2009年08月05日(水)
日本シルクロード科学倶楽部ブログより
http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/
お身内からシルクロード帰国後の発病の情報が寄せられています
シルクロード核の砂漠を観光した日本人の被災調査
核爆発が継続していた頃にシルクロードを観光後、
核放射線影響が疑われる発病の情報が、少しづつですが
お身内から寄せられています。
情報提供してくださり、ありがとうございます。
みなさん、ご家族を心配されたり、
またこの甚大な社会問題に関心を持たれたことが、
文面から察せられます。
是非、貴方も、情報をお寄せください。
http://www15.ocn.ne.jp/~jungata/SSP-J5.html
2009-08-05 03:39
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東トルキスタン ウイグル /
中国の核実験 |
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●日本ウイグル協会のホームページより
http://uyghur-j.org/news_200908_hiroshima.html
↑写真は日本ウイグル協会のページより
2009年8月、イリハム・マハムティ氏と日本ウイグル協会は
「ウイグルの核被害」を訴える集会を広島で行います。
各地の支援者様や各団体組織様主催の核被害を訴えるイベントにも
参加する予定です。
※広島・長崎での街宣活動やイリハム・マハムティ参加の他の講演会については、随時更新いたします。
2009年8月のスケジュール
広島にて・・・・
2009年8月5日
街頭宣伝15時 講演会18時
【広島県広島市】
8・5 広島・長崎・ウイグル 核問題を考える国民行動
街頭宣伝 「広島電鉄・本通電停」交差点付近
講演会 メルパルク広島 5階
主催:日本文化チャンネル桜二千人委員会
http://www.ch-sakura.jp/events.html
2009年8月6日11時00〜
「ウイグルの核被曝を考える集会」
広島市まちづくり市民交流プラザ
主催:日本ウイグル協会
長崎にて・・・
2009年8月9日13時30分〜
「世界の核実験による被害を考える集会」
長崎市民会館
主催:世界の被曝被害を考える会
2009-08-05 03:06
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中国政府が提供したチベット美術が日本中を巡回中!
緊急アクション開始!
侵略された 聖地チベットのポタラ宮と天空の盗まれた 至宝
現在、「聖地チベット・ポタラ宮と天空の至宝」展が日本各地を回っています。この展覧会は2009年4月に九州国立博物館から始まり、現在は北海道立近代美術館(札幌)、9月には上野の森美術館(東京)、その後大阪と仙台で開催される予定です。私たちはこの「聖地チベット・ポタラ宮と天空の至宝-」展について一般の人々に注意を促しています。
国際人権団体アムネスティ・インターナショナルによると、現在のチベットでは、宗教的指導者でもあるダライ・ラマの写真を所持したり、礼拝することは固く禁じられ、主な寺院は公安警察の監視下にあります。チベット亡命政府によると、1949年のチベット占領からこれまでの間、6,000ものチベット仏教寺院が破壊されました。中国政府は、さらにダライ・ラマとともに、チベット仏教を代表するもうひとりの指導者、パンチェン・ラマ(当時6才)を拉致し、中国政府が認定した別のパンチェン・ラマを擁立して宗教統制を強めています。
この展覧会で展示されているチベット各地から集められ出展された沢山の美術品は、チベット人の奪われた「アイデンティティ」とも言えるものです。展覧会では「チベット文化を総合的に紹介する」と言いながら、中国がチベットを侵略した1949年以降の歴史や、ポタラ宮の主であったダライ・ラマ14世については一言も触れていません。そのため、多くの展覧会訪問者はチベットで現在、何が起こっているかを知ることなく、帰途につくことになっています。
中略
展覧会情報
期間:2009年9月19日から2010年1月11日まで
上野の森美術館 館長:水野政一
〒110-0007 東京都台東区上野公園1−2
電話: 03-3833-4191
www.seichi-tibet.jp (日本語)
www.seichi-tibet.jp/en/ (英語)
◆スポンサー企業
主催:財団法人日本美術協会、上野の森美術館、朝日新聞社、TBS、大広、中華文物交流協会、中国チベット文化保護発展協会
後援:中国国家文物局、中国大使館
協力:JAL日本航空、日本通運
作品協力:中国チベット自治区文物局、中国文物交流中心
メディア担当コンタクト:
鎌田正樹(日本) http://www.freetibetjapan.com/
TEL:050-3735-7901 E-mail: press@seichi-tibet.com
若松えり(在英国)
TEL:44-7711-746-172 E-mail: eliwakamatsu@googlemail.com
*情報の詳細は http://www.seichi-tibet.com を参照してください。
***********************************************************
マー君さんから教えていただきました。
このサイトに詳しいことが↓
http://seichi-tibet.com/index.html
http://www.seichi-tibet.jp/
http://www.seichi-tibet.com/press_release.html
2009-08-05 02:58
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アムネスティのサイトから転載します。
http://www.amnesty.or.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=2551
―――――――――――――――――――――――――
UA No.: 194/09 国際事務局配信日: 2009年 7月20日
AI Index: ASA 17/034/2009
国 名: 中国
対象者: イルハム・トフティ (Ilham Tohti) (男性)、中央民族大学準教授
ウェブサイト「ウイグル・オンライン」の管理人であり、首都北京にある中央民族大学の経済学準教授であるイルハム・トフティが、7月8日から中国当局によって隔離拘禁されている。彼の所在は明らかにされておらず、拷問と虐待の恐れがある。イルハム・トフティは、表現の自由の権利を平和的に行使したというだけで拘束された良心の囚人である。
7月8日午前1時ごろ、イルハム・トフティが友人に電話をかけ、拘束すると告げられたと話し、もう二度とその友人と話すことができないかもしれないとの不安を口にした。イルハム・トフティが友人に語ったところによると、7月5日に発生した中国北西部の新疆ウイグル自治区(XUAR)におけるウイグル人住民と当局とのあいだの暴動を煽ったとして、中国当局がイルハム・トフティを告発しということだった。当局は、この騒乱で190人ほどが亡くなったと公式に発表している。イルハム・トフティは友人に対して、自分は暴力の行使には反対であるとして容疑を否認した。イルハム・トフティは、この電話をかけた数時間後に警察によって大学で拘禁されたものと思われる。彼の弁護士も家族も、彼の所在について知らされていない。
イルハム・トフティは、自分の主宰する「ウイグル・オンライン」(http://www.uighurbiz.net/) と個人ブログに複数の記事を載せたあと、7月5日から7日までの間に警察の取調べを受けていた。これらの記事は、6月26日に広東省で起こった多数派である漢民族とウイグル人との衝突に関するものだった。彼のブログのスペースを提供しているインターネットサービス・プロバイダーは、7月5日に発生したウルムチ市の騒乱後、これらの記事を削除している。
中国語、または母語で、以下の内容のアピールを作り、航空便、航空書簡(全世界90円)、電報、ファックスで、できるだけ早く送ってください。同じ内容のアピール例文が後に続きます。それをご利用ください。
−イルハム・トフティは、表現の自由についての権利を平和的に行使しただけで拘束されている良心の囚人であるので、直ちに、また無条件で彼を釈放するよう中国政府に求める。
−イルハム・トフティの所在についての情報を提供し、拘禁の理由と法的根拠を示すよう求める。
−拘禁中に拷問や虐待を受けることがないように保証することを求める。
−イルハム・トフティが自ら選んだ弁護士及び家族と面会できることと、必要な治療が受けられることを保証するよう求める。
2009年8月31までに下記宛にアピール文を送ってください。
宛先
公安部長
中華人民共和国 100741
北京市 東長安街14
公安部
孟建柱 部長 收
Fax: +86 63099216 (繋がりにくくても、送信し続けてください)
書き出し: Your Exellency
中央法制委員会書記
中華人民共和国 100032
北京市 西皇城根北街9
中央政法委員会
周永康 書記 收
書き出し: Dear Secretary
国務院総理(温家宝首相)
中華人民共和国
北京市 100017
西城区 2 府右街
国務院
温家宝 総理 收
ファックス:+86 10 65961109 (中国外務省宛)
書き出し:総理閣下
書き出し: Your Exellency
コピーの宛先
駐日中国大使
〒106-0046 東京都港区元麻布3丁目4-33
中華人民共和国大使館
特命全権大使:崔天凱閣下
追加情報
自身もウイグル族であるイルハム・トフティは、長年にわたって中国国内のウイグル族の状況について論評し続けてきた。彼のブログは2008年に起こったチベット自治区での騒乱以降、検閲を受けている。彼の「ウイグル・オンライン」ウェブサイトは、ウイグル族だけでなく漢族も含めて被った人権侵害について公にしてきた。このウェブサイトは、少なくとも2回、中国当局によって閉鎖されている。1度目は、2008年の北京オリンピックの前、2度目は2009年の3月から4月にかけて1カ月以上閉鎖された。イルハム・トフティが2009年3月にフランスを訪れたあと、当局は彼を監視下に置き、取調べを行った。フランス滞在中、イルハム・トフティはメディアのインタビューを受け、少数派民族に関する中国政府の政策を批判した。
2009年7月5日、数百人のウイグル族が、新疆ウイグル自治区の首都ウルムチ市の街頭で抗議行動を行った。この抗議行動によって、現在まで190人以上が死亡し、1600人以上が負傷している。国営の新華社通信は、中国当局が騒乱を扇動したとしている数名の主要人物を含む1400人以上の抗議参加者を拘禁したと伝えている。
この抗議行動は、2名の死亡者を出した広東省韶関(しょうかん)市の工場での乱闘事件後、政府が何らの措置もとらなかったことに抗議する非暴力的デモが発端となったと伝えられる。新疆ウイグル自治区からウイグル族が出稼ぎに行っている工場で、6月26日、数百人のウイグル族従業員と数千人の漢族従業員が衝突した。報道によれば、警察は死者を出す騒ぎを引き起こした噂を広めたとされる解雇された元従業員を拘禁し、のちにその噂は事実ではなかったと当局が結論づけている。広東省での暴力事件後、当局はウェブサイトやオンラインの掲示板にこの暴力事件に関する書き込みを削除するよう指示し、事件に関する情報の締め出しを行った。7月5日の騒乱後、広東警察は7月26日の暴力事件に関係して14人を新たに拘禁した。
ウイグル族は、主として新疆ウイグル自治区に居住しているイスラム教を信仰する少数民族である。ウイグル族は、1980年代から組織的かつ広範囲な人権侵害の標的にされている。恣意的拘禁や隔離拘禁、信教の自由や文化的・社会的権利についての厳しい制約などの人権侵害などがそれである。ウイグル語の使用制限、信教の自由に対する厳しい制約、新疆ウイグル自治区への漢族移民の持続的流入といった中国政府の政策によって慣習が損なわれつづけていることや雇用差別のために、不満や民族間の緊張が高まってきていた。2008年北京オリンピック開催に至るまでの間、中国政府は攻撃的なキャンペーンを開始し、それが「テロ行為、分離主義、宗教上の過激主義」の罪で数千人のウイグル人を拘束あるいは恣意的に拘禁することにつながっていった。2008年8月14日には、新疆ウイグル自治区共産党書記の王楽泉 (Wang Lequan)が、ウイグル族の「分離主義」との「生死をかけた」戦いを宣言している。
自治政府は、すべての政府職員や18歳以下の子どもがモスクで礼拝することを禁じるなど、宗教上のしきたりに対する厳しい管理を行っている。
中国は、1988年の国連拷問禁止条約の締約国であるにもかかわらず、あらゆる形の拘禁において、拷問や虐待がはびこっている。
(アピール例文)
Minister of Public Security of the People's Republic of China
Mr. MENG Jianzhu Buzhang
Gong’anbu
14 Dongchang’anjie
Dongchengqu
Beijingshi 100741
People's Republic of China
Your Excellency,
I am concerned about the report that Ilham Tohti who was detained on July 8 in Beijing on suspicion of instigating a riot between members of the Uighur ethnic group and the authorities in the Xinjiang Uighur Autonomous Region (XUAR) on July 5.
I urge you to releaese him immediately and unconditionally as he is a prisoner of conscience, detained solely for exercising his right to freedom of expression.
I also ask you to provide information on his whereabouts, the reasons and legal basis for his detention; to guarantee that he is not subjected to torture or other ill-treatment while in custody.
Lastly, I call on you to ensure that he is given access to a lawyer of his choice, his family and medical treatment that he may require.
Sincerely yours,
CC:
Secretary of Central Political Science and Law Commission of People’s Republic of China
Prime Minister of the People’s Republic of China
Embassy of the People's Republic of China in Japan
**********************************************************
※アクションの方法は、2009年8月31までにハガキや封書、電報、FAXで中国政府の各所にアピール文を送ります。詳しくはアムネスティのサイトをご覧ください。
日本ウイグル協会のホームページ
mixiの東トルキスタンを守れコミュなど各東トルキスタン関連コミュニティでも情報は掲載されています。
(住所や電話番号など 個人情報は書かないようにして
送られるほうがいいと個人的に思います(おつる))
2009-08-05 02:50
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東トルキスタン ウイグル /
日本シルクロード科学倶楽部 /
チベット・ウイグル・サウスモンゴル 三民族 |
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相方が指揮と指導をしている子供たちの吹奏楽のコンクール。
毎年、夏に年に一度の大会です。
私のお友達のDannyちゃまも、娘さんが同じく
吹奏楽コンクールでした。
「それぞれの甲子園」
Danny's Words (天声D語)
http://ameblo.jp/hfc1969/
昨日のクラブユースの決勝から帰阪し長女の吹奏楽コンクール に行ってきました。中高一貫校ゆえ中学生でも高校の部に出演することになる。吹奏楽部にとっては日頃の練習の成果を対外的に競う唯一の場のようです。結果は銅賞、インフルエンザで長期休校を余儀なくされたので詰めの時期に練習できなかったので仕方ないかな。
クラブユースは終わったが、高校のインターハイも進行中。暑い中連戦はきついなぁ。インターハイは根性があるチームが勝ちあがる。
競技は違えどそれぞれの甲子園。石川遼君のような17歳もいるが皆それぞれのレベルで精一杯やることは大事なこと。又来年頑張れ!
