくりお話しできるのであれば、1、2、3、と一つづつ順々にお話ししていってもいいんじゃないか?と思うのですが、いかがでしょう。
とりあえずは「1」にだけ、お答えしてみます。
1、について
「宗教も科学も五十歩百歩」うんぬん論については、別の機会に是非お話ししましょう。 (^o^)
僕が「南郷力丸さんの意見として承った」と表現したのは、南郷力丸さんの意図がよく掴めなかったからなんです。
南郷力丸さんへの返事で書いたとおり、『南郷力丸さんの「レベル設定」がどのへんにあるのかよく分からなかった』。
ですから、とりあえずの返しとして、あのようなちょっと極端な設定として返してみた、ということです。
よって、『南郷さんの「愚樵氏に対するご見解」に「同意」ということでよろしいのですよね?』という聞き方をされると、ちょっと返答に困るのです。
「同意」しているわけではないですから。むしろ「保留」に近い。
と、まずはこのような状況が僕の側にはありました。
>「(真意はこうだから)そのように読んでください」が正しい表現ではないでしょうか。
<
似たようなタイプの問いかけを、僕はたんぽぽさんから何度も何度もされているので、そのような問いかけられ方にアレルギーがあるのかもしれません。
それで、ちょちょんまげさんの問いかけに対しても、警戒して過剰反応しまっていたようにも思います。
そこのところは申し訳なかったです。
すみませんでした。
>「南郷見解寄りである」に読むことが不自然なこととは思えません。
<
と仰るちょちょんまげさんのお気持ちは理解できます。
けれど僕の感覚では、これまた「南郷見解寄りである」=「同意」とも言えないんです。
で、僕もちょちょんまげさんも、自分の感覚に近いものを 自分にとっては「自然だ」と感じるわけで、それを「一般的だ」と思いたがる。
ですから逆に、感覚が大きく違う者同士になると、そのへんからどんどん齟齬が起こるように感じるのです。
よって、その上でなおかつやりとりをしようということになるのであれば、お互いが共通前提とできるような「物差し」を探して歩み寄って、あるいはそれぞれがどういうことを「自身の物差し」としているかを お互いが認識し合って、お互いがそこを前提とすると了解した上でやりとりが進んでいかないと、どうにも噛まない・・ということになるのだと思います。
しかし、この「お互いによる前提づくり、あるいは前提の了解」自体が、なかなか難しいことだなぁと いつも感じるわけです。
悩ましいところですが、この場では、僕は是非ちょちょんまげさんとそれを達成できたら・・と思っています。
とりあえず、ここまでで。
とりあえずは「1」にだけ、お答えしてみます。
1、について
「宗教も科学も五十歩百歩」うんぬん論については、別の機会に是非お話ししましょう。 (^o^)
僕が「南郷力丸さんの意見として承った」と表現したのは、南郷力丸さんの意図がよく掴めなかったからなんです。
南郷力丸さんへの返事で書いたとおり、『南郷力丸さんの「レベル設定」がどのへんにあるのかよく分からなかった』。
ですから、とりあえずの返しとして、あのようなちょっと極端な設定として返してみた、ということです。
よって、『南郷さんの「愚樵氏に対するご見解」に「同意」ということでよろしいのですよね?』という聞き方をされると、ちょっと返答に困るのです。
「同意」しているわけではないですから。むしろ「保留」に近い。
と、まずはこのような状況が僕の側にはありました。
>「(真意はこうだから)そのように読んでください」が正しい表現ではないでしょうか。
<
似たようなタイプの問いかけを、僕はたんぽぽさんから何度も何度もされているので、そのような問いかけられ方にアレルギーがあるのかもしれません。
それで、ちょちょんまげさんの問いかけに対しても、警戒して過剰反応しまっていたようにも思います。
そこのところは申し訳なかったです。
すみませんでした。
>「南郷見解寄りである」に読むことが不自然なこととは思えません。
<
と仰るちょちょんまげさんのお気持ちは理解できます。
けれど僕の感覚では、これまた「南郷見解寄りである」=「同意」とも言えないんです。
で、僕もちょちょんまげさんも、自分の感覚に近いものを 自分にとっては「自然だ」と感じるわけで、それを「一般的だ」と思いたがる。
ですから逆に、感覚が大きく違う者同士になると、そのへんからどんどん齟齬が起こるように感じるのです。
よって、その上でなおかつやりとりをしようということになるのであれば、お互いが共通前提とできるような「物差し」を探して歩み寄って、あるいはそれぞれがどういうことを「自身の物差し」としているかを お互いが認識し合って、お互いがそこを前提とすると了解した上でやりとりが進んでいかないと、どうにも噛まない・・ということになるのだと思います。
しかし、この「お互いによる前提づくり、あるいは前提の了解」自体が、なかなか難しいことだなぁと いつも感じるわけです。
悩ましいところですが、この場では、僕は是非ちょちょんまげさんとそれを達成できたら・・と思っています。
とりあえず、ここまでで。
もうくち出すつもり無かったけど
いいかげん、「たんぽぽ変換」って呼ぶのはやめたら?
あなただってやったんだろ
あなただってやったんだろ
No title
ちょちょんまげさま
>また、こちらではアキラ様に回答を求めるコメントは無しということで、
>ギャラリーにお願いします。
これだと、わたしの批判が、公開でなされているのに、
わたしが反論できない、ということにもなると思います。
今後、わたしが、なにを言われるかわからないですし、
わたしとしては、それはやめてほしいというのが、率直なところです。
>また、こちらではアキラ様に回答を求めるコメントは無しということで、
>ギャラリーにお願いします。
これだと、わたしの批判が、公開でなされているのに、
わたしが反論できない、ということにもなると思います。
今後、わたしが、なにを言われるかわからないですし、
わたしとしては、それはやめてほしいというのが、率直なところです。
たんぽぽさん、アキラ様
そりゃ確かにおっしゃる通りですね。>たんぽぽさん
ごめんなさい、そこに考えが至りませんでした。
アキラ様、いかがですか。
そうすると、やはりアキラ様のコメント欄が正解のように思うのですが。
それか、やはりどなたのいかようなコメントもOKで行うのがベストのように思います。
そちらのご負担は大きいかもしれませんけど。
ごめんなさい、そこに考えが至りませんでした。
アキラ様、いかがですか。
そうすると、やはりアキラ様のコメント欄が正解のように思うのですが。
それか、やはりどなたのいかようなコメントもOKで行うのがベストのように思います。
そちらのご負担は大きいかもしれませんけど。
提案です
まぁ、予想はしていたことではありますが・・・。
ひとつ、提案です。
僕は、ちょちょんまげさんと、「リスペクト」を崩さずに、きちんと、じっくりと話をしてみたいと思っています。
ですので、メールでやりとりするというのはどうでしょう?
お互いに誰を気にすることもなく、言うべきことを言えると思いますし、それがベストのような気が、僕はしています。
特にほかの人に対して差し障りが出ないような話題であれば、ネット上に公開される形で、十分に出来るでしょう。
例えば「科学と宗教」うんぬんのこととか。 (^_^;)
水伝騒動うんぬんに関しては、それは難しいのかもしれません。
メールアドレスを入れておきます。
同意してくださるのであれば、メールでコメントに対するお返事をいただければ、と思っています。
ご検討願います。
ひとつ、提案です。
僕は、ちょちょんまげさんと、「リスペクト」を崩さずに、きちんと、じっくりと話をしてみたいと思っています。
ですので、メールでやりとりするというのはどうでしょう?
お互いに誰を気にすることもなく、言うべきことを言えると思いますし、それがベストのような気が、僕はしています。
特にほかの人に対して差し障りが出ないような話題であれば、ネット上に公開される形で、十分に出来るでしょう。
例えば「科学と宗教」うんぬんのこととか。 (^_^;)
水伝騒動うんぬんに関しては、それは難しいのかもしれません。
メールアドレスを入れておきます。
同意してくださるのであれば、メールでコメントに対するお返事をいただければ、と思っています。
ご検討願います。
アキラ様
ん〜、
>じっくりと話をしてみたいと思っています。
こう言っていただけるのは、嬉しく思いますし、私も同様に感じていますが、やはり公開で検証されることが重要だと思うのです。
で、いかがでしょうか、そちらでのやりとりはこちらの方にそっくりコピペします。
そうすれば、場所がそっくり移動しただけと云うことになるでしょう。
興味のある読者もほぼ重なっているでしょうし。
いかがですか?
>まぁ、予想はしていたことではありますが・・・。
それと、これについてはご不満のようですけれど、たんぽぽさんが御自分が話題になっているところに御自分の意見を述べられないことに納得がいかないことは当然だと思います。
そこに思い至らずうっかりと了承してしまったのは私がバカだっただけで。
>じっくりと話をしてみたいと思っています。
こう言っていただけるのは、嬉しく思いますし、私も同様に感じていますが、やはり公開で検証されることが重要だと思うのです。
で、いかがでしょうか、そちらでのやりとりはこちらの方にそっくりコピペします。
そうすれば、場所がそっくり移動しただけと云うことになるでしょう。
興味のある読者もほぼ重なっているでしょうし。
いかがですか?
>まぁ、予想はしていたことではありますが・・・。
それと、これについてはご不満のようですけれど、たんぽぽさんが御自分が話題になっているところに御自分の意見を述べられないことに納得がいかないことは当然だと思います。
そこに思い至らずうっかりと了承してしまったのは私がバカだっただけで。
gegengaさん
コメントありがとうございます。
愚だ愚だ=ダブスタみたいなもんじゃないでしょうか。
ちなみに、南郷氏のゲンタ氏に対する「亀格攻撃」には私も怒りを禁じ得ません。
抗議、糾弾のエントリを挙げられるべきではないでしょうか。
わたくしも応援に馳せ参じます。
愚だ愚だ=ダブスタみたいなもんじゃないでしょうか。
ちなみに、南郷氏のゲンタ氏に対する「亀格攻撃」には私も怒りを禁じ得ません。
抗議、糾弾のエントリを挙げられるべきではないでしょうか。
わたくしも応援に馳せ参じます。
南郷力丸さん #1
>なので「議論や言論、論理展開」という言語表現による世界での能力が7%というのは、本人の実感とそう乖離してないと思います。
なるほどぉ。
では、この場合は氏は7%説を単に知っていたのではなく、
体験知、即ち「識っていた」ということですね。
これまた、自論の実践、やっぱり「天晴れ」というべきでございますね。
なるほどぉ。
では、この場合は氏は7%説を単に知っていたのではなく、
体験知、即ち「識っていた」ということですね。
これまた、自論の実践、やっぱり「天晴れ」というべきでございますね。
う〜ん、残念です。
>これについてはご不満のようですけれど、たんぽぽさんが御自分が話題になっているところに御自分の意見を述べられないことに納得がいかないことは当然だと思います。
<
だからこそ、最初にお伺いしたのですが。。。
>やはり公開で検証されることが重要だと思うのです。
<
ちょちょんまげさんご自身として、聞き、対話し、考えたいということではなかったのですね。
ちょっとそれだと、僕の認識が変わります。
先に示したようなハラスメントの問題意識を僕は持っておりますから、自分のところでの現在のやりとりに関しても、二次加害を受け続けて対応しているという状況になっています。
僕の「リスペクト」行為に関することへの批判・非難は当然のことだと思っていますので、甘んじて受けますが、二次加害を受け続けることについては、ちょっともう勘弁してもらいたいという状況です。
僕が再三申し上げていることも理解していただけてないということも、判明しました。
この状況の中で、ちょちょんまげさんの質問に ここから新たにお答えするとなると、僕の認識からするとさらなる二次加害と無理解が十二分に予想されます。(別の方々から)
僕はそのようなループが繰り返される状況には、あまり付き合ってはいられないと思っています。
質問はもうされている状態ですし、またあちらで答えると自分で最初に言っているのですから、おかしなことを言っているのは自分でもよく分かっているのですが、自らを顧みることのないループが予想される現状では、公開で行うことには、すでに今から実りがないであろう徒労感を感じます。
よって、気が変わってしまって申し訳ないのですが、公開で誰でも参加できるという形で・・と仰るのであれば、上記の理由から、「2」については回答をお断りさせていただきたいと思います。
すみませんが、ご理解のほど よろしくお願いいたします。
「3」については、では、僕の方のコメント欄でお答えすることにしましょう。
どうでしょう?
<
だからこそ、最初にお伺いしたのですが。。。
>やはり公開で検証されることが重要だと思うのです。
<
ちょちょんまげさんご自身として、聞き、対話し、考えたいということではなかったのですね。
ちょっとそれだと、僕の認識が変わります。
先に示したようなハラスメントの問題意識を僕は持っておりますから、自分のところでの現在のやりとりに関しても、二次加害を受け続けて対応しているという状況になっています。
僕の「リスペクト」行為に関することへの批判・非難は当然のことだと思っていますので、甘んじて受けますが、二次加害を受け続けることについては、ちょっともう勘弁してもらいたいという状況です。
僕が再三申し上げていることも理解していただけてないということも、判明しました。
この状況の中で、ちょちょんまげさんの質問に ここから新たにお答えするとなると、僕の認識からするとさらなる二次加害と無理解が十二分に予想されます。(別の方々から)
僕はそのようなループが繰り返される状況には、あまり付き合ってはいられないと思っています。
質問はもうされている状態ですし、またあちらで答えると自分で最初に言っているのですから、おかしなことを言っているのは自分でもよく分かっているのですが、自らを顧みることのないループが予想される現状では、公開で行うことには、すでに今から実りがないであろう徒労感を感じます。
よって、気が変わってしまって申し訳ないのですが、公開で誰でも参加できるという形で・・と仰るのであれば、上記の理由から、「2」については回答をお断りさせていただきたいと思います。
すみませんが、ご理解のほど よろしくお願いいたします。
「3」については、では、僕の方のコメント欄でお答えすることにしましょう。
どうでしょう?
南郷力丸さん#2
>私が「関西在住の烏帽子職人」と言ったら信じますか。
南郷さんは、ウソつきだから信じません。(笑)
>社会全体に対し、科学は「わかったこと」しか答えてくれない。一方の信仰は「わからない」ことまで答えてくれます。
御意。
進化論と創造論の話でよくあることですが、創造論は「全てわかっている」わけですね。
で、「わかってる」と思っているから、進化論が彼らの「わかっていること」に反する部分が多いので「否定された、攻撃された」と「勝手な読み込みによる決めつけ」で宗教への侵略だとか、他者の信仰の否定などと滅茶苦茶なこと言う人がいるんですよねぇ。
まぁ、特に合衆国での話しですけど。
また、「自らが生まれてきた意味がある」と信じている(思いたがる)人にも、しばしば宗教は答えを「教えて」くれるような側面があるようですから、他の人もみんな「自らが生まれてきた意味がある」と思ってると思っちゃう傾向があるんぢゃないですかね。
私なんか「自らが生まれてきた意味」なんて無くても全然構わないのですが。(面白きゃ)
南郷さんは、ウソつきだから信じません。(笑)
>社会全体に対し、科学は「わかったこと」しか答えてくれない。一方の信仰は「わからない」ことまで答えてくれます。
御意。
進化論と創造論の話でよくあることですが、創造論は「全てわかっている」わけですね。
で、「わかってる」と思っているから、進化論が彼らの「わかっていること」に反する部分が多いので「否定された、攻撃された」と「勝手な読み込みによる決めつけ」で宗教への侵略だとか、他者の信仰の否定などと滅茶苦茶なこと言う人がいるんですよねぇ。
まぁ、特に合衆国での話しですけど。
また、「自らが生まれてきた意味がある」と信じている(思いたがる)人にも、しばしば宗教は答えを「教えて」くれるような側面があるようですから、他の人もみんな「自らが生まれてきた意味がある」と思ってると思っちゃう傾向があるんぢゃないですかね。
私なんか「自らが生まれてきた意味」なんて無くても全然構わないのですが。(面白きゃ)
No title
>南郷さんは、ウソつきだから信じません。(笑)
また、人格攻撃してる。
自分が思ってることは、他人も思ってるというのは、ありがちです。ならば、自分が気づいたようなことは、他人も気づいてる。と考えればいいのに。そして、なぜ、誰もがそれを言わないのかも。
たまに、思ったことや感じたことを、そのまま垂れ流す人っているんです。
アキラさんちで書いた、勝手な思いこみによる「ちょちょんまげさん像」に異論がないので、勝手な決めつけに昇格させますと、ちょちょんまげさんは、感情によって、書いても無駄と思いながらも書いてる。けれども、書く際には、少なくとも論として述べる。
つまりは、頻尿だけど、失禁はしないわけですね。一方で、失禁する人がいて、それは仕方がないんだけど、せめて外出時にはオムツすればいいのに。
また、人格攻撃してる。
自分が思ってることは、他人も思ってるというのは、ありがちです。ならば、自分が気づいたようなことは、他人も気づいてる。と考えればいいのに。そして、なぜ、誰もがそれを言わないのかも。
たまに、思ったことや感じたことを、そのまま垂れ流す人っているんです。
アキラさんちで書いた、勝手な思いこみによる「ちょちょんまげさん像」に異論がないので、勝手な決めつけに昇格させますと、ちょちょんまげさんは、感情によって、書いても無駄と思いながらも書いてる。けれども、書く際には、少なくとも論として述べる。
つまりは、頻尿だけど、失禁はしないわけですね。一方で、失禁する人がいて、それは仕方がないんだけど、せめて外出時にはオムツすればいいのに。
アキラ様
お返事少々遅れました。
>ちょちょんまげさんご自身として、聞き、対話し、考えたいということではなかったのですね。
いや、そうしたいんですよ、実際。
ただし、非公開で私とアキラ様がやりとりをしていることを、言及することが明らかな方が知っている状況というのは、私にはどうにもアンフェアなことに思えるのです。
とりあえず、私の質問2についてどうやり取りするかは、保留にさせていただけますか。
そちらのご負担の大きさというのも理解はできますし。
そして、とりあえず質問3につき、そちらででも、こちらででもお聞かせいただけたら幸いに存じます。
>ちょちょんまげさんご自身として、聞き、対話し、考えたいということではなかったのですね。
いや、そうしたいんですよ、実際。
ただし、非公開で私とアキラ様がやりとりをしていることを、言及することが明らかな方が知っている状況というのは、私にはどうにもアンフェアなことに思えるのです。
とりあえず、私の質問2についてどうやり取りするかは、保留にさせていただけますか。
そちらのご負担の大きさというのも理解はできますし。
そして、とりあえず質問3につき、そちらででも、こちらででもお聞かせいただけたら幸いに存じます。
では。
「2」に関しては、僕の方のコメント欄で、回答に対応すると思われる発言がほぼ出尽くしているように思われますので、とりあえず今回はそれにて勘弁願いたいと思います。
またいちいち掘り返しをやり出してしまったら、当時セクハラ及び「勝手な読み込みによる決めつけ」ハラスメントを受けた方々に、新たな二次加害を与えることになってしまうことは避けられないと、僕は考えます。
そのようなことを、僕自身は、はじめから望んではおりません。
なるべく丁寧に、気がつく限りにおいて、それは避けてきたつもりです。
しかし、訊かれたことにきちんと答えるためには、言わざるを得なくなる。
訊かれて、どうしても言わざるを得ない状況となれば、二次加害的発言をする覚悟は当然いたしますが、それに対して「正気の沙汰ではない」などと 無自覚・無責任なことを言われるのであれば、実は、正直もうウンザリ、なのです。
「詰問したのは誰なのだ?」と問い返したくなる。
自制はしておりますが。
「3」についてお答えします。
違います。
と言えるのではないかと自分では思っています。 (^_^;)
(今ひとつ自信が持てません)
僕が意図していたのは、自分の発言の前提となっている「物差し」を自明としない、それをあまねく「当たり前だ」としない、といったような意味合いで、です。
ですから確かに、自分自身のことを含め、極端にものごとを相対化する傾向が 僕にはあると思います。
よって、論理性や整合性を無自覚に「前提の物差し」とするような方々の、その「物差し」自体を問題視することが、僕自身は多いです。
その意味において、と仰るのであれば、
>論理が破綻しないよう議論のルールを守ろうとする人とは話が噛み合うわけがないと思うのですが
<
そう思います。
この ちょちょんまげさんの仰った「ダブスタにならないように考えたり、論理が破綻しないよう議論のルールを守ろうとする人とは話が噛み合うわけがない・・」というコメントに、しかし、非常にインスパイアされました。
これを読んで、「そうだよなぁ」と改めて思ったんです。
一番大事にしていることが違うんですよね、人によって。
あるいは「人の種類」によって。
それこそ「当たり前のこと」なんですけど。
「論理派」だぁ「共感派」だぁという区分けが、僕は今ひとつよく分からなかったのですが、ちょちょんまげさんの言葉を読んで、少し分かった気がしました。
インスパイアされたことを元に、僕の記事の方での南郷力丸さんのコメントにお答えして、「スポーツ・野球・サッカー」といったことを例えに、このへんのことを記しました。
こちらにも再掲しておきます。
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
今回改めて つくづく難しいなぁと思っているのは、この「前提」の問題です。
例えて言ってみると、みなスポーツ(コミュニケーションの比喩)してるという認識はある。
で、その認識のもと、野球をしていたり、サッカーをしていたりするわけです。
何を一番大事にしているかという「前提」によって、同じスポーツでも競技が変わってくるわけですよ。
例えば、「論理性や整合性」を大事にするのは野球、「その人の想い」を大事にするのはサッカー、といったように。
で、野球をしているところにサッカーをしようと乗り込んでいっても、それはどうにもなりませんし、逆もまた同じです。
それをやっちゃってるにも関わらず、「だってスポーツだろ!」と言い合っていたりする。
そこをもう一つ冷静にというか、丁寧にというか、「議論の枠組みの理解」=「スポーツだと言いながら、どの競技をやっているのか」ということへの理解をする必要があるなぁと思いました。
「論理性や整合性」を大事にする野球をやってるところでは、サッカーで無理押ししてもしょうがない。
「その人の想い」を大事にするサッカーをやってるところでは、野球で無理押ししてもしょうがない。
なんか そういう齟齬によって、騒ぎが大きくなってしまっている気がしました。
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
要するに、「論理性や整合性」を何よりも大事にする人たちと、「その人の想い」を何よりも大事にする人たちとが、「何を前提としているか」の共有がないままに、入り乱れてワアワアやっちゃったんだなぁと。
「議論」という名のもとに。
「前提の共有」がなかったので、結局それは「議論」なんかじゃ全然なかった。
で、その結果、お互いの譲れない「一番大事なところ」を、お互いに批判したり揶揄したり中傷したりしてしまって、お互いに許すことができなくなって、引けなくなってしまったんだなぁと。
「1」の回答で記したように、誰でも、自分の感覚に近いものを 自分にとっては「自然だ」「前提だ」と感じるわけで、それを「一般的だ」と思いたがるわけです。
例えば、野球をやりながら「自分は野球をやっている」というきちんとした認識があればいいのですが、野球をやりながら「自分はスポーツをやっている」と認識し、また一方がサッカーをやりながら「自分はスポーツをやっている」と認識しながら、お互いが話(スポーツ)をしようとすれば、当然噛まない。
ですから逆に、感覚が大きく違う者同士になると、そのへんの事情から どんどん齟齬が起こるように、僕には感じられるのです。
繰り返しになりますが。。。
よって、その上でなおかつやりとりをしようということになるのであれば、お互いが共通前提とできるような「物差し(前提)」を探して歩み寄って、あるいはそれぞれがどういうことを「自身の物差し」としているかを お互いが認識し合って、お互いがそこを前提とすると了解した上でやりとりが進んでいかないと、どうにも噛まない・・ということになるのだと思います。
しかし、この「お互いによる前提づくり、あるいは前提の了解」自体が、なかなか難しいことだなぁと いつも感じるわけです。
悩ましいところです。
以上。
またいちいち掘り返しをやり出してしまったら、当時セクハラ及び「勝手な読み込みによる決めつけ」ハラスメントを受けた方々に、新たな二次加害を与えることになってしまうことは避けられないと、僕は考えます。
そのようなことを、僕自身は、はじめから望んではおりません。
なるべく丁寧に、気がつく限りにおいて、それは避けてきたつもりです。
しかし、訊かれたことにきちんと答えるためには、言わざるを得なくなる。
訊かれて、どうしても言わざるを得ない状況となれば、二次加害的発言をする覚悟は当然いたしますが、それに対して「正気の沙汰ではない」などと 無自覚・無責任なことを言われるのであれば、実は、正直もうウンザリ、なのです。
「詰問したのは誰なのだ?」と問い返したくなる。
自制はしておりますが。
「3」についてお答えします。
違います。
と言えるのではないかと自分では思っています。 (^_^;)
(今ひとつ自信が持てません)
僕が意図していたのは、自分の発言の前提となっている「物差し」を自明としない、それをあまねく「当たり前だ」としない、といったような意味合いで、です。
ですから確かに、自分自身のことを含め、極端にものごとを相対化する傾向が 僕にはあると思います。
よって、論理性や整合性を無自覚に「前提の物差し」とするような方々の、その「物差し」自体を問題視することが、僕自身は多いです。
その意味において、と仰るのであれば、
>論理が破綻しないよう議論のルールを守ろうとする人とは話が噛み合うわけがないと思うのですが
<
そう思います。
この ちょちょんまげさんの仰った「ダブスタにならないように考えたり、論理が破綻しないよう議論のルールを守ろうとする人とは話が噛み合うわけがない・・」というコメントに、しかし、非常にインスパイアされました。
これを読んで、「そうだよなぁ」と改めて思ったんです。
一番大事にしていることが違うんですよね、人によって。
あるいは「人の種類」によって。
それこそ「当たり前のこと」なんですけど。
「論理派」だぁ「共感派」だぁという区分けが、僕は今ひとつよく分からなかったのですが、ちょちょんまげさんの言葉を読んで、少し分かった気がしました。
インスパイアされたことを元に、僕の記事の方での南郷力丸さんのコメントにお答えして、「スポーツ・野球・サッカー」といったことを例えに、このへんのことを記しました。
こちらにも再掲しておきます。
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
今回改めて つくづく難しいなぁと思っているのは、この「前提」の問題です。
例えて言ってみると、みなスポーツ(コミュニケーションの比喩)してるという認識はある。
で、その認識のもと、野球をしていたり、サッカーをしていたりするわけです。
何を一番大事にしているかという「前提」によって、同じスポーツでも競技が変わってくるわけですよ。
例えば、「論理性や整合性」を大事にするのは野球、「その人の想い」を大事にするのはサッカー、といったように。
で、野球をしているところにサッカーをしようと乗り込んでいっても、それはどうにもなりませんし、逆もまた同じです。
それをやっちゃってるにも関わらず、「だってスポーツだろ!」と言い合っていたりする。
そこをもう一つ冷静にというか、丁寧にというか、「議論の枠組みの理解」=「スポーツだと言いながら、どの競技をやっているのか」ということへの理解をする必要があるなぁと思いました。
「論理性や整合性」を大事にする野球をやってるところでは、サッカーで無理押ししてもしょうがない。
「その人の想い」を大事にするサッカーをやってるところでは、野球で無理押ししてもしょうがない。
なんか そういう齟齬によって、騒ぎが大きくなってしまっている気がしました。
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
要するに、「論理性や整合性」を何よりも大事にする人たちと、「その人の想い」を何よりも大事にする人たちとが、「何を前提としているか」の共有がないままに、入り乱れてワアワアやっちゃったんだなぁと。
「議論」という名のもとに。
「前提の共有」がなかったので、結局それは「議論」なんかじゃ全然なかった。
で、その結果、お互いの譲れない「一番大事なところ」を、お互いに批判したり揶揄したり中傷したりしてしまって、お互いに許すことができなくなって、引けなくなってしまったんだなぁと。
「1」の回答で記したように、誰でも、自分の感覚に近いものを 自分にとっては「自然だ」「前提だ」と感じるわけで、それを「一般的だ」と思いたがるわけです。
例えば、野球をやりながら「自分は野球をやっている」というきちんとした認識があればいいのですが、野球をやりながら「自分はスポーツをやっている」と認識し、また一方がサッカーをやりながら「自分はスポーツをやっている」と認識しながら、お互いが話(スポーツ)をしようとすれば、当然噛まない。
ですから逆に、感覚が大きく違う者同士になると、そのへんの事情から どんどん齟齬が起こるように、僕には感じられるのです。
繰り返しになりますが。。。
よって、その上でなおかつやりとりをしようということになるのであれば、お互いが共通前提とできるような「物差し(前提)」を探して歩み寄って、あるいはそれぞれがどういうことを「自身の物差し」としているかを お互いが認識し合って、お互いがそこを前提とすると了解した上でやりとりが進んでいかないと、どうにも噛まない・・ということになるのだと思います。
しかし、この「お互いによる前提づくり、あるいは前提の了解」自体が、なかなか難しいことだなぁと いつも感じるわけです。
悩ましいところです。
以上。
No title
ちょちょんまげさま
>そりゃ確かにおっしゃる通りですね。>たんぽぽさん
>ごめんなさい、そこに考えが至りませんでした。
ああ、いえいえ。ご配慮どうもです。
>ただし、非公開で私とアキラ様がやりとりをしていることを、
>言及することが明らかな方が知っている状況というのは
それも、わたしとしては、気持ちよくないですね...
>そりゃ確かにおっしゃる通りですね。>たんぽぽさん
>ごめんなさい、そこに考えが至りませんでした。
ああ、いえいえ。ご配慮どうもです。
>ただし、非公開で私とアキラ様がやりとりをしていることを、
>言及することが明らかな方が知っている状況というのは
それも、わたしとしては、気持ちよくないですね...
No title
アキラさま
>発言者が元々のコメントによって示したかった
>想いや意図とは違うことになってしまう
>「勝手な読み込みによる決めつけ」=「たんぽぽ変換」は、
あなたは、ご自分のブログで、つぎのコメントをしているけど、
わたしは、「アキラさまが喜んだ」なんて、言っていないですよ。
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51590807.html
|「大喜びした」と言っていたのはたんぽぽさんで、彼女の「妄想」です。
|平気で「たんぽぽ変換」されているわけです、この言葉が消えることがない理由でしょう。
|これこそ「恣意的な印象操作」の典型です。
(2009年03月01日 17:37)
つぎのように、一度目は、alice氏に対して言ったのですし、
二度目は「ほかの投稿者」というだけで、だれとは明示していないです。
http://blogs.dion.ne.jp/akiras_room/archives/7656126.html
|それでも、あなたは、「死ぬのはやつらだ」氏に同情したし、
|わたしが、嫌がらせされたことを、喜んだのですね。
(2008年10月03日 23:25)
|コメント欄のほかの投稿者も、「ごんさんはすごい」、
|「ごんさんにリスペクトする」と、とてもうれしそうにしています。
|あなたもこの喜ぶ気持ちを、わかち合っているのだなと、思ったしだいです。
(2008年10月06日 22:13)
「「大喜びした」と言っていたのはたんぽぽ」と断言するのは、
あなたが、手前勝手に読み込んだ「アキラ変換」であり、
「たんぽぽ変換」呼ばわりは、あなたの「妄想」だと思います。
ご自分のブログなどで、あなたが、ひっきりなしに繰り返してくれる、
「たんぽぽ変換」という「恣意的な印象操作」によって、
わたしは、ものすごい人格攻撃とハラスメントを感じているので、
ぜひとも釈明をいただきたいです。
>発言者が元々のコメントによって示したかった
>想いや意図とは違うことになってしまう
>「勝手な読み込みによる決めつけ」=「たんぽぽ変換」は、
あなたは、ご自分のブログで、つぎのコメントをしているけど、
わたしは、「アキラさまが喜んだ」なんて、言っていないですよ。
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51590807.html
|「大喜びした」と言っていたのはたんぽぽさんで、彼女の「妄想」です。
|平気で「たんぽぽ変換」されているわけです、この言葉が消えることがない理由でしょう。
|これこそ「恣意的な印象操作」の典型です。
(2009年03月01日 17:37)
つぎのように、一度目は、alice氏に対して言ったのですし、
二度目は「ほかの投稿者」というだけで、だれとは明示していないです。
http://blogs.dion.ne.jp/akiras_room/archives/7656126.html
|それでも、あなたは、「死ぬのはやつらだ」氏に同情したし、
|わたしが、嫌がらせされたことを、喜んだのですね。
(2008年10月03日 23:25)
|コメント欄のほかの投稿者も、「ごんさんはすごい」、
|「ごんさんにリスペクトする」と、とてもうれしそうにしています。
|あなたもこの喜ぶ気持ちを、わかち合っているのだなと、思ったしだいです。
(2008年10月06日 22:13)
「「大喜びした」と言っていたのはたんぽぽ」と断言するのは、
あなたが、手前勝手に読み込んだ「アキラ変換」であり、
「たんぽぽ変換」呼ばわりは、あなたの「妄想」だと思います。
ご自分のブログなどで、あなたが、ひっきりなしに繰り返してくれる、
「たんぽぽ変換」という「恣意的な印象操作」によって、
わたしは、ものすごい人格攻撃とハラスメントを感じているので、
ぜひとも釈明をいただきたいです。
アキラ様
ご回答ありがとうございました。
まず、1についてはほぼ了解です。
ただ、「五十歩百歩」という言葉に対する評価が抜けているのは少々残念です。
特にこういう微妙なニュアンスを含む言葉の場合、「一般にどう使われているか」というのは、「一般的に」という言葉を使わざるをえないのは忸怩たるものがありますが、重要だと思うのですが。
まず、1についてはほぼ了解です。
ただ、「五十歩百歩」という言葉に対する評価が抜けているのは少々残念です。
特にこういう微妙なニュアンスを含む言葉の場合、「一般にどう使われているか」というのは、「一般的に」という言葉を使わざるをえないのは忸怩たるものがありますが、重要だと思うのですが。
アキラ様#2
「正気の沙汰でない」について。
これは、私の書き方が悪かったです。
申し訳ありません。
これはアキラ様の過去の「ニケ氏のブログにおける発言」についての私の意見です。
即ち、私の脳内の流れとしては「今回のアキラ様の発言を読んで、アキラ様の”自業自得の覚悟、なかったんですかねぇ。。。>野草の人”の真意が今回の御発言の通りであり、それが”レイプ・セクハラはされた方にも非がある”と同義であるならば、それを被害者の知るところになるような場所で発言するということが私には正気の沙汰とは思えない」ということです。
簡単に言うならば「それが、あの時の真意だったのか。それならば、あの時の貴方のその発言は正気の沙汰とは思えない」ということです。
あらためて、これについては、100%私のミスです。
ということで、これには再評価願えますでしょうか。
さて、これは、私のミスであったわけですけれども、ちょっと面白いケースであるようにも思います。
私の原文について、私は
>これは、今回のやり取りではっきりしたことですが
と書いている。
そして、その後、「今回の」アキラ様の御発言を取り上げているわけです。
即ち、私の脳内の中では、「今回はっきりしたこと」というのは、「以前に発せられた、アキラ様のご発言の真意」であるということです。
で、それ(以前の発言の真意)につき私の意見を述べているわけです。
また、誰かが「過去の貴方の行為につき説明しろ」と詰問され、「それはこういうことでした」と説明したときに、「詰問に対する説明行為」に対して批判がくることはまず無く、来るとすれば、「なんだと、お前の過去の行為の真意はそういことだったのか」が圧倒的に多いと思うんです。
ですので、「それは、そちらの誤読である」と言い張れないことはない、と思うんですよね。
むろん、今回のケースについては、私は100%書き手である私の責任であると思うし、アキラ様の読みように文句をつける筋合いは一切ありません。
しかし、私が上記のように「言い張って」、そして私とアキラ様の間で延々と議論が続いてしまった場合、必ずや「読み手の勝手な解釈もあるぞ」と「どっちもどっち」と言ってくる人は出てくると思うのですけれど、いかがですか。
これは、私の書き方が悪かったです。
申し訳ありません。
これはアキラ様の過去の「ニケ氏のブログにおける発言」についての私の意見です。
即ち、私の脳内の流れとしては「今回のアキラ様の発言を読んで、アキラ様の”自業自得の覚悟、なかったんですかねぇ。。。>野草の人”の真意が今回の御発言の通りであり、それが”レイプ・セクハラはされた方にも非がある”と同義であるならば、それを被害者の知るところになるような場所で発言するということが私には正気の沙汰とは思えない」ということです。
簡単に言うならば「それが、あの時の真意だったのか。それならば、あの時の貴方のその発言は正気の沙汰とは思えない」ということです。
あらためて、これについては、100%私のミスです。
ということで、これには再評価願えますでしょうか。
さて、これは、私のミスであったわけですけれども、ちょっと面白いケースであるようにも思います。
私の原文について、私は
>これは、今回のやり取りではっきりしたことですが
と書いている。
そして、その後、「今回の」アキラ様の御発言を取り上げているわけです。
即ち、私の脳内の中では、「今回はっきりしたこと」というのは、「以前に発せられた、アキラ様のご発言の真意」であるということです。
で、それ(以前の発言の真意)につき私の意見を述べているわけです。
また、誰かが「過去の貴方の行為につき説明しろ」と詰問され、「それはこういうことでした」と説明したときに、「詰問に対する説明行為」に対して批判がくることはまず無く、来るとすれば、「なんだと、お前の過去の行為の真意はそういことだったのか」が圧倒的に多いと思うんです。
ですので、「それは、そちらの誤読である」と言い張れないことはない、と思うんですよね。
むろん、今回のケースについては、私は100%書き手である私の責任であると思うし、アキラ様の読みように文句をつける筋合いは一切ありません。
しかし、私が上記のように「言い張って」、そして私とアキラ様の間で延々と議論が続いてしまった場合、必ずや「読み手の勝手な解釈もあるぞ」と「どっちもどっち」と言ってくる人は出てくると思うのですけれど、いかがですか。
アキラ様#3
3について。
スポーツの例えは、私にはいまいちピンときません。
そもそも「スポーツには野球だろうとサッカーだろうとルールが存在する」を軽視するかしないかの話に思えるんですがね。
>要するに、「論理性や整合性」を何よりも大事にする人たちと、「その人の想い」を何よりも大事にする人たちとが、「何を前提としているか」の共有がないままに、入り乱れてワアワアやっちゃったんだなぁと。
これもちょっと違うような気がするのですが・・・・
「思い、想い」を伝えたいことが第一義なのは誰でも同じのはずです。
そして、それを伝えようとするときに、「論理性や整合性」を大事に思うか軽視するか、ということではないでしょうか?
