第二課 資本主義の搾取
  l 賃金とは労働力の価格
  2 商品の価格と価値
  3 労働力の価値と力関係
  4 搾取のからくり
  5 搾取強化の方法と賃金闘争
  6 賃金についての誤った「理論」
  7 貧困化と恐慌

 

第二課 資本主義の搾取



 資本主義の搾取と賃金 第一課でのべたように、資本主義の根本の特徴は、労働者が労働力を資本家 に売っており、それをもとにして資本家が労働者を搾取しているということ であった。しかし資本主義の搾取は、奴隷制社会や封建制社会の搾取とは違 って、だれがみてもすぐ分かるというしくみにはなっていない。奴隷制社会では、奴隷は人 格ぐるみ売買され、奴隷が作った生産物は文句をいわせず奴隷主のものとされた。封建制社 会では、五公五民とか六公四民という言葉が示すように、経済外的強制(暴力)によって農民 の生産物は封建領主に召し上げられた。このような形であればだれの眼にも搾取されている ことは分かる。ところが資本主義社会では、労働者は人格的には自由であり雇用契約は労働 者の合意の上で結ばれ、いやならば会社に就職しなくてもよいし、また働いている会社を退 職することも自由である。そのうえ賃金の支払い方法が、後で見るように”労働の対価”と いう外見をもっているため、搾取の事実が分りにくくされている。そこにつけ込んで資本家 は、搾取の事実を否定し、労資の協調を説くのである。
 だから、私たちが、賃金とはなにかを学び、それを手がかりにして資本主義の搾取のから くりを科学的につかむことは、資本家の思想攻撃をはね返し、労働組合を強めていくうえで 欠くことができない。

    

1 賃金とは労働力の価格



 労働力と労働のちがい 資本主義社会で、労働者が資本家に売るのは労働力であって労働ではない。
 労働力とは、人間がもっている肉体的・精神的な働くことのできる力を全部 合わせたものであり、そしてこの労働力が実際に使われることが労働である。
たとえていえば、私たちの身体の中に胃袋があって、そこで食べたものを消化する場合、そ れは、胃袋に消化力があるからで、この「消化力」が、いわば「労働力」にあたる。そして、 消化力が、現実に働いておこなわれるのが「消化」であり、この「消化」にあたるのが「労 働」である。「労働力」と「労働」のちがいは、「石炭」と「石炭の燃焼」、あるいは「砂 糖」と「砂糖の消費」の違いのようなものである。
 労働力と労働の関係についていえば、第一に、労働が行われるまえには、必ず労働力がな くてはならない。石炭を燃やし熱をえるためには、石炭そのものがなくてはならないのと同 じである。第二に、労働力があるからといって、必ずしも労働が行われるとは限らない。石 炭があるからといって、それがすぐ売れて、直ちに燃されるとは限らないのと同じである。
労働者が失業しているときには、労働力はもっていてもそれが売れず、労働することができ ないのである。
 この「労働力」と「労働」の違いをはっきりつかんでおくことは、賃金と搾取の問題を正 しく理解していくための前提である。
 労働は商品として売れない 資本家は、賃金は「労働の対価」だといっているし、労働基準法にも賃金 は、「労働の対償」(第十一条)と定義している。実際、労働者にとって も、資本家に売っているのは労働力でなく、労働のように見える。それは 賃金の支払いが、労働をした後に、その対価のような形で行われるからである。残業をした り、休日出動をすれば、割増しがつくので、ますます労働の対価のように見える。
 けれども、もし労働が商品として売られるというのであれば、売られる以前に労働者が労 働を商品として所有していなければならない。自分が所有していないものを勝手に売ること はできない。しかし、労働市場で資本家の前に現われるのは、いうまでもなく労働ではなく て労働者であり、労働者は、労働力はもっていても、労働は所有していない。なぜなら、労 働力が生産手段と結びついてはじめて労働が行われるのであり、労働者が労働するときには、 すでに労働契約は完了しているからである。
 労働者が行なう労働は資本家のものである。だから「労働」が生み出した商品は、すべて 資本家の所有物になってしまうのである。
 賃金が労働力の価格であることの意味
 以上で明らかなとおり、賃金は労働力の価格であって、労働の価格で はない。賃金が労働力の価格である以上、資本家の都合で会社が休業 し、労働が行われないときにも、私たちが賃金を一〇〇%保障せよ、 と要求するのは当然の権利だ、ということになる。それは、私たちが八百屋でリンゴを買っ たが、自分の都合で食べずにくさらせてしまっわからといって、リンゴ代を支払わずにすま すことができないのと同じである。
 そしてさらに重要なことは、このことがはっきりしていないと、資本家による労働者の搾 取ということがあいまいにされたり、あとで述べるような資本家の「賃金理論」である「生 産性賃金論」にごまかされたりする、ということである。

    