ええお父ちゃんやなぁーーーー。
というわけで、私も応援にいってきました。
指揮をする相方と 子供たちの頑張りを見るために。
現在中学三年生の子供たちは、
実は私の教え子でもあるのです。
それと一年に一回、相方が、かっこよく見える日です 笑
演奏は、すごく綺麗で、ミスもなく
素敵でした。 絶対金賞がとれると思いました。
結果は銀賞・・・・
暑い暑い中、クーラーのない教室で夏休みも練習を続けて
きた子たち
中学三年の子供たちは今年最後なので泣いている子や
力を出しつくして楽しんで演奏したという笑顔の子も
中学生の涙や笑顔は美しい・・・
また
来年がんばれーーーーーーーーー
帰りに、すぐ近くにあるkinaちゃんの日本一おいしい
たこやき屋さんで、たこやきを買って
おしゃべりして帰りました。
帰宅した相方は、
「金賞をとらせてあげたかった
俺の力量が足らなかったせいや」と落ち込んでました。
相方のこの夏の 甲子園大会監督も 終わりました。
お疲れ様でした。
2009-08-05 02:20
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動物・・・・・・・・・・・猫・・・・ /
おつるの日常 /
音楽 |
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まことの神への信仰なしに平和は可能か
主任司祭 和田 幹男
聖母被昇天は、太平洋戦争が終わった終戦記念日でもあります。
1945年(昭和20年)8月15日、小学1年生のわたしは疎開先の母の実家で、聖母被昇天のミサのあと、 正午に縁側で天皇陛下の戦争終結を告げる放送を聞きました。
玉音放送です。何を言っているのかさっぱりわかりませんでしたが、戦争が終わったということだと聞かされました。ほっと しました。
戦争中、わたしたちカトリク信者は軍部によって迫害されてきました。「なぜ、おまえらは天皇を神として拝まないのか」と問われ、「ヤソ」、「ヤソ」とからかわれ、ときに は少女まで平手打ちをくらわされました。終戦直後も、それは続きました。
3日後のこと、当時の横浜教区長が憲兵によって銃殺されました。
凶弾は目から悩を貫通。即死。その凶弾の痕 跡が保土ヶ谷教会の司祭館に残っていました。
そこに泊めていただき、あれは何だったのか考えました。今も考えています。その後、痕跡は撤去されたそうです。
日本の軍隊はどうして自国民に銃を向けるのか。
1950年代に独立を宣言したハンガリ ーは、ソ連軍の圧倒的軍事力によって鎮圧されたが、そのときハンガリー国軍は自国民には 決して銃を向けないと宣言し、実行しました。
それに対して日本軍、特にその幹部はどうだったか。
満州では日本移民を置き去りにしてまず逃げたのは日本軍ではなかったか。武器、兵糧 もなくビルマ戦線の命令を下したのは、東京の軍幹部ではなかったか、沖縄ではどうだったか、などなど。
これが皇軍か。視野の狭い愚かな判断と、ここぞというとき、腰砕けになる弱虫。 それが日本人か。
しかし、国民のために命を惜しまなかった日本人がかつていました。それが殉教者たちです。 日本軍の犠牲になった近隣諸国の住民も含めて、戦争犠牲者のために、まず祈ろう。
祈りながら、平和とは何か、まことの神への信仰なしに平和は可能か、考えよう。
まことの神への信仰がなければ、結局経済的利潤や民族主義、主義主張、支配欲が人の心の中で 神の座につく、つまり追求すべき最高価値になる。これでは平和は来ない。 詩編33のことばは、武力が人間に救いをもたらすものという幻想に対する警告
************************************************************
和田神父様の今月のお言葉は考えさせられます。
私自身は、伯父さんが、陸軍兵長であったこと、
ニューギニアで戦死したこと、靖国に祀られていることを
誇りに思っています。
伯父さんは日本軍として戦ったけれど
決して、キリスト教の人を迫害したりしなかっただろうし
日本人を殺したり、見捨てたりはしないと思います。
今の愛すべき日本にも異常な人や愚かな人は
たくさんいます。
当時にも愚かな日本人もいたのでしょう。
当時ももちろんすべてを美化ことはできないと思います。
時の内閣の中には、共産主義のスパイもいたそうです。
飢餓でたくさん亡くなったニューギニア戦の本を今
読んでいますが、食糧供給などの面なども考えない戦略は
軍部には大きな問題もありました。
しかし現在の情勢を見ると
私は、和田神父様の
「まことの神への信仰がなければ、結局経済的利潤や民族主義、主義主張、支配欲が人の心の中で 神の座につく、つまり追求すべき最高価値になる。これでは平和は来ない。」
私の勝手な解釈ですが、
この言葉は、宗教というものを否定している
「まことの信仰のない国家」共産主義国家、
特に中国や北朝鮮に対して私は この言葉を言いたいです。
まことの信仰がないから、
今のような他国を侵略し、虐殺する
アフリカのルワンダ虐殺や内乱に対しても
武器を供給したり、間接的に関わり
アフリカの富を奪おうとたくらむ中国
まことの信仰心のあるカトリック地下教会の人々を
弾圧する中国、カトリック信徒や神父を虐殺する北朝鮮
そして軍備増強をする中国や北朝鮮に対して
日本や、民主国家であるキリスト教国も
防衛のための軍事増強を考えなくてはならない・・・
中国や北朝鮮のような国が、核実験や軍備増強を
やめて平和的な国になれば
日本が豊富な軍事力を持つこともないのですもの。
私も平和を愛しています。
そして私は殉教者を心から尊敬しています。
そして・・・・・
「まことの神への信仰がなければ、結局経済的利潤や民族主義、
主義主張、支配欲が人の心の中で 神の座につく」
これは、私自身も深く考えねばならないことです。
しかし、左傾化したカトリック正平教が主義主張ばかり主張して
信仰をないがしろにする今の現状において
まことの神の信仰があれば、主義主張を神の座につける
ことはしないのでしないかとも問いかけたいです。
とても深い意味のこめられた言葉だと思いました。
勝手な解釈で和田神父様に叱られるかな・・・・・・
************************************************************
私の九州の友人、ノコさんから
日本カトリック神学院福岡キャンパスにて
旧約聖書T(和田幹男神父様)の講義をお仕事を休んで
受けられたそうです。
”おつるさん”の尊敬する和田神父様に会いたかったのだ
そうです。
14:00-18:30まで途中休憩はあったものの
ずっと「十戒」「詩篇」「申命記」のお話で
学者神父様のお話はいいとおっしゃっています。
「おつるさん」の友人ですと自己紹介をされたとのことです。
九州の友人にも和田神父様のお話を聞いてもらえて
嬉しいです。
*******************************************************
仕事で、あるカトリックの学校へ教育研修に行きました。
その学校は、新しく建て替え工事をされて
とても綺麗で立派な建物になっていました。
けれども大阪教区に現在、とても多い
コンクリートの冷たい建物で病院のような感じがしました。
各教室には美しいマリア様の像や十字架が、飾られて
いるのは、さすがカトリックの学校だと思いましたが・・・・
あまりに新しい病院のような今風のデザインの教室と
マリア様や十字架に違和感を感じてしまいました。
一番驚いたことは、
運動場のすみに 古墳のような小さな丘があり
その中の地下のようなところには
宗教の時間に使われる、マリア様の像があり
コロッセウムのように円のような形のいすがぐるり取り囲み
マリア様が中心にありました。
マリア様へのお祈りを大切にすることは素敵だなとおもいましたが
後で、マリア様の胎内を表すというその丘のようなところは
登って遊んでいい場所になっているということを知り驚きました。
言ってみればマリア様の胎内の上を頭上を
土足で踏みつけているような
感覚がして怖いと思いました。
私は、教会はやはり 長崎にあるような
尖塔のある、古き良き、ゴシックやロマネスクのような
美しい教会が素敵だと思いますが
現在はどんどんそういう教会や カトリックの学校の建物が
無くなって さみしい気がします
2009-08-05 01:10
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キリスト教 カトリック /
おつるの日常 |
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2009年08月04日(火)
夏といえば・・・おつるの母と娘と甥っ子のお誕生日
というわけで、おつるの父・母・妹一家・おつる一家で
近場の温泉旅館へ一泊旅行
ほっと一息です。
70を超える母は、いまだにバイクに乗り、経理事務の仕事
妹は、医療関係の検査関係で毎日、車で
病院〜病院に走りまくる仕事をしています。
娘は子育て奮闘中。
私も春から仕事の責任も増え、
そして大切な日本シルクロード科学倶楽部の発足と・・・
ウイグルやNHKの問題に関わり、
そしてサッカーと、ときどき教会オルガンと・・・
女全員がバタバタ忙しい毎日なので、あげ膳すえ膳と温泉は
最大の息抜きです。
家族を大切にすることは、人間の基本です。
これをなくして、世の中のこと、仕事のこと、自分のことに
かまけているのもいけないことですね。
というわけで、まずは、温泉についている屋外プールへ
おつるの水着姿は・・・・イタイのでお見せできませんが笑
久しぶりに
プールサイドから飛び込みー〜
クロールーー♪ 平泳ぎ〜♪ こう見えても泳ぐのは得意。
久しぶりに泳いで、気持ちも爽やか
妹は、さすが元水泳部だけあって
いい年して、黒ビキニでゴーグルして本格的に泳いではりました笑
こちらも写真はイタイのでやめとこう笑
娘は、プールはじめてのベイビーと♪
ベイビーは、冷たいお水にびっくり・・・・・・
新息子ちゃんは、プールに入らないつもりで Tシャツと短パンで
プールサイドですましているので・・・・・
おつるは後ろからそ〜〜っと近づいて・・・
突き落としてやりました。 あはははははは笑
水もしたたる イイ男とイイ女・・・かな笑
そして温泉へ・・・・・ あーーーーー温泉大好き
妹はフェイシャルエステとかしてはりました。
おつるは、太陽の下で真っ黒けに日焼けする女子サッカーで、
普段からお肌なんてどうでもいいって生活なんで・・・
化粧品やエステには、まったく興味なし笑
それよりも温泉あとのビールが楽しみなのだ
化粧品やエステにお金使うぐらいならー美味しいお酒を
いっぱい飲むほうがいいやーって、おっさんか、私は笑
そして宴会♪
美味しい御馳走と、ビールで超幸せ
母と娘と、甥っ子ちゃんは、お誕生日プレゼントを
みんなからもらってゴキゲンです。
ひ孫を抱くじいじ。
脳梗塞の後遺症で
もうほとんど歩けなくなっちゃったので
温泉にも入れないじいじだけど・・・でもとっても嬉しそうで
ハイテンションでした笑
この家族の幸せが永遠に続きますように
自分が幸せであればあるほど、
ウイグルやチベット、同じ時代に生きていて
平凡に生きることさえ奪われ、家族の幸せさえを奪われている人
普通に生きることさえできず、悲しく苦しむ人たちのことを
想うと胸が痛いです・・・・
だからこそ、がんばらなくては、そして祈らなくては。
少し休憩させていただいたから、元気がでました。
もっともっと仕事もプライベートもがんばらなきゃ。
バチがあたります。
2009-08-04 23:45
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おつるの日常 |
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2009年08月01日(土)
「世界ウイグル会議」
日本代表が長崎市内で講演
産経ニュースより http://sankei.jp.msn.com/world/china/090801/chn0908012106007-n1.htm
2009.8.1 21:05
亡命ウイグル人組織「世界ウイグル会議」の日本代表、イリハム・マハムティ氏 が1日、長崎市内で開かれた第
14回原爆殉難者追悼集会(長崎の原爆展示をただす市民の会主催)
で講演し、
「中国新疆ウイグル自治区内での核実験により、多くのウイグル人が被爆し苦しんでいる」と、中国政府を非難するとともに、「民主主義国・日本が、この独裁国家に毅然と異議を唱えてほしい」 と日本のリーダーシップ発揮を訴えた。
講演でマハムティ氏はまず、同自治区ウルムチで7月に起きた暴動に言及。 「軍の無差別発砲による死者数は政府発表を大きく上回る。5千人から1万人のウイグル人が行方不明になっている」 と指摘した。
また、中国の核実験でウイグル人に被害が出ているとされる問題で、「ウイグル人は人間扱いをされず、言論の自由もなく、中国政府の責任も問えない」 と窮状を語った。
中国が1964年から96年までに行った延べ46回の核実験に関しては、高田純・札幌医科大学教授 が、
ウイグル人を中心に100万人以上が死亡したり白血病など放射線被害を受けたりした、と推定している。
**************************************************************
イリハムさんは、この夏 九州巡回講演をなさいます。
日本シルクロード科学倶楽部ブログ より
●イリハム・マハムティ氏 九州巡回講演日程
第一日 平成21年8月1日(土)
第14回原爆殉難者追悼集会(長崎ブリックホール)
「知られざる中国の核の脅威―今、ウイグルで起きていること―」
問合せ 095-823-9140(原爆展示をただす会)
第二日 平成21年8月2日(日)
ウイグル問題学習会(熊本県護国神社 英霊顕彰会館)
「ウイグル騒乱はなぜ起こったか」
問合せ 096-322-7484(日本会議熊本)
第三日 平成21年8月3日(月)
日本会議セミナー ウイグル問題報告会(宮崎市民文化センター)
問合せ 0985-73-8241(日本会議宮崎)
第四日 平成21年8月4日(火)
時局講演会(鹿児島県護国神社 参集殿大ホール)
「ウイグルでの騒乱はなぜ起こったのかー迫る中国からの脅威ー」
問合せ 099-225-3533(日本会議鹿児島)
2009-08-01 23:25
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中国の核実験 |
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2009-08-01 16:17
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長崎が核攻撃を受けた8月9日に
日本の平和と国防を真剣に考える
歴史的講演会
2009年日本は変わる!!!
主催: 新札幌未来政策研究センター
共催: 日本会議北海道本部
会場: 札幌市厚別区 アークシテイーホテル
アークホール
JR新札幌・地下鉄東西線新札幌駅直結
http://www.arccityhotel.com/contents/access/index.html
日時: 8月9日 13:00〜15:00
参加費:1000円
連絡先: 新札幌未来政策研究センター
電話・ファックス 011-894-9191
2009-08-01 16:09
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中国の核実験 /
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米科学誌、
中国・核実験でウイグル人数十万人が死亡した可能性
●産経新聞ニュースより
http://sankei.jp.msn.com/world/china/090430/chn0904301904007-n1.htm
米国で最も人気の高い科学雑誌
「サイエンティフィック・アメリカン」 7月号が、中国の新疆(しんきょう)ウイグル自治区で中国当局が実施した40数回の核爆発実験の放射能により、数十万ものウイグル住民が死亡した可能性がある とする記事を掲載した。
記事は、ウイグル人医師のアニワル・トヒティ氏 と札幌医科大教授で物理学者の高田純氏 の合同調査結果を基礎に書かれたもの。
高田教授は同自治区のシルクロード紀行番組を長年、放映した
NHKの核実験無視の姿勢を非難している。
「サイエンティフィック・アメリカン」7月号は、
「中国の核実験は多数の人を殺し、次世代を運命づけたのか」
「中国が40年にわたり核爆弾を爆発させたことで、放射能の雲は住民の上を覆った」 という見出しの記事を掲載した。
同記事はまず、トヒティ医師が新疆ウイグル自治区で1973年の子供時代、3日間、空が黒くなり、土砂のような雨が降ったのを目撃し、後年、それが核爆発の結果だったことを認識したと指摘。その上で「シルクロード上のロプノル実験場における、1964年から96年までの40数回の核爆発による放射能の結果、数十万の住民が死んだ可能性がある」 と報じた。
記事はさらに、現在、英国やトルコを拠点にウイグル人の放射能被害を研究するトヒティ医師が、
高田教授と「ロプノル・プロジェクト」という共同研究を進めているとし、高田教授の「新疆ウイグル地区で放射能汚染のために19万4千人が死亡し、120万人が白血病などを病んだ」という算定を伝えた。
「サイエンティフィック・アメリカン」は米国だけでなく国際的評価が高く、同誌が今回、事実として正面から伝えた「シルクロードの核汚染」は、それを否定してきた中国政府にも
厳しい詰問となる。
また、高田教授はNHKが長年、シルクロードの番組を放映し、多数の日本人観光客に核汚染が明白な地域を訪問させながら、核爆発については一切、沈黙してきたとして今年4月、公開質問状の形で抗議した。
NHK側は、「(放射能汚染についての)認識は放送当時も現在も持っていない」と回答したというが、今回の米国の科学雑誌の記事は、高田教授側の研究の成果や意見に国際的認知を与えたこととなる。 (ワシントン 古森義久)
2009-08-01 15:48
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2009年07月31日(金)
中キョウの工作員と仲間は日本から出て行け!!!!
君たちがァイシテル●ナへ帰れ!!!!!!!
もし日本に残りたいなら、お仲間のNH●の受信料は
全額君たちが払え!!!!
これは真っ当な日本人の声です。
日本人は日本とアジアの人たちの人権と命を守る!!!
父親たちが命を懸けた日本の心は平成の私達のDNAに受け継がれているぞ!!!!!
お前たちは世界のがんだ!!!!。
クイズ1: 中キョウとは誰ですか?
答え: 1 アメリカ人 2 ロシア人 3 日本人 4 アクマ
クイズ2: ●に適切な文字を入れなさい。
正解者は、真っ当な人たちです
***********************************************************
札幌医科大学教授 高田純 理学博士
日本シルクロード科学倶楽部 ブログより
http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/07/post_63e1-1.html
2009-07-31 10:23
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2009年07月30日(木)
私たちが、ウイグルの惨劇を憂い、何かしなければ・・・・・と
大阪でウイグルを救え!!のデモをした頃
有本香さん は、ジャーナリストとして、これは何かしなければと思い立ち、単独、ワシントンDCに行かれました。
ワシントンDCで、世界ウイグル会議のラビア・カーディル議長 に
お会いされ、ラビア・カーディル議長 が
有本香さん の熱意に、「数時間の取材では申し訳ない」と
半日に及びDC近在に住むウイグル人100人以上が集った、今回の事件での犠牲者を「偲ぶ会」にも同行をお願いされ、
有本香さん は、出席されました。
有本香さん は関西のご出身で、
おつるたち、関西の女性の
ウイグルのための行動をいつも励ましてくださる方です。
その有本香さん の待望の 【カーディル女史 独占取材】が
雑誌「WEDGE」のWEB版で公開されました!!!
日本の報道では知りえない、恐るべき実像が
明らかにされています。
ラビア・カーディル議長 は、来日講演会をキャンセルされましたので
ラビア・カーディル議長 の生の声、思いを知るためにも
誰よりも早く取材をされたこの 有本香さん の
取材内容を
ぜひぜひ お読みください!!!!
雑誌『WEDGE(ウェッジ)』 WEB版
http://wedge.ismedia.jp/
ラビア・カーディル世界ウイグル会議総裁。元は中国政府も表彰するほど成功した女性実業家ながら、1999年に反政府活動をしたとして逮捕、投獄される。05年にアメリカに亡命、06年にノーベル賞候補となる。現在2人の息子が中国当局に拘束されている。(写真:有本香さん提供)
ウルムチでデモが起きた7月5日、日没までの間だけで、約400人のウイグル人が殺されたという情報を得ています」
世界ウイグル会議の議長、ラビア・カーディル女史は沈痛な面持ちで語り出した。事件からおよそ10日後に、同会議が拠点を置く、米国ワシントンDCで話を聞いたときのことである。
一方、中国政府はこの騒乱での死者数を190人超と発表。しかも、その大半が「暴動」に巻き込まれた漢民族であったと主張している。
暗闇の中で、1万人のウイグル人が消えた?
日本のマスメディアの多くが、「中国当局の発表によると」との“ことわり”は入れつつも、この数字を半ば事実と認めたかのような報道をしてきた。筆者がそのことに触れた途端、カーディル議長はぐっと身を乗り出し、新たな戦慄の情報を語った。
「問題はその日の夜なのです。日没後、ウルムチのウイグル人居住地区が数時間にわたって一斉停電した。その後数時間、絶え間なく暗闇のあちらこちらで銃声が鳴り響いたそうです」
その不気味な様子は、密かに撮られた映像が後日インターネット上に公開された。デモの参加者ではなく、周囲で見ていただけの人も大勢銃弾の犠牲になったと推測されている。
「結果、翌朝には、その地域で約1万のウイグル人が消えたとの情報があります」
「消えた? 拉致されたのですか?」と問い返すと、「殺された者、逮捕された者……。いずれにせよ、一夜にして消えたウイグル人が1万にものぼるというのです。当局は、死傷者をすべて車に放り込んで運び去った。だから、家族の元には遺体さえ残っていない。消えたとはそういうことです」
にわかに信じられず言葉を失っていた筆者に、議長はその情報源の一部を明かしてくれた。事件当日、現場を目撃した後外国へ逃れた人からの情報、さらに別の相当信頼に足ると思われる情報源がある。同じ情報源に、アメリカ政府筋も注目していると、後日、別の筋から聞いている
つづきは こちらからぜひご覧ください
2ページめ
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/467?page=2
3ページめ
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/467?page=3
独占取材された
有本 香(ありもと・かおり)さん
ジャーナリスト、企画会社経営。東京外国語大学卒業後、雑誌編集長を経て独立。近年とくに中国の民族問題の取材に注力している。『中国はチベットからパンダを盗んだ』(講談社)『なぜ、中国は「毒食」を作り続けるのか』(祥伝社)などの著作がある。
2009-07-30 11:30
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ラビア・カーディル議長 来日関連ニュース
「ウイグルの母」が来日=都内で会見へ−カーディル議長
7月28日17時57分配信 時事通信
在外ウイグル人組織「世界ウイグル会議」のラビア・カーディル議長(62)=米国在住=が28日、来日した。29日午後に都内で記者会見し、今月5日に中国新疆ウイグル自治区で発生した暴動についてウイグル人側の立場を訴える。30日朝に帰国する予定。
カーディルさんは「ウイグルの母」と称されるウイグル人活動家で、中国当局は日本が来日を容認したことに不満を示している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090728-00000115-jij-int
<ウイグル問題>カーディル議長来日、中国で「反日」大合唱
中国では、「世界ウイグル会議」のルビア・カーディル議長が28日から5日間の日程で訪日することが伝えられ、日本非難の声が高まった。http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0727&f=politics_0727_004.shtml
カーディル氏が自民訪問 ウイグル会議主席
ウイグル人亡命組織「世界ウイグル会議」のラビア・カーディル主席は29日午前、自民党本部を訪問、衛藤晟一参院議員ら同党議員と会談した。中国側はカーディル氏が新疆ウイグル自治区で起きた大規模暴動を扇動したなどとして強く非難しており、反発が予想されるが、自民党としてはノーベル平和賞候補に名前が挙がったこともある同氏との対話を尊重する姿勢を示した形だ。
自民党幹部は共同通信の取材に「所属議員との会談場所を提供しただけだ。記者会見を主催するわけでもなく、問題はない」と述べた。
http://www.47news.jp/CN/200907/CN2009072901000178.html
<ウイグル問題>ラビア議長、日本での一般向け講演取り消し
世界ウイグル会議のラビア・カーディル議長が日本で予定されていた一般向け講演会の出席を取りやめることを分かった。講演会実行委員会が参加申込者に連絡した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090728-00000187-scn-int
************************************************************************
東京都内で、30日に 来日講演会が予定されていた。
http://uyghur-j.org/news_20090725.html
日本ウイグル協会のホームページには開催のお知らせが掲載されていたけれども、
主催は「ラビア・カーディルさん講演会実行委員会」?となっており日本ウイグル協会の方々は主催者とは、関わりがない様子・・???