で、発言する前に「論理性や整合性」に欠けると思ったら、私だったら発言しないで止めて、その自分の「思い、想い」自体を疑います。
好例があるので見ていただきたいのですけれど、
以下引用:
正体「む」
彼らの正体は、ルルドの水を信じている人たちをバカだと見下しつつ、相手が多数派のうちはその顔色をうかがい、拮抗していれば主観の問題だと認めたふりをし、少数であれば徹底的に糾弾する(自らを誇示するためだけに)というものである 。
場所と時代とを問わず、ファシズムはそういう心性につけこんでくる。この見苦しい心性は、あたしら一般が信じて疑わない科学という思考法がそういうふうに発展したという事実に起因するものなので、こういった小汚い心性を臆面もなく表にさらす無邪気な人々を笑うのはかわうそうではあるのだが。
というのも科学はもともとそういうふうな性質を持つものなので。つまりは「これまで」の否定によって牽引されていく、といった類の。(しかしもちろん、科学自体の持つその性質は、自らの認識を疑えというものであって、知識の足りない人を見下せ、という類のものではない)科学は100人に1人の科学者によって誘導せられるものであることは確かなのだが、科学はまた「生命の起源を解き明かしていない不完全な進化論」を信じている多数派によって支えられていることも、事実なのである。自らが生まれてきた意味さえもわからぬものが、天に向かってつばを吐いても、自らの子供たちの上にその廃棄物を撒き散らすだけにほかならないことを、まずは、知るべきだろう。(自らの価値を問うことを放棄した人間たちは、ただ、他の信じているものの価値を貶めることによって、自らを誇ろうとする。自らの存在価値を確認するための、そのたったひとつの方法を棄てたからである。それは祖先を貶め、隣人を排除し、子どもたちにその醜悪な心性の種を植えつけることにほかならない)
>これら(宗教に関する愚樵さんの認識)は「二次情報」ですから、愚樵さんに言わせれば、「知っている」のでなく、「信じている」ということになるのではないですか?
このばかげた質問のあとに再びその口を滑らせないことを祈るよ。
引用ここまで:
これは、愚樵氏のところで私が議論していたときに横から(なんだかよくわからんのですが)ごん様から発せられたお言葉です。
これは、一見なにか伝えたい「思い、想い」があって、「論理」の体裁で「論理的」に誰かにわからせようとしているもののように見受けられます。
しかし、この「「勝手な読み込みによる決めつけ」ばっかりで、(なぜ、アキラ様は「ごん変換」と呼ばないのですか?)、間違いだらけで、攻撃性に満ち、自分の価値観ばっかり主張した文章にどう対応せい、というのですか(笑)
どこがどう私が言う「、間違いだらけで、攻撃性に満ち、自分の価値観ばっかり主張」なのか、具体的にしてきせいとおっしゃるならばやりますけれど、いっぱいありすぎてちょっとめんどいし、したらしたで「しつこい」とか「自分を安全な場所において批判する」とか言われるんですよねぇ(笑)
で、この文章から何か「思い、想い」を汲み取れったって、汲み取ったとしても、「他人はお前らの思いに関わらず、私の思いだけ理解せい」ぐらいしか汲み取りようがないのではないかと思いますが、どう思われます?
これ、野球のサッカーのって話ですか?
(で、この人格攻撃に満ちたコメントにブログ主の愚樵氏がなんにも言わないところがなんともorzだったんですけどね。しかも同様の流れの書き込みの「尻馬」に乗ったりするんです)
スポーツの例えは、私にはいまいちピンときません。
そもそも「スポーツには野球だろうとサッカーだろうとルールが存在する」を軽視するかしないかの話に思えるんですがね。
>要するに、「論理性や整合性」を何よりも大事にする人たちと、「その人の想い」を何よりも大事にする人たちとが、「何を前提としているか」の共有がないままに、入り乱れてワアワアやっちゃったんだなぁと。
これもちょっと違うような気がするのですが・・・・
「思い、想い」を伝えたいことが第一義なのは誰でも同じのはずです。
そして、それを伝えようとするときに、「論理性や整合性」を大事に思うか軽視するか、ということではないでしょうか?
で、発言する前に「論理性や整合性」に欠けると思ったら、私だったら発言しないで止めて、その自分の「思い、想い」自体を疑います。
好例があるので見ていただきたいのですけれど、
以下引用:
正体「む」
彼らの正体は、ルルドの水を信じている人たちをバカだと見下しつつ、相手が多数派のうちはその顔色をうかがい、拮抗していれば主観の問題だと認めたふりをし、少数であれば徹底的に糾弾する(自らを誇示するためだけに)というものである 。
場所と時代とを問わず、ファシズムはそういう心性につけこんでくる。この見苦しい心性は、あたしら一般が信じて疑わない科学という思考法がそういうふうに発展したという事実に起因するものなので、こういった小汚い心性を臆面もなく表にさらす無邪気な人々を笑うのはかわうそうではあるのだが。
というのも科学はもともとそういうふうな性質を持つものなので。つまりは「これまで」の否定によって牽引されていく、といった類の。(しかしもちろん、科学自体の持つその性質は、自らの認識を疑えというものであって、知識の足りない人を見下せ、という類のものではない)科学は100人に1人の科学者によって誘導せられるものであることは確かなのだが、科学はまた「生命の起源を解き明かしていない不完全な進化論」を信じている多数派によって支えられていることも、事実なのである。自らが生まれてきた意味さえもわからぬものが、天に向かってつばを吐いても、自らの子供たちの上にその廃棄物を撒き散らすだけにほかならないことを、まずは、知るべきだろう。(自らの価値を問うことを放棄した人間たちは、ただ、他の信じているものの価値を貶めることによって、自らを誇ろうとする。自らの存在価値を確認するための、そのたったひとつの方法を棄てたからである。それは祖先を貶め、隣人を排除し、子どもたちにその醜悪な心性の種を植えつけることにほかならない)
>これら(宗教に関する愚樵さんの認識)は「二次情報」ですから、愚樵さんに言わせれば、「知っている」のでなく、「信じている」ということになるのではないですか?
このばかげた質問のあとに再びその口を滑らせないことを祈るよ。
引用ここまで:
これは、愚樵氏のところで私が議論していたときに横から(なんだかよくわからんのですが)ごん様から発せられたお言葉です。
これは、一見なにか伝えたい「思い、想い」があって、「論理」の体裁で「論理的」に誰かにわからせようとしているもののように見受けられます。
しかし、この「「勝手な読み込みによる決めつけ」ばっかりで、(なぜ、アキラ様は「ごん変換」と呼ばないのですか?)、間違いだらけで、攻撃性に満ち、自分の価値観ばっかり主張した文章にどう対応せい、というのですか(笑)
どこがどう私が言う「、間違いだらけで、攻撃性に満ち、自分の価値観ばっかり主張」なのか、具体的にしてきせいとおっしゃるならばやりますけれど、いっぱいありすぎてちょっとめんどいし、したらしたで「しつこい」とか「自分を安全な場所において批判する」とか言われるんですよねぇ(笑)
で、この文章から何か「思い、想い」を汲み取れったって、汲み取ったとしても、「他人はお前らの思いに関わらず、私の思いだけ理解せい」ぐらいしか汲み取りようがないのではないかと思いますが、どう思われます?
これ、野球のサッカーのって話ですか?
(で、この人格攻撃に満ちたコメントにブログ主の愚樵氏がなんにも言わないところがなんともorzだったんですけどね。しかも同様の流れの書き込みの「尻馬」に乗ったりするんです)
アキラさん#4
書き残したことを追記します。
上で書いた、
>「論理」の体裁で「論理的」に誰かにわからせようとしているもののように見受けられます。
が、けっこう重要なポイントだと思うんですが、「論」に見えるから「それでは論で行きましょう」となるわけです。
即ち「野球をしようと言ってるようだから、野球で行こう」ってことですね。
で、「論」に見えなきゃ普通は「論」で行かないわけです。
アキラ様もよくご存知の、南郷さんの「PING言論」
http://lapsang-souchon.tea-nifty.com/pokopon/2008/07/ping_2f13.html
>一方で、「アタマがくるくるぱーになりそうになるんです」の例の方では、スタイルとしては「言論」のカタチをとっている。
という、一節があります。(奇しくも、南郷さんとアキラ様と私が参加していますな。こちらのエントリ)
で、言論っぽいカタチを取られちゃうと、どうしてもそれで評価してしまうわけです。
で、こちらをご参照いただけますか。
http://b.hatena.ne.jp/Narr/%E6%B0%B4%E3%81%8B%E3%82
%89%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%A8%80/
これは、Narrさんという方のブクマで、その中の「水からの伝言」というタグのついたエントリのコレクションですね。(380ナンボあります)
で、ほとんどが「信者」のものです。
エントリ内容は大抵:
こういう本を読んだ(あるいはそういう話を聞いた)
水にありがとうと言うと美しい結晶になり、ばかやろうと言うと醜い結晶になる。
そして、人間の体のXX%は水でできています、云々。
恐ろしいことに380幾つの文章がほとんどこれなのです。
で、コメント欄は、
「それは良いお話ですねぇ。私もこれからありがとうと言ってから水を飲んだり、人に対する感謝の念を忘れないようにしたいと思います」
これを見りゃ、私がいくらバカだって「PING言論」だってことはわかるわけですね。
ですから、「論理の、整合性の」を持ち込むことがバカバカしいことは理解できるわけです。
ところが、「論理の体裁を取ったPING言論」には困る。
じゃぁ論理でやりましょっ(野球しましょ、でもいいですが)て言って始めると、心がわからないの、想いを汲んでくれないの、と言われて(野球だと思ってたら、実はサッカーだったって言われるわけですな)で、野球をやるつもりだったこっちは、「あたまがくるくるぱー」になってしまうわけです。
した場合に、野球だよって言ってたはずなのに、急にサッカーだったと言いだす方がぐちゃぐちゃ状態になる原因であり、かつ責任が重いのではないですかね?(その場合「どっちもどっち」はフェアじゃないと思います)
ここからは、余談。
ですので、アキラ様に反応していただくことは求めません。
たんぽぽさんのらんきー批判で、たんぽぽさんに唯一誤謬があったとすれば、「らんきーが実は言論の場に見せたPING言論の場(あるいは、単なるお花畑)にすぎなかった」ことを見抜けなかったことではないかと思っています。
たんぽぽさんのミステイク(ミスフォーチュンと言うべきかな)は、たんぽぽさんが、ぶいっちゃん氏を過大評価していたことだと思いますよ。(ですから、小ばかにしていた論は私は違うと思います)
上で書いた、
>「論理」の体裁で「論理的」に誰かにわからせようとしているもののように見受けられます。
が、けっこう重要なポイントだと思うんですが、「論」に見えるから「それでは論で行きましょう」となるわけです。
即ち「野球をしようと言ってるようだから、野球で行こう」ってことですね。
で、「論」に見えなきゃ普通は「論」で行かないわけです。
アキラ様もよくご存知の、南郷さんの「PING言論」
http://lapsang-souchon.tea-nifty.com/pokopon/2008/07/ping_2f13.html
>一方で、「アタマがくるくるぱーになりそうになるんです」の例の方では、スタイルとしては「言論」のカタチをとっている。
という、一節があります。(奇しくも、南郷さんとアキラ様と私が参加していますな。こちらのエントリ)
で、言論っぽいカタチを取られちゃうと、どうしてもそれで評価してしまうわけです。
で、こちらをご参照いただけますか。
http://b.hatena.ne.jp/Narr/%E6%B0%B4%E3%81%8B%E3%82
%89%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%A8%80/
これは、Narrさんという方のブクマで、その中の「水からの伝言」というタグのついたエントリのコレクションですね。(380ナンボあります)
で、ほとんどが「信者」のものです。
エントリ内容は大抵:
こういう本を読んだ(あるいはそういう話を聞いた)
水にありがとうと言うと美しい結晶になり、ばかやろうと言うと醜い結晶になる。
そして、人間の体のXX%は水でできています、云々。
恐ろしいことに380幾つの文章がほとんどこれなのです。
で、コメント欄は、
「それは良いお話ですねぇ。私もこれからありがとうと言ってから水を飲んだり、人に対する感謝の念を忘れないようにしたいと思います」
これを見りゃ、私がいくらバカだって「PING言論」だってことはわかるわけですね。
ですから、「論理の、整合性の」を持ち込むことがバカバカしいことは理解できるわけです。
ところが、「論理の体裁を取ったPING言論」には困る。
じゃぁ論理でやりましょっ(野球しましょ、でもいいですが)て言って始めると、心がわからないの、想いを汲んでくれないの、と言われて(野球だと思ってたら、実はサッカーだったって言われるわけですな)で、野球をやるつもりだったこっちは、「あたまがくるくるぱー」になってしまうわけです。
した場合に、野球だよって言ってたはずなのに、急にサッカーだったと言いだす方がぐちゃぐちゃ状態になる原因であり、かつ責任が重いのではないですかね?(その場合「どっちもどっち」はフェアじゃないと思います)
ここからは、余談。
ですので、アキラ様に反応していただくことは求めません。
たんぽぽさんのらんきー批判で、たんぽぽさんに唯一誤謬があったとすれば、「らんきーが実は言論の場に見せたPING言論の場(あるいは、単なるお花畑)にすぎなかった」ことを見抜けなかったことではないかと思っています。
たんぽぽさんのミステイク(ミスフォーチュンと言うべきかな)は、たんぽぽさんが、ぶいっちゃん氏を過大評価していたことだと思いますよ。
基準はどこなの
過大評価しているの基準と、小ばかにしているの基準が同じなら、矛盾ですけど、基準が違えば、矛盾してませんよ。
たんぽぽさんは、どうかはわかりませんけど、大馬鹿を小馬鹿と思ってしまえば、「小バカにしつつ」「過大評価」ですよね。
今となっては、ご本人が「水伝は信じてなかった」と言われるんですから、インチキと知って使ったわけで、いわば江本の被害者じゃなくて、共犯者ですよね。
なので、当時、あんなバカな話を信じてると思った私は「小バカにした」し、同時に被害者だと「過大評価」してたわけです。
たんぽぽさんは、どうかはわかりませんけど、大馬鹿を小馬鹿と思ってしまえば、「小バカにしつつ」「過大評価」ですよね。
今となっては、ご本人が「水伝は信じてなかった」と言われるんですから、インチキと知って使ったわけで、いわば江本の被害者じゃなくて、共犯者ですよね。
なので、当時、あんなバカな話を信じてると思った私は「小バカにした」し、同時に被害者だと「過大評価」してたわけです。
南郷力丸さん
にゃるほど。
「過大評価していた」=「小ばかにしていなかった」では、ないですね。
素直に撤回。
「過大評価していた」=「小ばかにしていなかった」では、ないですね。
素直に撤回。
ちょちょんまげさん
お返事を書いていたのですが、メチャメチャ長くなってしまったので、とりあえず「3」についてのお返事は後回しということにして、今回はそれ以外のことについてだけにします。
それが済んでから、「3」のことについてやりとりしましょう。
・「五十歩百歩」について
すみません。
これについては、ちょちょんまげさんの仰っているとおり 了解しています。
僕は、高い「しきい」を設定して、「五十歩百歩だろう」という表現で、僕と愚樵さんを両方おとしめたということです。
それに南郷力丸さんが反応してくれるか、してくれるとしたら どのように反応するか、それである程度のことが推し量れるかな?と思った、ということです。
南郷力丸さんには、このことが伝わっていると 理解しています。
・「正気の沙汰とは思えない」について
いえいえ、「100%自分のミスだ」だなんて、そこまで仰らないでください。
再解説、ありがとうございました。
当時の「ニケ氏のブログにおける僕の発言」についてのちょちょんまげさんの意見だ(しかも条件つき)、ということは了解しました。
となれば、こちらもある種の誤読していたことになります。
すみませんでした。
僕は最初に記しました通り、相手の発言のとり違えや誤解などは、日常的によく起こることだと思っています。
だからこそ、やりとりを成立させたいのであれば、お互いが「相手の言いたいことは何か」ということを きちんと受けとろうとする姿勢が、とても大事になってくると思っています。
それさえあれば、誤解や齟齬が起こったって、それに対して 誤解された側に至らなかった点があれば、詫びつつ再度解説をし、誤解した側も至らなかった点があれば、詫びつつ再解説を受けとり、改めて自分の意見を述べて・・と、それで済むと思うのです。
ちょちょんまげさんはそうしてくださったし、もちろん僕もそれに応えます。
そうして、改めて「僕に真剣に向き合ってくれているな」との感触を得ています。
このやりとりの結末が、たとえお互いの意見が食い違い、それを譲れないという結果になったとしても、実りのある対話になるだろうな という予感がして、対話を続けていこうという気になります。
お互いに「相手の言いたいことは何か」ということを きちんと受けとろうとする姿勢があればこそ、だと思う。
そのような前提がなくて、「それは そちらの誤読だ」「いや そう読める。そう書いた方が悪い」と言い張り合えば、延々と議論が続くことになると思いますし、ちょちょんまげさんが仰るように、「読み手の勝手な解釈もあるぞ」と「どっちもどっち」と言ってくる人は出てくると思いますね。
少し僕の方の認識を付け加えさせていただきますと、僕などは、訊いた方だろうが 答えた方だろうが、発言する以上は「発言する責任」があると考えるタイプです。
その「発言する責任」をとれないのならば、発言は控える。
そうするべきだと思っている。
ですから、特にそのような感性が加わると、ちょちょんまげさんが仰ったようなことになってくるだろうと思います。
さて、ギリギリのところで補足しておきます。
僕の当時の心象は、うちゃさんに説明したとおりです。
僕の認識としては、『ハラスメントをやり続ける人が、「やり返し」をされてしまっても しょうがないかなぁ』というところです。
やってない顔をしながらネチネチつねり続けていれば、そのうち「痛えだろ!」とぶたれちゃっても、それはしょうがないかなぁ といったニュアンスです。
もっと有り体に言ってしまえば、「殴るヤツは 殴られてもしょうがないよなぁ」。
これは僕の中では、「レイプ・セクハラされた方にも非がある」という考え方とは、少し違うのではないかと思っているのです。
「誤解されるような服装や行動をしていた、レイプ・セクハラされた方にも非がある」というのとは、少し違うと思いませんか?
しかしそう受けとれるのは、「勝手な読み込みによる決めつけハラスメントがあった」という前提があればこそ、でしょう。
ですから、その前提をとらない人からしたら、「それは同じことだ」ということになりましょうから、「レイプ・セクハラされた方にも非がある」と同義であるとも言えるのかもしれない、と自分でも思うのです。
という前提認識があるので、その意味で、ちょちょんまげさんから
☆☆☆☆☆
簡単に言うならば「それが、あの時の真意だったのか。それならば、あの時の貴方のその発言は正気の沙汰とは思えない」
☆☆☆☆☆
と受けとられても、それは致し方ないと思っていますし、
そもそも僕は、自分の「リスペクト」発言は 社会の一般的な「ルール」から見れば、非難されても当然だろうと思っていますので、その意味からしても「正気の沙汰とは思えない」と思われても、それはそうだろうなぁと思っています。
ですので、そうした批判・非難は甘んじて受ける、と(あちらで)申し上げている次第です。
それが済んでから、「3」のことについてやりとりしましょう。
・「五十歩百歩」について
すみません。
これについては、ちょちょんまげさんの仰っているとおり 了解しています。
僕は、高い「しきい」を設定して、「五十歩百歩だろう」という表現で、僕と愚樵さんを両方おとしめたということです。
それに南郷力丸さんが反応してくれるか、してくれるとしたら どのように反応するか、それである程度のことが推し量れるかな?と思った、ということです。
南郷力丸さんには、このことが伝わっていると 理解しています。
・「正気の沙汰とは思えない」について
いえいえ、「100%自分のミスだ」だなんて、そこまで仰らないでください。
再解説、ありがとうございました。
当時の「ニケ氏のブログにおける僕の発言」についてのちょちょんまげさんの意見だ(しかも条件つき)、ということは了解しました。
となれば、こちらもある種の誤読していたことになります。
すみませんでした。
僕は最初に記しました通り、相手の発言のとり違えや誤解などは、日常的によく起こることだと思っています。
だからこそ、やりとりを成立させたいのであれば、お互いが「相手の言いたいことは何か」ということを きちんと受けとろうとする姿勢が、とても大事になってくると思っています。
それさえあれば、誤解や齟齬が起こったって、それに対して 誤解された側に至らなかった点があれば、詫びつつ再度解説をし、誤解した側も至らなかった点があれば、詫びつつ再解説を受けとり、改めて自分の意見を述べて・・と、それで済むと思うのです。
ちょちょんまげさんはそうしてくださったし、もちろん僕もそれに応えます。
そうして、改めて「僕に真剣に向き合ってくれているな」との感触を得ています。
このやりとりの結末が、たとえお互いの意見が食い違い、それを譲れないという結果になったとしても、実りのある対話になるだろうな という予感がして、対話を続けていこうという気になります。
お互いに「相手の言いたいことは何か」ということを きちんと受けとろうとする姿勢があればこそ、だと思う。
そのような前提がなくて、「それは そちらの誤読だ」「いや そう読める。そう書いた方が悪い」と言い張り合えば、延々と議論が続くことになると思いますし、ちょちょんまげさんが仰るように、「読み手の勝手な解釈もあるぞ」と「どっちもどっち」と言ってくる人は出てくると思いますね。
少し僕の方の認識を付け加えさせていただきますと、僕などは、訊いた方だろうが 答えた方だろうが、発言する以上は「発言する責任」があると考えるタイプです。
その「発言する責任」をとれないのならば、発言は控える。
そうするべきだと思っている。
ですから、特にそのような感性が加わると、ちょちょんまげさんが仰ったようなことになってくるだろうと思います。
さて、ギリギリのところで補足しておきます。
僕の当時の心象は、うちゃさんに説明したとおりです。
僕の認識としては、『ハラスメントをやり続ける人が、「やり返し」をされてしまっても しょうがないかなぁ』というところです。
やってない顔をしながらネチネチつねり続けていれば、そのうち「痛えだろ!」とぶたれちゃっても、それはしょうがないかなぁ といったニュアンスです。
もっと有り体に言ってしまえば、「殴るヤツは 殴られてもしょうがないよなぁ」。
これは僕の中では、「レイプ・セクハラされた方にも非がある」という考え方とは、少し違うのではないかと思っているのです。
「誤解されるような服装や行動をしていた、レイプ・セクハラされた方にも非がある」というのとは、少し違うと思いませんか?
しかしそう受けとれるのは、「勝手な読み込みによる決めつけハラスメントがあった」という前提があればこそ、でしょう。
ですから、その前提をとらない人からしたら、「それは同じことだ」ということになりましょうから、「レイプ・セクハラされた方にも非がある」と同義であるとも言えるのかもしれない、と自分でも思うのです。
という前提認識があるので、その意味で、ちょちょんまげさんから
☆☆☆☆☆
簡単に言うならば「それが、あの時の真意だったのか。それならば、あの時の貴方のその発言は正気の沙汰とは思えない」
☆☆☆☆☆
と受けとられても、それは致し方ないと思っていますし、
そもそも僕は、自分の「リスペクト」発言は 社会の一般的な「ルール」から見れば、非難されても当然だろうと思っていますので、その意味からしても「正気の沙汰とは思えない」と思われても、それはそうだろうなぁと思っています。
ですので、そうした批判・非難は甘んじて受ける、と(あちらで)申し上げている次第です。
アキラ様
真摯なご回答ありがとうございます。
1については了解いたしました。
確かに、○郷力○さんのような、「悪辣(笑)」かつ、「腹黒(笑)」と言われるような方のトリッキーな言説に対峙したときにどう回答するかというのは、「論理派」、「共感派」の垣根を越え、全人類で対処すべき大問題かと思料いたします。
他の部分については、まだ頂戴していないご回答を待ちたいところでは、あるのですが、
>これは僕の中では、「レイプ・セクハラされた方にも非がある」という考え方とは、少し違うのではないかと思っているのです。
「誤解されるような服装や行動をしていた、レイプ・セクハラされた方にも非がある」というのとは、少し違うと思いませんか?
については、不同意です。
私にとって、ごん様や死ぬのは奴らだ様の行為は「一線を越えた」ものです。
そこがアキラ様と私の「仕切り」の違いになっているのかもしれません。
ですから、
>「反社会的行為」というのは「戦法、手法」として認識されるべきものだとお考えですか。
「言論活動に対するそれ以外の「実力行使」は真っ先に「戦法、手法」のカテゴリーに分類してはいけないものだと考えております。
(補足:「実力行使」を、言論のやりとりであるべき「場所」で、「戦法、手法」として視野に入れるべきでない)
という質問を立てています。
早い話が「口で言われたことに対して、ストーカーしたり、物理的ないやがらせしたりするのは違うんでないの?」ってことです。
で、アキラ様に本音を伺いたいのですが、仮に「両サイドに人格攻撃やハラスメントがあった」というアキラ様のご主張に乗ったとして、(アキラさんの反対サイドに立っていたと目される)ジャバさんや、gegengaさん、うちゃさんのような方々が(諸氏、お名前を出してすみません)「ごん」様のブログを一週間近くにわたって、同じことを繰り返しコピペして占拠したとしたら、アキラさんは、どのようにお感じになると思いますか?
「軽蔑」しませんか?
それとも「覚悟に対してリスペクト」なさいますか?
あるいは、私が受け続けた「人格攻撃」に対して釈明しろと「ごん」様のブログをほとんど意味の無いコピペで占拠したとしたら、アキラ様は「覚悟に対してリスペクト」してくださるのですか?
私は、上にお名前を挙げさせていただいた方々が同じ反社会行為をしたとしたら、100%軽蔑するでしょう。
また、自分自身を軽蔑することになるのが嫌ですから、私もまたそのような行為はいたしませんし、上記の皆様もまた同じだと思います。(勝手な読み込みによる決め付けですが)
で、しちゃう人がいたわけです、信じ難いことに。
もし、南郷さんがやったら凄いな(笑)
1については了解いたしました。
確かに、○郷力○さんのような、
他の部分については、まだ頂戴していないご回答を待ちたいところでは、あるのですが、
>これは僕の中では、「レイプ・セクハラされた方にも非がある」という考え方とは、少し違うのではないかと思っているのです。
「誤解されるような服装や行動をしていた、レイプ・セクハラされた方にも非がある」というのとは、少し違うと思いませんか?
については、不同意です。
私にとって、ごん様や死ぬのは奴らだ様の行為は「一線を越えた」ものです。
そこがアキラ様と私の「仕切り」の違いになっているのかもしれません。
ですから、
>「反社会的行為」というのは「戦法、手法」として認識されるべきものだとお考えですか。
「言論活動に対するそれ以外の「実力行使」は真っ先に「戦法、手法」のカテゴリーに分類してはいけないものだと考えております。
(補足:「実力行使」を、言論のやりとりであるべき「場所」で、「戦法、手法」として視野に入れるべきでない)
という質問を立てています。
早い話が「口で言われたことに対して、ストーカーしたり、物理的ないやがらせしたりするのは違うんでないの?」ってことです。
で、アキラ様に本音を伺いたいのですが、仮に「両サイドに人格攻撃やハラスメントがあった」というアキラ様のご主張に乗ったとして、(アキラさんの反対サイドに立っていたと目される)ジャバさんや、gegengaさん、うちゃさんのような方々が(諸氏、お名前を出してすみません)「ごん」様のブログを一週間近くにわたって、同じことを繰り返しコピペして占拠したとしたら、アキラさんは、どのようにお感じになると思いますか?
「軽蔑」しませんか?
それとも「覚悟に対してリスペクト」なさいますか?
あるいは、私が受け続けた「人格攻撃」に対して釈明しろと「ごん」様のブログをほとんど意味の無いコピペで占拠したとしたら、アキラ様は「覚悟に対してリスペクト」してくださるのですか?
私は、上にお名前を挙げさせていただいた方々が同じ反社会行為をしたとしたら、100%軽蔑するでしょう。
また、自分自身を軽蔑することになるのが嫌ですから、私もまたそのような行為はいたしませんし、上記の皆様もまた同じだと思います。(勝手な読み込みによる決め付けですが)
で、しちゃう人がいたわけです、信じ難いことに。
目には目を
殴った奴には殴り返していい。実際はともかくとして、例えとしてはありうる話ですね。例えば、私がぶいっちゃんやニケさんに言及する場合「殴った奴は殴られていい」を念頭に置いた表現を使います。
ところが「殴った奴」は殴ったつもりはない。殴られた方が「殴った」と思ってる。それに対して、両者が「殴った」と思う報復はありうるのか、少なくとも、最初に「自分は殴られた」ということを、認識させるのが先じゃないのかなと思うわけです。
例えば、いまだに二次加害まがいのことを言ってる奴がいる、だから、そいつを制裁する、そうじゃなくて、まずは二次加害であることを認識させるの。普通はそう考えるわけですね。
なので、理解力のない人って、ある意味無敵というトホホなことになるんですけど。
ところが「殴った奴」は殴ったつもりはない。殴られた方が「殴った」と思ってる。それに対して、両者が「殴った」と思う報復はありうるのか、少なくとも、最初に「自分は殴られた」ということを、認識させるのが先じゃないのかなと思うわけです。
例えば、いまだに二次加害まがいのことを言ってる奴がいる、だから、そいつを制裁する、そうじゃなくて、まずは二次加害であることを認識させるの。普通はそう考えるわけですね。
なので、理解力のない人って、ある意味無敵というトホホなことになるんですけど。
ちょちょんまげさん
☆☆☆☆☆
確かに、○郷力○さんのような、「悪辣(笑)」かつ、「腹黒(笑)」と言われるような方のトリッキーな言説に対峙したときにどう回答するかというのは、「論理派」、「共感派」の垣根を越え、全人類で対処すべき大問題かと思料いたします。
☆☆☆☆☆
でしょ? でしょ?
あ、いけない、人格攻撃をしてしまいました。m(_ _)m
☆☆☆☆☆
私にとって、ごん様や死ぬのは奴らだ様の行為は「一線を越えた」ものです。
そこがアキラ様と私の「仕切り」の違いになっているのかもしれません。
☆☆☆☆☆
そのようですね。
「3」についてのことに関連してくるように思われますが、僕は去年の騒動を振り返ってみると、まず『「言論のやりとりである」という認識』は共有されていなかったと考えます。
野球をしていた人たちには、当然それが「前提」だったんだろうと思いますが、サッカーをしていた人たちは別にそういう限定を感じていなかったんだろうと思う。
「想い」のやりとりだったんでは? と感じます。
全体的な事実としては、「言論のやりとり」だったのではなく、単なる「やりとり」だったと言った方が的確だと思われます。
ごめんなさい、先走りましたが、これに関しては「3」についてのお返事のときに補足したいと思っています。
そこを一応踏まえて言えば、「戦法、手法」としての「実力行使」はあり得る、起こり得ると、僕は思っています。
信じ難いことではありますが、しちゃう人は実際にいるわけですし、実際にいたわけです。
僕は 僕のこれまでの人生の経験から、それが人間という存在だと思っています。
で、僕自身だって通常では「自分はやらないだろう」と思っていますが、これまでいろいろな人を見てきた経験から、それに対しての100%の確信を 自分ですることが出来ません。
ある状況に追い込まれたら「やっちゃう」かもしれない。
アキラという人間は、そういうことを感じ 思っている「クソ野郎」だということです。
まぁ僕自身は、そういう存在が人間だと思ってはおりますが。
このように「思ってしまう」か「思わない」か、そこが僕とちょちょんまげさんとの大きな違いでしょうかね。
ですから僕は、最初から本音しか言っておりません。
僕の前提認識は、「勝手な読み込みによる決めつけ」ハラスメントもあった、セクハラもあった、単なる誹謗中傷も多々あった、長々とした経緯の中で、こういうことがもう絶対にほどけないってくらいに絡まり合ってしまっていた、しまっている、というものです。
で、セクハラも、単なる誹謗中傷も、ちゃんと認知され、批判・非難されていますが、「勝手な読み込みによる決めつけ」ハラスメントに関しては封殺され、いろいろな方がある意味「泣き寝入り」の状態にあった、また今もあると、僕は思っている。
これについては、多分やはり「3」に絡むと思うのですが、「想い」を「論理性・整合性」で封殺されてしまった、と言い換えてもいいのかもしれません。
反論が出ることが当然予想されますが、申し訳ないのですが、とりあえず「3」のときまで待っていただけますか?
