2007年6月 3日 (日)

交通機関・災害時にはどうするか?(7)

◆車で島々への旅にはフェリーの利用に成ります。特に中型の船で、波
(Gelombang)の荒い季節(Musim)に制限積載量以上の荷重状態で出航し、
沈没(Tenggelam)するケースが有ります、要注意。

◆小型客船にはいい加減な船もあり、航行途中でエンジン・トラブル、辺鄙な
島へ流された事もあります。

◆船籍、船齢、エンジン状態 (ke-ada-an) などの資料は持っていないので、
我々が事前に調べる事は不可能です。

◆イリアンには細長いカヌーに船外機を付けたものがあります。「落ちたら
サメの餌食だな」なんて思った事ですが、2ヶ月程前、TV7と言うテレビ局の
スタッフが取材の為イリアンの離島を2隻のカヌーに5-6人が分乗しサーベイ、
夜間豪雨(Hujan Deras)の中1隻が不明(Hilang) となり、1週間探索
(men-cari) したが発見されず。

◆指定席の列車に乗ってしまえば、マアマアですが、席に着くまで駅構内、
ホームの混雑の中を歩かなければ成りません、スリに注意する事。

◆指定席に空きが有れば、車内でも車掌から切符を買えます。

◆車内での食事は日本の皆さんには合わないでしょう(Tidak Cocok)。
本を読むにも揺れ(Goyang)が酷く、無理です。

◆保守、管理に問題有りで、色々な事故が起きますから、特急でも何時何処で
停車するかも知れず、何が原因か、今後の予定はどうなるか、掴む事が困難です。

◆自分から積極的 (Agresif) に情報(Informasi)を収集(Kumpul)し、対処
しなければなりません。

◆タイトルに書いた{交通機関}{災害}に続くキーワードは{言葉}に成り
そうです。

◆なるべく早く相手の言葉を聞き取り、短い言葉でも対応出来る様訓練が必要
です。命に係わる事に成るかも知れません、文法、発音は後回しです。

◆この国の人達の大部分 (mayoritas) は個人的付き合いに於いては非常に
友好的です。

◆外交上手ですから、会話相手である我々に不快な感じも与えません、有り
難い事です。

◆人を選ぶ事は必要ですが、気軽に物を尋ねても大丈夫です。
但し、女性に接近し、余り馴れ馴れしくしない事です、因習も有り嫌がられます。

◆最後に、ご注意を:-
列車の駅(Stasiun)、バス、船の波止場には多数のCaloや、得体の知れない
(Tidak jelas Identasnya人達が大勢居ます、有事には立ち寄らない事です。

◆週末 (Akhir minggu) 前後に祝日が重なり、長期休日に成る時の交通機関は
満杯です。バスに限らず全ゆる交通機関の切符料金が高騰します。

◆コンダクター(Konduktor)と客との間、客と客との間にAnjing(犬)、Monyet
(猿)、Goblok〈鈍重〉、Brengsek(畜生)等の罵声が飛び交う事もしばしばで、
荒れますから要注意。

◆列車(Train)の指定席、バスのPatas夜行便(Bis Malam)には、ねずみ避けか、
昆虫よけの為か寒くなる様なクーラーが効いています。両者とも毛布を貸して
呉れますが、それでも絶えられない程です。

◆こちらの人は防寒帽を冠り、キルティングの防寒ジャンパー(Jaket)の襟を
立てている人もいます。

◆往き帰りの荷物(Bagasi)が大きく成るのが困りものです。

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交通機関・災害時にはどうするか?(6)

◆ジャカルタは特に朝夕車が渋滞、動かなく成ります。ONE WAY通りが多い為、
近距離でも1時間は掛かってしまう事がよくあります。

◆その様な所へOjekを使って客との待ち合わせ場所まで5分間で、行った事が
有ります。裏道や歩道を走るからです。

◆田舎のOjek運転手は小学校(SD=Sekolah Dasar)、中学校(SMP=Sekolah
Menengah Pertama)の先生(Guru)がアルバイト(Kontrak jam-jam-an)として
働いている場合があり、おしゃべりが弾み、友達になる事も有ります。

◆どこの町にも3輪人力車(Bacak)が有ります、料金はBemo、Ojekより割高
です。顔見知りのBecak以外は気安く信用したり、遊び半分で料金交渉しない
様に。気性の激しい人もいます。

◆その他の交通機関に就いて気の付いた事:-

◆飛行場へ行き飛行機の搭乗を待ちます。定刻 (Waktu ter-tentu)が過ぎても
搭乗アナウンス (me-nyiar-kan) は有りません。1時間過ぎ頃「搭乗は都合で
遅れます」のアナウンスがあり、2時間後に飲料水或いは軽食 (Makanan
ringan) が出る場合もあります。

◆この間コンプレインする人は皆無か、有っても少数 (sedikit) です。

◆バリ島からチモール (Timor) 島へ行く時、朝10時の出発便が、午後3時の
アナウンスでキャンセル(Batal)と成りました。他の飛行機運行会社の事務所
(Kantor) は仕事を終えていて、切符の移動は不可能です。

◆さすがに長時間待期後のキャンセルで30人程の人が窓口(Loket)に集まり
ました。私に採っては旅先での事、ホテル代を請求しました。この請求をした
のは私と他もう一人だけでした。

◆かなりしつこく (men-desak) 交渉 (Negosiasi) してみましたが、「当社の
規定(per-atur-an)に無いの一点張り」、「明日の朝、他社の一番機を用意する
から、それで勘弁してください」。

◆同行していた当時の私の社員は困惑(Bingung)顔で事の成り行きを観て
いました。

◆或る地方の飛行場で朝1番機に搭乗 (Naik) すべく、待合室に入り搭乗券を
胸に差し、当該機 (Pesawat ter-sebut) のゲート付近の席で新聞 (Koran) を
読んでいました。

◆いつまで経ってもアナウンス が無いので、カウンターへ行き尋ねますと、
既に出発 (ber-angkat) したとの事。

◆如何して (Kenapa) 私を探さなかったのか? 詰め寄りましたが後発機は
いずれも満杯。

◆明日の1番機の搭乗券を貰ってホテルに帰りました。油断した(ber-lalai)
とはいえ、のんびりして (Santai) 居た私にも、落ち度があり、ホテル代は
請求できません。

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2007年3月25日 (日)

交通機関・災害時にはどうするか?(5)

◆以上の大型バスの他にワゴンやジープを小型バスに改良したAngkutan Kota
別称Mikroletというのがあります。何処の町でも、町から町へ行く事が出来
ます。

◆ルートは多岐に亘って網羅されています。目的地を街の人に聞けば何番
表示の車かを教えてくれます。初めての街では先ず人に聞く事 (Tanya) が
大事です。これも会話 (per-cakap-an) の練習 (laaatih-an)です。

◆行き先の場所名の中に、LとRは無いか? 確認(menentu-i)して気をつけて
発音して下さい。

◆我々日本人には難しい発音です。私などは何時もポケットにメモ紙とボール
ペンを入れていますから、面倒でも(Ganggu Juga)行き先を書いて、皆に
見てもらいます。

◆このMikroletの行き先は正式町名でなく別称(Alias)が使われている場合
が多く、又コンダクターの呼びかけも目的地の呼称を短くして言う場合がある
ので、傍に居る人達に聞く事です。大体は親切に教えて呉れます。

◆これが会話に発展する場合があります。パターンはプライバシー (urus-an
Pribadi) に係わる事が多いのですが相手は戸籍を調べているのでは無いので、
適当に答えて、気にしない事です。

◆料金は何処でも1巡回行程内は平均Rp.2,000.- (約25円)程です。

◆タクシーの無い町でも、このMikroletが乗れる様になればあちこちに行かれ
ますし、チャーター(Kontrak)も可能です。それには彼らのターミナルでの
交渉がベター(Lebih Baik)ですが、走行中の運転手と交渉し、その場で乗客
(penumpang)を他の車に移して貰い、此方が使用すると言う、乱暴 (Kasar) な
事も可能です。
 
◆Patas, Travel 以外の乗客は何処からも乗車でき、降車できます。

◆Mikroletには携帯荷物(Bakasi)を積む事が出来るので、時には足の踏み場も
無いという場合もあります。

◆学校、工場への行き帰り時間を外して、余裕のある乗車に心掛けると良いで
しょう。

◆大きい都市にはBajayとかBemoとか呼ばれる、自動三輪車が有ります。
運転手1人が前の運転席に座り客は後部に2人乗ることが可能です。
料金はMikroletより高額ですが、Mikrolet行程以外の路地も走ります。

◆べモより手早く、安く、目的地までの早期到着はOjekです、モーターバイク
の後ろに乗客として乗るのです。

◆何処にでもあり、大抵は組合を組織、組合員(Anggota)がOjekをしています。
その証明書を保持していますから、土地の人に聞けば組合員であるかどうかは、
判ります。

◆高原(Daratan)、森林(Hutan)、山中(Dalam Gunung)を走る場合が有り
ますから、知らない土地で夜間には利用しない様に。

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交通機関・災害時にはどうするか?(4)

◆長距離用には車内トイレ(WC)が付いていますが、狭くて使いずらい場合が
一般的です(Pada umum-nya)。大きい町のバスターミナルではトイレへ行く
機会が有ります。

◆それ以外の場合、コンダクターに言ってガソリンスタンド (pompa bensin)
のトイレに寄って貰う事です。

◆どこのスタンドにもトイレは有ります、恥ずかしがってはいけません
(Tidak Boleh Malu)。

◆こちらの人達は我々日本人より膀胱 (Kandung Kencing) が大きい様です。

どこの町でも村でも公衆便所 (WC Umum) は皆無に近く、都会のデパートや
事務所ビル群の中のトイレを利用する事も、簡単では有りません。

◆そんな環境が成せるのでしょうか、皆さん5時間位は我慢出来る様ですから
勝負に成りません。彼等がトイレの為に停車依頼する事を待っても無駄です。

◆一応の定時はあるものの、乗客の満杯具合をみて、出発するTravelと称する
バスがあります。事務所に電話で予約し、大中小のバスが有り、送迎して
(Antar Jemput) くれるのが特徴です。乗り合い客が皆でチャーターした様な
感じです。

◆Patasと同じような料金ですが、目的地着が真夜中(Tengah Malam)、早朝で
乗り継ぎする乗り物が無い場合は、此れが重宝 (Praktis)します。

◆Patas、Travel 以外のバスには無礼講(Tanpa Permisi)で物売りが乗り込み、
流し( Ngamen)という素人歌手(Penyanyi Amatir)が1-2人乗り込んできて
ギターを引きながら歌を強制的(Paksa)に聞かせ、寄付(sumbang-an)を募る
人達も頻繁に乗降します。

◆彼らは何処からでも〈Dari Mana Saja〉乗降し、乗車賃は払いません。
コンダクターは文句を言いません、相互扶助(Gotong Royong)の精神からです。

◆最初(per-mula-an)は苦学生が大学生活を貫徹する為の目的で乗客に協力
願ったのです。昔は大学生(Mahasiswa=男性 Mahasiswi=女性)自体が少数
でした。好意を持っての協力者も多く居ました。

◆苦しい生活の一般市民が多い現在はNgamen が学生とは限りません(Belum
Tentu)、しかしこの国の人達は寄付心が強い人が多く、強制的に歌を聴か
されても怒らず、小銭が有れば寄付をします。

◆この流しは大通りの道端 (Pinggil Jalan) にも居て、行き交う車両からの
寄付も期待します、近年は子供達 (Anak2) がこれを真似し、又、両親の無い
子供達を集めて募金運動をさせているボス等も居るとか?

◆此方の人には小銭で人助け(Bantu)が出来るなら、と言う考えもあるよう
ですが、罪滅ぼしと解釈している人も多いのです。

◆此処の皆さんは、我々の様に「あいつ等はこの金でビール (Bir)を飲み
タバコ(Rokok)を吸うんだろう」、とんでもない奴だとか 「彼等のボスは
摘発すべきだ」など等を考えず、寄付の使用目的には関心が無い〈Tidak Ada
Minat〉、と言う様な顔をしています。

◆一般的にはNgamenに払わなくても、パスのサイン(Tanda)を示せば問題は
有りませんが、中には支払いを強制する者も居るとか、いずれにせよ余り頻繁
ですと、私達には只うるさく、疎ましく、愉快でありません。

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交通機関・災害時にはどうするか?(3)

◆平常時 (Biasa) に、信用できるかどうか判らず、しかし、どうしても
利用しなければならない場合は、携帯電話(HP=hand phoneの略) で刻々知人に
連絡を取り(hubung-i)、危ない(Bahaya)と感じたら自宅 (Rumah Sendiri) や
邦人の友人宅に向かわず、スターのある (ber-bintang) ホテルにタクシーを
着け、ベルボーイ、警備員(Satpam),或いはカウンターに居る人間に料金支払
交渉(Negosiasi Bayaran Fee)を委ねる(silah-kan)事。

◆そのホテルに投宿(meng-inap)しなくても充分謝意を表して、チップ
(Tip)呈して、問題は解決する筈です。

◆インドネシアに於いて外国人のバス利用は一部の路線を除き、殆ど成されて
いません。

◆一部の路線とはジャカルタに於けるBIS WAYであり、飛行場から市内数箇所に
出ている定期(Jadwal ter-tentu)運行バスです。

◆このシャトル便は国営(per-usahaan Negara)バスのDAMRIで、ジャカルタ
市内の数ポイント間を運行しています、急行(Cepat)ですし、料金は安く
安全(Aman)です。

◆両者ともまあまあの清潔度があり、料金が安い上、保身上の安全度は
タクシーより上です。

◆まず、これ等のバスからの利用トライ(per-coba-an)をお勧めします

◆ジャカルタ以外の空港にも街との間のシャトル便がある所もあるでしょう。
出発前に其の地に明るい人達に前以て (sebelum-nya) 聞くと良いでしょう。

◆ジャカルタの場合、両者以外の市内バスは馴れないと、どのルート
(Jalur) をどの様に走るのか解り難いし、昼間はスリ (Copet) が横行、
夜間は強盗 (pe-rampok) が出没しますから乗らない様に。

◆次ぎの、バス乗車の練習には、Patasという全席指定席のみの急行
(Expres) バスがを選びます。クーラー(AC)があり、殆どの車両は清潔
(Bersih) で、ジャカルタでは数箇所のターミナルから出ています。

◆各地方都市間を1日数回往復するので、切符の前売りもあり、バス
ターミナルでは当日、当時に購入も可能です。また車内コンダクターに
目的場所(Tujuan)を教えておく事も可能です。

◆一昼夜以上の長距離Patasには、等級によりレストラン(Restoran)に
寄ったり、その食券が出たりする場合があり、勿論自弁の場合は食事内容
も自由です。

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2007年3月 3日 (土)

交通機関・災害時にはどうするか?(2)

◆先ず、有事発生では街中のタクシー (Taxi) は使えなくなる事が充分
(se-cukup-nya)に考えられます。理由は渋滞 (Macet)、或いは運転手
(Sopir) が危険地帯 (Zona ber-bahaya)への運行を拒否(Tolak) するからです。

◆友人達の協力無しで、タクシーも使わず安全箇所にまで到達するには
どうしたら良いか ?

◆先般のジョクジャカルタ、中・西部ジャワ連続地震 (Gempa Bumi) 発生の
際もタクシーの乗車拒否は多発しましたが、バスは運行路線 (Jalur Operasi)
を運転中であり、のろのろ運転ではあっても走行していたようです。

◆しかし、バスの運転手、乗客もろともバスを離れ、逃げ去ってしまう例も
有ったかも知れません。

◆この様な場合先ず、貴方の希望する(meng-harap-kan)場所へ連れて行って
呉れるか、其の場所へ連絡を取って呉れる(meng-hubung-i)であろう所は
何処か考える事です。

◆日本を含む外国の大使館、(ke-duta-an) 領事館(Konsulat Jenderal)、日系
進出企業等が良いでしょう。

◆次ぎは情報が得易く、協力してくれそうな、スターの有るホテル、地元の
FM放送局 (Stasiun Radio FM di Tempat)、警察署(Kantor Polisi)。

◆一時待機の場所として最低限 (Perluan Minimum) の設備 (Fasilitas) を
持っている病院 (Rumah Sakit)、飛行場 (Air Port)、なるべく大きい建物の
官庁を探す事です。

◆官庁建物の表看板の文字の中にはDEPARTMENという文字が有ります。そこ
には公用車(Mobil Dinas)があります。

◆此れをヒントに貴方に適した場所を考え、常時(Selalu)携帯(mem-bawa
surta)のメモ(memo) に記録しておく事です。

◆インドネシアに於ける一般的交通機関の内、先ず災害時に使わざるを得ない
交通機関から、続いて( ber-ikut-nya) その他の乗り物に就いて書いて見ます。

◆ジャカルタ市内で使用するタクシーは厳選 (memilih Ketat)を要します。
特に辺鄙(Tempat Sepi) な場所での乗降と早朝、夜間の利用には、注意
(per-hati-kan) が必要です。

◆飛行場を始め、人の集まる所には上白タク(Taxi Gelap)と、その仲介屋
(Calo) が横行します。質の悪いCaloと白タクに捕まったら、面倒が発生
します。

◆FMラジオ聞いていますと、各地で生した事件 (Peristiwa) が報道され、
タクシーでの事件も多く、特にジャカルタで発生の酷いケースが報道
(Rapor) されます。

◆皆が動顚している災害時は、お互い他人の事に気を配る事が難しく成ります。
その様な時にタクシーの利用は絶対 (bagaimana-pun juga) に避ける
(meng-hindar)べきでしょう。

◆どの様な状況下に身を置く結果になるかも知れません。

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交通機関・災害時にはどうするか?(1)

◆外国 (Luar Negeri) に長期滞在 (Tinggal Lama) する場合、災害 (Bencana)
が発生し(ter-jadi)、交通機関が麻痺した場合を予測(me-ramal-kan)しての
心構えが必要です。

◆いつもなら会社の同僚(Rekan)、友人(Kawan)に協力(mem-bantu)を願う
事も可能でしょうが、災害が発生すれば難事(Hal Sulit) は皆に降りかかります。

他人 (Orang Lain) からの協力は期待 (meng-harap-kan) し過ぎない方が良い
でしょう。

◆其の時(Pada Waktu Itu)、貴方の居る場所は何時も見慣れている場所
(Tempat) か?