日本ウイグル協会の方々とは、デモなどでお会いしたぐらいで
私自身は、メンバーではないので、詳しい事情がよくわからない。
ウイグル問題でいてもたってもいられずデモを主催され、
700人の素晴らしいデモをされた日本ウイグル協会そして
緊急シンポジウムも急遽、開催されて素晴らしいものであったと
参加された方々にお聞きした。
日本ウイグル協会のみなさんは、告知などを頑張っておられたが・・・
その日本ウイグル協会の主催でなく、イリハムさんの主催でもない講演会というのは私個人は、何か、妙な変な予感がして、告知しないままに至った。
実際は、ラビア・カーディル議長の出席取りやめということだ。
私は、このラビア・カーディルさんの講演会について、東京などに住む一般の方や女性の知り合いから、
「参加申し込みの時に、名前・住所・電話番号の個人情報を
メールで知らせなければ参加できないようだが、主催者が誰なのか
よくわからないので不安なのですがも誰が主催なんですか?」
という声があり、
私としては、東京の友人にはぜひラビア・カーディルさんの講演会でのお話を聞いてほしいし、不安を払拭していただくためにも主催者を知る必要があった。
まず、櫻井よしこさん理事の国家基本問題研究所・企画委員島田洋一 さんという方のブログに「水谷尚子氏の話を聞く(国家基本問題研究所 」という記事を見つけた。
************************************************************
本日、朝8時から昼過ぎまで、国家基本問題研究所の企画委員会に出た。9時半、ウイグル問題に詳しい中国研究者の水谷尚子氏が来所、1時間半近く最新情勢の分析を聞いた。
水谷氏は個性が強く、毀誉褒貶ある人だが、大変参考になる話が聞けた。
来週28日、同氏と日本政策研究センター(伊藤哲夫理事長)のアレンジで、世界ウイグル会議議長ラビア・カーディルさん(ワシントン在住)が来日する。29日午後2時から、日本記者クラブで会見を行うという。有意義な滞在となるよう期待したい。
以下略
http://island.iza.ne.jp/
*************************************************************
水谷尚子氏と 伊藤哲夫氏が、主催者ということが わかった。
伊藤哲夫氏というのは、よく知らないので
wikiで見ると
伊藤 哲夫(いとう てつお、1947年9月23日 - )は、日本政策研究センター代表。日本会議常任理事(政策委員)。日本李登輝友の会常務理事。保守派の論客。
新潟県上越市生まれ。1970年新潟大学人文学部卒業。学生時代は民族派学生組織で活動。その後生長の家を経て参議院議員玉置和郎事務所へ。生長の家が政治活動から手を引いた後の1984年には、「真正保守の立場に立脚した政治分析、政策研究を行い、それを踏まえた政策提言を行う」目的で、保守系シンクタンクである日本政策研究センターを設立。
安倍晋三のブレーンである五人組(他に中西輝政、西岡力、島田洋一、八木秀次)の一人として知られている。
******************************************************
民族派学生組織ってなんだろう?? 生長の家は、聞いたことがあるけど・・・???よくわからない・・・
安倍氏のブレーン ブレーンってなんだろう。
水谷尚子氏は、高田教授の東京シンポジウムを妨害したおりに
高田教授や私を攻撃、関係ない日本ウイグル協会やイリハムさんまでもを攻撃し、
「櫻井よしこのような核武装論者とアニワル医師を同席させるな」とか、「ウイグル問題を右寄りの政治運動に利用するな」 などと批判しつづけていた、左翼のひとですが、
右よりの政治団体の保守の方々と一緒に主催者をされるということは
悔い改められたということですかね・・・よかった、よかった。
櫻井さんの国家基本問題研究所にも行かれているということは。
ウイグル問題は卑劣な中国共産党の暴虐を批判しなければ
何もはじまらないということがご理解できたようですね。
もしそうでなければ、自民党、政治関係の方々とともに
講演会を主催するというのであれば
「ウイグル問題を右寄りの政治運動に利用するな」と言ってた
左系の水谷さんは整合性がまったくないことになります。
妨害されたシンポジウムは政治運動ではなく、
政治家のパネリストもいませんでしたし。
日本ウイグル協会の方々は、今回の講演会の告知もされ
一切、水谷さんへの批判などは、口にしたのも見たことがありません
にもかかわらず、伊藤さんという保守のご立派な方や
関係者も何故、イリハムさんや日本ウイグル協会を通して
講演会の企画をされなかったのかは、私の理解に苦しむところです。
水谷さんご自身がまだわだかまりがあり、そのご意向を尊重されたのかもしれませんが、(わたしの勝手な推測です)・・・・・
今回のウイグルの悲惨な事件にまっさきに抗議の声をあげ
暑い中、デモで汗を流し、叫び、
ペマギャルボさんや
石平さん、永山英樹さん、西村幸祐さん、青山繫晴さんを招いての
緊急シンポジウムも開催した 日本ウイグル協会のご努力に
敬意を表し、ともに協力すべく呼びかけるのが
日本人の礼節、義ではないか と、私個人の感想です。
抗議の汗を流し、中国に対して、心から憤り、戦いつづけている人々をないがしろにしては いけないのではないか・・・
とにかく、講演会は、ラビア・カーディル議長は不参加でアメリカに帰国されます
(理由もよくわからないんだけど?????)
ビデオメッセージとラビアさんの夫は出られるようですので
御参加される方は、お問い合わせされたらいいのではと思います。
ただし、住所・氏名などが必要なので、
個人情報管理が心配な方は、匿名でもいいか
主催者さんに 聞いて下さいね。
ラビアさんが、日本での講演を望まれていることや
講演でラビアさんに会えるのを楽しみにしていた人々には
とても残念なことだと思います。
しかし、ラビアさん来日に対して 中国が公式に
猛反発の抗議をし、中国人のサイトにも反日の卑劣な書き込みが
あふれている現在の状況下で
ラビアさんの 一般参加者の多い講演会に
御招きするのは、ラビアさんにとっても参加者さんに
とっても非常に危険なことだと思いますから、
参加をキャンセルされたことは、もしかしたら
よかったのかもしれないなあと 思いました。
また、こういう講演会は、
参加したい方に不安を与えることのないように、主催者を明らかに
する必要があるのではと思います。
私は、ラビア・カーディルさんの講演会は、
素晴らしいことだと思います。
ぜひ日本の方々に ラビアさんの思いが
伝わるといいなと心から思っていますから 非常に残念。
結果的に残念な結果ですが、
私の知り合いの参加希望であったがまだ申込みしていない方々は、
いまだに、ラビアさんが、キャンセルしたことを知らなかったそうです。
日本ウイグル協会のサイトにおいては、きちんと参加が取りやめに
なったことが、書かれていますが、
他で告知されている関係の方々は
参加取りやめの事実を、はっきりと伝えるべきだとも思います。
ぜひ、次の来日の機会があれば、
私も参加させていただきたいです。
主催者とか関係なく
ラビア・カーディルさんのお話は聞きたいですもの。
なお、ラビア・カーディルさんに 独占取材された
有本さんの記事をつぎのページに転載いたしますので、
ぜひぜひ 御覧くださいね
私自身は、日本ウイグル協会にかかわっていませんし
高田教授も何もメッセージを出しておられないので
これは あくまでも日本ウイグル協会とも
日本シルクロード科学倶楽部とも関係なく
日本のひとりの女性としての ひとりごとです。
日本ウイグル協会もイリハムさんも高田教授も
ここに私が書いていることには一切関係ありませんので
何かご意見があれば 私のほうへお願いいたします
私は、
チベット問題でもウイグル問題でもそうですが、
2ちゃんねるやいろいろなところで 分断工作がされていますが
そんなものにはめげず、他国を想いやり、日本を想う
日本人は、協力しあい、結束して
ともに共通の敵に対して戦うべきだと強く思います。
2ちゃんねるには、私に対しても、日々くだらないことや
容姿や年齢がどうだとか、攻撃する人が多いですが
(女性が多いようです)
自分の名誉欲や嫉妬心、主義主張など、我欲を捨て、
本当の真実のために
ウイグル・チベット・内モンゴル・台湾などのために
戦いましょう。
関西には そういう純粋で、どこの派閥にも属さない
孤高の狼のような仲間がいっぱいいます
関西には そういう純粋で、どこの派閥にも属さない
孤高の狼のような仲間がいっぱいいます
日本ウイグル協会の方々もそうなんだと思います。
みんな日本を愛する人たちだと思います。
日本人ならば 日本を愛し
日本の自然や文化や歴史を愛するがこそ
そして ウイグルやチベットや台湾や内モンゴルのような
自国の文化を奪われ、歴史を踏みにじられ、自然を破壊されている
人々の苦しみや痛みを理解し、共感し
想いやることができるのだと思います。
2009-07-30 11:25
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ウイグル関係の記事を続けていましたが
少し日常のわたしの記事を・・・
7/25土曜日 カトリック神戸中央教会にて神戸に住む親せきの結婚式がありました。
司式はなんと!!!! 私に5年前に洗礼を授けて下さった
赤波江 豊神父様 !!
カトリック箕面教会ので主任司祭をされ、その後 タイへ赴任されたあと、
神戸に戻って来られていました。
先日、玉造カテドラルでの クウ神父様の式でお会いしてから、
久しぶりの再会で、私はお会いできるのがうれしくてドキドキです
神戸に着いて、教会へ 高い尖塔の上に十字架が出迎えてくれて
お庭もとても広くて、神戸の教会らしく外人の子供たちが遊んでいました。
そして赤波江神父様と再会!!!
思わずハグしそうになりましたが、握手にしておきました笑
「おおー御元気ですかー
今日は、結婚式より私に会うのを楽しみにして来られたんでしょー
ふふふふふ笑 」と、いつもの赤波江神父様のジョーク炸裂です♪
あー懐かしいですー。
赤波江神父様 ジョーク語録が聞けるなんてー
よく言われました。
「あなたには、洗礼授けるの 早すぎましたね ふっふっふ笑」
「あーあ、洗礼名(ジャンヌダルクじゃなく)マリア様にしといたら
よかった〜笑」
いつもいつも笑顔で明るくて、おそばにいるだけで
幸せで 楽しくなれるそんな神父様です。
もちろん決して 左傾化した政治的な発言などしたことは
一度もない祈りを大切にされる神父様です。
でも実は、厳しいところはとっても厳しいのです。
ごミサでは、美しい声で歌われ、マリア様を大切になさる
神父様です。
一緒に記念撮影。
お式がはじまりました。 ミサではなく式のかたちでした。
ステンドグラスがとてもきれいな教会でしたが
イエズス様が、十字架に架けられた姿でなくて
お洋服を着ている、復活の姿の像なのが、珍しいな・・・
赤波江神父様の教えの通り、教会ではベールをかぶります。
式がはじまり、赤波江神父様の懐かしい声の
お祈りの声と姿を聞いていると、いつのまにか
涙がどんどん、どんどんあふれてきました。
洗礼を受けたときも、悲しいとか嬉しいとかの単純な感情ではなく
涙がどんどんあふれましたが、その時にわたしは初めて
「聖霊」というものの存在を感じましたが
この式のときもそういう感じがしました。
洗礼を授けて下さった神父様というのは、
神様の代理として 私を赦し、愛し、カトリックに導いて
下さったという感覚です。
きっとそういう感動の涙だったのだと思います。
指輪の交換や 署名が終わり、
美しい花嫁さんと素敵な花婿さんに おめでとう♪
神父様のお話は少し長くて、赤ちゃんや小さい子どもが
ぐずったけど笑
男と女は違うものなのです
お互いが違うものだからひきあうのです
お互いに無いものを与えあい、違いを許しあうことが
大切なのです。
男と女は違うものなのですという言葉を何度も繰り返されましたが
私は、本当にその通りだと思います。
男と女は同じだとか、同じ職業につく権利があるとか
男女差別はいけない!! などという 現代の考え方と
やはり カトリックの違いを認め合う 愛の大切さを
教えていただきました。
オルガンはオルガニストの方が、歌もソプラノで
一人で歌われて パイプオルガンの音は良かったのですが
箕面でいつも歌うテンポとリズムなどが違って少し
とまどいました。
終わってからは 披露宴会場にすぐに行くため
ゆっくりとお話ができませんでしたが、
御別れのとき、神父様が
「人生は楽しむものですよ ふふふっ」
というお言葉が印象に残りました。
披露宴会場は、北野にあるガーデンレストラン
とっても素敵なところでした♪
美しい花嫁さんと花婿さんの幸せをお祈りします
2009-07-30 11:20
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キリスト教 カトリック /
おつるの日常 |
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チャンネル桜のページに大阪ウイグルデモの写真が
のっていました。
愛媛から参加された チャンネル桜 愛媛支部長の
田中様が写真を提供して下さったのです
有難うございました。
http://www.ch-sakura.jp/1045.html
クリックすると拡大して見れます↓
以前もご紹介しましたが
こちらのニコ動には
チャンネル桜の司会者さんが おつるの着物を誉めてくれる
シーンが♪
これも愛媛のジャンヌダルクさんのおかげですー
チャンネル桜 JAPANデビュー 東京、大阪、名古屋・抗議行動報告
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7501042
2009-07-30 11:00
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(22) 荒木肇
『馬といっしょに戦った陸軍(馬匹改良の悲願)−上−』━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
△ごあいさつ
豪雨による被害をお見舞い申し上げます。
中国地方や九州の各地で、豪雨による災害が報道されています。被害にあわれた方々や、関係者の皆様に心よりお見舞いを申し上げます。
当地、関東では、まるで戻り梅雨のような気配です。いつ、明るい青空が戻るのでしょうか。もっとも、暑くなったら暑くなったで、我慢のない私は不平ばかり言うのでしょうが。
▼心配なのはNHKの「坂の上の雲」
「自虐史観」を学校史観とでもいいましょうか。学校では、少し前まで、熱心に唯物史観に裏づけされた「学問的歴史」を教えるのが主流になっていました。
わが国は悪玉の帝国主義国であって、祖国防衛戦争をおこなった中国とソ連は正しいといった解説がされていたのです。なかには、朝鮮戦争はアメリカと韓国の陰謀で始まったなどというウソをついていた先生までいたくらいでした。それでも、「教育効果」は意外とあがっていなかったのです。
田母神元空将の「論文発表」で溜飲を下げた方々が多くいたというのも、学校史観が浸透していなかった証拠でしょう。では、ふつう私たちは、いったいどんな歴史観をもち、時代像をもっているのでしょうか。
たぶん、それは歴史小説や、時代小説、あるいはそれらを映像化したもので構成されているのではありませんか。なかでも、NHKが放送している大河ドラマの影響は、ずいぶん大きいのではないでしょうか。
映像もますます技術が進んで、CG(コンピュータ・グラフィックス)が進化し、素晴らしい再現された景色も見ることができます。考証には高名な学者がお名前を出されています。ならば、これは正しい解釈なのだろうと誰もが信じてしまう。
また、何でも史実どおりに再現したら、その費用は大きなものになってしまうでしょう。だから、適当でいいのだという姿勢もあり得るのです。
ただ、私が心配するのは、そうした権威あるNHKが自信をもって「坂の上の雲」を放送する。ああ、また近代史について、陸海軍について、誤解されるような映像や解説が流れるのではないかと心配しています。
▼日本の馬は小さかった
「いけづき(生喰)」や「するすみ(磨墨)」という言葉をご存じでしょうか。「宇治川の先陣争い」で有名な佐々木高綱、梶原景季の愛馬です。
京都の木曾義仲軍と攻める側の源義経軍の戦いでした。どちらも当時有名だった名馬です。記録によれば、いけづきの体高は145センチメートルくらい。義経の乗馬、「青海波(せいがいは)」は同じく142センチと伝わっています。現在では、147センチ以下はポニーとされているので、当時の大馬でも、現代では小馬です。
『およそ四尺をもってふつうの小馬とし、一寸ごとにイッキ、ニキ、サンキ、ヨキと数え、五寸を中馬とし、それをこえれば丈に余るという』
というのが、江戸時代の武士の常識でした。4尺5寸なら、ざっと136センチにしか過ぎません。現代のサラブレッドの平均体高が160〜165センチですから、わが国の古来の馬はとても小さかったのです。
さて、明治の陸軍がもっとも困ったのが軍用馬でした。兵器というのは国際標準に合わせなければ意味がありません。わが国民は体格が小さいからといって、小さな小銃や、軽い大砲を造れるわけもない。造ったところで射程が短く、威力も小さなものになってしまう。外敵と戦うための軍隊は、世界標準の武器をもつしかなかったのです。
ナポレオンが欧州を席巻し、ロシアに攻め入っていた頃、わが国にはどのような馬がいたのでしょうか。まず、小型馬です。体高は1メートルから1メートル20センチあまり、奄美・琉球馬が典型でした。そして、中型馬と言われる木曽馬、対州馬、御崎馬など、体高が130センチ前後のものです。
有名な馬産地は、南部、津軽、仙台、三春の諸藩と薩摩藩でした。これらの藩は将軍家に献上する馬を選んでいました。5尺(150センチくらい)の馬も江戸時代初期にはいたといいますから、戦国武将の中には、それくらいの大馬をもつ人もいたかも知れません。でも、江戸時代も末になると、5尺の馬はめったに見られなくなったそうです。
▼明治の軍馬
徳川慶喜は1867(慶應3)年、フランスのナポレオン3世から26頭のアラブ馬を贈られました。しかし、すぐに幕府の命運は尽きてしまい、これらの馬の消息はなくなってしまいます。1871(明治4)年には、当時のフランス公使の照会で、2頭の存在が確認されました。沼津兵学寮(徳川家静岡藩の士官学校)に飼われていたのです。この血統は今も、受けつがれているとのこと。
1887(明治20)年12月、陸軍の保有馬数は5,376頭です。多数をしめたのは乗馬で3,330頭(全体の約62%)、駄馬は1,070頭(同19.9%)、砲兵用の輓馬(ばんば:当時は駕馬:がば)が976頭で(同18.1%)になりました。
この頃(86年)の軍用乗馬資格によって、乗馬になれるのは4尺7寸〜5尺(142.4〜151.5センチ)を選ぶようになっていました。ところが、実際は必要数が集まらず、4尺5寸以上もよろしいと緩和されています。
悲惨な実態は日清戦争ではっきりしました。当時の内地での馬飼育数は約150万頭。そのうち約14万7千頭から3万5千頭あまりを選び、徴発しました。出征軍馬数はおよそ2万5千頭です。
第2軍といえば、遼東半島攻略にしたがった軍ですが、上陸場では大変な騒ぎを起こしていました。九州馬は気性が荒く、はしけに多数を載せられない。南部の馬なら5頭でも6頭でもよかったが、九州馬は2頭くらいしか無理だった。噛みついたり、暴れたりでどうにもならず、大いに時間がかかってしまったといいます。また、第6師団の砲兵連隊では、馬が暴れたため、270名以上の軍人が負傷し、入院加療したという記録が残っています。
▼「馬のような格好をした猛獣」
北清事変(1900年)での、外国人が評した言葉です。「日本軍は馬のような格好をした猛獣を使っている」というものでした。ひどく日本の軍人は傷つきました。
外国軍の馬はおとなしく従順で、はしけにも60頭余りがのれる。監視兵も30人くらいですんでいる。それに対して、わが軍の徴発馬は暴れるので30頭しか積めない。監視兵も1頭に1人が必要で、暴れて喧嘩もするのでケガも覚悟しなくてはならない。
停車場でも外国軍馬はやはり落ち着いていて、1両の貨車に15頭ないし18頭を積みこんだ。監視兵も1人でよい。わが軍馬はここでも騒動を起こし、とうとう停車場司令官(外人)から、車両を壊し、能率も悪いので日本軍の馬は載せないといわれてしまった。こんな回想録が残っています。