そういう「封殺されて手も足も縛られちゃってる」ように感じられる状態が、もしもジャバさんやgegengaさん、うちゃさんのような方々にある・・という前提に立つならば、
彼らが例えば「ごん」さんのブログを一週間近くにわたって、同じことを繰り返しコピペして占拠「「してしまった」」としたら、僕はやはりその「自業自得の覚悟」にミメーシス(感応)を起こして「リスペクト」してしまうのではないかと思います。
ちょちょんまげさんに関しても同様です。
ちょちょんまげさんが、受け続けた「人格攻撃」ハラスメントに対して抗議をしているのだけれど、ごんさんに「そんなことはしていない、そんなものはなかった、そう読まれるお前が悪い、そう読まれるお前の責任だ」と封殺され続けている状況があるのだとすれば、僕はちょちょんまげさんの「実力行使」・「自業自得の覚悟」に、やはりミメーシス(感応)を起こして「リスペクト」してしまうのではないかと思います。
そういう前提認識・問題意識の差は、あるのかもしれません。
あと「クソ野郎」の差と。(困・泣・笑)
ですから、南郷力丸さんが「そうじゃなくて、まずは二次加害であることを認識させるの。普通はそう考えるわけですね」と仰ったりするのだと思います。
なお、このコメントに関しては、ちょちょんまげさんだけに向けたものとさせていただきます。
(南郷力丸さん、ごめんなさい)
確かに、○郷力○さんのような、「悪辣(笑)」かつ、「腹黒(笑)」と言われるような方のトリッキーな言説に対峙したときにどう回答するかというのは、「論理派」、「共感派」の垣根を越え、全人類で対処すべき大問題かと思料いたします。
☆☆☆☆☆
でしょ? でしょ?
あ、いけない、人格攻撃をしてしまいました。m(_ _)m
☆☆☆☆☆
私にとって、ごん様や死ぬのは奴らだ様の行為は「一線を越えた」ものです。
そこがアキラ様と私の「仕切り」の違いになっているのかもしれません。
☆☆☆☆☆
そのようですね。
「3」についてのことに関連してくるように思われますが、僕は去年の騒動を振り返ってみると、まず『「言論のやりとりである」という認識』は共有されていなかったと考えます。
野球をしていた人たちには、当然それが「前提」だったんだろうと思いますが、サッカーをしていた人たちは別にそういう限定を感じていなかったんだろうと思う。
「想い」のやりとりだったんでは? と感じます。
全体的な事実としては、「言論のやりとり」だったのではなく、単なる「やりとり」だったと言った方が的確だと思われます。
ごめんなさい、先走りましたが、これに関しては「3」についてのお返事のときに補足したいと思っています。
そこを一応踏まえて言えば、「戦法、手法」としての「実力行使」はあり得る、起こり得ると、僕は思っています。
信じ難いことではありますが、しちゃう人は実際にいるわけですし、実際にいたわけです。
僕は 僕のこれまでの人生の経験から、それが人間という存在だと思っています。
で、僕自身だって通常では「自分はやらないだろう」と思っていますが、これまでいろいろな人を見てきた経験から、それに対しての100%の確信を 自分ですることが出来ません。
ある状況に追い込まれたら「やっちゃう」かもしれない。
アキラという人間は、そういうことを感じ 思っている「クソ野郎」だということです。
まぁ僕自身は、そういう存在が人間だと思ってはおりますが。
このように「思ってしまう」か「思わない」か、そこが僕とちょちょんまげさんとの大きな違いでしょうかね。
ですから僕は、最初から本音しか言っておりません。
僕の前提認識は、「勝手な読み込みによる決めつけ」ハラスメントもあった、セクハラもあった、単なる誹謗中傷も多々あった、長々とした経緯の中で、こういうことがもう絶対にほどけないってくらいに絡まり合ってしまっていた、しまっている、というものです。
で、セクハラも、単なる誹謗中傷も、ちゃんと認知され、批判・非難されていますが、「勝手な読み込みによる決めつけ」ハラスメントに関しては封殺され、いろいろな方がある意味「泣き寝入り」の状態にあった、また今もあると、僕は思っている。
これについては、多分やはり「3」に絡むと思うのですが、「想い」を「論理性・整合性」で封殺されてしまった、と言い換えてもいいのかもしれません。
反論が出ることが当然予想されますが、申し訳ないのですが、とりあえず「3」のときまで待っていただけますか?
そういう「封殺されて手も足も縛られちゃってる」ように感じられる状態が、もしもジャバさんやgegengaさん、うちゃさんのような方々にある・・という前提に立つならば、
彼らが例えば「ごん」さんのブログを一週間近くにわたって、同じことを繰り返しコピペして占拠「「してしまった」」としたら、僕はやはりその「自業自得の覚悟」にミメーシス(感応)を起こして「リスペクト」してしまうのではないかと思います。
ちょちょんまげさんに関しても同様です。
ちょちょんまげさんが、受け続けた「人格攻撃」ハラスメントに対して抗議をしているのだけれど、ごんさんに「そんなことはしていない、そんなものはなかった、そう読まれるお前が悪い、そう読まれるお前の責任だ」と封殺され続けている状況があるのだとすれば、僕はちょちょんまげさんの「実力行使」・「自業自得の覚悟」に、やはりミメーシス(感応)を起こして「リスペクト」してしまうのではないかと思います。
そういう前提認識・問題意識の差は、あるのかもしれません。
あと「クソ野郎」の差と。(困・泣・笑)
ですから、南郷力丸さんが「そうじゃなくて、まずは二次加害であることを認識させるの。普通はそう考えるわけですね」と仰ったりするのだと思います。
なお、このコメントに関しては、ちょちょんまげさんだけに向けたものとさせていただきます。
(南郷力丸さん、ごめんなさい)
すみませんがまた横から
>彼らが例えば「ごん」さんのブログを一週間近くにわたって、同じことを繰り返しコピペして占拠「「してしまった」」としたら、僕はやはりその「自業自得の覚悟」にミメーシス(感応)を起こして「リスペクト」してしまうのではないかと思います。
ごめん、それはやめて。もし私がそういうことしたら、全力で蹴り入れて欲しい。リスペクトはしないでくれ。惨めになるから。
ごめん、それはやめて。もし私がそういうことしたら、全力で蹴り入れて欲しい。リスペクトはしないでくれ。惨めになるから。
話は変わって
今では、善良さと、その善良さから来る率直さを装ってしか自己表現できない人を可哀想だとすら思っています。
↑え?
私のことですか?
アキラ様
とりあえず、詳細については3へのお返事を待ちたいと思います。
>「リスペクト」してしまう
が強弁でないのなら、それはそれでしようがないですね。
ただ、
>ある状況に追い込まれたら「やっちゃう」かもしれない。
そういう「ある状況」を考えるほどの状況だったんでしょうか、そもそも。
そりゃ、私だってカルネアデスの板みたいな極端な状態だったら、まず間違いなく相手突き落としちゃうでしょうし、あんまり頭にきたら手が出ちゃうことがゼロだとはいいません。(んなこと言える人いないでしょう)
そういう状況だったかそうじゃなかったかという「しきい」ももちろん人に寄るのでしょうが、そういうお得意の相対主義引っ張ってくるほどの状況だったとは思えませんが。
瓶の中に酒が1/3しかない」と考えるか「1/3もある」と考えるかみたいな話かもしれませんが、
>それが人間という存在だと思っています。
は、「ある状況だったら反社会行為もしちゃうかも」と考えるよりは、「極力せんようにする」と考える、だと思うんですけどね。
で、手をだしちゃったらノーエクスキューズだと思いますが。(で、周囲もその行為に対してはエクスキューズを許してはいけないと思います)
で、やはり「相田みつを」かなんかお好きでいらっしゃる?
>「リスペクト」してしまう
が強弁でないのなら、それはそれでしようがないですね。
ただ、
>ある状況に追い込まれたら「やっちゃう」かもしれない。
そういう「ある状況」を考えるほどの状況だったんでしょうか、そもそも。
そりゃ、私だってカルネアデスの板みたいな極端な状態だったら、まず間違いなく相手突き落としちゃうでしょうし、あんまり頭にきたら手が出ちゃうことがゼロだとはいいません。(んなこと言える人いないでしょう)
そういう状況だったかそうじゃなかったかという「しきい」ももちろん人に寄るのでしょうが、そういうお得意の相対主義引っ張ってくるほどの状況だったとは思えませんが。
瓶の中に酒が1/3しかない」と考えるか「1/3もある」と考えるかみたいな話かもしれませんが、
>それが人間という存在だと思っています。
は、「ある状況だったら反社会行為もしちゃうかも」と考えるよりは、「極力せんようにする」と考える、だと思うんですけどね。
で、手をだしちゃったらノーエクスキューズだと思いますが。(で、周囲もその行為に対してはエクスキューズを許してはいけないと思います)
で、やはり「相田みつを」かなんかお好きでいらっしゃる?
お返事
>うちゃさん
はい。
そもそも僕の言う「リスペクト」は、しようと思ってするものではなく、「してしまう」ものですし。
また、僕は、うちゃさんがそのような「実力行使」をしてしまうなんて、万が一にもないだろうと思っていますし、また僕のような「クソ野郎」が、うちゃさんの行為をあれこれ言うこと自体が、うちゃさんにとっては惨めなことでしょうから、うちゃさんの行為について言及することは避けると思います。
>ちょちょんまげさん
すべての人についての『そういう状況だったかそうじゃなかったかという「しきい」』を、ちょちょんまげさんが決められる身分か、そういう絶対的権力をお持ちであるかするというのであれば、ちょちょんまげさんの仰っていることは非常に説得力があると思います。
☆☆☆☆☆
で、手をだしちゃったらノーエクスキューズだと思いますが。(で、周囲もその行為に対してはエクスキューズを許してはいけないと思います)
☆☆☆☆☆
そう考える人がいてもいいとは思っていますが、しかし僕は、そのような感覚?考え方?には賛同しません。
モラハラの被害者Bが、執拗なモラハラ加害者Aに対して 何らかの拍子に傷害事件を起こしてしまったといった場合に、Bの言い分は聞く必要はない、エクスキューズを許してはいけないということと、僕には同義の意見のように感じられるからです。
はい。
そもそも僕の言う「リスペクト」は、しようと思ってするものではなく、「してしまう」ものですし。
また、僕は、うちゃさんがそのような「実力行使」をしてしまうなんて、万が一にもないだろうと思っていますし、また僕のような「クソ野郎」が、うちゃさんの行為をあれこれ言うこと自体が、うちゃさんにとっては惨めなことでしょうから、うちゃさんの行為について言及することは避けると思います。
>ちょちょんまげさん
すべての人についての『そういう状況だったかそうじゃなかったかという「しきい」』を、ちょちょんまげさんが決められる身分か、そういう絶対的権力をお持ちであるかするというのであれば、ちょちょんまげさんの仰っていることは非常に説得力があると思います。
☆☆☆☆☆
で、手をだしちゃったらノーエクスキューズだと思いますが。(で、周囲もその行為に対してはエクスキューズを許してはいけないと思います)
☆☆☆☆☆
そう考える人がいてもいいとは思っていますが、しかし僕は、そのような感覚?考え方?には賛同しません。
モラハラの被害者Bが、執拗なモラハラ加害者Aに対して 何らかの拍子に傷害事件を起こしてしまったといった場合に、Bの言い分は聞く必要はない、エクスキューズを許してはいけないということと、僕には同義の意見のように感じられるからです。
「3」について #1
では、「3」について、です。
もうすでに、理解していただけない気がしていますが。。。
それはそれとして。。。
こちらの出した比喩(スポーツうんぬん)について、一方的に付き合わせてしまっていて、申し訳ありません。
けれど、お互いの理解のツールになり得ると思っていますので、最終的に同意できないかもしれませんが、とりあえず理解のツールとして、引き続き 使わせてください。
☆☆☆☆☆
そもそも「スポーツには野球だろうとサッカーだろうとルールが存在する」を軽視するかしないかの話に思えるんですがね。
☆☆☆☆☆
僕が「スポーツ・野球・サッカー」の例えを出したのは、スポーツとひと括りに認識しがちなんだけれども、実は「競技」によって それぞれルールが異なるんだ、ということを、ちょちょんまげさんのコメントからインスパイアされて、再認識したからなんです。
スポーツには変わりはないんだけれど、野球には野球独特のルールがあり、サッカーにはサッカー独特のルールがある。
そこを「スポーツ」とひと括りにしてしまうと、それぞれが違うルールで「スポーツ」をしていることになってしまうので、齟齬が起こってくるんだと思うのです。
2点、ポイントがあると思われます。
1つは「議論してる」のかどうか、ということです。
「議論」というと、僕とちょちょんまげさんとは、おそらく似たようなイメージを持っていると思うんです。
「議論」には、数々の前提条件が欠かせないでしょう。
基礎的な語彙や概念についての定義や その分野の基礎知識などを、きちんと共有している必要がありますし、もちろん論理性・整合性が求められます。
アカデミックな「議論」が典型的ですが、ですからこれは「ここはそのような特定の場である」という認識が、参加者すべてに求められるわけです。
しかし残念ながら、ネット上の「やりとり」では、そういうイメージを常に参加者みんなが共有するということが難しい。
これは、誰でも口出しできてしまうという、ネット上でのやりとりのある種の限界だと、僕は感じています。
議論しているように見えながらも、それは結局 単なる「やりとり」にすぎない。
もう一つは、僕が「想い」と表現していることです。
すみません、これは明らかに「アキラ語」です。(^_^;)
ちょちょんまげさんも「思い」と「想い」を並列で書いてくださったりしていますから、この二つが少し違うニュアンスだと理解していただけていると思っています。
しかし、ここではどういうもんだか説明してみる必要がありますね。
僕が「想い」と表現したくなるようなものというのは、この胸の内にこんなにしっかりとあるというのに、どうしてもうまく言葉にできないもの、みたいな感じのものです。
一生懸命言葉にしてみるのだけれども、それは、どう言い表してみても「ここにこんなにしっかりとある想い」からは乖離している。
どうしても違うものになってしまう。
伝えたいんだけど、言い表した言葉では言い表せないことってことが分かっている、みたいな。
そこは自覚があるにせよ、無自覚であるにせよ 前提にあって、そこで、一応体裁が整ったふうな言葉にはしてあるんだけど、「分かってくれよ」と相手の共感能力や認識能力に依存するような「におい」のするものになる。
南郷力丸さんが仰ってた「PINGコミュニケーション」は、この類のものになるでしょうね。
ある種甘えたような相手依存の出し方しか出来なくなってしまうわけですが、「言葉で言い表すとウソになってしまう」んだから しょうがない。
南郷力丸さんの『PING言論』記事のコメント欄で、僕が言っている
☆☆☆☆☆
「意識できている」レベルにしたって、テクストとして書かれていることと 実際に言いたいこと(言わんとしていること)とは違う、ということは出てきますよね。
☆☆☆☆☆
というのは、この「想い」ルールの類のことを言っている、と言えましょう。
もうすでに、理解していただけない気がしていますが。。。
それはそれとして。。。
こちらの出した比喩(スポーツうんぬん)について、一方的に付き合わせてしまっていて、申し訳ありません。
けれど、お互いの理解のツールになり得ると思っていますので、最終的に同意できないかもしれませんが、とりあえず理解のツールとして、引き続き 使わせてください。
☆☆☆☆☆
そもそも「スポーツには野球だろうとサッカーだろうとルールが存在する」を軽視するかしないかの話に思えるんですがね。
☆☆☆☆☆
僕が「スポーツ・野球・サッカー」の例えを出したのは、スポーツとひと括りに認識しがちなんだけれども、実は「競技」によって それぞれルールが異なるんだ、ということを、ちょちょんまげさんのコメントからインスパイアされて、再認識したからなんです。
スポーツには変わりはないんだけれど、野球には野球独特のルールがあり、サッカーにはサッカー独特のルールがある。
そこを「スポーツ」とひと括りにしてしまうと、それぞれが違うルールで「スポーツ」をしていることになってしまうので、齟齬が起こってくるんだと思うのです。
2点、ポイントがあると思われます。
1つは「議論してる」のかどうか、ということです。
「議論」というと、僕とちょちょんまげさんとは、おそらく似たようなイメージを持っていると思うんです。
「議論」には、数々の前提条件が欠かせないでしょう。
基礎的な語彙や概念についての定義や その分野の基礎知識などを、きちんと共有している必要がありますし、もちろん論理性・整合性が求められます。
アカデミックな「議論」が典型的ですが、ですからこれは「ここはそのような特定の場である」という認識が、参加者すべてに求められるわけです。
しかし残念ながら、ネット上の「やりとり」では、そういうイメージを常に参加者みんなが共有するということが難しい。
これは、誰でも口出しできてしまうという、ネット上でのやりとりのある種の限界だと、僕は感じています。
議論しているように見えながらも、それは結局 単なる「やりとり」にすぎない。
もう一つは、僕が「想い」と表現していることです。
すみません、これは明らかに「アキラ語」です。(^_^;)
ちょちょんまげさんも「思い」と「想い」を並列で書いてくださったりしていますから、この二つが少し違うニュアンスだと理解していただけていると思っています。
しかし、ここではどういうもんだか説明してみる必要がありますね。
僕が「想い」と表現したくなるようなものというのは、この胸の内にこんなにしっかりとあるというのに、どうしてもうまく言葉にできないもの、みたいな感じのものです。
一生懸命言葉にしてみるのだけれども、それは、どう言い表してみても「ここにこんなにしっかりとある想い」からは乖離している。
どうしても違うものになってしまう。
伝えたいんだけど、言い表した言葉では言い表せないことってことが分かっている、みたいな。
そこは自覚があるにせよ、無自覚であるにせよ 前提にあって、そこで、一応体裁が整ったふうな言葉にはしてあるんだけど、「分かってくれよ」と相手の共感能力や認識能力に依存するような「におい」のするものになる。
南郷力丸さんが仰ってた「PINGコミュニケーション」は、この類のものになるでしょうね。
ある種甘えたような相手依存の出し方しか出来なくなってしまうわけですが、「言葉で言い表すとウソになってしまう」んだから しょうがない。
南郷力丸さんの『PING言論』記事のコメント欄で、僕が言っている
☆☆☆☆☆
「意識できている」レベルにしたって、テクストとして書かれていることと 実際に言いたいこと(言わんとしていること)とは違う、ということは出てきますよね。
☆☆☆☆☆
というのは、この「想い」ルールの類のことを言っている、と言えましょう。
「3」について #2
で、「説得力と納得力」といった場合に、「論理性・整合性」ルールの説得力・納得力と、「想い」ルールの説得力・納得力とがあって、それらは一緒にできない、違うものだなぁと、今回気がついたわけです。
僕は基本的に、サッカーをする「想い」ルール派、「PINGコミュニケーション」派です。
ですからスポーツ(コミュニケーション)をする場合には、基本「想い」ルールでやります。
ところが、それだけでは「やりとり」が成り立たない場合も多いので、論理的に整合性があるようには工夫しているつもりです。
今回、ちょちょんまげさんが
「論理が破綻しないよう議論のルールを守ろうとする人とは話が噛み合うわけがないと思うのですがいかがでしょう」
と仰っているのを読んで改めて感じたのは、ちょちょんまげさんは、基本的に野球・「論理性・整合性」ルールの人なんだなぁ、ということです。
だから、スポーツ(コミュニケーション)というと、パッと「論理性・整合性」ルールを想像するんだろうし、僕はパッと「想い」ルールを想像する。
僕とちょちょんまげさんだと、お互いがお互いへの認識がないときに、「だってスポーツだろ!」って話になったら、僕は「想い」ルールを前提にしているし、ちょちょんまげさんは「論理性・整合性」ルールを前提にしているって事態になっちゃうんだろうと思います。
こういう視点で見てみると、ごんさんなどは完璧に「想い」ルール(オンリー?)の人ですし、愚樵さんも「想い」ルールの人です。
ちょちょんまげさんが仰るように、愚樵さんのネックは「論理性・整合性」ルールでプレイしているように見えたりする、というところだと思います。
これは僕個人の勝手な意見ですが。
基本的に「想い」ルールでプレイしている、例えば僕のような人間にとっては、そこはまったく問題にならないのですが、例えばちょちょんまげさんのように、基本的に「論理性・整合性」ルールでプレイする人たちにとっては、非常に問題が多く見えるし、実際問題 困ってしまったり、あきれ返ってしまったり、ということになるのだろうと思う。
敢えて危険を冒して「勝手な読み込み」をしてみると、ちょちょんまげさんは「論理性・整合性」ルール派で、「想い」ルールが理解できない。
僕は「想い」ルールも「論理性・整合性」ルールも理解できるけれども、「想い」ルール派。
南郷力丸さんは「想い」ルールも「論理性・整合性」ルールも理解できるけれども(多分)、「論理性・整合性」ルール派。
などと言えるのではないかと、想像します。(^_^;)
また、南郷力丸さんの『PING理論』記事での表現を僕の例えに代入してみると、野球・「論理性・整合性」ルールでは「自分はこう考える」論になり、サッカー・「想い」ルールでは「自分はどうだ」論になる、ということになりそうですね。
だからこそ、これらがそれぞれ違うルールのもとに行われている「競技」だという認識がないと、
☆☆☆☆☆
「自分がどうだ」論というのは、「自分がこう考える」論と時としてグダグダになってしまってるんですね。
☆☆☆☆☆
ということになるように、僕には感じられます。
パッと思い浮かんだところで言ってますから、もっといろいろな「新体操・ルール」とか「カーリング・ルール」とか、また違うルールもありそうなのですが・・・。
僕としては、ポイントは、
☆☆☆☆☆
言論の場に見せたPING言論の場(あるいは、単なるお花畑)にすぎなかった」ことを見抜けなかったことではないか
☆☆☆☆☆
と ちょちょんまげさんが仰ってたあたりになるのではないか、と思っています。
もちろん、すべての人におけるポイントは、という意味で。
見抜くことができれば、「違うな」ということが分かれば、野球の場では野球のルールでプレイする、サッカーの場ではサッカーのルールでプレイする、あるいは初めから敬遠・スルーするということをやればいいことですし、見抜けないとなると、僕が先に記したように、
☆☆☆☆☆
よって、その上でなおかつやりとりをしようということになるのであれば、お互いが共通前提とできるような「物差し(前提)」を探して歩み寄って、あるいはそれぞれがどういうことを「自身の物差し」としているかを お互いが認識し合って、お互いがそこを前提とすると了解した上でやりとりが進んでいかないと、どうにも噛まない・・ということになるのだと思います。
☆☆☆☆☆
というようなことを、地道にやっていく必要があるように思うのです。
以上。
僕は基本的に、サッカーをする「想い」ルール派、「PINGコミュニケーション」派です。
ですからスポーツ(コミュニケーション)をする場合には、基本「想い」ルールでやります。
ところが、それだけでは「やりとり」が成り立たない場合も多いので、論理的に整合性があるようには工夫しているつもりです。
今回、ちょちょんまげさんが
「論理が破綻しないよう議論のルールを守ろうとする人とは話が噛み合うわけがないと思うのですがいかがでしょう」
と仰っているのを読んで改めて感じたのは、ちょちょんまげさんは、基本的に野球・「論理性・整合性」ルールの人なんだなぁ、ということです。
だから、スポーツ(コミュニケーション)というと、パッと「論理性・整合性」ルールを想像するんだろうし、僕はパッと「想い」ルールを想像する。
僕とちょちょんまげさんだと、お互いがお互いへの認識がないときに、「だってスポーツだろ!」って話になったら、僕は「想い」ルールを前提にしているし、ちょちょんまげさんは「論理性・整合性」ルールを前提にしているって事態になっちゃうんだろうと思います。
こういう視点で見てみると、ごんさんなどは完璧に「想い」ルール(オンリー?)の人ですし、愚樵さんも「想い」ルールの人です。
ちょちょんまげさんが仰るように、愚樵さんのネックは「論理性・整合性」ルールでプレイしているように見えたりする、というところだと思います。
これは僕個人の勝手な意見ですが。
基本的に「想い」ルールでプレイしている、例えば僕のような人間にとっては、そこはまったく問題にならないのですが、例えばちょちょんまげさんのように、基本的に「論理性・整合性」ルールでプレイする人たちにとっては、非常に問題が多く見えるし、実際問題 困ってしまったり、あきれ返ってしまったり、ということになるのだろうと思う。
敢えて危険を冒して「勝手な読み込み」をしてみると、ちょちょんまげさんは「論理性・整合性」ルール派で、「想い」ルールが理解できない。
僕は「想い」ルールも「論理性・整合性」ルールも理解できるけれども、「想い」ルール派。
南郷力丸さんは「想い」ルールも「論理性・整合性」ルールも理解できるけれども(多分)、「論理性・整合性」ルール派。
などと言えるのではないかと、想像します。(^_^;)
また、南郷力丸さんの『PING理論』記事での表現を僕の例えに代入してみると、野球・「論理性・整合性」ルールでは「自分はこう考える」論になり、サッカー・「想い」ルールでは「自分はどうだ」論になる、ということになりそうですね。
だからこそ、これらがそれぞれ違うルールのもとに行われている「競技」だという認識がないと、
☆☆☆☆☆
「自分がどうだ」論というのは、「自分がこう考える」論と時としてグダグダになってしまってるんですね。
☆☆☆☆☆
ということになるように、僕には感じられます。
パッと思い浮かんだところで言ってますから、もっといろいろな「新体操・ルール」とか「カーリング・ルール」とか、また違うルールもありそうなのですが・・・。
僕としては、ポイントは、
☆☆☆☆☆
言論の場に見せたPING言論の場(あるいは、単なるお花畑)にすぎなかった」ことを見抜けなかったことではないか
☆☆☆☆☆
と ちょちょんまげさんが仰ってたあたりになるのではないか、と思っています。
もちろん、すべての人におけるポイントは、という意味で。
見抜くことができれば、「違うな」ということが分かれば、野球の場では野球のルールでプレイする、サッカーの場ではサッカーのルールでプレイする、あるいは初めから敬遠・スルーするということをやればいいことですし、見抜けないとなると、僕が先に記したように、
☆☆☆☆☆
よって、その上でなおかつやりとりをしようということになるのであれば、お互いが共通前提とできるような「物差し(前提)」を探して歩み寄って、あるいはそれぞれがどういうことを「自身の物差し」としているかを お互いが認識し合って、お互いがそこを前提とすると了解した上でやりとりが進んでいかないと、どうにも噛まない・・ということになるのだと思います。
☆☆☆☆☆
というようなことを、地道にやっていく必要があるように思うのです。
以上。
アキラ様
レスをありがとうございました。
1.
>すべての人についての『そういう状況だったかそうじゃなかったかという「しきい」』を、ちょちょんまげさんが決められる身分か、そういう絶対的権力をお持ちであるかするというのであれば、ちょちょんまげさんの仰っていることは非常に説得力があると思います。
これは、「印象操作」ってやつでしょう。
ご主張の内容は「しきいは人によって違う」で済むことですから、他の長々とした部分は不要のはず。
そして、「私は自分が決められるなどと言っていない」とでも言えば、「ぼくも貴方が言ったなどとは書いてない」と返せるように抜け道が用意してあるのですね。
で、意見としては間違っていませんから、私には反論不能。
よって、私があたかも「私が権力である」と発言した、あるいはそう思うような「傲慢な人間である」という印象だけ残るような書き方ですね。
2.
>モラハラの被害者Bが、執拗なモラハラ加害者Aに対して 何らかの拍子に傷害事件を起こしてしまったといった場合に、Bの言い分は聞く必要はない、エクスキューズを許してはいけないということと、僕には同義の意見のように感じられるからです。
と、こういう極端な例を持ち出してこられるのですね。
私にはすでに、「緊急避難」や「あんまり頭きちゃったら」という例をあげ、「そういうこと(手を出しちゃうようなこと)はありえる」と言っているわけですが?
その上で、「口で言い合うレベル」であるなら「手を出しちゃったらノーエクスキューズ」だと言っています。
またこの例は、「一方的ハラスメント」の場合ですね。
で、アキラ様は今回話題になっていた話については、「双方」とおっしゃっていたはず。
で、アキラ様と私の念頭にあったのは「今回のお話」ですよね?
ですから、例としても駄目なんじゃないですか。
3.まず、私の、
>「言論の場に見せたPING言論の場(あるいは、単なるお花畑)」
を、
>自分が発しているものが単なる信号であると認識できておらず、自分がしていることが「言論」であると誤認識している人が集まった場所
ぐらいに修正してください。
お手数をかけてもうしわけありません。
で、アキラ様のおっしゃる「サッカー場」は私の認識では上記のようなものになります。
そして、アキラ様がおっしゃる「違うルールで行われている競技」と私のいう「単なる本人たちの誤認識」は見分けがつかないと思います。(その人たちの内面を他人である私たちが分かるわけないですし、また、「野球である」と認識して「サッカー」をやっていた場合は、それは当人たちにとっては「野球」でしょう。)
自分でもわかり難いと思うので、書き直しますと。
・アキラ様認識:「想いルールでプレイしている」
・ちょちょんまげ認識:「論理ルールでプレイしていると思っているが、想いルールが、混じる。だが、本人たちは気がついていない(ことが多い)。(混じる割合はケースバイケース。戦況不利になると特に割合が増える。もちろん自覚は無い(ことが多い)。指摘されると、怒る)」
(って、長くなっちゃったんですけど、更に短縮すると、「想いルール」という認識をはっきりとしている人は非常に少数で、大抵は「基本論理ルール」だと思ってる、けど、はずしてる、ですな)
この二つの認識についてどちらが正しいと誰が判断できるのでしょう?
私は、「水伝信者」のブログを示して「私がいくらバカだって「PING言論」だってことはわかるわけですね」と書きましたが、実は私が間違っている可能性は充分高いわけです。
それらのブログ主が物凄く論理的な人であるかもしれません。
むろん、そうは見えないわけですけれども。
4.文脈からすると、
>そこは自覚があるにせよ、無自覚であるにせよ 前提にあって、そこで、一応体裁が整ったふうな言葉にはしてあるんだけど、「分かってくれよ」と相手の共感能力や認識能力に依存するような「におい」のするものになる。
ある種甘えたような相手依存の出し方しか出来なくなってしまうわけですが、「言葉で言い表すとウソになってしまう」んだから しょうがない。
「想いルール」において「読み込み」は禁じ手ではないように見え(それどころか、書き手が読み込みを期待している)、かつ、アキラ様は「想いルール派」でいらっしゃるとお書きになっていることからして、それを支持していると読んで間違いないですよね?
しかし、一方「書いてないことは書いてない」派であるとも自称なさっている。
した場合に、「書いてないことは書いてない」を下敷きにした「勝手な読み込みによる決めつけ」批判は、上記とは矛盾する(かつダブルスタンダード)ように考えますがいかがですか?(少なくとも「勝手な読み込みによる決めつけ」が起きるような方法論を支持しているように見えます)
想いルールにおける「他者による読み込み」が常に正しいなどという保障は全く無いと思いますが。
5.前掲した、「ごん様」の文章は、私には「論理性・整合性ルール」で試合を挑んできているようにしか見えません。
この文章は、「書いてあることだけ」読むべきなのでしょうか?
それとも「読み込む」べきなのでしょうか?
また、そのご判断の根拠は?
非常に興味があるので(これから、私が「想いルール」を理解するための一助となるかもしれません)ご教授くださいませ。
ちなみに、書いてあることだけ読むと、
1.文章全体が私及び特定の誰かに極めて攻撃的である。
2.人格攻撃が散りばめてある
3.自分の心は美しいと言っている
4.ありとあらゆる「科学」への偏見があって、そして全て間違っている
5.自分の価値観は全てに優先すると言いたい(あ、想いか、これは)
ぐらいにしか読めませんが、私の読み正しいですか?
6.私はアキラ様との「議論の前提」を、「ごん様の行為が反社会的である」という共通認識を持てる、というぐらいのところに設定していたわけで、この話の前段からそれが誤っていたとは思えず、また、「世間一般の話」をしているときに、「極端な相対主義を持ち出さない」ぐらいは暗黙の了解になっていたと思うのですが、アキラ様のご前提と隔絶がありますか?
1.
>すべての人についての『そういう状況だったかそうじゃなかったかという「しきい」』を、ちょちょんまげさんが決められる身分か、そういう絶対的権力をお持ちであるかするというのであれば、ちょちょんまげさんの仰っていることは非常に説得力があると思います。
これは、「印象操作」ってやつでしょう。
ご主張の内容は「しきいは人によって違う」で済むことですから、他の長々とした部分は不要のはず。
そして、「私は自分が決められるなどと言っていない」とでも言えば、「ぼくも貴方が言ったなどとは書いてない」と返せるように抜け道が用意してあるのですね。
で、意見としては間違っていませんから、私には反論不能。
よって、私があたかも「私が権力である」と発言した、あるいはそう思うような「傲慢な人間である」という印象だけ残るような書き方ですね。
2.
>モラハラの被害者Bが、執拗なモラハラ加害者Aに対して 何らかの拍子に傷害事件を起こしてしまったといった場合に、Bの言い分は聞く必要はない、エクスキューズを許してはいけないということと、僕には同義の意見のように感じられるからです。
と、こういう極端な例を持ち出してこられるのですね。
私にはすでに、「緊急避難」や「あんまり頭きちゃったら」という例をあげ、「そういうこと(手を出しちゃうようなこと)はありえる」と言っているわけですが?
その上で、「口で言い合うレベル」であるなら「手を出しちゃったらノーエクスキューズ」だと言っています。
またこの例は、「一方的ハラスメント」の場合ですね。
で、アキラ様は今回話題になっていた話については、「双方」とおっしゃっていたはず。
で、アキラ様と私の念頭にあったのは「今回のお話」ですよね?
ですから、例としても駄目なんじゃないですか。
3.まず、私の、
>「言論の場に見せたPING言論の場(あるいは、単なるお花畑)」
を、
>自分が発しているものが単なる信号であると認識できておらず、自分がしていることが「言論」であると誤認識している人が集まった場所
ぐらいに修正してください。
お手数をかけてもうしわけありません。
で、アキラ様のおっしゃる「サッカー場」は私の認識では上記のようなものになります。
そして、アキラ様がおっしゃる「違うルールで行われている競技」と私のいう「単なる本人たちの誤認識」は見分けがつかないと思います。(その人たちの内面を他人である私たちが分かるわけないですし、また、「野球である」と認識して「サッカー」をやっていた場合は、それは当人たちにとっては「野球」でしょう。)
自分でもわかり難いと思うので、書き直しますと。
・アキラ様認識:「想いルールでプレイしている」
・ちょちょんまげ認識:「論理ルールでプレイしていると思っているが、想いルールが、混じる。だが、本人たちは気がついていない(ことが多い)。(混じる割合はケースバイケース。戦況不利になると特に割合が増える。もちろん自覚は無い(ことが多い)。指摘されると、怒る)」
(って、長くなっちゃったんですけど、更に短縮すると、「想いルール」という認識をはっきりとしている人は非常に少数で、大抵は「基本論理ルール」だと思ってる、けど、はずしてる、ですな)
この二つの認識についてどちらが正しいと誰が判断できるのでしょう?
私は、「水伝信者」のブログを示して「私がいくらバカだって「PING言論」だってことはわかるわけですね」と書きましたが、実は私が間違っている可能性は充分高いわけです。
それらのブログ主が物凄く論理的な人であるかもしれません。
むろん、そうは見えないわけですけれども。
4.文脈からすると、
>そこは自覚があるにせよ、無自覚であるにせよ 前提にあって、そこで、一応体裁が整ったふうな言葉にはしてあるんだけど、「分かってくれよ」と相手の共感能力や認識能力に依存するような「におい」のするものになる。
ある種甘えたような相手依存の出し方しか出来なくなってしまうわけですが、「言葉で言い表すとウソになってしまう」んだから しょうがない。
「想いルール」において「読み込み」は禁じ手ではないように見え(それどころか、書き手が読み込みを期待している)、かつ、アキラ様は「想いルール派」でいらっしゃるとお書きになっていることからして、それを支持していると読んで間違いないですよね?
