1 地名の由来 私たちが暮らす町はいつから佃(つくだ)とよばれるようになったのでしょう。 天正年間(1573〜1592年)、この地を訪れた徳川家康が「漁業も大事だが、人はまず田で働け」と村人に言ったことから、にんべんに田をつけた「佃」に村の名前をあらためたという言い伝えがあります。この説が正しいとすれば、佃の名付け親は江戸幕府初代将軍の徳川家康ということになります。 |
2 佃の漁民と徳川家康 佃一丁目に田蓑神社があります。その境内には徳川家康をまつった東照宮(とうしょうぐう)があります。また、「佃漁民ゆかりの地」という記念碑が建っており、家康と佃地域の深いむすびつきを碑文に刻んでいます。 |
1586年、家康は住吉大社(大阪市住吉区)にお参りした後、多田神社(兵庫県川西市)へと向かいました。一行は神崎川を渡ろうとしたのですが、あいにく渡し船がありません。そこで、佃村と隣の大和田村の漁民が船を出し、家康一行を運んだそうです。 これが縁になって、家康と佃漁民の交流がはじまります。江戸時代のはじめ、徳川方と豊臣方が争った「大坂夏の陣・冬の陣」という大きないくさがありました(1614、1615年)。佃村の漁民たちは徳川方に味方し、武器などを運んだり、いくさに使う船や食べ物を集めたりしました。 |
1612年(1590年という説もある)、佃村・大和田村の漁民ら34人は江戸(いまの東京)によびよせられ、将軍家に新鮮な魚をおさめる仕事を与えられます。漁民たちは当初、安藤対馬守(あんどう・つしまのかみ)の屋敷内で暮らしていたのですが、その後、幕府から与えられた隅田川河口の干潟を埋め立て、そこに移り住みます(1644年)。新しい島はふるさとの村にちなんで佃島と名付けられました。これが現在の東京都中央区佃島です。 漁民たちは江戸近辺の川や海で魚をとり、江戸城におさめました。あまった魚類は日本橋に店を出し、江戸の人々に売りました。これが後に、日本橋の魚河岸(うおがし/魚のおろし売り市場のこと)へと発展していきます。 みなさんは佃煮という食べ物を知っていますか。魚やこんぶをしょうゆで煮しめた食べ物です。この佃煮は佃の漁民が工夫を重ねて作り出したものです。 このような歴史を記念して、佃小学校と東京の佃島小学校の交歓会が1965年(昭和40年)から始まりました。後に、佃西小学校と佃南小学校もこの交流に加わりました。 |
3 人々のくらし 大阪の佃村に話を戻しましょう。昔の佃村は漁業がさかんなところでした。エブナ(ボラの幼魚)やシラウオ、イカナゴなどがよくとれたそうです。 徳川家康ゆかりの地ということで、佃村は幕府から特別の許可をもらい、全国どこの川や海でも漁をすることができました。しかも漁にかかる税も払わなくてよかったのです(運上銀の免除)。佃村の漁業はますますさかんになり、漁民たちは明石や瀬戸内海、土佐湾にまで出かけて漁をしました。 また、佃地域は水陸交通の要地でした。「尼崎わき道ゆけば渡し三つ、野里佃に神崎のしも」と唄われたように、大阪から尼崎に行くには佃地域を抜ける道が一番近かったのです。幕府が佃村を大事にした背景には、このような事情もあったのでしょう。 こうして佃村は大いに発展し、一時は佃千軒(家が千軒ある)とよばれるほど、たくさんの人が住みました。しかし、いいことばかりは続きません。1696年、大きな火事が起きて、佃村は三日間も燃えつづけました。この火事で昔からの宝物や文書がほとんど焼けてしまい、多くの住民が島から出ていってしまいました。玄珍(げんちん)という人の家が火元であったことから、この火災を「玄珍焼け」と呼びます。 |
4 佃を切り開いた人たち | |
左の航空写真をみてください(1997年撮影)。私たちの学校がある佃地域は神崎川と左門殿川の間に浮かぶ島のような形をしています。 もともと佃は川が運んできた土砂がたまってできた土地です。江戸時代のはじめ、つまり今から400年ほど前、佃の半分以上は葦や笹などの草におおわれていました。漁業はさかんでしたが、農業には向いていない場所だったのです。 その土地を開墾し、農業をおこしたのが佃十七人衆と言われる元禄時代の豪農です。薮だらけのところを開発したことにちなんで、彼らは「薮床(やぶとこ)」とも呼ばれました。 |