◆旅先 (Dalam per-jalan-an) などで、周囲( lingkung-an )の事が余り判ら
ない所か?

◆前者 (Yang Depan) の場合は、いざと言う時でも、どうしたら良いかを考える
基盤(Dasar)が有ります。

後者 (Yang Belakang) の場合は、今居るロケーション (Lokasi) と周囲の状況
(Situasi)を判断 (Nilai) する必要があります。

◆いずれにしても、事が起きたら、走り出さないで、例え数分掛かっても、
身の安全を確保しながら、状況判断する事が大事 (Penting) だと思います。

◆インドネシア、スマトラのアチェ(Aceh)を地震、津波 (Tsynami) が襲った
ときのフィルムをみる (Lihat) と、濁流が流れる大道りを人々は流れに沿って
(ber-ikut) 逃げています。

◆通りの両側は幾らか高くなっていて商店群(per-toko-an2)があるようです。
左右に逃げたら救命(pe-nyelamat Jiwa)の機会が有ったのでは? と思いました。

◆過去にもインドネシアには津波が何度か有りますが、この国の面積は余り
にも広く被害地(tempat rugi-kan ) 以外の人々は、津波とは何なのか? 
どの様な格好( rupa-nya)でやってくるのか?知らない人が殆どです。

◆従って、ある人が先導(me-minpin)すれば皆付いて行く(Ikut)事に成ります。

◆此れはアチェに限った事でなく、わが国の関東大震災時にも有った事です。

◆東京、江東地区に火災 (ke-bakar-an) が延焼し、風下へ大群衆が逃げ、
逃げ場を失い運河で多くの死者を出す結果と成ったと聞いて居ます。

◆人間は弱いものですから、集団(Kelompok)に着いて動き安いものです。
でも、一寸の時間考えるべきです、難しい事では (Sulit Juga )ありますが。

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PALOPO現場の仕事開始(8)

◆日本から資材 (Materi) を積んだ船が入港すれば、マカッサルに戻り荷の
通関(lulus-kan Bea Dan Cukai) 、保管 (Simpan) の仕事です。
資材紛失は工事進行上許す事は出来ません。足しげく港の倉庫に通います。

◆そんなある日、ポートマスターから呼び出しが有り、何事かと行って見ま
した。曰く日本漁船 (Kapal Ikan Jepang) が突如入港、病人 (Orang Sakit)
が出たらしい、行って見てくれ。

◆和歌山県の小さい漁船で、聞いてみると急性盲腸炎 (盲腸炎=Usus Buntu)
らしい。以前居たホテルの隣の病院 (Rumah Sakit) へ電話後入院させました。

◆日本からの旅行者 (Turis) が宿を求めて宿舎に来、私がPALOPOに居る間
数日 (be-berapaHari) 泊まっていた事も有りました。当時日本人の居る家は
私共ともう1箇所の2軒でした。

◆2人居たお手伝いさん達は、日本人なら皆、我々の友達(Kawan)と思って
しまう事もあり充分注意した (meng-awas-I) 、事でした。
外国人として、長居すると、色々な事に出会います。

◆インドネシアのPalopoへ赴任する以前、会社内では数人の赴任者候補が
居ました。

◆南の島の奥地へなど行きたくないと思うのは当り前かも知れない。
まして、東京で常に新しいビジネスに触れていたいと思っている人にとっては。

◆しかし、我々の課、プラント課員は日頃現場の事を考査、検討ししている
為か、奥地と言う言葉が常にあり、逆にそれが当たり前に感ぜられる様に
成っていたのかも知れません。

◆私自身、インドネシアへ行く事に成るなら人が嫌がるところが良い、とさえ
思っていました。

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PALOPO現場の仕事開始(7)

◆現場では、早速 (Dengan Segera)、 片言のインドネシア語で笑いながら
仕事を教える人も居れば、年配の人は日本語のみ (Cuma) で仕事の指示をして
いる人もいる。

◆現場の仕事は相手が熱心 (Rajin) であれば、それでも通じるものだと感心
して見ていました。

◆事件です。毎朝水浴の為の水を消防車 (MPK=Mobil pe-madam ke-bakar-an)で
運んで貰って居ましたが、今朝は出勤時間が過ぎても消防車が来ません。

◆私は考えました。朝の水浴(Mandi)はインドネシア人に取って大事な事で、
これが出来ないと仕事はおろか、1日が始まらない (Tidak Mulai) と言うもの
です。彼らは解って (mengarti) 呉れる筈。

◆このPALOPOは奥地 (Tanah Ujung) で全てに不便 (Tidak Praktis) な所です。
不便ですから事がスムースに運ばない事も承知していますす。
が、良いや良いや事を済ましてしまうと、今後も全ての約束 (per-janji-an) が
好い加減に成ってしまう。

◆我々日本人に取って約束事は大事である。履行 (pe-laksana-an) すべき
ものは履行する事が我々とイ国側が今後も良好な関係を維持していける最低線
である。

◆以上を胸にして現場のスタッフに伝えました。「約束の給水車が来ない、
我々の権利であるMandi無しで仕事には就けない。依って本日は日本人にとって
の休日とする」。

◆スタッフは軍隊の電話を使ってマカッサルのS氏に連絡を取ったのでしょう、
翌早朝S氏がやって来ました。

◆曰く、「これはどうした事か」、「この国で禁止されているストライキを
やるのか?」

◆応えて「我々は日本国の指示で此処に来ている、決められた約束が守られ
なければ、侮辱を受けた事に成り、仕事の続行は出来ない」。

◆彼は暫く嫌な顔をしていたが、「我々の手配 (per-siap-an) が悪かった、
直ぐに給水させる」と言って帰っていった。

◆直ぐに車が来て、Mandiし仕事場へ向かう。
現場に居る労働者は、ニコニコ、ニヤニヤ。

◆1日の仕事が終わり、宿舎で夕食、イ国側から私共宿舎用にジープが1台与え
られていたので、コックさんは毎日ボーイを連れて町の市場(Pasar)へ買い物、
なかなか結構な夕食だ。

◆食後、S氏の宿舎を訪ねると、結婚式 (Upacara per-nikah-an) へ出席の為
出掛けたとの事、場所を聞いてその場へ。

◆S氏はにこやかな顔で最前列中央に座っている。式場関係者に頼んでS氏の
隣に椅子 (Kursi) を置かせ、座るなり隣のS氏と握手する。彼も応えて
ニッコリ。

◆その場で何を話したのか記憶 (ingat-an) に無い。
以降は友好 (per-sahabat-an)がより深くなった様でした。

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PALOPO現場の仕事開始(6)■ By 南果

◆1時間ばかり現場を歩き、それでも汗だくに成ったので、川の水で入れた砂糖
(Gula) 大目の熱いコーヒーが美味い、皆の鼻下にはコーヒー豆の挽き粉が
円を描いています。

◆お互い愛嬌のある顔を見て、笑い合う。

◆現場に立った現場主任は言う、明日から穴掘り (mem-buat Lubang) を
しますので、人夫 (Buruh Kasar) を手配して下さい。

◆マカッサルの大学から派遣された研修生5人と教授 (Guru Besar) は、興味
シンシン(Dengan Menarik Hati) 観ています。

◆工場予定地の周りに電柱を立てるのです。現場主任は作業服 (pakai-an kerja) 
を着て、自ら生丸太(gelondong-an Basa)を担ぎ(Pikul)歩きます、イチ、
ニイ、サン〈Satu, Dua, Tiga〉とか、セイノーとか主任が発する掛け声は其の
日の中に大はやり。

◆しかし、大学生達は冷えびえした顔で観ています。

◆かなりの時間が経ってから、一人の学生が私に聞きます、「アノ人は
エンジニアー(Insinyur)なのか?」そうだチーフ・エンジニアだと答えると、
そうかな? と言う顔で「エンジニアーは普通ネクタイをして、事務所の机で
図面を見て、人々に指示すもので、丸太を担ぐチーフ・エンジニアー等居ない」、
「おかしいな?」と懐疑的(men-curiga-i)。

◆仕方なく、主任に事の事情を話しました。彼は「良いですよ、こうしましょう、
これから彼等と構造計算のスピードを競い合いましょう、提案して(meng-usul-
kan) 下さい」。

◆彼らは提案を受け入れ嬉々とし(Dengan Senang) て紙と鉛筆を持ち集まり
ました。主任は紙も使わず、早速地面に数学 (Matematika) の問題を出しました。
学生も理解したようです。

◆用意ドン(Satu Dua Tiga)開始 (Mulai)、開始して1分も経たぬ内、主任の
計算は終わり(Selesai)ましたが、学生達は時間が掛かっています。

◆やっと出た答が同じ (Sama2) で、学生達は笑顔と成り主任と握手 (Jabat
Tangan)、次の日から彼らも丸太を担ぎ、セイノーの掛け声を出しています。

◆技術者の第2陣が着きました、現場では各班に別れ、夜まで作業が続きます。
我々は国家間の賠償契約に基いて来イして居るので、旅券 (Paspor) は公用
(Dinas) と成っています。

◆しかし、第1陣受け入れ後の移民局 (Kantor Imigrasi) に於ける手続は
面倒なものでした。社員の言う潤滑油 (pe-licin=Licinは滑るで、pelicin
すべすべした物) が必要なのでは?

◆結局、日本からの土産物である御婦人用の夏物生地 (kain) と、当時日本で
流行だった花柄サテン地に厚手の透明ビニールをカバーした物で縫製 (men-
jahit) したバッグを持って、移民局担当官宅へ。

◆担当官はH氏、彼は頬には縫い傷があり、しわがれ声で威圧するので、居留
手続に来る中国人達はかなり恐れ (Takut) ていた。

◆私はその後も、後々の事を考え足しげく彼の家へ通いました。

◆10年後程だったか、ジャカルタに居住しPeribumi (血統も国籍もイ国人) 
の友人と市内を歩いていた時、ばったり(Tiba2) H氏と会いました。H氏は
私の友人の親族(Famili)でした。

◆H氏のばつの悪そうな顔を思い出します。

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PALOPO現場の仕事開始(5)■ By 南果

PALOPO現場の仕事開始(5)■ By 南果 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆皆さんがマカッサルの生活を味わった1週間後、いよいよPALOPO入りです。
コックさんは私の使っていたボーイを下働き(pem-bantu)として望んだので、彼も同行。

◆早朝4時に出発し8時間後中間地点となる山の山頂 (Pencak) に到着、
1軒しかない茶店といおうか、屋台 (Warung) に入り陳列棚に有るおかず類を
各自選んで昼食、先のひん曲がった (Bengkok) アルミのホーク (Garpu) も、
おかずの煮姿も、空腹の為余り気にならない様子、予定の行動でした。

◆これを食べておけばPALOPOのMessで食べるコックさんの料理は美味いに
決まっている。

◆後、一峠越えれば終着点PALOPOという所Makaleに着きました。今では有名な
コーヒー(Kopi) と成ったトラジャ・コーヒーの産地です。

◆トラジャ (Toraja) 独特の文化もその時の私は知りませんが、私の使っていた
ボーイはトラジャ人で、インドネシアでは有名なトラジャコーヒーがある事は聞いて
いました。

◆体に積もった埃を落とし、うがいをして、コーヒーブレークと行きました。喫茶店
でなく、コーヒー店でもない、裏がコーヒー豆の倉庫で、表が豆の販売店と言う
家の土間のテーブルに出されたコーヒーを飲みながら、親父と談笑。

◆可笑しかったのは、おやじから聞いた話です。「どんなコーヒーが最高か?」
私が知らないと答えると、「では、教えてやる」、「一番美味いコーヒーは、豆
(Kacang)だけを檻で飼っている鼠(Tikus)に食べさせ、其の糞(Tae)で入れた
コーヒーだよ」、与太話で無いのか、真剣な顔で言っていました。

◆とてもポーカーフェイスの出来そうも無い人柄に見えましたが、未だ試した事は
有りません。

◆ブラックコーヒーが腹にしみ、疲れが(Capek)消えて行きます。

◆トラジャの風葬がかいま見える山道を進み、冷え冷えした峠をがたごと越えて
PALOPOの町へ入りました。四辻 (per-empat-an) のコーナーに小さな食堂(Depot)
兼売店が有ります、町で只1軒の店です。

◆椅子に座るやビールは無いか聞きました、冷蔵庫 (Kerkas Es) はないので
温かいビールが出てきました。2週間前に来た時は1本のビールさえ無かった
のですが流石は中国商人。

◆後日(Kemudian Hari)判った事は、此処は宗教 (Agama) が強い所だと言う事、
ビールなど飲む人は皆無 (Sama Sekali Tak Ada) だと言う事。でも、以降は何時
立ち寄ってもビールはありました。

◆暖かいビールはとてもビアホールでごくごく飲む様には行かないものです。が、
酒飲みですが胃腸が強く無い人に言わせれば、ビールは暖かいに限る、
下痢しない。

◆現場でイ国側技術者(と言っても、マカッサルHasanudin大学の学生達5人と
教授です)と現場で挨拶、敷地内を歩き、簡単な討議をして昼食、現場での食事は
S氏からの指示は無かった様で地元職員の手配、時に小石混じりの黒っぽい飯(Nasi)に、野菜(Sayur2-an)の煮付け。

◆野菜は確かカンコン(Kangkung=インドネシア何処にでもある物だが、日本人は
炒めカンコンが何故か好き)だったか?

◆外国人に供する食事としては? と思ってか学生達の少々恥ずかしそう (rupa-nya Malu2) な顔、それでも我々が先に箸をつけるよう料理 (masak- an) を回してくれる。

◆私は笑いながら (Sambil ter-tawa)、「さあ、暑い現場で昼飯 (Makan Siang) を
食べる時はサングラスを掛けましょう」皆笑いながら食べるが、飯 (Nasi) よりバナナ(Pisang)に手が伸びる。

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2007年1月14日 (日)

PALOPO現場の仕事開始(4)

◆夕暮れ時は皆で散歩、海岸沿いにあるマカッサル随一の盛り場、といっても
Sumba Opu通り約2kmの1本道、別称、肩触れ合い市場(Pasar Senggol)
には醤油バターだれの焼き、唐もろこし(此れはイ国では珍しい味で、
ジャワでは主に只ゆでたダケ)、豆腐のから揚げ(=Tahu Goreng,2cm角程の
アツアツを、新聞紙で作ったラッパの中に青唐辛子数個と一緒に入れてくれる、
塩は付いてこないので、我々には食べ難い)、バナナ揚げ、バナナ焼き
(特大型バナナを7-8cm長に切り、叩いてい1cm弱厚程にした物を鉄板で
焼き、甘だれを付けた串等も売られている。

◆Becak(3輪人力車)がたむろし乗って呉と言う、通常はPasar Senggolの
終わりまで乗ってRp.100、-、 幾らだと確認すると指を1本立てた。

◆降りる際100ルピア払うと、1,000、-ルピアだと言う、「バカな事を
いうな」と口論していると、仲間のBecakが約10台集まった、怪我をしては
つまらぬと、悔しいが払う。

◆数日前、スラバヤ発のニュース (Berita) で柔道に心得の有る日本人が
Becakと喧嘩し、ナイフ (Pisau) で刺され、死んだ事が突然頭に浮かんだのだ、
大勢のBecakに囲まれたとの事だった、犬死にはしたくない。

◆此処のBecak屋の大半は腰の後ろに手のひら長のナイフを差している。
毒 (Racun) を塗っているナイフも有るので要注意と、我がドライバーは
私の身辺警護をする時はナイフを常に携帯している。

◆マカッサル以外、何処の港町にも海洋族のブギス (Bugis)人、群を作って
寄留するマドラ(Madura)人がいる、ナイフを携帯している人は多い。

◆各地のナイフを骨董屋 (Toko Antik) で眺めると色々な形がある。ブギスの
物の多くは短い握り部分から刀身部へかけて内側に曲がっていて刀身が薄いが、
差してひねれば刀身の首が折れる。

◆アチェの物の多くにはアラビア語が浮き彫りされていている、呪文なのか?
品のある物が多いように感じた。

◆又、この国何処でも、田舎道をすれ違う人の多くは山刀、鎌を抜き身で
持っている。気にすれば気に成るが、すれ違いさま凶器と成るケースは殆ど
無い様だ。

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2007年1月 6日 (土)

PALOPO現場の仕事開始(3)

◆約1週間後〈se-minggu belakang-an〉日本人技術者(Ornag Teknis Jepang)
第1陣(Kelompok ke-satu) を、マカッサル空港でジャカルタ駐在員から
迎入れる。

◆建築現場主任 (Kepala Orang Teknis Di Projek Konstruksi) 、ブルドー
ザー運転兼修理工、沖中士 (Ahli bonkar-muat Kargo)、トビ職 (Orang
PekerjaTeknis Di Atas Struktur) とコック (Tukang Masak) さんだ。

◆マカッサルや現場には、重機材を無傷〈Tanpa luka-i〉で積み卸 (bongkar-
muat) できる人達が居ないので、沖中士は貴重な存在、トビ職達も同様当地に
居ない職方。

◆何の娯楽(hibur-an)も無い現場での楽しみは食べる事、コックさんの
腕前は充分吟味した。

◆此れにはAcehに従軍した元軍人からの強いアドヴァイスも有ったからでした。
娯楽の無い所に長期居ると、終いにはオカズの魚の大きい、小さいが諍い
(per-tengkar-an)の基になる由でした、そしてその様な事が確かに起こり
ました。

◆マカッサル宿舎は部屋数も有り、前庭、中庭は緑の芝、後庭にバトミントン
コートと、広々していたので、彼らは満足 (Puas)。

◆コックさんは毎日ボーイと市場(Pasar)へ食材 (Bahan Masak) の情報収集。

◆前庭には大きいマンゴ (Mangga) の木とライムの潅木がありました。

◆此方の人は元来酢 (Cuka) が嫌い (Tdak Suka)、と言うよりは「常に酢を
採っていると、腸 (Usus) ががボロボロ (bolong2) になる」と言う迷信を
信じている人が多いので、ライムも此方では主に焼き魚に添えて出て来る程度、
果実はたわわに実っているのに、取る人が居ない。

◆私自身は大のジン (Gin) 好きだったのでジン、品切れの場合はボルス
(確かオランダ産でBOLSとラベルに有った、ジンに似た酒)の水割りにライム
を充分搾って飲むのが楽しみでした。

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PALOPO現場の仕事開始(2)

◆ある土曜日 (Hari Sabtu)、現場責任者のS小佐(Major Kolonel,
「クーデタ-発生」の項でLetnan Kolonelと記したのは間違いです、訂正
いたします)が突然宿舎にやってきて、PALOPO現場で必要な物は何か? 
と聞かれる.

