◆母を返せといってもかなうことではない。ただ、子どもたちに私のような思いはさせたくないのです。 松尾譲二
2年前の冬。長崎原爆資料館を訪れた北九州市の松尾譲二さん(73)は、展示されていた写真を見て思わず声を上げた。
「よっちゃん!」
口を真一文字に結び、死んだ弟を直立不動で背負う少年--。米軍カメラマンだった故ジョー・オダネル氏が撮影した「焼き場に立つ少年」は、原爆の悲惨さを伝える写真として広く知られる。89年に公開されたが、少年が誰かは今も分からない。松尾さんには、幼友達の「よっちゃん」とうり二つに見えた。
同い年の「よっちゃん」とは、爆心地近くの浦上天主堂あたりでよく遊んだ。近くに住んでいたが、学校が別だったこともあり、名前は思い出せない。
「みんな『よっちゃん』と呼んでいた。うちの裏に土手があって雨が降ると水が流れてよく滑って遊んだ。楽しかったなあ」
1945年8月9日午前11時2分。2人の運命は暗転する。
松尾さんは、浦上天主堂近くの山に祖父が仕掛けたウサギのわなを見に行っていた。米軍機から爆弾が落ちてくるのが見え、次の瞬間、吹き飛ばされた。
気が付くと、景色は一変していた。自宅は焼け落ち、誰もいない。母は弟を連れて買い物に出かけていたのか……。野宿をしながら捜し続けた。
「死体をのけながら捜した。死体の腕を引っ張ったら腕が抜ける、足を引っ張ったら足が抜ける」。終戦後も死者はどんどん増える。死体を焼き場に積んで火にかけると頭がころころと落ちる。「一滴の涙も出なかった。涙が出たのは数年後やった」
あちこちが焼き場になっていた。3カ月ほど、最後の死体が片づくまで捜したが、家族はおろか友人にも誰一人出会わなかった。「よっちゃん」にも。
9歳で孤児になった松尾さんは長崎を離れ、北九州に向かった。八百屋になり、結婚もした。だが差別を恐れ、被爆者であることはずっと黙っていた。17年前、28歳の一人娘を肝硬変で亡くしたときも、一人で自分を責めた。「被爆と関係あるのかと思ったけど、女房にも話せなかった」。隠していた被爆証明書が妻に見つかり、被爆者だと打ち明けたのは10年前のことだ。
被爆後に患った心臓病のために寝込むことも多いが、体調の良いときは絵筆をとる。「あの惨状を残そう」と描いてきた原爆の絵は、「あまりにむごたらしい」と思い直してほとんど処分した。今は、日本各地の風景や草花を描いている。「もう300枚くらいは人にやったかな」。絵に向かう目は穏やかだ。
「時代が変わって、今は被爆したことを隠す必要もなくなった」。しかし、時代が変わっても、戦争が罪のない子どもたちを苦しめることに変わりはない。自分と同じように、原爆に人生を翻弄(ほんろう)された「よっちゃん」が気にかかる。
長崎の被爆者たちは手を尽くして写真の少年を捜すが、見つからない。撮影場所も定かでないという指摘もある。それでも、松尾さんは信じている。「こんなにむくんで……。原爆のせいだよ。あのころは食べ物がなくてみんなガリガリだった」。やっと見つけた「友の写真」をいとおしそうに見つめた。【徳野仁子】=つづく
毎日新聞 2009年8月5日 東京朝刊