去勢されていない牡馬の恐ろしさです。ついでに外国軍馬と日本軍馬の体格の違いをしめす資料があります。乗馬で体高の差が最大で8寸にもなった。体重も20貫あまりの違いになる。22センチも低く、70キログラム近い体重差。走っても欧米馬の259間/分に対して165間/分しかない。時速に直せば、27.8キロメートル対17.8キロメートルという差がありました。
砲兵の輓馬の差にいたっては、もう絶望的としかいいようがありません。1894(明治27)年の調査ですが、体高で143センチ(日)、161.2(独)、156.7(仏)という資料があります。これでは、輓曳力(ばんえいりょく:けん引する力)にも差がでます。体重に対しての相当する重量が328.9キログラム(日)に対して独仏ともに478.9キロです。そして、わが国の実際に馬に要求する輓曳量は414キログラムであり、ドイツは373.9キログラム、フランスは399キログラムとなっています。独仏両国の馬にはゆとりがある。わが軍馬には過重な負担がかかっているということです。
▼日露戦争の野砲と軍馬
日清戦争から日露戦争までの10年間で、総馬数の中の和種馬の比率は99%から93%になりました。わずか6%の向上でした。育成補充馬という陸軍のお墨付きでも、平均体高は147.6センチにしかすぎません。
さまざまな外国人の観察記録があります。
『日本の馬は騎兵用としては遜色があるが、乗馬歩兵用としては軽捷にしてあえて不可ではない。ただし、輓馬は改良を必要とする。ロシアの鹵獲砲を、ロシア馬は6頭で軽々とひくが、日本馬は8頭でも不可能なことが多い』
これでは、野砲を十分な重さで造るわけにはいきません。司馬氏は「坂の上の雲」の中で、陸軍の軍人の通弊として、「世界標準に合わせず、これぐらいでいいだろう」という気質があった。野砲の射程が短かったのも、戦車の装甲がうすかったのも、みんなこの性質のせいだと書いています。これは当時の懸命だった軍人たちへの侮辱以外の何物でもありません。
31年式速射野砲は、口径7.5センチメートル、最大射程6,200メートル、重量は砲車で908キログラム、発射装薬は523グラムでした。
ロシアの1900年式は口径が76.2ミリとやや大きく、重量は砲車1,020キログラムです。発射装薬は840グラムであり、最大射程は8,750メートルとずいぶん差がありました。110キログラムあまりの重さの差は各部の強度の違いです。装薬でも300グラム以上の違いがあり、それも重量の差によるものでした。
砲の設計者たちは、いつも馬格の違いを考えなければなりませんでした。もともと、重量の上限は決められていたのです。
さらに当時の軍馬の実態は次のようなものでした。まず、馬格が不揃いで小さい。体格が不揃いの馬を同じように使うと小さい馬から失われていく。速く走ることができない。性質や稟性がさまざまで、管理上、たいへん困難だった。そんなことが公式記録に残っています。
▼世界大戦と軍馬
参加各国は馬を大動員しました。総馬数は約600万頭といわれます。戦車が発明され、輸送用の自動車が発達し、機械化が進んだのが世界大戦だった。だから、馬の役割は低下したのではないかと考える人がいます。ところが、実際は、まったく逆で、戦後も馬の重要性を疑う軍人はいませんでした。騎兵だって、飛行機が飛べない夜間や、悪天候の下では捜索、警戒、偵察、連絡などの任務を果たしていました。
1931(昭和6)年の満洲事変のときのことでした。ある外国軍人の意見が、わが国の馬に関する雑誌に載っています。満洲事変で日本軍は兵員が2倍になるとき、馬の動員量は5倍になった。これからも戦時には馬が必要になる。われわれも油断してはならないという主旨のものでした。
第2次大戦でも、豊富なガソリンと補給力を頼りに自動車だけで参戦したのは、アメリカと、その援助を受けたイギリスだけでした。そのイギリスも、決して全世界で自動車だけで戦ったわけではなく、アジアの戦場では馬とラバを使っていました。
陸軍は決して手をこまねいていたわけではありません。1906(明治39)年から「馬政第1次計画」の第1期18年を実施していました。これが大成功をもたらします。国内の総馬数の7割近くの馬に血液昂進(こうしん:優良な種牡馬の血で改良されること、ここでは和種ではなく西洋系の馬の血)をもたらしました。1924(大正13)年4月からは、第2期が始まります。12年間の計画です。
武市銀治郎氏(元防大教授)によれば、12年間というのは意味のある数字でした。第1年に種付けをし、2年目に生まれた馬が種付けをできるまでに成長するのに4年かかる。つまり繁殖成績は7年目に判明する。さらに第2代生産馬の種付けによって生まれたものの繁殖成績は第12年目に分かる。馬の2世代にわたって血液の昂進を確認し、種類固定の状況をみるには12年間がかかるというのです。
世界大戦研究によって、戦時の馬の重要性を大きく感じた軍は、戦時150万頭を確保する政策をとりました。現在では、馬の生産地といえば誰しも北海道を思い浮かべることでしょう。でも、その基礎は日露戦争後のこの馬政計画のおかげで築かれたものでした。しかも第2期では、それまでのように西洋馬を輸入すればよいという考えではなく、混血によってわが国の各地の気候風土に適応した体格がよく、持久力に富んだ馬を育てるという方針が大切にされました。
1932(昭和7)年の地方馬一斉調査による、全国の種牝馬32万頭あまりを分類した結果があります。アラブ系が8.7%、サラブレッド系7.2%、アングロノルマン・ハクニー系24.2%、ペルシュロン系21.6%となっています。
さらに体高も大きく改良されました。民有牝馬でも145.4〜157.6センチメートルの馬がどんどん増えてきていたのです。維新以来、60年あまり、ようやっと軍馬の体格は欧米馬に追いつくようになってきました。
▼支那事変に出動する軍馬
1937(昭和12)年、支那事変が始まると、ただちに軍馬も動員されました。準備も十分、出征兵員の数との比率も、勃発後1年間で26.6%にもおよびます。
しかし、まだ問題点は残っていました。それは馬の訓練です。集団馴致(じゅんち)訓練などといいますが、隊伍を組み、砲銃声にもおびえず、軍馬独特の行動をとることの訓練でした。
1932(昭和7)年のことです。新潟県高田市の独立山砲兵第1連隊に上海事変への出動命令が下りました。編制では平時には駄馬が250頭しかいない部隊です。山砲は1門あたり10頭の馬に載せて運びます。動員された地方馬は、およそ3,000頭が集まりました。
動員完結をすると、指揮官が隊容検査(たいようけんさ:部隊の戦備がどうかを見る)を行いました。連隊長に敬礼するために、乗馬の将校たちや下士官が軍刀を抜いたときでした。白刃の輝きに驚いた馬がいて、暴れ始めたのです。ケガをした人や馬もいました。
また、鉄道の駅に向かう途中、市民の歓呼の声に驚き、興奮した馬。列車におびえて乗車しようとしない馬が続出。とうとう出発を遅らせるといった事態をまねきました。この教訓から、陸軍は徴発した馬はそのままでは使えない。せめて3カ月の訓練をしなくてはならないだろうと結論づけられました。
それでは、次回は日華事変でわかったこと、さらに改良を続けた苦労をお知らせします。
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◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。
◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
2009-07-30 10:19
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戦争 |
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(21) 荒木肇
『人と馬で戦った日露戦争』━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
▼「徒歩」砲兵連隊
クルップ(克)式15糎(センチ)榴弾砲という輸入砲がありました。
1898(明治31)年にドイツのクルップ社に発注したものです。ロシアと戦いが起こるかも知れない。そのときは再び遼東半島で要塞を攻めることになるだろう。そのための装備です。当時では最新式の攻城砲でした。
1904(明治37)年10月に到着します。18門を買い入れました。旅順要塞の攻撃に参加し、徒歩砲兵第1連隊に1個大隊(16門)があったといいます。その「徒歩」という言葉にひっかかりませんか。
当時の軍隊編制では、野砲連隊、山砲連隊、要塞砲兵大隊などの部隊がありましたが、「徒歩」とはなんだったのでしょう。
克式15センチ榴弾砲とは、口径が149.1ミリ、重さが約36キログラムの弾丸を撃ちだす大型砲です。放列砲車重量は、実に2,090キログラムもありました。馬4頭でひく31式速射野砲は同じく908キログラムですから、ざっと2倍強になります。
のちに、この砲を改良した4年式15榴弾砲は2つに分解され、砲身車、砲架車をそれぞれ輓馬(ばんば)6頭ずつで運びました。
この克式は砲車を32人、砲身を10人、砲架前車を16人で曳いたそうです。つまり、徒歩とは、移動手段が人力によるものだったということでしょう。
1個中隊は4門でした。合計232人もの人々が砲にとりつきました。それに観測通信機材、工作材料や器材、砲床(ほうしょう:砲を据えつける基礎)材料などを運ばねばなりません。そのためには輜重車(荷車です)31台がありました。これは1台あたり4人で曳きますから合計124人。
中隊4門であわせて356人が、えんや、こらやと、引き綱を肩にかけ、胸にだき、腕にまき、動かしていったのでした。大隊全部で1,424人が16門の大砲と124台の荷車にとりついて、列をつくって揚陸場から陣地まで悪路を乗りこえていったのです。
▼集めた馬の素質も問題だった
小説でも、映画でも、こうしたシーンは滅多に見られません。そして、馬のことも正確には描ききれていないのです。平時の陸軍はおよそ31,000頭の馬を飼っていました(1904年1月)。それが戦時の最大数は172,000頭にのぼったのです。
平時の軍隊では乗馬数がもっとも多く21,000頭(69.3%)になり、砲兵隊の輓馬(ばんば:車をひく)、駄馬(だば:荷を背に載せて運ぶ)がそれに次ぎ(24.8%)、続いて輜重輓馬、駄馬(5.9%)の順になります。
戦時になると輜重馬が全体の50.1%、86,000頭になり、平時の47倍にも増えました。こうした輜重用の馬はどこから集められたのでしょうか?
もちろん、戦地での購入、つまり中国産馬も、ロシア軍からの鹵獲もありましたが、主力になったのは内地で農家が飼っていた馬だったのでした
徴発、購入によって陸軍が内地から集めた馬の数はおよそ166,000頭にのぼりました。特徴的なことは北海道、東北、関東、九州にかたよっていることです。
東北と北海道はあわせて38,000頭、関東では65,000頭、九州からは28,000頭が送り出されました。これを全体の中の割合でいえば79%にあたります。特に関東地方では、全飼育頭数の28.2%が軍用になり、民間の運送用馬、農耕馬はひどく不足したことでしょう。
集めた側の軍隊にとっては、馬の素質も問題になりました。
まず、民間の馬は、当時、ほとんど乗馬の訓練を受けたものはありません。まして、砲兵用の輓馬(駟馬:しば:四頭立ての馬車をひく馬)の訓練を受けた馬など皆無だったといっていいのです。当時の31式速射野砲は4頭(2列に並んで前馬、後馬という。右側を服馬、左側を参馬といい馭兵は服馬に乗りました)で、砲車(2輪)と前車(2輪)を連結した4輪のトレーラーをひきました。民間では4頭立ての馬車など見られることは、まずありませんでした。
イギリス人の従軍記者の本国への報告によれば、
『日本野砲の行動が活発ではないのは、輓馬が不良だからだ。ある日は1個師団が行動するのにわずか13門の野砲しか随伴できなかった。これも輓馬の体格が小さく、調教もよくないので、山地での行動がとても遅かったからだ。これは、いくら日本野砲兵の訓練がよくできていても、馬そのものの欠点を補うことはできない』
とあります。
そして、乗馬についても、『日本騎兵の乗馬は、やはり体力が無く、調教が不備であり、騎兵の乗馬術もひどくつたない。その装具もよろしくない。乗馬の大部分は去勢されていないので、喧嘩ばかりしている』と本国に送信されています。
北清事変(1900年)といえば、当時の先進8ヵ国の軍隊がそろった戦場でした。そこでも、日本の軍馬が、『まるでポニーだ』といわれ、『家畜ではなく猛獣だ』と西欧人から評価されていました。それからわずか4年では、馬の改良などとてもできなかったのです。
こうした実態を知らず、華やかな戦闘シーン、悲惨な旅順攻撃ばかりを描く日露戦争の物語。あるいは、陸軍を非難するさまざまな言説、誤解の数々を思うと、歴史を学ぶ大切さ(唯物史観の歴史学を知ることではない)をあらためて考えてしまいます。
有名な秋山騎兵旅団の健闘のかげには、こうした馬にまつわる悲哀もたくさんあったことでしょう。28センチ榴弾砲の活躍の裏には、人と馬が、汗と血と涙をもって資材や糧食、弾薬を運んだ事実があることを知れば、より、先人の苦労を感じることができるのではないでしょうか。
▼野戦師団の構成と輜重兵大隊
それでは、輸送の話、当時の輜重兵部隊のことをお話しします。
平時の師団が動員をする。予備、後備の軍人が召集を受けました。それが、どれだけの規模になるかを書いてみます。数字が増えますが、ごようしゃください。
1個師団が戦時編制をとると、野戦師団、野戦電信隊、兵站諸部隊が動員されます。
「野戦」師団というのは、「留守(るす)」師団も動員されるからです。野戦師団というのは、実際に戦地に出征する師団、留守師団というのは、出征師団の補充をする部隊といっていいでしょう。留守師団長とポストも親任官(天皇陛下から直に任命される)で中将です。この他、後備諸部隊、補助輸卒隊、戦時特設部隊なども編成されます。
野戦師団は山砲装備、野砲装備によって多少人員数が変わりました。ここでは、山砲編成(野砲連隊より人員数は大きい)の砲兵連隊をもっていた四国の第11師団を例にとります。
戦力の中心になる歩兵4個連隊は、それぞれ2,919人(平時は1,200名あまり)。したがって2個旅団で司令部要員もいれて、11,714人。これに特科隊といわれた砲・工・騎・輜重の各部隊です。
騎兵連隊566(以後、人をはぶきます)、砲兵連隊1,724、工兵大隊788、架橋縦列(がきょう・じゅうれつ:渡河用の機材や資材を運ぶ)344、弾薬大隊864、輜重兵大隊1,457、同大隊に付属する馬廠(ばしょう)112、衛生隊487、野戦病院406(歩兵1個連隊ごとにつくので、計4つ)、これらを指揮する師団司令部227人を合わせれば18,689人となります。ちなみに、「架橋」は陸軍、陸自では「がきょう」と濁って発音します。
輜重兵大隊の規模の大きさがおわかりでしょうか。馬廠の人員をいれて1,569名です。大隊だけの人員は、輜重兵将校以下1,406名と各部士官・下士・兵卒の合計51名。
この階級構成をご紹介しましょう。将校・准士官が14名(0.96%)、各部将校・准士官相当官(獣医官や軍医官、経理官)は13名(0.89%)、同じく下士は47名(3.22%)、上等兵と1・2等卒は112名(7.68%)にしかすぎません。
残りの大多数1,246名(85.52%)を占めたのは輜重輸卒(しちょうゆそつ:上等兵や1等卒にはなりません)でした。他に従卒、馬卒という25名がいます。従卒とは戦闘配置がなく、士官たちの身の回りの世話をします。馬卒も乗馬の面倒を見ました。上長官(佐官と相当官)は全員が乗馬しましたし、砲兵隊の中隊長も乗馬本分でした。
馬廠というのは、輜重馬の管理に当たります。廠長の将校以下、57名の歩・騎・砲・工兵科下士兵卒がいて、輜重兵は下士1名と兵卒3名で輸卒44名を指揮し、各部将校相当官(獣医官と思われます)と下士が1名ずついました。
野戦電信隊というのは、当時、通信兵という職種はなく、師団司令部から連・大隊の本部への通信系統を建設・維持管理する部隊です。定員は192名です。
さらに兵站諸部隊になります。兵站監部員65、兵站司令部83、野戦兵器廠56、兵站弾薬縦列143、兵站糧食縦列361、輜重監視隊165、衛生予備員161、衛生予備廠62、患者輸送部21、予備馬廠108、合計1,225名になりました。
▼輜重兵大隊の構成
輜重兵大隊は平時には大隊本部と2個中隊で構成されていました。
現役兵の数も少ないものでした。1912(明治45)年の数字でも入営したのは1,836名にしかすぎません。その年度の現役兵103,784名の中では約1.76%にしかあたらないのです(100人のうち2人)。
歩兵の69,137名と比べれば、ざっと38分の1になります。ふつうに少ないと思われている騎兵ですら4,114人ですから、現役輜重兵は希少価値がありました。輜重兵の定色である藍色の肩章をつけ、2等卒でも騎兵刀(サーベル型)を腰につり、拍車のついた乗馬長靴をはき、騎兵銃をせおった兵隊はめずらしかったのです。
輜重輸卒は15,492名と入営兵全体の14.92%を占めました。また、すぐに入営する現役兵ではなく、輸卒の補充兵に指定された者は63,012名になり、補充兵籍に入った者153,080名の中では全体の41.16%になったのです。
輜重兵は3年間の現役生活を送りましたが、輸卒は3カ月で帰郷できました。だから、輜重兵大隊には年間に4回の入営がありました。輜重兵の教育訓練は、騎兵と同じように乗馬戦闘や小銃射撃がうるさく言われ、その他、指揮法なども教えられます。輸送計画書の作成なども輜重兵の仕事であり、輜重そのものは軽視されても、輜重兵がバカにされたことはなかったようです。ただし、華やかな戦闘兵科でないために、「ミソ」といわれ、陸士では誰を選ぶか区隊長は悩んだようでした。
『輜重の上等兵は他兵科の軍曹、輜重の軍曹は同じく少尉』と言われたのも、指揮下の人員数から考えるとうなずける話です。
師団が動員され、戦時体制にはいると、輜重兵大隊の編制もかわりました。以下は、日清戦争当時から日露戦争勃発時の編制です。
大隊本部と、駄載(ださい)中隊が2〜3個、輓曳(ばんえい)中隊も2〜3個、合計4〜6個の中隊に増えます。なお、この頃の輜重兵大隊は食糧を運ぶ「糧食縦列(たぶん、英語ではトレインとされるので、縦列と直訳したのではと私は考えています)」の編制だけで、弾薬は師団直轄の弾薬大隊の「弾薬縦列」の担当になっていました。
駄載には「33式輜重駄馬具」、輓曳には「36式1馬曳2輪輜重車」が使われました。輜重駄馬具は「駄鞍(だあん)」といわれたもので、25貫(93.75キログラム)を載せました。輜重車のほうは、大八車(だいはちぐるま:主に関東以北で使われた2輪の荷車)です。馬でひけなくなったら、「引綱(ひきづな)」といわれたロープで4人がひきました。積載重量は50貫(187.5キロ)でした。
▼大行李と小行李
行李(こうり)というと、私たち50代の人間は、なつかしい思い出があります。柳で編んだような直方体の大きな箱です。押し入れに入っていて、引っ越しなどでは、現在の段ボールの箱のような役目をしました。
陸軍では、1973(明治6)年に初めて行李という言葉が登場します。
『戦闘中必需ノ物品』を運ぶものを小行李。『宿営地ニ於テ要スル所ノ物品』を大行李とするとあります。小行李は『軍隊ニ直従セシメ』、大行李ハ『ヤヤ離隔シテソノ後方ニ隋(したが)ハシム』と規定されていました。
1886(明治19)年の編制案をみると、
「歩兵大隊小行李は衛生駄馬3頭、弾薬駄馬16頭、同大行李は将校荷物駄馬7頭、炊事具駄馬8頭、糧秣(りょうまつ)駄馬12頭」
とあります。
兵站輸送部隊の中心となったのは各師団におかれた兵站縦列1個です。これは軍直轄の輸送部隊で、後方にあった兵站倉庫と師団物資集積所の糧秣輸送をおこないました。3個おかれた輜重監視隊とは、将校以下50名の乗馬部隊で輜重縦列を統括し、管理し、護衛する部隊でした。
1891(明治24)年の「野外要務令」によると、歩兵大隊大行李編制は、荷物駄馬9頭、炊事具駄馬8頭、糧秣駄馬13頭、予備駄馬2頭と増強されています。また、糧食に規定がありました。「脚気」にも関係する資料です。