◆仕事机xxセット、ベッドxxセット等応える(men-jawab)、彼はメモを
取り直ぐに現場に送ると言う。

◆加えて、「明日 (Besok) の日曜日 (Hari Minggu) に、我々の社員と私の
田舎へ(Ke Desa)リクリエーション (Rekreasi) に行くが、一緒に行かないか?」
私には何も予定が無い (Tidak Ada Rencana) のでOKすると、「お宅のセダン
(Sedan)も同道して貰いたい (me-minta)」。

◆日曜日朝、彼を待っていると、宿舎へ来るなり出発、彼は運転手の横へ乗り、
店へ直行。菓子類 (se-macam Jajan) 大量と、ビール2ダースをトランクへ
積み出発(ber-angkat)。

◆2時間程、田舎道を通りJenepontoへ到着、海岸沿い (Pinggir Laut) に有る
広い塩水堀 (Tambak) は彼のものだと言う、既にトラックで着いていた従業員
(Karyawan)達がテント(Tenda)を設営中。

◆1部の者達は堀から魚を取り、火を囲んで串刺し(Sate) の海老(Udang)、
バンデン(Bandeng=塩淡水混合地に住むボラのような形の淡白な魚)を囲んで
談笑したり、歌ったり。

◆私の横に座った (Duduk) S氏は、にこやかな顔だが、小さい体はエネル
ギッシュ、時に湯気 (Wap) が出る頭は何時も何かを考えているらしく、
従業員に次々指示が出る、年齢(Usia) は40歳近くか (Hampir Empatpuluh
Tahun)?

◆従業員達も「Ya, Ya」と答ながら機敏 (gerak-an Cepat) に動いている。

◆大型の海老と手のひら1.5倍長のバンデンが焼けた (di-bakar)。

◆調味料 (Bumbu) は甘い醤油 (Kecap=此処にはアマーイ醤油と、塩辛い醤油が
有り、日本の様な中間味の醤油が無い、現在は街のスーパーで日本の醤油が
買える) にニンニク(Bawang Putih) 大程の赤たまねぎ (Bawang Merah) を
刻んだもの(生はニンニク、玉葱の様な臭いは無い)、Jeluk Nipis〈カボスの
様な小さい柑橘類、魚料理に良く付いて来る〉とき刻み唐辛子(Cabe) 、この
たれに魚を着けながら食べ、ビールを飲む、美味い。

◆「美味い!」と言うとS氏は満足気だ。

◆バンデンは首の回りに小骨が多いが刺さる硬さではない、ほんのりと泥臭いが、
白身で淡白な味、此方製ソースに合っている。

◆回教徒の (Islami) S氏はビールを一口飲んだだけで、しきりに私に勧める。

◆仕事の話はせず、この田舎の事を主体にオシャベリ、次回は(Lain Kali)
田舎の家に招待するからぜひ来てくれと言う。「了解」。

◆夕方帰Mess.、次の日彼のと言うか、我々のと言うか、Projek (Projectの事)の
事務所(Kantor)へ行く、魅力的な(Daya Tarik)女性も数人いましたが、
自重2(ber hati2).

◆翌日、S氏と現場へ、臨時宿舎(Mess Yang Sementara)にはベッド他、最低
必要な物が入っている。流石 (Memang) 軍人だ。

◆この宿舎は現場入り口の小高い岡 (Bukit) の上にある家で大きい寝室には、
1人用ベッドが15台程入る。

◆オランダ人が住んでいたと言うが、守備隊兵舎だったかも知れない。

◆当時の私の頭(Otak-=脳)の中には仕事の進め方に就いての考えしか無く、
このPALOPOの歴史(Riwayat)や此処が発祥だというブギス語(Bahasa Bugis=
現在ブギス族・語と言えば皆マカッサルを連想する)の事、このProjekの現地
での代表者は皆からOpu(此処の言葉で王様)と呼ばれるアンディ・マクラオ氏
の家の歴史 (Sejarah)、今想えば興味のある事柄が多くあったのです。

◆寡黙 (pen-diam)で、静か、やさし気 (Baik Hati) の氏と多くを語ることが
出来なかった事は残念(Sayang)な事でした。

◆この頃に成ると、Projekに参加する反乱軍 (Pem-berontak-an) 兵士が多く
成ったのか、彼らに依る妨害行為(Aksi meng-ganggu)も無く成ったのか、夜間
の小便に小隊がついて来る事は有りませんでした。

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2006年12月28日 (木)

PALOPO現場の仕事開始(1)

◆仕事相手の主局はジャカルタにあり、現場のある支局はマカッサルにある
ので、仕事開始迄の書類手続き (Tata cara-nya) は中々面倒で、両地間を
行ったり来たりしました。
  
◆当時ジャカルタの飛行所は現在市中のクマヨラン (Kemayoran) に有り
ました。マカッサル行きの便は週の内の数日で、しかも1日1便です。
  
◆従い、行く時は早朝4時に起きて飛行場へ行き、切符発売時間を待ちますが、
突然、軍人(Tentara) が団体 (Kelompok) で来ると、搭乗権は彼等に優先され、
其の日の切符は売り切れに成ります。

◆金持ち(Orang Kaya)商人 (pe-dagang) は切符売り場窓口の裏に廻り
(ber-putar)、余分の料金を払って切符を手に入れようと右往左往します。

◆ガルーダ(国営航空会社Garuda) の職員に近ずく(dekat-i) 人、仲介人
(Calo)を動かす人。

◆そんな事に馴れない私は、その光景 (pe-mandang-an) を見ているだけです
(Cuma Lihat Saja)。

◆目を擦りながら宿舎(Mess)へ帰ります (Pulang)。

◆この様な事が3日も続くと、疲れて(Cape)ぐったりして仕舞います。

◆マカッサルはジャカルタに比べ緑(Hijau)が多く、気分が和らぎ (Tenang)
ます。

◆毎朝(Setiap Pagi)地方紙を読みながらラジオのローカルニュースを聞く
事が日課です.

◆新聞の内容は30%位の理解度だったしょうか?なるべく見出しだけでも
理解したく、宿舎に出社する社員を待って、尋ねたりしました。

◆そして、常に思う事は、他国から受信する短波(Gelombang Pendek)放送に
比べ( ber-banding) ,日本からの電波が非常に (Sangat) 非常に弱く、聞き
取りにくい事です。

◆この状態は現在も変わって居ないでしょう。そしてつまらない (Tidak ter-
tarik) 放送内容も。

◆国技だと言う相撲の実況放送が、ダイジェストでさえ放送されていません
でした。

◆日本に居る時は聞いたことの無い歌謡曲も、たまに受信すると、日本の香り
(Wangi)がして涙が (Air Mata) うるむ事さえ有りました。

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2006年12月17日 (日)

30事件(クーデター)(5)

◆1966年3月11日スハルト将軍はスカルノ大統領から職権移譲書を
受けました。

◆この後この書類の本紙(Asli)が紛失、現在保存されて居る書類はコピー
されたもの、と言う椿事が有ったり、スハルト将軍側近(Orang yang dekat)
が幾人も長期拘束(Tahan)されると言う変事も有りましたが、スハルト政権が
固められて行きました。

◆スハルト大統領代行は選挙(Pemilihan)を経て大統領と成り、右より
外交路線(tujuhan diplomasi)を明確にし、西欧諸国からはSmilling President
として親しまれる様になりました。

◆アメリカ・バークレー大学出身者達の経済閣僚(Mentri ekonomi)の起用が
あり、経済開発政策にも成功し、スハルト政権は長期(Waktu panjang)に
及びます。

◆どの国の政権でも、それが長期に亘ると、弊害が目立つ様に成ります。
国民からの支持率も落ち、32年間と言う長期政権(ke-kuasa-an politik)
は終焉(ber-akhir)します。

◆1970年、仕事で行った南カリマンタン、ラウト島の指定宿舎は隔離
されている元PKIの年老いた(Lansia)夫婦により管理されていました。
この村で数人の元PKIにも逢いました。

◆農業(per-tani-an)をする土地は有るので食べては行けるが、ジャワに帰る
事が出来るのか、どうかは解らない、と寂しげ(Sedih)な顔かお。

◆1990年代になりジャワ島内の旅行先で元PKIの2世(Generasi yang ke-
dua)に偶然逢う事が幾度かありました。私が外国人である事を知ると、
色々しゃべり(Bicara)出します。

◆立派な履歴(Riwayat hidup)を持つ人も居ますが、公職には就けないと
憂鬱そうにつぶやく。

◆人生(ke-hidupan manusia)を短く感じ、又長く感じる人々も居るのは
当然として、近親者がそして本人が、何時何処でどの脇道(Gang)を通るかに
より運(Nasib)と言う箔か垢(Daki)が付いて来る。しかし運の付いた瞬間、
本人に採っては箔なのか垢なのか解らない。

◆これが恐ろしい事なのか、愉快な事なのか、人生を終わって見なければ
解らない。

◆この国の人々は90%以上がイスラム教徒(Muslim=男、Muslimah=女)、
彼等と話をしていると、考えの中に輪廻(Karma)思想があり、地獄極楽
(Neraka、Surga)もある様だ。

◆この世は短く、あの世(Akhirat)の滞在は非常に長いと言う。そのあの
世とやらを心安く(Santai)過ごすには、この世での過酷(Kejam)を偲
(me-nahan)ばなければならないとも言う。

◆しかし降り注ぐ不運(Nasib buruk)に耐える強さを、宗教(Agama)は
人間にもたらして呉れるのか?私の人生が短すぎて未だ判りません。 

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30事件(クーデター)(4)

◆PKIと中国本土との関係も明らかになりインドネシアは中国と国交断絶。
ジャカルタの中国人街には火付け事件が多発、中国大使館(Kedutaan cina)も
焼かれ(mem-bakar)ました。

◆マカッサル市内(Dalam kota)は以前に増して中国人の車が焼かれる、家が
焼かれる。火事場ドロボーが横行、火事場が無くても怪しい人間が出没する
事態です。

◆市内に或る中堅の日本商社の事務所が有り、所長とは親しく付き合って
貰っていました。所長は警察署長に掛け合い、護身(Bela)用のピストル
(Pistol)を借用した由、私にもピストル携帯を勧めます。

◆よくよく考えましたが、事故が発生した場合、凶器(Senjata tajam)を
所持していれば間違った判断(pe-nentu-an)から加害者に成ってしまう
可能性もあり、私の心情には合わない。
所持はしない事にし、若い兵隊2人を雇い警備(Jaga)に当たらせました。

◆引っ越した我が社宅の両隣は中国人の家だったので両家とも丸焼けに
成りました。

◆我が社が行っているプロジェクトのイ国側(Pihak Indonesia)の現場
責任者(Punya tanggung-an di plant site)はマカッサルに住む陸軍少佐
(Letnan kolonel)S氏、噂では与党政党の地方支部長で新聞記者(Wartawan)
だとも言う。

◆この国で目的(Tujuan)の人に絶対(Mesti))会わねばならぬ場合は夜を
徹して、の積もりで敢行(laku-kan)せねばならない。

◆初めて出かけたS氏宅の庭(Taman)には夜8時を過ぎているのに、塀
(Tembok)の外まで4-50人の人達がしゃがみこんでS氏との面談
(Wawancara)を待っている。

◆家人に私の来訪(Ke-datang-an)を知らせて欲しいと伝える、直ぐに会うと
の返事を貰い、面談。

◆まず、この人達は何なのか?と尋ねる。S氏はニヤニヤ(Senyum)しながら
町の問題、住民間の問題、親族縁者間(Antara famili)の問題、夫婦間
(Antara pasangan)の問題などを相談に来ているとの事、それ等の問題
(Masalah)を即決しているのだとの事。

◆裁判官(Jaksa)のような人だが時間をかけないで済ませる方法とは? 
と尋ねてみる。

◆彼曰く「何処の国でも、何処の場所でも、民衆(Masyarakat)の中には問題が
ある。裁判をするには金と時間が掛かる、それをしないで問題を解決したい
人達がこの人達で、私も其れを理解しているので、問題提起者(Orang punya
tentutan masalah)と受け手の中に私が入り仲裁(meng-adil-i)する。

◆話し合いが付かず、どうしても勝ち負けを決さねば成らぬ場合は、私の村
(Jeneponto)の習慣に習って当事者代表二人がサロン=Sarung(円筒形の布、
縦およそ2m、円筒形にした時の最大幅2m程か? インドネシア人は此れを
常備、着物(pakai-an)代わり、風呂敷として、幼児を担ぐ帯紐としてなど等
多岐に亘って使用している)の中に入り鎌(Celurit)を持って決闘(Perang
tanding)する」。

◆小柄(Raga yang kecil)でハゲ(Botak)かけ頭のS氏はニヤリと言う「この
解決法を期待して皆ココ(Disini)に来る(Datang)んです」。

◆イヤ! (Doh!)、大変な人が私の仕事のパートナー(Pelawan)に成って
いるんだ、とじっくり感じ、又、副社長がS氏には充分気を付ける様にと
忠告(nasehat)してくれた事を思い出しました。

◆問題の火付け事件に就いて(Tentang)相談したいと言うと、心配しないで
宜しい(Tidak perlu kwatir)、お宅に被害は及ばない、との事。
それ以降、彼の言う通り我が家に被害は全く有りませんでした。

◆乞われて預かった(di-titip-i)ホテル・オーナーA氏宅から運ばれた重い
ツズラも無事(Aman)に返還出来ました。

◆ジャワ島中心に大掛かりなPKI狩が行われ、多数の人々が行方不明となり、
又集団(Kelompok)で東インドネシアの島々に隔離(Isolasi)されもしました。

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2006年11月28日 (火)

30事件(クーデター)(3)

◆今回のクーデターには当時ジャカルタで建設中のアジア大会用スタジアム
(Arena)の資材が中国から送られ、その輸入資材の中に共産党員に譲渡する武器
(Senjata)が入っていたとの噂(Isu)が有り、その為中国人が憎しみの標的
(Sasaran)にされている事も聞きました。

◆中国人と言っても台湾(Taiwan)から来たと言う人と中国本土からやって
来たと言う人が居ます。

◆政治的デマが毎日流れ、「台湾は良いが中国は悪だ」、しかし中国本土から
の人々にはそれなりの自尊心(Harga diri)があり、出来れば其の立場を
貫きたい、の考えがある様でした。

◆一方、民衆は右か左か、早朝から声高にアジりながら大道を右往左往する。

◆中国人の家では台湾=中華民国と中国本土=中華人民共和国(RRT)の国旗を
両方備え、毎日町の様子(ke-ada-an)を観ては国旗を変えて掲揚すると言う
事態(Situasi)。

◆1週間経ち、ラジオが再開、其れに依ると9月30日夜、国軍7将軍が
インドネシア共産党(Partai Politok Indonesia=PKI)に拉致され、PKIの
軍事基地、ジャカルタ郊外のルワン・ブアヤで惨殺されたが、ジャカルタの
戦略作戦司令部隊長スハルト准将(Brigadir jenderal)により鎮圧され、
ジャカルタは平穏を取り戻しつつあるとの事、しかし報道管制が敷かれて
いる為、ニュースソースは限られ、詳細は解らない。

◆ホテルには毎日のように軍人、警察官(Polisi)が武器アラタメの為着剣で
やって着ては、荷物を調べる。

◆その際は、嫌がらせをして金をせびる(Minta)様な事は全く有りませんで
した。彼等も真剣に任務(Tugas)を遂行していたのです。

◆我が社の宿舎(Mess)は以前から1軒屋を契約していたので、そこに移り
ました。

◆毎日クーデターの詳報、即ち大量の共産党員(PKI)に依る軍事訓練
(latih-an miiliter)、7将軍の拉致(Culik)された方法、女子共産党員
(GERWANI)に依る将軍達への惨殺状況、そして、KOSTRAD(戦略作戦司令部)
スハルト准将に依るPKI軍掃討作戦、共産党撲滅運動(Aksi mem-berantas-an)
のニュース(Berita)が続きます。

◆聞いていて感ずる事は、如何にジャカルタ郊外とは言えPKI多人数による
陸上軍事訓練がどうして発覚しなかったのか?

◆将軍達はPKIが蜂起することを感じており、それに先駆け国軍によるPKI
せん滅(meng-hancur-kan)を計画していたにも拘わらず、如何して将軍達個人
個人の防御姿勢に欠点があったのか?

◆彼等はジャカルタ中心地に住んでおり、歩哨も居るのにどうして、緊急時の
縦、横への通報(meng-hubung-kan)が皆無だったのか?