2 商品の価格と価値


 それでは、賃金はなにによって決まるのだろうか。賃金というのは、労働力という商品の 価格であるから、労働力という特殊な商品の価格の決まりかたを知るためには、まず一般の 商品の価格がなにによって決まるのかを見ておく必要がある。
 商品の価格と価値 商品の価格は、需給関係によって決まるとよくいわれる。たしかに短期的にみ れば、その商品に対する需要が供給を上回るときは、その価格は高くなり、需 要が供給より下回るときは低くなる。しかし、長期的・平均的にみると、需要 の多い商品には、生産が集中して価格を下げるし、需要の少ない商品は、生産が減少するの で、需要と供給バランスがとれるようになり、結局、一定の水準に落ち着くことになる。需 給関係は、価格の短期的な変動をきめる要因ではあるが、その変動が落ち着く一定の水準を 決めるものとはならない。
 その水準は、費用に一定の利潤を加えたもので決まる、という考え方もある。しかし、こ の考え方では、「一定の利潤」がなにによって決まるのか分からないし、「費用」とはいろ いろな商品の価格の合計にほかならないから、この考え方は、「価格は価格で決まる」とい うことになり、価格がなにによって決まるのか、という問題に答えたことにならない。需給 関係などによって変動する価格の基準となる、その商品の本来のねうちのことを、経済学の 用語で価値とよんでいるが、問題はこの「価値」とはなにか、ということである。
 商品の二つの性質 商品の価値とはなにかを知るために、商品とはなにかを考えてみよう。商品と いうのは、他人の生産した品物と交換するために生産された品物のことである が、そこから商品には二つの大事な性質があることが明らかになる。第一に、 ある品物が商品として交換されるのは、その品物が人間にとってなんらかの役にたつ(有用 性をもつ)ものだからである。たとえば万年筆が商品となるのは、それを使うと長くつづけて 貴けるという有用性をもっているからである。第二に、ある品物が商品となるのは、それが 人間の労働の生産物だからである。どんなに有用性の高いものでも、たとえば山の清水のよ うに、人間の労働が加わっていないものは商品とはならない。しかし、山頂の山小屋に運び 込まれた山の清水は、人間の労働が加わっているので、商品となる。
 商品は、有用性という点では種々様々だが、労働生産物という点では共通性をもっている、 ということに注意しておこう。
 価値とは ところで商品の価格とは、商品交換がおこなわれるときの、交換比率を意味し ている。たとえば万年筆が三、○○○円、ワイシャツが一、五〇〇円というと き、それは一本の万年筆=二枚のワイシャツという比率で交換できるということである。
そして、この二つの商品の交換比率(いいかえれば価格のこと)を決める基準になっているの は、それぞれの商品の有用性ではなくて、人間労働の生産物という性質である(このことは、 万年筆の有用性は三、○○○円で、ワイシャツの有用性は「五〇〇円、ワイシャツの有用性は万年筆 の有用性の半分だ、というようないい方ができないことを考えてみれば、すぐわかることである)。万 年筆とワイシャツに三、○○○円、一、五〇〇円という価格がつき、一本対二枚の比率で交 換されるというのは、万年筆を生産するのに必要な労働の量、いいかえれば万年筆一本に注 ぎこまれている労働の量はワイシャツの場合の二倍だということである。
 ここまでくれば、商品の価格を決める基礎となる価値とはなにか、という問題に答えを出 すことができる。商品の価値とは、その商品の生産のために支出され、その商品にこめられ ている人間の労働である。価値の実体は労働であり、労働だけが価値を生みだす。
 価値の大きさ ある商品の価値の大きさは、そこに注ぎこまれている労働の量で決まり、その商 品を生産するのに必要な労働時間ではかられる。注意する必要があるのは、価値 の大きさを決めるのは、個々の商品を作るのに実際にかかった労働時間によって ではなく、その商品をつくるために社会的に必要な労働時間の大きさによって決まるという ことである。ある商品を生産するのに実際に必要な時間は、生産設備や労働者の熟練や労働 強度などの違いによって、必ずしも同じではないが、標準的・平均的な条件のもとで、商品 を生産するのに要した労働時間=「社会的に必要な労働時間」には一定の水準がある。

    

3 労働力の価値と力関係


 労働力の価値とは 商品の価格が価値を基礎に決まるように、労働力の価格である賃金は、労働力 の価値を基礎に決められる。そして、その価値の大きさは、他の商品の場合と 同じように労働力の生産に社会的に必要な労働時間ではかられる。