尋常糧秣として兵員1人あたり精米6合(900グラム)、塩ないし梅干し、魚菜若干。携帯糧秣として、1日分3合とした「糒(ほしいい)」2日分、及び塩若干。状況により、糒の代わりに「乾麺麭(かんめんぽう:乾パンのこと)」ないし精米。糒とは炊きあがった米を乾燥させたもので、湯や水にひたして食べました。
乾麺麭の起こりは銀座「風月堂」が最初に納入した小型ビスケットでした。水が手に入れにくい大陸や朝鮮半島では、糒では食べにくいだろうと考えられたからです。のちに改良されて95(明治28)年には「重焼麺麭(じゅうしょうめんぽう)」という名称で採用されました。
尋常糧秣とは、炊事具を使って調理して支給する平時の部隊給食の延長線上にある食事です。握り飯と梅干し、塩だけで味付けした白米。魚菜は若干ですから、現地の入手状況にも左右され、ほとんどなかったといっていいでしょう。まさに典型的な「ビタミン欠乏食」としかいいようがありません。
さらに注目すべきは、実際に食料を運ぶ「糧秣駄馬」の編制には、駄馬13頭を主食駄馬8頭、副食駄馬3頭、馬糧駄馬2頭と分類指定していることです。つまり、13頭の馬を使うには、そのうち2頭が、馬のためだけの食料を運ばねばならないといった実態でした。
現代のガソリンを運ぶタンクローリーも自分のための燃料を運ぶ。そうした常識が「馬の時代」にも適用されるといった当たり前のことにしかすぎませんが、私たちが馬を友にしなくなって半世紀たちました。17万頭もの「物言わぬ戦友たち」との暮らしの常識が失われると、100年前のいくさの実態も分かりにくくなるということです。
▼日露戦前の改訂
日清戦争の戦訓をとりいれて、「明治33年式野外要務令」が出されます。歩兵大隊大行李の編制も次のようになります。
荷物駄馬9頭、炊事具駄馬10頭、糧秣駄馬16頭、予備蹄鉄駄馬1頭、予備駄馬2頭、合計38頭の大勢力になりました。
前に述べた駄載、輓曳の2種類ではおぼつかない。増強ということで、第12師団(小倉)の第12輜重兵大隊の駄馬編制以外の各師団輜重兵大隊はいっせいに変わります。すべて、36式1馬曳2輪輜重車による輓馬編成になりました。
大隊人員1,570名。本部に13人、馬匹7頭、第1から第4までの糧食縦列はそれぞれ361人、馬匹275頭、車両233となり、これに人員113名、馬匹97頭、車両35の馬廠がつきました。糧秣縦列は、半縦列2個で構成され、それぞれ3個小隊編制。1縦列で1個師団、1日分の糧秣を輸送します。
▼物資の流れと糧食の実態
師団輜重には、前記の「輜重兵大隊」、「弾薬大隊」、「衛生隊」、「野戦病院」、「架橋縦列」の5つの部隊がありました。戦時においての物資の輸送系統を調べてみます。
兵站の輸送部隊が、揚陸場から師団ごとの集積所に物資を運びます。輜重兵大隊の糧秣縦列がそれを受け取り、各連隊・大隊の「物資交付所」に運びました。交付所に出向くのは、各大隊の大隊本部にある「大行李」です。こうして、大隊から中隊へ、そして最前線へと糧食は運ばれていったのでした。
さて、脚気の原因になった糧食の実態をみてみましょう。『戦役統計』にはそれが書かれています。主食は「磨搾米(まさいまい)及ビ精米」と「大麦」です。2斗(36リットル)入りの二重の叺(かます:古代は蒲簀、わらむしろを二つ折りにして縁を縫いとった袋)に入っていました。重量は30キログラムくらいでした。副食は「牛肉缶詰」です。個人用の40匁(もんめ)入りと、部隊携行用の160匁入りの2種がありました。150グラムと600グラム入りです。乾燥食材は「塩干魚肉」、「乾物野菜」、「かつお節」があります。乾物野菜とは、主に切り干し大根と乾燥昆布が混ぜられていたのです。漬け物の「福神漬」は樽づめ以外にも缶入りがありました。
栄養学から見ると、米の構成は「胚芽(はいが)」、「ぬか層」、「胚乳(はいにゅう)」からできています。玄米では胚芽が2%、ぬか層が6%で胚乳が92%を占めています。私たちがふだん食べている、当時の陸軍兵が食べていたのは精白米です。胚乳を食べているのです。
ビタミンB1が豊富なのは玄米飯で100グラムあたり0.16ミリグラムです。これに対して白米(精米)飯では、同じく0.03ミリグラムに低下します。1日6合、900グラムの白米では、理想的な条件下でも0.27ミリグラムしか摂れません。ただし、玄米飯はおいしくないし、調理に時間がかかり、ぬか層には不消化性繊維が多いので消化吸収が悪いのです。
戦地での献立の実態を示す資料があります。1905(明治38)年3月の歩兵第7連隊の食事です。塹壕の中で奉天会戦直前の状況ですから、ふだんとは言えませんが、戦闘時のある典型だと思われます。
1日「携帯口糧」、2日「大行李の炊事班から握り飯と漬け物」、3日「朝は鱒缶詰、昼福神漬け、夜牛肉缶詰」、4日「携帯口糧」、5日「朝牛肉缶詰、昼福神漬け、夜牛肉缶詰」、6日、7日は記録なし。これはおそらく乾麺麭と氷砂糖。8日は梅干し、牛缶、白菜、鶏肉とあります。あとは、白米でしょう。
『特務曹長日誌』(1904年7月、稲垣光太郎著)にも、支給品の記録があります。これは近代史学者大濱徹也氏が古書店から買われたノートです。近衛野戦兵器廠に応召した特務曹長の個人記録でした。その中に、8月11日の日付で次のような記載があります。
『午前11時滝沢ヲシテ11日夕食ヨリ14日昼食迄3日分将校以下39名(当廠員14、衛兵15、外倉庫衛兵10名)分ノ前ノ倉庫ヨリ、左記ノ品目ノ通リ受領セシメタリ。
精米7斗2合、牛缶3メ百目、エキス585匁、福神漬1メ170匁、茶117匁、乾物2メ340匁、砂糖351匁』
「メ」はおそらく「貫目」を省略したものでしょう。9回の食事で、7斗2合は70.2升にあたりますから1回あたり7.8升が炊かれて39人で分ければ1人2合。やはり、毎食300グラムの白米です。牛缶詰は11.625キログラム、これも1人あたりおよそ300グラム。乾物とありますが、切り干し大根、約8.8キログラム。1人あたり230グラムほど。
エキスというのは醤油の半生状のもので、水に溶いて使われました。生鮮食品は支給品目にはまったくありません。585匁は2キロ少しにあたりますから、1人あたりで56グラムです。
8月8日の記録には、3日分として、粉ミソ1人あたり5匁(18.75グラム)、乾物として大根の切り干し、同じく20匁とあり、塩乾物として鰯の干しか(乾燥イワシ)30匁(112.5グラム)などがあります。
『この日は衛兵から、副食おかずの不足を訴えてきたので、衛兵の上等兵を呼びつけて、おおいにその不心得を責めて、いましめておいた(現代語訳)』
という記録もあります。
▼日本苦力兵(りーぺん・くーりーぴん)の悲哀
輸卒という制度はのちに輜重兵だけになりましたが、砲兵科にも助卒、輸卒がおりました。助卒は要塞砲兵に属して、砲弾や信管の輸送にあたりました。砲兵輸卒は野戦部隊の弾薬・信管等の輸送にあたった人たちです。いずれも等級はいつまでも2等卒相当のままでした。1904(明治37)年の現役兵として入営した人たちの数字をみてみます。
歩兵が51,028、騎兵3,515、砲兵8,856、工兵3,141、輜重兵1,356に対して、砲兵助卒918、同輸卒2,286、輜重輸卒6,560、看護卒520となりました。砲兵助卒と同輸卒、輜重輸卒の合計は9,764名。現役入営兵78,180の中では12.5%を占めます。
日露戦争で戦地に勤務した兵卒のうち、輜重兵は約26万人で全兵科の中では30.92%を占めました。輜重輸卒は戦列隊(戦闘部隊)大行李・諸縦列、兵站諸部隊要員をふくめて252,399人でした。では、動員されて出征した輜重輸卒はどんな人たちだったでしょうか。
のちに旅団長になった中島銑之助歩兵大尉、当時は第1軍兵站監部参謀は、その後、偕行社発行の『戦陣叢話』の中で次のように語っています。要約したものです。
『第1軍の兵站業務中、これほど無鉄砲なものはなかった。中央部の計画では400人、150両くらいの民間仕様の荷車2隊で1師団分の糧秣に、自己用の分まで載せようというものだった。それが悪路、泥濘のために計画の三分の一しかできなかった。また、車両もすぐに壊れ、修理用の材料もなく、車輪用の油さえなかった。輸卒たちの苦心努力はひどいもので、宿営地に到着しても炊飯する元気すらなく、生米をかじりつつ前進した。中にはこのような苦痛を続けるより、むしろ死にたいと口にする者さえいたのである』
さらに鴨緑江をこえた後には、
『支那馬車さえ行けない道を進んだ。日に数十回も川をわたり水虫に冒され、あるいは栄養不良、疲労のため、夜盲症になった輸卒が多かった。上陸以来、300名の輸卒中、わずか3ヶ月で健在な者わずか10名になっていた。……輸卒の被服は日々の労働のため、修理不可能になるまで大破し、ぼとんど裸体同然にして、素足のまま、目もあてられず、支那人は彼らを「苦力兵=くーりーぴん」とまで呼んだ』
とあります。
新聞社の特派員は、次のようにも書いています。
補助輸卒隊の隊員は、もともと第2補充兵で体格も良くない。職業も文士、医師、僧侶、富豪の子弟、いわゆる箸より重い物をもったことがない人たちである。かえって学校教育をたくさん受けたがために、体格が悪くなり、ここにいる者が多い。そうでなくとも、これまで全く軍隊教育など受けたことが無い。そんな人たちがここ韓国で厳しい自然の中でもっとも悲惨な任務を与えられている。
ここにも当時の陸軍の近代志向、民主的な仕組みがみえてきます。まさにデモクラティックそのものがありました。医師だろうが、僧侶だろうが、学校歴があろうが、容赦しない。家柄の良い者もたくさんいたといいます。
体格が劣るので、輜重兵の第2補充兵にしてしまう。その個人の技能や、適性、職歴、学歴も関係ない。徴兵検査は「役種の決定」をするシステムです。彼らにもチャンスは十分に(制度的には)与えられていました。徴兵検査のときに1年志願兵に応募すればよかったのです。そうすれば、彼らにもちがった階級と場所が与えられたことでしょう。
第1補充兵なら、兵站部隊や戦列隊の行李などに配属されて、少しはましだったかも知れません。あるいは現役の輜重輸卒なら、入営とひき換えに、もっとましな配置だったかもしれません。
いずれであれ、こうした人々の偉大な犠牲のかげで得た戦勝を忘れてはならないと思うのです。
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◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。
◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
2009-07-30 09:17
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(20) 荒木肇
『森鴎外は脚気(かっけ)蔓延の戦犯か?』−下−━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
▼鴎外、高木海軍軍医総監を名指しで非難する
1888(明治21)年9月、留学中に1等軍医(大尉相当官)に進級していた鴎外は帰国しました。26歳でしたが、欧州の最新知識をもって帰ってきた新帰朝者です。2カ月後、鴎外は大日本私立衛生会で講演を行います。
その演題は『非日本食論ハ将(まさ)ニ其(その)根拠ヲ失ハントス』というものでした。
要点は、日本食は決してタンパク質が絶対的に少ないというものではないということでした。西洋の学者たちの研究を基にした堂々たる論述です。しかし、その世界的権威者たちの発表には、どうにもならない欠陥がありました。それは、実験方法が間違っていたことと、和食を研究対象にはしたものの、美食でありすぎたのです。ごくふつうの日本人の食事のタンパク量をはかったものではなかったのです。
しかも、ここで鴎外は大失敗をします。高木兼寛を名指しで非難してしまったのです。高木はこの頃、少将相当官たる海軍軍医総監でした(明治18年、38歳で昇任)。
その高木総監を『「ローストビーフ」ニ飽クコトヲ知ラザル英吉利流ノ偏屈学者』と、軍にとっては部外の医学会で広言してしまいます。
どうしてそこまで言わなくてはならないのか。不思議ですね。これは鴎外の性癖にも関係があるのではないでしょうか。鴎外は、ただひたすらタンパク質の多少を問題にしている海軍軍医たちのことが気に入らなかったのでしょう。
この講演では、脚気については、何もふれていません。鴎外は、脚気は伝染病であろうとも考えていたでしょうし、自分の持ち帰った最新の栄養学を誇りたかったのかも知れません。
鴎外の語った「日本食はいい、米飯に問題はない」というのは、決して間違いではないのです。現に最近の日本食ブームを見ると、とても正しい。副食がバラエティに富み、山海の珍味をそろえた和食は健康にとてもいいのです。
よく、外国へ行くと愛国者になってしまうとも言われますが、鴎外もその1人だったと考えたらどうでしょう。日本食には欠陥がある、ローストビーフやハムを食べさせればもっと日本人は健康になる、欧米人に負けない強い体力が養えるという海軍軍医団の姿勢に許せないものを感じていたのではないか。そんな風に思えます。
軍医総監だった石黒忠悳にとっては、どうだったのでしょう。実は、鴎外がそんな演説をした背景には、石黒総監の差し金があったのでは……という推理をする研究者もいます。
現場の部隊では麦飯を食べさせることで脚気を撲滅できました。麦食は江戸時代以来の民間療法でした。漢方医の経験から生まれた智恵であることは広く知られていました。そうすると、伝染病だという立場で、さまざまな対策をとってきた衛生部のメンツはどうなるか。ここは、一番、新知識である森1等軍医を使おうと考えたのでしょう。
▼陸軍衛生部、野戦体制に入る
日清戦争(1894〜1895)については、別の機会にゆずることにします。ここでは、鴎外と軍の衛生対策についてだけお話ししましょう。
1894(明治27)年6月10日、陸軍衛生部は「戦時衛生勤務令」によって編成を変えます。
世間で知られていないのが、当時の陸軍将校や相当官たちには平時職と戦時のそれがあることです。このことは、戦後の軍隊研究が軍制に関心をもたなくなったことに第1の原因があります。第2には、軍隊に行ったことがある人が自分の体験した戦時の軍隊をそれがふつうであると語ってきたからでしょう。まさに昔の「あたりまえ」は、なかなか伝わらない。常識であるだけに、誰も記録しないからです。
戦後のさまざまな軍隊観は、まさに、戦時の、軍隊としても異常体制を元にしてできあがっています。大東亜戦争のさなかに予備士官学校などへ入った人たちの多くは、ご自分の戦時職しか知りません。彼らに平時職は、めったになかったのです。
平時にあって、戦時職は戦時の予定職です。平時には補職がない予備後備の将校、同相当官にも戦時予定職があります。予備後備の軍人は、いつでも所在を明らかにして、14日以上の旅行をするにも届けが必要だったのです。動員がかかったら、ただちに指定された部隊に出頭しなければならないからです。
ただ、現役の軍人にとっては、戦時職と平時職は同じであることが多かったようです。たとえば、歩兵連隊の連隊附中佐が、後備歩兵連隊長になるといったような場合は、明らかに異なっています。このように戦時に特設される部隊、軍などの要員は動員計画によってあらかじめ決められていました。そして、戦時職に就いても平時職の身分はそのままです。
戦時命課(せんじめいか)による補職は公示されません。復員すると平時職に戻りました。これだから研究者は振りまわされます。「官報」だけを見ていると間違います。
ある学者の論文を読んだときに、明らかに1人の高級将校の経歴が一部抜けていました。戦時の補職が書かれていません。そのため、『実戦経験がないような秀才軍人が……』と誤った批判がされていました。『実役停年名簿(じつえきていねんめいぼ)』を確認すれば、その将官が若い頃には血みどろの実戦経験をもっていることが分かります。
さて、陸軍衛生部の戦時編制です。トップを野戦衛生長官とします。その隷下系統は2つに分かれます。
1つは軍隊づきです。ここでいう軍隊とは、軍衙(ぐんが:ふつうでいう役所のこと)、特務機関(元帥府など)、学校といった軍内部の分け方に従っています。軍隊は大から小へ、軍→師団→旅団→連隊→大隊→中隊→小隊→分隊という順になっていました。
軍軍医部長、その下には各師団軍医部長です。師団軍医部長の隷下には隊属衛生部、衛生隊、野戦病院があります。隊属衛生部とは連隊、大隊、中隊ごとの軍医や看護長(下士)、看護兵卒のことをいいました。衛生隊とは言葉のイメージとはちがって、兵科将校に率いられ、戦場の負傷者などの救助や後送にあたる患者輸送隊などを指します。野戦病院というのも、永久的なものではなく、病院長たる軍医がいて、応急処置などをする部隊です。
もう1つは兵站(へいたん)軍医部長のラインでした。兵站司令部附衛生部、兵站病院、衛生予備員(戦地定立病院)、衛生予備隊、患者輸送部、鉄道輸送、水路輸送がその隷下です。兵站(ロジスティックス)とは、敵とにらみ合う前線の後ろで、人員、兵器弾薬、糧秣などの前送、管理、保管などにあたり、後方連絡線の維持機能をいいます。
面白いことに、自衛隊では「兵」や「軍」はタブーになってきました。1等兵のことを1士といったり、軍曹のかわりに陸曹といったりします。兵器といえないので武器という。ところが、「兵」站だけは兵站です。言いかえようがなかったのでしょうし、さすが、自衛隊嫌いのマスコミも、そこは突いてこなかったようです。
このとき、野戦衛生長官(戦時職)は当然のごとく、陸軍省衛生局長(平時職)だった石黒軍医総監です。第1軍軍医部長は石阪惟寛(いしざか・いかん)、第2軍軍医部長は土岐頼徳(とき・よりのり)でした。2人とも医学寮発足以来の医官です。幕末には洋学を学び、土岐は幕府医学所でも石黒とは同窓の間柄でした。
鴎外は中路兵站軍医部長になりました。中路とは釜山(プサン)から京城にいたる約400キロの道のりをいいます。在職、およそ1カ月、鴎外は新編される第2軍兵站軍医部長に戦時命課を発令されました。
第2軍は1895(明治28)年1月、遼東半島をほぼ制圧。威海衛(いかいえい:清国海軍の根拠地)を攻略、鴎外も軍の進撃にあわせて前進します。4月、鴎外の報告書に初めて「脚気」が出てきました。『患者445人アリキ……脚気患者127人』です。およそ28%にあたりました。つづいて5月の報告書には旅順口兵站病院は2月から4月初旬までで1,082人を後送し、うち脚気320人と報告しています。やはり3割にあたる率です。これまで内地の軍隊では、ほとんど脚気患者はいなかったはず。それが野戦に出たら、とたんに明治10年代に逆戻りです。
▼悲惨だった台湾平定戦と鴎外
これもまた歴史教科書にあまり書かれていないことです。1895年4月17日、日清講和条約が成立。両国で批准書が交換されたのが5月8日、国際法的に台湾はわが国の領土となりました。誤算だったのは、現地の住民や、駐屯する清国兵による抵抗でした。独立宣言をしたグループもありました。
平和進駐を予想していた近衛師団は、さっそく暴徒による攻撃を受けます。国家同士の約束なんて知らない。我々は負けたわけではないというのが反乱側の言い分です。
7月下旬、混成第4旅団が編成され出撃。1カ月かかってようやく北半分を平定。さらに第2師団が増援されて10月下旬、ようやく全土の秩序を回復できました。
ところで、鴎外は5月末に台湾に到着します。台湾総督府軍医部長になったからです。台北に勤務します。8月には「総督府條例」が公布され、軍政が行われるようになります。鴎外はこのとき、総督府軍政部軍医部長になりました。
当時の新聞、『万朝報(よろずちょうほう)』には、台湾の部隊の病気が載っています。基隆(きいるん)兵站病院長から石黒総監にあてた報告書からすると、7月11日から22日までで同病院のみでも収容患者数2,147人、死亡275人という数字です。8月の中旬には、全部隊で半数以上が病人になっていたというのが実状でした。
これについて、中央へ出した報告書を見ると、鴎外はほとんど実態を把握していないというのが山下氏の指摘です。鴎外の伝記などでも、このあたりについてはずいぶんと筆をぼかしていますが、まるで働いていないかのようです。漢詩を作ったり、本を読んだりといった暮らしぶりが見えます。
さて、山下氏は『鴎外森林太郎と脚気論争』の中で、陸軍省医務局編『明治二十七八年戦役陸軍衛生事績』を引用されています。まず、さまざまな数字の中でもっとも正確らしいとされていて、私もそれに従いましょう。戦死は977、戦傷3,699で、そのうち戦傷死293となっています。合計で戦闘に関しての死者は1,270柱となります。総患者数284,526人で、総病死者20,159人。およそ病死者は戦死者の16倍ちかい。