疑問(Tanda tanya)に感じました。

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30事件(クーデター)(2)■

◆1995年10月1日の昼頃、近くのスカルノ・ハッタ港(Pelabuhan
Sukarno-Hatta)付近で、連続した発砲音が響き出しました。

◆突然(Tiba2)、軍人(Tentara)がやって来て「国軍(TNI)海兵隊(KKO)が
共産党員(AnggotaPKI)と撃ち合い(tembak-menembak)をしているので、家に
帰ってくれ」と言う。

◆宿舎のホテルに戻りましたが、ホテルは武装した(pe-langkap-an)兵隊に
囲まれている、事情を話し部屋に戻り、ゆっくりと隣人(Tetangga)達に
状況を聞く。

◆「クーデター(Kudeta)が起きたらしい、詳しい(Teliti)事は解らないが
安全第一(utama-kan- ke-selamat-an)を考えて、事情を聴取しましょう」
との事。外には出られず、まんじりと夜明(Fajar)けを待つ。

◆夜中を通してホテル入り口側と裏の海岸通り側との間で発砲が続いて
居ましたが、肉薄戦にはならない様子(rupa-nya)。TVの無い時代で唯一の
国営ラジオ(Radio Republik Indonesia) は「ウントン中佐(Letnan kolonel)
とやらがジャカルタを占拠(men-jajah)した」の放送(Siaran) があっただけで
中断が続いて居る。

◆オーストラリア放送を聴いた人は「将軍(Jenderal)7人が死んだ(Meningal
dunia)、ジャカルタは混沌としている」それ以降(Sejak itu)、外国からの
放送は妨害音が入り、聞けないとの事。

◆当時、マカッサルの一般家庭(pe-rumah-an umum)には電話が配線されて
いません。SSBを備えている企業は未だ(Belum)進出して来ていません。
電話局へ行き連絡を試み(per-coba-an)ましたが、操作不能(Tidak bias
ber-operasi)状態。

◆この国の大きな町、何処にでも中心地(Sentral) にスクエア広場(Alun2)
が有ります。

◆当地マカッサルの広場には中国人金持ちの乗用車(Sedan)を狩集め、
群集が焼いていると社員の報告(Laporan)。

◆本当なのか、社の車の窓(Jendela)に小さい日の丸(Bendela Jepang)を
張り、Yシャツにネクタイ(Dasi)を付けてスクエアに出てみる。

◆暴徒化(men-jadi orang amukan)した群集(gerombong-an)の険悪な顔
(Muka benci)が右往左往、車を見つけ寄って(dekat-i)来る、中を覗く。
日の丸を見て、怖い顔をしながら躊躇(Bingung)している。

◆結局(akhir-nya)、何もされずに済んだのですが、何かのきっかけで、
どう成ったか解らない状態でした。暴徒の一人が、やれ!(Ayo!)とでも声を
出せば餌食(Korban)に成っていたかも知れません。

◆毎日短時間外出できるように成りましたが、午後6時から翌朝までは
戒厳令下です。

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30事件(クーデター)(1)

◆我が社副社長(Wakil presiden)の懇意に日本軍政時代、マカッサル・
ヤマトホテルの持ち主である中国人A氏が居ました。

◆ホテルの名はGrand Hotelに変わっていましたが、好意(Baik hati)で
大通りに面した小部屋を事務所として使わせて貰う事になり、毎朝出勤、
日本技術者の受け入れ準備(menper-siap-kan)に入っていました。

◆ホテルには常時軍人(Tentara)が多く泊まっています、他に大型ホテルが
無かったのです。

◆A氏に軍人達はホテル代をちゃんと払って呉れるのか聞いた事があります。
答へは「軍には今金が無いから貸し金(Uang me-minjam-kan)が溜まっている
、でも、私は中国人ですから、払って呉れる日を待つしかない」。これは
『返済は後日・・』の考え方で、南方華僑の生き方の一つです。

◆具体的大成功例は若き日のスハルト大統領をバックアップ(Bantu)して、
インドネシア最大の政商(Pedagan politik)と成った、林紹良氏です。

◆A氏はマカッサル港の前方(Depan)海上5km程の所にあるサンゴ礁の島、
Plau Kayangan(天国の島)のオーナーでもあります。

◆暇な午後はこの島へモーターボートで行き、泳いだり、ウニを採りビールを
飲む。ウニは小型ですが浅瀬に黒い帯を、大型のなまこは褐色の帯を作って
居ます。

◆この国の人達はウニ(Bulu babi)も、なまこ(Teripang)も食べません。
子供達が私を遠巻きにし観ています。

◆泳いでは空を仰ぎ、「この空は日本に繋がっているんだなァ」独り言が出ます。

◆ホテルオーナーには当時7-8歳の一人息子(Anak laki2)が居ました。
Cちゃんです。

◆毎日(Setiap hari)、Cちゃんは我々の事務所前(Depan kantor)で仲間
(Kawan2)と遊んでいましたが、何時も仲間の子供達に金(Uang)を与えて
(beri-kan)います、合 計
金額はかなりに成ります。

◆ある日オーナーに尋ねました、「どうして(Kenapa)小さい子供にかなり
の金を、毎日あげるのか?」

◆オーナー曰く、「我が子に金を渡せば、子供(Anak)は仲間の大将(Bos)
になれる、仲間が増えれば幸い、子供が大人に成った時、我等(Mereka)が
子供の協力者になる」と言う。

◆子供に対する教育法としては良いのか悪いのか解りませんが、帝王学
(Ilum kaisaran)の様なモノの臭いを幾らか感じました。

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2006年11月 4日 (土)

何が売れて、何が売れない?(生活・商品・商感覚)(6)

◆日本の有名な健康機(Alat kesehatan)メーカーの製品を、使用1年後
(Satu tahun belakang-an)、壊れた為電話で問い合わせ、ジャカルタの代理店
(Agen)へ送りました。

◆電話(Tilpon)で代理店の指示(Instruksi)は「発送には(株)XXXを
使って下さい」と有名(ter-nama)な運送会社(Perusahaan kirim paket=Travel)
を指示されました。

◆1ヵ月後返送された(di-kirim kembali)時は名の無い(Tidak ter-kenal)
運送会社経由で、再使用後1ヶ月で壊れました。

◆日本人の駐在員はシンガポールとの掛け持ちで連絡(Komunikasi)は付かず、
再々度の修理は諦めました。

◆余談に成りますが、日本の会社が代理店として扱う店は、金持ち(Orang kaya)
中国人(Cung hua)の店が多いのですが、経験(Pengalaman)上言える事は、
中国人経営の小さな店が、いかにも顧客を作りたいと言う姿勢で、良心的
(Hati nurani)に対応してくれるケースが多く有ります。

◆上の健康器具メーカーはまだ良い方(Lebih baik)で、PC用プリンター
(per-cetak-an)を販売している大メーカーに、色出しのコントロール(Atur)
が出来ない、教えて下さいと、機器説明書(Penjelasan)に記載されている
日本本社のMailアドレスに、何度か問い合わせましたが、返事は全く有り
ませんでした。

◆余りインドネシアの悪口(Caci maki)ばかりを言っては片手落ちだと
思っています。

◆20-30年前まではこの様な事は無かったと感じて居ます。
まして日本の大企業に、この様な事態(ke-ada-an)が発生している事は
残念(Sessal)です。

◆海外で売られる大企業の製品に付いてくる小冊子(Brosur),説明書
(ke-teranag-an)の殆どに日本語が記載されていません、どの様な感覚で
商売しているのでしょうか?

◆この国際化と言われる現代、海外に居る邦人に対する感覚(pe-rasa-an)が
無いようです。

◆我々外国に駐留、居留する日本人は常に其の国の人々から日本製品に付いて
聞かれる立場であり、良い製品、特長(Ciri khas) 等を手っ取り早く話す事が
要求されます。

◆日本語で説明書を読めば理解は一層早く、間違いも少ないでしょう。

◆大企業の販売部員も承知(Maklum)の筈ですが、それとも外国暮らしの
日本人が日本製品を買う場合、運賃を自己負担(Bayar sendiri)して、全て
日本から取り寄せているとでも考えているのでしょうか。

◆そして日本人は其の国の人とは付き合わず、日本人同士で昼はゴルフ、
夜はマージャンカラオケ(Karaoke)とでも思って居るのでしょうか?

◆昔は、大企業と言えども井の中の何とかで、外国に居る人間は全て外国人
と決めて、販売活動をしていたでしょうが、現代に至っては、どうなので
しょうか?

口では国際化などと言ってはいます。

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何が売れて、何が売れない?(生活・商品・商感覚)(5)

◆先日PCを新しい場所で使う事になり、PCを持って出かけました。

◆使い始めて直ぐ家屋が停電(Mati lampu)と成りました。所有電力一杯の
機器を使っていたので、PC初動電力負荷を受けきれ無かったのです。

◆電力安定器を使いましたが、此れもショート(Konslet)し壊れました。
PCのアダプターが先ず(Sebelumnya)やられてしまって居た為です。

◆アダプターを買おうと探し(men-cari)ましたが、私のPCは日本製、PC本体
の付属品として付いて(Ikut)いるので、アダアプター単体(Cuma itu saja)
では入手不可能だと言う。

◆それでは修理(mem-perbaiki)して呉れないかと言うと「アダプターの部品は
2時間先の大きい町へ行かなければ、有るかどうか解らない」と言う。

◆結局1週間かけて探してもらい修理しました。修理代金(Ongkos perbaikan)
は約(Per-kira-an)¥700.-

◆同時に壊れた電力安定器を開けて内部(Bagian dalam)を見ると、外装の表に
書いてあるFUSEとそれらしいボタンの裏側(Belakang)には何の部品も付いて
いません。見せかけのFUSE印(Tanda)でした。

◆当地で評判の良い安定器はMATSUNAGAと言うブランドですが日本製かどうか
調べた事はありません。

◆今回壊れた物のメーカー住所(Alamat)はジャカルタで、調べて見ると
3種類違うブランドの安定器を製造販売しています。1種は日本語のブランド
です。

◆MATSUNAGA製より高値の物ですが、FUSEの裏には何も無い製品を作る
メーカーでは日本社のアンダーライセンスでは有り得ないでしょう。

◆この等の一寸した機器類には保証書(Surat garansi)が付いています。
保証書は正規のものです。故障品と保証書を買った店へ持って行くと、店は
「ジャカルタのメーカーに送る」と言います。

◆その後に続く言葉の多くは「故障の程度が軽ければ無料(Tanpa bayaran)
で或いは小額の支払いで、直すだろうが重傷(Luka berat)の場合は新品
(Barang baru)と取り代えるかどうか、私共(Kami)には解らない」と答え
ます。

◆保証と言う意味があいまいで、しかも販売店は此れにタッチしない
(Tidak ikut)事が通例(Biasa)です。

◆従って、購入の際、店の親父に色々(Macam2)商品内容と業界(Bidang
bisnis)の習慣(ke-biasa-an)を尋ね(Tanya)なければなりません。

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2006年10月24日 (火)

何が売れて、何が売れない?(生活・商品・商感覚)(4) By 南果 

◆私が現在(Saat ini)インドネシアで使っている
コンピュータ=PC(Komputer)はノートブック型
(Laptop)です。

PCが日本製である場合(Situasi)は、此方での
電圧(Tegangan listrik)が日本と違いますから、
本体に付属している(menyertai)アダプター
(Adaptor)の接続(sambung)が必要です。

◆電圧の不安定(Kurang stabil)、電力使用量
(me-makai daya listrik)に余裕の無い家屋も
ありますからVoltage Regulator=電力安定器
(Stabilizer)の設置(me-letak-an)も忘れては
なりません(Tidak boleh lupa)。

◆うっかりして(ke-teledor-an)、この安定器を
通さずPCを使っていて、電力使用量のやや大きい
電気機器(Alat listrik)のスイッチ(Saklar)を
入れたり、コンセント(Stopkontak)と機器の
差込プラグ(Jack)のサイズ(Ukuran)が合わない為、
プラグがぐらつき(Goyang)、ショート(Konslet)を
起こす場合もあり、アダプターやハードウエア
(Hard-ware)を壊して(Rusak)しまう事が何度か
有りました。


◆コンセントと差し込みプラグ、機器のプラグと
プラグが合わないと言うケース(Kasus)は多く、
その他の電気部品の規格(Standar)もマチマチ
(ber-macam2)のですから厄介(ke-ganggu-an)な
事が発生(Terjadi)します。

◆此れは国としての工業規格(Standar industri)が
無い為、各家内工業(Home industri)が勝手に物を
作って、他の物より安く店に置かして貰うから
なのです。

◆大部分の店(Toko)はいい加減な(Sembarangan)
品物と承知しながらも買う人(Pembeli)があれば?
と店に置きます。

◆店の親父(Bapak)に「良質(ber-mutu bagus)の物は
どれか?」と聞けば「1番(Nomor satu)がこれで、
其の次(Lanjutan)はこれ、悪いけど安いのはこれ」
と応えます。

◆店の親父は何処かのメーカーが製品を組み立て
2.3日で壊れても良いから安い部品を入手したいと
言う場合もある事を、承知している(Ketauan)
のでしょう。

◆こんな事情(Situasi)を知らずに買い物(Belanja)
をする客は面食らう(Bingung)のです。

◆人様からの贈り物(Kadu)が壊れ、中を空けて
調べると80-90%の部品(Ondel-dil)は正規
(yang benar)な物、極一部(Cuma Sebagian)が
不良品(Tidak benar)であったり、欠損
(ke-kurangan)していたりします。

◆小額の制作費(Ongkos produk)を削って利益
(ke-untungan)を考え、ブランドの信用
(ke-percayaan)を無くす(hilang-kan)事に
無関心と言う業者(Pengusaha)が、居る事は間違い
ありません。

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何が売れて、何が売れない?(生活・商品・商感覚)(3) By 南果 

◆どうして(Kenapa)この様にバイクが大量に
売れるのか?

◆答はインドネシア人特質(Ciri)の1つである、
見栄(Gengsi)です。

◆田舎で、しかも近所(Tetangga)の家に行くにも、
裏の畑へ行くにもバイクを使い、余程金の無い人か
年寄り(Orang tua)しか自転車(Sepeda angin)に
乗っていません。

◆子供時代(Zaman anak2)は人の自転車を借りて
(Pinjm)乗り回すので、大抵の人が自転車に乗れます。

が長じれば「見っとも無く(Malu sekali)て
自転車には乗れない」と皆が言います。


◆自転車等に乗っていると見下され(Hinakan)る
のだそうです。他人の口を気にする人達が多い事も
あり、此れがバイク販売合戦に寄与する事に成ります。

◆インドネシア人は何の品物でも気安くGampang)
貸し借りします、昔から相互援助(Gotong Royong)
精神が根強く植えつけられているのでしょう。

◆バイクの場合も同じで気安く貸し借りしますから、
若い(Muda)男女でバイクに乗れない人は極少ない
のです。

◆夫婦(Suami-Istri)プラス子供が2-3人相乗りし
走っているバイクも見かけます。当然幼児をバイク
から落としてしまう事故もあります。

保険(Asuransi)は余り信用されていず、掛けて
いる人は殆どありませんから人身事故を起こすと
大変です。

◆保険会社に対するクレーム(Tuntut)は新聞の
読者投書欄(Surat pembaca)に良く掲載(Terbit)
されます。

◆とは言ってもバイクは家族に取っての便利な
交通手段であり、ステータスシンボルです。

◆日本製ブランドのバイクの値段は110-125CCで
12-17万円ですから、労働者の月給(Gaji bulanan)
の10-20倍です。

◆日本のバイクメーカーにとって人口の多い
インドネシアは宝箱の様な物でしょう。

◆子供に甘い(Manja-kan)此方の親は自分が古い
(Bekas)バイクに乗り、高校生の子供が新車に
乗っているケースが多く観られます。

親も子供も見栄っ張り(Punya gengsi)ですから、
早朝散歩すると小学校5-6年生がバイクに乗ったり、
セダンを運転(Setir)したりしている姿も観られます。

危険(Bahaya)な事は予期せずに、見栄が先行する
場合があるようです。

◆インドネシア市場で目立つ日本製品はバイクに
限らず自動車全車種です。

◆日本製中古(Bekas)の乗用車、ワゴン・バン、
トラック、バス、バイクに興味を持っている人
(Peminat)は多く居ますが、国内生産者
(外国企業との合弁を含む)保護(Jaga)の名目で
政府は輸入制限を設けています。

◆それでも、どの様にして輸入するのか、乗用車や
ボーディーに日本語の看板をつけたままのトラックが
多く目に付きます。

◆中古製品で目に付くのは、此れも輸入制限されて
いる、コンピュータです。

特に日本製中古ノートブック型(Laptop)が多く
出回っています。

◆値段の割りに故障が少ないからです。当然各社
モットー(Moto)を掲げて戦っている結果でしょう。

◆次回はコンピュータ関連製品を例にとって、
再度(Ulang lagi)此方の文化に触れて見ます。 

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何が売れて、何が売れない?(生活・商品・商感覚)(2) By 南果 

◆昔この様なケースは幾つか有り、
(インドネシアではメーカー名(Nama Produsen)
がいろんなモノの代名詞に成っている)其の都度
ビックリ(Kaget)させられました。

http://blog.kansai.com/global/477 ご参照)

◆例えばミシン(Masin jahit)はリッカー、
カメラ(Kamera)はコダック(コタック=箱に
きこえました)、タイヤ(Ban)はGood Year
(グッチャーと聞こえます)、日本人が
メリケン粉と言うのを聞いてアメリカ人が驚くのと
同じ事(Sama dengan itu)です。

◆ブランド(Merek)の売り込み(Promosi)が商戦の
機先を制する事は勿論(Memeng)です。

◆日本では何処の(Dimana saja)家庭にも家族
(Keluarga)の人数或いはそれ以上(Lebih dari)の
本数、傘(Payung)があります。

又、殆どの(Hampir semua)家には書棚(Rak Buku)
の類(Macam)があり、勉強机(Meja berajar)らしい
ものが完備されています。


◆インドネシアにも雨期(Musim hujan)があり、
乾期(Musim kemarau)に雨が降る事さえが有りますが、
傘を所有している人は少なく、雨期でさえ傘を持ち
歩く人は極稀(Sangat jarang)です。

雨に遇ってしまったら大きな樹(Pohon)や物陰に
身を隠すか(Sembunyi)、びしょ濡れになって
駆け出す(Lari)かしかありません。

日傘と雨傘の区別も余り気にしていないようです。

◆人々に「どうして傘を使わないのか」聞くと
「持ち歩くのが面倒だから(Ganggu)」と応える人が
多く、男性からの応え(Reaksi)は「傘をさすのは
見っとも無い(Lupanya tidak bagus)、女々しい
(Kaya wanita)」などです。

◆この見っとも無いとか女々しいとかは、どの様な
歴史(Sejarah)を経て(Melalui)発言されるのか? 
時間を掛けて調べなければ解らないでしょうが、
興味(Minat)が有ります。

◆デパートの様なところでは、日本で使われている
ような書棚、勉強机等が輸出残品(Barang sisa
expor)として売られて居ますが、売れ行きが悪い
のは使用人口が少ないからでしょう。

◆これに引き換え何処(Dimana)の都市、田舎(Desa)
へ行っても日本製(Buatang Jepang)ブランドの
バイク=自動2輪車(Sepeda motor)がおびただしく
走っています。

◆会社・工場に勤めて居る人は会社に保証
(Jaminan)してもらい割賦(Ansuran)払い、個人で
購入する場合は不動産が保証になり、月払い、
日払いも有るようです。

◆危なげな講/無尽(Arisan)形式の取り引き
(Transaksi)勧誘も目に入ります。

やはり掛け金を持ち逃げされる事が有るそうです。 

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何が売れて、何が売れない?(生活・商品・商感覚)(1) By 南果 

◆その国、その地域の文化(Budaya)により生活に
必要な物(Barang2 perluan)は違ってきます。

◆インドネシアの人達は平均(Rata2)すると、
所有している(Punya)衣類(Pakaian)は多くないで
しょう、しかし洗濯(Mencuci)’は好きで、
山間部に入っても川での洗濯は良く見かけます。

◆今では電化したアイロン(Seterika)を使って
いますが、日本でも昔使っていた炭入れアイロンを
使って下着(Pakaian dalam)に到るまでアイロンを
掛ける事が日課でした。

蟻(Semut)や小さい虫から肌を刺されない為です。

◆アイロン掛けしたシャツ(Kemeja)類の前ボタン
(Kancing)は上から下まで全部掛けられて居ます。

オランダ人(Orang Belanda)が教えたのでしょうか、
ボタンの欠損を調べる為に?