 ところで、労働力の生産とはどういうことだろうか。労働者は、一日七〜八時間働くと、 すっかり疲れてしまう。残業したりすると疲れはさらに大きくなる。それは、一日の労働に よってそれだけ労働力が消耗するからである。だから、家に帰ると、食事をし、休養をとり、 睡眠をとる。それは、労働力の消耗をおぎない、ひきつづき働きつづけるためにはどうして も必要なのである。もしも裸で路上に寝て、毎日水ばかりのんでいたら、働けるわけはない し死んでしまう。一週に一〜二日は休み、夏休みをとって「命の洗濯」をすれば、労働者は 三十年や四十年は、労働力を売りつづけることができる。しかしその労働者一代限りの労働 力の生産でなく、次の世代に引きついでいくには、子供を生み、育てることも必要である。
 つまり、労働力の生産とは、労働者の生活のことである。労働力の生産には、その生きた 個人を維持するための一定の量の生活手段が必要である。そこで、労働力という商品の生産 に必要な労働時間とは、結局のところ、この生活手段の生産に社会的に必要な労働時間とい うことになる。
 ふつうの商品の価値は、その商品の生産に社会的に必要な労働時間によって直接的に決め られるが、労働力の価値は、労働力を維持するために必要な生活手段の価値をとおして間接 的に決められる。これは、ふつうの商品は工場などで作られるのに対して、労働力は生活手 段を消費する労働者の在日の生活のなかで再生産されるという事情によるものである。分か りやすくいえば、労働力の価値とは、労働者の生活に必要な生活手段の価値を合計したもの であり、労働者が生活していくのに社会的に必要とされる生活費ということである。
 労働力の価直の三つの部分  労働力の価値は、つぎの三つの部分からなる。第一は、労働者自身の正常 な生活を維持していく費用である。これは、衣食住などの純粋に肉体的な 欲望を満足させる部分だけでなく、読書やスポーツなど精神的・文化的な 欲望を満足させる部分を含んでいる。第二は、何十年か働いて老齢化し労働能力を失なう労 働者本人に代って、つぎの世代をうけついでいく労働力を生み育てるための費用、労働者の 家族の生活費である。第三は、労働者が、資本主義生産に対応するために知識や技能や熟練 を身につけるための養成費である。
 注意する必要があるのは、労働力の価値も他の商品と同じように、個々の労働者が直接必 要とする生活費ではなく、標準的・平均的な生活条件のもとで社会的に必要とされる生活費 で決まるということである。
 労働力の価値は、固定されたものでなく、歴史的に形成されたものであり、各国によって 異なる。その国の労働者階級が、どんな条件の下で生まれ、どのような習慣や生活上の要求 をもっているかということによって、労働者階級の肉体的・文化的な欲望の水準が違ってく るし、そのことが、国によって労働力の価値の違いとなるのである。
 賃金は労資の力関係で決まる  他の商品は、その価値を基礎としながら、需給関係を通じてきまるが、 労働力の価格である賃金は、労働力の価値を基礎としながら、労働力の 需給関係をも含めた労資の力関係で決まる。
 賃金は、後にものべるように、労働力の価値を下回る傾向にあるが、これとまったくかけ 離れるというわけではなく、労働力の価値を基礎にしているのである。そして、賃金額を決 めていくのは、最終的には労資の力関係である。
 力関係ということを企業内だけで狭くみてはならない。もちろん、その企業の労働者の団 結の程度(組合員の自覚と団結の度合、指導部の経験や能力、組合員の指導部に対する信頼度はどう か。活動家の層が厚いか、分裂をゆるすような欠陥をもっていないか、統一行動をやりぬく力をもって いるかなど)と資本の蓄積の度合いに応じた資本家の力量(資本の蓄積の程度はどれ位か、資本の 系列や、独占資本・親企業の関係する度合いはどうか、資本の側の労働組合対策の経験や力量はどれ位 かなど)の関係は重要であるが、それだけでなく、地域共闘や産業別組合の力量、さらに労働 者階級全体の力が影響してくる。組織化の度合、最低賃金制や社会保障などの制度の有無と 内容、ナショナル・センターの状況、革新政党の力量とその団結の程度も力関係に大きく影 響する。資本の側も個別資本家だけでなく、資本家団体や、財界、自民党、国際的な独占資 本の連合はどうか、などの力が関係してくる。だから力関係を労働者に有利にするためには 職場を基礎に、地域共闘、産業別統一闘争をつよめ、全体の闘いへと行動を発展させていか ねばならないのである。