しかし、一方「書いてないことは書いてない」派であるとも自称なさっている。
した場合に、「書いてないことは書いてない」を下敷きにした「勝手な読み込みによる決めつけ」批判は、上記とは矛盾する(かつダブルスタンダード)ように考えますがいかがですか?(少なくとも「勝手な読み込みによる決めつけ」が起きるような方法論を支持しているように見えます)
想いルールにおける「他者による読み込み」が常に正しいなどという保障は全く無いと思いますが。
5.前掲した、「ごん様」の文章は、私には「論理性・整合性ルール」で試合を挑んできているようにしか見えません。
この文章は、「書いてあることだけ」読むべきなのでしょうか?
それとも「読み込む」べきなのでしょうか?
また、そのご判断の根拠は?
非常に興味があるので(これから、私が「想いルール」を理解するための一助となるかもしれません)ご教授くださいませ。
ちなみに、書いてあることだけ読むと、
1.文章全体が私及び特定の誰かに極めて攻撃的である。
2.人格攻撃が散りばめてある
3.自分の心は美しいと言っている
4.ありとあらゆる「科学」への偏見があって、そして全て間違っている
5.自分の価値観は全てに優先すると言いたい(あ、想いか、これは)
ぐらいにしか読めませんが、私の読み正しいですか?
6.私はアキラ様との「議論の前提」を、「ごん様の行為が反社会的である」という共通認識を持てる、というぐらいのところに設定していたわけで、この話の前段からそれが誤っていたとは思えず、また、「世間一般の話」をしているときに、「極端な相対主義を持ち出さない」ぐらいは暗黙の了解になっていたと思うのですが、アキラ様のご前提と隔絶がありますか?
ちょちょんまげさん #1
1、
僕の発言が印象操作だろうという意見については、申し訳ない、そのようなつもりではなかったんです。
そこはお詫びしておきます。
しかし、「しきいは人によって違う」で済む話なのであれば、僕のコメントの手前のちょちょんまげさんのコメントでの、程度問題を取り上げている部分がそもそも不要だと僕には思われます。
そこに反応した発言だったんです。
すみません、言い方を変えてみます。
ちょっといつも気になっていることなのですが、ちょちょんまげさんは、何かというと(自分の「しきい」を基にした)程度問題を わりと気楽に出してくるように僕には感じられるのですが、それについては十分に自覚されてますか?
僕自身、そのようなものを完全否定するわけではないのですが、よほど慎重に自覚し、発言するなら敢えて発言するということをやっていかないと、少々危険なもののように感じられるのです。
☆☆☆☆☆
そういう「ある状況」を考えるほどの状況だったんでしょうか、そもそも。
・・・・・・・・・・・・・・
そういう状況だったかそうじゃなかったかという「しきい」ももちろん人に寄るのでしょうが、そういうお得意の相対主義引っ張ってくるほどの状況だったとは思えませんが。
☆☆☆☆☆
こういう感じは、「それくらいで騒ぎ立てるのはおかしい」「そんな程度でギャーギャー言うな」といった、ハラスメントを封殺するときの粗雑な常套的感性に、うっかりすると容易に移行していってしまうようなものに 僕にはどうしても感じられてしまうのです。
このあたりは感覚差だろうと思います。
僕とちょちょんまげさんとでは、相当ものごとへの感覚が違うようですから。
僕自身は、先に出したモラハラの例なども含めて、これらは一直線上のものだと思っています。
特にハラスメントに絡むような問題は、論理的整合性で判断することが不可能なことが多いですから、自分の「しきい」を基にした程度問題の判断は、よほど慎重にするべきだろうと思う。
(それが「一般的だ」と思ったにしても)
ですから、常に僕の発言はこのようなものになるのです。
ワザと極端な例を出しているわけではありません。(僕の感覚からすると)
☆☆☆☆☆
そして、「私は自分が決められるなどと言っていない」とでも言えば、「ぼくも貴方が言ったなどとは書いてない」と返せるように抜け道が用意してあるのですね。
☆☆☆☆☆
これについては、仰るとおりですね。
そのような「姑息な使用法」・悪用があり得ると、僕も思います。
「書いてないものは書いてない」のそういった危うさに関しては、当時から南郷力丸さんに指摘されており、僕もそれなりには認識し直したつもりなのですが、実際にちょちょんまげさんが指摘されている「姑息な使用法」をする人もあるようなので、そこは仰る通りだと認めます。
「4」にも絡むことかと思いますが。。。
僕自身は、「書いてないものは書いてない」に関しては、第三者の文章(発言)を読み解くにあたって、複数の「解釈」がせめぎ合ってワアワアなっちゃってどうしようもなくなるような場合には、「書いてないものは書いてない」に立ち戻らなければ、話がまとまる方向にはいかないだろうというような意見として、当時出しました。
すみません、このような発言を去年どっかでまとめてしたと思って ずいぶん探してみたんですが、見つかりませんでした。
ですので、引っ張ってこれないのですが、そんな感じです。(ひょんなことから見つかったら教えてください)
しかしこれは、本人に聞けないという前提がある場合の対処法のつもりで言ったもので、そもそもは、
☆☆☆☆☆
そんな脳内解釈を繰り返してるヒマがあるんだったら、とっとと当の本人に聞けば済むことだと思う。
ある方が 同じコメント欄で仰っていた通り、まさに「AともBとも解釈できるなら、当の本人に聞け」だ。
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51423100.html
☆☆☆☆☆
が、僕の立場です。
しかしちょちょんまげさんが指摘されるように、自分自身が発言したものについて「書いてないものは書いてない」なんて反論をする人が実際にいるようで、それは何ともおかしなことだと 僕は感じます。
そんなバカげたことを言えば、相手からの失笑を買い、信頼を失うだけでしょう。
自分で発言したことですものね。
先に記したとおり、自分が発言したものについては、誤解や齟齬が起こったって、それに対して 誤解された側に至らなかった点があれば、詫びつつ再度解説をし、誤解した側も至らなかった点があれば、詫びつつ再解説を受けとり、改めて自分の意見を述べて・・と、それで済むと思うからです。
お互いに「相手の言いたいことは何か」ということを きちんと受けとろうとする姿勢があればこそ、ではありますが。
僕の発言が印象操作だろうという意見については、申し訳ない、そのようなつもりではなかったんです。
そこはお詫びしておきます。
しかし、「しきいは人によって違う」で済む話なのであれば、僕のコメントの手前のちょちょんまげさんのコメントでの、程度問題を取り上げている部分がそもそも不要だと僕には思われます。
そこに反応した発言だったんです。
すみません、言い方を変えてみます。
ちょっといつも気になっていることなのですが、ちょちょんまげさんは、何かというと(自分の「しきい」を基にした)程度問題を わりと気楽に出してくるように僕には感じられるのですが、それについては十分に自覚されてますか?
僕自身、そのようなものを完全否定するわけではないのですが、よほど慎重に自覚し、発言するなら敢えて発言するということをやっていかないと、少々危険なもののように感じられるのです。
☆☆☆☆☆
そういう「ある状況」を考えるほどの状況だったんでしょうか、そもそも。
・・・・・・・・・・・・・・
そういう状況だったかそうじゃなかったかという「しきい」ももちろん人に寄るのでしょうが、そういうお得意の相対主義引っ張ってくるほどの状況だったとは思えませんが。
☆☆☆☆☆
こういう感じは、「それくらいで騒ぎ立てるのはおかしい」「そんな程度でギャーギャー言うな」といった、ハラスメントを封殺するときの粗雑な常套的感性に、うっかりすると容易に移行していってしまうようなものに 僕にはどうしても感じられてしまうのです。
このあたりは感覚差だろうと思います。
僕とちょちょんまげさんとでは、相当ものごとへの感覚が違うようですから。
僕自身は、先に出したモラハラの例なども含めて、これらは一直線上のものだと思っています。
特にハラスメントに絡むような問題は、論理的整合性で判断することが不可能なことが多いですから、自分の「しきい」を基にした程度問題の判断は、よほど慎重にするべきだろうと思う。
(それが「一般的だ」と思ったにしても)
ですから、常に僕の発言はこのようなものになるのです。
ワザと極端な例を出しているわけではありません。(僕の感覚からすると)
☆☆☆☆☆
そして、「私は自分が決められるなどと言っていない」とでも言えば、「ぼくも貴方が言ったなどとは書いてない」と返せるように抜け道が用意してあるのですね。
☆☆☆☆☆
これについては、仰るとおりですね。
そのような「姑息な使用法」・悪用があり得ると、僕も思います。
「書いてないものは書いてない」のそういった危うさに関しては、当時から南郷力丸さんに指摘されており、僕もそれなりには認識し直したつもりなのですが、実際にちょちょんまげさんが指摘されている「姑息な使用法」をする人もあるようなので、そこは仰る通りだと認めます。
「4」にも絡むことかと思いますが。。。
僕自身は、「書いてないものは書いてない」に関しては、第三者の文章(発言)を読み解くにあたって、複数の「解釈」がせめぎ合ってワアワアなっちゃってどうしようもなくなるような場合には、「書いてないものは書いてない」に立ち戻らなければ、話がまとまる方向にはいかないだろうというような意見として、当時出しました。
すみません、このような発言を去年どっかでまとめてしたと思って ずいぶん探してみたんですが、見つかりませんでした。
ですので、引っ張ってこれないのですが、そんな感じです。(ひょんなことから見つかったら教えてください)
しかしこれは、本人に聞けないという前提がある場合の対処法のつもりで言ったもので、そもそもは、
☆☆☆☆☆
そんな脳内解釈を繰り返してるヒマがあるんだったら、とっとと当の本人に聞けば済むことだと思う。
ある方が 同じコメント欄で仰っていた通り、まさに「AともBとも解釈できるなら、当の本人に聞け」だ。
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51423100.html
☆☆☆☆☆
が、僕の立場です。
しかしちょちょんまげさんが指摘されるように、自分自身が発言したものについて「書いてないものは書いてない」なんて反論をする人が実際にいるようで、それは何ともおかしなことだと 僕は感じます。
そんなバカげたことを言えば、相手からの失笑を買い、信頼を失うだけでしょう。
自分で発言したことですものね。
先に記したとおり、自分が発言したものについては、誤解や齟齬が起こったって、それに対して 誤解された側に至らなかった点があれば、詫びつつ再度解説をし、誤解した側も至らなかった点があれば、詫びつつ再解説を受けとり、改めて自分の意見を述べて・・と、それで済むと思うからです。
お互いに「相手の言いたいことは何か」ということを きちんと受けとろうとする姿勢があればこそ、ではありますが。
ちょちょんまげさん #2
2、
上記を踏まえた上で。
僕は極端な例だとは思ってません。
一直線上の問題だと思っています。
とはいえ、すみません、「今回の話」に限って言えば・・という限定だと、ハッキリとは認識していませんでした。
「今回の話」がどう見えているか、ということの前提になっている、感覚や価値観の話だと認識していました。
ですから、「今回の話」に限って・・と改めて考えてみたんですが・・・
やっぱり僕としては似たような話になります。。。
前提は前提なんですから、当たり前ですよね。 (^_^;)
改めて考え直してみた自分の行為に、バカだなと ちょっと笑っちゃいました。
3、
☆☆☆☆☆
で、アキラ様のおっしゃる「サッカー場」は私の認識では上記のようなものになります。
☆☆☆☆☆
了解です。
また、全体的に仰るとおりだと思います。
4、
☆☆☆☆☆
「想いルール」において「読み込み」は禁じ手ではないように見え(それどころか、書き手が読み込みを期待している)、かつ、アキラ様は「想いルール派」でいらっしゃるとお書きになっていることからして、それを支持していると読んで間違いないですよね?
☆☆☆☆☆
そのとおりです。
「解釈」や「読み込み」を否定しているわけではありません。
そこは支持しています。
僕が問題にしているのは、勝手な読み込みによる「決めつけ」です。
☆☆☆☆☆
想いルールにおける「他者による読み込み」が常に正しいなどという保障は全く無いと思いますが。
☆☆☆☆☆
もちろんです。
ですから やりとりを続ける中で、そこをそれなりに確認していく作業が必要になってきます。
で、1でお答えしていることと合わせて、理解していただけたらと思います。
5、
ごんさんの文章について、申し訳ないですけど、僕に解説を求めないでください。
僕にはごんさんがすべて分かる、という意味のことを申し上げているわけではありませんから。
そんなの分かりませんよ。
そこのところをしっかり理解されたいのであれば、ちょちょんまげさんと彼とが、共有できる前提を作りながら、地道にやりとりしていくしかないんじゃないでしょうか。
もしくはスルーするか。
6、
「ごんさんの件の行為が反社会的である」という共通認識は、持てているでしょう。
☆☆☆☆☆
「世間一般の話」をしているときに、「極端な相対主義を持ち出さない」ぐらいは暗黙の了解になっていたと思うのですが、
☆☆☆☆☆
これについては、齟齬があるようですね。
僕は先に記したような感覚を持っていますから、自分が出している例が極端であるとは、それほど思っていません。
「しきい」設定の差、感覚差などから、このへんの齟齬は起こっているように感じます。
また僕は、自分が「世間一般だ」と感じるところを 常に一応疑います。
疑ってかかった結果、たとえそれがやはり「世間一般だろう」と思われたにしても、それを安易に前提にしてしまうことには警戒をします。
そうしてしまうことによって、そこから外れるマイノリティの諸事情を封殺しかねないとも考えるからです。
ですから同様に、ある人が「これは世間一般だろう」と言うものについても、それを共通前提としてしまうことに関しては 容易には認めないのです。
このあたりは、埋められない差でしょうね。
上記を踏まえた上で。
僕は極端な例だとは思ってません。
一直線上の問題だと思っています。
とはいえ、すみません、「今回の話」に限って言えば・・という限定だと、ハッキリとは認識していませんでした。
「今回の話」がどう見えているか、ということの前提になっている、感覚や価値観の話だと認識していました。
ですから、「今回の話」に限って・・と改めて考えてみたんですが・・・
やっぱり僕としては似たような話になります。。。
前提は前提なんですから、当たり前ですよね。 (^_^;)
改めて考え直してみた自分の行為に、バカだなと ちょっと笑っちゃいました。
3、
☆☆☆☆☆
で、アキラ様のおっしゃる「サッカー場」は私の認識では上記のようなものになります。
☆☆☆☆☆
了解です。
また、全体的に仰るとおりだと思います。
4、
☆☆☆☆☆
「想いルール」において「読み込み」は禁じ手ではないように見え(それどころか、書き手が読み込みを期待している)、かつ、アキラ様は「想いルール派」でいらっしゃるとお書きになっていることからして、それを支持していると読んで間違いないですよね?
☆☆☆☆☆
そのとおりです。
「解釈」や「読み込み」を否定しているわけではありません。
そこは支持しています。
僕が問題にしているのは、勝手な読み込みによる「決めつけ」です。
☆☆☆☆☆
想いルールにおける「他者による読み込み」が常に正しいなどという保障は全く無いと思いますが。
☆☆☆☆☆
もちろんです。
ですから やりとりを続ける中で、そこをそれなりに確認していく作業が必要になってきます。
で、1でお答えしていることと合わせて、理解していただけたらと思います。
5、
ごんさんの文章について、申し訳ないですけど、僕に解説を求めないでください。
僕にはごんさんがすべて分かる、という意味のことを申し上げているわけではありませんから。
そんなの分かりませんよ。
そこのところをしっかり理解されたいのであれば、ちょちょんまげさんと彼とが、共有できる前提を作りながら、地道にやりとりしていくしかないんじゃないでしょうか。
もしくはスルーするか。
6、
「ごんさんの件の行為が反社会的である」という共通認識は、持てているでしょう。
☆☆☆☆☆
「世間一般の話」をしているときに、「極端な相対主義を持ち出さない」ぐらいは暗黙の了解になっていたと思うのですが、
☆☆☆☆☆
これについては、齟齬があるようですね。
僕は先に記したような感覚を持っていますから、自分が出している例が極端であるとは、それほど思っていません。
「しきい」設定の差、感覚差などから、このへんの齟齬は起こっているように感じます。
また僕は、自分が「世間一般だ」と感じるところを 常に一応疑います。
疑ってかかった結果、たとえそれがやはり「世間一般だろう」と思われたにしても、それを安易に前提にしてしまうことには警戒をします。
そうしてしまうことによって、そこから外れるマイノリティの諸事情を封殺しかねないとも考えるからです。
ですから同様に、ある人が「これは世間一般だろう」と言うものについても、それを共通前提としてしまうことに関しては 容易には認めないのです。
このあたりは、埋められない差でしょうね。
No title
例えば、演劇のあるシーンです。「台詞終わりで、ヒト呼吸置いて、照明フェード、音響アップ」なんてことをよく言う。この「ヒト呼吸」って、時間を表すんですが、秒では表現できない。その日の芝居の進行や盛り上がり方で微妙に違う。でも、たいていのスタッフはわかっちゃう。「ヒト呼吸とちょっと」なんて表現もある。背景に演出のスタンダードとか、その時の演出とか、そういう背景を共有してるからこそ伝わっちゃう。
日本音楽というのは、西洋音楽ほど楽理の研究が行われていないのですね。なので、教える、教わるというのがけっこう大変のように思います。教える、教わるってのは「伝える」ってことですよね。
例えば、音の高低と「同じ効果」を音の強弱や緩急によって表現するということがあるみたいです。でも、その「法則」は言語化されていない。結局、何度も聞いて、やってみてダメ出しされて、その体験を統合して、伝えられたほうは「法則」を把握するしかない。
徒弟制度によって「伝承」されるモノって、こういう例は多いです。伝える側と伝わる側が、同じ状況に対して、どう反応するか、そういう個々の「体験」を統合して、やっと伝わるものがある。それは「実際にあるもの」が伝わったのか、それとも「幻想」が伝わったのかはわからない、でも、ある「言語化できない概念」が伝わるわけですね。
世の中には、「論理性・整合性」ルール、ルールというよりツールですね、によって伝えることが難しいものがいくらでもある。じゃあ、それをどうやって伝えるか。「意識の中にはあるが、言語化できないもの」を伝えるのには、「ヒト呼吸」の例だと、演出というものに対する共通認識と、それを相互に共有しているという認識がある。徒弟制度による伝承だと、数多くの、数年にわたる、状況の共有と、その時の体験の共有がある。そういう背景があるから「想い」ツールでも伝わるんです。
そう思うと、ネット上のテキストの上で、「想い」ツールで伝えられるものって、どの程度のものなんでしょうかねぇ。と、つい思ってしまうわけです。「伝わった」と思いたいだけなのかねぇ、とも思うわけです。
なんか「よく当たる占い師」の世界じゃないの、と思いますね。「よく当たる占い師」ってのは、誰にでも当てはまるようなあいまいなことしか言わない。聞く方が、自分のことに引き寄せて、勝手に「当たっている」と思いこむだけですね。
例えば「感性」を「身体感覚みたいなもの」とオモシロイ定義をした人がいる。ある人が読むと「身体感覚?ワケワカラン」で終わる。ある人は「みたいなもの」に反応してしまい、例えば日頃に考えている「無意識の情報選択」のことが含まれると過剰な納得力を発揮しちゃう。何も言ってないのと同じ、もしくはあまりにスカタンなことを曖昧化することで、聞き手が自分の考えていることに勝手に引き寄せて、ああ同じことを考えていると錯覚する、「想い」ルールというのは、そういう世界かなと思います。
なので、私の場合、見ていて「言語化できないけど伝えたいものがある」と思った人には、その言語化を促したいと思う。逆に、単に「伝わったごっこ」してるだけと思う人は、無視したり小バカにしちゃう。
「想い」ルールも「論理性・整合性」ルールも理解できるけれども(多分)、「論理性・整合性」ルール派。というわけじゃないのです。「想い」が大切なら、インチキ占い師の類に「わかってもらった」と錯覚するんでなく、言語化の努力をして、伝えられるところは伝えて、それで反対された方が、まだ「伝わった」だけましじゃないのと思ってるだけです。
日本音楽というのは、西洋音楽ほど楽理の研究が行われていないのですね。なので、教える、教わるというのがけっこう大変のように思います。教える、教わるってのは「伝える」ってことですよね。
例えば、音の高低と「同じ効果」を音の強弱や緩急によって表現するということがあるみたいです。でも、その「法則」は言語化されていない。結局、何度も聞いて、やってみてダメ出しされて、その体験を統合して、伝えられたほうは「法則」を把握するしかない。
徒弟制度によって「伝承」されるモノって、こういう例は多いです。伝える側と伝わる側が、同じ状況に対して、どう反応するか、そういう個々の「体験」を統合して、やっと伝わるものがある。それは「実際にあるもの」が伝わったのか、それとも「幻想」が伝わったのかはわからない、でも、ある「言語化できない概念」が伝わるわけですね。
世の中には、「論理性・整合性」ルール、ルールというよりツールですね、によって伝えることが難しいものがいくらでもある。じゃあ、それをどうやって伝えるか。「意識の中にはあるが、言語化できないもの」を伝えるのには、「ヒト呼吸」の例だと、演出というものに対する共通認識と、それを相互に共有しているという認識がある。徒弟制度による伝承だと、数多くの、数年にわたる、状況の共有と、その時の体験の共有がある。そういう背景があるから「想い」ツールでも伝わるんです。
そう思うと、ネット上のテキストの上で、「想い」ツールで伝えられるものって、どの程度のものなんでしょうかねぇ。と、つい思ってしまうわけです。「伝わった」と思いたいだけなのかねぇ、とも思うわけです。
なんか「よく当たる占い師」の世界じゃないの、と思いますね。「よく当たる占い師」ってのは、誰にでも当てはまるようなあいまいなことしか言わない。聞く方が、自分のことに引き寄せて、勝手に「当たっている」と思いこむだけですね。
例えば「感性」を「身体感覚みたいなもの」とオモシロイ定義をした人がいる。ある人が読むと「身体感覚?ワケワカラン」で終わる。ある人は「みたいなもの」に反応してしまい、例えば日頃に考えている「無意識の情報選択」のことが含まれると過剰な納得力を発揮しちゃう。何も言ってないのと同じ、もしくはあまりにスカタンなことを曖昧化することで、聞き手が自分の考えていることに勝手に引き寄せて、ああ同じことを考えていると錯覚する、「想い」ルールというのは、そういう世界かなと思います。
なので、私の場合、見ていて「言語化できないけど伝えたいものがある」と思った人には、その言語化を促したいと思う。逆に、単に「伝わったごっこ」してるだけと思う人は、無視したり小バカにしちゃう。
「想い」ルールも「論理性・整合性」ルールも理解できるけれども(多分)、「論理性・整合性」ルール派。というわけじゃないのです。「想い」が大切なら、インチキ占い師の類に「わかってもらった」と錯覚するんでなく、言語化の努力をして、伝えられるところは伝えて、それで反対された方が、まだ「伝わった」だけましじゃないのと思ってるだけです。
アキラ様
アキラ様
レスをありがとうございました。
1.
>ちょっといつも気になっていることなのですが、ちょちょんまげさんは、何かというと(自分の「しきい」を基にした)程度問題を わりと気楽に出してくるように僕には感じられるのですが、それについては十分に自覚されてますか?
というか、私は自分がどこに立っているかはっきりさせているだけのことでしょう?
この「相手に手を出しちゃうこと」云々と云う話で言えば、一端に「気に入らなきゃ即刺し殺す」から始まって、別の一端に「殺されても手は出さない」ぐらいがあり、無限といってもいいぐらいの距離が存在するわけですよね。
で、まぁ中間ぐらいに恐らく我々が幼稚園かなんかで先生に言われた「口げんかはしてもぶっちゃいけません」ぐらいの話があるわけで、私はその辺にいるわけです。
で、お互いがその無限の線上のどのあたりにいるのかわからなければそもそも話が噛みあうわけもないわけです。
私が民主主義支持だったらその立場で発言します。でアキラ様が例えば封建主義者だったとするとこりゃ事実に対する認識は変わってきます。
で、私は私の居る場所から勿論様々な判断を下さざるを得ないわけですが、その居る場所、下した判断が「自明なことである」などとどこで言っていますか?
そもそも、そのすり合わせをするために今こうしてお互いに話をしているのではないですか?
ですから、むしろ、私としてはアキラ様が御自分の位置をはっきりさせてくれることを望みます。
で、私はアキラ様が「ごん様の行為が反社会的であるという判断を下すぐらいの場所」にいらっしゃるという前提で話を進めています。
もし、アキラ様が「ごん様の行為は社会的に賞賛されてしかるべきである」というお立場だと理解したら、私の立っている場所は変わらなくても、私の書き方やアプローチが全く違うものになると思うのですがいかがですか?
2.
>これらは一直線上のものだと思っています。
「一直線上のもの」とおっしゃる意味がよくわからないのですけれと、上で私が書いたような意味でしたら、直線上にあるとはいえ、遥かな隔絶があるように思いますが。
「つまみ食い」も「殺人」も「悪徳(と言われるもの」という直線の上にあるのではないですか?
3.
>ワザと極端な例を出しているわけではありません。(僕の感覚からすると)
「ワザと」でないことはわかりました。ですが、私が指摘した「一方的なハラスメント」と、「双方からハラスメントし合い」の部分への評価が抜けていると思うのですが。
両者は同直線上にあるのでしょうか?(あくまで「例」としてあげるさいに、です)
ちなみに、アキラ様が考える「極端な例」とはどういうものですか?
4.上と関連することですが、アキラ様は「勝手な読み込みによる決めつけ」に対する警鐘を鳴らしていらっしゃる。
しかし、誰が「勝手である」と判断するのですか?で、その「しきい」はどこにあるのですか?「口げんかで手を出しちゃうこと」の是非はグレーゾーンがあることで、「勝手に判断する」ことへの評価はビシッと定量的に決められて「万人共通」な話なのですか?(質問A)
その判断もまた、相対主義的に見れば永遠に長い直線上のどこかに存在する判断であり(私が思うには)、アキラ様はここで、私が思うに「(自分の「しきい」を基にした)程度問題を わりと気楽に出していらっしゃるように感じられるのですが、それについては十分に自覚されてますか」?(質問B)
例えば、私の前エントリhttp://chochonmage.blog21.fc2.com/blog-entry-40.html、前々エントリhttp://chochonmage.blog21.fc2.com/blog-entry-39.htmlで私は水葉氏が「プロとしてウソを広めている」と批判しています。
それに対し、水葉氏は「そうではない(ブログでは勘違い気味に書いているが、リアルではそうしていない)」と書かれたものからすれば、どう見ても無理な反論を返してきています。
で、私は「貴方はリアルでもそうしていたのだ」と決め付けています。
これは書かれたものから判断する限り、それをその通りと納得するのは不可能だからです。
そこで、水葉氏が「真意、実際にあったことはそうでなかった」と言ったところで、書かれたものは残ります。
私は、ここで例え本人である水葉氏から「本人が違うといっているのだから違う」と言ってきたところで、自分の「決めつけ」を撤回する気は全くありません。
それは氏が「強弁」しているに過ぎないからです。
水葉氏のしたこと、されたことを簡単に言えば次のようなことでしょう。
ある歴史の教師が「南京大虐殺はその存在自体が中国のプロパガンダであり、本当はそういうことは無かったといつも生徒に教えている」と書く
(さらに質疑応答欄で、「存在自体がウソ」論をもとにやりとりがある。
↓
「それは誤りである」と指摘される
↓
「30万人殺されたのがプロパガンダだと実際には言っている。その存在自体がそうだと言っているわけではないのでご安心ください」
↓
「いや、貴方は『存在自体』が無かったと既に主張しているし、それを公言していると書き、かつその論をもとに質疑応答欄でやり取りをしている。貴方は実際に生徒たちにそのように教えていたのだ。
よって、貴方が言っていることは単なる強弁である。
と、こういうことです。
で、これ、私の「勝手な決めつけ」かどうか誰か決められるのですか?(質問C)
(ちなみに、私は議論中に文献、参考URLを提示された場合は必ず目を通します。あまりにも無理なものでない限り-例えばあまりにも厖大であるとか、あまりにも私の能力を超えたものでなければ)
4.
>そのような「姑息な使用法」・悪用があり得ると、僕も思います。
「書いてないものは書いてない」のそういった危うさに関しては、当時から南郷力丸さんに指摘されており、僕もそれなりには認識し直したつもりなのですが、実際にちょちょんまげさんが指摘されている「姑息な使用法」をする人もあるようなので、そこは仰る通りだと認めます。
ん〜、今まさに御自分でなさったところに、このコメントは「他人事」のようですが????
「故意」ではなかったということですか?
5.
>僕自身は、「書いてないものは書いてない」に関しては、第三者の文章(発言)を読み解くにあたって、複数の「解釈」がせめぎ合ってワアワアなっちゃってどうしようもなくなるような場合には、「書いてないものは書いてない」に立ち戻らなければ、話がまとまる方向にはいかないだろうというような意見として、当時出しました。
これは、了解しています。
しかし、同時に、「自分は書いてないものは書いてない派なんだなぁ」という御自分の述懐と、ジャバ氏を「解釈派」と見るご見解もあったと存じます。
した場合に、アキラ様を(条件つきでなく)「書いてないものは書いてない」を支持する方という私の見方はそれほど誤ったものとは思いませんが?
それ以外の部分に関しては、稿をあらためます。少々疲れましたので。
レスをありがとうございました。
1.
>ちょっといつも気になっていることなのですが、ちょちょんまげさんは、何かというと(自分の「しきい」を基にした)程度問題を わりと気楽に出してくるように僕には感じられるのですが、それについては十分に自覚されてますか?
というか、私は自分がどこに立っているかはっきりさせているだけのことでしょう?
この「相手に手を出しちゃうこと」云々と云う話で言えば、一端に「気に入らなきゃ即刺し殺す」から始まって、別の一端に「殺されても手は出さない」ぐらいがあり、無限といってもいいぐらいの距離が存在するわけですよね。
で、まぁ中間ぐらいに恐らく我々が幼稚園かなんかで先生に言われた「口げんかはしてもぶっちゃいけません」ぐらいの話があるわけで、私はその辺にいるわけです。
で、お互いがその無限の線上のどのあたりにいるのかわからなければそもそも話が噛みあうわけもないわけです。
私が民主主義支持だったらその立場で発言します。でアキラ様が例えば封建主義者だったとするとこりゃ事実に対する認識は変わってきます。
で、私は私の居る場所から勿論様々な判断を下さざるを得ないわけですが、その居る場所、下した判断が「自明なことである」などとどこで言っていますか?
そもそも、そのすり合わせをするために今こうしてお互いに話をしているのではないですか?
ですから、むしろ、私としてはアキラ様が御自分の位置をはっきりさせてくれることを望みます。
で、私はアキラ様が「ごん様の行為が反社会的であるという判断を下すぐらいの場所」にいらっしゃるという前提で話を進めています。
もし、アキラ様が「ごん様の行為は社会的に賞賛されてしかるべきである」というお立場だと理解したら、私の立っている場所は変わらなくても、私の書き方やアプローチが全く違うものになると思うのですがいかがですか?
2.
>これらは一直線上のものだと思っています。
「一直線上のもの」とおっしゃる意味がよくわからないのですけれと、上で私が書いたような意味でしたら、直線上にあるとはいえ、遥かな隔絶があるように思いますが。
「つまみ食い」も「殺人」も「悪徳(と言われるもの」という直線の上にあるのではないですか?
3.
>ワザと極端な例を出しているわけではありません。(僕の感覚からすると)
「ワザと」でないことはわかりました。ですが、私が指摘した「一方的なハラスメント」と、「双方からハラスメントし合い」の部分への評価が抜けていると思うのですが。
両者は同直線上にあるのでしょうか?(あくまで「例」としてあげるさいに、です)
ちなみに、アキラ様が考える「極端な例」とはどういうものですか?
4.上と関連することですが、アキラ様は「勝手な読み込みによる決めつけ」に対する警鐘を鳴らしていらっしゃる。
しかし、誰が「勝手である」と判断するのですか?で、その「しきい」はどこにあるのですか?「口げんかで手を出しちゃうこと」の是非はグレーゾーンがあることで、「勝手に判断する」ことへの評価はビシッと定量的に決められて「万人共通」な話なのですか?(質問A)
その判断もまた、相対主義的に見れば永遠に長い直線上のどこかに存在する判断であり(私が思うには)、アキラ様はここで、私が思うに「(自分の「しきい」を基にした)程度問題を わりと気楽に出していらっしゃるように感じられるのですが、それについては十分に自覚されてますか」?(質問B)
例えば、私の前エントリhttp://chochonmage.blog21.fc2.com/blog-entry-40.html、前々エントリhttp://chochonmage.blog21.fc2.com/blog-entry-39.htmlで私は水葉氏が「プロとしてウソを広めている」と批判しています。
それに対し、水葉氏は「そうではない(ブログでは勘違い気味に書いているが、リアルではそうしていない)」と書かれたものからすれば、どう見ても無理な反論を返してきています。
で、私は「貴方はリアルでもそうしていたのだ」と決め付けています。
これは書かれたものから判断する限り、それをその通りと納得するのは不可能だからです。
そこで、水葉氏が「真意、実際にあったことはそうでなかった」と言ったところで、書かれたものは残ります。
私は、ここで例え本人である水葉氏から「本人が違うといっているのだから違う」と言ってきたところで、自分の「決めつけ」を撤回する気は全くありません。
それは氏が「強弁」しているに過ぎないからです。
水葉氏のしたこと、されたことを簡単に言えば次のようなことでしょう。
ある歴史の教師が「南京大虐殺はその存在自体が中国のプロパガンダであり、本当はそういうことは無かったといつも生徒に教えている」と書く
(さらに質疑応答欄で、「存在自体がウソ」論をもとにやりとりがある。
↓
「それは誤りである」と指摘される
↓
「30万人殺されたのがプロパガンダだと実際には言っている。その存在自体がそうだと言っているわけではないのでご安心ください」
↓
「いや、貴方は『存在自体』が無かったと既に主張しているし、それを公言していると書き、かつその論をもとに質疑応答欄でやり取りをしている。貴方は実際に生徒たちにそのように教えていたのだ。
よって、貴方が言っていることは単なる強弁である。
と、こういうことです。
で、これ、私の「勝手な決めつけ」かどうか誰か決められるのですか?(質問C)
(ちなみに、私は議論中に文献、参考URLを提示された場合は必ず目を通します。あまりにも無理なものでない限り-例えばあまりにも厖大であるとか、あまりにも私の能力を超えたものでなければ)
4.
>そのような「姑息な使用法」・悪用があり得ると、僕も思います。
「書いてないものは書いてない」のそういった危うさに関しては、当時から南郷力丸さんに指摘されており、僕もそれなりには認識し直したつもりなのですが、実際にちょちょんまげさんが指摘されている「姑息な使用法」をする人もあるようなので、そこは仰る通りだと認めます。
ん〜、今まさに御自分でなさったところに、このコメントは「他人事」のようですが????
「故意」ではなかったということですか?
5.
>僕自身は、「書いてないものは書いてない」に関しては、第三者の文章(発言)を読み解くにあたって、複数の「解釈」がせめぎ合ってワアワアなっちゃってどうしようもなくなるような場合には、「書いてないものは書いてない」に立ち戻らなければ、話がまとまる方向にはいかないだろうというような意見として、当時出しました。
これは、了解しています。
しかし、同時に、「自分は書いてないものは書いてない派なんだなぁ」という御自分の述懐と、ジャバ氏を「解釈派」と見るご見解もあったと存じます。
した場合に、アキラ様を(条件つきでなく)「書いてないものは書いてない」を支持する方という私の見方はそれほど誤ったものとは思いませんが?
