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<広島原爆の日>太陽見ると悪夢よみがえる

8月6日12時35分配信 毎日新聞

<広島原爆の日>太陽見ると悪夢よみがえる
平和記念公園の方角を向き、自宅で黙とうをささげる渡部芳枝さん=広島市中区で2009年8月6日午前8時15分、小川昌宏撮影
 「ギラギラした日差しが怖いんです」。広島市中区広瀬北町の主婦、渡部芳枝さん(81)は6日、平和記念式典を放映する自宅のテレビの前で手を合わせた。64年前、原爆がさく裂したのは太陽が照りつける空だった。あれ以来、直射日光を浴びると悪夢がよみがえり、式典への出席もずっと控えてきた。「あらゆる戦争をなくしてほしい」。祈るようにつぶやいた。

 広島赤十字病院の看護学校寮(同区千田町1)で被爆した。爆心地から約1.5キロ。建物ごと吹き飛ばされ、がれきの中からはい出した。幸い切り傷程度ですんだという。

 病院に顔を出して驚いた。皮膚が垂れ下がっている人、目玉が飛び出た人……。瀕死(ひんし)の患者であふれていた。手当てに走り回り、夜は遺体を焼く手伝いもした。自身も髪が抜け微熱が続いたが、約3週間、過労で倒れるまで働き続けた。

 太陽を見ると、そんな光景がフラッシュバックするという。「目標を持って生きれば嫌な記憶を忘れられる」と、結婚後は2児の子育てに専念。その後は大手保険会社営業職として「突っ走った」。帽子とサングラスを身につけて働き、新しい契約を次々と取った。その最中、病魔が襲いかかった。くも膜下出血で失神、脳動脈瘤(りゅう)で一時右目が見えなくなるなど入退院を繰り返したが、定年まで勤めた。

 今も、日中の外出は帽子と日傘が欠かせない。「いつ戦争が起こるか分からない」と不安で、戸棚には缶詰50個、米50キロ、砂糖、塩など常に1年分の食料を備蓄している。「あの苦しみを二度と味わいたくない」からだ。

 長女(60)と長男(55)もがんを患い「私のせいかな」と気落ちしたことも。いくら封印しようとしても、癒えない心の傷。「今は平和が続き、安らかに人生を終えられることを願います」。式典を見ながらそう話した。【黒岩揺光】

 ◇献花した花田さん「孫の世代に核残さぬ」

 被爆者代表として、平和記念式典で原爆慰霊碑に献花した花田貞子さん(71)=広島市安芸区=は、原爆で父小森表三さん(当時48歳)と長姉信子さん(同19歳)を亡くした。

 疎開先から1週間後に広島市内の自宅に帰ると、父は全身にやけどを負って傷口にはウジがわき、9月19日に息を引き取った。被爆3日後に死亡した信子さんとは、会えぬままだった。母ヤゑノさんは、日雇い労働などをし、生き残った5人の子を育てた。「思い出したら涙が出るほどの苦労をしていました」

 08年5月、初孫のさくらちゃんが生まれた。あどけない顔の写真を見ながら「絶対に、私たちのような悲惨な目に遭わせてはいけない。さくらの世代に核兵器は決して残してはならない」。固く誓った。【樋口岳大】

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最終更新:8月6日16時59分

毎日新聞

 

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