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■これまでの官僚依存の政治はもはや限界だ
■政党が主導権を発揮できる体制が問われる
長く日本の政治を支え、動かしてきた「官僚主導」が行き詰まっている。
官僚が国益を考え、最適の政策をつくり、それを実施する。明治以来の「天皇の官吏」から戦後の「全体の奉仕者」に変わっても、官僚機構が政策づくりの主導権を握り、政権党がそこに乗っかるという基本構図はあまり変わらなかった。
党利党略や選挙区利益に左右されがちな政党、政治家と違って、官僚は純粋に国益を考え、仕事をこなす。多くの官僚はそうした気概に支えられ、国民の信頼も得ていたと言っていいだろう。そんな姿を描いた城山三郎氏の「官僚たちの夏」が最近、テレビドラマになった。
この仕組みがうまく機能しなくなっていることを、多くの国民がひしひしと感じている。
たとえば、自民党とともに道路などに膨大な資源を投入し続け、世界にも珍しい土建国家を築き上げてしまった公共事業。日本社会が高度成長の青年期から低成長の熟年期に入ってきたのに、道路予算は聖域化され、根本的な方向転換ができない。
社会保障や暮らしの分野への予算配分を増やすべきだという民意は高まっているのに、族議員と国土交通省が待ったをかける。それを押し戻す力が首相にはない。
その一方で、天下り官僚がからんだ談合事件が摘発され、数々の予算の無駄遣いも露見した。
官僚は政策に関する情報を独占する。社会保険庁での年金不祥事の深刻さを思うまでもない。そして、選挙で選ばれない官僚は、失政への責任を直接問われることもない。
システムが壊れかけている。多くの人がそう考えているのに、岩盤のように固い官主導のシステムはいっこうに改まらない。政治に対する国民の不信の根源の一つがここにある。
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本来、議院内閣制のもとでは、政府を組織するのは議会で多数を握る政党であり、その政権党が官僚機構を主導して政策を実施していくべきなのだ。なのに、政党の側にその役割を果たす意欲が乏しかったどころか、むしろ官ともたれあってきたことが、こうした現実の背景にある。
ここに抜本的なメスを入れようという提案が、政権交代を掲げる民主党から出てきたのは当然だろう。マニフェストの冒頭に五つの具体策を掲げて、政権をとれば民主党が政府を主導する仕組みをつくると公約している。
主な内容は次の通りだ。▽各省に副大臣や政務官、大臣補佐官らのチームを送り込み、全体で100人以上の政治家が政府内で主導権を握る▽国家ビジョンや予算の骨格づくりを担う首相直属の「国家戦略局」を新設する▽行政全般に目を光らせ、無駄や不正を排除する「行政刷新会議」を新設する。
自民党政権での意思決定は、各省から上がってきた政策を、党の審査をへて閣議で承認するというボトムアップ型が基本である。これを逆転させ、重要政策の大枠や優先順位は首相官邸で決め、各省に下ろして実行させる。トップダウン型である。
縦割りの陰にまぎれ、あるいは族議員とのなれ合いでこれまで許容されてきた予算の無駄や不公正を徹底的に洗い出し、最優先する政策の財源にあてようということだ。天下り役人を養うための事業発注などにはばっさり大なたをふるう。
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うたい文句通りに新組織が機能するかどうかは、やってみなければ分からない。政治家の側にこれだけの責任を担えるだけの能力があるのか。実際に政策の最前線に立つ官僚との新しい協働関係は機能するのか。疑問や不安は限りなくわいてくる。だが、岩盤に穴をうがつには、一度ならず何度かの政権交代という大変革が必要なのかもしれない。
もちろん、自民党も「政治主導」の大事さに気づかなかったわけではない。今回のマニフェストでも「首相を補佐する国家戦略スタッフの発足を現実のものとし……、政治主導を一層強化する」「天下り根絶」などとしているものの、具体策はほとんど書かれていない。
政権担当の「責任力」を掲げる自民党に求めたいのは、長期政権の下での政と官のあり方を総括し、説得力のある制度改革を提示することだ。
政と官の関係をどう刷新するか。それにはそもそも中央政府はどんな仕事を担当し、自治体には何を任せるのか、税源をどう分けるのか、分権の議論が欠かせまい。有権者が問いたいのは、そこまで含めた「この国のかたち」の選択肢なのだ。
この総選挙では、各党とも暮らしを守る公約に力を入れている。そうした政策を、だれがどのように具体化し、実行するのか、政府の姿をめぐる議論はこの歴史的な総選挙にふさわしい大テーマである。