
午後六時、事務所の社長・大杉明彦(おおすぎあきひこ)君を伴って有楽町のフランス料理「アピシウス」へ。「アピシウス」は角川書店の社長であった十四年前まで月に三、四回は行っていた老舗(しにせ)のレストラン。私のかつての馴染(なじ)みの店だ。今夜は悪魔小僧・哲の紹介でフィールズ株式会社の山本英俊(やまもとひでとし)社長と末永徹(すえながとおる)経営企画室長との会食。支払いは悪魔小僧なのか、私なのか、山本さんなのか分からないが、久し振りの「アピシウス」の料理を楽しむことにする。
今夜の会食の目的は、角川春樹事務所の私の持ち株の五〇パーセントをフィールズに売却して、フィールズの子会社として角川春樹事務所を株式公開させようと考えたからである。 私は私の愛する角川春樹事務所の人たちが従業員持ち株会を作り、公開後、それなりの財産を受け取って欲しいと思っている。また角川春樹事務所の公開を前提として株を買ってくださった企業が何社かある。その為にも公開を早くしたいと思っていたからだ。刑務所に入った私に証券界の目は冷たい。会社の業績ばかりではない判断がくだされているのだ。まだこのことを詳しく書く時期には来ていないが、事実である。この続きは「小さな会社の会長日記」をお読みください。
「アピシウス」のバーで大杉君と食前酒を飲んでいるとフィールズの山本社長と末永君が登場した。二人とも食前酒を飲みながら悪魔小僧・哲の出現を待つ。二人の目線が私と大杉君の例の7がプラチナで8がゴールドの上にルビーを嵌(は)め込んだバッヂに向く。山本さんは長身でハンサム、末永君は聡明な瞳をもつ少年のような風貌(ふうぼう)。

「角川さん、そのバッヂは社章ですか?」
と山本さん。
「いや、これは私の人生をシンボライズした特製のバッヂで、七転八起き(ななころびやおき)を表しているんだ」
「いいですね」
「欲しいですか?」
「とっても!」
山本さんも末永君も思いっきり頷(うなず)く。

「ちょうどカバンに二個入っているから、お二人にあげよう」
私が茶色の聡子(さとこ)さんからクリスマスにプレゼントされたカバンを開けると、
「そのカバンもカッコイーですね」
「これはガールフレンドからプレゼントされたカバンなので差し上げられない」
「うらやましいな・・・・・・」
「そんなことないだろう。君もモテそうだし。それにそんな高価なものじゃない」
「でも、角川さんが持つと高そうに見えますね」
「確かに。悪魔小僧の香山哲が持つと原価の一万円だが、俺が持つと二十万円には最低見えるからな。それにしても七転八起のバッヂが二個しかないので、悪魔小僧には渡らない。やつは悔しがるだろうな」
「なんで香山が悪魔小僧なんですか?」
「おや、知らないの。業界じゃ有名なんだぜ。子供の時から悪魔のように大人から忌(い)み嫌われ、大人になってからは悪魔のように恐れられているんだ(何を書いても、悪魔小僧・哲はこの『小さな会社の会長日記』を読んでいないので、平気平気)。気をつけろよ、山本君も・・・・・・」
そこへ悪魔小僧・哲がいつものごとく遅れ(すでに五十分も経過している)、そしていつものごとくピースそのものといった表情で登場。
「ごめん、ごめん。遅れちゃって」と悪魔小僧。
「いつものことだ」と私。「哲、お前は悪魔小僧だけでなくて遅刻魔だな、リクルート時代から。よくクビにならなかったもんだ」
「そんなこと言うの春樹さんだけですよ」
「そんなことない!」と山本さん。
「そんなことより早く飯(めし)にしようぜ」と私。
なんだかんだで遅れに遅れていた夕食が、七時半になってようやく始まる。

まず初めて出たのが「モンラッシュ」85年の白。これはいい!こんなに旨い白ワインを飲んだのは初めてだ。ワインも料理も山本さんが払うということが会話の途中で分る。ますます旨い!この間、由美さんと飲んだ悪魔小僧・哲の赤もかなり旨かったが、タダ酒は基本的に美味しいのが常識。今夜は山本さんが所有している「ロマノコンティ」が飲めるという。ますますいい感じだ。 こうなると料理などどうでもいい。メニューを見ると「ジビエ」料理(Gibier フランス語。狩猟の対象となり、食用とする野性の鳥獣のこと。うさぎ、うずら、鴨、鹿、いのしし等。)が売りになっている。豚は「イベリコ」、鹿のステーキ、兎の赤ワイン煮、海亀のスープ。私は前菜を別にして、栗のクリーム・スープ、前沢牛のステーキ100グラム。「アピシウス」はデザートもプチフールも悪くない。四分の一の胃しかない私は美味しいワインを楽しむことにする。「ロマノコンティ」は85年もの。いったい山本さんはいいワインをどれだけ「アピシウス」に保存しているのだろう。悪魔小僧・哲は「ロマノコンティ」と聞いただけで涎(よだれ)を流している。ブランドに弱いやつめ! まるでパブロフの犬だね。だいたい私はワインの薀蓄(うんちく)にまるで関心がない。またそんなつまらぬことにこだわるやつも味覚において信用していない。 ワインは旨いか不味いかの二つしか基準はない。私はかつて「ロマノコンティ」の53年ものを二本所有し、銀座のレストラン「レカン」に預けていた。値段は高かったが、驚くほどではない。なにしろ日本がワインブームになる十年前のことで、手書きで描かれたラベルが色褪せていたが二本で十五万円前後だった。今夜飲んだのは85年もので五十万円前後だ。ワインの価格は異常だと思う。悪魔小僧・哲も大杉君も末永君もいかにも旨そうに飲んでいる。しかし、私は白の「モンラッシュ」の方が美味しいと思う。「ロマノコンティ」は期待が大き過ぎて印象が薄い。
「春樹さん、なんでみんな同じバッヂしてるんですか?なんか意味があるんですか?」と悪魔小僧。
「これは俺の人生を象徴している」
「七転八倒(しちてんばっとう)ですか?」
「馬鹿、それはお前だ!これは七転八起のメデタイもので金とプラチナとルビーの限定商品だ」
「ボクにも下さいよ」
「ダメ。二個あったんだが、山本君と末永君にあげてしまった」
「ケチッ!」
「今度お前と会う時に渡す」
めざとく私の茶色のカバンを見ると、
「そのカバンもバッヂと一緒にくださいよ」
「わかった。買っておく。山本君、やっぱり香山が欲しがったろう」
「そうですね、角川さんのおっしゃる通り他人(ひと)のもの欲しがるなんて香山も子供ですね。ところで角川のご用件をうかがってよろしいでしょうか?」
「用件は三つある。一つは角川春樹事務所の私の持ち株の50パーセントをフィールズで購入してもらいたい。これはフィールズの子会社になることによって来年の秋ごろに株式公開してもらいたい為だ。二つ目は株を購入しても役員の派遣は断わるし、経営のアドバイスは受けるが介入をしてもらいたくない。三つ目は30パーセントのストック・オプションを私につけてもらいたい」
「わかりました。後日、大杉社長に連絡いたします」
重要な話はこれだけで、後は食事やワイン、野球を含めたスポーツの話題でお開きとなる。
この結果は「小さな会社の会長日記」をお読みください。話は二転三転いたしますので、お楽しみに。