

桃のピーチにジョン。ジョンは英語圏の男性名で、日本で言えば太郎・・・。桃太郎?そんな男らしい名前を冠する、女性向け下着通販ブランド「ピーチ・ジョン」。今や年商170億円を超え、若い女性の4人にひとりが、カタログ誌『PJ』の読者であるという。女性ならばほぼ知らない人はいないであろう同社を率いる男前経営者であり、4児の母でもある野口美佳氏。あだ名はミカ☆ジョン。今回は、自分の直感を信じ、通信販売ビジネスマーケットに新しい常識をつくり続けている野口氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
●このインタビューは前編・後編と2回に分けて掲載する。
思えば、学校でみんな一緒に机に座って勉強するとか、朝礼で並んで話を聞くとか、集団行動が嫌いな子どもでした。運動会や学芸会も。学校ってほとんどの時間が集団行動じゃないですか。でも当時は、イヤだとか、私は違うとかが言えなくて、いつももがいていたように思います。親や先生に逆らうなんて考えもしませんでしたし、いろんな疑問を飲み込まなければならないストレスで拒食症にもなっちゃいましたし……。小学校4年生の時に放送委員になったのも、人前でしゃべりたいからではなく、裏方に回れば朝礼の際に立ったまま校長先生の話を聞かなくてもいいと思ったから(笑)。普通なら、目立ちたいからとかなんでしょうけど。でも大人になって振り返って考えてみると、勉強が嫌いなわけでもなかったし、ただいろんなことに対してすごく素直な女の子だったんでしょうねぇ、私は。
地方にいたことも関係しているのだと思いますが、近くに目指したい偶像やロールモデルもなく、誰かがこの本を読むといいよと勧めてくれるでもなく……。そんな感じで日々もんもんと悩みながらも、集団行動をする自分はイヤなんですが、集団を眺めてたりするのは嫌いじゃなかった。そうしてると、いつもぽつんとひとりで座っている子の存在が見えてきます。そんな子に話しかけると、ある部分にすごくこだわっていることとかがわかったり。「へ~、そうだったんだ~」って。人とは違うと感じていた自分を、ある意味認めてあげることもできました。悩んでいた集団と自分の関係性が、少しだけすっきりした経験です。
絵を描くのは昔から大好きでした。中学の頃、美術の先生から「お前は絵で食べていけるよ」ってほめられたことがとても嬉しかったことを覚えています。学級新聞などの広報物をつくるのもうまかったですよ。パソコンなんてないですから、自分で手描きのデザインをして、絵の具を買ってきて色づけして。当時は発表の場も学校内に限られてはいましたが、そういった表現活動は全く苦にならず進んでやっていました。今であればパソコンでささっとつくって、インターネットで世界中にプレゼンテーションできるんですけどね。
高校に入ると、一気に行動範囲が広がりました。親の教育方針は、自立心が芽生えるのでアルバイト賛成。なので、ファストフードショップやコンビニエンスストアなど、様々な仕事をしましたね。そうすると、お金も稼げる、何でも買える、ああ自分はどこにでも行けるんだって気がして。学校よりも社会に対して興味が出てきたんですよ。自由も感じましたし。だから学校なんて興味ないわけです。ものすごく適当に通っていましたね(笑)。
この時期、雑誌を読みまくりました。『anan』『mcSister』とかのファッション誌から、母が買って読んでいた『クロワッサン』に『暮らしの手帖』まで(笑)。同じ雑誌を何十回と繰り返して読むんですよ。すると、ファッションにアート、新しい音楽……、どんどん新しい好きな世界が増えていく。やっと自分がすがれるもの、夢見れるものと出合えたと感じたんです。もちろん誌面に登場する商品を眺めることも楽しいのですが、それより雑誌をつくる側やアートの裏側に興味を持ちました。でもこの頃は、洋服をつくりたいとは思わなかったですねぇ。洋服はカテゴリーがはっきりしていますから、つくる分野がしばられるのはイヤだなと。絵を描くことが好きなこともあったのでしょう。デザイナーとか、編集という雑誌製作にかかわる仕事をしてみたいなーって。おぼろげながらですが、そう考えるようになりました。
高校卒業後のことをみんなが考えるようになる時期になっても、大学進学や就職といった普通の進路にはあまり興味が持てず。当分は、美大を目指して浪人生活。好きなものと、好きな人たちに囲まれて過ごそうと決め、卒業後も地元に残って、バイトしては遊ぶ生活を続けました。でもその年の夏が過ぎた頃、だんだん仙台という街に物足りなさを感じるようになりまして、東京へ行こうと。そして上京してから、私の人生が少しずつ動き始めました。
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