また、地域別に見ると、脚気の惨害は台湾が異常に高くなっています。わずか10カ月間で患者数は21,087人、発生率107%、ほぼ全員が罹病して複数回かかった者もいるというわけです。死亡率も9.98%という脚気にしては高い数字が出ています。その理由は何だったのでしょうか。
原因は安定した補給、兵站環境にあったのです。制海権はわが国にあり、軍事輸送はきわめて順調でした。陸軍は94年7月、『戦時陸軍給与規則』を出します。それによれば、1日に精米6合(900グラム)、肉や魚150グラム、野菜類150グラム、漬け物類56グラムという調和のとれた内容だったといいます。この献立どおりならまったく問題はなかったと医師でもある山下氏は断言しています。では、実態はどうだったか。
記録を見ると、台湾にある軍隊は、みな内地米を食べていた。ただし、副食が問題です。梅干し、魚の干物、佃煮、高野豆腐、かんぴょう、カボチャ、唐ウリ、芋、シイタケ、大根漬けなどだった。みそ汁も飲めなかったとあります。「模範的なビタミン欠乏食」だと山下氏は言っておられます。
では、軍医たちは手をこまねいていたのか。いや、やはり誠実に職務を果たした人がいました。第2軍軍医部長の土岐頼徳です。
1843(天保14)年、姓からも想像がつくように岐阜県生まれ、長崎で学び、のち幕府の医学所で学びます。石黒軍医総監とはそこで同窓です。1877年の西南戦争には新撰旅団軍医長として従軍。83年には陸軍1等軍医正となり、仙台鎮台、名古屋鎮台の軍医長を歴任する。88年に近衛軍医長、ここでは麦飯給与を行い、脚気を減少させる。近衛諸隊の脚気を減らした緒方惟準(おがた・これよし)の後任者です。麦飯にすれば脚気は少なくすることができると東京医学会総会で報告します。91年には軍医監(大佐相当官)に昇任しました(95年4月には軍医総監=少将相当官)。
土岐は日清戦役でも果敢な行動を始めます。95年2月、遼東半島では厳寒のころでした。それでも脚気患者は出ました。だいたい夏に発生する脚気、それが冬に発生した。予防策として、第2軍司令官大山巌大将に、土岐は内地と同じく麦飯を給与すべしと上申します。それが不可能だったら、せめて1日3回の食事中、1回は乾パン(当時は麺包という)もしくはビスケットを支給されたいというものでした。
第2軍での上申は大山軍司令官に快く受け入れられました。隷下の第1師団長だったのは、あの大阪鎮台で麦飯給与を実行させた山地元治中将だったのです。山地も賛成、また、中央でも大本営運輸通信長官(戦時職)のポストにあった寺内正毅(てらうち・まさたけ)歩兵大佐も元来が麦飯愛好者でした。寺内正毅は1852年長州生まれ、西南戦争には歩兵大尉として従軍、田原坂で右腕を銃撃で負傷し、生涯左手で敬礼した軍人としても有名です。
のちのエピソードがあります。1908(明治41)年、「臨時脚気病調査会」の発会式で、寺内は次のような爆弾発言をします。
・自分は20年来の脚気患者である。
・20年前には漢方医遠田氏の診療を受け、麦飯を食べ続けている。
・日清戦役時の運輸通信部長だったときに麦飯を給与した。
・ところが、石黒軍医総監はなぜ麦飯を給与するか、麦飯が脚気に効果があるのかと詰問された。おかげで、麦の前線送付を断念した。
・当時は、この席にいる森総監なども石黒総監といっしょに自分を詰問した組である。
どうも、脚気蔓延に一役買ったという鴎外の戦犯容疑は晴れそうもありません。
土岐が第2軍軍医部長(当時52歳)なら、鴎外は兵站軍医部長(同33歳)だったのです。野戦衛生長官と鴎外が反対すれば、第2軍の兵士は麦が食べられるはずもありません。土岐は鴎外の反対意見に腹をすえかねたことでしょう。衛生部の序列では、土岐は石黒の次に位置しました。悲惨な西南戦争への従軍経験もあり、鎮台病院長、近衛軍医長という現場を経験し、学問と行政経験しかない鴎外に対して絶対に優位にありました。しかし、軍の秩序は守らないわけにはいきません。
▼海軍軍医たちからの非難
海軍では「戦時糧食條例」が出され、副食物費を2割増しにしました。おかげで、脚気の発生はわずか34名にしかすぎません。台湾平定戦のさなかである95年9月、『時事新報』に石神海軍大軍医(大尉相当官)の投書がのりました。これは一般紙です。論旨は陸軍のとりわけ上層部の「食物改良への疑問」を攻撃するものでした。
陸海軍に環境や事情の違いはあるだろう。しかし、海軍の実績を見よ。同じ軍医官として見逃せないというものでした。
つづいて齋藤大軍医も投稿しました。軍艦吉野の実態を書き、兵食と脚気の関係について論証し、ついでに陸上部隊ならという反論を予期してか、澎湖島の海軍陸上部隊での様子も書いています。「卓上の空論を捨てよ」という呼びかけでした。
陸軍も反論します。匿名で軍医が投書しました。ただし、事実関係にはふれません。ひたすら、学問上の理屈を並べ立てたものです。
帝国大学医科大学でも脚気の原因はわからない。病理病原を海軍軍医は発見したのか。あるなら、それは世界に学者の間で認められているのか。学理もなく、その予防措置を議論するのはおかしい。また、陸軍の兵食は森軍医正の実験で優秀とされている。カロリーで計算してみよ。食物を改良すれば身体が強健になり、病気にもかからないということは承知している。食物が悪いから脚気になるなら、貧民乞食はどうしてならない。どうして中等以上の生活者、しかも書生や兵士に患者が多いのか。精進潔斎の禅僧になぜ罹患者が少ないのか。転地療養をすればよくなるのはなぜか。
ビタミンの重要性が常識になっている現代から見れば、なんとも訳の分からない理屈です。しかし、過去を裁くときには、当時の状況に立たねばなりません。海軍軍医団も、臨床医学や、栄養学では、この反論にまともには立ち向かえませんでした。
▼鴎外、台湾から召還される
1895(明治28)年9月、鴎外は総督府陸軍局軍医部長を辞めさせられます。代わりに派遣されたのが石阪惟寛(いしざか・いかん)軍医総監(少将相当官)でした。くり返しますが、軍医総監が中将相当になるのは97年のことです。鴎外は当時、軍医監(大佐相当官)にしか過ぎません。その後任に、格上の総監が派遣されました。世間の非難に、陸軍も耐えていられなくなったのでしょう。
石阪もコレラや戦傷病の対策については大ベテランです。また、脚気対策も麦飯推進派に属していました。上司の石黒の指令に反して、ひそかに麦飯を給与していたことが資料に残っています。鴎外が反対していた麦飯がわずかではありましたが、総督府の手配で希望する部隊には配られていたのです。
96年1月、石阪は、脚気を撲滅できなかった無念の思いで台湾を離れます。
後任は同じく総監、土岐頼徳でした。当時の台湾総督は樺山資紀(かばやま・すけのり)海軍大将です。副総督は高島鞆之助(たかしま・とものすけ)陸軍中将がやってきます。樺山は83(明治16)年に陸軍から海軍への転官者であり、高木兼寛の実践を目の当たりにしてきた人です。高島もまた、麦飯推進派の有力者でした。彼らが鴎外の更迭を軍中央に働きかけたことは間違いないでしょう。
▼土岐総監の軍律違反と石黒の事件隠蔽
土岐は驚きました。遼東半島で予言したとおり、いや、予想以上の脚気の蔓延でした。すぐさま、全部隊に対して麦飯の給与を指令します。上官である石黒に許可も求めず、独断のふるまいでした。驚いたのは石黒です。まさか、長い間のつき合いもある、しかも高官が上官の指示に反する軍律違反を犯したのでした。
あわてて石黒は訓令を出します。米麦混飯を支給するのは貴官に示した方針に違反している。学問上、適切なものを発見できていないのだから帝国従来の兵食を行え。
ところが、土岐はそれまでの憤懣(ふんまん)を一気に爆発させました。
冗談じゃない。何を考えているのか。本官が出発する前、口頭で言われたではないか。麦飯によって脚気は減ってきた。しかし、軍医官から議会にそれをいうのは予算獲得上面白くない。もし、麦飯を給与するなら陸軍大臣の達し(雑穀混用も可)もあるので、総督府の高官たちと協議して、よろしければ実行しても支障はないということだった。本官はようやく貴官も、麦飯の有効性を認めたと思って喜んだ。そうであるのに、今回の訓辞では、まるで否定している。世間ではようやく、米麦混食、あるいはパンを食べているのに、どうしたことか。
第3師団(名古屋)を例にとってみよう。
横井軍医監(名古屋病院長)はもともとが消毒的清潔法(つまり、麦食反対論)の信奉者だった。明治19年には114名、翌年432名、翌々年は771名だった患者数が、麦飯を実行したら22年には8名と激減、23年4名、24年には2名になった。22年は横井が第3師団軍医部長になった年である。横井はご承知のように学識も高く、意見卓爾(いけんたくじ:高くぬきんでている)の者である。実績がこうであるから、旨味の少ない麦飯であるが誰も反対する者もいない。胃腸病が増えたわけでもない。「米食ノ主食タルハ動カス可ラス」というのなら、現時の主食は違法であるのに、なぜ禁止しないか。いまさら、貴官の言うとおり、実験をし、優劣を確かめるなど、帝国臣民のできることではない。純米食を兵食とすれば、多数の兵力を減殺し、多くの兵卒を減殺することは明白な事実である。
台湾の駐屯兵はなぜ、このような悲惨の境遇におちいらなければならないのか。父兄にあっては最愛の子弟であり、国家にあっては忠勇なる軍人である駐屯兵を見るとき、どうして病気の1匹のブタにも及ばないのか。また、学問界にも脚気研究に熱心な者がいるが、青魚中毒説や米のカビ説を取る者もいるが、自分一身の名誉を得るために汲々として、米麦どちらが優れているのかという議論には加わらない。このように米麦関係に関心がうすい学会にどうして認可されなくてはならないのか。また、部隊で比較実験しろなどというが、軍隊を試験的犠牲に供することは許し難い。
明治18(1885)年以来、麦飯を試行して実効性があることは明白である。学問的な追究は学者ならもっともだが、兵力消長に関係ない立場ならよい、われわれはそうはいかない。
(山下氏が発見されたこの土岐の書簡は石黒の秘蔵とするところでした。亡くなるまで石黒はこの痛烈な告発文を隠し続けていたのです)
この後、石黒は関係軍医の口封じをし、土岐にも報復人事で臨みます。29年5月、土岐は台湾から帰任を命じられましたが、帰京すると即日休職となりました。そのまま5年間、明治34(1901)年5月、予備役編入となります。その前任者、石阪惟寛も陸軍省医務局附きから休職。ようやく年末になって大阪の第4師団軍医部長に補任。明らかに中央から地方に飛ばされた人事です。
明治29(1896)年の「近衛師団軍医部征台衛生彙報(いほう)」には、脚気についての記載がありません。また、台湾に勤務した軍医たちの手記や報告書にも、マラリアやコレラについての記述はありますが、脚気については「か」の字も見られないのです。大権力者だった石黒の圧力だったことは明らかであると思えます。
山下氏の著作には、「土岐の台湾勤務の履歴まで消した」とありますが、この非難は戦時職は原則、官報に記載されないというルールをご存じないのではと考えます。恩給計算や叙勲の関係もあり、当時の軍人たちの経歴管理は厳正なものでした。外地へ出た経歴を消せるはずもないのです。
▼石黒軍医総監の辞任と鴎外の小倉赴任
1897(明治30)年9月、石黒軍医総監は90年10月から務めた陸軍省医務局長を辞任します。ただちに軍は休職の辞令を出しました。本人は自ら申し出たし、後進に道をゆずるためだと言っていますが、実際は渋々辞めたのだと当時から噂されていたようです。そして、後任には石阪惟寛が選ばれました。
台湾駐屯軍の脚気は、麦飯の給与でやはり激減します。30年には罹患2,697人、死者82人であったものが、35年には53名になり、死亡者はいなくなったのです。
石阪惟寛は就任、わずか10カ月で医務局長を辞任、後任は小池正直でした。
小池は1854(安政元)年、山形県鶴岡の藩医の長男として生まれました。藩校の致道館で学び、幕府英学所に留学。73(明治6)年に第1大学区医学校(のちの東大医学部)に進み、陸軍軍医生徒に採用されます。これは、後になると陸軍依託学生の制度となり、卒業後には軍医になる前提で給与をあたえられるものです。81年7月には卒業、陸軍軍医副(中尉相当官)に任ぜられました。
その後の軍医としての勤務は、地道な現場に徹したものでした。朝鮮の釜山にある総領事館の医官(外務省に出向)、近衛砲兵連隊医官をつとめ、軍医学舎教官。88(明治21)年にはドイツ留学、ミュンヘン大学で衛生学研究法を学びます。90年に2等軍医正(少佐相当官)に昇任、帰国後、93年には医務局第1課長になりました。同年、1等軍医正に昇任、翌年、日清戦争になって第5師団兵站軍医部長、第1軍兵站軍医部長、占領地総督部軍医部長を歴任、復員にともなって医務局第1課長の平時職にもどります。97年には万国赤十字大会の日本政府代表として渡欧、翌年帰国。帰国後、軍医監(少将相当官)。陸軍省医務局長になりました。
ここで鴎外は、小池の新人事方針で近衛師団軍医部長となります。この後、鴎外は、よく知られているように、小倉の第12師団軍医部長に赴任します。本人も左遷と受けとめていますし、文学研究者の間ではいろいろな説が出ています。
次回は日露戦争を準備した師団増設、軍医制度改革、戦中の兵站システム、くり返された戦地での脚気流行についてお話しします。荒木 肇
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◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。
◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
2009-07-30 09:13
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(19) 荒木肇
『森鴎外は脚気(かっけ)蔓延の戦犯か?』−中−━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
△お詫びと訂正
前回では高木兼寛(たかき・かねひろ)海軍軍医総監について、『白い航跡』を渡辺淳一氏の作品としてしまいましたが、吉村昭氏の誤りでした。謹んでお詫びします。
吉村氏は私の先輩であられます。他に『日本医家伝』なども書かれました。また、開成学園の創設者、佐野鼎先生は陸軍造兵にも関わり、『陸軍工科学校史』にも、そのことが記されています。
▼鴎外という医学者のスタート
森鴎外の履歴を見ると気になることがあります。大学を卒業してから軍医官になるまでに空白の期間があるのです。同期生に小池正直軍医総監がいますが、在学中に陸軍の貸費学生になっていました。同期生で軍医の道に進んだ人が7人いますが、みな卒業と同時に軍医副(八等:中尉相当官)に採用されています。鴎外だけが遅れて採用されているのです。鴎外はほんとうのところ、軍医官になどなりたくなかったのではないでしょうか。
森林太郎は1862(文久2)年1月19日(太陽暦では2月17日)に、石州(石見国:島根県)津和野藩の藩医の家に生まれました。母方の祖母の弟は同じ藩医の西家を継いで、その長男に生まれたのが西周助です。母にとっては従兄にあたります。この人は1829年生まれ、ペリーの来航(1853年)に刺激を受けて洋学を学びました。
蘭学から英学に進み、英語の発音を中浜万次郎から教わり幕府の留学生としてオランダのライデン大学で法学、経済学、統計学などを学びます。のちに海軍中将になった幕府海軍の榎本武揚、同じく陸軍軍医本部長になった林紀(はやし・つな)などと留学仲間です。西は経済などを学びましたが、J.S.ミルやA.コントなどの哲学に深くひかれたといいます。
帰国してからは周(あまね)と改名し、陸軍省、文部省などに勤めました。「哲学」という言葉をつくったのも西です。また、山県有朋からも信頼され、『軍人勅諭』の草案作成にも関わった一代の大学者でした。この人の従妹の息子だったことが鴎外の運命を大きく変えたに違いありません。
林太郎は早熟の秀才でした。母親もまた、よく知られているように教育熱心な人でした。1872(明治5)年、陸軍大丞だった西のすすめで父親と上京します。東京の本郷にあった私塾でドイツ語を学び(もちろん、西の屋敷で暮らします)、明治7年1月、12歳で第1大学区医学校予科に入学しました。この医学校はすぐに東京医学校と改称され、のちに東京大学医学部となります。同14(1881)年7月9日、満19歳と5カ月で医学部を卒業。卒業成績は山下氏の著作によれば30名のうち、第8位だったそうです。いくら石見の秀才でも、当時も天下の東京大学(帝国大学というのはもっと後のこと)、全国からの秀才の集まりでした。このとき、林太郎は海外留学を望みましたが、当時は卒業成績が3番以内でないと留学の資格はありません。
▼陸軍軍医制度
ついでにこの頃の軍医たちの世界について解説しておきましょう。
まず、兵部省の中に軍医寮がおかれました(1871年7月)。
戊辰戦争を戦った新政府軍にとって医官は大切な存在でした。そこではこれまでの漢方医はほとんど役に立たなかったのです。戦場では主な負傷は弾丸傷になりましたが、漢方医はとにかく縫うことしか知らず、不潔な傷口のままに閉じられてしまう。また、感染症という考え方がなかったために、腸チフスや赤痢といった伝染病にも、ほとんど対抗する力も知識もありませんでした。
力を発揮したのは蘭方医(オランダ医学徒)たちです。また、薩摩軍では、その軍制がイギリス式だったために、イギリスから来た医者が注目を集めていました。新政府では海軍はイギリス式、陸軍はフランス式を採用し、海軍医学はそのままイギリス式、陸軍はオランダ医学を学んだ人たちが主流になりました。
初代軍医寮の長官は、幕府医官の筆頭だった松本順(1832〜1907)です。彼は硬骨の医官でした。下総国(千葉県)佐倉藩の藩医、佐藤泰然(順天堂病院をつくる)の次男として生まれます。1849年、幕府奥医師松本家の養子となり、51年には蘭方医学を学ぶために坪井信道に入門、57年には長崎へ留学。オランダ軍医ポンぺの下で学び、62年には江戸へ戻る。
江戸では西洋医学所頭取助(副所長)になり、将軍家の奥医師(大名格の官位をもち、将軍家の診察にあたる)になりました。また、翌年には医学所(西洋が取れた)頭取(所長)に昇進、戊辰戦争での肩書きは、『法眼(ほうげん:医師の官位では法印に次いで第2位)奥医師兼医学校頭取歩兵奉行格海陸軍医総長』というものでした。
歩兵奉行格とは、幕府歩兵隊のお話でもしましたが、ゼネラールマヨールにあたりました。陸軍少将です。松本順は医師の立場の強化をいつも考えていました。幕府の医官は、法眼や法印という官位名が示すように、頭を剃った僧侶の姿でした。武官たちからは「長袖」とか「医者坊主」などと軽んじられていたのです。彼はそのことにいつも腹を立てていました。医者が乗る駕籠(かご)を使わず、髪をのばし、陣笠をかぶり、馬に乗って幕府陸軍将官の制服を着て登城したそうです。
戊辰戦争では脱走軍とともに行動し、榎本軍とは仙台で分かれ、横浜に出る。そこで実父と出会い、自首することを決意。朝敵となった罪が問われますが、やがて許され、早稲田に洋風病院の蘭疇舎(らんちゅうしゃ)を設立しました。そして、山県有朋のすすめで兵部省に出仕、初代の軍医寮頭になったのです。
おもしろい話には事欠かない人です。初代軍医総監のときでした。軍医学校の卒業式にあたって、『卒業したから医師というわけではない。免状を渡すのは人物試験をしてからだ』とかたくなに主張し、『免状ヲ渡サズニ選挙スル科(とが)ニ依リ謹慎十日被仰付』という処分を受けました。
せっかく陸軍は教育課程をつくり、設備を整え、医官をつくったつもりでした。それなのに、医者は人を相手にする、博愛で、かつ自己犠牲心に富まねばならないという。学校は知識を切り売りするところではないから、卒業=免許取得にはならないのだというのです。
それでも、謹慎10日ですんでしまう。実力があったのでしょう。
軍医寮頭の時代です。軍医も制服を着なければなりません。軍医寮の官員は、本省武官の制服と同じとせよと主張します。また、ジュネーブ条約のことも研究していたとみえ、赤十字を制服に入れようと案を提出しました。帽章に赤十字を入れようというわけです。ところが、これが、「十字とはヤソの印だからもってのほかだ」という反対が出ました。当時の武官たちの頑迷さというか、国際感覚の少なさです。