それ以外の部分に関しては、稿をあらためます。少々疲れましたので。
南郷力丸さん
補足的なコメント、ありがとうございました。
かつ、了解しました。
「想い」ルールは、基本そのようなものだろうと思います。
また、僕はインチキ占い師の類ですけど、南郷力丸さんの仰ってることは正論だと思います。
そして そうなると、インチキ占い師的対応だろうが、ストレートに言語化する努力を促す対応だろうが、今度は方法論の問題が出てきますね。
かつ、了解しました。
「想い」ルールは、基本そのようなものだろうと思います。
また、僕はインチキ占い師の類ですけど、南郷力丸さんの仰ってることは正論だと思います。
そして そうなると、インチキ占い師的対応だろうが、ストレートに言語化する努力を促す対応だろうが、今度は方法論の問題が出てきますね。
ちょちょんまげさん #1
お返事です。
1.(03-22)
☆☆☆☆☆
私は自分がどこに立っているかはっきりさせているだけのことでしょう?
☆☆☆☆☆
了解です。
申し訳ない、誤解して受けとってしまっていたようです。
僕は、ちょちょんまげさんの「○○だと思いますが?」といったパターンのいくつものコメントを、「普通は○○だと思いますが、どうしてあなたはそう思わないのでしょう?」と詰問されているニュアンスで 受けとってしまっていました。
ですから、あのようなお返事になりました。
ちょちょんまげさんの文体を、まだ把握できていないようです。
それらが ちょちょんまげさんの「しきい」の表明であるなら、確かに僕の返事は非常に失礼ですよね。
僕の勘違いでした、すみません、お詫びします。
また、ちょちょんまげさんの「しきい」についても了解しました。
☆☆☆☆☆
もし、アキラ様が「ごん様の行為は社会的に賞賛されてしかるべきである」というお立場だと理解したら、私の立っている場所は変わらなくても、私の書き方やアプローチが全く違うものになると思うのですがいかがですか?
☆☆☆☆☆
なるほど、仰るとおりです。
2.3.(03-22)
先のお返事では、あれでピンときていただけないとなると、こりゃ説明が大変だと思って端折ってしまったのですけれど、やはり大事なところだと思われるので、僕の意見を述べておきます。
また、南郷力丸さんからの指摘もありましたので、言語化をちょっと頑張ってみます。
☆☆☆☆☆
【 >モラハラの被害者Bが、執拗なモラハラ加害者Aに対して 何らかの拍子に傷害事件を起こしてしまったといった場合に、Bの言い分は聞く必要はない、エクスキューズを許してはいけないということと、僕には同義の意見のように感じられるからです。】
・・・・・・・・・・・・・・
ですから、例としても駄目なんじゃないですか。
☆☆☆☆☆
これについて。
いろんないきさつの中で、BはAからのハラスメントを強く感じるようになるのですが、Aにはそのつもりがまったくないわけです。
「お前のした○○で、私は恥をかいた。お前が悪い」みたいな話ばかりです。
そういう中で、Bも不服ですから Aに対して非難や中傷をするでしょう。
そうすると、「なんだお前、私に対するハラスメントだぞ」というようなことになる。
そうして、Bの非難や中傷は認知され、それをAはことさらに批判して「お前が悪い!」ということになり、なおさらBはハラスメントを感じることになる。
Bがそれに抗議したとしても、Aは「何を言っているのだ。お前が非難・中傷したのではないか。お前が悪い」とかいうことになって、Aのハラスメント自体は認知されず、Aの持つ「理」によってBの行為ばかりが批判・非難される。
確かにハラスメントは双方によって行われている形です。
しかし、Bのものは認知されているけれども、Aのものは認知されていない。
Aの「理」によって封殺されて、「ない」ことになっている。
Bの中では強く感じられ、立派に存在しているのに、Aの中では「まったく存在していないもの」なのです。
そうなると、Aからすれば、これは「Bによる一方的なハラスメント」だと主張したい状況です。
僕はこのAの行為に、かなり陰湿な暴力性を感じるのです。
もちろん、これは「口で言い合うレベル」で成り立っている話ですし、残念ながら現実によくある話でもあります。
また、「Bによる一方的なハラスメント」でもないし「Aによる一方的なハラスメント」でもない。
事実、ハラスメントやDVなどの多くのケースにおいて、加害者Aがこのような「自分こそが被害者だ!」という認識を持っている、という現実が厳然とある。
そこが問題解決を難しくするのも、また事実のようです。
僕の認識の前提には、そのようなハラスメントの現実によくある「非対称性」の可能性の問題が あったりするわけです。
このようなことはハラスメントの問題を考えるにあたっての基本だと、僕は思っていました。
すみません、その「勝手な思い込み」についてもお詫びします。
そんなわけで「双方の」例として出したのですし、例としての範囲内だと僕は感じています。
また 同様の理由で、南郷力丸さんの
「だったら制裁!ではなくて、普通は 相手にも認識させる工夫をする方が先だろう」
という意見は、確かに正論だと思います。
それから、「気に入らなきゃ即刺し殺す」は、僕としても極端な例だと考えます。
1.(03-22)
☆☆☆☆☆
私は自分がどこに立っているかはっきりさせているだけのことでしょう?
☆☆☆☆☆
了解です。
申し訳ない、誤解して受けとってしまっていたようです。
僕は、ちょちょんまげさんの「○○だと思いますが?」といったパターンのいくつものコメントを、「普通は○○だと思いますが、どうしてあなたはそう思わないのでしょう?」と詰問されているニュアンスで 受けとってしまっていました。
ですから、あのようなお返事になりました。
ちょちょんまげさんの文体を、まだ把握できていないようです。
それらが ちょちょんまげさんの「しきい」の表明であるなら、確かに僕の返事は非常に失礼ですよね。
僕の勘違いでした、すみません、お詫びします。
また、ちょちょんまげさんの「しきい」についても了解しました。
☆☆☆☆☆
もし、アキラ様が「ごん様の行為は社会的に賞賛されてしかるべきである」というお立場だと理解したら、私の立っている場所は変わらなくても、私の書き方やアプローチが全く違うものになると思うのですがいかがですか?
☆☆☆☆☆
なるほど、仰るとおりです。
2.3.(03-22)
先のお返事では、あれでピンときていただけないとなると、こりゃ説明が大変だと思って端折ってしまったのですけれど、やはり大事なところだと思われるので、僕の意見を述べておきます。
また、南郷力丸さんからの指摘もありましたので、言語化をちょっと頑張ってみます。
☆☆☆☆☆
【 >モラハラの被害者Bが、執拗なモラハラ加害者Aに対して 何らかの拍子に傷害事件を起こしてしまったといった場合に、Bの言い分は聞く必要はない、エクスキューズを許してはいけないということと、僕には同義の意見のように感じられるからです。】
・・・・・・・・・・・・・・
ですから、例としても駄目なんじゃないですか。
☆☆☆☆☆
これについて。
いろんないきさつの中で、BはAからのハラスメントを強く感じるようになるのですが、Aにはそのつもりがまったくないわけです。
「お前のした○○で、私は恥をかいた。お前が悪い」みたいな話ばかりです。
そういう中で、Bも不服ですから Aに対して非難や中傷をするでしょう。
そうすると、「なんだお前、私に対するハラスメントだぞ」というようなことになる。
そうして、Bの非難や中傷は認知され、それをAはことさらに批判して「お前が悪い!」ということになり、なおさらBはハラスメントを感じることになる。
Bがそれに抗議したとしても、Aは「何を言っているのだ。お前が非難・中傷したのではないか。お前が悪い」とかいうことになって、Aのハラスメント自体は認知されず、Aの持つ「理」によってBの行為ばかりが批判・非難される。
確かにハラスメントは双方によって行われている形です。
しかし、Bのものは認知されているけれども、Aのものは認知されていない。
Aの「理」によって封殺されて、「ない」ことになっている。
Bの中では強く感じられ、立派に存在しているのに、Aの中では「まったく存在していないもの」なのです。
そうなると、Aからすれば、これは「Bによる一方的なハラスメント」だと主張したい状況です。
僕はこのAの行為に、かなり陰湿な暴力性を感じるのです。
もちろん、これは「口で言い合うレベル」で成り立っている話ですし、残念ながら現実によくある話でもあります。
また、「Bによる一方的なハラスメント」でもないし「Aによる一方的なハラスメント」でもない。
事実、ハラスメントやDVなどの多くのケースにおいて、加害者Aがこのような「自分こそが被害者だ!」という認識を持っている、という現実が厳然とある。
そこが問題解決を難しくするのも、また事実のようです。
僕の認識の前提には、そのようなハラスメントの現実によくある「非対称性」の可能性の問題が あったりするわけです。
このようなことはハラスメントの問題を考えるにあたっての基本だと、僕は思っていました。
すみません、その「勝手な思い込み」についてもお詫びします。
そんなわけで「双方の」例として出したのですし、例としての範囲内だと僕は感じています。
また 同様の理由で、南郷力丸さんの
「だったら制裁!ではなくて、普通は 相手にも認識させる工夫をする方が先だろう」
という意見は、確かに正論だと思います。
それから、「気に入らなきゃ即刺し殺す」は、僕としても極端な例だと考えます。
ちょちょんまげさん #2
4.(03-22)
(質問A.C)
「勝手な読み込みによる決めつけ」であると判断するのは、読み込まれた本人です。
ですから、その「しきい」は読み込まれた本人のものになります。
そこで抗議なり反論、説明・釈明などがあって、お互いの意見のすり合わせのやりとりがあって、お互いを理解しようという気がある場合は、そこでそれぞれの発言の真意を受けとりつつ、しかしながら批判は譲れないということも出てくるでしょう。
一方、お互いを理解しようという気がなければ、双方がそれぞれの主張を延々と言い合うだけということになるでしょう。
「口げんかで手を出しちゃうこと」に関しては、それがルールに抵触するならば、ルール違反はルール違反です。
「何だかんだ言ったって、やっちゃいけないことはやっちゃいけないこと」です。
それはいろいろなところで申し上げていると思います。
それに対しての罰則や批判・非難も、当然受けてしかるべきです。
それと、やっちゃった側の言い分を聞くこととは別のことだ、というのが僕の認識です。
また、僕は「口げんかで手を出しちゃうこと」を正当化していませんし、僕が「リスペクトです」と言ったのは、件のごんさんの行為の「自業自得の覚悟」です。
(質問B)
☆☆☆☆☆
アキラ様はここで、私が思うに「(自分の「しきい」を基にした)程度問題を わりと気楽に出していらっしゃるように感じられるのですが、それについては十分に自覚されてますか」?
☆☆☆☆☆
はい、十分に自覚しています。
『人によって「しきい」は違う』ということを申し上げたいのですから。
ちょちょんまげさんの「私はこう思いますが?」といった数々のコメントが、ちょちょんまげさんご自身の「しきい」の表明としてのコメントなのでしたら、僕のそれについても同様の表明だと受けとっていただければありがたいです。
勘違いがあったことは、先に申し上げた通りです。
すみませんでした。
4-2.(03-22)
僕が「姑息な使用法」と表現したものは、自分自身の発言に対して「僕は○○などとは書いてない」とか「僕はあなたが言ったなどとは書いてない」と反論するような使用法のことです。
5.
僕自身は、「書いてないものは書いてない」に関しては、第三者の文章(発言)を読み解くにあたって、複数の「解釈」がせめぎ合ってワアワアなっちゃってどうしようもなくなるような場合には、「書いてないものは書いてない」に立ち戻らなければ、話がまとまる方向にはいかないだろうというような意見として、当時出しました。
また 僕の立場は、「そんな脳内解釈を繰り返してるヒマがあるんだったら、とっとと当の本人に聞けば済むことだ」です。
ですから、その前提の上での(そのような状況下での)
☆☆☆☆☆
同時に、「自分は書いてないものは書いてない派なんだなぁ」という御自分の述懐と、ジャバ氏を「解釈派」と見るご見解もあったと存じます。
☆☆☆☆☆
であることには変わりありません。
この僕自身からの説明(釈明?)を、ちょちょんまげさんに受け入れていただけないのであれば、双方がそれぞれの主張を延々と言い合うだけということになるでしょう。
それはつまらないことだとは思いますが、一方では致し方ないのかなぁと思います。
また、僕がこのような意見表明をしているということを受け入れていただいた上で、『しかし私には、「書いてないものは書いてない」を支持しているようにしか思えない』とのちょちょんまげさんの意見を譲ることができなければ、それはそれでよいと僕は考えます。
(質問A.C)
「勝手な読み込みによる決めつけ」であると判断するのは、読み込まれた本人です。
ですから、その「しきい」は読み込まれた本人のものになります。
そこで抗議なり反論、説明・釈明などがあって、お互いの意見のすり合わせのやりとりがあって、お互いを理解しようという気がある場合は、そこでそれぞれの発言の真意を受けとりつつ、しかしながら批判は譲れないということも出てくるでしょう。
一方、お互いを理解しようという気がなければ、双方がそれぞれの主張を延々と言い合うだけということになるでしょう。
「口げんかで手を出しちゃうこと」に関しては、それがルールに抵触するならば、ルール違反はルール違反です。
「何だかんだ言ったって、やっちゃいけないことはやっちゃいけないこと」です。
それはいろいろなところで申し上げていると思います。
それに対しての罰則や批判・非難も、当然受けてしかるべきです。
それと、やっちゃった側の言い分を聞くこととは別のことだ、というのが僕の認識です。
また、僕は「口げんかで手を出しちゃうこと」を正当化していませんし、僕が「リスペクトです」と言ったのは、件のごんさんの行為の「自業自得の覚悟」です。
(質問B)
☆☆☆☆☆
アキラ様はここで、私が思うに「(自分の「しきい」を基にした)程度問題を わりと気楽に出していらっしゃるように感じられるのですが、それについては十分に自覚されてますか」?
☆☆☆☆☆
はい、十分に自覚しています。
『人によって「しきい」は違う』ということを申し上げたいのですから。
ちょちょんまげさんの「私はこう思いますが?」といった数々のコメントが、ちょちょんまげさんご自身の「しきい」の表明としてのコメントなのでしたら、僕のそれについても同様の表明だと受けとっていただければありがたいです。
勘違いがあったことは、先に申し上げた通りです。
すみませんでした。
4-2.(03-22)
僕が「姑息な使用法」と表現したものは、自分自身の発言に対して「僕は○○などとは書いてない」とか「僕はあなたが言ったなどとは書いてない」と反論するような使用法のことです。
5.
僕自身は、「書いてないものは書いてない」に関しては、第三者の文章(発言)を読み解くにあたって、複数の「解釈」がせめぎ合ってワアワアなっちゃってどうしようもなくなるような場合には、「書いてないものは書いてない」に立ち戻らなければ、話がまとまる方向にはいかないだろうというような意見として、当時出しました。
また 僕の立場は、「そんな脳内解釈を繰り返してるヒマがあるんだったら、とっとと当の本人に聞けば済むことだ」です。
ですから、その前提の上での(そのような状況下での)
☆☆☆☆☆
同時に、「自分は書いてないものは書いてない派なんだなぁ」という御自分の述懐と、ジャバ氏を「解釈派」と見るご見解もあったと存じます。
☆☆☆☆☆
であることには変わりありません。
この僕自身からの説明(釈明?)を、ちょちょんまげさんに受け入れていただけないのであれば、双方がそれぞれの主張を延々と言い合うだけということになるでしょう。
それはつまらないことだとは思いますが、一方では致し方ないのかなぁと思います。
また、僕がこのような意見表明をしているということを受け入れていただいた上で、『しかし私には、「書いてないものは書いてない」を支持しているようにしか思えない』とのちょちょんまげさんの意見を譲ることができなければ、それはそれでよいと僕は考えます。
方法論の問題だと
方法論になるとインチキ占い師もありだと思います。例に出してはナンなんですか、かつて、ちょちょんまげさんがやったように、naokoさんの「想い」をいちいちダメ出しして、その中心部分を抽出するのもありだし、また、アキラさんがそうしようとしているのかはわかりませんが、インチキ占い師手法で、あいまいな所から絞っていくのも、アリだと思います。
ただ、いずれにせよ「想い」を伝わるようにする、という目的のための手法としてアリだということですし、「想い」を知りたいからであって、少しでも「わかる」ことを増やしたいという意欲のためでしょう。
それは、占い師として評価されたいという、歪んだ「自己表現」だけの、インチキ占い師とは別物ですから、
ただ、いずれにせよ「想い」を伝わるようにする、という目的のための手法としてアリだということですし、「想い」を知りたいからであって、少しでも「わかる」ことを増やしたいという意欲のためでしょう。
それは、占い師として評価されたいという、歪んだ「自己表現」だけの、インチキ占い師とは別物ですから、
南郷力丸さん
方法論としてのインチキ占い師は私もありだとは思います。
もちろん、私の好みでは全くありませんが、ようは、良い方向に行けばよろしいわけですからね。
「引越しなさっちゃった方」はまさに「森の占い師」として評価されたくてしょうがなかったのじゃないかと、私も「思います」。
しかし、占い師のところを訪れ、妙な納得の仕方をして帰る「お客さま」には歎息がでるとともに、占い師も難儀なことやなと(よく我慢できるな、と、ある意味感心)は思いますね。
演劇、邦楽、徒弟制度のお話も興味深く読ませていただきました。
そういうこと(演劇の呼吸の話とか)はあるでしょうし、徒弟制度もまた良い面もあることは認めます。
しかし、世界人口約68億、それでやっていくのは、またえらいこっちゃと思います。
私はどうしても、「楽理追求」の西洋音楽的手法支持、システム重視になっちゃいますね。
人と人ってそれぞれ違いすぎますので、「呼吸」を普遍化するのは絶対不可能でしょうが、システムだったら、そりゃ不満だらけでしょうけれども、「落としどころ」を見つけられる可能性はあるのではないかなぁと、思うわけです。
もちろん、私の好みでは全くありませんが、ようは、良い方向に行けばよろしいわけですからね。
「引越しなさっちゃった方」はまさに「森の占い師」として評価されたくてしょうがなかったのじゃないかと、私も「思います」。
しかし、占い師のところを訪れ、妙な納得の仕方をして帰る「お客さま」には歎息がでるとともに、占い師も難儀なことやなと(よく我慢できるな、と、ある意味感心)は思いますね。
演劇、邦楽、徒弟制度のお話も興味深く読ませていただきました。
そういうこと(演劇の呼吸の話とか)はあるでしょうし、徒弟制度もまた良い面もあることは認めます。
しかし、世界人口約68億、それでやっていくのは、またえらいこっちゃと思います。
私はどうしても、「楽理追求」の西洋音楽的手法支持、システム重視になっちゃいますね。
人と人ってそれぞれ違いすぎますので、「呼吸」を普遍化するのは絶対不可能でしょうが、システムだったら、そりゃ不満だらけでしょうけれども、「落としどころ」を見つけられる可能性はあるのではないかなぁと、思うわけです。
No title
以前に津軽三味線の演奏者とあわせたこと(セッションした)ことがあります。こっちもあっちも初めてのことでしたので(挙句に向こうは大家)私が戸惑っていると、彼は微笑み、
「じゃぁ、C#mでいきましょう」
と云いました。
三味線については詳しくありませんので、Key=C#mが当たり前なのか変わった調になるのかは分かりません。こっちはギターなのでKeyを合わせるのは苦じゃありませんが、けっこう珍しいKeyでしたのでよく覚えています。
で、実際の演奏では、いわゆる「基本ペンタ(ペンタトニック=5音階)+ブルーノート」で、超押されっぱなしの引き(弾き)ずられっぱなしでしたが、なにやら格闘技で云うスパーリングをしていただいたような、妙な爽快感は感じました。ただ、どんなコード展開を意識してインプロヴァイズ(アドリブ)していたか?みたいなことはぜんぜん覚えていなくて、ただただ条件反射的に音に反応していたみたいな…とってもプリミティブ(原始的)な「かけあい」だったと記憶しています。
↑は意識して西洋音楽的手法(楽典その他)に基づく表記を入れていますが、実はまったく必要ありません。ただ、こう書くことによって、コードネームやkeyについての知識を共有するひととは、非常に低いレベル(共有感という関係において)で私の体験を知ってもらうことができるのでしょう。いわゆる「一般化」や「普遍化」された知識を用いるメリットはここにあります。
この手法を徹底すれば、第1小節〜8小節まではこんな感じだったとか、リズムはどうだったとか、より細かい記述をすることで演奏の雰囲気を伝えることができるかも知れません。しかし、私自身が感じたことや、彼の三味線演奏者が出した音について言及することは、ほとんど伝えることが不可能です。
その後、三味線演奏者とちょっとした会話をしました。
彼はセッションが楽しかったと云い、ギターのような西洋楽器との共演の機会を、今後は増やしたいと笑いました。また彼は「あなたはよくあわせてくれたけれど、私にももっと投げてくれても良かったと思う」というようなことを云ってくれました。要するに私がなにもできなかったことを優しく批評してくれたのですが、なにかこう眩さに目を細めたくなるような嬉しさ、恥ずかしさ、歯がゆさを感じたものです。
云うまでもなく、議論や言論の場、あるいはwebにおけるこうしたやりとりでは、ほとんどの場合「文字」による知識・情報伝達に頼るほかありません。その際には、言語と文字自体の制約によって、伝えたいことが伝わらないこともままあるでしょう。
しかしながら、私たちが「伝えたいこと」は、元来とてもシンプルなもの、たとえばある主張に対しては「賛成」「反対」「中立」くらいであり、残りの表現とはただの修飾であったり、比喩であったり、グラデーションの「灰色度合い」を示すものであったりするものです。そう、結局なにが云いたいの?と問われると「原則反対」とか「やんわり賛成」くらいになることが多いものです。
コメント欄をだいたい閲覧させていただきましたが、突き詰めて突き詰めてその先になにがあるのだろう?もちろんそれ自体が無駄だ、などと云う気はありませんが、本当に伝えたいことはもっと違う、ぜんぜん別のことなのではないか?と感じたもので、私も「本当に伝えたいこと」がまったく伝わらないコメントを残してみます(笑)。
「じゃぁ、C#mでいきましょう」
と云いました。
三味線については詳しくありませんので、Key=C#mが当たり前なのか変わった調になるのかは分かりません。こっちはギターなのでKeyを合わせるのは苦じゃありませんが、けっこう珍しいKeyでしたのでよく覚えています。
で、実際の演奏では、いわゆる「基本ペンタ(ペンタトニック=5音階)+ブルーノート」で、超押されっぱなしの引き(弾き)ずられっぱなしでしたが、なにやら格闘技で云うスパーリングをしていただいたような、妙な爽快感は感じました。ただ、どんなコード展開を意識してインプロヴァイズ(アドリブ)していたか?みたいなことはぜんぜん覚えていなくて、ただただ条件反射的に音に反応していたみたいな…とってもプリミティブ(原始的)な「かけあい」だったと記憶しています。
↑は意識して西洋音楽的手法(楽典その他)に基づく表記を入れていますが、実はまったく必要ありません。ただ、こう書くことによって、コードネームやkeyについての知識を共有するひととは、非常に低いレベル(共有感という関係において)で私の体験を知ってもらうことができるのでしょう。いわゆる「一般化」や「普遍化」された知識を用いるメリットはここにあります。
この手法を徹底すれば、第1小節〜8小節まではこんな感じだったとか、リズムはどうだったとか、より細かい記述をすることで演奏の雰囲気を伝えることができるかも知れません。しかし、私自身が感じたことや、彼の三味線演奏者が出した音について言及することは、ほとんど伝えることが不可能です。
その後、三味線演奏者とちょっとした会話をしました。
彼はセッションが楽しかったと云い、ギターのような西洋楽器との共演の機会を、今後は増やしたいと笑いました。また彼は「あなたはよくあわせてくれたけれど、私にももっと投げてくれても良かったと思う」というようなことを云ってくれました。要するに私がなにもできなかったことを優しく批評してくれたのですが、なにかこう眩さに目を細めたくなるような嬉しさ、恥ずかしさ、歯がゆさを感じたものです。
云うまでもなく、議論や言論の場、あるいはwebにおけるこうしたやりとりでは、ほとんどの場合「文字」による知識・情報伝達に頼るほかありません。その際には、言語と文字自体の制約によって、伝えたいことが伝わらないこともままあるでしょう。
しかしながら、私たちが「伝えたいこと」は、元来とてもシンプルなもの、たとえばある主張に対しては「賛成」「反対」「中立」くらいであり、残りの表現とはただの修飾であったり、比喩であったり、グラデーションの「灰色度合い」を示すものであったりするものです。そう、結局なにが云いたいの?と問われると「原則反対」とか「やんわり賛成」くらいになることが多いものです。
コメント欄をだいたい閲覧させていただきましたが、突き詰めて突き詰めてその先になにがあるのだろう?もちろんそれ自体が無駄だ、などと云う気はありませんが、本当に伝えたいことはもっと違う、ぜんぜん別のことなのではないか?と感じたもので、私も「本当に伝えたいこと」がまったく伝わらないコメントを残してみます(笑)。
NANさん
ごぶさたしております。
お元気そうでなによりです。
実は、ちょっと前に、しばらくお見かけしなかったことと、そちらのブログの更新が長くなかったことから、少々心配いたしまして(いや、マジで)相変わらずそちらにコメントできないこともあり、メールでも送ってみんべえかなどと思ったのですが、久しぶりにNATROMさんの所を覗いてみたら相変わらずご活躍中なのを見て「あ、ちゃんといるぢゃん」とか思ってやめたのでした(直後、そちらのブログが更新されました)
三味線とのセッションのお話面白かったです。
そういう「伝えることがほぼ不可能」なひと時を持つことができたNANさんをうらやましく思います。
>コメント欄をだいたい閲覧させていただきましたが、突き詰めて突き詰めてその先になにがあるのだろう?もちろんそれ自体が無駄だ、などと云う気はありませんが、
結局無駄だったようで、このようなことに(笑)http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51602486.html
>本当に伝えたいことはもっと違う、ぜんぜん別のことなのではないか?
そうなんですけどね・・・、ま、結局お互いさまということですか、どこまで行っても。
NANさんのブログエントリの「カノン」の話、続くムラカミの話も面白く読ませていただきました。
私も「ノルウェイの森」は内容を全然思い出せないほどで、残った印象と言えば、なんでこの本売れるの?だけでしたなぁ。
(「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」はちょっと面白かったような気がするけど、これもあんまり印象に残っとらん)
>まったく似たような不気味さを、私はYumingというかマットーヤさん家の嫁ハンにも感じる。
これで、吹き出しました。
(猫さんとことの、とばしコメントも拝見し、今回いただいたのもあわせて、なにやらはいぱー状態なんぢゃないですか、もう春だし)
お元気そうでなによりです。
実は、ちょっと前に、しばらくお見かけしなかったことと、そちらのブログの更新が長くなかったことから、少々心配いたしまして(いや、マジで)相変わらずそちらにコメントできないこともあり、メールでも送ってみんべえかなどと思ったのですが、久しぶりにNATROMさんの所を覗いてみたら相変わらずご活躍中なのを見て「あ、ちゃんといるぢゃん」とか思ってやめたのでした(直後、そちらのブログが更新されました)
三味線とのセッションのお話面白かったです。
そういう「伝えることがほぼ不可能」なひと時を持つことができたNANさんをうらやましく思います。
>コメント欄をだいたい閲覧させていただきましたが、突き詰めて突き詰めてその先になにがあるのだろう?もちろんそれ自体が無駄だ、などと云う気はありませんが、
結局無駄だったようで、このようなことに(笑)http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51602486.html
>本当に伝えたいことはもっと違う、ぜんぜん別のことなのではないか?
そうなんですけどね・・・、ま、結局お互いさまということですか、どこまで行っても。
NANさんのブログエントリの「カノン」の話、続くムラカミの話も面白く読ませていただきました。
私も「ノルウェイの森」は内容を全然思い出せないほどで、残った印象と言えば、なんでこの本売れるの?だけでしたなぁ。
(「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」はちょっと面白かったような気がするけど、これもあんまり印象に残っとらん)
>まったく似たような不気味さを、私はYumingというかマットーヤさん家の嫁ハンにも感じる。
これで、吹き出しました。
(猫さんとことの、とばしコメントも拝見し、今回いただいたのもあわせて、なにやらはいぱー状態なんぢゃないですか、もう春だし)
7%コンプレックス?
南郷力丸さま
>7%に納得できるというのは、相手が伝えたいことの7%しか読むことができない。
>伝えたいことの7%しか書くことができない、そういう実感があるからだと思いますよ。
>なので「議論や言論、論理展開」という言語表現による世界での
>能力が7%というのは、本人の実感とそう乖離してないと思います。
(2009-03-10)
「あちら側」の人たちが、「共感」とか「想いルール」とか言い出すのも、
「7%」という実感があるからかもしれないです。
文章を使っては、7%しか伝えられないという意識があるから、
「自分たちは残り93%も、文章によらずに伝え合えるんだ」と思いたくて、
「想いルール」なんて言うんじゃないかな?
「書いてないものは書いてない」とか、「手前勝手な読み込み」とかいうのも、
やはり「7%」と思っているからかもしれないです。
相手に正しく伝わらないのは、自分の文章力がたりないせいだけど、
それを認めたくないので、「書いていないことを、
手前勝手に読み込まれた」といきり立つのでしょう。
「想いルール」と「手前勝手な読み込み」という
おたがいに矛盾することを言うのは、「7%コンプレックス」の
自己正当化と責任転嫁ではないかとも、思ったりしています。
>7%に納得できるというのは、相手が伝えたいことの7%しか読むことができない。
>伝えたいことの7%しか書くことができない、そういう実感があるからだと思いますよ。
>なので「議論や言論、論理展開」という言語表現による世界での
>能力が7%というのは、本人の実感とそう乖離してないと思います。
(2009-03-10)
「あちら側」の人たちが、「共感」とか「想いルール」とか言い出すのも、
「7%」という実感があるからかもしれないです。
文章を使っては、7%しか伝えられないという意識があるから、
「自分たちは残り93%も、文章によらずに伝え合えるんだ」と思いたくて、
「想いルール」なんて言うんじゃないかな?
「書いてないものは書いてない」とか、「手前勝手な読み込み」とかいうのも、
やはり「7%」と思っているからかもしれないです。
相手に正しく伝わらないのは、自分の文章力がたりないせいだけど、
それを認めたくないので、「書いていないことを、
手前勝手に読み込まれた」といきり立つのでしょう。
「想いルール」と「手前勝手な読み込み」という
おたがいに矛盾することを言うのは、「7%コンプレックス」の
自己正当化と責任転嫁ではないかとも、思ったりしています。
これまでの私的あらすじ
基本的なこととして、「コミュニケーションには共通言語が必要です」ということがありますね。ところが実際には「共通の言語」だと思ってるものが、人それぞれに違うちゅうことで延々とコメントが伸びてるわけですが。
この場合「共通の言語」というのは比喩的な表現で、必ずしも言語化されていない、双方が同じ概念と結びつけることが出来るナニカという意味ですが。
それで、私が日本音楽の例を出して、津軽三味線の例が出てきた。読んでる人には流れとして不思議とも思わないかもしれない。でも、順接の例示じゃなくて、逆説の例示だなぁと私は思ってしまった。
私が想定した日本音楽というのは、近世以前からの、特に声楽で、規範が確立している分野ですね。規範というのは、そのジャンルの中での「共通の言語」でもあるのだけど、その「規範」という「共通の言語」を理解するためには、長年に真似をしてダメを出されるという「共通の体験」という「共通の言語」が必要ということになるんです。つまり、ある世界では「共通の言語」の獲得には、個人間での別の「共通の言語」が必要という話。
インチキ占い師が方法論としてアリというのは「共通の言語」を獲得する方法としてアリということですね。
ところで、津軽三味線は20世紀に確立した新しいジャンルで、規範性の薄い分野ですね、だからジャンルの中の「共通の言語」は少ない。だから、ギターとその場の「共通の言語」を探りながらのセッションが可能になるのかなぁ、と思ってしまった。
すると、ある世界での「共通の言語」が少ないと、その場限りの「共通の言語」が探りやすいのかと思う。でも、セッションの状況を第三者に具体的に表現しきれない、ように、その場の「共通の言語」は普遍化できないという話に読めちゃう。
少なくとも、議論や言論といった枠組みの中では、「論理性・整合性」というのは「共通の言語」です。ネット上には、議論や言論といった枠組みじゃないコミュニケーションもあるんだけれど、テクストを公開する以上は、「共通の言語」で読まれることは想定すべきでしょう。その「共通の言語」では7%しかない方が、その場限りの「共通の言語」が探りながらのセッションがしやすいってのは、たんぽぽさんの言う通りなんでしょうね。もっとも、本当に、その場での「共通の言語」となっているのか、それなりに音楽という世界を理解している人の間のセッションじゃないわけで、全く違った様相を示しているわけですが。
それで、私が使った「日本音楽」という単語も、私が理解している「津軽三味線」という単語にも、一般的でない概念が含まれているわけで「共通の言語」でない、なので、誰も同じようには読んではくれない。だから。こうやって後で「共通の言語」にすべくフォローしなくちゃいけない。「共通の言語」と言うのは簡単だけど、実際には難しいというわけです。最初からあきらめて居直りゃ楽なんでしょうけど。
ちなみに、創造論に対するスパモンの役割を、「想いルール」に対しては愚樵さんという方がはたしてくれておりまして、話のオチに使っております。
この場合「共通の言語」というのは比喩的な表現で、必ずしも言語化されていない、双方が同じ概念と結びつけることが出来るナニカという意味ですが。
それで、私が日本音楽の例を出して、津軽三味線の例が出てきた。読んでる人には流れとして不思議とも思わないかもしれない。でも、順接の例示じゃなくて、逆説の例示だなぁと私は思ってしまった。
私が想定した日本音楽というのは、近世以前からの、特に声楽で、規範が確立している分野ですね。規範というのは、そのジャンルの中での「共通の言語」でもあるのだけど、その「規範」という「共通の言語」を理解するためには、長年に真似をしてダメを出されるという「共通の体験」という「共通の言語」が必要ということになるんです。つまり、ある世界では「共通の言語」の獲得には、個人間での別の「共通の言語」が必要という話。
インチキ占い師が方法論としてアリというのは「共通の言語」を獲得する方法としてアリということですね。
ところで、津軽三味線は20世紀に確立した新しいジャンルで、規範性の薄い分野ですね、だからジャンルの中の「共通の言語」は少ない。だから、ギターとその場の「共通の言語」を探りながらのセッションが可能になるのかなぁ、と思ってしまった。
すると、ある世界での「共通の言語」が少ないと、その場限りの「共通の言語」が探りやすいのかと思う。でも、セッションの状況を第三者に具体的に表現しきれない、ように、その場の「共通の言語」は普遍化できないという話に読めちゃう。
少なくとも、議論や言論といった枠組みの中では、「論理性・整合性」というのは「共通の言語」です。ネット上には、議論や言論といった枠組みじゃないコミュニケーションもあるんだけれど、テクストを公開する以上は、「共通の言語」で読まれることは想定すべきでしょう。その「共通の言語」では7%しかない方が、その場限りの「共通の言語」が探りながらのセッションがしやすいってのは、たんぽぽさんの言う通りなんでしょうね。もっとも、本当に、その場での「共通の言語」となっているのか、それなりに音楽という世界を理解している人の間のセッションじゃないわけで、全く違った様相を示しているわけですが。
それで、私が使った「日本音楽」という単語も、私が理解している「津軽三味線」という単語にも、一般的でない概念が含まれているわけで「共通の言語」でない、なので、誰も同じようには読んではくれない。だから。こうやって後で「共通の言語」にすべくフォローしなくちゃいけない。「共通の言語」と言うのは簡単だけど、実際には難しいというわけです。最初からあきらめて居直りゃ楽なんでしょうけど。
ちなみに、創造論に対するスパモンの役割を、「想いルール」に対しては愚樵さんという方がはたしてくれておりまして、話のオチに使っております。
南郷力丸さま
ブログ主ではなく、敢えて南郷さんにレスするあたりがコケミドロ…ぢゃなくて私らしいということで(笑)。
実は、南郷さんのブログの愛読者でもあります。特に、写真。
また、私の意図を汲んでか偶然か、的確な批評をいただき感服しています。そう、私はとても投げやりな発言をいたしました。それはなにか、このコメント欄におけるやりとりに対して、言葉にはあらわしにくい「歯がゆさ」を感じたからであり、さらに述べるなら、その歯がゆさは言語化/共通知識化が可能であるにも関わらず、その努力を行う誠実さを発揮できない自分というものがいて、それを知っていたので「確信犯的に」茶々を入れたのでした。
さて、前回述べましたように、私は三味線はおろか、日本音楽そのものについてさしたる知識がありません。ただ、おそらく「音が合っている」だとか「響きの美しさや深さ」あるいは「情感を持つ旋律」という理屈(理論)以前の「音楽の音楽らしさ」という共通言語(知識)について、洋の東西などないだろう、と確信しています。また、これらについて理論的に周波数を使って科学的に説明したり、倍音の理論やインプロヴァイズの理論を用いて解明することも、それなりの理路を整えれば可能である、と思います。
ところが、つい最近TVで流れたプロのアナウンサーによる言葉で「そのときだけ彼女は声をオクターブ上げて〜」などという表現がありましたが、仮にこの言葉通りに誰かが声をオクターブ上げたのなら、それは声が「裏返った」ことを表すのでしょうが…実際には「声を大きくした」のであり、音量が上がったのでした。このような、さほど専門語とも云えないような言葉でさえ、しかもマスメディアによってでさえ誤用の絶えない昨今、自分がいま書いた言葉が、果たして共通言語として伝わっているのかどうか、これについて過度の期待を持つことは、その後に落胆が待ち構えているであろうことも常に想定すべき…なのかも知れません。
なにはともあれ、居直りとまではいかずとも、相互理解の限界についての覚悟は、テクストを公開するものの「逆説的な心がまえ」として必要なのだろう、と私は思います。
#順接的な心構えは、まっとうな批判を受けることです。
実は、南郷さんのブログの愛読者でもあります。特に、写真。
また、私の意図を汲んでか偶然か、的確な批評をいただき感服しています。そう、私はとても投げやりな発言をいたしました。それはなにか、このコメント欄におけるやりとりに対して、言葉にはあらわしにくい「歯がゆさ」を感じたからであり、さらに述べるなら、その歯がゆさは言語化/共通知識化が可能であるにも関わらず、その努力を行う誠実さを発揮できない自分というものがいて、それを知っていたので「確信犯的に」茶々を入れたのでした。
さて、前回述べましたように、私は三味線はおろか、日本音楽そのものについてさしたる知識がありません。ただ、おそらく「音が合っている」だとか「響きの美しさや深さ」あるいは「情感を持つ旋律」という理屈(理論)以前の「音楽の音楽らしさ」という共通言語(知識)について、洋の東西などないだろう、と確信しています。また、これらについて理論的に周波数を使って科学的に説明したり、倍音の理論やインプロヴァイズの理論を用いて解明することも、それなりの理路を整えれば可能である、と思います。
ところが、つい最近TVで流れたプロのアナウンサーによる言葉で「そのときだけ彼女は声をオクターブ上げて〜」などという表現がありましたが、仮にこの言葉通りに誰かが声をオクターブ上げたのなら、それは声が「裏返った」ことを表すのでしょうが…実際には「声を大きくした」のであり、音量が上がったのでした。このような、さほど専門語とも云えないような言葉でさえ、しかもマスメディアによってでさえ誤用の絶えない昨今、自分がいま書いた言葉が、果たして共通言語として伝わっているのかどうか、これについて過度の期待を持つことは、その後に落胆が待ち構えているであろうことも常に想定すべき…なのかも知れません。
なにはともあれ、居直りとまではいかずとも、相互理解の限界についての覚悟は、テクストを公開するものの「逆説的な心がまえ」として必要なのだろう、と私は思います。
#順接的な心構えは、まっとうな批判を受けることです。
ついに自分も弾かれる
↑表題どおり、webサーバの不調かSPAM弾きの弊害か、改善要請を出していますが、自分のブログにコメントを返すことも、新たな記事を掲載することも現在できません。^^;(超汗)。
そこで仕方がないので、あっちこっちを見回って暇をもてあましている次第…(締め切りが近いのは公然の秘密!)