    

4 搾取のからくり


 もうけはどこから出てくるか 資本家が、労働力を商品として買い入れ、私有している生産手段と結び つけて生産するのはもうけるためである。資本家は会社の目的は、社会 に必要なものを生産することであり、したがって企業は「社会の公器」 であるというが、それがごまかしであることは、もうけがあがらなくなると社会が必要とす るものであっても生産を縮小したり中止するし、一方、もうけるためとあれば社会に害を与 えるような公害製品や武器や粗悪品でも生産するということ、ひとつをみてもすぐ分かる。
 それでは、この資本家のもうけはどこからでてくるのだろうか。たとえば、ある資本家が 一〇億円の資本金をもって八億円を生産手段に、二億円で労働力を買って生産し、新しく作 った商品を一五億円で売ったとすると、その資本家は五億円もうけたことになる。
 その過程を示すとつぎのようになる。
 このもうけは、うっかりすると商品の流通過程(C)で生まれたかのようにみえるが、そう ではない。なぜなら資本家は、自分の商品の売り手であると共に、他の商品の買い手でもあ るので、たとえ売るときに価値以上に高く売りつけてもうけたとしても買うときには、価値 以上に高く買わされて損をすることになり、差引き、もうけは残らないからである。資本家 のもうけは、生産過程でつくり出されたものである。
 労働力の特別な性質 資本家が生産過程でもうけを生みだすことができるのは、労働力という商品 が、新たな価値を作りだすという、特別な性質をもっているからである。
 生産手段の価値は、新しい生産物にその価値の大きさを変えずに移転され る。原料や燃料は、一回きりでその価値を新しい生産物に移し、機械や装置は、その年数や 使用回数に応じて分割して価値を移す。いずれも価値の大きさは変らないのである。
 これに対して、労働力の使用、つまり労働によってつくり出された新しい価値は、労働力 の価値よりも大きいものを生み出す。というのは労働力の価値は、まえにものべたように労 働者とその家族が必要とする生活手段の価値によって決まっているのに対し、労働力の使用 =労働によって作り出される価値は、労働者がどれだけ働くかという、社会的に規定された 労働時間の長さによって決まるからである。この両者には差があり、後者(新たに作り出され る価値)の方が、前者(労働力の価値)よりも大きい。
 必要労働時間と剰余労働時間
 今日のように高い生産力の水準の下では、日本の労働者は労働力の価値 =賃金の一日分にあたる価値をつくり出すためには、二時間位の労働で 十分であると計算されている。だからといって労働者は二時間だけ働け ばいいというわけにはいかない。資本家は労働者を雇い入れ、たとえば、一日八時間労働と いう契約で賃金を支払っているのだから、たとえ労働力の価値に相当する時間(必要労働時間 という)が三時間だとしても労働者は八時間働きつづけねばならない。残りの六時間分(剰余 労働時間という)は資本家によってただ働きさせられ、その六時間につくられた価値(剰余緬 値という)が資本家のもうけとなるのである。労働者は一日のうち二時間は、自分と家族の生 活に必要な価値分を作りだすために働いているのだが、六時間は資本家のもうけのために働 いているわけである。それは、封建時代の農民が生産物の半分以上を領主に召し上げられた のとおなじ搾取である。
 前掲の図のAの段階では、資本家と労働者 の関係は、貨幣と労働力を相互に交換しあう 形式的には商品の所有者同士の自由・平等の 関係として現れるが、Bの段階では一転して、 労働者は資本家の支配・統制のもとで働かざ るを得ず、しかも資本家のために無償で剰余 価値を生産することを強制させられる。資本 家と労働者の関係は、このような支配・強制 関係にほかならず、搾取はそのもとで必然的に起るのである。
 この搾取の関係を図にすると前ページのようになる。
 労資の利害は対立する 労働生産性が増大すれば、同じ時間内につくられる商品の量は増えるが、価  値の量は同じ八時間なら八時間分であって変らない。一つの商品を作るのに 必要な労働時間が半分になれば、商品の価値も半分になるからである。こう して同じ労働時間内につくられる価値の量がきまっている以上、賃金部分を多くしようとす れば、剰余価値は少なくなるし、剰余価値をもっと多くふやそうとすれば、賃金は引き下げ られてしまう。このように、賃金と剰余価値はどうしても対立せざるをえない。ここから労 働者と資本家の利害は決定的に対立するものであることが分かる。労働者と資本家の対立と はこのような客観的事実を根拠にしたものである。
 労働者の労働時間が必要労働時間と剰余労働時間に分れる場合、労働力の価値と剰余価値 に分割される割合は、資本家の労働者に対する搾取度合いを示す。この(剰余価値/労働力の価値)の 割合を剰余価値率または搾取率という。研究者が計算したところによるとわが国の剰余価 値率は少ないときでも三〇〇%、多いときは四〇〇%以上(たとえば小林・大阪市大教授は六五 年には四三一・五%と計算している)となっており、増大する傾向にある。 この搾取率の大きさ が、わが国の「高度成長」を可能にしたのである。

