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記者の目:被爆64年の広島 私は黙り込んだ=井上梢

 「私の気持ちは誰にも伝わらなくていい。伝わらないのだから」。被爆2世の男性医師(49)の言葉に、黙り込むしかなかった。被爆64年の広島の今夏は、核廃絶を目指すとオバマ米大統領が宣言したことで、例年になく「希望」がともにある。広島県被団協や秋葉忠利・広島市長らは、その姿勢を絶賛。さらに被爆地の思いを直接伝えて核廃絶への機運を高めようと、被爆者7団体などは手紙を送り、広島訪問を待ち望む。ところが今年6月、被爆医療の取材で訪ねた医師は、伝えることに意味を見いださず、医学生の息子に対してさえも「原爆への思いは話そうと思わない。この話は私の代で終わればいい」と言うのだ。

 医師の母は背中に大やけどを負い、薄くなった皮膚の向こうには肩甲骨が透けて見えたという。父は、倦怠(けんたい)感に悩まされる被爆者特有の「原爆ぶらぶら病」に苦しんだ。まだ原爆の影響と認められなかった当時、多くの被爆者が怠け者とみなされた。父は会社勤めをやめ、居酒屋を開いた。体調が悪いことも多く、医師は小さい時から店を手伝い、酒をつぎこぼしては客に容赦なく殴られた。

 父は被爆時の広島の写真を見ただけで嘔吐(おうと)もした。医師は言う。「日常の幸福といったささやかな喜びを求めながら得られない悲しみ。それは伝えられない」。医師になった後も、がんなどで亡くなる被爆者をみとる中で、その思いを強くしたという。

 初任地の広島に来て、4年目だ。幾たびも被爆者から「あなたには分からないでしょう」と言われてきた。それでもすぐに思い直し、丁寧に話をしてくれたものだ。しかし、この医師は突き放すだけだった。もう手が届かないような距離を感じさせられた。

 どうしたらいいかわからなくなったまま、オバマ大統領の母校で日本語を教え、平和教育にも取り組む被爆2世のピーターソン(旧姓・中井)ひろみさん(60)に会うためにハワイへ向かった。

 ひろみさんの祖父は広島の原爆で亡くなり、父も大やけどを負った。ひろみさんが米国人との結婚を決め、ハワイへ渡る時、祖母は涙を流して反対した。そして、亡くなるまで夫と会わなかったという。ひろみさんの姉も62歳の若さで白血病で亡くなった。

 ひろみさんは日本語を教えるにあたり、「日米の接点を知った上で生徒は学ぶべきだ。私が示せるものは原爆」と考えた。家族の被爆体験を取り上げたテキストを作り、授業で使った。そうすると、最初は「原爆は正しかった」と答える学生が多くても、最終的にはクラスの半分が「落とすべきでなかった」に転じるという。現在、テキストは全米に広がっている。

 米国にとって特別な意味を持つパールハーバー(真珠湾)の地で、原爆の恐怖を伝えるひろみさんの姿勢に、強さを感じた。「『あんなことは無かった』と言わせない」と語ったその言葉は、くじけかけていた私に、再び伝えることが大切と信じる気持ちを呼び起こしてくれた。

 命をかけて被爆証言を続ける被爆者を、1年半にわたって取材してきた。被爆したアオギリが枯れずによみがえった様子から、自らも生きることを教わったという沼田鈴子(すずこ)さん(86)。病に倒れて主にベッドで過ごす今も、月2回ほど、入所する老人ホームに集まった学生などを対象に証言活動を続ける。

 5月の北朝鮮の核実験後に訪ねると、うつろな目で「絶対、核は使っちゃいけんと言っているのにね」と訴えた。ベッド暮らしで弱くなった背骨を痛めることもいとわず、首を上下させて語る。そういえば、「北朝鮮の被爆者が語って、核実験を止めてほしい」と話していた。そんなことが可能かとは思うが、伝える力を信じればこそだった。

 それでも、被爆者の言葉を世界に紹介する役目が私に果たせるのかどうかを悩む。いつも学生時代の友人に伝えることを念頭に置いて書いてきた。原爆に関心の無かった同世代に、問題を考えてもらう橋渡しをしたいと。

 8月初め、医師を再訪し、そもそも伝わらないと考えているのに、なぜ私の取材に応じたかを尋ねた。「私も伝えたい気持ちが完全にないのではない。あなたが私の気持ちを書き伝えることができるかどうか。実験であり、挑戦状です」と言った。

 怒りや悲しみをエネルギーに核廃絶へつなげようとする広島の裏側に、今も気持ちをのみ込む人たちがいる。胸の内をそのままに理解し、伝えることが困難なのは言うまでもない。しかし、私は愚直に聞き取り、わずかなりとも伝わると信じていく。そして、医師に対する本当の回答を、自分なりに見つけたい。(広島支局)

毎日新聞 2009年8月6日 0時01分

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