◆話は反れますが、変な事を見掛けます。

◆インドネシアのレストランでは、一般的に
(Pada umumnya)テーブル(Meja makan)に就くと
皿(Piring)の左右(Kiri Kanan)にスプーン
(Senduk)とホーク(Garpu)が出されますが、
ナイフ(Pisau)は使いません。

◆スプーンとホークが有っても、多くの人は指先で
食事をします。

金臭さ(Bau Logam)が無くて美味しいと言います。

◆ホテルのレストランや一流レストランでは勿論
ナイフが出ます。こちらでは食前や食後、指(Jari)
を洗う習慣も有るので、ボウルの水を飲んでしまう事
は有りません。

◆食事が終わりますと、皿の上にホークとスプーン
或いはナイフをX型に重ねて(Susun)置きます。

それは、「もう終わった」の印(Tanda)です。

◆私は此れを観ていて、オランダ人はからかって
逆の作法を教えたのではないかと勘ぐっています。

◆又、食事に指先を使うのは美味いから、と言う
こちらの人がトーストを食べる時には、皿の上の
トーストをナイフで小さく切って食べる作法も、
丁寧すぎて、奇妙(Aneh)に感じる事です。

◆洗濯の話に戻ります(Kembali)、村町では
水道(Pam=略語)以外井戸(Sumur)も使っています。

◆昔は手動ポンプ(Pompa manual)、日本製の
ドラゴン・ブランドでしたが、電化後これもある
日本メーカーブランドが電動水揚げポンプの代名詞に
成っています。

◆ある時こちらの人に聞かれました。「お宅には
〇〇〇有りますか?」と有名(Ternama)な日本の
電化製品メーカーの名を言います。

◆変なことを聞くなと考えながら「無い」と答え
(Jawab)ました。相手(Lawan )は何度
(Beberapa kali)も同じ事(Hal yang sama)を
聞きます。

◆我が家にはポンプのある事を知っていたのでしょう。

彼が説明して呉れてメーカー名Nama Produsen)が
ポンプの代名詞に成っている事を知りました。

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2006年10月 7日 (土)

日本兵が残したもの(3)  By 南果 

◆パン(Roti)を焼くとき細かく切ったものを混ぜる
(Campur)と美味しい(Enak)ものです。

◆これ以外の野菜果実の乾燥奨励はしなかった
のでしょうか?

◆冬瓜(Labu)は有るが紐状のカンピョウは無い、
大根(Lobak)は有るが切り干しは無い、干し柿は
無く、乾燥芋も限られているらしく私はまだ
ここで見ていません。

◆バンクアン(Bengkuang)と言う大型の甘蕪も
栄養保存食に成りるでしょうが、この保存食も
見かけません。此れを常食とし5人の妻(Istri)を
養っていると言う人が新聞記事に載って(Terbit)
いました.栄養食であり薬用効果も有るようです。

◆魚の乾燥保存食はジャコ、タタミイワシの類、
塩辛い大小の乾燥魚(Ikan Asin)等などあり
ます.

Maluku州Halmaheraでは飛び魚(Ikan terbang)の
塩乾燥も盛んとか。

◆これ等に比べ日本軍は野菜類の乾燥は奨励
しなかった様です。

◆日本軍がひまし油のひま(Jarak,ラテン名
Jatropha Curcas Linn.)を植えさせた、と
聞いた事が有ります。

◆家の垣根として何処でも見られますが、現在は
燃料として開発しようとソロのAkademi Teknik
Mesin Indonesiaとドイツが良質ひまのある
タンザニアで研究した成果で、本格的試作に
入っている様です。

◆有り難くない日本兵の置き土産も有ります.

当時シラミの事をKutu Jepang(Kutu=虫)と
言って日本兵に多く発生していたと言うのです.

長期の野戦では致し方は無かったのでしょう。

◆こんな話も聞きました.盗人(Pen-curi)を
捕まえ日本軍に渡す(Meng-antar-kan)と「お前の
腕が悪さをした」と言って日本兵が抜刀、
腕を落とし(Potong=切る)たと言うのです。

◆此れを語った人はそれ以降マカッサルの町には
盗人が現れなかったので良かった。私にはそう
言ったものの怖い(Ke-takut-an)時代(Zaman)
でもあったでしょう。

◆当時のマカッサルの人達は良く「日本は
アジアの兄貴だ、我々は日本兵が居なかったら
オランダから独立できなかった」、と言って
いました.

確かにその様な見方もあるでしょう.

◆それはPETA(Pembela=助力、Tanah Air=郷土)
郷土防衛隊の存在も有ったからでは無いで
しょうか。

◆インドネシア側からの要請(Permintaan)で
日本軍が賛成し、各地から集まった若いイ国
軍人達に担当日本兵が特別訓練をしたのです.

◆集まった彼等には独立(Merdeka)と言う目的が
有り、成果は急だったそうです。

本隊はジャワですが後に各地に分散されました.
そして独立戦争では彼等の活躍は目覚しかった
のです。

◆しかし当時(Pada Waktu Itu)のマカッサルで
聞いた「日本のお陰で」の話(Cerita)はこれで
終わり、以降何処でも「日本のお陰で」
良かった、悪かったと言う言葉を聴いた事が
有りません。

◆インドネシアがスハルト大統領に成り、実際は
どうであれ国民に対しては国家の自立感を常に
アピールしていた事にも依るでしょうし、時間
の経過(Masa=時Lampau=経過)であり、当然の
成り行きでもあったでしょう。

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日本兵が残したもの(2)  By 南果

◆私の運転手Joniはカラットした性格なので、
当時の話を色々してくれます.

◆兎に角バギャローが多かったそうです.

◆此方の人と日本人とでは味覚が違います.

◆私は甘いRambutan(むくろじ)より、幾らか
苦味のあるDukuが好きな果物です.

Joniが美味いと言ったDukuを食べた日本兵が
美味くないと言って叩かれた。

◆こちらの人は良くマンゴーの酸っぱい若い果肉を
スライスして甘いソースをかけて食べます.

此れも日本兵は嫌いだった様です.

◆彼等自身が好きなので薦めおこられた。

◆ある時果物のナンカ(英語のJack Fruits)を
食べていると、日本兵がやって来て

「其れはなんか?」(Apa itu?)

応えて 「ナンカ」(Nangka)

「だからナンカ?」

再度応えて 「ナンカ」

ヒッパダカレタと言って大笑い、私もつられて
大笑い.

余り出来すぎているので、運転手が誰かから
聞いた笑い話だとは思っています。

◆時間が経つに連れ、戦況の変化か軍上層部に
変化があり(Ber-ubah)、インドネシア・ラヤを
歌う事を禁止したり、日本兵の態度は横暴、
粗野(Kasar)に成ったそうです.

◆兵補や労務者(Heiho dan Rohmusha)には
バカヤローとビンタが横行。

◆オランダは350年余に亘り、ある時は過激に
この国の財産を搾取、しかし大ごとにはさせず、
全体的にはゆったり(Perlahan-lahan)と施政した
のでしょう.

◆オランダに対し残っている印象は薄いものです.

逆に日本の南方攻略は行き着く所迄行ってしまえ的
急進(Operasi Cepat)行動(Aksi)だったので
しょう。

◆収集された少ない情報を基に対策が取られた
ようで、民情対策にはボロを出す結果と成った様です。

◆日本国内が食糧危機(Krisis Makanan)で、その上
海上権を失った日本兵が例え数百人単位で村落に
長期(Jangka=期間, Lama=長い)駐留しても村落の
食料はすぐに欠乏します。

◆今でも此方で良く見かけるこんにゃく芋は
日本兵が持ち込んだものが野生化したと言われて
いますが、芋(Ubi)としてより美味しいサツマイモ
の類は数種類あり、澱粉はキャッサバや葛からも
とれますから、こんにゃく芋と日本兵と関係なく、
民間人に依るものと思われます。

◆戦時中子供の私達は輸入された乾燥バナナを
おやつとしてよく食べました.

美味しいものでした。此方では日本兵の携帯食
だったと思われます.

スラバヤのスーパーマーケットで此れを見た時
懐かしく思いました。

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日本兵が残したもの(1)  By 南果 

おでかけ・旅 > インドネシア

◆日本と言う時、我々はニホンと言ったり
ニッポンと言ったりします。私は常時ニホンと
言っているので、此方の人達、皆がニッポンと
発音するので気に成って居ました。

◆ある時、従業員からジョヨボヨ(Joyoboyo)の
話を聞きました。12世紀ケディリ王ジョヨボヨの
予言に依ると「インドネシアは水牛の白い人に
長い期間居座られるが、ある時白い布を纏った
黄色い猿の人がやって来て、もろこしの収穫期間
滞在する。この人達はNIPPON(即ちNanti =であろう,
Indonesia, Perang=戦う, Pula=更に, Orang
Nederland=オランダ人)で、インドネシアは
いつかオランダ人と戦うであろうの略である、
と言うものです。

◆白い布は落下傘、1942年南スマトラPalembangと
北スラウェシManadoに降りた日本の落下傘部隊の事、
もろこし(Jagung)の収穫期間は2.5ヶ月、要は
2.5だと言うが、日本の駐留は3年余に及んだ。

◆此方の人達はこの言い伝えを知っているので、
皆ニホンと言わずニッポンと発音するのかのだと、
理解する様になりました。

◆この様に日本の進軍は神のお告げの如く行われ、
インドネシアの人々に各地で歓迎されました。
進軍の際、後にイ国国歌となるインドネシア・ラヤ
(Indonesia Raya)の歌を流しながらのものも一層の
効果を発揮したそうです。

◆進軍初期の話を此方の人達に聞くと日本軍の青年
将校との温もりの有る関わりが有った事を伺わせる
話が、幾つか有りました。

◆当然たどたどしい会話から始まった事でしょう。

◆一番に覚えた言葉は「ジョウトウ」のようです。
此方の人が何か良い事をすると、褒め言葉として
使っていたのです。反対にダメは「上等ナイ」、
その次が「タイソウ」「イチ、ニ、サン」、
オランダはインドネシア人に学問を授けたくなく、
その様な施策でした。

◆家柄に依っては中学まで行けたものの、一般的には
小学校(Sekolah Rakyat,当時は現在のSekolah Dasar
と言う言葉を使わず、終了期限も3ヵ年だった)
にも行けなかったのです。

◆日本軍は強制的に皆小学校に登校させ、毎朝体操
(Senam)で体を鍛え様としました。

「オハヨウ ゴザイマス」、「キオツケ」、
「ヤスメ」、「キンロウホウシ」、「トナリグミ」、
軍歌も覚えていますが、教練の際の「上官に」
「捧げつつ」は覚えていない。朝礼の際
「テンノウヘイカ」、「バンザイ」も当然覚えて
いるのでしょうが、天皇(Kaisar)は神(Tuhan)
であると教えられた時、アラー壱神教の彼等には
受け入れ難いと感じたに違いありません。

◆覚えたくないか(Tidak mau ingat)、心に留めて
いないか或いは覚えているが言いたくないかで
ありましょう。

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PALOPOの現場で軍歌ミヨトーカイノ(2) 

◆工場現場は椰子畑、椰子の木を伐採し、
地均し後 水牛の頭を埋めて地鎮祭、祭りは
2日間続きました。夜が本番の祝賀です。

◆村のエライサン達は皆日本兵の下で働いた
人達です。宴会が賑わって来て私がその中に
入ると必ず、日本の歌を歌えといわれる
(Lagu=歌、 Nyani=歌う)。

日本の歌と言うのは軍歌の事です。

◆サァー歌え、 ミヨトーカイノ 私は
歌います。

 ♫ 見よ東海の空明けて ♪、 

此処までしか知りません。彼等はまだ歌って
 います。

 キョクジツ タカク カガヤケバ

◆彼らはもう勝手に歌い出しています。

サラバ マカッサルヨ マタクルマデハ

◆これはサラバ ラバウルヨの替え歌ですが、
彼等はオリジナルだと思っている様です。

◆一息入れました。又注文です。マシロキフジ 
を歌えという。

  真白木富士の根 緑の江ノ島 と歌い出すと
違うと言う。

  マシロキフジノ ケダカサオ ココロノツヨイ 

  タテトシテ

  彼等も私も此れまでしか歌えません。

◆調べるとこの歌は「愛国の花」と言う歌でした。

「愛国の花(Bunga)」

 真白き富士の 気高さを 心の強い盾として

 御国に尽くす 女等(おみなら)は

 輝く御代(みよ)の やまさくら
 
 地に咲き匂う 国の花

◆歌には2番、3番も有りますが読めば読むほど
戦時下、銃後の子女を称え励ます歌である事が
解ります。

◆此方の人達は勿論歌の内容を理解して居ませんが、
メロディーが好きなのか、多くの人が歌います。

◆教えた日本兵も多かったのでしょうが、
占領下の地で彼等が使っている現地の人達に
歌わせる歌としては不適切な歌だと思います。

◆日本兵達にはどの様な意図があったのか? 
解せません。

◆次ぎは ウミユカバ デス、小学生1年の時
学校の講堂で歌いましたが、勿論意味は理解して
いません。

◆どういう歌なのか調べました。

 海行かば 水漬(みつ)く 屍(かばね)

 山行かば 草生(くさむ)す 屍

 大君の 辺(へ)にこそ死なめ

 かえりみはせし

◆何と作詞が万葉歌人、大伴家持と成っている
のを見て、驚きました。

私たち以上に歌人本人は戦時中ずーと驚いて
いた事でしょう。

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PALOPOの現場で軍歌ミヨトーカイノ(1) By 南果

おでかけ・旅 > インドネシア

◆対インドネシア賠償の支払い方式は輸出資材
の現地積み下ろし港までと、技術援助費が
日本円払い、以降の資材の輸入通関、建設現場
迄の運賃、建設費はルピア払いです。

◆このプロジェクトのイ国側のパートナーは
工業省(Departemen Perindustrian)でしたが
資金不足の為、軍の参謀本部に移行(Pindah)、
改めて双方が参謀本部に集まり説明を兼ねた
検討会が毎日行われました。

◆軍側にはソ連、チェコ等共産国から帰国した
留学生(Beasiswa)が参加し問題を提起する。
彼等の頭の中には全ての工業のNo.1はドイツ
(Jerman)であり、ドイツ製(Buatan =製)で
あると言う事が inputされているので、説明は
厄介でした。

◆1カ月後会議が終わり、参謀本部から
マカッサルHasanuddin部隊に下命され、
マカッサルのPalopo Plywood Project=
P3事務所が説立されました。通関を待ち
ながら運送計画作成の調査で何度もPalopoに
向かいます。

◆Palopoの仮宿舎は元オランダ人が住んでいた
丘の上の通称幽霊屋敷、家具類(Macam=
種類 Mebel=家具)は無く直ぐに使えず調査団が
泊まった田舎屋を暫く借りる事にしました。

◆電気は無くランプでも辛抱出来るのですが、
困ったのは排便、毎日(Setiap Hari)
あちこちへ穴を掘って貰う訳にはいかず、
水牛(Kerbau)と一緒に川で水浴をしながら
の排便。

◆当地の人は慣れていて困難は無いようですが、
やってみると難しい事が解ります。川の水が
肛門に当ると冷たいので肛門は閉じようとする。
慣れるまでは大変です。

◆スラウェシには何処でも山が迫っているせいか
川には石(Batu)、砂(Pasir)が多く水は澄んでいる、
とは言っても上流には村落もあり洗濯、排便もする。

◆飲料水(Air Minum)は川の砂場を毎回掘り水を
採る。この水を煮沸(Mem-didih)して料理に使うが、
飲料水は湯冷ましをグラス(Gelas)に入れ、
その中に木を5-7mm程の太さに裂いた棒を
入れる。水が淡いピンクになり其れを飲む。
この木にからは殺菌剤が出るという、無味無臭。

◆村に居る女子供は地方語(Bahasa Daerah)しか
話せないので、この木が何の木であったのか
聞きだせず、その後は忘れていました。この様な
木に就いて何か知っている方がいらっしゃったら
教えて下さい。

◆陸路420kmの間には多くの橋(Jembatan)が
有り標識には最大負荷重量2.5トンと成って居るが
信用できない。付近にある椰子の木をチェインソー
で倒し補強しながら進む。さながら工兵隊です。

◆私も始めて椰子(Kelapa)の木の中がどうなって
居るのかを知りました.。

◆バナナ(Pisang)の木はねぎの様なもの、
パパイヤ(Papaya)の木は中心に大きな穴が走って
いて幹を切断すると樹液がザァーと流れ出る。

◆椰子は全く違い太い繊維質で出来た非常に硬質の
木材(Bahan Kayu)、橋桁にはもってこいの材料
(Materi)です。橋は補強しても最大2トン迄です。

◆海軍に交渉して上陸用舟艇を借りブルドーザ
以下の重量物はBua沿岸の浅瀬に乗り上げる事に
しました。

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インドネシア、恐怖の連続地震(2)  By 南果 

◆インドネシアと日本での津波報道システム
 (sistim)が確立されているが、インドネシア
の場合として;-気象庁が正副大統領官邸と
緊急災害対策本部、厚生省、消防庁
(Pemadaman Api)に知らせ、緊急対策本部は
各州(SetiapPropinsi)の対策本部に報知、
州の本部はラジオ局、(Stasion Radio)各県の
対策本部に連絡し、各県(StiapKebupatin)本部
から町村の対策本部に知らせる。

地震発生から末端までに知らせるには30分の
時間 (Waktu) が必要(Perlu)としている。

◆これはシステムであり、他紙の諸ニュース
(Berita2)を読むと、実際は下部への連絡
(Perhubungan) に対し速やかに(Secepat)
報知されたかというと、訓練不足か?