 全資本家階級による全労働者階級の搾取
 製造業や運輸業など物質的財貨をつくり出す生産的労働者が剰余価 値をつくり出し、それを資本家に搾取されていることは、すでに見 たとおりであるが、事務労働者、商業・サービス労働者などの不生 産的労働者はどうか。これらの部門の労働者は物質的財貨をつくり出していないし、剰余価 値を生産していない。しかし、これらの労働者もやはり搾取されているのである。
 商業資本家は、産業資本家から、価値よりも安い価格で商品を手に入れ、それを消費者に 価値どおりに売って、生産労働者がつくり出した剰余価値を、商業利潤として手に入れる。
 産業資本家が、自ら商品を消費者に販売し剰余価値を全部手に入れることをしないで、商 業資本家に安く売りわたすのには、理由がある。
 販売行動はそれ自身としては、価値も剰余価値も生産しないのに、産業資本家が、自ら販 売までの全てをやるとすれば、商業用の建物、広告、販売に必要な経費、商業労働者への賃 金などを、自分の資本から差引いて支出しなければならない。そのため生産のために投下さ れる資本の分量はそれだけ減るし、そのために生産によって生まれる剰余価値の分量は少な くなる。それで産業資本家は商品の販売行動を専門の商業資本に任せる。そのことによって 産業資本家は生産行動面における資本の回収を早くすることができ、一定期間に多くのもう けを手に入れることができるのである。
 商業資本家が手に入れる商業利潤は、生産的労働者が生産過程でつくり出した剰余価値で あるが、彼らがそれを手にいれることができるのは、商業労働者が行う労働によってである。
しかし、商業資本家は、商業労働者に対して、彼らが商業労働者の労働によって手にいれた 剰余価値のうちから、その一部だけを労働力の価値またはそれ以下の賃金として支払うだけ で、残りを搾取しているのである。
 金融労働者も、その労働はそれ自体としては価値を生まないが、搾取されていることには 変りはない。
 銀行などの貸付資本家は、産業資本家や商業資本家に貨幣資本を貸すことによって利子と いう形で利潤を手に入れる(実際に手許に残るのは貸付利子と預金利子との差額である)。利子は、 産業資本家や商業資本家が手に入れる利潤から支払われるが、その源泉は、生産労働者がつ くり出した剰余価値の一部である。貸付資本家は、金融業務に必要な労働を、自分では行わ ずに金融労働者にやらせ、その労働によってのみ生産的労働者のつくり出した剰余価値の一 部を金融部門にとり入れているのである。そうして、貸付資本家は、金融労働者の労働によ って手に入れたその剰余価値分よりはるかに小さいものを、賃金として支払い、その剰余労 働を搾取しているのである。
 このように、今日の労働者と資本家の搾取関係は、資本家階級の全体が、産業利潤、商業 利潤、銀行利子等々の形で、労働者全体を搾取している、という関係になっている。
 搾取を隠す賃金の支払い形態 しかし、前にもふれたとおり、資本主義社会では、労働者が搾取されて いるということは、支払い方法などのからくりによって、賃金=”労働 の対価”という外見をとるため、目に見えるようには分からない仕組み になっている。
 たとえば、労働力の一日当りの価値が二時間労働分であり、一日八時間労働とすれば、資 本家は二時間分に担当する賃金を八時間に割りふるからである。説明の便宜上、労働力の一 日あたりの価値=労働二時間分を金額に換算したものを四、○○○円としよう。労働者は二 時間働けば賃金分はかせぎ出してしまう。しかし、資本家は二時間ではなしに八時間めいっ ばいに働かすので、労働二時間分四、○○○円を八時間に割りふって、一時間五〇〇円とい う単価で支払うようにする。一時間で五〇〇円、二時間で一、○○○円、三時間で一、五〇 〇円という形がこのようにして生れてくる。そこで「労働力の価値」が賃金の本質でありな がら、賃金とは〃労働の対価〃である、というような現象が生れてくるし、一日八時間とい う労働時間が全て支払われているようにみえ、その結果、搾取という事実がおおいかくされ てしまうのである。
 右のような賃金の支払い形態が「時間賃金」であるが、賃金の支払い形態には、そのほか 「出来高賃金」がある。この形態では、賃金は労働の結果つくりだされた商品の量に応じて 支払われる形をとる。たとえば先の例で八時間に十個の製品が作られるとすると、資本家は 賃金四、○○○円を一個あたり四〇〇円とわりふって賃金を支払うので、この場合も、時間 賃金と同じように、賃金は”労働の対価”という現象が生まれ、労働の全てが支払われてい るように見え、搾取という事実がおおいかくされる。
「右の「時間賃金」と「出来高賃金」という賃金支払いの基本的方法を、普通、賃金形態と ょんでいる。賃金の支払い方法は、資本主義の発達するなかでしだいに複雑な形態をとり、 独占資本主義とよばれる段階にはいってくると、年功賃金とか職務給・職能給などの例のよ ぅに、いろいろな賃金形態がくみあわされた「賃金体系」という複雑なものまで生まれてく る。