さてさて…ん〜、どぉなんでしょ。
あくまで私見ですが、もう少しストレートに表現されても良いのではないか、と。あるいは簡潔に。
と、これは、そこら中に罠を張る私みたいなダメモノカキが云うようなことではありませんが…素直にそう思いました。ちょちょんまげさんによる批評/議論は正論であるものの、なにか相手のミステイクを誘い出そうとしているような、一種の「いやらしさ」を感じるひともいるであろう、とは思った次第。
ここは敢えて批判的に書かせていただきましたが、議論する意図は理解しているつもりです。
そこで仕方がないので、あっちこっちを見回って暇をもてあましている次第…(締め切りが近いのは公然の秘密!)
さてさて…ん〜、どぉなんでしょ。
あくまで私見ですが、もう少しストレートに表現されても良いのではないか、と。あるいは簡潔に。
と、これは、そこら中に罠を張る私みたいなダメモノカキが云うようなことではありませんが…素直にそう思いました。ちょちょんまげさんによる批評/議論は正論であるものの、なにか相手のミステイクを誘い出そうとしているような、一種の「いやらしさ」を感じるひともいるであろう、とは思った次第。
ここは敢えて批判的に書かせていただきましたが、議論する意図は理解しているつもりです。
歯がゆさ
NANさま。ブログ主は、しばしば息切れをされるようなので、この際、息が続いてる同士で、コメントを続けていってもいいかと思います。
さて、「歯がゆさ」の理由は、私に関しては、1におっしゃってる相互理解の限界のためと、2には「しきいの例示」のせい、3にはちょちょんまげさんとのスタイルの差、4には、というか最大のものは、何のための議論か見えないからだと思いますよ。
先のコメントで、基本的なこととして、「コミュニケーションには共通言語が必要です」ということをあげました。少なくとも、今回のコメント欄の人には了解事項でしょう。けれども、世の中には、この基本さえ通じない人もいます。
例えば、個人的な体験は、そのままでは論拠にはなりません。「共通の言語」ではないからです。そこから一般化できることを抽出する、つまり「共通の言語」とすることが必要なわけです。ところが、世の中には、一般化もせずに「親戚の女性がどうしたから」というような論拠を出してくる方だっているわけです。読まされる方はわけがわかりません。結局、それが話題とどういう関係にあるのか「共通の言語」としてから言え、ということになるのですが、それも理解できない。
世の中には、私たちが「あたりまえのこと」と思っていることも通じない人がいるわけです。上の例は極端で、はっきり言ってお手上げです。けれども。今回に関していえば、アキラさんとは「共通の言語」を使用するという暗黙の了解があることを前提としています。
日本音楽の例も、アキラさんに日本音楽についての経験がなくとも、整体の例に変換してくれることで「共通の言語」となることを期待しているわけです。
ルールが違うという話が出発点にあります。そして、「論理整合性ルール」と「想いルール」というのを対立、もしくは並立する概念として提示されたわけです。そうすると、「論理整合性ルール」の使用というのは、相手の了解する範囲というか見過ごす範囲でしか使えない。その一方で、こちらは「想いルール」というのを認めているわけではないのだから使えない。つまりは、どちらのルールも「共通の言語」としてはいけなくなっちゃった。それで、この場の「共通の言語」を作りながら話をすすめなきゃいけないわけです。それが1の相互理解の限界による「歯がゆさ」だと思いますよ。
まあ、それでも「論理整合性ルール」はツールにしかすぎないが、「想いルール」というのは、ツールと目的を混同している、もしくは不可分ということであって、さらにツールとしての限界があるでしょ、ということまでは言えたわけですね。
2の「しきいの例示」というのは、本筋とは別の話ですね。度々、愚樵さんの例を出している。このコメントには、愚樵さんとは別人ですが「共通の言語」を使うことが出来ない人の例を出しています。議論においての最低限の「しきい」を越えた例を出しているわけです。
ルールやツールはどうあれ、この「しきい」までの範囲をアタリマエと考えていいですね、ということです。その例示がうるさいかも知れませんね。
3のちょちょんまげさんとのスタイルの差というのは、彼は部分から積み上げていく方法を取る。私は、全体の枠を狭めていく方法を取っている。
例えば、私は「メジロがティラノザウルスたち恐竜の頃」という表現を使ったとします。ちょちょんまげさんにその表現は誤解を招くとは突っ込まれたら、「義務教育と違うんやから、誤解したって知るもんか」ですますほど「部分」にはテキトーです。
なので、せっかくのちょちょんまげさんの緻密な論が、私のテキトーさによって無力化しちゃうという面もあるかも知れません。
4の何のための議論か、は、私もわかりません。切り上げるためには「共通の対話ルールがないと、やはり相互理解の限界を超えるようです」ということを言えば、いつでも止められるわけで、ちょちょんまげさんもアキラさんも、オモロない思ったら、やめはるやろし、ええんちゃうか。です。
さて、「歯がゆさ」の理由は、私に関しては、1におっしゃってる相互理解の限界のためと、2には「しきいの例示」のせい、3にはちょちょんまげさんとのスタイルの差、4には、というか最大のものは、何のための議論か見えないからだと思いますよ。
先のコメントで、基本的なこととして、「コミュニケーションには共通言語が必要です」ということをあげました。少なくとも、今回のコメント欄の人には了解事項でしょう。けれども、世の中には、この基本さえ通じない人もいます。
例えば、個人的な体験は、そのままでは論拠にはなりません。「共通の言語」ではないからです。そこから一般化できることを抽出する、つまり「共通の言語」とすることが必要なわけです。ところが、世の中には、一般化もせずに「親戚の女性がどうしたから」というような論拠を出してくる方だっているわけです。読まされる方はわけがわかりません。結局、それが話題とどういう関係にあるのか「共通の言語」としてから言え、ということになるのですが、それも理解できない。
世の中には、私たちが「あたりまえのこと」と思っていることも通じない人がいるわけです。上の例は極端で、はっきり言ってお手上げです。けれども。今回に関していえば、アキラさんとは「共通の言語」を使用するという暗黙の了解があることを前提としています。
日本音楽の例も、アキラさんに日本音楽についての経験がなくとも、整体の例に変換してくれることで「共通の言語」となることを期待しているわけです。
ルールが違うという話が出発点にあります。そして、「論理整合性ルール」と「想いルール」というのを対立、もしくは並立する概念として提示されたわけです。そうすると、「論理整合性ルール」の使用というのは、相手の了解する範囲というか見過ごす範囲でしか使えない。その一方で、こちらは「想いルール」というのを認めているわけではないのだから使えない。つまりは、どちらのルールも「共通の言語」としてはいけなくなっちゃった。それで、この場の「共通の言語」を作りながら話をすすめなきゃいけないわけです。それが1の相互理解の限界による「歯がゆさ」だと思いますよ。
まあ、それでも「論理整合性ルール」はツールにしかすぎないが、「想いルール」というのは、ツールと目的を混同している、もしくは不可分ということであって、さらにツールとしての限界があるでしょ、ということまでは言えたわけですね。
2の「しきいの例示」というのは、本筋とは別の話ですね。度々、愚樵さんの例を出している。このコメントには、愚樵さんとは別人ですが「共通の言語」を使うことが出来ない人の例を出しています。議論においての最低限の「しきい」を越えた例を出しているわけです。
ルールやツールはどうあれ、この「しきい」までの範囲をアタリマエと考えていいですね、ということです。その例示がうるさいかも知れませんね。
3のちょちょんまげさんとのスタイルの差というのは、彼は部分から積み上げていく方法を取る。私は、全体の枠を狭めていく方法を取っている。
例えば、私は「メジロがティラノザウルスたち恐竜の頃」という表現を使ったとします。ちょちょんまげさんにその表現は誤解を招くとは突っ込まれたら、「義務教育と違うんやから、誤解したって知るもんか」ですますほど「部分」にはテキトーです。
なので、せっかくのちょちょんまげさんの緻密な論が、私のテキトーさによって無力化しちゃうという面もあるかも知れません。
4の何のための議論か、は、私もわかりません。切り上げるためには「共通の対話ルールがないと、やはり相互理解の限界を超えるようです」ということを言えば、いつでも止められるわけで、ちょちょんまげさんもアキラさんも、オモロない思ったら、やめはるやろし、ええんちゃうか。です。
挑発のボーダー
南郷力丸さま
私にとっての「第三者」を論じるのは不遜に思うので控えますが、自分自身、科学議論が好きなくせにそれに応じた知識は足りず、時には必至で文献を漁りながら文を書いています。さらに悪いことに、記憶だけを頼りにwebで発言することも多々あり、そんなときは後になって「あれは失敗だったんじゃないか?」「あの表記でちゃんと伝わるだろうか?」「そもそも根本的に間違ってはいないか?」と、悶々とした時を過ごすことがあるものです。
しかしながら、どんな動機に突き動かされているのであろうと、テクストを公開する者というのは、同様の葛藤を持つべきであろうと思いますし、論理的整合性云々とまでいかなくとも、自分の文が誰にでも誤解なく読めるなどという、過剰な自信をもつべきではない、と考えています。
ここで「論理的整合性」と「想いルール」という相反するかのように見える二つの方法論が提示さえていますが、これらはどちらも馬鹿げた妄想です。論理破綻が許される「議論」などあるはずがありませんし、ことばはそもそも多義的な解釈を含むのですから、誤解や独自解釈があって当たり前であり、それらは書く側と読む側双方における誠実さ、信頼関係によって「歩み寄り」が可能なものであり、自分はこっちのルールだ、あなたはそっちのルールだ、などと宣言することの背景には、無用の「枠(ボーダー)」を設置して排他すること、あるいはバリアを張ること以外の意味はなく、免罪符としての効能などあるわけがありません。
無論、相手が明確な害意や攻撃性「だけ」をむき出しにしているだとか、誠実さの欠片も期待できないようなケースで上記を重んじる必要はありませんが、少なくとも本コメント欄におけるやりとり、それらの周辺においての「対話」は、なにをどこまで暴こうというのか、それはあくまで議論なのか人格についての批判なのか、いっそケンカならばきちんと罵倒しあえばいいのに(笑)、くらいの内容に私は思えていたのです。
#まぁこれは私の一方的な投影に過ぎない面もあります。
ぶっちゃけてしまうと「デコピン」の応酬でしょうか…。ダメージは小さいけれど、あまりしつこいと本気で嫌いになります(笑)。せめてジャブ、時にはフックを織り交ぜてほしい。そしてとどめはぜひ胸のすくアッパーで…みたいなwww
#これも希望的観測・展望でしょうか…。
もっと「私的」に書くなら、「想いルール?あほう、誤読なら誤読ときちんと指摘せい。誤表現なら訂正せい。以上」なのです。それがいやなら公で文などさらすな、と。そんなもんまったくひとつも尊重する必要のないものを妙に重視し「あっち、と、こっち」みたいな二項を作ってしまったら、ケンカするしかないのに、なぜかそうはならない…不思議だ…とか(笑)。でも互いに蔑視し合っているように見受けられて、すごく不健全に見えた、マル。そんな感じでしょうね。
私にとっての「第三者」を論じるのは不遜に思うので控えますが、自分自身、科学議論が好きなくせにそれに応じた知識は足りず、時には必至で文献を漁りながら文を書いています。さらに悪いことに、記憶だけを頼りにwebで発言することも多々あり、そんなときは後になって「あれは失敗だったんじゃないか?」「あの表記でちゃんと伝わるだろうか?」「そもそも根本的に間違ってはいないか?」と、悶々とした時を過ごすことがあるものです。
しかしながら、どんな動機に突き動かされているのであろうと、テクストを公開する者というのは、同様の葛藤を持つべきであろうと思いますし、論理的整合性云々とまでいかなくとも、自分の文が誰にでも誤解なく読めるなどという、過剰な自信をもつべきではない、と考えています。
ここで「論理的整合性」と「想いルール」という相反するかのように見える二つの方法論が提示さえていますが、これらはどちらも馬鹿げた妄想です。論理破綻が許される「議論」などあるはずがありませんし、ことばはそもそも多義的な解釈を含むのですから、誤解や独自解釈があって当たり前であり、それらは書く側と読む側双方における誠実さ、信頼関係によって「歩み寄り」が可能なものであり、自分はこっちのルールだ、あなたはそっちのルールだ、などと宣言することの背景には、無用の「枠(ボーダー)」を設置して排他すること、あるいはバリアを張ること以外の意味はなく、免罪符としての効能などあるわけがありません。
無論、相手が明確な害意や攻撃性「だけ」をむき出しにしているだとか、誠実さの欠片も期待できないようなケースで上記を重んじる必要はありませんが、少なくとも本コメント欄におけるやりとり、それらの周辺においての「対話」は、なにをどこまで暴こうというのか、それはあくまで議論なのか人格についての批判なのか、いっそケンカならばきちんと罵倒しあえばいいのに(笑)、くらいの内容に私は思えていたのです。
#まぁこれは私の一方的な投影に過ぎない面もあります。
ぶっちゃけてしまうと「デコピン」の応酬でしょうか…。ダメージは小さいけれど、あまりしつこいと本気で嫌いになります(笑)。せめてジャブ、時にはフックを織り交ぜてほしい。そしてとどめはぜひ胸のすくアッパーで…みたいなwww
#これも希望的観測・展望でしょうか…。
もっと「私的」に書くなら、「想いルール?あほう、誤読なら誤読ときちんと指摘せい。誤表現なら訂正せい。以上」なのです。それがいやなら公で文などさらすな、と。そんなもんまったくひとつも尊重する必要のないものを妙に重視し「あっち、と、こっち」みたいな二項を作ってしまったら、ケンカするしかないのに、なぜかそうはならない…不思議だ…とか(笑)。でも互いに蔑視し合っているように見受けられて、すごく不健全に見えた、マル。そんな感じでしょうね。
南郷力丸さん
こんなこと言われるのはヤなんでしょうけど、南郷力丸さんという解説者がいて、僕は非常に助かっている気分です。
上記の解説は、僕もほぼ同認識です。
何のための議論か、これは僕も分かりません。
若干の認識の相違がある点は、一点。
それは、ネット上では、どのルールも残念ながら基本的に「共通の言語」とはならない、だから、その場その場でお互いの「共通の言語」を作りながら話をすすめなきゃ話がうまく進まない、ということが、僕としてはそもそもの前提となっているという点です。
ま、それを「あほう」と言われるのはかまいませんが。
上記の解説は、僕もほぼ同認識です。
何のための議論か、これは僕も分かりません。
若干の認識の相違がある点は、一点。
それは、ネット上では、どのルールも残念ながら基本的に「共通の言語」とはならない、だから、その場その場でお互いの「共通の言語」を作りながら話をすすめなきゃ話がうまく進まない、ということが、僕としてはそもそもの前提となっているという点です。
ま、それを「あほう」と言われるのはかまいませんが。
無題
アキラさん
「あほう」に反応していただいたようなので、書きます。
南郷さんによる「メジロがT-Rexの頃〜」という表現は、「ゴリラたち類人猿の頃から〜」という表現とは根本的に違います。なぜなら、ティラノサウルスは現生生物ではなく、すでに絶滅した「なにかの祖先である可能性」が濃厚な生物であり、それがメジロという現生鳥類の直接祖先であるかどうかは分かりませんが、鳥類の祖先が恐竜であることは専門家集団(進化生物学者、古生物学者)によって議論が尽くされており、間違いとは云えない、不適切な表現とは云えない点です。
これに対して「生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉は、ゴリラたち類人猿の頃から芽生えていて〜」という表現は、前後の文脈、紹介している書籍の内容から推察して、ヒト社会、あるいはヒト進化についての言明であると「読まざるを得ません」から、これは明白に間違いです。なぜなら、現生生物である「ゴリラたち類人猿」はヒトと同じく進化の頂点にいるのであり、それはほかのすべての現生生物についても同じことだからです。
この点について指摘したちょちょんまげさんの指摘は正しいものです。よって、該当エントリのコメント欄における再三の「想いルール」の提示は、間違いを認めるのがイヤなので逃げているのだな、としか考えようがありません。
仮に「想いルール」なるものを有効化するのであれば、文学的表現、芸術的表現の中にであれば、抽象化の意図するものとして、わずかながらあるかも知れません。ただそれにしても、具象を言語化しているときには、書き手の能力不足を免罪するための逃避にしか映ることはないでしょう。つまり、不誠実です。
とはいえ、ちょちょんまげさんによる、やはり再三の「質問形式の指摘」は、心理的圧迫、あるいはストレスを与えるであろうこともまた、理解できないわけではありません。基本的には「重箱の隅突き」である指摘を執拗に繰り返されることによって、理想表現の強要や強制に見える側面もあるのではないか、と思います。ですので逆に、よくこれまでコメント議論を続けているものだな、とこれについては感心していることもまた、本心です。
ヒトをバカ扱いするヤツはもっとバカ「ルール」に則り、私が「どあほう」なこともまた明白ですし、アキラさんが「想いルール」というバカを続けるのも自由です。ひとには間違いを認めない自由も原理的に許されているからです。
コメント議論に対する私の意見は以上です。
「あほう」に反応していただいたようなので、書きます。
南郷さんによる「メジロがT-Rexの頃〜」という表現は、「ゴリラたち類人猿の頃から〜」という表現とは根本的に違います。なぜなら、ティラノサウルスは現生生物ではなく、すでに絶滅した「なにかの祖先である可能性」が濃厚な生物であり、それがメジロという現生鳥類の直接祖先であるかどうかは分かりませんが、鳥類の祖先が恐竜であることは専門家集団(進化生物学者、古生物学者)によって議論が尽くされており、間違いとは云えない、不適切な表現とは云えない点です。
これに対して「生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉は、ゴリラたち類人猿の頃から芽生えていて〜」という表現は、前後の文脈、紹介している書籍の内容から推察して、ヒト社会、あるいはヒト進化についての言明であると「読まざるを得ません」から、これは明白に間違いです。なぜなら、現生生物である「ゴリラたち類人猿」はヒトと同じく進化の頂点にいるのであり、それはほかのすべての現生生物についても同じことだからです。
この点について指摘したちょちょんまげさんの指摘は正しいものです。よって、該当エントリのコメント欄における再三の「想いルール」の提示は、間違いを認めるのがイヤなので逃げているのだな、としか考えようがありません。
仮に「想いルール」なるものを有効化するのであれば、文学的表現、芸術的表現の中にであれば、抽象化の意図するものとして、わずかながらあるかも知れません。ただそれにしても、具象を言語化しているときには、書き手の能力不足を免罪するための逃避にしか映ることはないでしょう。つまり、不誠実です。
とはいえ、ちょちょんまげさんによる、やはり再三の「質問形式の指摘」は、心理的圧迫、あるいはストレスを与えるであろうこともまた、理解できないわけではありません。基本的には「重箱の隅突き」である指摘を執拗に繰り返されることによって、理想表現の強要や強制に見える側面もあるのではないか、と思います。ですので逆に、よくこれまでコメント議論を続けているものだな、とこれについては感心していることもまた、本心です。
ヒトをバカ扱いするヤツはもっとバカ「ルール」に則り、私が「どあほう」なこともまた明白ですし、アキラさんが「想いルール」というバカを続けるのも自由です。ひとには間違いを認めない自由も原理的に許されているからです。
コメント議論に対する私の意見は以上です。
アキラ様
コメントありがとうございました。
とりあえずいくつか釈明というか、まず、今回の私の心理的背景について。
まずアキラ様に申し訳なく思うのは、私にとって今回のアキラ様とのやりとりは、私の中では「対仮想愚樵氏」になってしまっていることです。
まぁ、私としては愚樵氏に腹を立てているわけですけれども、私からするならば、これは全面的に彼の責任であると思っているわけです。(無論愚樵氏サイドからは別の言い分があるでしょう)
具体的に言うならば、私に対して「自省せい」と発言した愚樵氏に対して、「自省する必要なし」というエントリを立て、TBもしているにもかかわらず、黙殺し、(TBを送り返してきましたけれど、愚樵氏が私に対して行った発言に対する直接的な言及は皆無)そのままになっていることですね。
その腹立ちが「愚樵氏に感性が似ている」とおっしゃるアキラ様をして、私が「仮想愚樵」に私の内部で仕上げてしまっているわけですね。
これについては上にも書きましたが、アキラ様にはいい迷惑な話で、申し訳なく思う。
同時に、「アキラ氏・愚樵氏コンビ」の論の立て方、進め方が「気に入らない」というのは大いにあったわけで、どうしてもツッコミたくなるという私の因果な性分も関係しています。
もう一つ不味かったなと思うのは、ご存知のとおり「騒動のプチ再燃」が愚樵亭で行われ、アキラ様が「愚樵氏」よりの横レスをなさった。
それによって、じゃばさんとアキラ様のやりとりが始まり、私は静観するつもりであったものの、(前からツッコミたいと思っていたこともあり)タイミングで私にも火がついてしまった。
よって、どうも団体戦ぽい趣きとなり、これもアキラ様にはプレッシャーだったでしょう。
ですので、私のタイミングも良くなかったと思う。
さて、とりあえず「光るナス」でのやりとりについて言及します。
まず、そちらへの言及は今回のここでのやり取りと全く関係なく、というのはウソになるわけですけれども、まずここでのやり取りが無ければ、そちらにコメントすることも無かったでしょう。
アキラ様のお言葉を借りれば、「バカじゃね?」、「浅はかなヤツだな」で済ませていたと思います。(この辺が俺のいやらしいところか?)
ですが、本質的にはアキラ様の「オトコの進化論」エントリに対する批判が動機です。
理由を列挙すると:
1.元本である山極寿一 著『オトコの進化論 ー男らしさの起源を求めて』
への軽い不信感(ちょっと匂う程度ですけれど)
(読んでもいないのに言うべきでは無いと思うのであまり言いたくなかったのですけど)
まず、京大の今西門下がまずちょっと(大いにバイアスかも知れませんが)
あと、メリット・デメリットあるのでしょうが、日本式霊長類学の方法論である「中立性は重要ではなくて、調査者と調査対象が自由に交わる」(Wikiの霊長類学より)にも私は?がある。
もちろん、シロウトである私が専門家である山極氏に?を抱くこと自体が不遜であるとは思いますが、私のバイアスになっていることは事実です。
2.日本の、霊長類学の知見を即ヒト社会にあてはめちゃうような傾向に疑問があること。
例えば、http://www.kyoiku-saisei.jp/cgi-bin/auto/mh_load.php?mode=31
(この方も京大ですね)
次の二つは山極氏本人に関するもの。
a.http://www.keiomcc.net/sekigaku-blog/2009/03/15_611.html
「山極先生の研究は、単なるゴリラの生態研究に留まらず、その知見を現代の人間社会が抱える普遍的な問題にまで敷衍していることに特徴があります。」
「人類の祖ともいえる霊長類(ゴリラやチンパンジー)の生態を知ることで、暴力とは何か、人間性とは何かを解明しよう、というのが山極先生の研究です。」
一応念のために書いておきますが、上の文章は山極氏本人のものではありません。
「人類の租である」は明らかにトンデモですしね。(しかし、こういう表現を紹介者がしてしまう「受け取られ方」も大いに問題に思う)
しかし、「その知見を現代の人間社会が抱える普遍的な問題にまで敷衍している」が本当ならば、あんまり安易に敷衍して欲しくないなぁと思うわけです。
b.http://www.news.janjan.jp/living/0704/0704214176/1.php
「ブッシュ政権の例を挙げるまでもなく、人間は、謙譲や和の精神を重んじるゴリラ的なモラルを薄め、強者のエゴが通るサルへ退化しているのか」との問いに(山極氏が)『そうです』と答えている。
もし、山極氏が本当にそう答えたのならこれはもう完璧にトンデモでしょう(いくらなんでも違うとは思いますが)
で、どうも発信者、受信者共に「ニンゲン(社会)への敷衍の仕方が強すぎる」ように思えて、特に受信者である非専門家の受けが情緒的に感じられてイヤなわけです。
(上の三つはいかにも愚樵氏がエントリのネタにしそうでしょ?)
3.で、同様の傾向をアキラ様のエントリに見たこと。
4.疑問の多い記述が散見されること
これは、せとともこ様もご指摘なさっていらっしゃいましたが、
>父親というのは、ですからあくまでも社会的な産物で、「父性」なんて本能はそもそもないんです。
この断定は(現段階の知見では)無理でしょう。愚樵氏式とも言える決め付け方だと思います。
そもそも、この上のご記述:
>父親なんて、よく考えてみたらヘンな存在ですよね。
「父親だ」とかいって威張ってたって、まず相方から「あなたが父親だわよ」と認めてもらわなければどうにもならないし、さらにその上で子どもからも「あなたがお父さんだ」と認めてもらわなければ、実は「父親」という立場にはなれないわけです。
誰の子か、彼女が黙っていれば、ホントのとこは分からないわけですから。
これに対しても、自分の子かどうかはっきりしなくても自分と性交渉があった相手が子供を生んだら自分の子である可能性は「かなりある」わけですから、取り合えずぶっ殺しちゃうよりは保護に回った方が、より「自己の遺伝子が継承されるチャンス」が増すわけですから、「父性」を否定する論拠としては弱いと思うわけです。(私が正しいって言ってませんのでその辺よろしく)
5.そして、「頃」の話になります。
まず、進化論を理解するのに次の3点の理解は必須だということです。
a.ヒトが全ての生物の進化の頂点ではないということ。
b.全ての現存の生物が(現在においての)進化の頂点であること。(NANさんご指摘の通り)
C.進化に目的は無いということ。
逆に、以上のa. b. cの反対に解釈することは進化論を理解する際に真っ先に排除されるべきである、ということです。
(で、このあたり、愚樵氏が「進化論という『科学』はそういう人の想いを否定して云々」っていかにも言いそうで、私としては凄くこだわりどころ)
私はそちらのコメント欄に書いたとおり、アキラ様が「類人猿→ヒト」という勘違いをなさっているとは思っておりませんでした。
しかし、上記a,bについては(反対の解釈で)少々その香りがする、とは感じておりました。残滓が残っているとでもいいましょうか。
アキラ様のエントリはゴリラや類人猿の話から、結局はヒトについて言及なさりたいように読めるし、実際敷衍している。
で、はっきりいうと、あの文脈で「頃」ということばは明らかに「誤表現」です。
ここから引用:
人間の場合には「生殖」と「性愛」と2つの側面があるわけです。
(引用者注:アキラ様はここで一度切るとおっしゃっていますが、そうしたところでエントリ全体が「人間社会」について語りたい、ということは変わらないでしょう?)
生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉は、ゴリラたち類人猿の頃から芽生えていて、それが独特の社会構成をつくる基礎になっているんですね。
引用ここまで:
ここでの「頃」には三種類の解釈が成り立つと思いました。
1.(ヒトが)「ゴリラたち類人猿のたぐいのもっと『下等』だった頃」
2.(ヒトが)「ゴリラたち類人猿だった頃」
3.(ヒトが)「共通先祖から類人猿と分岐したあたり、あるいは共通先祖の頃」
で、私は2(類人猿→人間)は違うだろうと思ってはいました。
1か3だと思っていたわけです。
(実際には3と読むのはかなり苦しいと思いましたが、そう言いたいのかなぁとは思いました)
すべて(ヒトが)を補っていますが、あの文章をそれ以外に読むのは不可能です。
100歩譲って、(ヒトが)を補わなかったとしても、
(分岐後の)ゴリラたち類人猿の「頃」から、と表記してどこに持って行こうというのですか?
後ほど更に混乱するのは、一度は、
>ゴリラと初期人類(+チンパンジー、ボノボ)との共通祖先の頃にはすでに芽生えていたとは言えるだろう、という理解です。
>『生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉は、様々なフィールドワークの結果を総合して考えると、類人猿と初期人類との共通祖先の頃には芽生えていたように思われ、それがそれぞれの独特の社会構成をつくる基礎になっているんですね。』
とでも書けばよかったですね。
とおっしゃっておいてから、私の
>「共通祖先の頃から」なら、なんの違和感もありません。
に対し、
>むしろこの表現の方が大問題だと、僕には思われます。
「共通祖先」についてのフィールドワークなどないからです。
「生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉は、共通祖先の頃から芽生えていて・・」などと、どうして言えましょうか。
正確・不正確以前の、それこそトンデモ話でしかなくなってしまう。
しかし、前段でそのトンデモ話だったとご説明なさっているのではないですか?
それともトンデモ話だからオブラートに包んで「重層的な意味合いを持つような文章」になさりたかったとでも?(いけね、皮肉っぽくなっちった)
それから、そもそも自分の推論であることを明記してあればトンデモだという指摘はとんでこないとい思いますが(批判、反論はありえるとは思いますがね。あ、でもあんまりトンデモだとやっぱり推論と明記でも言われるか(笑))
まぁ、とにかくアキラ様が今回こちらにコメントくださったことで、私も書きたいことが書けたので素直に感謝します。
そちらの方では、私が決して言葉をかわしたくないと思う方がフォローしてくださっているようですし。
それから、ねちっこい追求の仕方は確かに「仮想愚樵」を念頭に「逃すまい」、「言質を取ったろう」がアタマにあります。
大いに反省。(愚樵さんとやる機会があったら同じことするとは思いますけど)
これについては謝罪しときます。
とりあえずいくつか釈明というか、まず、今回の私の心理的背景について。
まずアキラ様に申し訳なく思うのは、私にとって今回のアキラ様とのやりとりは、私の中では「対仮想愚樵氏」になってしまっていることです。
まぁ、私としては愚樵氏に腹を立てているわけですけれども、私からするならば、これは全面的に彼の責任であると思っているわけです。(無論愚樵氏サイドからは別の言い分があるでしょう)
具体的に言うならば、私に対して「自省せい」と発言した愚樵氏に対して、「自省する必要なし」というエントリを立て、TBもしているにもかかわらず、黙殺し、(TBを送り返してきましたけれど、愚樵氏が私に対して行った発言に対する直接的な言及は皆無)そのままになっていることですね。
その腹立ちが「愚樵氏に感性が似ている」とおっしゃるアキラ様をして、私が「仮想愚樵」に私の内部で仕上げてしまっているわけですね。
これについては上にも書きましたが、アキラ様にはいい迷惑な話で、申し訳なく思う。
同時に、「アキラ氏・愚樵氏コンビ」の論の立て方、進め方が「気に入らない」というのは大いにあったわけで、どうしてもツッコミたくなるという私の因果な性分も関係しています。
もう一つ不味かったなと思うのは、ご存知のとおり「騒動のプチ再燃」が愚樵亭で行われ、アキラ様が「愚樵氏」よりの横レスをなさった。
それによって、じゃばさんとアキラ様のやりとりが始まり、私は静観するつもりであったものの、(前からツッコミたいと思っていたこともあり)タイミングで私にも火がついてしまった。
よって、どうも団体戦ぽい趣きとなり、これもアキラ様にはプレッシャーだったでしょう。
ですので、私のタイミングも良くなかったと思う。
さて、とりあえず「光るナス」でのやりとりについて言及します。
まず、そちらへの言及は今回のここでのやり取りと全く関係なく、というのはウソになるわけですけれども、まずここでのやり取りが無ければ、そちらにコメントすることも無かったでしょう。
アキラ様のお言葉を借りれば、「バカじゃね?」、「浅はかなヤツだな」で済ませていたと思います。(この辺が俺のいやらしいところか?)