昔の佃の地図をみてください。今と違い、佃は四つの島に分かれており、現在阪神千船駅があるあたりは蒲島(がましま)という別の島でした。区画整理でひとつの島になったのは、1934年(昭和9年)の室戸台風の後です。 佃の開拓者たちは協力して島を縦断する農業用水路を作り上げました。田蓑神社の西側から左門殿川の水を取り入れたこの用水路は、春の小川はさらさらいくよ≠ニいう歌のとおりのきれいな流れだったといいます。現在、大阪市バスが走っている佃中央通りはこれを埋め立ててできた道です。ちなみに、佃南小学校のある場所は見渡すかぎりの田んぼが広がっていたそうです。 |
1 新政府の誕生と佃地域 1867年、江戸幕府が倒れ、明治新政府が成立します。廃藩置県により、佃村は大阪府西成郡に属することになりました。 1889年(明治22年)に町制が実施されると、佃村・蒲島新田・大和田村・大野村・百島新田の5村が合併し、千船村が誕生します(後に、千船町となる)。さらに時代がさがって、1925年(大正14年)、西成郡は大阪市に編入され、西淀川区となります。佃地域は、西淀川区佃町になりました。 このように行政区画がめまぐるしく変わる中で、人々の暮らしはどうだったのでしょう。1888年(明治21年)の資料によると、佃村の人口は1348人(262戸)。そのうち漁業人口は84人・28戸(ただし、すべて兼業)で、漁船は42隻あったそうです。農業もさかんで、米・麦のほか、ねぎ・なすといった野菜やぶどう・すいかのようなくだものもとれました。 1905年(明治38年)に開通した阪神電車は、こうした農村風景の中を走ったといいます。開通当時は佃駅があったのですが、後に大和田駅といっしょになり、現在の千船駅になります。 佃地域に小学校ができたのは、1874年(明治7年)のことです。これが現在の佃小学校です。はじめの頃は、お寺のお堂を借りて授業をしていたそうです。のどかな田園風景のなかで、子どもたちはすこやかに成長していきました。佃小学校の創立百周年記念誌に、大正時代の終わりから昭和初期にかけての暮らしを伝えるくだりがあります。 「農家はわりあい大きな家が多く、庭の広いゆったりとした土蔵付きの家並みがそろっていた。庭には柿やみかんの木があり、ほとんどの家がにわとりを飼っていた。そのため、朝はにわとりの鳴き声で目をさますこともしばしばあった。(中略)若い先生につれられて、夏休み前の短縮時間中に5年生以上の児童生徒は甲子園浜に水泳の練習にいった。佃の生徒は川にめぐまれていたのでみんなよく泳いだ」 現在の佃からは想像できない光景ですね。 2 工業地帯の誕生 佃地域には明治時代の中頃から紡せき工場などが進出していました。とはいえ、たくさんの工場が建ち並び工業地帯とよばれるようになったのは昭和にはいってからです。日本が中国大陸で戦争を始め、戦争がはげしくなるにつれて、たくさんの機械工場や金属工場が作られるようになったのです。 1936年(昭和11年)11月16日の『大阪朝日新聞』は、「工業都市出現 延びる延びる阪神国道(※)筋へ」の見出しで、御幣島・大和田・佃一帯の急速な工業化を伝えています。(※ 現在の国道2号線のこと) この当時から佃4丁目で食堂を営んでいる方の話によると、現在の佃南小学校の校区一帯には鋳物工場や機械工場がたくさんあったそうです。 西淀川区全体が「工場都市」として発展する一方、公害による自然破壊のために農業・漁業は衰えていきました。農民や漁民、そして工場の煙や汚水に悩まされる住民たちは公害反対の運動を起こしました。しかし、こうした動きは迫りくる戦争の足音によってかき消されていきます。 |
3 戦争の時代 1941年(昭和16年)、日本はアメリカ・イギリスを中心とする連合国との戦争を始めます。いわゆる太平洋戦争です。 戦争がいよいよはげしくなった1944年、佃小学校の子どもたちは、空襲を避けるために親元を離れ、大阪府の能勢や香川県などで勉強することになりました。これを集団疎開(しゅうだんそかい)と言います。また佃地域は工場がたくさんあったので、焼い弾による火災の広がりを防ぐため、民家の立ち退きも行われました。 |
1945年(昭和20年)、ついに佃地域も米軍の爆撃を受けます。6月26日の空襲では左門殿川堤防下にあった防空壕に爆弾が命中、避難していた53人の人々が亡くなりました。炎は近隣の家屋に飛び火し、熱さのあまり川に飛び込む人が続出したそうです。戦後、この時の被害者を追悼する祠(ほこら)が建てられました。佃一丁目、「すかいらーく」の横にある祠がそうです。 現在は「空爆」の模様がテレビ中継されるような時代です。みなさんもニュース番組などで見たことがあるでしょう。しかし、テレビゲームを思わせる映像の向こう側でたくさんの人々が亡くなったり、傷ついたりしているのだということを忘れてはいけません。 |
