原爆が落とされた直後の広島を見た早坂暁さん(79)は「夢千代日記」で胎内被爆をテーマにし、「夏少女」では被爆2世の母親が3世の息子を案じる苦悩を映画にした。64年目の原爆の日を迎え、「絶滅兵器としての原爆」を早坂さんに語ってもらった。【聞き手・広岩近広】
--山口県防府市にあった海軍兵学校の分校で終戦を迎えたそうですね。
早坂 愛媛県の松山中学で軍国教育を受けていたので、どうせ行くなら海軍だと志願したものです。15歳でした。ところが入校してまもなく、おまえたちの乗る軍艦はないと言われたのです。戦艦大和に乗りたくて海軍兵学校に入ったのに、不沈戦艦と信じていた大和が沈んだと聞き、ぼうぜんとしました。追い打ちをかけるように赤痢が流行して、僕ら2000人ほどが病院に収容されました。
病院で終戦を知ったとき、そろって「うわあー」と歓声をあげました。婦長さんから「国が敗れたというのに、なぜ喜ぶのですか」としかられましたが、そこは15歳の子どもです。これで生きて帰れる、家族のいる故郷に早く帰りたいとなります。殺し合いごっこなどしたくなかったのが正直な気持ちでしょうね。
毎日新聞 2009年8月6日 東京夕刊