■姉妹都市に
 長崎市と米セントポール市は姉妹都市である。国連の仲介で、一九五五(昭和三十)年十二月七日に提携した。我が国の姉妹都市第一号だった。
 しかし、なぜ「長崎市」に「セントポール市」だったのか。両市に共通するものはない。あえてあげれば「カトリックが多いこと」(長崎市国際課)だが、信徒同士の交流はない。縁組の経緯はいまだ判然としない。
 ちょうどそのころ、原爆で崩壊し、惨状をさらしていた浦上天主堂を保存するか、取り壊すかの議論が大詰めを迎えていた。長崎市の原爆資料保存検討委員会は「現地保存」で固まっていた。
 石田寿委員長(被爆当時の長崎地裁所長)は「観光的にも平和運動的にもぜひ残すべきものと信じる。あれを壊したら長崎は一体、何を原爆の跡として残すか」と語っている。市長の田川務も保存に前向きの姿勢だったという。
歴史力を欠いた市民の敗北
 ■保存か否か
 しかし、信徒たちの思いは、「神の家」の一日も早い現地再建だった。「浦上の聖者」とあがめられ、信徒に影響力を持った永井隆もこう言っている。
 「こんなもの(残骸(ざんがい))を見るごとに私たちの心がうずくばかりでなく、これから生まれ出る子供たちに、われわれの世代が誤って犯した戦争によって神の家さえ焼いた罪のあとを見せたくない。むしろ平和な美しい教会を建て、ここを花咲く丘にしたい」
 保存か再建か。長崎とセントポールの姉妹都市提携は、教会側、市側の双方に最終決断が迫られるこうした状況下で国連から持ちかけられ、瞬く間に調印の運びとなった。そして、田川は五六年八月、セントポール市長の招きで渡米する。
 ここで田川に“異変”が起きる。九月に長崎に帰ってきた田川はそれまでの保存から取り壊し「止むなし」に転じたのである。五八年二月、保存か否かをめぐる臨時市議会が開かれた。
 議員の岩口夏夫はこう迫った。「原爆の悲惨な体験は、広島と長崎市民だけであり、原爆を防ぎ、平和を叫ぶのは両市民の義務であり権利である。浦上天主堂は原爆の恐ろしさ、戦争の愚かしさを反省せしめる歴史的な資源として万金を惜しまず、保存すべきである」
 これに対し、田川は「原爆直後の広島、長崎をそのまま残すのならともかく、ただ単なる一片のものを残してみても、被爆の惨状を証明し得るものとは思えない」と反論し、次のように付け加えた。
 「米英ソなど核兵器保有国は原爆なくして平和は守れないとの言い分であり、原爆について国際世論は二分されている。天主堂が平和を守る唯一不可欠のものとは思えない。多額の市費を投じてまで残す考えはない」。原爆が平和維持に貢献しているとの保有国の論理に同調するかのような発言―。訪米中の田川に一体何があったのか。

天主堂喪失
原爆で崩れ落ちた浦上天主堂(カトリック浦上教会提供)
 ■米国の願望
 ささやかれたのは、米国政府からの懇請、あるいは説得、あるいは圧力…。あくまで推測の域を出ない。だが、天主堂の残骸は、米国への怒りを再生産し続ける、そして世界中のカトリックを永遠に敵に回すものである。米国にとって保存への動きは好まざることに違いなかった。
 姉妹都市提携は被爆地長崎への慰撫(いぶ)策だった。その意味で「つくられた縁組」あるいは「用意された姉妹都市」と言っていい。そして、その延長線上に天主堂撤去という米国の願望が間接的ながら見えてくる。  五八年春、廃墟(はいきよ)の天主堂は姿を消した。その二年後、広島では急性白血病で亡くなった被爆少女の手記をきっかけに原爆ドームの保存運動がスタートする。
 広島の取り組みをみるとき、廃墟保存を全市的運動にまで押し広げることができなかった長崎の思想的未成熟を思わざるを得ない。天主堂喪失―それは核時代の歴史力に欠けた長崎市民自身の敗北であった。
 (文中敬称略)
 (地域報道センター・馬場周一郎)
2002.08.08掲載