被爆者鎮魂碑(佃1丁目) |
1 焼け野原からの出発 戦場から復員してきた人の話によると、終戦直後の西淀川区は一面の焼け野原が広がっていたそうです。そのなかにバラック(ありあわせの材木などで作った小屋)や地下壕が散在し、人々は自家菜園をつくりながら飢えをしのぎました。 疎開から帰ってきた子どもたちは、その辺に生えている食べられそうな草をパンにはさんで給食の代わりにしたと言います。拾ってきた不発弾(米軍が投下したが、爆発しなかった爆弾のこと)が突然爆発するといった事故もありました。 |
2 ジェーン台風 戦災から立ち直ろうとしていた人々を自然災害が襲いました。1950年(昭和25年)9月のジェーン台風です。西淀川区では8786戸の家が壊れたり、水に流されたりしました。死者・行方不明も58人にのぼっています。 現在の佃南小学校校区も水につかりました。神崎川の堤防が決壊したと同時に水が押し寄せ、その勢いは工場の煙突がかたむくほどだったと言います。民家の一階部分は水没し、人々は二階に逃げて救助を待ちました。学校の先生は船に乗って、子どもたちの安否を確かめて回りました。 佃地域、特に阪神電鉄本線から南側は、水はけが大変悪く、台風以外でも雨が多く降っただけで水びたしになったそうです。現在は、下水道局の抽水場ができるなど水害対策が進んでいます。 |
3 西淀川公害 佃地域は工場が多い町です。工場ではたくさんの人が働き、そこで作られたさまざまな品物は私たちの暮らしを支えています。しかし工業の発達は、公害による環境汚染というやっかいな問題をもたらし、地域で生活する人を悩ませてきました。 1950年代のなかばから、ばい煙や粉じんによる大気汚染(空気の汚れ)が、さらにひどくなっていきます。当時の調査によると、佃地域の気管支炎発生率は100人中10.1人にも達しています。鉛の混じった煙でのどが気持ち悪くなってしまうので、人々は外に出る時にはあめをなめていたそうです。 西淀川区学校保健協議会がまとめた『環境衛生の現状』(1972年)は、西淀川区内のある小学校の様子を次のように記しています。
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1969年(昭和44年)12月、西淀川区は国の法律にもとづき、公害認定地域の指定を受けます。その後、たくさんの人々の努力により、空気の汚れはずいぶんましになっていきました。みなさんが学習した大野川緑陰道路も、「公害の川」を「緑の道」に生まれ変わらせようとした人々の取り組みによってできたものです。 もちろん、公害問題が終わったわけではありません。地球環境の保護が世界共通の願いになった今、私たちは身の回りの環境から大切にしていく必要があります。 |
4 新しい町、新しい学校 緑豊かな農村から煙りたなびく工場地帯へと、佃地域は変わってきました。そして70年代後半になると、町は新たな顔を見せはじめます。大きな工場が郊外に移転し、その跡地に高層住宅が次々と作られるようになったのです。佃は、古くからの住宅とマンション・団地そして中小の工場が混在する町になりました。
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佃地域の歴史を急ぎ足で見てきました。小学生のみなさんには難しい内容になったかもしれません。お父さん・お母さん、おじいさん・おばあさんと一緒に読んでみるのもいいでしょう。町は新しくても佃地域には古くからの歴史と伝統があります。これを掘り起こし継承していくことは、私たちが新しい時代を築いていくために必要なことです。 将来、佃の歴史を調べてみようと考えた時、このホームページをひとつの手がかりにしてください。 |
主な参考文献
新修大阪市史/西淀川区史/西成郡史/甦るわが街(大阪市建設局編)/太平洋戦争末期の町会・防空資料(大阪府平和祈念資料室編)/その昔佃島漁師物語(石井きんざ著)/なにわの石碑を訪ねて(杵川久一著)/西淀川公害、大阪大空襲(小山仁示著)/佃小学校創立90年周年記念誌、100周年記念誌/佃島小学校創立110周年記念誌、など。新聞・雑誌は省略。
取材協力
佃地域の皆様、西淀川区役所区民情報センターの皆様