システムが機能しなかったり、通信機
 (Alat Komunikasi) の状態が悪かったり、
慌てた (Berburu) りして末端までに迅速に
届かなかった事が語られている。

◆対策本部の長である副大統領、担当大臣又
本部から関係大臣との間の連絡系路が確立して
いるか、各自或いは各団体 (Organisasi)
 としての危機意識(Kesaadaran Kerisis)と
実践行動(Aksi Laksanakan)の連動がスムースに
機能(Berfungsi)するのか?

◆経験を積まないと難しい(Susah)とは
言えるでしょう。

◆一方、日本に付いては(Hal)以下が記されて
いる。

◆日本では常に学校や地方末端組織でも地震、
津波対策を生徒、住民(Penduduk)に啓蒙
(Memberitau )しているが、地震、津波は
緊急発生する事なので、此の方法は極めて
重要な事と考える。

◆わが国も此れを参考にすべきで、尚、
気象庁からのより正確、迅速な報道システムを
確立(Konstruksi)すべきも急務である。

◆日本の報道システムの場合として;-
気象衛星(Satelit Cuaca)から当該
地方団体へ報知、地方団体から総理官邸、
ラジオ災害放送、消防庁その他の関連機構に
通知、と地方団体末端組織へ伝達、そこから
当該地の警察、病院、消防署、銀行、一般家庭
へ同時に通知され、地方末端までの所要時間は
5分かそれ以上。

**7月17日、イ国国務大臣緊急対策担当は
日本から地震と津波発生の可能性に就いて
報知を受けていた事を否定、地震発生後イ国
気象庁からSMS(携帯電話のメール)で知ら
されたが、其れさえもアメリカから
シンガポールへ到着後だった。

イ国気象庁自体、地震発生17分後日本から
津波に就いて報知をうけた。それでも津波
発生前45分だった。

当の気象庁は地方団体に知らせる努力をしたが、
電話状態が悪くスムーズに行かなかった。

**対策本部がどうのと言う事とは関係なく、
命拾いした人の話も幾つか有ります。

その中での具体的な話は以下の如し:-
S氏(40)はPantai Widara Payun,
Cilacap(チラッチャップのWidara Payun
海岸)の漁師(Nelayan)だが船(小船=
Perahu)を持っていないので浅瀬(Pantai)
から沖え向かって50mの網(Jaringan)を
張る事を日常としている。

7月17日恒例通り近くの海で胸(Dada)
まで水に漬かりながら網を張っていた。
午後4時頃網を張り終わり、家の方向に
戻って来たが、その時海の唸り(Dentuman)が
2度聞こえ(Dengar)た。

沖に目を遣ると海水が100mほど沖に
引いた。S氏は驚いた(Kaget)が津波の
現象(Gejala)とは知らなかった。

網を取ろうと前に進むと高波が沖から猛進
して来た。波高は椰子の木程の高さだった。
急いで岸に向かい救いを求め、叫び(Triak)
ながら走ったが、波のスピードには適わなかった。

波に飲まれ何度もゴロンゴロン(Terdorong)
と回転(Berputar)した。何かネバネバした
ものが頭に巻きついたが、その都度解き放った。

何本かの木が目に入り其れを確り掴んだが
(Genggam)波に依って離される。

3度か此れを繰り返し、何度か木を移り、
最後の木に強くしがみつく事ができ、足を絡めた。

まだ流れに巻き込まれる心配があり、冠水
しても約2分間息を殺して木に捕まっていたが、
その内波が引いていった。

気が付くと椰子の木の中間に私はいた
(Berada)、後で気を付けると胸に幾つかの
大きい傷(Luka)が残っていた。

**首都ジャカルタに此れまで以上の地震・
津波が発生するとの噂(Isu)が広がり、
多くの国民から大統領に対し「羊(Kambing)
を1000匹生贄(Korban)にして下さい」
との嘆願がSMSを通じてあったが、大統領
曰く「根拠のないデマdesas-desusに惑わ
されないように」。

**1週間前から、ラジオでは気象庁のPR.が
始まり、地震・津波に就いての問い合わせに
応答する様になりました。

**各地の漁師は海に出るのを恐れ(Takut)、
水揚げ量が減じている。

**シンガポールやインドネシアのビンタン
(Bintan)、バタム(Batam)、カリマンタン
(Kalimantan)の各島は影響の有るインド、
ユーラシア・プレートの境(Batasan)から
外れているので、大きい地震はないと言う。

私の拙い素人考えを挟ませて戴けるなら、
今後は西カリマンタン沿岸の海水交じりの
養殖場(Tambak)に注目が集まるのではないか?

そして都市近くの海岸にはテトラポッドや
マングローブ(Bakau)を前面に、後方を
椰子の木、その他の樹で防衛する事が急務、
加えて防災サイレンを多用する事が必要と
考えます。

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2006年8月12日 (土)

インドネシア、恐怖の連続地震(1) By 南果

◆インドネシアに長期滞在していて、フロレス
(Flores)やイリアン・ジャヤ(Irian・Jaya)で
やや大きい地震(Gempa)があった事は聞くものの、
ジャワ島内では年に1,2度マグニチュード3
以下の地震が有ったかな?程度の印象で居りました。

◆ところが2004年からはやや大きい地震が
ジャワ、スマトラ、スラウェシ島を中心に
年間10度前後発生するに到り、このところ
住民の関心(Minat)も高まっていました。

◆2005年末のアチェ大地震・津波の後、
今年に入っても大型地震が発生しています。

◆特に酷かった7月の連続発生時のマスコミ・
ニュースから地震・津波に関する話題を集めて
みます。

**7月19日Duyung(ジュゴン=トド)が
Cilacapの海岸に打ち上げられた。
身長約1.2m体重、約100kg漁民は
海に返そうとしたが失敗(Gagal)、浪打際で
死んだ。津波の影響と記してあるが、トドの
子供が一頭というのは、果たして?

**7月12日ジョクジャカルタで地震雲
(Awan=雲 Gempa=地震)を見た。
白く輝く長い雲だった、5日後に地震が発生。
その他同種の話としては地震/津波(Tsunami)
が近ずくと常には近ずかないフクロウ
(Burung Hantu)が夜間町に出没するとか、
大蝙蝠(Kalong)が昼間飛び回る様に成るなど
の話があります。

**新聞(Koran)のアンケートでは、今回の
連続災害で抱いている国民の恐怖(Ketakutan)
の第1は地震 46.5%, 第2は津波 23.81%, 
第3は洪水8.68%と成っているが、地震の
経験者は多く居ても、津波の経験者はより
少ない事を考慮する必要が有る様です。

**中部ジャワ(Jawa Tengah)の知事(Gubenur)が
各銀行に対して、貸し出しているローン受益者中
に今回の災害(Bencana)被災者が居た場合、
その人の返済(membayar kembali)残をゼロと
する様提言有り。

**津波の記録(Rekor)は1674年2月17日
Banda 海(スマトラ島とジャワ島の境)で発生した
事が記録され、1800-2000年の間に
163回が記録されている。この中で1番の
高波記録は1883年バンダ海のKrakatauの
爆発時であろう。

TSUNAMIは日本語であり、Tsuは港、Namiは波の
意味で、港の多くは岬から突出しており、常に
激しく強い波を受ける事からこの言葉が生まれた、
と説明している。

TSUNAMIという日本語がインドネシアで使われ
出したのは、1992年12月12日Floresで
津波が発生した時からです。

1996年フランスよりTREMORS(Tsunami risk
evaluation through seismicmoment)と言う
津波探知機が送られて、東部ジャワ(Jawa Timur)
のTretes山頂(Puncak)に据えられましたが、
残念な事にBiak(イリアン・ジャヤ)で発生
した津波は地震後5分であった。これに対し当の
探知機の報知は地震発生後40分であった。

現在日本で使われている報知器は優秀で津波
発生は地震発生後5分以内に総理大臣(Perdana
Menteri)に報知されている。

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活火山 メラピ(2)  By 南果 

おでかけ・旅 > インドネシア

◆メラピ(1)の文中、言葉の解説は次の通り

◆Magelang 郡はジャワ海沿岸都市のスマランと
ジョクジャカルタを結ぶ所に位置する肥沃なと
土地で“ジャワの庭園”とも言われる。

オランダ時代から軍隊の学校が有り、現在も
イ国陸軍士官学校(AKABRI)がある。現大統領も
ここの卒業生。

ジョクジャカルタ文化の影響か住民の生活習慣は
おだやか、街中はスラムが見当たらず、涼しい
ことも有り勉学に適した町で、高原野菜を産する。

郡内のメラピ山麗には巨大な仏教遺跡Borobudur
(ボロブドゥール)が有る。

メラピ山の火山灰で覆われていたのものを、
1814年、当時のジャワ総督であった英人
ラッフルにより発見された。

◆Bambang氏を例に取ると、此方ではBapak
Bambang,(Bapak=バパは父)或いはPak Bang
(パ バン)と言い、既婚男性を呼びかける時は
Bapak(バパ)或いはPak(パ)と呼ぶ。

既婚婦人は Ibu(イブは母)呼び掛けは(ブ)、
未婚/若者男性はMas(マス)、未婚女性はMbak
(ンバ)、兄はKaka〈カカ〉呼び掛けは Ka(カ)、
弟/妹/年下の者Adek(アデッ)、呼び掛けは
dek(デッ)、Nyonya(婦人)を除いては
ユーモラスな音です。

隣の、又、店の主人への呼び掛けはパ、パ、パ 
婦人にはブ、ブ、ブ例えばお父さんと
お兄さんを一緒に呼べばパパ、カカ、パカと
成ります。

祖父はKakek、 ( カケ、呼び掛けはケ) 祖母は
Nenek(ネネ、呼び掛けはネ)

◆Dukunの中には単なる産婆も居れば民間薬を
使う祈祷師、医療師(但し医療行為は禁止
されている)もいて、費用が安いので住民には
根強い人気がある。

高名な占い師、守護祈祷師には多くの商人、
会社経営者が願い事をする。

多くの場合、彼等はSaji〈サジ=供物〉を
上げて祈祷する。

中には白魔術や黒魔術を使う者もいて、Ilum
(知識、学問の意だがこの場合は秘伝)を使って
所謂ブラック・マジックを行う者も
インドネシア各地に居て、住民に悪影響を
与える為7年前可也掃討されたが、彼等に頼る
人も絶えないので未だあちこちに居る様だ。

彼等のマジックは原始宗教と仏教、イスラムと
の混合、或いは古典キリスト教等で、南米の
ブードゥーを混合している者もあるとか。

兎に角此方の人々はセタン、幽霊を極度に
怖がり、つきもの、怨霊、霊媒等の話も好き、
マスメデイアも多く取り上げるので、バン氏と
話をすると、近所の人も寄ってきて何時終わる
のか解らなくなる。

◆ジョクジャカルタは18世紀、オランダ
植民地中も生きていらマタラム王国の古都で
あり、第二次大戦後対オランダとの独立戦時は
インドネシアの首都であった。

マタラム王国末期に王位継承の争いがあり、
その際ジョクジャカルタとソロの2つに分裂
継承した。

ジョクジャカルタの王位継承者はハメンク・
ブオノ侯、10世、芸術の都でもあり、
名門のガジャマダ大学がある。

ジョクジャカルタ市は京都府の観光保存友好
提携先でもある。

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活火山メラピ(1) 

◆以下の文章の中でインドネシア語の発音に
就いて述べてみます。

◆殆どはローマ字の発音ですが、2,3気を
付けたい発音があります。例えば以下に記した
MAGELANGのGEのEですが、EとUの中間音です。

◆Lはラ行のリ、ル、レ、ロの舌のポジション、
Rはラの舌のポジションで、舌を幾分振るわせて、
巻き舌調に発音、Vはフエー、余り発音に気を
使うとしゃべれ無くなるので、初めはローマ字
読みで試みる事、相手が聞こうとして呉れれば
通じる筈です。

◆現在私はお気に入りの中部ジャワのMagelang
(マグラン)に居留して貿易の仕事をしています。

◆Mgelangは今賑わっている標高2914mの
MERAPI山に近い町の一つでもあります。

MERAPIは merah(赤い)とapi(火)の合成語です。

◆高台に有る我が家から南東約30mに落ち
込んだ川が流れており、続くは段々畑、その後方
約20kmの辺りにMerapi山が見えています。

◆メラピは常に小さな噴煙を上げています。
今回の火山活動は山頂南側での事でもあり、
我が家は山の北面に当るので5月4日、TV、
新聞で発表されるまで今回の活動を知りません
でした。

◆いつもは大人し気に白雲をたなびかせて
いますが、夜間にSolo(歌にあるブンガワン・
ソロ(bengawan=河) 迄の近道をすると山頂に
赤いものが見えたり、数年前の様に町中
1cmほど灰が積もると、あれは火山だなと
改めて認識するのですが、いつもは気にして
いない風景の中にいらっしゃいます。

◆たまには気にしてくれよと言っている程度
なのか?今回は国定公園として受けている
寄付を適正に使わないと怒るぞと言って
らっしゃるのか?素人には判断できません。

◆近所の友人、元日本留学生、と言いましても
戦後間もなく国費で留学した、私以上の年長者
Bambang氏 (私はバンさんと呼んでいる) 
曰く、昔1930年の災害には1300人の
死者が出た山で、今回も山麓の住民約15千人に
避難命令を出したが約3千人が避難したとか、

◆しかしバンさんはこう付け加える「此処の
人達は暢気だから昔の難事を忘れて居るだろう、
3,000人が避難したと言っても2,3日間
様子をみて、避難所から家え戻っているのでは
ないかな」と達者な日本語で言う。

◆尤も彼の奥さんは江戸っ子で、子供達も全部
日本への元留学生、家庭では50%以上日本語を
使っている。

◆私自身はTVで山麓の川で砂利を採取する
トラックの姿を観て「止めてくれ」と叫びたい
程でした。

◆Magelangの町から外へ運ばれるトラックの列を
見ると良質の砂と判断出来、この危機時には
砂の値段が上がっているのか?

◆この火山の特徴である火砕流を考えると
悲惨な事態を想像せざるを得ません。

◆5月15日山は小噴火、山の南にある
ジョクジャカルタ(Jokjakarta或いはYogyakarta)
の街では小型の連続地震、火砕流の流れ、と勢い
有る雲煙を観、又山麓に住まいする人々から
山鳴りや、揺れ状態を聞き夜の街道は物見高い
人達で賑わっている様子、

◆新聞に依れば知事でもあるジョクジャカルタ
王宮のハメンク・ブオノ10世(Hamengku
Buwono X)が改めて山から5km以内の住民に
避難命令を出し、Magelangの隣町Slemanに居る
メラピ山専門のDukun=ドゥクン(占い師)の所へ
行き山の情勢を聞いた。

◆Dukun曰く「大事には至らない」と御卓見 
ブオノ侯は老齢のDukunに「皆に避難命令を出して
いる、貴方も避難するように」、返事は「その
必要は無い、山は現在人々に災害を与える状態で
無い」。

◆5月17日、山の噴火が続き、このMagelang
にも砂が降り始めた。

◆ブオノ侯は山から8km以内の住人に「国が
保障するから、家畜を置いて直ぐに避難しなさい」
と命令し、再度占い師の所へ、師には既に
約一万人が避難した。

◆危険が迫っているから貴方も非難するようにと
再度の助言、Dukun師(72歳)は「大丈夫、
避難する必要は無い」、19日には協力する
住民と一緒に火砕流の出ている南斜面から山頂
近くにまで登った、21日にも登り、この時は
「今のところ大丈夫だが、今後は解らない」と
言ったとの新聞は報道。

◆バン氏曰くMagelangでもこの辺りは噴火口の
裏側を見る事になり、噴煙のみが見えるだけで
皆心配はしていない、

皆は山がDukunの言う様に成るのか?ブオノ侯
との掛け合いはどう進展するのか?に興味を
募らせているとの事、

やはり暢気な人が多い様です。

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自伝 初めてのインドネシア(5)  By 南果 

◆そおです、思い出しました、隣部屋の住人
ガルーダ航空の職員夫婦の可愛い娘(8歳位
だったか?)から太陽はHari Mataでなく
Mata Hariだと、教えられました。

◆(Hariは日=1日、2日、月曜日、火曜日等
に使うMataは目、源)

◆幾らか懇意に成った人に会うと声を掛けら
れます。

Selamat Pagi〈Selamatは幸福、安全 Pagiは
朝、即ちお早う御座います〉

Selamat Siang(Siangは昼即ち今日は)

Selamat Sore(Soreは夕刻即ち今晩は)、

夜間はSelamat Malam(Malamは夜)、

◆ここで注意したいのは挨拶の習慣です。

◆日本では人と会った時“お早う”と言い、
別れる時は“お早う”を繰り返しません。

◆此方ではこれを繰り返します・“今日は”
以下も同じ、電話での会話も同じです。

◆意外な事も目の当たりにしました。ある日、
Hotel住人に依る集会があり覗いたのです。

◆此処には国営企業の官吏が主に住んでいる
ので、中国系の人は居ませんでした。毎日
学んで居るインドネシア語で無い語感音が
聞こえます。

一緒に居たPernomoに聞きました。「あれは
何語だ?」「オランダ語です」の答???