    

5 搾取強化の方法と賃金闘争


 資本家は、剰余価値を多く手に入れるために、労働者に対する搾取を強める。その方法 は、ひとつには賃金の価値以下への引下げである。そしてまた資本家は、かりに賃金を価値 通りに支払ったとしても、労働時間の延長、労働強化、労働生産性の向上という三つの方法 で、搾取を強めることができる。
 賃金価値以下への引き下げ 労働力の価格(賃金)は、次にみるように、価値以下に引き下げられる傾 向をもっており、資本家はそのことを利用して、搾取を一層強めようと する。
 第一に、労働力の供給が需要を上回るからである。資本主義社会では、機械生産が広がる につれて、剰余人員が生み出されるし、機械の導入によって労働が単純化すれば、成人熟練 労働者に代って婦人や年少労働者が、職場に進出するようになる。また、農民や中小商工業 者が農地や店舗を維持できなくなって労働者化すれば、いっそう労働力の供給は増大する。
恐慌や不況のときに、大量の失業者が生み出されることは、いままで何度も経験したとおり である。「高度経済成長」の時期でも若年労働力は不足したが、臨時工、社外工、パートな どの不安定就業者は多かったし、中高年労働力は過剰になっていた。
 労働力の供給が過剰になる傾向は労働力の価格(賃金)を価値以下に引き下げるのである。
 第二に、労働力は貯蔵がきかない。普通の商品であればその価格が価値以下になると、そ の商品の生産は低下し、供給が減少する。その結果、価格は上昇し、価値に近づく。ところ が、労働力は、資本家に安く買いたたかれても、その販売を先にのばし、高く買ってもらえ るまでいつまでも待つということはできない。もし、そうすれば、餓死してしまうからであ り、二日働かなかったから、三日目に三日分働く、というわけにはいかないからである。労 働力という商品は、働かなくても消耗するのである。
 労働時間の延長 質金を価値通りに支払いながら剰余価値をふやす第一の方法は、労働時間を延 長し、実質的に賃金を切り下げることである。古の労働時間のうち、必要労 働時間が変らない場合、一日の労働時間を延長することによって剰余労働時間 をひきのばし、より多くの剰余価値をつくり出すことができる。たとえば、一日の労働時間 が八時間で、そのうち、必要労働時間が二時間、剰余労働時間が六時間の場合、労働時間が 二時間延長されれば剰余労働時間は八時間になり、剰余価値率は三〇〇%から四〇〇%に高 められる。
 資本家は、機会があれば労働時間を延長しようとねらう。労働組合がなかったり、あるい は、きわめて弱かったころ、資本家はしばしば一方的に労働時間を延長した。一日、一二〜 一五時間の労働時間は普通であった。最近でも、週休二日制とひきかえに、一日の労働時間 を延長しようとし、その意図をすててはいない。労働者は、食事、休憩、睡眠などを肉体的・ 生理的に必要とするし、教養を高め、娯楽を楽しむなど文化的・社会的要求をみたそうとす る。そのため労働時間延長に反対し、労働時間短縮を要求して闘うのである。労働時間の延 長をねらう資本家のやり方は社会的限界につき当らざるを得ない。
 労働強度の増大 第二の方法は、労働強度を強めることである。資本家は、一日の労働時間は同 じでも、同じ時間内生産される剰余価値を増やし、搾取を強めることができる。
それには必要労働時間を少なくし、剰余労働時間を多くすればよい。必要労働 時間を少なくするやり方には、この労働強化と次にのべる労働生産性の向上がある。いずれ も職場での人べらしと結びついている。
 労働が強化されると、単位時間内により多くの労働が支出され、より多くの価値がつくり 出される。たとえば、一日八時間労働で八個の製品をつくり、そのうちの二個が労働力の価 値に等しいとする。そして、労働強度が一・五倍に増大され、二面のものを生産すると、 労働力の価値に当る二個は変らないので、必要労働と剰余労働の割合は従来の二個対六個か ら、二個対一〇個になり、必要労働は四分の一から六分の一に減少し、剰余価値率は、逆に 三〇〇%から五〇〇%に増大する。このように労働強度の増大は、一日の労働時間を延長し たのと共通の性格をもっている。
 労働生産性の上昇  第三の方法は、労働生産性を高めることである(本来の労働生産性とは、労働強度 を一定にして単位時間内にどれだけのものを生産できるかという、その程度を示した ものをいう)。
 社会的な労働生産性が高まると、その商品をつくるのに必要な労働時間は少なくなり、そ の結果、価値は低下し、労働者とその家族が必要な生活手段の価値も低下する。そして、一 日の労働時間は同じでも必要労働時間は短くなり、剰余労働時間は長くなる。資本主義のも とでは、労働生産性の上昇は、剰余価値の増大、搾取強化ということなのである。
 資本家は、競争に勝つために、他の企業に比べてより多くの利潤をあげようとし、技術的 にすぐれた機械をとり入れたり、社会的にまだ採用されていない進んだ生産方法をとり入れ て労働生産性を高めようとする。その結果、新しい技術を導入したところでのその商品の生 産に費される労働時間は、同種の商品の生産に社会的・平均的に必要とするものよりも少な くてすむ。その資本家は、生産された商品を社会的価値で売ることによって、多くのもうけ を得ることができる。しかし、こうして特別のもうけを手に入れられる期間は短い。他の資 本家も、その新しい機械設備や生産方法を導入するからである。そして、労働生産性の上昇 は、個別的なものから社会的なものとなる。その場合でも資本家は、前述のように、生活手 段の価値を引下げ、剰余価値をふやす。労働生産性の上昇は、本来は同じ労働量の支出で生 産される富の増大を意味し、人間生活を向上させる条件をつくり出すが、資本主義社会にお ける労働生産性の上昇は、資本の剰余価値の増大をもたらすのである。
なお、日本生産性本部が推進している「生産性向上運動」は、本来の意味での労働生産性 の向上にとどまらず、新しい機械や設備の採用をすすめつつ、人べらしと労働強化、交替制 の導入、差別の拡大、労資強調体制の確立などを含む搾取強化の運動である。
 労働者の賃金闘争 労働者が、自分の生活を維持し向上させるためには、賃金の引下げに反対し、 その引上げを要求して闘わざるをえない。また、搾取を強める攻撃に反対し、 労働時間の短縮や労働の軽減などを要求して、闘わざるをえない。賃金闘争な どの経済闘争は、資本主義のもとでは、絶対に必要だし、経済闘争は労働者の多くが関心を もっている基本的な闘いである。私たちは賃上げ闘争をやったからこそ、はげしいインフレ のなかで辛うじて実質賃金を維持し、あるいは向上させることができたのである。もし、賃 金闘争をやらなかったならば、労働者の生活はみじめなものになってしまっただろう。労働 者は団結して闘うことによって、賃金を引き上げることができる。
 しかし資本家は、賃上げ分を頼り戻すために、必ず職場での「合理化」を強めてくるし、 物価を引き上げたり、税金や社会保険の掛金を引上げ、インフレを激しくする。労働者は少 しでも苦しみを少なくし、生活を豊かにするために賃上げ闘争を絶対に必要とするが、賃上 げ闘争だけで、実に豊かで自由な生活を実現することはできない。
 それは、労働組合の賃上げ闘争が、資本主義がつくり出す低賃金などのいろいろいろな結 果への闘いであって、低賃金をもたらす原因である資本主義の拝瀬制度を廃止する闘いでは ないからである。労働者の経済闘争は下向運動に対する抵抗ではあるが、その運動の向きを 変えているのではないし、一時抑えの薬を用いてはいるが、病根を治しているのではないか らである。
 労働組合が賃金引上げなどの経済闘争と同時に、政府や独占資本のインフレ政策に反対し、 政治・経済の民主的改革のためにも闘っているのは、こうした理由からである。そして労働 者が本当に自由となるのは、搾取制度そのものを廃止したときである。