それでは、いずれ情勢が変わったら、縦棒をいれればいいと松本は考えた。そんなこんなで、医官の帽子の徽章は銀の盾の中に、赤い横棒を1本ひいたということです。これを当時の子どもたちは、赤い棒が舌に見えたのでしょう。「ベロ出し軍医」とからかったとか。
この頃の官等については、なかなか難しいのです。資料を見ていても、「○等出仕」という言葉が出てきます。高木兼寛のことを調べていても、1872(明治5)年、海軍九等出仕とありました。これは、4月のことですから、中尉相当官だということが分かります。1等は海軍卿、2等から10等までが士官。10月には改正され、陸軍を例にすれば、1等が元帥、2等大将、以下10等が少尉、11等が曹長、12等は権曹長(ごんのそうちょう)、13等は軍曹、14等が伍長となりました。翌年5月には元帥がなくなります。1等ずつ引き上げられましたから、少尉は第九等です。曹長は1等曹長となり、権曹長は2等曹長と改称されました。
鴎外が任官当時、軍医の最高官等は軍医総監(3等)で少将相当官でした。これは会計部の監督長と同じです。4等が大佐相当官の軍医監、5,6等は1,2等の軍医正でした。7等の大尉相当官が軍医、8等が同じく中尉の軍医副、9等の少尉相当官は軍医補といいました。獣医はまだ地位が低く、最高が6等の馬医正(ばいせい)でした。医官の獣医官は馬医、そのものの名称。薬剤官も最高位が大佐の薬剤監です。これらも時代が下がるにつれて、各部将校(昭和時代)といわれるようになり、最高官も中将相当官になっていきました。
▼海軍軍医制度
海軍はイギリス式のとおり、兵部省は『彼我称呼別紙之通相定候条』と日英海軍の階級の対照を発表しました。現在とちょっと違うので興味があります。将官は変わりません。大佐をシニヲル・ケプテイン、中佐をジューニヲル・ケプテイン、少佐がコンマンドル、大尉はシニヲル・リューテナント、中尉がジューニヲル・リューテナント、少尉はソブ・リューテナント、ウォルラント・ヲフィサルが曹長、ミットシップメンが少尉試補(後の候補生)、チーフ・ペッチー・ヲフィサルが権曹長ということです。コマンダーが中佐だと思っていましたら、違っていました。
相当官は大佐にあたる大医監が最高で、機関科士官は最高位が中佐相当の機関大監です。のちの主計科士官の秘書官や主計大監も中佐相当。陸軍に比べると、医官の地位は相対的に高いようでした。むしろ、のちの時代までもめつづける機関科士官の地位が低すぎるのが分かります。機関士は、ただのエンジニアにしかすぎない。缶焚きの監督にしかすぎないではないか。「船乗り」ではないということでしょう。
▼留学生としての鴎外「兵食レポート」
周囲のすすめで陸軍に入った鴎外。1881(明治14)年12月に、同期より5カ月あまり遅れて中尉相当官(軍医副)で採用された鴎外は東京陸軍病院に勤務します。ここで軍医としての基礎教育をされたのでしょう。翌年5月には軍医本部勤務を命じられ庶務課に配属されます。同期の人たちは名古屋、大阪、熊本などの陸軍病院治療科や、部隊付の軍医として現場経験を積んでいくように配慮されています。
ところが、鴎外だけはそうではない。当時の陸軍参謀本部御用掛だった西周の影響力を感じます。そして、当時の軍医本部長である林紀(はやし・つな)と西周がオランダへ留学して以来の親密なつながりだったこともあるのではないでしょうか。
林紀は林研海(はやし・けんかい)という名前でも知られています。1844年生まれです。幕府奥医師の林家を嗣ぎ、長崎のポンぺの塾で学ぶ。松本順にかわいがられた人でした。幕府医官でしたが、松本と同様、新政府への出仕を断り、静岡に移った徳川家に従い静岡藩病院長を務めます。病院が閉鎖後、1871年になって、ようやっと軍医寮に入りました。松本の後をうけて2代目の陸軍軍医総監になります。1882年に出張中にパリで客死しました。
留学の機会はめぐってきました。1883(明治16)年のことでした。ドイツに留学していた坂井2等軍医正(少佐相当官)が病気のために帰国しました。この代わりに、東大出身の森を派遣しようというわけです。陸軍軍医部建制を調査させるということでした。また、前回にも書きましたが、当時は「兵食の研究」が必要とされていた時です。山下氏は、当時の本部次長石黒忠悳から、栄養学(当時は衛生学の一分野だった)を中心に学んでくるよういわれたのではないかと推察されています。
1883(明治16)年の末、鴎外はドイツのライプヒチ大学にいました。当時、衛生学の泰斗だったホフマン教授に指導を受けています。翌年まで1年間、鴎外は栄養について研究を重ねました。山下氏はご自分も医師であられるので、明治の当時、鴎外は衝撃を受けただろうと書かれています。自国では「食い物」などと軽んじられている実態。それをドイツでは学問として研究し、しかも、無機・有機化学、細菌学、生物学までも活用されていたこと。それらを考えると、鴎外はいやでも故国の後進性を思ったにちがいありません。
ライプヒチからドレスデンに移るころ、鴎外は『日本兵食論大意』というレポートを本国に送っています。それは、米を主体とした日本食は西洋食に劣らない。米食で十分に栄養をとることができる。だから、西洋食を採用する必要はないという、現代から見れば、まったく正しい、まさに常識の論でした。このことは、陸軍軍医本部を喜ばせました。
1886(明治19)年3月、鴎外はミュンヘン大学へ行きます。そこではペッテンコーフェル教授の指導を受けました。『日本兵食論』を書き上げます。その主張のおよそは、
1)陸軍に西洋食(肉食)を採用するには無理がある。兵員数、屠牛数(とぎゅうすう:屠殺する牛の数)、経費の面から現実性がない。
2)魚と豆腐を代用すれば問題はない。カロリー、タンパク質ともに十分である。
3)麦飯の消化は米に比べ、たいへん良くない。
というものでした。
前回お知らせした同期の小池正直の提言(1882年)をなぞった、というよりドイツの先進的な学問で、小池説を補強したものです。
1887(明治20)年4月、鴎外はベルリンに向かいます。細菌学者のコッホの指導を受けました。9月、森はさらに『日本食拾遺』を書き上げ、ウィーンの万国衛生会で発表。そこでは、ついに高木兼寛の「脚気原因説」と「麦飯推奨論」を名指しで非難しました。陸軍の米飯の方が、海軍の麦飯よりも優れているというわけです。
▼麦飯を陸軍でも支給することで絶滅した脚気
陸軍軍医たちが手をこまねいていたわけではないと書きました。その通り、堀内利国という軍医官が大阪にいたのです。
監獄史の領域になります。「臭いメシを食った」というのが、ちょっと前まで、刑務所帰りの啖呵(たんか)でした。江戸時代の伝馬町の牢屋では「もっそうめし」といいました。
刑務所のメシが臭くなったのはいつ頃か。それを調べてみると、1881(明治14)年3月のことでした。
太政官はその達しで、『下白米十分ノ四、挽割麦十分ノ六』と囚人の食事を規定しました。副食費は1日1銭5厘以下というのですからひどいものです。ろくなおかずはなかったことでしょう。
麦は炊かれると、ちょっとおかしな匂いがします。あのむっとくる独特な臭さでしょう。
ところが監獄では、「臭いメシ」以来、脚気が絶滅してしまいました。
大阪鎮台の病院長だった堀内は、84年7月にそのことに気がつきます。
麦飯を試してみようと考えた堀内は鎮台司令官の山地元治(やまじ・もとはる)少将に実験をもちかけました。1年間をかぎって、隷下各部隊に麦飯を食べさせようとしたのです。しかし、反対論が吹き出します。部隊長たちからは、『忠良なる兵卒に、下賤な麦飯を食わせるわけにはいかない』という反論が続出しました。しかし、堀内は熱心に説きつづけ、とうとう年末には4割の麦が入った食事が支給され始めます。
結果は堀内の予期した以上のものでした。83年に42.82%だった脚気発症率が年末から麦飯を支給した84年には35.53%、そして85年には1.53%に激減したのです。86年には0.56%とさらに低下を続け、その後も日清戦争(1894年)まで、毎年1%以下の数字を出し続けました。
これに刺激されたのは近衛軍医長だった緒方惟準(おがた・これよし)でした。緒方もまた、84年12月から近衛隊に麦飯(3割)の支給を始めます。すると、48.66%だった発症率が85年には26.98%となり、86年には2.91%と激減しました。このあと、近衛も大阪師団(1889年に改編)と同じように、日清戦争の頃には1%に達することはありませんでした。
ちなみに、緒方は1843年生まれ。父は高名な「適塾」の創設者緒方洪庵(おがた・こうあん)です。彼もまた長崎に遊学。その後、オランダに幕命で留学した秀才でした。1868(明治元)年7月帰国、ただちに新政府典薬寮の医師となります。10月に東京の医学校、病院の取締役に就きますが辞職し、大阪の浪華仮病院の運営にオランダ人医師ボードウィンとともに働きました。71年には陸軍軍医になり、85年当時は近衛軍医長であり、陸軍軍医学会長の職にありました。
しかし、軍中央というより軍医本部の中では、脚気撲滅の実績を認められず87年に退官。故郷に帰り、緒方病院を設立しました。
この麦飯支給の効果とあわせ84(明治17)年に出された『精米ニ雑穀混用ノ達』とによって、陸軍でも、91年までには全部隊で麦飯が食べられるようになりました。この雑穀混用はうちつづくインフレの中で、米価が高くなったときには、他の穀類を混ぜてもよろしいという訓令です。現場の軍医官たちは、それを利用して麦を混ぜ、浮いた金を副食の向上に回すようにしていました。日清戦争の直前には、陸軍でもほぼ脚気は絶滅したといってよいでしょう。
これは、高木兼寛のパン、ビスケット支給に代えて麦飯にした実践(85年)と比べると、やや遅くにはなります。しかし、陸海軍、ほぼ同じ時期に脚気はたしかに絶滅したといっていいでしょう。
▼鴎外、さっそうと新知識で帰国
鴎外が帰国したのは1888(明治21)年9月。その頃には6個師団で麦飯の支給が始まっていました。全陸軍での発症率も、84年の27.7%から3.9%に減り続けている途中でした。この後、92年には全兵卒数52,890人のうち脚気罹患者66名(0.1%)、死者0という数字が出ます。
ところが、軍医本部の中枢では石黒忠悳ががんばっていました。脚気は伝染病だと石黒は頑なに主張していたのです。では、石黒はそれほど悪だったのか。
この人物には毀誉褒貶がつきまといます。権力の操縦に長けていたとか、権謀術数の人だったとか、自己保身に汲々としていたとか、様々なことが知られています。じっさい、次回は悲惨な脚気惨害(日清・日露戦役)の実態をお知らせしますが、そのうち日清戦とそれに付随した台湾平定戦での脚気惨害には彼の責任は大きいものです。
しかし、最後に、当時の石黒の主張をながめてみましょう。
『もし、米に毒があるなら、なぜ国民全部が罹らないのか。結核などは誰もが罹っているではないか。なぜ、男に多くて女に少ないのか。20歳から30歳の男に多くて、40歳過ぎの人間は罹らないのか。なんで生徒とか兵卒とか20歳前後の者で、寄宿舎や兵営という雑居する場所で患者が多く出るのか。また、流行の年があるのはなぜか』
と、こう言うのです。
よく冷静に考えると、当時の石黒のいうことはもっともです。なぜなら、脚気はビタミンB1の不足で起こる。白米は玄米や胚芽米などの粗精米に比べればビタミンB1の含有率が低かっただけであり、米そのものが悪いわけではなかったのです。
要は、白米中心、粗末なおかずという食生活が問題でした。白米だって、豊かな副食物と組み合わせれば脚気などならなかった。逆に、麦飯を食えば、貧しい(ビタミンB1の含有率が低い)副食物でも脚気にならなかったということです。
鴎外は、帰国早々、高木兼寛の説を攻撃し始めます。その背景を次回、日清・日露での責任所在についての私の拙い考えを書いてみましょう。
▼石黒忠悳のイイ話
わが国初めての女性医師、萩野ぎんについての話です。萩野は女子師範学校卒業後、医学を修めたいと希望をもちました。ところが、当時の医学校では女性の入学を認めません。彼女は石黒に会い、助力を願います。石黒は女性の特性を生かすことは医学にとっても大切だと大いに応援しました。石黒の努力で萩野は医学校に入学できました。
ところが、今度は医師開業試験を受けられません。再び石黒の出番です。当時の内務省衛生局長長与専齋のところへ直談判し、とうとうけんか腰で長与を納得させました。
85(明治18)年、彼女は後期医師開業試験に合格し、石黒も大いに喜びました。
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◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。
◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
2009-07-30 08:10
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2009年07月29日(水)
「緊急シンポジウム ウイグルで何がおきているのか」 日本ウイグル協会主催
が開催されました。
パネリストは
イリハム・マハムティ(世界ウイグル会議日本全権代表・日本ウイグル協会会長)
ペマ・ギャルポ(桐蔭横浜大学教授)
青山繁晴 独立総合研究所代表取締役社長
永山英樹 台湾研究フォーラム会長
石平(評論家)中国系帰化日本人
西村幸祐(作家・ジャーナリスト)
「台湾は日本の生命線」永山さんのブログより
ウイグル騒擾事件はこうして起こったーイリハム氏が語る中国の残虐支配政策
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-834.html
ブログ「チベット・中国問題研究所」から
イリハム氏のコメントの筆記
http://tibet.blog.shinobi.jp/Entry/113/
↓
西村幸祐氏ブログ再開!! ★6民族・6名による、中国のウイグル弾圧への緊急声明
http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/965/
2009-07-29 09:30
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チベット・ウイグル・サウスモンゴル 三民族 /
東トルキスタン ウイグル /
日本シルクロード科学倶楽部 |
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中国で発禁処分となっている
「英雄たちの涙 目覚めよ、ウイグル」 という本の紹介です
関西で欲しい方、書店に行けない方は
kinaさんに申し込めば、送って下さいます。
欲しい方は、お知らせくださいね♪
1800円+税で 1890円です。
本書は1986年ウルムチで出版された『Iz(足跡)』を底本とした、ウイグル文学の初めての邦訳である。著者のアブドゥレヒム・オトキュル氏はウイグル文学史に燦然と輝く人物で、『Iz(足跡)』はウイグル人720万人のなか、5万4000部が発行される。しかし歴史の真実を凝視する彼の小説は中国当局により発禁処分に遭ってしまう。中国最後の帝政が滅ぶ20世紀初頭、ウイグル人のティムル・カリフは、同じウイグル人の王家による圧政に苦しむ民衆を救うべく、同志とともに立ち上がる。王家は鎮圧に動くが、そこには中国人たちの思惑もうずまいていた。本書は「中国の火薬庫・新疆ウイグル」が独立を求め続ける、その原点を描いた壮大な歴史小説である。
目次
足跡 …8
尊敬する読者へ …10
第一章 山の妖精 …16
第二章 アイクズの過去 …28
第三章 青灰色の馬に乗った男 …36
第四章 力は戦場で試せ …54
第五章 予期せぬ出来事 …66
第六章 汝も証人となれ、太陽よ! …78
第七章 シャーマフストの夢 …89
第八章 ウルムチ将軍は血を要求する …99
第九章 蜂起の前夜 …109
第十章 十の災いに一つの薬 …119
第十一章 己の罪は己に …127
第十二章 戦いの前に …133
第十三章 勇気を戦場で試せ …149
第十四章 王城の一夜 …163
第十五章 こんな鍋にはあんな杓 …171
第十六章 火焔山への贈物 …183
第十七章 陰謀 …191
第十八章 三人の勇気 …201
第十九章 幽霊 …211
第二十章 語るお守り …218
第二十一章 アクチュクの平原にて …227
第二十二章 戦いの後 …242
第二十三章 聖者の死 …249
第二十四章 二つの結婚式 …259
第二十五章 楊将軍の知恵 …285
第二十六章 悲劇の始まり …294
第二十七章 罠 …304
第二十八章 悲劇の終わり …334
終章 …354
『足跡』の翻訳にあたって …374
註釈 …383
人物一覧 …392
前書きなど
幾度目かの戦いのときには、成長したあなた自身が砂嵐のように空を飛ぶ駿馬にまたがり、勇者たちとともに戦場で剣を振り上げていたのかもしれぬ。あなたは刈り取られた切り株の残る大地を突き進み、伝説の竜の如く口から火を吹く砲台の前に立ちはだかり、傷を負い、一瞬痛みを感じただけで熟睡するがごとく倒れてしまったのかもしれぬ。そして今、戦いで負った傷跡を見ては戦場での日々を思い出し、一人微笑んでいるのかもしれぬ……。だが、戦場で冗談を言ってあなたを笑わせていた友が、次の瞬間には命を落とし、タマリスクの下で眠りについたとき、あなたの目からは大粒の涙がこぼれ落ちたかもしれぬし、暗い牢獄に投げ込まれた友を思い出すたびに、あなたの心は締めつけられたような痛みを感じているのかもしれぬ。ああ、切り落とされた頭、流れる血、あふれる涙……。
そう、もちろんこれはすべて過去のこと、歴史上の出来事である。光の世界を作るためになされたことである。当時、世界は真っ暗な闇であった。
……ティムル・カリフは天山に革命の嵐を吹かせた人物である。彼はウイグル人の中から誕生した、素晴らしき、勇敢な「砂嵐の鳥」であった。彼が飛び立つやクムルの地に砂嵐が巻き起こり、各民族の人々が力を得た。そして彼らは、二百数十年の間、民衆にとって魔の洞窟であったクムル王家の王城と、黒光りする門に象徴されるウルムチ将軍府に地震のごとき衝撃を与え、それらの寿命を縮めたのである。
歴史上に現れた多くの農民蜂起と同様、この武装蜂起もその目的を達成することはできなかったが、王城と将軍府が絶対のものではなく、消滅する可能性を持っていることを広く人々に知らせ、彼らに力と希望を与え、苦い経験をも与えた。それゆえにティムル・カリフは、七十数年にわたりクムルの人々に語り継がれてきたのである。
本書は、そのティムル・カリフに捧げられるものである。(“尊敬する読者へ”より)
著者プロフィール
アブドゥレヒム・オトキュル()
本名:アブドゥレヒム・テレシュ
詩人、小説家、ウイグル古典文学研究家
1923年、クムル(哈密)生まれ。1939年、新疆学院(現・新疆大学)に入学し、教育学を専攻する。卒業後、中学校の教師になるが、1944年、政治活動を行ったとして逮捕される。翌年釈放され、『新疆日報』のウイグル語部門編集長、アルタイ出版社の副編集長を務めめる。中華人民共和国成立以降は教師、翻訳、ウイグル古典文学の研究などに携わるが、文化大革命が起こると家具工場での労働を強いられる。「文化大革命」終結後の1974年、新疆社会科学院の副院長となる。1985年、ウイグル語による歴史小説『Iz(足跡)』を発表。大ベストセラーとなり、続編として『Oyghanghan Zemin 1-qism(目覚めた大地第一部)』、『Oyghanghan Zemin 2-qism(目覚めた大地第二部)』が出版される。1995年10月5日、胃ガンのため死去。2002年、中国当局により著作は「危険とみなされる書物」として発禁処分に遭う。
東 綾子(アズマ アヤコ)
1947年生まれ。大学でトルコ語を学ぶ。卒業後、インド亜大陸やヨーロッパ諸国を旅し、トルコでウイグル人と知り合い、ウイグル語を学びはじめる。以後、ウイグル文化の研究を続けている。
2009-07-29 09:10
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2009年07月26日(日)
2009-07-26 17:00
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2009年07月25日(土)
中国 駐大阪総領事館
抗議へ行ってきました!!!