◆どうしてインドネシア人同士で外国語を
使うのか?

それもついこの間まで敵愾心を持って戦って
いた国の言葉を?

◆此処に居る人達はオランダ統治時代中学校に
行けた人々か、兄弟がそうであった人達、
即ち選ばれた人達だと言う事を見せ合って
いるのか?

その見栄は愛国心の上を行くものなのか?

Pernomoに聞くにも、そして何とか英語で
通じ合ったとしても、彼は元オランダ兵 ???

◆副社長の教えの中に

1、 此の国に居る間は宗教の話を
         しないように、

2、 此の国の未婚女性とは深い付き
         合いをしないように、

が有りましたが、愛国心に就いてはどうなのか?

◆私自身は戦中生まれ、愛国心を植えつけら
れる状況の中に居ましたが、そのさなかに終戦、
愛国心撲滅の徒の中で育ちました。

350年間統治されたオランダに対し此処
この人々はどの様に感じて居た、居るのだろう?

まだ未知とも言えるこの国で、面白い命題を
与えられました。

◆月に一度入港する東京船舶の船でプラント建設
の資材が来ます。

船長はマカッサル沖までは何の事は無いのですが、
港の周りはサンゴ礁(Karang)で囲まれている.

それから先はPilot〈水先案内人、空の
パイロットも同じ但インドネシア語ではピロットと
発音する、此の様に英語はローマ字読みと成る〉
の腕です、と言う。

◆確かに空から見るマカッサルの海は大きな、
きれいな水族館を見るようです。

ジャワ島やカリマンタンの海の色とは違い
澄んでいて、遠くのサンゴ礁も見えます。

◆仕事が終われば本船に行きます。私からの
土産はいつもロブスターと蟹、戴くお返しは
醤油と酒。

時には一緒に海岸にレストラン(Restran)、
Wisma Ria(Wisma=ホール、Ria=
嬉しい)で会食、海に張り出した大きい
テラスに夜のそよ風は涼しい。

◆バンド演奏はギター(Gitar)が主体、
スラウェシから東方にAmbonの有るSeram島が
あります。

アンボン人は音楽(Musik)が好きでギターの
名手も多いそうです。

アンボン産の曲はポリネシアの影響か
ハワイアンに似ています。アンボン人が
多い影響か此の辺りの人のエレキギターも
冴えます。

◆Amerikaの新曲がAustralia経由のRadioに
入ってきます。オーストラリアは近いので
インドネシア語の放送が雑音無しで入り
多くの家庭で短波の入る大型ラジオを
持っています。

丁度現在のTVの様なものでした。

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自伝 初めてのインドネシア(4) By 南果 

◆即にMakan(食べる)は覚えていましたから。

次ぎはLapar(空腹)です。

Air(水)、

Habis(消耗)

Jalan Jalan(Jalanは歩く,2度復唱すると散歩
Jalan2と書いても良い)、

Pasar(市場)、そうです、毎日1週間ボーイと
市場へ行きました。

Ayam(アヤムでなくアィヤム=鶏)

Telur(多くの日本人の発音はトロルに成ってしまい
ますが、通じます=卵)、

Telur Ayam(鶏卵)、

Ikan(魚)、

Daging(肉)、

Sapi(牛)、

Kambing(山羊)、

Babi(豚、トラジャ人はクリスチャンで豚を食べる)、

Beras(米、Padi,=稲、Gaba=モミ、Ketan=もち米)、

Sayur(野菜、複数にしてSayur-sayuranは野菜類)。

◆毎日言葉を覚えながら値段調べです。中央市場は
何処の町でも町の中心に有ります。

前半部は雑貨、化粧品、衣類、後部が野菜、肉、魚の順。

1週間後からはボーイ一人で買い物に遣りました。

◆マカッサルの主な住人はBugis〈ブギス〉人で
インドネシア語の発音がシッカリ、ハッキリしている
ので勉強には最適です。

◆Jawa人(ジャワ人とは中部ジャワ、東部ジャワの
部族名で、ジャカルタの有る西部ジャワはSunda人、
ジャワ語とスンダ語が有ります)は言葉の終わり
の強調辞にkanを使いますが、ブギス人はtokとか
miを使います。

itu-kan (itu=其れ、itu-kan=其れでしょう!) 

begitu-kan(begitu=其れだ、begitu-kan=そうでしょう!)

itu-tok  (其れだよ!) , 但しジャワでitu-tokと言うと、
     只それだけの意となる。

itu-mi  (其れだ!)

◆夕方はMandiをしてからホテルの庭に出る、着衣は
テニス用のショートパンツと薄手のポロシャツ。

此方の人は余り短パンを好まない、何故か?

◆同じ様なものをべチャ屋が使うからだ。

◆履物は皮製のサンダル(Sandal)、半分靴の様な物
でなくサンダル式のサンダル、何故か本物の
素晴らしい皮製サンダルが沢山売っていて、安い。

◆ブッカキ氷(Es)を入れた大ジョッキに昼間Pasarで
買ったGordon Ginを注ぎ、Markisa(地元Marosで
取れる果実のジュース)と冷水を加える。

◆庭に出て鉄製の丸テーブルに飲み物を置き、これも
鉄製の椅子に腰掛け飲み始める。

庭前の海岸通りLosariはまばらな人通り、水平線の
彼方にデッカイ夕日が沈んで行く、たまらない光景です。
大らかな気分。

注)このブログはグローバル・シーが【まぐまぐ】
から発行している【いーいーインドネシア語学習】
から転載しています。

http://www.mag2.com/m/0000196922.html

毎週日曜日に発行していますので、是非登録して
くださいね。

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2006年7月18日 (火)

自伝 初めてのインドネシア(3)By 南果

◆一年後の1963年、Palopo駐在員に成る為

再度ジャカルタへ、但しパロポ駐在以前の仕事と

してマカッサル,港での荷受の仕事が先行します。

◆ジャカルタ宿舎での朝は以前の如く、毎日

前の家の子供達(Anak2)がやって来る。毎日

会話を試みるが本に書いてあるようにスムーズ

には通じない。相手が言って居る事が全く解ら

ない、と言うよりは言葉として聞き取れない。

子供達の年長者10歳の少女は私に何とか

インドネシア語を教えようとSatu, Dua,Tiga (1,2,3)

から始める。

◆食事が済んで事務所(Kantor)へ出勤、車で

Sudirman通りを走り、Thamurin通りのロータリーを

経由する時、全体の車(車=Mobil、乗用車=Sedan,

トラック=Truk,,バス=Bis,バイク=Sepeda Motor:、

Sepedaは自転車、即ちモータ付き自転車) が

ややスピードを落とす。

◆同乗の先輩は向こう側を走っている女性だけの

車を見ては手を振る。挨拶として何の意図も無く

手を振るのです。当然相手は毎日変わるのですが、

必ず手を振り返して呉れるとの事。

◆翌日から私も手を振って見ました。矢張り相手は

必ず手を振り返します。

我々と中国人の違いはネクタイ(Dasi)をしている

事だけ、新しく来たお客さん(Tamu)だからと思って

下さっていたのか?

◆当時のジャパン・クラブで聞いたところ、日本人

(Orang Jepang)の滞在者は全インドネシアで

800人だとの返事でした。

◆不思議に思いながらも楽しい瞬間の毎朝です。

◆事務所のあるKota〈町の意だが、ジャカルタでは

中国人街を指す〉へは大統領官邸脇のHarmoni

から混雑の激しいGaja Mada通りを経てGlodokに

入りKali Besarの問屋街へ、当時この辺りは

ビジネスの中心地で、東京銀行他商社も点在していた。

◆事務所では私の仕事は無く、もっぱら毎日

副社長の助言を聞き,インドネシア語の教本を読み

返すのみ。早くマカッサルへ行き、日本人に恥を

見られる環境の外で言葉を覚えたいと思っていました。

◆そして1週間が経ち、一人でマカッサルへ発つ時は

大変嬉しい思いでした。

◆Hasanudin 空港には副社長が用意してくれていた

事務員Pernomo氏と運転手が迎えて呉れました。

◆Pernomoは副社長が兵隊時代の部下だった

30台後半のAmbon人(Seram島に居る種族)。

アンボン人には気の荒い兵士が多く、戦争中は

彼等の盟主オランダ軍に入り、日本軍とは敵対

関係に有ったのですが、どの様な理由か副社長の

元部下だったと言う。 戦時中の彼はどの様な

兵士だったのか?

◆戦後の彼は大人しいパパさん然とした男で、

奥さんも子供達も全員カール頭の、クリクリ目。

運転手はジョニーと言う40台の男、身長160cm

程ですが腕、胸はかなりの筋肉質。聞くと昔

ボクシング(Tinju)をやっていて、今も毎日

トレーニング(Latih)はしている由、心強い仲間です。

◆契約ずみの宿舎へ行きました。宿舎は海岸の

Losari道り、Santa Maria 病院隣のPasanggrahan

(ホテル、宿舎の意、)。此処は元来ホテルとして

使われていたましたが、日本軍統治下で高級官吏

の住居と成った由。

◆部屋の大きさは4x5m程の広さ、家族持ちは

2部屋連続の住まい、平屋で長屋風にコの字型の

建物、海岸を見渡せる前面の庭は広く眺望万点。

私も住居用と事務所用で2部屋を使いました。

朝夕ボーイは狭い台所で食事を作り、夕餉が

終わると私のインドネシア語の教師と成る。

◆彼は当時16歳、風葬で有名になり、観光地と

成ったトラジャの男。

トラジャ族の人達はインドネシア語の発音が

スタンダードと違いEはEとUの中間音でなく、

Eそのものである事を後日ジョニーから知らされました。

◆それでもボーイとの勉強は毎日続きます。

彼の名は忘れていますが、出鱈目の名に置き

換えられません。地方地方で名前に特色がある

からです。

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自伝 初めてのインドネシア(2) By 南果

◆空港からGaruda(国のシンボルに成っているワシ)

航空のターボジェットで2時間マカッサルへ着きました。

◆Hasanuddin空港ビルは木製の大きな建物、柱が

少なく立派な建築物、Orang Belanda (orangは人

belandaはオランダ)の手に依るものと聞きました。

空港から街まで約30km程の間、熱帯樹が多く観られ、

やっと田舎にやって来たと心がホッとしました。

◆街までの途次プロジェクトの関係者宅に寄りました。

挨拶が終わるとすぐNasi Goreng (nasi は飯goringは

揚げる、焼き飯です) が出てきました。

元日本兵である副社長からは出された食事は

失礼の無い様、残さないで食べなさいと言われて

いました。

◆初めてのインドネシア料理(料理はMasakan)は

違和感なく全部美味しく戴きました。街に入り

これからお世話になる村長宅でも食事が出ました???

◆これは大変だと団員に忠告、失礼だが少しずつ

食べる事にして良かったのです。この後、軍の

警察関係者の家でも食事が出されたのですから、

当時日本の田舎でも同じ事が行われていましたが、

当地では今でも客の歓待は食事(Makan=食べる)でした。

◆事前に行く事を知らせて訪問すると、その家では

何時であっても食事が出てきます。これ以降は突然

行く事にしました。

◆しかしインドネシア何処へ行っても相手の家へ

行く機会があります。彼等は通常夕刻水浴 (Maindi)

をして着衣を代え客を受け入れます。このマンディー

時とイスラム教の夕刻礼拝時(午後6-7時、

イスラム暦、時間は場所により違うので注意)を

避ける事です。

◆我々の現場宿舎はKelapa Nipah(kelapa は

椰子nipahニッパ) 製の高床式、柱は木製、床は

木の角材土台に椰子科の葉の太い幹を並べ

Rotan(籐)を細く裂いた紐で押さえあります。

壁は竹を薄く取った物の綾織、屋根はニッパの

葉を何層か重ねたもの、床からの風が通り快適、

昼間は女性達が高さの有る床下で絹を織っています。

手織り機はどこの家にも有るようでした。

◆おしゃべりしながらのんびりした仕事風景でした。

しかし夜、小便をしに表に出るとバラバラと数人の

兵隊に囲まれました。ビックリして尋ねるとマカッサル

から護衛の為付いてきた軍隊の中の1個小隊だと言う。

◆我々のプロジェクトはこの付近に居る反乱軍を

鎮圧する為の合板工場施設である事が思い

返されました。この村人の中にも反乱軍の兵士や

家族が居るだろうが大丈夫と副社長は言う。

副社長も日本が降伏した後、インドネシア軍に

入りオランダ兵と戦った元戦士なので、反乱軍

戦士達とも話しは出来たのかも知れない。

◆当時インドネシアの各地には反政府軍が

発生していました。この近辺に居た反乱軍の

長は Kahar Muzakar(カール・ムザカル、元スカルノ

大統領の副官でインドネシア国軍時代は陸軍大佐)

で、南スラウェシは肥沃な土地, 米は国内他島へ

輸出、外国へはコーヒー(Kopi)、ココア(Kakao)

,その他の香辛料、天草(Agar agar)、生ゴム(Karet)、

黒檀(Kayu Hitam=黒い木又はEboni)、チーク(Jati)、

籐(Rotan)の輸出地であり、当時優秀な外貨獲得

地域だった。

◆彼はジャワ集権政策に反対し又イスラム国家

建設の野望もあって野に投じた様だ。反乱軍の

兵士達の多くは農民でもあり、ゲリラ戦をモットー

としていた。

軍隊内部では日本軍の軍票も使われていたとの

話もある。

◆カールムザカル氏は対オランダ軍戦で有名を

馳せた戦士で、村民は彼を英雄視して居る人が

多い様に伺えました。

◆この村Bua(果実の意)はPalopoの町から

約2kmに有る桟橋に近い岬で、翌朝工場建設

予定地を視察、何匹もの大トカゲ(Biawak,身長

約1m)がキョロキョロしながら迎えて呉れました。

護衛の兵隊が脅かしにピストルで撃っても

逃げません。撃たれた経験が無いのでしょうか?

◆桟橋の補強と貯木場の建設予定地に成る海岸の

調査はマングローブ(Bakau)が繁り、海底は

ぬかるみで何が居るか分らない気色の悪い所で

したが、ムツゴロウと同類の魚が多く、海岸線に

ある木の根元に飛びつき、よじ登る姿が面白く、

皆緊張をほぐして眺め入りました。疲れを忘れ

させて呉れた一時です。

◆往路は安全第一策としてマカッサルから約500トン

の船で東南スラウェシのKolaka経由Palopoに

入港、丸一日がかりでした。Bone湾内の旅で

波も無く船酔いした人は居ませんでしたが、

生憎ドリアン(Durian)の季節、船内はドリアン臭で

一杯、初めての香りにドリアン酔い?

◆イルカ(Ikan Lumba ,Ikanは魚)や飛び魚

(Ikan Terbang, Terbangは飛ぶ)の伴走が

快適でした。大きい水蛸蛸はDojak)、大型クラゲ

UburUburもかなりいました。浜辺は何処も

ナマコ(Teripang)で一杯、一昼夜の旅でした。

◆帰路は反乱軍も護衛に参加して呉れましたので、

Makale, Rantepao, Enrekang ,Pinrang, Parepare,

Pankajene, Maros の道を選びました。

◆マカレ迄は山道、エンレカンからパレパレまでは、

沿道の村落に集まる住民が少ないので、超スピード。

そしてマカッサルまでの420kmを12時間,Jeepで

走り抜けました。

◆途中での昼飯はPinrang峠のWarung(屋台店)、

とても素晴らしいとは言えない所でしたが、車に

揺られての旅、皆腹を空かしていたので食べて

しまいましたが、私の食べた豆腐の様な物が

Otak Kambing (otakは脳 kambingは山羊、即ち

山羊の脳味噌)と聞いてウンザリ。

◆兎に角、全団員無事に帰国しました。団員殆どの

人はインドネシアの田舎へ行った事、そして毎日

Panas, Panas (Panasは熱いの意)と言っていた事は

生涯忘れないだろうと話していました。

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2006年7月 3日 (月)

自伝 初めてのインドネシア By 南果

◆私は昭和 36(1962) 年、初めてIndonesiaの首府
Jakartaに着きました。当時勤めていた会社が 
インドネシア政府との間、戦争賠償に準ずるプロジェクト
をSulawesiに建設する為、実施前の調査団に随行したのです。

◆空港は現在と違い東ジャカルタのKemayoranと言う
町に有りました。狭い空港建物を出ると街道筋には
ずらりと露天商が並び、ヤシ(Kelapa)の油を灯した
ランプが立ち並んでいました。

◆薄暗い夜景でしたが26歳の私にとって始めての
外国であり、これからの職場になる所だと思うと胸が
熱く成っていました。

落ち着いて見渡すと何処の道にもBeca(べチャ、
3輪人力車) が溢れ自動車の姿は疎らです。

◆よく観ると日本車は稀で殆どが古い西欧車、
それ以外は米国のシボレー、フォードに豪州の
ホールデン水両用車の様な物も走っていました。

出迎えた1年前にジャカルタ入りして居る先輩に
聞くとソ連製だとの事。

◆我が社の出迎え車は2台のシボレーでした。
但し1台は借り物、日本から帰って来た留学生達
は皆中古のシボレーを日本で買い、引越し荷物
として持ち帰ると無税の由、ジャカルタには
シボレーの交換部品が多いので人気が有るとの事。

◆日本車はダイハツのミゼットだけが大活躍中でした。
BecaとMobilを合わせて、ベモと言う名の自動3輪車
で運転手の後ろに2人の客が乗ります。この乗り物は
この後もバジャイ(Bajai)に取って変わるられる迄
かなり長期活躍していました。

◆翌朝、宿舎玄関前に出ると前の家の子供達が
遊びに来ました。食べているバナナを指してApa itu ?
(apaは何、ituは其れ)と本で読んだインドネシア語を
初めて試みます。ピサンと聞えました(畷りはPisang,)。

◆先輩が加わると先輩の前でインドネシア語を
試みる事が恥ずかしく、調査団の居るジャカルタ
では一番権威のあるホテル、Hotel Duta (Dutaは
大使) に先輩と同道。

◆このホテルはオランダ人が建てたもので、外装
には多くの石材を使い重厚な感じ、朝食には
デルモンテのトマトジュース缶が付き、日本では
未だ無い濃厚な味にビックリ。

◆宿舎のあるKebayoran  Baruは静かな住宅街
でしたが、中心街はビルも少なく殺風景なもの
でした。次の日はSulawesiの首都Makassar行き
でした。

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インドネシア西から東へ食べある記(2)

◆ジャカルタには代表的料理は無く、Masakan(料理)
Padangがインドネシア料理の代表をしていると
思われます。この手のレストランは沢山有ります。

◆今はJalan Sudirman (Jalan=通り)も両側のビルが
びっしり林立、立錐の余地も有りませんが、昔は
広い場所に机を並べNyonya Cirebon(Nyonya=婦人)
の天幕を張り、煙を立てながら焼いていたサテ・
カンビン、サテ・アィヤム(Sate=串焼き、Kambing=
山羊、Ayam=鶏)が懐かしい。特にカンビンの味が
忘れられない。

◆今では郊外に近い所にこの手の野天食堂は
移っているのでしょうか?