    

6 賃金についての誤った「理論」


 資本家は、労働者が賃上げ闘争に取り組むとき、必ず、自分たちに都合のいい賃金「理論」 を労働者のなかに宣伝し、闘いの発展を抑えようとする。彼らの賃金「理論」に共通してい る点は、労働者が見聞きしている現象を、資本家に都合のよいように巧妙につなぎ合わせて 「分かりやすく」し、労働者のおかれている貧しい状態や素朴な経験や感情を利用している ことである。だから、その影響を軽視することはできない。
 あやまった資本家的賃金「理論」は、大別すると、「生産性賃金」諭(パイの理論)、「賃 金と物価悪循環」論、(コスト・インフレ論)、「支払能力」論の三つから成り立っている。こ れらはいずれも階級協調を基本にした独占資本の思想攻撃の現れであって、労働者を狭い企 業主義、経済主義の枠のなかにとじこめて、労働者の闘う力を弱めることをねらっているも のである。
 「生産性賃金」論(「パイの理論」)  「生産性賃金」諭の言い分は次のようなものである。「賃金を上げる ためには、その源泉となる生産性を高くしなければならない。生産性 を低いままにしておいて賃金だけを高くすることは不可能である」。
分りやすくするために、次のようなたとえをすることも多い。「パイ(小麦紛で果物などを包 んで天火で焼いた西洋菓子)を分けあって食べるとき、大きなパイを食べるためには、みんな で協力して、もとのパイを大きくしなければならない。」と。
 六〇年代の「高度成長」の時期には生産性が著しく向上し、一方で労働者の激しい賃上げ 闘争で賃金が上昇したという条件の下で、生産性が上がったから賃金が上がったかのような 宣伝がうけいれられやすい条件が生まれた。この「理論」は、生産性が上昇すれば、資本家 と労働者がその成果を「公正」に分配しあうことによって、労働者の賃金も自動的に上昇す るといって、ストライキに反対し、「労使協力」を強調する。
 この「理論」の第二の誤りは、賃金を生産物の分け前とみている点である。しかし、賃金 は、自分の生産した商品の分け前ではない。賃金は生産性とは直接に関係なく、労働力の価 値で決まる。まえにものべたように、資本家は労働力を購入し、私有している生産手段と結 合して生産物をつくり出すが」労働も生産物も全額資本家のものである。だから、カメラを 作っている労働者が、カメラが欲しいと思っても、そのまま持って帰ることはできず、自分 の賃金からその製品を買わなくてはならないのである。また生産性が上昇し、多くのものが 生産されても、労働力の価値である賃金が上昇するということはない。そうではなくて、生 産性の上昇は、すでに述べたとおり賃金の価値を切り下げ、利潤をますのである。
 第二に、この「理論」は、資本主義社会では生産性を向上する過程でも、その結果として も、資本家は労働者に対して労働強化や首切り、職制のしめつけなどさまざまな怯牲を押し つけてくる、という事実を故意におおい隠している。労働者にはなんの犠牲もなしに生産性 が向上し、その結果、賃金が自動的に上がるというのは夢物語である。
   第三に、この「理論」は、賃金をめぐる労働者と資本家の利害が対立し、賃上げを実現す るためには、労働者が団結してねばり強く闘う以外にないという事実に目をふさいでいる。
生産性が向上すれば、賃金も上昇するというのであれば、賃金はずっと高くなっているはず である。ところが、名目賃金の抑えこみや物価の上昇や税金などの収奪によって、実質賃金 の上昇はきわめて小さいのが現実である。
 生産性向上に協力し、パイが大きくなったから、今度は、「実力をもってたたかい、その 分け前をとる」といっても、資本家の個は、労働組合も協力してすすめた「合理化」によっ て、一層、強くなっており、一方、労働者はその「合理化」のなかでバラバラにされ、労働 組合に対する信頼や期待をなくし、戦闘性を失っているので「分配で争う」といっても、か け声だけでなにもできはしない。
 「賃金・物価悪循環論」  この「理論」は、賃金が上がると人件費上昇になり、それがコスト(原価) にはね返って物価上昇の原因になる、というのである。この「理論」の誤 りは、賃金が上がってもそれは利潤が減るだけであり、商品の価値は変ら ないということを、ごまかしていることである。
 商品の価値は、その商品を生産するときに消費された生産手段の価値 (原料および機械設備 などの償却部分の価値) と、労働者が新しくつくり出した価値からなっている。労働者が新し くつくり出した価値は、労働者の賃金分に相当する部分と資本家の利潤に分かれる。たとえ ば、生産手段を消費し、その部分が移転された価値が六〇〇万円で、労働者が新しくつくり 出した価値が六〇〇万円とする。後者のうち、賃金が一五〇万円、剰余価値を四五〇万円と し、賃金が上昇して二〇〇万円にふえた場合、剰余価値は四〇〇万円にへるだけである。な ぜなら生産手段の消費によって移転された価値は、もとから生産手段のもっていた価値だか ら、大きさは前から決まっているし、労働者が新しくつくり出した価値も、労働者が何時間 労働したかできまるのであって、賃金の高低にはかかわりがないからである。
 賃金が上がったから、価格が上がるというのは、賃上げの機会を利用して、価格の便乗値 上げをし、価値以上の価格をつけているからである。だから、資本の自由競争が支配的に行 われ、人為的に価格が吊り上げられない場合には、賃金が上昇しても、物価に影響すること はなかった。便乗値上げが可能になったのは、第三課でものべるように独占資本主義段階に なってからである。
 「支払い能力」論 「支払い能力」論は、資本家が勝手に決めた「支払い能力」がないことを理由 に、賃金引上げを認めない「理論」である。
支払能力の考え方の基本は、労働者がつくり出した富を資本家がひとり占めを し、そのなかから、まず利潤を優先的に確保して残りを「許容原価」とし、そのなかから、 減価償却費などの許容固定費を優先的に控除し、そこで残った部分を賃金にあて、なるべく 少ししか払わないようにするというものである。そして、会計処理にあたっては、収益はで きる限り少なく見積り、費用は細大もらさずできるだけ過大に計上するというごまかしにみ ちたものである。
 資本家は、不況のときには「もうかっていないから支払い能力がない」というし、好況に なると「もうかっても他社や外国との競争にそなえて設備投資などにカネがいるので、支払 い能力がない」といい、いつも「支払い能力論」をもち出すのである。
 賃金は、労働力の価値を基礎とするもので、労働力の買い手の支払能力によって決まるも のではない。商店で、一〇万円の価値をもつ商品を、「支払い能力」がないという理由で五 万円で買うことなど、できはしない。売り手は、その商品を売らずに貯蔵しておくだけであ る。ところが、賃金だけが「支払い能力」を理由に買いたたかれるのは、労働力は貯蔵でき ない商品であること、労働力の価値は固定したものでなく幅があること、日本の生活水準が なお貧しいこと、労働組合の団結に弱さがあることなどのためである。
 賃上げ闘争をすると企業が倒産するという宣伝は、資本家側の常套手段である。たしかに 倒産企業は少なくないし、不況時には目立って多くなるが、その原田は放漫経営だったり、 独占資本や親企業の計画倒産だったりすることが多い。一九世紀の終りにオーストラリアで 最低賃金制を実施したときや、わが国でも一九四七年に労働基準法ができ、はじめて八時間 労働制をとったとき、資本家は、会社がつぶれると非難したが、実際にはそのためにつぶれ た企業はなかった。いずれもいっせいに実施され、競争条件が等しくなったからである。
 労働者は企業の「支払い能力」によってでなく、労働力を維持する自分たちの生活要求に 基づいて賃金要求をすべきであり、労働者に支払う賃金の財閥をどう確保するかは、労働力 の買い手である資本家の責任であって労働者の責任ではない。「支払い能力論」を実践的に 克服していくためには、企業の枠を越えた地域共闘や産業別統一闘争を発展させることが必 要である。

    