ですが、本質的にはアキラ様の「オトコの進化論」エントリに対する批判が動機です。
理由を列挙すると:
1.元本である山極寿一 著『オトコの進化論 ー男らしさの起源を求めて』
への軽い不信感(ちょっと匂う程度ですけれど)
(読んでもいないのに言うべきでは無いと思うのであまり言いたくなかったのですけど)
まず、京大の今西門下がまずちょっと(大いにバイアスかも知れませんが)
あと、メリット・デメリットあるのでしょうが、日本式霊長類学の方法論である「中立性は重要ではなくて、調査者と調査対象が自由に交わる」(Wikiの霊長類学より)にも私は?がある。
もちろん、シロウトである私が専門家である山極氏に?を抱くこと自体が不遜であるとは思いますが、私のバイアスになっていることは事実です。
2.日本の、霊長類学の知見を即ヒト社会にあてはめちゃうような傾向に疑問があること。
例えば、http://www.kyoiku-saisei.jp/cgi-bin/auto/mh_load.php?mode=31
(この方も京大ですね)
次の二つは山極氏本人に関するもの。
a.http://www.keiomcc.net/sekigaku-blog/2009/03/15_611.html
「山極先生の研究は、単なるゴリラの生態研究に留まらず、その知見を現代の人間社会が抱える普遍的な問題にまで敷衍していることに特徴があります。」
「人類の祖ともいえる霊長類(ゴリラやチンパンジー)の生態を知ることで、暴力とは何か、人間性とは何かを解明しよう、というのが山極先生の研究です。」
一応念のために書いておきますが、上の文章は山極氏本人のものではありません。
「人類の租である」は明らかにトンデモですしね。(しかし、こういう表現を紹介者がしてしまう「受け取られ方」も大いに問題に思う)
しかし、「その知見を現代の人間社会が抱える普遍的な問題にまで敷衍している」が本当ならば、あんまり安易に敷衍して欲しくないなぁと思うわけです。
b.http://www.news.janjan.jp/living/0704/0704214176/1.php
「ブッシュ政権の例を挙げるまでもなく、人間は、謙譲や和の精神を重んじるゴリラ的なモラルを薄め、強者のエゴが通るサルへ退化しているのか」との問いに(山極氏が)『そうです』と答えている。
もし、山極氏が本当にそう答えたのならこれはもう完璧にトンデモでしょう(いくらなんでも違うとは思いますが)
で、どうも発信者、受信者共に「ニンゲン(社会)への敷衍の仕方が強すぎる」ように思えて、特に受信者である非専門家の受けが情緒的に感じられてイヤなわけです。
(上の三つはいかにも愚樵氏がエントリのネタにしそうでしょ?)
3.で、同様の傾向をアキラ様のエントリに見たこと。
4.疑問の多い記述が散見されること
これは、せとともこ様もご指摘なさっていらっしゃいましたが、
>父親というのは、ですからあくまでも社会的な産物で、「父性」なんて本能はそもそもないんです。
この断定は(現段階の知見では)無理でしょう。愚樵氏式とも言える決め付け方だと思います。
そもそも、この上のご記述:
>父親なんて、よく考えてみたらヘンな存在ですよね。
「父親だ」とかいって威張ってたって、まず相方から「あなたが父親だわよ」と認めてもらわなければどうにもならないし、さらにその上で子どもからも「あなたがお父さんだ」と認めてもらわなければ、実は「父親」という立場にはなれないわけです。
誰の子か、彼女が黙っていれば、ホントのとこは分からないわけですから。
これに対しても、自分の子かどうかはっきりしなくても自分と性交渉があった相手が子供を生んだら自分の子である可能性は「かなりある」わけですから、取り合えずぶっ殺しちゃうよりは保護に回った方が、より「自己の遺伝子が継承されるチャンス」が増すわけですから、「父性」を否定する論拠としては弱いと思うわけです。(私が正しいって言ってませんのでその辺よろしく)
5.そして、「頃」の話になります。
まず、進化論を理解するのに次の3点の理解は必須だということです。
a.ヒトが全ての生物の進化の頂点ではないということ。
b.全ての現存の生物が(現在においての)進化の頂点であること。(NANさんご指摘の通り)
C.進化に目的は無いということ。
逆に、以上のa. b. cの反対に解釈することは進化論を理解する際に真っ先に排除されるべきである、ということです。
(で、このあたり、愚樵氏が「進化論という『科学』はそういう人の想いを否定して云々」っていかにも言いそうで、私としては凄くこだわりどころ)
私はそちらのコメント欄に書いたとおり、アキラ様が「類人猿→ヒト」という勘違いをなさっているとは思っておりませんでした。
しかし、上記a,bについては(反対の解釈で)少々その香りがする、とは感じておりました。残滓が残っているとでもいいましょうか。
アキラ様のエントリはゴリラや類人猿の話から、結局はヒトについて言及なさりたいように読めるし、実際敷衍している。
で、はっきりいうと、あの文脈で「頃」ということばは明らかに「誤表現」です。
ここから引用:
人間の場合には「生殖」と「性愛」と2つの側面があるわけです。
(引用者注:アキラ様はここで一度切るとおっしゃっていますが、そうしたところでエントリ全体が「人間社会」について語りたい、ということは変わらないでしょう?)
生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉は、ゴリラたち類人猿の頃から芽生えていて、それが独特の社会構成をつくる基礎になっているんですね。
引用ここまで:
ここでの「頃」には三種類の解釈が成り立つと思いました。
1.(ヒトが)「ゴリラたち類人猿のたぐいのもっと『下等』だった頃」
2.(ヒトが)「ゴリラたち類人猿だった頃」
3.(ヒトが)「共通先祖から類人猿と分岐したあたり、あるいは共通先祖の頃」
で、私は2(類人猿→人間)は違うだろうと思ってはいました。
1か3だと思っていたわけです。
(実際には3と読むのはかなり苦しいと思いましたが、そう言いたいのかなぁとは思いました)
すべて(ヒトが)を補っていますが、あの文章をそれ以外に読むのは不可能です。
100歩譲って、(ヒトが)を補わなかったとしても、
(分岐後の)ゴリラたち類人猿の「頃」から、と表記してどこに持って行こうというのですか?
後ほど更に混乱するのは、一度は、
>ゴリラと初期人類(+チンパンジー、ボノボ)との共通祖先の頃にはすでに芽生えていたとは言えるだろう、という理解です。
>『生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉は、様々なフィールドワークの結果を総合して考えると、類人猿と初期人類との共通祖先の頃には芽生えていたように思われ、それがそれぞれの独特の社会構成をつくる基礎になっているんですね。』
とでも書けばよかったですね。
とおっしゃっておいてから、私の
>「共通祖先の頃から」なら、なんの違和感もありません。
に対し、
>むしろこの表現の方が大問題だと、僕には思われます。
「共通祖先」についてのフィールドワークなどないからです。
「生殖とあまり関係のない性愛的な性交渉は、共通祖先の頃から芽生えていて・・」などと、どうして言えましょうか。
正確・不正確以前の、それこそトンデモ話でしかなくなってしまう。
しかし、前段でそのトンデモ話だったとご説明なさっているのではないですか?
それともトンデモ話だからオブラートに包んで「重層的な意味合いを持つような文章」になさりたかったとでも?(いけね、皮肉っぽくなっちった)
それから、そもそも自分の推論であることを明記してあればトンデモだという指摘はとんでこないとい思いますが(批判、反論はありえるとは思いますがね。あ、でもあんまりトンデモだとやっぱり推論と明記でも言われるか(笑))
まぁ、とにかくアキラ様が今回こちらにコメントくださったことで、私も書きたいことが書けたので素直に感謝します。
そちらの方では、私が決して言葉をかわしたくないと思う方がフォローしてくださっているようですし。
それから、ねちっこい追求の仕方は確かに「仮想愚樵」を念頭に「逃すまい」、「言質を取ったろう」がアタマにあります。
大いに反省。(愚樵さんとやる機会があったら同じことするとは思いますけど)
これについては謝罪しときます。
南郷さん、NANさん
アキラさんへの返答でヘトヘトになりました。
南郷さんご指摘の通り息切れ状態。
とりあえず、南郷、NAN両巨頭の私のブログでの邂逅を大いに喜んでおります。
よくわかってないブログ主としてはお二人のコメントの解読に必死でごわす。
明日レスお返しできるやうぐぁんばります。
南郷さんご指摘の通り息切れ状態。
とりあえず、南郷、NAN両巨頭の私のブログでの邂逅を大いに喜んでおります。
よくわかってないブログ主としてはお二人のコメントの解読に必死でごわす。
明日レスお返しできるやうぐぁんばります。
これで
気が済んだ?
ちいせーやっちゃな〜W
ちいせーやっちゃな〜W
巨頭でも巨根でもないって
NANさん。「デコピン」の応酬という感じはしますし、「想いルール」をそういう風に一刀両断にしちゃうといいんですが。
ところが、アキラさんはおそらく、知性や理性というものが、論理性であったり、情報を整合性を以て統合することである以上、知的な行為としての言語コミュニケーションにおいても「論理や整合性」というのが「共通の言語」のデフォルトであることは否定していないと思う。実際に私とのコメントの中では「論理と整合性」をキープしようとしている。
その上で、限られた場では、「以心伝心」や「考えるな、感じろ」をやっても「愚行権」の範囲でしょ、となっちゃう。
アキラさんに関してはそれでもいいんです。問題は、いずれがデフォルトかとか、その場がどういう場なのかもわからない人ですね。
延々と、こういうことをやっているのが、その人たちにも効果があればいいんですけど、長くなりすぎですね。
ちょちょんまげさん。いくら何でも、アキラさんを「愚樵クローン」にしちゃうのは、失礼ですね。
私の「手前勝手な決めつけ」によると、アキラさんてけっこう利己的で腹黒いんですよ。というのは、自分の知的好奇心というか探求心が大事で、それで、トンデモであろうが一応は承って、こっそり取捨選択するみたいなところがあると思っています。フォークロアに興味がある人は、フォークロアの内容を信じているわけではないけれども、聞かなきゃいけない。
例えば、ゴリラとか類人猿と一緒に生活している人を見ても、ゴリラとか類人猿に進化しちゃったと思わない。ゴリラとか類人猿を参与観察していると思う。私としては、アキラさんに関して、その可能性を否定していない。そして、どちらであっても、本人の「公式見解」は同じになるから、聞きもしない。
アキラさんが、この論議を続けているのも、自身のテーマに何か使えるヒントがあるかも知れないってことかと思うんですね。だから、メールでも良かったと。「議論」に拘りがあって、客観的な検証の役割が必要だし、公開でないと意味がないちょちょんまげさんはスタンスが違うと思っています。
それで、私は、アキラさんやちょちょんまげさんに比して、はるかに愚樵さんを読んでいません。それでも、私とアキラさんとでは、愚樵さんに関する評価で一致できる部分があるのは、これまでの流れで明らかですね。アキラさんが「感性」(アキラさんの使う「感性」は、無意識の情報の選択性や選好の意味の場合が多く、愚樵さん定義とは違いますが)において近いということと、彼の「論」やコミュニケーション能力への評価とは全く別の話です。
ですので、愚樵さんの感性についてではなく、その「論」であるなり、スタンスについて仰りたいのなら、アキラさんに向けて言うことじゃないでしょう。
私もアキラさんも、愚樵さんについて言及している部分は「上から目線」ですよね。それは意識してそうしているわけではなく、俯瞰的に見るから、そうならざるを得ないのです。一方の「自省せい」というのは、単なる「池乃めだかメソッド」での「上から目線」ですよね。それに腹を立てるというのは、私には理解できないんですけれども、何とかしたいのなら、愚樵さん論でも展開されてはいかがですか。
彼は「モノを知らない樵が脈絡のない空論を振り回す」と宣言されています。「モノを知らない」というのは「単語」を知っていても背景の体系的な理解がないということですね。「脈絡のない」というのは、論理性や整合性がないということですね。「空論」というのは、現実には無意味ということですよね。「樵」というのは「信じなければわからない」けれども、彼の自己申告の他の部分は、私の彼への評価と一致しています。ちょちょんまげさんは、どのように評価されているのでしょうか。
その上で、私も「空論」については、一種の遊戯として楽しむことはあります。場所をわきまえた上でですが。でも、ちょちょんまげさんは「モノを知らない」のに言及することや、「脈絡のない」については、矜持としてできないわけでしょう。それについても、仰りたいこともあるんじゃないですか。
ところが、アキラさんはおそらく、知性や理性というものが、論理性であったり、情報を整合性を以て統合することである以上、知的な行為としての言語コミュニケーションにおいても「論理や整合性」というのが「共通の言語」のデフォルトであることは否定していないと思う。実際に私とのコメントの中では「論理と整合性」をキープしようとしている。
その上で、限られた場では、「以心伝心」や「考えるな、感じろ」をやっても「愚行権」の範囲でしょ、となっちゃう。
アキラさんに関してはそれでもいいんです。問題は、いずれがデフォルトかとか、その場がどういう場なのかもわからない人ですね。
延々と、こういうことをやっているのが、その人たちにも効果があればいいんですけど、長くなりすぎですね。
ちょちょんまげさん。いくら何でも、アキラさんを「愚樵クローン」にしちゃうのは、失礼ですね。
私の「手前勝手な決めつけ」によると、アキラさんてけっこう利己的で腹黒いんですよ。というのは、自分の知的好奇心というか探求心が大事で、それで、トンデモであろうが一応は承って、こっそり取捨選択するみたいなところがあると思っています。フォークロアに興味がある人は、フォークロアの内容を信じているわけではないけれども、聞かなきゃいけない。
例えば、ゴリラとか類人猿と一緒に生活している人を見ても、ゴリラとか類人猿に進化しちゃったと思わない。ゴリラとか類人猿を参与観察していると思う。私としては、アキラさんに関して、その可能性を否定していない。そして、どちらであっても、本人の「公式見解」は同じになるから、聞きもしない。
アキラさんが、この論議を続けているのも、自身のテーマに何か使えるヒントがあるかも知れないってことかと思うんですね。だから、メールでも良かったと。「議論」に拘りがあって、客観的な検証の役割が必要だし、公開でないと意味がないちょちょんまげさんはスタンスが違うと思っています。
それで、私は、アキラさんやちょちょんまげさんに比して、はるかに愚樵さんを読んでいません。それでも、私とアキラさんとでは、愚樵さんに関する評価で一致できる部分があるのは、これまでの流れで明らかですね。アキラさんが「感性」(アキラさんの使う「感性」は、無意識の情報の選択性や選好の意味の場合が多く、愚樵さん定義とは違いますが)において近いということと、彼の「論」やコミュニケーション能力への評価とは全く別の話です。
ですので、愚樵さんの感性についてではなく、その「論」であるなり、スタンスについて仰りたいのなら、アキラさんに向けて言うことじゃないでしょう。
私もアキラさんも、愚樵さんについて言及している部分は「上から目線」ですよね。それは意識してそうしているわけではなく、俯瞰的に見るから、そうならざるを得ないのです。一方の「自省せい」というのは、単なる「池乃めだかメソッド」での「上から目線」ですよね。それに腹を立てるというのは、私には理解できないんですけれども、何とかしたいのなら、愚樵さん論でも展開されてはいかがですか。
彼は「モノを知らない樵が脈絡のない空論を振り回す」と宣言されています。「モノを知らない」というのは「単語」を知っていても背景の体系的な理解がないということですね。「脈絡のない」というのは、論理性や整合性がないということですね。「空論」というのは、現実には無意味ということですよね。「樵」というのは「信じなければわからない」けれども、彼の自己申告の他の部分は、私の彼への評価と一致しています。ちょちょんまげさんは、どのように評価されているのでしょうか。
その上で、私も「空論」については、一種の遊戯として楽しむことはあります。場所をわきまえた上でですが。でも、ちょちょんまげさんは「モノを知らない」のに言及することや、「脈絡のない」については、矜持としてできないわけでしょう。それについても、仰りたいこともあるんじゃないですか。
ありがとうございました
>NANさん
コメント、ありがとうございました。
ちょちょんまげさんのものと合わせて、今後の参考とさせていただき、生かしていければと思っています。
向こうのコメント欄にも書きましたが、言いたかったことの表現のしかたとしてはマズかったと思っておりますし、ちょちょんまげさんのコメントに対して、僕の方で勝手に「攻撃性」を感じてしまったので、「承らない」方向で対応してしまいましたから。
☆☆☆☆☆
アキラさんが「想いルール」というバカを続けるのも自由です。
☆☆☆☆☆
もちろん続けますよ。 (^o^)
>ちょちょんまげさん
きちんと伝えていただいて、感謝しています。
ありがとうございました。
☆☆☆☆☆
「アキラ氏・愚樵氏コンビ」の論の立て方、進め方が「気に入らない」というのは大いにあったわけで、
☆☆☆☆☆
これは了解しています。
残念ですけど、しかたありません。
愚樵さんはどうなのかはよく分かりませんが、僕自身は、あのような(このような?)価値観と方法論の「クソ野郎」な人間なものですから。
ちょちょんまげさんのような方からすれば、「バカじゃね?」だと思います。
そうして、それでよいと思います。
当然ですが本心ですよ。
僕は、おそらくちょちょんまげさんがことごとく「気に入らない」と思うような人たちばかり、好きなんですよ。 (^_^;)
「京大の今西門下がまずちょっと・・」と仰るのは、理解できます。
僕自身は、逆にその「ちょっと・・」のところが好きな性分なものですから、これはもうそもそも合わせようがありません。
今西錦司も好きですし、山本七平も好き、三木成夫、養老孟司、江上波夫・・・そんな人ばかり好きなんです。
ですから、ちょちょんまげさんから見れば「アウト」もいいところでしょう。
その延長線上で、山極氏がうさんくさい気がすると仰るのも、それはそれで理解できます。
「誤表現だ」ということについては、了解しました。
僕が言いたかったことは少し違うので、まずは、その言いたかったことの表現のしかたとしてマズかったと思ってます(1)。
また、ちょちょんまげさんが指摘されているようにとる人も当然いるわけですから、そこももうちょっと考慮した方がよかろうとも思いました(2)。
ちょちょんまげさんのコメントに対して、僕の方で勝手に「攻撃性」を感じてしまったので、(1)の方のみで対応してしまいましたが、もちろん(2)として承るべきことでもありますから、そこはこちらも意地を張ってしまいました。
ともかく、今回ちょちょんまげさんとやりとりして得られたことは、今後の参考とさせていただき、生かしていければと思っています。
「想いルール」というバカをやってる人間としては、ちょっと大変ですけど。。。
コメント、ありがとうございました。
ちょちょんまげさんのものと合わせて、今後の参考とさせていただき、生かしていければと思っています。
向こうのコメント欄にも書きましたが、言いたかったことの表現のしかたとしてはマズかったと思っておりますし、ちょちょんまげさんのコメントに対して、僕の方で勝手に「攻撃性」を感じてしまったので、「承らない」方向で対応してしまいましたから。
☆☆☆☆☆
アキラさんが「想いルール」というバカを続けるのも自由です。
☆☆☆☆☆
もちろん続けますよ。 (^o^)
>ちょちょんまげさん
きちんと伝えていただいて、感謝しています。
ありがとうございました。
☆☆☆☆☆
「アキラ氏・愚樵氏コンビ」の論の立て方、進め方が「気に入らない」というのは大いにあったわけで、
☆☆☆☆☆
これは了解しています。
残念ですけど、しかたありません。
愚樵さんはどうなのかはよく分かりませんが、僕自身は、あのような(このような?)価値観と方法論の「クソ野郎」な人間なものですから。
ちょちょんまげさんのような方からすれば、「バカじゃね?」だと思います。
そうして、それでよいと思います。
当然ですが本心ですよ。
僕は、おそらくちょちょんまげさんがことごとく「気に入らない」と思うような人たちばかり、好きなんですよ。 (^_^;)
「京大の今西門下がまずちょっと・・」と仰るのは、理解できます。
僕自身は、逆にその「ちょっと・・」のところが好きな性分なものですから、これはもうそもそも合わせようがありません。
今西錦司も好きですし、山本七平も好き、三木成夫、養老孟司、江上波夫・・・そんな人ばかり好きなんです。
ですから、ちょちょんまげさんから見れば「アウト」もいいところでしょう。
その延長線上で、山極氏がうさんくさい気がすると仰るのも、それはそれで理解できます。
「誤表現だ」ということについては、了解しました。
僕が言いたかったことは少し違うので、まずは、その言いたかったことの表現のしかたとしてマズかったと思ってます(1)。
また、ちょちょんまげさんが指摘されているようにとる人も当然いるわけですから、そこももうちょっと考慮した方がよかろうとも思いました(2)。
ちょちょんまげさんのコメントに対して、僕の方で勝手に「攻撃性」を感じてしまったので、(1)の方のみで対応してしまいましたが、もちろん(2)として承るべきことでもありますから、そこはこちらも意地を張ってしまいました。
ともかく、今回ちょちょんまげさんとやりとりして得られたことは、今後の参考とさせていただき、生かしていければと思っています。
「想いルール」というバカをやってる人間としては、ちょっと大変ですけど。。。
「共通の言語」を作る?
アキラさま
>その場その場でお互いの「共通の言語」を作りながら
>話をすすめなきゃ話がうまく進まない、ということが、
>僕としてはそもそもの前提となっている
(2009-03-31)
このコメント欄を見ていると、ちょちょんまげさまが、
認識のすりあわせをしようとしているのに、極端なしきいを出したり、
具体性のない一般論しか言わなかったりで、
あなたは、ちっとも「共通の言語」を、作ろうとしないようですけど?
ただ言っているだけで、実際にはいつどこで、
「そもそもの前提」にしているのか、ぜんぜんわからないです。
>その場その場でお互いの「共通の言語」を作りながら
>話をすすめなきゃ話がうまく進まない、ということが、
>僕としてはそもそもの前提となっている
(2009-03-31)
このコメント欄を見ていると、ちょちょんまげさまが、
認識のすりあわせをしようとしているのに、極端なしきいを出したり、
具体性のない一般論しか言わなかったりで、
あなたは、ちっとも「共通の言語」を、作ろうとしないようですけど?
ただ言っているだけで、実際にはいつどこで、
「そもそもの前提」にしているのか、ぜんぜんわからないです。
No title
アキラさま
========
また僕は、自分が「世間一般だ」と感じるところを 常に一応疑います。
疑ってかかった結果、たとえそれがやはり
「世間一般だろう」と思われたにしても、
それを安易に前提にしてしまうことには警戒をします。
そうしてしまうことによって、そこから外れるマイノリティの諸事情を
封殺しかねないとも考えるからです。
ですから同様に、ある人が「これは世間一般だろう」と言うものについても、
それを共通前提としてしまうことに関しては 容易には認めないのです。
========(2009-03-20)
もともとなにを取りざたしていたかというと、
「ごん」氏の「ひとりコメントスクラム」や、
「死ぬのはやつらだ」氏の、「絨毯爆撃」やセクハラ発言が、
「一線を超えている」というものだったと思います。
つまり、アキラさまは、このような暴力的行為が
「一線を超えている」ことを、「一応疑う」のであり、
「世間一般」で「一線を超えている」という考えかたに対しては、
「警戒」して「容易には認めない」のですね。
つまり、セクハラやブログ荒らしなどの暴力行為も、
適切な反撃手段のうちと考える人たちに対して、
「封殺しかねない」ことにならないよう、一定の尊重をすると、
アキラさまは考えている、ということでよろしいのかな?
========
また僕は、自分が「世間一般だ」と感じるところを 常に一応疑います。
疑ってかかった結果、たとえそれがやはり
「世間一般だろう」と思われたにしても、
それを安易に前提にしてしまうことには警戒をします。
そうしてしまうことによって、そこから外れるマイノリティの諸事情を
封殺しかねないとも考えるからです。
ですから同様に、ある人が「これは世間一般だろう」と言うものについても、
それを共通前提としてしまうことに関しては 容易には認めないのです。
========(2009-03-20)
もともとなにを取りざたしていたかというと、
「ごん」氏の「ひとりコメントスクラム」や、
「死ぬのはやつらだ」氏の、「絨毯爆撃」やセクハラ発言が、
「一線を超えている」というものだったと思います。
つまり、アキラさまは、このような暴力的行為が
「一線を超えている」ことを、「一応疑う」のであり、
「世間一般」で「一線を超えている」という考えかたに対しては、
「警戒」して「容易には認めない」のですね。
つまり、セクハラやブログ荒らしなどの暴力行為も、
適切な反撃手段のうちと考える人たちに対して、
「封殺しかねない」ことにならないよう、一定の尊重をすると、
アキラさまは考えている、ということでよろしいのかな?
巨根と球根
ちょちょんまげさん
亀頭があまり大きいと不便だと思います。私はさいわいなことにノーマル形状なので不都合はありません。しかしもしかすると、ちょちょんまげさんにとっては残念なことなのでしょうか。そんなときは球根でも食べて、元気を出してください。(かなり難しいとは思います)
これは想像に過ぎませんが、ちょちょんまげさんが持つ腹立たしさの原動力とは、一種の正義感なのではないでしょうか。どうも議論における批判応答を超えた、情緒的な展開が繰り広げられてきている印象を私は持ちます。
もちろん、情緒的な応答、つまりは「穏やかなケンカ」が悪いだとか、止めるべきだ、などと述べるつもりは毛頭ありません。ただ、正義が念頭に、いや、深層にあるようなケースですと、それは相手の側にもまったく同じ正義という名の都合と保身が働くのですから、水掛け論と化してしまうことは当然の流れと云えるでしょう。
以前、ナイジェリアについての対話の中で、ちょちょんまげさんが挙げていただいたエントリが私は好きです。今回の量子論ネタも、情報鮮度が高くてイイ。勝手な希望ですが、そういう記事を量産されることのほうが、結果的に良いものを生み出せるのではないでしょうか。
亀頭があまり大きいと不便だと思います。私はさいわいなことにノーマル形状なので不都合はありません。しかしもしかすると、ちょちょんまげさんにとっては残念なことなのでしょうか。そんなときは球根でも食べて、元気を出してください。(かなり難しいとは思います)
これは想像に過ぎませんが、ちょちょんまげさんが持つ腹立たしさの原動力とは、一種の正義感なのではないでしょうか。どうも議論における批判応答を超えた、情緒的な展開が繰り広げられてきている印象を私は持ちます。
もちろん、情緒的な応答、つまりは「穏やかなケンカ」が悪いだとか、止めるべきだ、などと述べるつもりは毛頭ありません。ただ、正義が念頭に、いや、深層にあるようなケースですと、それは相手の側にもまったく同じ正義という名の都合と保身が働くのですから、水掛け論と化してしまうことは当然の流れと云えるでしょう。
以前、ナイジェリアについての対話の中で、ちょちょんまげさんが挙げていただいたエントリが私は好きです。今回の量子論ネタも、情報鮮度が高くてイイ。勝手な希望ですが、そういう記事を量産されることのほうが、結果的に良いものを生み出せるのではないでしょうか。
球根と地下茎
ちょちょんまげさんの背景に「正義」があるという感覚は私にはないのですが。「正義」というのは最も懐疑しやすい価値判断ですから、むしろ、そこに陥らないような配慮くらいはされているかと思うのです。不公正である、ダブルスタンダードである、ということを「邪悪」とすることを「正義」と定義するならば、あるかも知れませんけれども。
むしろ私は、苛立ちがあると感じています。あまりにも通じない、という苛立ちです。反論もなく、ケンカにもならないという通じなさですね。
お通じがないと、腸内で腐敗発酵を起こし、ガスが発生しやすくなります。しかし、便やガスは出口が塞がれており、腸の口側腸管は便やガスを肛門側に送ろうと活動し、腹が立つ感覚になったり、消化液が消化管に貯留しやすくなりムカつきの原因となります。
便秘、整腸作用の効果のあるピーマンを食べましょう。
むしろ私は、苛立ちがあると感じています。あまりにも通じない、という苛立ちです。反論もなく、ケンカにもならないという通じなさですね。
お通じがないと、腸内で腐敗発酵を起こし、ガスが発生しやすくなります。しかし、便やガスは出口が塞がれており、腸の口側腸管は便やガスを肛門側に送ろうと活動し、腹が立つ感覚になったり、消化液が消化管に貯留しやすくなりムカつきの原因となります。
便秘、整腸作用の効果のあるピーマンを食べましょう。
「想像」論
他者の心理を想像する行為はよろしくない、と思っていますが、一応文意についての補足を。
>不公正である、ダブルスタンダードである、ということを「邪悪」とすることを「正義」と定義するならば、あるかも知れませんけれども。
ここで私が述べた正義感とは、自己の利益を侵害するものに対する情緒的反応ではなく、南郷さんが指摘する類のものです。もちろん「正義感」という形容は相応しくないかも知れませんが、腹立たしさの根底にあるもの、というかなり広い意味において使用しました。
苛立ちにせよ、腹立たしさにせよ、そうしたネガティブな情緒反応を示す理由として例示してみただけのことです。よりうまい表現があれば、ぜひそちらを採用したいと思います。
>不公正である、ダブルスタンダードである、ということを「邪悪」とすることを「正義」と定義するならば、あるかも知れませんけれども。
ここで私が述べた正義感とは、自己の利益を侵害するものに対する情緒的反応ではなく、南郷さんが指摘する類のものです。もちろん「正義感」という形容は相応しくないかも知れませんが、腹立たしさの根底にあるもの、というかなり広い意味において使用しました。
苛立ちにせよ、腹立たしさにせよ、そうしたネガティブな情緒反応を示す理由として例示してみただけのことです。よりうまい表現があれば、ぜひそちらを採用したいと思います。
「深化」論
NANさま。了解いたしました。
かように「正義」という単語も共通の言語とはならないわけですので、かような応答によって、概念が確定していき、より適切な表現へと深化していけばいいことかと。
いずれにせよ、ピーマンは食べましょう。
かように「正義」という単語も共通の言語とはならないわけですので、かような応答によって、概念が確定していき、より適切な表現へと深化していけばいいことかと。
いずれにせよ、ピーマンは食べましょう。
ここにも-1確率…
さっき私がピーマンたっぷりスパゲティを食べたことをなぜ知っている!?
巨猾
南郷さん
>その上で、限られた場では、「以心伝心」や「考えるな、感じろ」をやっても「愚行権」の範囲でしょ、となっちゃう。
これについて基本的になんの異論もないのですが、「場」もともかく「内容」にも寄るのではないかな、と。。
アキラ様も認められたように、その場が「想いルール」でしきられているかどうかは、(ああ、強調しておきたいことは、私は「想いルール」、「論理整合ルール」の二分法に同意しているわけではありません。あくまでアキラ様の論に乗ったということで話を進めるならば、というスタンスで続けてきています。南郷さんはご承知でしょうが)「言語」を使っている以上はその性格上「論理中心(あるいは、「のみ」)で話している」状態と見分けがつき難いことが多い。
勿論つく場合もあるのですけれども、かの「進化論」の話題や、ある程度論拠を示した論の進め方をしているように(見える)時は、普通に見れば「論理で進めている」と思いますよね。
で、今回の場合、私の指摘の仕方にも大問題があったわけですけれど、指摘してみると「想い」だと言われる。
これはもう結果でしかわからないわけで、実際お手上げです。
>自分の知的好奇心というか探求心が大事で、それで、トンデモであろうが一応は承って、こっそり取捨選択するみたいなところがあると思っています。
なるほど。
私にはこういう視点はありませんでした。
そしてアキラ様にあって私に無い「感性」なんでしょう。
NANさんの私への疑問にも通じる部分もあると思うのですが、私だと「面白くない(なさそうな)トンデモは即撥ね付ける」になっちゃいますね。
確かに、私は(全然興味がない場合や、利害が絡まない場合は)つまらなければ即横を向いちゃうタイプですね。
そのあたり、アキラ様のコミュニケーションの仕方は私なんぞには「トンデモだろうがアホくさい陰謀論だろうが許容」に見えちまうのですね、ふむふむ。
ただ、「自分が承ってるんだから相手も承ってくれるだろう」という勘違いには大いになりそうですな。ま、実際多く見てきたことですけれど。
>彼は「モノを知らない樵が脈絡のない空論を振り回す」と宣言されています。「モノを知らない」というのは「単語」を知っていても背景の体系的な理解がないということですね。「脈絡のない」というのは、論理性や整合性がないということですね。「空論」というのは、現実には無意味ということですよね。「樵」というのは「信じなければわからない」けれども、彼の自己申告の他の部分は、私の彼への評価と一致しています。ちょちょんまげさんは、どのように評価されているのでしょうか。
「御意」にございます。
BROG BLUES氏の
>感だ、嗅覚だ、無責任なことだ、と、さんざん予防線を張りながらの言いたい放題は、卑怯でありましょう。
に深く「共感」、そして、愚樵氏のおっしゃる、
>記事を書く私が必要であると考えば、予防線を今後も張ります。その判断は私の専権事項です。
>それに、お気づきになっていただけませんか? 当ブログはタイトルからして「愚樵空論=愚かな樵の戯言」です。タイトルがすでに予防線です。つまり、予防線は当ブログのスタイルでもある。
>その心は、私がこの場で展開する話を戯言と読んでいただいても結構、それは読み手にお任せしますということです。そうした上で、堂々と自分の思うことを述べてみる。卑怯でしょうか、このスタイルは?
「はい、卑怯です」と言いたくなります(正義感でしょうか?)
>一方の「自省せい」というのは、単なる「池乃めだかメソッド」での「上から目線」ですよね。それに腹を立てるというのは、私には理解できないんですけれども
私は愚樵氏との議論を「楽しんで」いましたからね。
裏切られたという感覚が強いです。
いまは「楽しんだ」ことを少々後悔していますが。
>いくら何でも、アキラさんを「愚樵クローン」にしちゃうのは、失礼ですね。
だったのでしょうか。
あ、標的にしちまったことは失礼だったと思います。
ですが、最後のレス及び、「ナス」でコメントなさっていることには少々失望があります。
その理由は:
1.>父親というのは、ですからあくまでも社会的な産物で、「父性」なんて本能はそもそもないんです。
この断定に対する私の「無理だろう」という評価に対する反論あるいは同意をせず無視していること。
2.「誤表現」については「了解」とのことですが、「了解」の意味があやふやなこと。
私の言いたいことを「了解」したのか、アキラ様が「誤表現をしたこと」を「了解」したのかがはっきりしません。
>僕が言いたかったことは少し違うので、まずは、その言いたかったことの表現のしかたとしてマズかったと思ってます(1)。
>また、ちょちょんまげさんが指摘されているようにとる人も当然いるわけですから、そこももうちょっと考慮した方がよかろうとも思いました(2)。
このニュアンスから察するに「あなたの言いたかったことは了解した」だったのでしょうけれども、そのあたり(了解の意味)が「重層的」な表現になっているのは私にはどうにも解せません。
南郷さんは、このあたりにこだわるのは、私の方がおかしいとお思いになりますか?(重箱の隅でしょうか)
あるいは、
>「しきい」までの範囲をアタリマエと考えていいですね
私の「しきい」の範囲はアタリマエではないということでしょうか?
