西日本新聞
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私の8・15<6>引き揚げ 街頭の人民裁判 日本人処刑された 佃亮二さん―連載
20050726付 朝刊掲載

 ●佃亮二(つくだ・りょうじ)さん(74) 福岡市中央区
 終戦は、鴨緑江(おうりょくこう)を挟んで北朝鮮と接する満州(現・中国東北部)の安東(現・丹東)で迎えました。旧制中学の二年生でした。満州は空襲がなかったので、終戦間際までは本土より平穏でした。緊迫したのは終戦六日前の一九四五年八月九日にソ連軍の侵攻が始まってからです。
 終戦後も修羅場でした。無抵抗になった街に、丸い弾倉が付いた楽器のマンドリンのような小銃を持ったソ連兵がやって来て略奪、婦女子への乱暴を繰り返しました。

 私の家にも銃を持ったソ連兵が「ダワイ(よこせ)、ダワイ」と叫びながら入ってきました。私と父は両手をあげましたが、突然銃が暴発して銃弾が父をかすめたのです。母と妹は、女と分かれば襲われるので、髪を短く切って顔にすすを塗っていました。
 終戦の二カ月後にソ連軍は撤退しましたが、今度は中華民国政府軍と中国共産党軍の内戦に巻き込まれました。中共軍が町を制圧すると、街頭で日本人に対する「人民裁判」が始まりました。街頭の台の上に日本人が立たされ「商売で不正をした」とか「中国人を殴った」などの罪状が読み上げられ、取り囲んだやじ馬が「殺せ、殺せ」と叫び声を上げるのです。

 まれに「ハオレン(いい人)」と擁護されて無罪になる人もいましたが、有罪と判断されれば死刑。馬車で町中を引き回されて、鴨緑江の河原で銃殺されました。処刑される日本人は最後まで毅然(きぜん)としていましたが、子ども心に「日本は負けたんだな」と感じ、満鉄(南満州鉄道)職員だった父も裁判で命を取られるのではないかと不安でした。
 何人もの日本人中学生が、中共軍に突然連れて行かれ、内戦の前線でざんごう掘りをさせられました。とうとう帰って来なかった先輩や同級生もいます。私は幸運にも終戦翌年の秋、両親と妹二人の家族五人でそろって日本に引き揚げることができました。

 満州は戦時中より戦後に混乱を極めました。当時、親を亡くしたり、生き別れになった子どもの中には、日本に帰れずに残留孤児になった人もいます。私も、もし両親と一緒でなければどうなっていたか…。私の経験など、苦労のうちに入らないのかもしれません。

 引き揚げ 旧満州にいた日本人はさまざまな手段で帰国を目指した。安東からの引き揚げは一九四六年六月から開始。約五百キロ離れた渤海沿岸の葫〓島から日本行きの米軍貨物船が出ていたが、中国の内戦で鉄道が寸断され、途中で徒歩を強いられた。