淀川こぼれ話

佃村 佃煮のルーツは当地

神崎川と左門殿川にはさまれた「島」−西淀川区佃に田蓑神社があり、その境内に「佃漁民ゆかりの地」と刻まれた石碑が建っています。「佃島は古来漁業において名があり、殊に正保年間には江戸鉄砲州東の地を開発、一部移住し佃島と名づけ、今日の盛大に至らしめた」−。

この佃が、佃煮で有名な東京の佃島のルーツの地だということをご存知でしょうか。その理由は・・・

天正年間(1580年頃)、徳川家康が住吉神社に参拝、摂津多田神社へも参ろうとして、当時、田蓑島といわれていた佃に来たが渡し舟がなく(神崎川の出水説あり)、困っていました。これを見て村の庄屋らが漁船を貸し、漁民が船を操って家康一行が渡るのを助けました。喜んだ家康は田蓑神社にも参り、漁民たちに、漁業だけではなく田も耕して励め、地名を佃にせよと言ったと伝えられています。その働きによって税金免除の特典を与えられた佃の漁民は、大坂方に対する隠密役や献魚の役なども命じられました。

天正18年(1590年)、小田原城が落ち、家康は関東へ下向しますが、田蓑神社の神職、平岡庄太夫の弟の権太夫好次は神社の分霊を持ち、33名の佃村漁民を連れて同行。その縁で、佃村は大坂の冬・夏の陣のときも徳川方につき、漁民たちは家康を当地から堺へ護送したり、西国方の船団を看視したりしたのでますます気に入られ、正保年間(1644年頃)、浅草川下流の鉄砲州向干潟をいただいて開拓、生国の名をとって佃島と改め、分神霊を安置しました。これが東京佃島の住吉神社です。

佃煮は、捕れた魚を腐らぬよう煮染めたのが起こりという説もありますが、この住吉神社の祭礼に、佃島の名物のシラウオを塩漬けにして神前に供えたのが、そもそもの始まりです。

加島鍛冶、銭座 酒は灘、銭は加島

淀川区加島には工場が多いですが、なぜでしょうか?

「難波八十島」の一つ、加島(蟹島、賀島、歌島、神島、香島、加冶島などの字も当てられた)は古来より外国との交通の要路で、すぐれた鍛冶の技術をもつ渡来人やその教えを受けた人たちが定着し、銅鉄器作りや鍛金の業に励んでいました。

延暦4年(785年)に和気清麻呂が三国川(神崎川)を改修、淀川と連結させてから、京の都と西国各地の交通は天満川や長柄川に代わって三国川が中心となり、加島には旅宿や娼楼の並ぶ歓楽街ができ、大阪や堺の港が整備されるまで、宿場町としても大いに栄えました。

鎌倉時代、承久の乱(1221年)の頃には、後鳥羽上皇に仕えていた鍛冶工たちが集団で移住、「加島鍛冶千軒」という言葉があるほど(『摂津名所図会』)鉄工業が栄え、なかでも兵具と農具は大評判。加島の銘の入ったものは値が高く珍重され、古い本に、わが国を代表する鋤として、加島の唐鋤(カラスキ)の名が出ているほどです。

この技術に目をつけた幕府は、元文3年(1738年)、加島に銭座を置き、大坂備前屋喜右衛門、具足屋六之丞らが、径八分、重さ八分の寛永銅銭を鋳造します。当時の大坂には高津と難波にも銭座があり、加島を入れて「大坂三銭座」と呼ばれ、中でも加島の銅銭は一段と品質がいいので、「酒は灘、銭は加島」ともてはやされました。

その後、幕府が各地に銭座を増やしすぎたため過多になり、加島の銭座は延享2年(1745年)で鋳造を停止しますが、良心的で腕のよい鍛冶工の伝統は絶えることなく、「ものづくりのまち」加島へと受け継がれました。