7 貧困化と恐慌



 「経済(会社)が発展することは自分自身の生活が豊かになるための前提」であるかどうか、 いいかえれば、資本主義のもとでの経済発展(資本蓄積)と労働者の状態(貧困)とはどんな 関係にあるのか、という問題を中心に、資本主義の不合理と矛盾について、まとめてみてお こう。
 「貧困」とはどういうことか  私たちが労働者の「貧困」が増大しているという場合、「貧困」とは「く うやくわずの貧乏」のことだと考えているわけではない。「貧困が増大 するというのは、肉体的な意味でではなく、社会的な意味で、すなわち ブルジョアジーの需要や全社会の需要の高まりゆく水準と、勤労大衆の生活水準が照応しな い、という意味でいっているのである」(レー二ン)。人間の社会が発展し、それにつれて人間 の要求は増大していくが、労働者や勤労大衆の収入はそれにおいつかず、高まった要求を満 たすことができない。それが貧困なのである。わかりやすくいえば、社会的な貧富の格差が ますます増大する状態ともいえる。
 もうひとつ注意する必要があるのは、貧困というのは、単に経済的な意味だけではなく、 「労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落」(マルクス)を含めた状態だということであ る。労働者の状態は、賃金の高低だけでなく、労働時間、労働強度、職業病、失業、住宅事 情、社会的・文化的施設、精神的・道徳的側面などを全体的にみなければならない。
 このように考えれば、昔自転車で通勤していた労働者がマイカーをもつようになり、ナッ パ服のかわりに背広をきているから貧困はなくなった、というような資本家側のいい分が、 まったく的はずれのものであることがわかる。
 もちろん「くうやくわずの貧乏」もなくなるわけではない。もっとも富んだ資本主義国ア メリカでも、「最低限度の品位さえ保ちえない生活」(ジョンソン元大統領)を送っている「窮 民層」の存在がたえず問題になっている。とりわけ、恐慌や戦争などの条件のもとでは、こ れらの層が一挙に拡大する。個々の労働者にとっても、ひとたぴ失業や病気などの災厄にあ えば、たちどころに明日からの生活に困る状態につきおとされるのである。
 資本の蓄積と貧困化 資本の蓄積とは財貨の生産は、一回限りで終るわけではない。絶えず生産を くり返しておこない(再生産という)、それも以前と同じ規模でくり返す(単純 再生産という)のではなく、資本家は前より大きいもうけを得るために、前よ りも大きな規模で生産活動をすすめる(拡大再生産という)のである。資本主義の再生産は資 本家階級と労働者階を再生産し、搾取関係をくり返していくことである。
 資本主義の下での拡大再生産は、資本家が労働者を搾取して得た剰余価値を、全部個人的 に消費してしまうのでなく、その一部を資本として追加することによって行われる。このよ うに剰余価値を資本につけ加えて生産の規模を拡大することを資本の蓄積という。
 資本家はより多くの剰余価値を手に入れようと激しく競争しあっており、競争に勝つため たえず新しい機械を導入し、生産の規模を拡大しようとする。こうして蓄積は、資本にとっ ては至上命令となる。個々の資本家は、資本の蓄積によって生産の規模を大きくする(資本 の集積という)とともに、中小・零細資本を合併・吸収することによってもより大きな資本に 発展していくのである(資本の集中という)。資本の集中は、資本の集積を前提とし、そしてよ りいっそう資本の集積をおしすすめるための手段である。
 労働者の状態への影響 それでは、このような資本の蓄積は労働者の状態にどんな影響をも たらすのだろうか。
 資本の蓄積では、生産手段へふり向けられる資本(不変資本)の増加の方が、労働力にふり 向けられる資本(可変資本〕の増加よりも大きくなるので、資本全体の増加にくらべて、雇用 労働者の増加は低く抑えられる。機械化の進行にともなって、失業者、半失業者もふえ、窮 民層は増大する。その結果、これらの相対的過剰人口の圧力をうけて、現場労働者の賃金・ 労働条件も悪化する。資本の蓄積=資本主義の発展は、労働者の犠牲においてすすめられ、 労働者の側には、貧困の蓄積をうながす。
 好況などを背景に、労働者のはげしい闘争の結果、労働者の状態が以前にくらべて相対的 に改善されることはある。しかし、いくらかの実質的な改善があっても、社会の発展水準や 資本の繁栄と比べれば、労働者の状態の改善はとるに足りない。格差は、かえって増大して いることが多いのである。
 また、労働者階級の実質賃金が以前に比べていくらか上昇したところで、それ以上に資本 家階級の利潤が増大し、資本の蓄積が進むとすれば、資本の支配と搾取はいちだんと強化さ れ、労働者の状態は全体的にみれば悪化したことになる。
 このような貧困化の進行は、労働者、勤労大衆を闘いに立上らせずにはおかない。その闘 いによって貧困化の進行を一時的にくいとめることはあり得ても、資本主義をなくさない限 り、貧困化をなくすことはできない。
 恐慌の原因と結果 資本主義のもとでは、生産が急速に拡大したあと、生産の急激な縮小や混乱が 訪れて生産の発展が中断される、ということが規則的にくり返される。この資 本主義に特有の生産の動きを産業循環とよび、生産の縮小・混乱を経済恐悦と よぶ。恐慌では売れない商品が、工場や倉庫にあふれ、生産手段が遊休し、労働者は失業し、 仕事についている労働者の賃金や労働条件も悪化する。
 このような恐慌がおこるのは、資本主義的生産の基本的矛盾、すなわち、生産の社会的性 格と取得の私的形態との矛盾のためである。資本主義的商品生産は、多くの労働者が生産手 段を共同で使用して共同労働をする、という協業によって行われており、社会的分業がいま までになく発展して、企業や部門、地域間の経済的むすびつきが強まっている。つまり生産 の社会的性格がかつてなく強まっている。
 ところが、社会的生産の成果である生産物は、生産をしない資本家によって私的に取得さ れる。このような矛盾は、第一に、生産と消費の矛盾となって現れる。つまり、資本家がも うけをめざして、無政府的に生産を拡大するのに対して、消費の方は、最大の消費者である 労働者が低賃金のために低く抑えられているので、生産と消費は不均衡である。第二は無計 画的な生産の拡大による種々の生産部門間の不均衡として現れる。これらの結果、無計画的 に大量に生産された商品が市場で売れ残り、生産が縮小され、生産手段が遊休し、労働者が 解雇され、失業するという恐慌がおこるのである。中小資本家や自営商工業者も没落する。
生産物はあり余り、ひどい場合は焼きすてたり海に捨てたりして廃棄される。
 アメリカの炭鉱労働者のことを書いたパンフレットにつぎのような物語りがある。
 子供「こんなに寒いのに、どうしてストーブをたかないの?」
母親「うちには石炭がないのよ。父ちゃんが失業したから、石炭が買えないのよ」
 子供「父ちゃんはなぜ失業したの?」
 母親「それは、石炭が多すぎるからよ」
 つまり、石炭が「ない」わけは、石炭が「多すぎるから」なのである。
恐慌のときに、資本主義の矛盾は一段とひどくなり、資本家階級と労働者階級の対立は激 しくなる。そして労働者は、資本主義制度そのものをなくすことなしに、この矛盾の根本的 解決と自分たちの解放はありえないことを知っていくのである。

  【設 問】
 1 賃金は労働力の価格であって、労働の価格ではない−というのはなぜか。
 2「生産性賃金論」や「支払い能力論」はなぜ正しくないか。
 3 搾取とはなにか、資本家はどのように労働者を搾取しているか。
 4 労働生産性が高まると、どうして搾取が強化されるのか。
 5 労働者もマイカーを持ち、背広をきているのだから、生活は良くなっている、という主張にどう    反論するか。

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