◆今でも点在している典型的なジャカルタ露天料理
はSop Kaki(Sop=スープ、Kaki=足)、此れは湯が
いた山羊のモツが軒に吊るして有り、客がモツを
選ぶと、其れを刻みどんぶりに入れ熱湯を2-3度
注ぎ洗い、トマトを刻み加えた後調味料を入れて、
最後にサミーと言うインド産の油を加える。

◆出てきたご飯にはBawang Merah(Bawang=ねぎ,
Merah=赤い)を刻み唐揚げした物をまぶす。熱い
スープなので夜食向き、実に上手いがコレステ
ロールが多く老人向きでは無い。これを第2の都市
スラバヤで探したがナイ。

◆Bogorを尚西へCipanasで駐車場の広い店の
Nasi Tim(Nasi=ご飯、飯, TimはSteamらしい)鶏の
切り身を味付けし、大型茶碗大のアルミ食器に
米と一緒に入れ強いスチームで蒸す、15分程で
出来上がり、薄味だがうまい。

◆Bandungは高菜入りパーコラーメン風、山腹の
屋台。

◆Jokjakarta評判のNyonya Hartini,鶏料理は全て
揚げ料理で、評判程ではない。ジョクジャの代表
料理のNasi Gudekは甘過ぎ、日本人向きでない。

◆店の名は無いがソロからプルオダティへ向かう
沿道の店に鶏から揚げの美味い店がある。地鶏
(Ayam Kampung=田舎)で小型だが1人で1羽
いける、味が軽い。揚げる前に施す調味料に
コツがありそうだ。

◆ジャワ島東端のBanyu Wangi (Banyu= ,ジャワ
語で水 Wangi=イ語で香りの意)、に香る水は無く、
一番売れている飲料水AQUAはスラバヤとマラン
の中間にあるPandaanで取れる。

◆同じ東部ジャワでもジャワ海に面するTuban
では海岸戦に白い軽い石(軽石より緻密)の積層
が有り、深く掘って貯水してある池が所々ある。

これを一度飲んで見たいと思っています。

◆スラウェシ島マカッサルは焼き魚で有名、海岸
ペリの店でも色々焼いてくれる。イカの墨ごと焼き
もある。店ではAsia Baru(Baru=新しい) がNo.1
だが店は古くからやっていて、自分で魚を選んで
焼いて貰う。

◆我々は自分で日本の醤油(Kecap Jepang)を
持っていったが、今は日本の醤油はどこの都市
にも有るので持って行く必要はないでしょう。

この店名物は蟹を沢山ぶった切って大釜で
煮たもの、そのスープは絶品、今も健在か?

◆ハビビ大統領の出身地、Pare Pareは
マカッサル海峡に面した港町、岬には何件かの
屋台が有ります。皆ツミレスープを売っている
のです。増量剤が少ないのでしょう。

本当に美味しいツミレです。ジャワではBasokで、
肉のBasokも有りますが、Pare2では魚専門で
ニョンニャとかニョニャとか言っていました。

◆Halmahera (北マルク州) には美味しい貝が
沢山あるとの事だが、まだ仕事のチャンス無く
行った事がない。日本統治時激戦が有ったとかで
樹木の幹には多くの弾丸が入っていると、
聞いているので尚足が遠のいてしまった。

◆一寸行過ぎました、カリマンタンでの事を思い
出しました。

西に少し戻ります。南Kalimantanの南端にある
Pulau Laut(Pulau=島、Laut=海)へ行き、仕事が
終わりましたので、船を借りTanjung Layarに
行きました。(Tanjung=岬、Layar=帆)。

◆海に出て暫くすると風が出てきました。一面が
サンゴ礁の様で潮が引けば歩ける所が多そうです。

一枚帆掛けの小さいカヌーが風に吹かれ岸に
向かってすっ飛んで行きました。人間はいません。

◆「あれはどうしたんだ?」と同船者に聞くと人は
落ちたんだろうと平気で言う。訝っていると又来た。
空舟が、浅瀬の時はどうにか成るかもしれないが、
満潮の時は如何するのか?

◆深みに出ました。水深50m程もきれいに見えます。
短パンの下は水泳用パンツをはいていたので、
脱ぐなり飛び込みました。同船者が慌てて止めます。
紐状の毒クラゲが居て、刺されると高熱で寝込ん
だり、死ぬ事も有ると言う。

◆ポンポン船で3時間灯台守の島に着きました。
直径1km程の島に5人の燈台守が3ヶ月交代で
住んでいるとの事です。

夕方に海亀が来るのを見に来たのですが、薄暗く
なってきても亀は現れず、亀の卵子焼きをご馳走に
成って帰ってきました。玉子焼きは分厚くスカスカ
してパンの様なものでした。

◆米が取れないTimorは野菜も少なく肉料理が
主体、野菜はカンコン(Kangkung=辞書には
ほうれん草としてあるものもあるが、根は白い
水草、陸地でも繁茂する)のみ。東Timorの
パダン料理屋に入った、やっぱり野菜はカンコン
だけ、いやはや参りました。Timorの田舎の家や
正式風俗は“冒険ダン吉”を偲ばせるものでした。

◆Irian Jaya のSorongにも行きましたが Timorと
同じでカンコンばかりでした。

此処での嬉しい事は、シンガポールから市場船
(Kapal Pasar,Kapar=船)が巡航して来る事です。
衣類雑貨が主体ですが、Tiger Beer やWine
(Anggur)がバカ安です。

◆日本の漁業会社は、マルク州とイリアン州の
BandaとArafura海を根城にして漁獲しているのに、
地域の市場に新鮮な魚が少なかった。しかし
最近見たTVでTimorの市場に1m弱のマグロが
沢山映っていた。ジャワでは大きい魚は処理・
処分できないので取らないがTimorには缶詰め
工場があるのか?

◆この様な事情もあるのか、概してインドネシア人
は肉、特に鶏肉が好きで、海の幸をあまり知ら
ないし、食べないから漁師も取らない、市場に
出るものも少ない。

◆しかし、何処でも外国人が多く住みだすと海魚
も取り、高原野菜も栽培し、売買される様になる。
即ち外国人の出入りの少ないところは食材が
少ないと言えるでしょう。

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インドネシア西から東へ食べある記(1)

◆初代大統領のスカルノ(Sukarno或いは古い
書き方ではSoekarno)さんはTVやRadioで良く
Sabang Sampai Meraukeという言葉を使って
いました。Sabangはインドネシア西北端、Sampai=
迄、Meraukeは東南端、即ち全インドネシアと
言うことです。

◆私は食道楽ではないので、食べる為にあちこち
へ行くという事はなく、日常的に食べた物、仕事で
行った所或いはその途次で口にした物に就いて
西から東へ行きながら書いてみます。

◆私がジャカルタで知り合った観光省の役人に
アチェ(Aceh)の人がおりました。アチェの文化は
ジャワより古く、言葉もジャワ語より多いと自慢して
いました。

◆御夫婦共アチェ人で、食事を一緒にと誘っても
食べるものが違うからと断ります。当時、1970年代
のジャカルタ中心部(Sentral)にはアチェ料理の
レストランが2箇所有りました。

◆友人の話ではアチェ料理には麻薬の葉が使われ
ている、との事。ぜひ食べてみたいと思いながら
忙しさに紛れ、思い出して行ったところ、先日閉店
したとか、その頃から政府(Pemerintah)は麻薬取り
締まりに腰を入れ出していたのかも知れません。

◆アチェは信仰心の強い土地です。アチェ人は勇気
の有る頑固者が多いので戦争中も手こずったと
元軍人に東京で聞いた事があります。当然
アルコール類は彼の地に置いて有りません。

◆其れを知っていたので、お隣のPadang迄は
行きましたが、アチェには入りませんでした。
パダンでもビール(Bier)が見当たらず、商売相手
の中国人が何処からか洋酒を手に入れホテルに
持ってきてくれました。感謝(Terima Kasih)。

◆木材の仕事でパダンからパイロットを含めて
4人乗りのブンブン飛行機に乗り15分でPagai島へ。

この島には住人は居らず村も有りません。

各シフトの工員1,000人余りがは毎日パダンから
船で通って来ます。

◆桟橋に漁船が近づき取れたてのカジキマグロを
買ってくれと言っています。

工場にはゲストハウスがあり、中国人の料理人
(Tukang=職人、Masak=料理)が居りました。

◆夜になり私達2人の為に美味い中華料理での
宴会、皿一杯大の深海魚を蒸し熱いごま油を
掛けた料理が出ました。

贅沢な会社でしたが、先々年の地震(Gempa)での
災害(Bencana)はどうだったろうか?

原料のクルイン材の大木は皆倒れてしまっただろうか?

◆Palembangではムシ(Musi)河で取れる大きい頭
の海老(Udang=ザリガニの1種か)の味噌が
おいしかった。 Lanpungでは只ただ産物の
キャッサバ芋を食べさせられゲンナリ。

◆この芋は木芋(Unbi=芋、Kayu=木)と言われ、
その通り根が数個の大きい芋に成ると芋を取り、
直径1.5cm,長さ1.5m程の幹を20cm程に斜め切り
した物を収穫後の土地に差し返す農法。

◆芋は大きく中は白色が大半、甘味はなく
ホクホクしている。1cm程の立方体を乾燥した物
をキャッサバ(Cassava)と言い、粉にするとタピオカ
(Tapioka)に成る、此れを主食にしている村には
癌患者が出ないと聞きました。

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2006年6月24日 (土)

辞書 By インドネシア語翻訳家 

◎収録語数の多い辞書を選びましょう。

標準 インドネシア・日本語辞典 谷口五郎編

◎持っていて便利なのは、

インドネシア語時事用語辞典 服部英樹、粕谷俊樹共編
大学書林

インドネシアへ旅行した際、購入をおすすめしたいのは
日本の広辞苑にあたるインドネシア語―インドネシア
語辞典。文の使い方や例文なども参考になります。

-Kamus Umum Bahasa Indonesia

Balai Pustaka

-Kamus Besar Bahasa Indonesia

Balai Pustaka

そして、

インドネシアー英語辞典

-Kamus Indonesia-Inggris

PT Gramedia Jakarta

英語―インドネシア辞典

-Kamus Inggris-Indonesia

PT Gramedia Jakarta

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2006年6月 3日 (土)

インドネシアの国や文化について知りましょう!

●言葉を勉強する際、その国の背景も知っておかなければ
なりません。

●言葉だけを知っていても、どういう場面でどのようなこと
を言うべきか、または言わないべきか。

●言葉の使い方、選び方も語学の勉強のひとつですね。

●インドネシアで既婚か未婚かを

”Bapak sudah menikah?”

と尋ねられ、未婚の場合、

“Saya belum menikah.”(私はまだ結婚していません。)

と答えます。

●単なる否定(tidak)ではなく、たとえ結婚する意志が
あまり無かったとしても、まだ~ない(belum)を使って
答えます。

●インドネシア人口の8割を占めるイスラム教徒の習慣や、
インドネシアではタブーとされること、左手で物を受け渡し
する、頭を触る、プレゼントにハンカチをあげる、など
地方によっても色々違いはあると思いますが、インドネシア
の国や人についてよく知ることももちろん大切なことです。

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2006年5月13日 (土)

お勧め辞書(インドネシア語) 

◆収録語数の多い辞書を選びましょう。

標準 インドネシア・日本語辞典 谷口五郎編

◆持っていて便利なのは、

インドネシア語時事用語辞典 服部英樹、粕谷俊樹共編
大学書林

◆インドネシアへ旅行した際、購入をおすすめしたいのは
日本の広辞苑にあたるインドネシア語―インドネシア語
辞典。文の使い方や例文なども参考になります。

-Kamus Umum Bahasa Indonesia

Balai Pustaka

-Kamus Besar Bahasa Indonesia

Balai Pustaka

◆そして、インドネシアー英語辞典

-Kamus Indonesia-Inggris

PT Gramedia Jakarta

◆英語―インドネシア辞典

-Kamus Inggris-Indonesia

PT Gramedia Jakarta

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あとは単語力 ー インドネシア語翻訳家の体験談 

●できるだけ多くのインドネシア語に触れ、一つでも多く
単語を覚えましょう。

●とにかくできるだけ毎日続けて、10分でも15分でも
良いですから、何らかの形でインドネシア語を学習する、
インドネシア語に目を通す、触れる時間を持ちましょう。

●単語は発音しながら、そしてスペルは書いて確認しながら
覚えるようにしないと、hutanなのか hutangなのかが
わからなくなってしまったり、自分ではpulang(帰る)と
言っているつもりが、pelan(遅い)になっていたりする
ことにもなりかねませんので、是非注意してください。

●基礎の文法をマスターした後は、インドネシア語で
書かれたものをたくさん読み、インドネシア語をたくさん
聞き、話しましょう。その意味では旅行も絶好のチャンス
です。

●言葉を学ぶ上で、実際にその言語を喋っている国に行って
みるのもいいのかもしれません。好きこそ物の上手なりとの
諺にもある通り、その国や文化が好きになれば、自然と言語
を学習する意欲も湧いてくると言うものです。

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2006年4月 2日 (日)

インドネシア語 文法の重要性

●あなたが学習したいのは日常会話ですか?それとも
書き言葉?

●いずれにせよ、文法なしでは文章は成り立ちません。
単語を羅列すれば、時間がかかったとしても相手も
いつかはこちらの言いたいことをわかってくれるかも
しれません。

●しかし、より正確なコミニュケーションーと理解の
ためには、きちんと文法も勉強し、単語の並べ方の順番や
言葉の決まり、変化についても学びましょう。

●インドネシア語の文法は、一見それほど難しくは
なさそうですが、なかなか侮れません。

【辞書の引き方】

●インドネシア語の単語には、基語(語根)に接頭語や
接尾語がついてできた単語がたくさんあります。

そのような単語に出くわした場合、接頭語のついたままの
単語で辞書を引いても出てきません。まず基語を引いて、
その単語の接頭語、接尾語がついた言葉を捜します。

●例えば memakai(使う)、pakaian(服)、
pemakai(使用者)、pemakaian(使用)

この四つの言葉の基語はすべて”pakai” ですから、
辞書で上の言葉のどれかの意味を調べたい場合には
pakaiの欄を見ます。

●接頭語、接尾語のつけ方の決まりは必須です。調べて
必ず覚えましょう。

 ・動詞をつくる接頭語

  ber ter me mem meng menye

 ・名詞をつくる接頭語

  ke pe pem peng peny

・動詞をつくる接尾語 

  kan

・名詞をつくる接尾語

  an

 単語のなかにこれらの語が含まれていた場合は基語を
注意します。

【文法も重要です。辞書の引き方分かりましたか?】

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2006年2月11日 (土)

まずは正しい発音

●インドネシア語はローマ字で表記され、読み方もほとんどローマ字読み
なので、日本人にとっては比較的発音しやすいと思いますが、注意しなければ
ならない音もあります。

      母音 e, u

      子音 l, m, n, ng, r

などですが、初めは確実に丁寧にひとつひとつの音を正しく発音する癖が
つくまで練習しましょう。

●一文字発音が違っただけでも全く違う意味の言葉になってしまうことも
あります。

●例えば hutan(森)と hutang(借金)。カタカナで表記すれば両方とも
「フタン」ですが、最後のnと ngの違いを発音でも区別できるようになる
ことが必要です。

●jam(時間)と jamu(薬草からつくる薬)もそうですが、両方とも
カタカナ表記ではジャムですが、前者は口を閉じて終わり、後者は少し口を
開いて尖らせて終わる音です。

●きちんと耳で聞いて、自分でも実際に声に出して音を出して練習しま
しょう。

●外国語のいい学習方法はこの方法がインドネシア語に限らなくて、ドイツ語
でも英語でも中国語も韓国語であっても共通する部分が多いと思います。

●その意味でも、このメルマガを購読しておけば、例えトピックが自分が今
勉強しようと思っている外国語と異なっても、役に立つと思います。

●まぐまぐにはバックナンバーはないので、外国語を勉強している友達に
このメールを転送してあげましょう。

●【EELearning】はネイティブスピーカーに通じる外国語をいかに簡単に
経済的に、効率的に喋れるようになるかに特化したサービスで、正しい発音
の外国語を喋れるようになります。

→ http://www.e-e-learning.com

最後に【自分でも実際に声に出して音を出して練習しましょう】
 

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2006年1月 8日 (日)

■インドネシア語学習のキーポイント

インドネシアの国は、18,000の島からなり、文化、人種も多種多様です。

言葉もそれぞれの地方にバリ語、スンダ語、ジャワ語など地方語がありますが、
公用語はインドネシア語であり、義務教育である小学校ではインドネシア語が
教えられているため、高齢者を除けばほとんど全国でインドネシア語が通じます。

日本人にとっては親しみやすく、学びやすい言語といえるかもしれません。

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