銭座の置かれていた場所は、今の日本化学工場の辺りといわれ、香具波志神社境内にある銭座稲荷社は、銭座の守り神として祀られたものです。

中島大水道 農民パワー、苦闘の治水工事

豊かな水量を持つ淀川は、農業や産業に恵みをもたらすと同時に、ひどい水害で人びとを泣かせてきました。古来、大阪には数々の治水難事業が語り継がれていますが、なかでも最たる悲劇は「中島大水道」の開削です。

中島大水道(東淀川区淡路4丁目)の起点であった、新太郎松桶の跡にできた小さな史跡公園に「中島大水道顕彰碑」が建ち、先人たちの命を賭けた水との闘いの歴史が記されています。

「中島大水道は北中島地区の農民が度重なる水害と水はけの悪さにたえかねて切り開き、東は西成郡増島村(東淀川区淡路)から西は申新田(此花区伝法)に至る9.5kmに及ぶ大排水路であった。延宝2年(1674年)から4年にかけて、北大道寺村の沢田久左衛門、山口村の西屋六右衛門、新家村の一柳太郎兵衛などを先頭に、22ヵ村の庄屋や村長が幕府に公儀普請水道開削の願いを繰り返したが、幕府は百姓自前普請を許可した。庄屋たちは村民を説得し、資金2千両を募り、延宝6年春、わずか50日で水道貫通という偉業をなしとげた(抄出)」

幕府は最終許可を得ずに強行した3庄屋に怒り、工事の即時中断と出頭を命じますが、3庄屋は同年4月9日、西村細目木(現:淀川区西中島7丁目付近)の大きな柳の木の下で抗議の自決をします。農民たちはこの悲壮な行為に感動し、いっそう結束を固め作業に励んだのが、工事を早めたともいわれます。

以後、中島大水道は明治32年(1899年)の淀川改修までその機能を果たし、今日の東淀川区、淀川区、西淀川区の発展を支えてきました。

3人の追善供養のために建てられた「さいの木神社」では現在も慰霊祭が行われ、埋めたてられて今は幻となった初の大水道の上を、今日も車が行き交っています。

柴島晒 淀川の水の恵みが生んだ?

「この堤のほとりに布木綿をのべ敷きて干しさらす故に雪のふりつみしごとく、その眺望絶景なり。俗にさらし堤と号し、浪華の貴賤舟行してここに遊ぶ風流の地なり」(『摂津名所図会大成』より)。

淀川の豊かで清らかな流れのほとりに位置し、広大な芝生地帯であった柴島は、「柴島晒(クニジマサラシ)の生産地でした。

晒づくりは、生平(麻布)を水につけて藁灰の灰汁をかけ、芝生に広げて太陽にさらし、再び大釜で灰汁を加えて焚き、また芝生でさらす。これを数回繰り返し、灰汁を加えながら川辺で木臼でつき、何度も水をかけてまた太陽で乾かすという根気のいる作業です。晴天のみで40日くらいかかったといわれます。

柴島晒は文禄年間(1592?96年)頃から生産が始まり、『摂陽群談』にも「南部(奈良)の晒に劣ることなし」と記されています。当時、奈良の晒は日本一といわれていましたが、柴島晒はそれに負けないほど評価されていたことがわかります。

しかし、明治の後半になって大阪市の人口が爆発的に増加し、市の水は「桜之宮浄水場」で処理するだけでは足りなくなってきました。井戸水でコレラが流行するのを恐れた市は、明治40年(1907年)の市会で、柴島に大浄水場を設けることを提案しました。

驚いたのは晒業の人々です。先祖代々の土地も仕事も失うことになった人々は猛烈に反対運動を展開。市と激しく対立しましたが、ついに涙を飲み、大正3年(1914年)、柴島浄水場が完成します。大阪市民は大喜び、生活も楽になりましたが、その陰に多くの犠牲者がいたことを忘れてはなりません。

こんな歴史がある柴島付近には今も染工場があり、浄水場と水道記念館は大阪市の名所になっています。



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