あるいは。あくまで、「想いルール」を続けるという意思表明あたりで捕らえた方がよろしいのでしょうか?そのご意思に文句をつける筋合いはないし、異論もございませんが、少々愚樵氏とのやりとり後と同様の虚脱感というか、脱力感があります。
>その上で、限られた場では、「以心伝心」や「考えるな、感じろ」をやっても「愚行権」の範囲でしょ、となっちゃう。
これについて基本的になんの異論もないのですが、「場」もともかく「内容」にも寄るのではないかな、と。。
アキラ様も認められたように、その場が「想いルール」でしきられているかどうかは、(ああ、強調しておきたいことは、私は「想いルール」、「論理整合ルール」の二分法に同意しているわけではありません。あくまでアキラ様の論に乗ったということで話を進めるならば、というスタンスで続けてきています。南郷さんはご承知でしょうが)「言語」を使っている以上はその性格上「論理中心(あるいは、「のみ」)で話している」状態と見分けがつき難いことが多い。
勿論つく場合もあるのですけれども、かの「進化論」の話題や、ある程度論拠を示した論の進め方をしているように(見える)時は、普通に見れば「論理で進めている」と思いますよね。
で、今回の場合、私の指摘の仕方にも大問題があったわけですけれど、指摘してみると「想い」だと言われる。
これはもう結果でしかわからないわけで、実際お手上げです。
>自分の知的好奇心というか探求心が大事で、それで、トンデモであろうが一応は承って、こっそり取捨選択するみたいなところがあると思っています。
なるほど。
私にはこういう視点はありませんでした。
そしてアキラ様にあって私に無い「感性」なんでしょう。
NANさんの私への疑問にも通じる部分もあると思うのですが、私だと「面白くない(なさそうな)トンデモは即撥ね付ける」になっちゃいますね。
確かに、私は(全然興味がない場合や、利害が絡まない場合は)つまらなければ即横を向いちゃうタイプですね。
そのあたり、アキラ様のコミュニケーションの仕方は私なんぞには「トンデモだろうがアホくさい陰謀論だろうが許容」に見えちまうのですね、ふむふむ。
ただ、「自分が承ってるんだから相手も承ってくれるだろう」という勘違いには大いになりそうですな。ま、実際多く見てきたことですけれど。
>彼は「モノを知らない樵が脈絡のない空論を振り回す」と宣言されています。「モノを知らない」というのは「単語」を知っていても背景の体系的な理解がないということですね。「脈絡のない」というのは、論理性や整合性がないということですね。「空論」というのは、現実には無意味ということですよね。「樵」というのは「信じなければわからない」けれども、彼の自己申告の他の部分は、私の彼への評価と一致しています。ちょちょんまげさんは、どのように評価されているのでしょうか。
「御意」にございます。
BROG BLUES氏の
>感だ、嗅覚だ、無責任なことだ、と、さんざん予防線を張りながらの言いたい放題は、卑怯でありましょう。
に深く「共感」、そして、愚樵氏のおっしゃる、
>記事を書く私が必要であると考えば、予防線を今後も張ります。その判断は私の専権事項です。
>それに、お気づきになっていただけませんか? 当ブログはタイトルからして「愚樵空論=愚かな樵の戯言」です。タイトルがすでに予防線です。つまり、予防線は当ブログのスタイルでもある。
>その心は、私がこの場で展開する話を戯言と読んでいただいても結構、それは読み手にお任せしますということです。そうした上で、堂々と自分の思うことを述べてみる。卑怯でしょうか、このスタイルは?
「はい、卑怯です」と言いたくなります(正義感でしょうか?)
>一方の「自省せい」というのは、単なる「池乃めだかメソッド」での「上から目線」ですよね。それに腹を立てるというのは、私には理解できないんですけれども
私は愚樵氏との議論を「楽しんで」いましたからね。
裏切られたという感覚が強いです。
いまは「楽しんだ」ことを少々後悔していますが。
>いくら何でも、アキラさんを「愚樵クローン」にしちゃうのは、失礼ですね。
だったのでしょうか。
あ、標的にしちまったことは失礼だったと思います。
ですが、最後のレス及び、「ナス」でコメントなさっていることには少々失望があります。
その理由は:
1.>父親というのは、ですからあくまでも社会的な産物で、「父性」なんて本能はそもそもないんです。
この断定に対する私の「無理だろう」という評価に対する反論あるいは同意をせず無視していること。
2.「誤表現」については「了解」とのことですが、「了解」の意味があやふやなこと。
私の言いたいことを「了解」したのか、アキラ様が「誤表現をしたこと」を「了解」したのかがはっきりしません。
>僕が言いたかったことは少し違うので、まずは、その言いたかったことの表現のしかたとしてマズかったと思ってます(1)。
>また、ちょちょんまげさんが指摘されているようにとる人も当然いるわけですから、そこももうちょっと考慮した方がよかろうとも思いました(2)。
このニュアンスから察するに「あなたの言いたかったことは了解した」だったのでしょうけれども、そのあたり(了解の意味)が「重層的」な表現になっているのは私にはどうにも解せません。
南郷さんは、このあたりにこだわるのは、私の方がおかしいとお思いになりますか?(重箱の隅でしょうか)
あるいは、
>「しきい」までの範囲をアタリマエと考えていいですね
私の「しきい」の範囲はアタリマエではないということでしょうか?
あるいは。あくまで、「想いルール」を続けるという意思表明あたりで捕らえた方がよろしいのでしょうか?そのご意思に文句をつける筋合いはないし、異論もございませんが、少々愚樵氏とのやりとり後と同様の虚脱感というか、脱力感があります。
巨大染色体(特に意味なし)
NANさん。
>ちょちょんまげさんが持つ腹立たしさの原動力とは、一種の正義感なのではないでしょうか。どうも議論における批判応答を超えた、情緒的な展開が繰り広げられてきている印象を私は持ちます。
ん〜、自分でもよくわからないのですが、南郷さんのおっしゃる「苛立ち」を自分では取りたいです。
無論、自分の社会でのポジションやこういう言論のやり取りをする際に、なんらかの「正義感」やら「価値観」が作用していること(こうある「べき」である、というような)は否定できないし、誰でもあるのではないかと思うのです。(私だけですかね?)
しかし、「正義感」の相対化は自分ではしているつもりです。
以前NATROMさんの掲示板で、NANさんが「流木」さんにお怒りになったのを覚えています。
確か「進化論に興味を持った若いクリスチャン」に流木さんが絡んでいった、というケースだったと記憶するのですが、あれを見ていて、せっかく興味を持って入ってきた彼にいきなり「聖書の矛盾」を突きつけた流木さんに、私もこれは良くないな、と思って見ていました。
ただ、私はあれをやりかねないタイプであることは自認しています。
で、私の「苛立ち」は正直なところ「マザコン」ではないかと自己分析しています(笑)
なんでこの人このリクツがわかんねぇんだ、というイライラが前半生にあったもんですから。
例:台湾旅行にて
母「なんか変な味付け」
ちょ「『変』なんじゃなくて『違う』だけなの!」
(この会話が旅行中10回ぐらい繰り返される)
(まぁ、話を聞くとどこの母親もあんまり変わんねぇんだなとは後からわかりましたが)
そうですね、エントリについては「マイナス一個の光子」で初めて建設的なものが書けたかな、と思っています。
できれば、そんなんでやっていきたいと思ってはいます。
ところで、こちらからのリクエスト。
「数学シリーズ」の再開を熱望しておりますので、よろしく。
>ちょちょんまげさんが持つ腹立たしさの原動力とは、一種の正義感なのではないでしょうか。どうも議論における批判応答を超えた、情緒的な展開が繰り広げられてきている印象を私は持ちます。
ん〜、自分でもよくわからないのですが、南郷さんのおっしゃる「苛立ち」を自分では取りたいです。
無論、自分の社会でのポジションやこういう言論のやり取りをする際に、なんらかの「正義感」やら「価値観」が作用していること(こうある「べき」である、というような)は否定できないし、誰でもあるのではないかと思うのです。(私だけですかね?)
しかし、「正義感」の相対化は自分ではしているつもりです。
以前NATROMさんの掲示板で、NANさんが「流木」さんにお怒りになったのを覚えています。
確か「進化論に興味を持った若いクリスチャン」に流木さんが絡んでいった、というケースだったと記憶するのですが、あれを見ていて、せっかく興味を持って入ってきた彼にいきなり「聖書の矛盾」を突きつけた流木さんに、私もこれは良くないな、と思って見ていました。
ただ、私はあれをやりかねないタイプであることは自認しています。
で、私の「苛立ち」は正直なところ「マザコン」ではないかと自己分析しています(笑)
なんでこの人このリクツがわかんねぇんだ、というイライラが前半生にあったもんですから。
例:台湾旅行にて
母「なんか変な味付け」
ちょ「『変』なんじゃなくて『違う』だけなの!」
(この会話が旅行中10回ぐらい繰り返される)
(まぁ、話を聞くとどこの母親もあんまり変わんねぇんだなとは後からわかりましたが)
そうですね、エントリについては「マイナス一個の光子」で初めて建設的なものが書けたかな、と思っています。
できれば、そんなんでやっていきたいと思ってはいます。
ところで、こちらからのリクエスト。
「数学シリーズ」の再開を熱望しておりますので、よろしく。
終わったと思ったのに
終了と思って、オチのピーマンネタまで書いたのに、コメントいただいたので、もう少し続けます。
例えば、竹内久美子について、ちょちょんまげさんは、どうお思いでしょうか。彼女の書いているものは「トンデモ」の部類でしょう。「Aという学説は、例えばB」ということが正しいとしても、彼女は「Bは、Aの学説で説明できる」というトリックを使っていますよね。けれども、彼女の経歴や言動からは、彼女自身が信じて書いているのではなく、意識的にトリックを使い「トンデモ」と自覚して書いていると思います。いわば、彼女は「悪」であっても「愚」じゃないと思っています。
一方で、世間の「トンデモ」さんの多くは、ひたすらマジメに研究したあげくに、大事な所が抜けていた、というパターンですよね。いわば「愚」ではあっても、騙そうとして書いているのではなく「悪」ではないですね。
ついでに、「悪」と「愚」の両方が「水伝」と。
ちょちょんまげさんは、「悪」も「愚」もお嫌いだとは思うのですが、「悪」と「愚」を一緒にしちゃいけないというのが、私のスタンスです。
なお、ここでいう「悪」と「愚」というのは、一般的な定義ではなくて、一種の抽象化ですから、いい「悪」も、いい「愚」もある、決してネガティヴな価値判断をしているわけではなくて、正確さからの「逸脱の方向性」です。
その上で、アキラさんと愚樵さんに言及するわけですが、もちろん、私の「手前勝手な読み込みによる決めつけ」です。言説への評論というのはそういうものです。私が「(こんなことを書く)ちょちょんまげさんは男前」と決めつけても、決してちょちょんまげさんが男前になるわけじゃありません。読む人が「決めつけ」が正しいかどうか判断すればいいだけのことです。そして、著作物を公開するということは評論されることが前提ですし、愚樵さんもそれを当然と書いていました。もちろん「人として云々」と書かれる以外と付け加えておられましたが、その文でしか知らない愚樵さんの人となりについて書けるはずもありません。実は女子高生が樵のふりをしていた、なんて可能性も排除できないわけですから。
書くまでもないことですが、念ためおことわりね。
アキラさんが「好き」と言う人をあげ、それらをちょちょんまげさんが「アウト」というのは理解できると書いてられますよね。そのあたりがアキラさんの「悪」の所以なんだと思うんですね。そもそも、何でも疑ってかかるわけだし、信じているわけではない、むしろ信憑性に欠けることまで知っている。その上で「好き」って言ってられるわけです。今西、江上のように、学説として提示されたものもあれば、山本七平のように根拠も論理も実はないというのまでピンキリですが、いずれも「うっかり読むと、なるほど、へぇと納得してしまう」なんです。いわば、騙されない自分がいて、騙される自分を見るというのがお好きなんですよ。
以前に、水葉さんがぶいっちゃんに寛容な理由について、三歳児の母だから、なんてことを書いたことがあるんですが、こんなバカって、アキラさんにしか書けないし、アキラさんは喜んでましたよね。
「うっかり読むと、なるほど、へぇと納得してしまう」というのは、グダグダじゃなくて、ちゃんと論理と整合性があって意表をつくってことですよね。結局「論理・整合性」がわかるから面白いわけで、その上での「ちょっと・・」なんです。SFの楽しみ方と似ている。「正しいか間違ってるか」を否定しないで、保留した上での「おもしろいかおもしろくないか」です。なので「正しいか間違ってるか」基準だと、間違いだろうとわかっていても面白がる「悪」なんです。
だったら、アキラさんはいいけど、騙される人がいたら、とちょちょんまげさんが看過できないのはわかりますけど、「それ間違い」じゃ通らないと思います。「健康に悪いからタバコを止めろ」というようなもんです。言われた人はそんなこと知ってるんです。「また、騙してる」くらいの言い方じゃないと。
愚樵さんについては、それ以前から知ってはいたと思うのですが「観察」しはじめたのは、彼の汚点ともいえるakiraさんのところの書き込みからですので、厳しい評価になることは否めません。
そこで、誰でしたかが愚樵さんのところのURLを貼って、それから推測できる経済学の「見識」なんて書いていたのでした。で、見て、すごい皮肉だと思ったのです。経済の用語は使ってはいるが経済のことは書いていない。よく書いておられる「近代の問題」を展開されているだけでした。そして「モノを知らない樵が脈絡のない空論を振り回す」とちゃんと宣言されている。
友人の南大阪のおばちゃんも「自分はモノを知らん」とよく言うんですが、彼女は「自分が知っておきたいこと」を基準に言ってる。それで、愚樵さんの場合は「自分が知っている単語」に対して、その背景の体系を知らないという意味だと理解しました。
そして、必要な知識も脈絡もないと、ちゃんと自己認識されているのに、なぜ議論に参加するのかがわからなかったのですが、いわば「王様は裸だ」と言いたいんじゃないかな、と思ったわけです。
アキラさんのところでも書いたように、彼の書くことは、わからない人とわかる人がいる。つまり、ご自身の説得力ではなく、聞き手の納得力に依存している。なので、占い師の例にあげたような、聞き手の過剰な納得力を喚起する装飾をはぎ取ると、意見自体は至ってシンプルで処世的なんですね。「モノを知らない」から「モノ」に邪魔されずに真実が見えるみたいなスタンスを取ろうとして、メタにメタを重ねていくんだなと思ったわけです。「愚」であることに積極的な意味を見いだしたいのかなと。
ただ、残念なことに、今のネットじゃ「愚」は一山なんぼで揃っているんですけどね。
それと、愚樵さんはよく「システム」という。いろんな意味で今話題の作家のいう「システム」の影響じゃないんでしょうけど。現代の「システム」を批判し、ご自身の居場所じゃないと仰る。どこかに彼の居場所のある「システム」があるかも知れないけど、おそらく彼の書くようなシステムはリアルには実在しないでしょう。しかし、唯一あるのが「愚樵空論」という彼が作った「システム」なのです。つまり「王様は裸だ」と言いたい愚樵さんは「愚樵空論」に君臨する裸の王様というわけです。
ちょちょんまげさんは、そこに遊びに行っていたつもりかも知れませんし、言論のルールから言えば、何ら問題はありません。しかし、彼の「システム」を破壊する行為と思われてしまっては、拒絶されるだけです。
例えば、自分で勝手な定義をする→現実の事象と相似形であると言う→現実の事象への愚痴、このような「論」は「論」たりえない空論で無意味でしょ? 過剰な納得力は、愚樵さんじゃなくて、受け手手の問題でしょ? 「愚樵空論」の何が問題なのですか。
彼が「愚樵空論」で何を書こうがいいじゃないですか。真面目に議論している所にお出ましされた時に、おわかりいただくだけでいいんじゃないですか。
(一部、修正あり)
例えば、竹内久美子について、ちょちょんまげさんは、どうお思いでしょうか。彼女の書いているものは「トンデモ」の部類でしょう。「Aという学説は、例えばB」ということが正しいとしても、彼女は「Bは、Aの学説で説明できる」というトリックを使っていますよね。けれども、彼女の経歴や言動からは、彼女自身が信じて書いているのではなく、意識的にトリックを使い「トンデモ」と自覚して書いていると思います。いわば、彼女は「悪」であっても「愚」じゃないと思っています。
一方で、世間の「トンデモ」さんの多くは、ひたすらマジメに研究したあげくに、大事な所が抜けていた、というパターンですよね。いわば「愚」ではあっても、騙そうとして書いているのではなく「悪」ではないですね。
ついでに、「悪」と「愚」の両方が「水伝」と。
ちょちょんまげさんは、「悪」も「愚」もお嫌いだとは思うのですが、「悪」と「愚」を一緒にしちゃいけないというのが、私のスタンスです。
なお、ここでいう「悪」と「愚」というのは、一般的な定義ではなくて、一種の抽象化ですから、いい「悪」も、いい「愚」もある、決してネガティヴな価値判断をしているわけではなくて、正確さからの「逸脱の方向性」です。
その上で、アキラさんと愚樵さんに言及するわけですが、もちろん、私の「手前勝手な読み込みによる決めつけ」です。言説への評論というのはそういうものです。私が「(こんなことを書く)ちょちょんまげさんは男前」と決めつけても、決してちょちょんまげさんが男前になるわけじゃありません。読む人が「決めつけ」が正しいかどうか判断すればいいだけのことです。そして、著作物を公開するということは評論されることが前提ですし、愚樵さんもそれを当然と書いていました。もちろん「人として云々」と書かれる以外と付け加えておられましたが、その文でしか知らない愚樵さんの人となりについて書けるはずもありません。実は女子高生が樵のふりをしていた、なんて可能性も排除できないわけですから。
書くまでもないことですが、念ためおことわりね。
アキラさんが「好き」と言う人をあげ、それらをちょちょんまげさんが「アウト」というのは理解できると書いてられますよね。そのあたりがアキラさんの「悪」の所以なんだと思うんですね。そもそも、何でも疑ってかかるわけだし、信じているわけではない、むしろ信憑性に欠けることまで知っている。その上で「好き」って言ってられるわけです。今西、江上のように、学説として提示されたものもあれば、山本七平のように根拠も論理も実はないというのまでピンキリですが、いずれも「うっかり読むと、なるほど、へぇと納得してしまう」なんです。いわば、騙されない自分がいて、騙される自分を見るというのがお好きなんですよ。
以前に、水葉さんがぶいっちゃんに寛容な理由について、三歳児の母だから、なんてことを書いたことがあるんですが、こんなバカって、アキラさんにしか書けないし、アキラさんは喜んでましたよね。
「うっかり読むと、なるほど、へぇと納得してしまう」というのは、グダグダじゃなくて、ちゃんと論理と整合性があって意表をつくってことですよね。結局「論理・整合性」がわかるから面白いわけで、その上での「ちょっと・・」なんです。SFの楽しみ方と似ている。「正しいか間違ってるか」を否定しないで、保留した上での「おもしろいかおもしろくないか」です。なので「正しいか間違ってるか」基準だと、間違いだろうとわかっていても面白がる「悪」なんです。
だったら、アキラさんはいいけど、騙される人がいたら、とちょちょんまげさんが看過できないのはわかりますけど、「それ間違い」じゃ通らないと思います。「健康に悪いからタバコを止めろ」というようなもんです。言われた人はそんなこと知ってるんです。「また、騙してる」くらいの言い方じゃないと。
愚樵さんについては、それ以前から知ってはいたと思うのですが「観察」しはじめたのは、彼の汚点ともいえるakiraさんのところの書き込みからですので、厳しい評価になることは否めません。
そこで、誰でしたかが愚樵さんのところのURLを貼って、それから推測できる経済学の「見識」なんて書いていたのでした。で、見て、すごい皮肉だと思ったのです。経済の用語は使ってはいるが経済のことは書いていない。よく書いておられる「近代の問題」を展開されているだけでした。そして「モノを知らない樵が脈絡のない空論を振り回す」とちゃんと宣言されている。
友人の南大阪のおばちゃんも「自分はモノを知らん」とよく言うんですが、彼女は「自分が知っておきたいこと」を基準に言ってる。それで、愚樵さんの場合は「自分が知っている単語」に対して、その背景の体系を知らないという意味だと理解しました。
そして、必要な知識も脈絡もないと、ちゃんと自己認識されているのに、なぜ議論に参加するのかがわからなかったのですが、いわば「王様は裸だ」と言いたいんじゃないかな、と思ったわけです。
アキラさんのところでも書いたように、彼の書くことは、わからない人とわかる人がいる。つまり、ご自身の説得力ではなく、聞き手の納得力に依存している。なので、占い師の例にあげたような、聞き手の過剰な納得力を喚起する装飾をはぎ取ると、意見自体は至ってシンプルで処世的なんですね。「モノを知らない」から「モノ」に邪魔されずに真実が見えるみたいなスタンスを取ろうとして、メタにメタを重ねていくんだなと思ったわけです。「愚」であることに積極的な意味を見いだしたいのかなと。
ただ、残念なことに、今のネットじゃ「愚」は一山なんぼで揃っているんですけどね。
それと、愚樵さんはよく「システム」という。いろんな意味で今話題の作家のいう「システム」の影響じゃないんでしょうけど。現代の「システム」を批判し、ご自身の居場所じゃないと仰る。どこかに彼の居場所のある「システム」があるかも知れないけど、おそらく彼の書くようなシステムはリアルには実在しないでしょう。しかし、唯一あるのが「愚樵空論」という彼が作った「システム」なのです。つまり「王様は裸だ」と言いたい愚樵さんは「愚樵空論」に君臨する裸の王様というわけです。
ちょちょんまげさんは、そこに遊びに行っていたつもりかも知れませんし、言論のルールから言えば、何ら問題はありません。しかし、彼の「システム」を破壊する行為と思われてしまっては、拒絶されるだけです。
例えば、自分で勝手な定義をする→現実の事象と相似形であると言う→現実の事象への愚痴、このような「論」は「論」たりえない空論で無意味でしょ? 過剰な納得力は、愚樵さんじゃなくて、受け手手の問題でしょ? 「愚樵空論」の何が問題なのですか。
彼が「愚樵空論」で何を書こうがいいじゃないですか。真面目に議論している所にお出ましされた時に、おわかりいただくだけでいいんじゃないですか。
(一部、修正あり)
南郷さん
参りました。
脱帽です。
脱帽です。
応答とか
ちょちょんまげさん
>「数学シリーズ」の再開を熱望しておりますので、よろしく。
相対性理論をできるかぎりやさしく(私にも理解できるほど)、図解つきで解説するという「企み」をずっと構想していて、そろそろはじめてみてもいいかな、とは思っています。ただこれが…どっちにしても厄介なシロモノであるため、準備が大変です(苦笑)。
で、応答です。
「正義感」と今回敢えて書いてみましたが、いまだに適当な表現である、とは思っていません。以前から宣言しているように、私自身、自己の「善性」をかなり否定し、正義という概念を軽蔑するところがあるため、不用意な「正義」の使用には、それこそ直情的に腹をたてるところがあるからです。
とはいえ、それすらも「一個人の中におけるものごとを正しい方向へ導こうとする欲求」の発動であることは否定のしようがなく、それを「正義感」と云わず、なんと呼べば?と問われたとき、私は窮してしまうでしょう。
この議論について、すでに逃げは述べていますが…一般論としての「正義」は、通常「法の下の平等」とか「生存権」などの人権に対する侵害、侵害行為への対抗言説として使われることが多いわけですが、俗化して、単に「自分もしくは自分たちの利害を侵害するもの=悪」という一方的な都合に置き換わり、解釈されていることが多いものです。要は仮面ライダーやウルトラマンは本当に正義か?みたいな(笑)。正義だから敵地まで乗り込んでいって一人残らず全滅(皆殺しにする)させれば解決するのか?みたいな。
そういう一般論に対して、ローカルの正義、個々の行為の正しさらしさや懐疑する心の健全さを保ち、知的好奇心を誠実に満たそうとする情緒が「侵害されたような気分」から来る苛立ちを、表現のまずさを自覚しながら「正義感」と述べています。
また、それをただの「苛立ち」や「腹立たしさ」に留めず、傲慢にも内面について推察した理由としては、そこには(ちょちょんまげさんには)論の追及や知識の探求ということと並列して、相手の「人格に対する不満」があったのではないか、と思ったことも打ち明けておきます。
>「数学シリーズ」の再開を熱望しておりますので、よろしく。
相対性理論をできるかぎりやさしく(私にも理解できるほど)、図解つきで解説するという「企み」をずっと構想していて、そろそろはじめてみてもいいかな、とは思っています。ただこれが…どっちにしても厄介なシロモノであるため、準備が大変です(苦笑)。
で、応答です。
「正義感」と今回敢えて書いてみましたが、いまだに適当な表現である、とは思っていません。以前から宣言しているように、私自身、自己の「善性」をかなり否定し、正義という概念を軽蔑するところがあるため、不用意な「正義」の使用には、それこそ直情的に腹をたてるところがあるからです。
とはいえ、それすらも「一個人の中におけるものごとを正しい方向へ導こうとする欲求」の発動であることは否定のしようがなく、それを「正義感」と云わず、なんと呼べば?と問われたとき、私は窮してしまうでしょう。
この議論について、すでに逃げは述べていますが…一般論としての「正義」は、通常「法の下の平等」とか「生存権」などの人権に対する侵害、侵害行為への対抗言説として使われることが多いわけですが、俗化して、単に「自分もしくは自分たちの利害を侵害するもの=悪」という一方的な都合に置き換わり、解釈されていることが多いものです。要は仮面ライダーやウルトラマンは本当に正義か?みたいな(笑)。正義だから敵地まで乗り込んでいって一人残らず全滅(皆殺しにする)させれば解決するのか?みたいな。
そういう一般論に対して、ローカルの正義、個々の行為の正しさらしさや懐疑する心の健全さを保ち、知的好奇心を誠実に満たそうとする情緒が「侵害されたような気分」から来る苛立ちを、表現のまずさを自覚しながら「正義感」と述べています。
また、それをただの「苛立ち」や「腹立たしさ」に留めず、傲慢にも内面について推察した理由としては、そこには(ちょちょんまげさんには)論の追及や知識の探求ということと並列して、相手の「人格に対する不満」があったのではないか、と思ったことも打ち明けておきます。
NANさん
>論の追及や知識の探求ということと並列して、相手の「人格に対する不満」
「相手の考え方にいらつく」ことが「人格に対する不満」と重なる部分があるのならば、そうかもしれません。
選択肢があったときに、蓋然性の低い方に飛びついちゃう(飛びつきたがる)理由が私には謎なのです。
勿論、日常生活において負けバクチに賭けなければならないことなどいくらでもあるし、あえてそうしたりすることが人生や生活の潤いにもなるわけですけれど。
ですが、「リクツ」としては「蓋然性が低い、高い」ってのは判ってるべきだろ、ってなことでしょうか。(わかる範囲内で)
「相手の考え方にいらつく」ことが「人格に対する不満」と重なる部分があるのならば、そうかもしれません。
選択肢があったときに、蓋然性の低い方に飛びついちゃう(飛びつきたがる)理由が私には謎なのです。
勿論、日常生活において負けバクチに賭けなければならないことなどいくらでもあるし、あえてそうしたりすることが人生や生活の潤いにもなるわけですけれど。
ですが、「リクツ」としては「蓋然性が低い、高い」ってのは判ってるべきだろ、ってなことでしょうか。(わかる範囲内で)
南郷さん
樵氏が、久々にエントリをあげていますね。
私には例によってかなりトバシ気味に読めるのですけれど。
私には例によってかなりトバシ気味に読めるのですけれど。
はりーぼってーと検察の意志
そろそろモリアオガエルが冬眠からさめます。そもそも最初にアキラさんとこで書いたように、そうなったら、そっちの観察をしますんで、もう愚樵さんの観察はしませんよ。
それで、今回に書いてられる範囲では、別に変じゃないと思いますよ。
民主主義においては、公権力の行使は国民の信託を根拠としている。その信託によらない権力装置が、信託を恣意的に操作することは、その原則に反するので、民主主義の根幹に関わる大問題。(ドーダ)
90字ですむ話を7000字近くで書いてらっしゃるけど、その通りじゃないですか。だから、不逮捕特権などで、政治家の身分を保護をしている。最後の「いかがなものでしょう?」が東海林さだおの「(ドーダ)」みたいでいいじゃないですか。でも、なぜ一般的な「信託」でなく「信」なんでしょうかね。金丸さんの地元に行ったからかな。
ただ、普通に読んだ人は「で、何がいいたいの?」という反応をするでしょうね。
今、問題になっているのは、愚樵さんの書いたことを前提として、その上で「法の支配」とのコンフリクトについて、どう考えるかです。
「恣意的」というのが、民主党の幹部や支持者の言うような「政権の意志」か、愚樵さんの言うような「検察の意志」かを考えてみますよね。
政権の意志なら、政権というのは国民の信託を根拠にしているわけですから、その意志に従うことは当然ですよね。愚樵さんの書いた範囲だけでは、そうなる。でも、そう考えない人が多い。国民の信託を得ている政権であっても、法(もちろん成文法だけじゃないです)による拘束によって、恣意的な支配を排除すべきと考えているわけです。そこから検察の独立性が必要ということになる。
愚樵さんの言うような検察の意志だとしたら、当然、自公の側もノンビリしちゃいけない、明日は我が身という以上に、愚樵さんの説だけだと、自らの政権担当の根拠を揺るがす問題になるわけです。国民の信託を根拠とした政治権力に、権力装置にすぎない検察が介入したわけですからね。でも、検察の独立性を以て看過しているわけですね。
また、国民の信託に関して、その判断に影響を与えちゃいけないのなら、政治家、というか今回はその秘書ですけど、こういう容疑は判決確定までは、秘密裏に対応しなきゃならないんでしょうかね。じゃ「知る権利」との関係は、ということになりますね。
愚樵さんは「まっとうなこと」を書いてられる。でも多くの人は、そんなことは当然に理解した上で、愚樵さんが書いていないもうひとつの「まっとうなこと」との間で、アーダコーダという議論しているわけです。つまり、検察が法に従うことによって保護される法益と、それによってもたらされる国民の信託への影響について、どちらが重大かという話なんですね。だから、「それはわかってる、検察の独立についてもわかってる、それで結局、愚樵さんは何が言いたいのか、わけがわからん。」となると思います。2つの大前提の片方だけ書いて、後は全部「トバシてる」とも言えますが。
愚樵さんの「システム」には、そういう裸の王様を「素晴らしい服ですね」と賞賛している方だけじゃない。「そんな服はダメだ」という方まで取り揃えてられる。
普通は「そら、わかってる、で、何が言いたいの?」だけど、「想いルール」というか愚樵システムでは、検察に対するというか「知的ポテンシャルによってポジションを得られるシステム」に抱く愚樵さんの「想い」をくみ取るべきで、反論も、具体的な内容にじゃなく、主観的だとか言わないといけないんでしょうね。プロレスのヒールのごとき予定調和ですね。
でも、王様の服を褒めてるニケさん、「投げつけてやってください」ってそそのかしてるし。それで、ぶいっちゃんがどんな目に遭ったか、学習してないんですねぇ。愚樵さんは、少なくとも、自身の「論」が「空論」つまり「はりぼて」と認識する知性はあるわけで、「はりぼて」とも気づかずに投げて回ってる人みたいなことはしないとは思いますけど。
それで、今回に書いてられる範囲では、別に変じゃないと思いますよ。
民主主義においては、公権力の行使は国民の信託を根拠としている。その信託によらない権力装置が、信託を恣意的に操作することは、その原則に反するので、民主主義の根幹に関わる大問題。(ドーダ)
90字ですむ話を7000字近くで書いてらっしゃるけど、その通りじゃないですか。だから、不逮捕特権などで、政治家の身分を保護をしている。最後の「いかがなものでしょう?」が東海林さだおの「(ドーダ)」みたいでいいじゃないですか。でも、なぜ一般的な「信託」でなく「信」なんでしょうかね。金丸さんの地元に行ったからかな。
ただ、普通に読んだ人は「で、何がいいたいの?」という反応をするでしょうね。
今、問題になっているのは、愚樵さんの書いたことを前提として、その上で「法の支配」とのコンフリクトについて、どう考えるかです。
「恣意的」というのが、民主党の幹部や支持者の言うような「政権の意志」か、愚樵さんの言うような「検察の意志」かを考えてみますよね。
政権の意志なら、政権というのは国民の信託を根拠にしているわけですから、その意志に従うことは当然ですよね。愚樵さんの書いた範囲だけでは、そうなる。でも、そう考えない人が多い。国民の信託を得ている政権であっても、法(もちろん成文法だけじゃないです)による拘束によって、恣意的な支配を排除すべきと考えているわけです。そこから検察の独立性が必要ということになる。
愚樵さんの言うような検察の意志だとしたら、当然、自公の側もノンビリしちゃいけない、明日は我が身という以上に、愚樵さんの説だけだと、自らの政権担当の根拠を揺るがす問題になるわけです。国民の信託を根拠とした政治権力に、権力装置にすぎない検察が介入したわけですからね。でも、検察の独立性を以て看過しているわけですね。
また、国民の信託に関して、その判断に影響を与えちゃいけないのなら、政治家、というか今回はその秘書ですけど、こういう容疑は判決確定までは、秘密裏に対応しなきゃならないんでしょうかね。じゃ「知る権利」との関係は、ということになりますね。
愚樵さんは「まっとうなこと」を書いてられる。でも多くの人は、そんなことは当然に理解した上で、愚樵さんが書いていないもうひとつの「まっとうなこと」との間で、アーダコーダという議論しているわけです。つまり、検察が法に従うことによって保護される法益と、それによってもたらされる国民の信託への影響について、どちらが重大かという話なんですね。だから、「それはわかってる、検察の独立についてもわかってる、それで結局、愚樵さんは何が言いたいのか、わけがわからん。」となると思います。2つの大前提の片方だけ書いて、後は全部「トバシてる」とも言えますが。
愚樵さんの「システム」には、そういう裸の王様を「素晴らしい服ですね」と賞賛している方だけじゃない。「そんな服はダメだ」という方まで取り揃えてられる。
普通は「そら、わかってる、で、何が言いたいの?」だけど、「想いルール」というか愚樵システムでは、検察に対するというか「知的ポテンシャルによってポジションを得られるシステム」に抱く愚樵さんの「想い」をくみ取るべきで、反論も、具体的な内容にじゃなく、主観的だとか言わないといけないんでしょうね。プロレスのヒールのごとき予定調和ですね。
でも、王様の服を褒めてるニケさん、「投げつけてやってください」ってそそのかしてるし。それで、ぶいっちゃんがどんな目に遭ったか、学習してないんですねぇ。愚樵さんは、少なくとも、自身の「論」が「空論」つまり「はりぼて」と認識する知性はあるわけで、「はりぼて」とも気づかずに投げて回ってる人みたいなことはしないとは思いますけど。
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しかし申し訳ないことに、アキラさんのところは読んでいないし今後も読むつもりはないので、私には意見を表明することができません。
と、最初におことわりをして、一言のみ。
愚樵さんの発言。
>論理が破綻していようが、ダブスタであろうが、あまり意に介していません。
<
最初「ダブスタ」をなぜか「グダグダ」と読んでしまい、「あぁ、ご自身でもグダグダの自覚はあったのか」と、妙に納得してしまいました。
※追伸
先日はこちらでの初コメントだったのですね。
ご挨拶もせずに、すみませんでした!