抗議メンバーは
イケメンろーちゃんが 企画、警察の届けもしてくれました。
そして日章旗を持って、大阪のジャンヌダルク 天使のノアちゃん
日本シルクロード科学倶楽部 ちょいワル リコリスさんと
そして おつる
そしてもちろん撮影は 天才brenoさん
阿波座で集合し、20人ほどの警察官さんに囲まれて
ルールなどの説明をうけ 記念撮影をして
いざ出陣!!!
といっても、領事館には、2名しか抗議に出向くことができないので
若いろーちゃんとノアちゃんにまかせて
おつるとリコリスさんは、待機を。
何かあった時の援軍です。
ひらめく中国の血の色の旗
日章旗を持ったノアちゃんと、東トルキスタンの旗のろーちゃんが
抗議文を読み上げ、チャイムを押してポストへ・・・
完全無視です。
でもなんとなく 窓からのぞいているような・・・
抗議はとても大きな声で頑張っていました。
抗議が終わり、離れた場所で集合し、
今度は シュプレヒコール
フリーウイグル!
フリーウイグル!
フリーウイグル!
中国は虐殺をやめろ!
中国は真実を隠すな!
ウルムチの惨劇を許さないぞ!
ウルムチの死者に謝れ!
日本は虐殺をやめさせろ!
マスコミは真実を放送しろ!
我々はウイグル人を助けるぞ!
ウイグルに人権を!
中国は弾圧をやめろ!
民族浄化をやめろ!
民族差別をやめろ!
ウイグルの若者をさらうな!
ウイグルの女性をさらうな!
ウイグルの子供を殺すな!
中国はウイグル人に謝れ!
ウイグルに平和を!
中国は侵略をやめろ!
奪った土地を返せ!
漢民族を中国へ戻せ!
ウイグルに自由を!
言論の自由を!
教育の自由を!
宗教の自由を!
ウイグルラルガ エルキンリキ!
ウイグルラルガ エルキンリキ!
ウイグルラルガ エルキンリキ! (ウイグルに自由を)
おつる、リコリスさん、ノアちゃん、ろーちゃんの順に叫びました。
とちゅう、中国人がいたので
「中国はウイグル人に謝れーっ」てそいつに向けて
叫びました。
ノアちゃんの声は最高ーーーでした!! すごい迫力♪
ろーちゃんもリコリスさんも大声で叫びました。
この声と祈りが届きますように。 ウイグルへ・・・・
終わってから
大阪府警さんたちが
「抗議に参加したいぐらいや、応援してる」
「デモの時はシュプレヒコール一緒に(心で?)叫んでたんや」
「またぜひぜひ 続けてや」
「中国のやってることはおかしい」
「高田教授の正論を読んで、大ファンなんやで
もし大阪で講演会あれば呼んでね」
とくちぐちに言ってくださって
私の父が元大阪府警ですーっと言ったら
そうですかーと喜んでくれました。
みんな応援してくれました。
おつるブログ見てくださるそうです。
そのあとは、みんなでお茶をしてから
吹田の kinaちゃんのお店 たこやきの「ほしづき」へ
日本一美味しいたこやきで 乾杯!!
みんなで 称えあいました。
N/Nさんも合流♪
お仕事してるkinaちゃまもかっこいいよ♪
暑い暑い一日でしたが、またずっと撮影してくれた
brenoさん有難う。
企画してくれた ろーちゃん
そしてリコリスさん、ノアちゃん お疲れ様でした。
これからもまだまだ戦いはつづく・・・頑張ろう
*****************************************************
今日は、brenoさんから新作DVDを購入!!
素敵なデザインです。 裏にすごい秘密がーーーーーーっっ
ほしい方はこちら↓
こちらの映像の高画質版をDVD(1枚1000円)にして郵送する事が出来るようになりました。前回UPした在特会の抗議や、NHK抗議デモのDVDも送る事が出来ます。ご希望の方は、burenovga@gmail.comこちらまで「デモ DVD販売の件」で、メール下さい。
**********************************************************:
今日の動画はすでに ニコニコ動画にすでにUPしてくださってます
続々とできあがると思いますー
ニコニコ動画
●抗議編
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7734184
追加しました。
↓
●シュプレヒコール編
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7738244
●番外編
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7738244
2009-07-25 03:19
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西村幸祐氏のブログが再開です!!!
http://nishimura-voice.seesaa.net/article/124026052.html
★6民族・6名による、中国のウイグル弾圧への緊急声明
すでに一週間以上経過してしまったが、7月13日に海外特派員協会で緊急記者会見を行った。7月6日に東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)で起きた支那によるウイグル人弾圧・虐殺に抗議する緊急声明を発表した。この記者会見の特徴は、支那大陸を取り巻く各民族が一致団結して声明を発表したことにある。もっとも、元支那人の石平氏を別にすれば、特定アジアの朝鮮民族の人は入っていないが・・・。
7月6日深夜に石平氏から緊迫した電話があったのがこの記者会見の発端だった。「何とかならないか」と訴える石平氏の真剣な声の裏には20年前の天安門事件への悔恨がある。「これじゃあ、天安門と同じだ」と彼が言葉を繋いだのは、ほとんど情報が入っていない状況で彼の直感が働いたからだろう。
7月12日早朝に宮崎正弘氏のメルマガで、アサヒ新聞がウルムチで銃の水平射撃があったことを書いていることを知り、驚いて石平に電話すると、彼は生まれて初めてアサヒを買うためにコンビニに走ったという。やはり水平撃ちということで天安門と同じだったのだ。
閑話休題。ペマ・ギャルポ氏に連絡を取り、ペマ氏からも支那の圧政に苦しむ各民族の日本在住の人々に連絡が行き、あっという間に6民族6人の緊急声明発起者が揃うことになった。これも昨年のチベット支援運動の残した遺産の一つだろう。
7月6日に、すでに世界ウイグル会議は声明を発表していたが、ここで日本発の日本人を含めたアジア人が支那人と中国共産党へ向けてウイグル支援への連帯の意思を表明することが何よりも重要だった。ところが現在、その重要性を理解できるまともなメディアは皆無に近い。
ま、大東亜戦争に敗れる前の日本人はいつもそうしていたし、それが日常の出来事だったのだが、どこでどうボタンを掛け違えて悲惨な敗戦を迎えたのかを、正確に客観的に科学的に私たちは分析しなければならない。また、そうしなければ、いつまでたっても日本は悪い事をした、という幼稚園児脳からの呪縛は解けず、きちんとした独立国として独立を保てず、アジアや世界の安定に寄与することなど夢物語になってしまう。
7月13日の緊急アピールの声明文は以下のとおり。会見場に現れたアサヒが記事にしたのは嬉しかったが、6民族による緊急アピールであることに触れていないのは残念だった。北朝鮮報道を巡っての支那政府とのアサヒの対立や、胡錦涛政権と上海閥の権力闘争によるアサヒ上層部の判断による報道なら、手放しで喜べない。
もっとも、記者会見に来た記者氏は「アサヒはとかく色眼鏡で見られるので、ウイグルのことをきちんと書くと驚かれるんです」という趣旨のことを言って苦笑していた。
中国によるウイグル弾圧への緊急声明
2009年(平成21年)7月13日
私たちは、過去から現在へ至る、中国共産党の民族浄化政策に基づくウイグル人の差別、弾圧、虐殺に抗議します。
6月26日、中国広東省の玩具工場で強制連行で労働に従事させられているウイグル人が、シナ人のデマが発端となる集団暴行事件に巻き込まれました。200人のウイグル人が6000人のシナ人に暴行を受け、100人が撲殺されるという恐ろしい事件が起きました。
7月5日、この事件が発端になり、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)のウルムチで、積年のシナの弾圧に対する抗議デモが行われました。しかし、中国政府はウイグル人の「暴行」と宣伝し、情報を統制して真実を隠しています。そして、現在、ウイグルを中心にシナ全土でウイグル人への徹底的な弾圧が人民解放軍、治安警察、それらによって操られたシナ人暴徒らによって行われています。
中国の武力弾圧やシナ人の攻撃で虐殺されたウイグル人は、5日から現在までで最大3000人に及んでいます。
私たちは、以下のことを要求します。
●中国は直ちに東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)でのウイグル人弾圧を止めろ。ウイグル人の強制連行、民族浄化政策を止めて、思想・宗教・言論・教育・結婚の自由を認めろ。
●中国は7月7日に不当逮捕した、北京の中央民族大学副教授イリハム・トフティ氏を、直ちに釈放しろ。
●中国は1964年から1996年までの46回にもわたる核実験によって、「核の砂漠」が現出し、ウイグル人ら19万人以上が急死し、129万人以上が白血病、癌などの急性放射線障害に罹った疑いを、国際機関の査察で明らかにしろ。
ウイグル自由人権アジア委員会
Asian Committee for Freedom & Human rights in Uyghur
イリハム・マハムティ(世界ウイグル会議日本全権代表・日本ウイグル協会会長)
ペマ・ギャルポ(桐蔭横浜大学教授)チベット人
スチェント(モンゴル独立運動活動家)モンゴル人
林建良(「台湾の声」編集長)台湾人
石平(評論家)中国系帰化日本人
西村幸祐(作家・ジャーナリスト)日本人
7月26日には午後6時半から国立オリンピック記念青少年総合センターで、
日本ウイグル会議主催の緊急シンポジウムが開催され、私も参加する。
2009-07-25 01:49
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日経サイエンス(米国サイエンスの翻訳版)
今月号に「中国の核実験」 が掲載されています。
過去からの衝撃
中国が過去に行った核実験の影響で多数の市民が死亡した可能性がある
トフティ(Enver Tohti)は1973年の夏に空から土ぼこりが降ってきたことを覚えている。当時,トフティは中国の最西端,新疆ウイグル自治区に住む小学生だった。「風はなく嵐でもないのに,3日間,空から土が降ってきた。空には太陽も月もなく,静かすぎるほど静かだった」と振り返る。何が起こったのかと生徒が先生にたずねると,先生は土星(中国語でも土の星と書く)で嵐が起きたのだと説明した。トフティは先生を信じた。それが自治区内で行われた核実験で生じた死の灰(放射性の塵)だったと気づいたのは,数年後になってからだ。
30年たって医師となったトフティは,なおも増え続ける死傷者(中国政府は断固としてこれを認めていない)を調べる試みを立ち上げつつある。新疆ウイグル自治区のロプノール実験場で1964年から1996年までに少なくとも40回の核実験が行われ,その放射能によって数十万人が死亡した可能性がある。
同自治区には約2000万人が住んでおり,これらの住人を調べれば放射能の長期的影響についてほかでは得られない知見が得られるとトフティは考えている。世代を超えて受け継がれる遺伝的影響の有無など,これまであまり調べられてこなかったこともわかるだろう。トフティはこうした影響を評価するため,物理学者の高田純(たかだ・じゅん,札幌医科大学教授)とともに札幌医科大学で「ロプノール計画」を立ち上げつつある。
「悲しいことではあるが,新しいことを学び,かつ他でも起きていると思われることを再現する好機でもある」と,チェルノブイリ研究イニシアチブ(CRI)の共同ディレクターでパリのフランス国立科学研究センターを拠点とするメラー(Anders Moller)はいう。
チェルノブイリ以上
高田の計算によると,新疆に降り注いだ放射線量のピーク値は,1986年のチェルノブイリ原子炉炉心溶融事故の後に原子炉建屋の屋根で測定された値を超えていたという。新疆の地元住民が受けた被害のほとんどは1960年代と70年代に行われた核実験が原因で,放射性物質と周囲の砂漠の砂が混ざり合って降り注いだ。広島型原爆の200倍にあたる3メガトン規模の核実験もいくつかあったという。高田はこれらの発見を『中国の核実験』(医療科学社,2008年。英訳は2009年)にまとめて出版した。
高田は米国と旧ソ連,フランスが行った核実験の放射能の影響を調べていた1990年代初めにカザフスタンの科学者から招かれ,隣接する新疆ウイグル自治区で中国が行った核実験でカザフスタンが被った影響の評価を依頼された。ソ連が記録していた爆発規模と,カザフスタンで1995年から2002年の間に測定された風速と放射能レベルの記録に基づいて放射性降下物の降下パターンを推定するコンピューターモデルを作成。中国への入国は許されなかったので,このモデルをもとに新疆の人口密度の情報を用いて,19万4000人が急性放射線被曝によって死亡したと推定した。約120万人が白血病,固形がん,胎児損傷を生じるのに十分な放射線を浴びた。「控えめな見積もりだ」と高田はいう。
続きはこちらに
http://www.nikkei-science.com/topics/bn0909_1.html#1
米国サイエンス
http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/06/post_d125.html
2009-07-25 01:12
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日経サイエンス(米国サイエンスの翻訳版)
今月号に「中国の核実験」が掲載されています。
過去からの衝撃
中国が過去に行った核実験の影響で多数の市民が死亡した可能性がある
トフティ(Enver Tohti)は1973年の夏に空から土ぼこりが降ってきたことを覚えている。当時,トフティは中国の最西端,新疆ウイグル自治区に住む小学生だった。「風はなく嵐でもないのに,3日間,空から土が降ってきた。空には太陽も月もなく,静かすぎるほど静かだった」と振り返る。何が起こったのかと生徒が先生にたずねると,先生は土星(中国語でも土の星と書く)で嵐が起きたのだと説明した。トフティは先生を信じた。それが自治区内で行われた核実験で生じた死の灰(放射性の塵)だったと気づいたのは,数年後になってからだ。
30年たって医師となったトフティは,なおも増え続ける死傷者(中国政府は断固としてこれを認めていない)を調べる試みを立ち上げつつある。新疆ウイグル自治区のロプノール実験場で1964年から1996年までに少なくとも40回の核実験が行われ,その放射能によって数十万人が死亡した可能性がある。
同自治区には約2000万人が住んでおり,これらの住人を調べれば放射能の長期的影響についてほかでは得られない知見が得られるとトフティは考えている。世代を超えて受け継がれる遺伝的影響の有無など,これまであまり調べられてこなかったこともわかるだろう。トフティはこうした影響を評価するため,物理学者の高田純(たかだ・じゅん,札幌医科大学教授)とともに札幌医科大学で「ロプノール計画」を立ち上げつつある。
「悲しいことではあるが,新しいことを学び,かつ他でも起きていると思われることを再現する好機でもある」と,チェルノブイリ研究イニシアチブ(CRI)の共同ディレクターでパリのフランス国立科学研究センターを拠点とするメラー(Anders Moller)はいう。
チェルノブイリ以上
高田の計算によると,新疆に降り注いだ放射線量のピーク値は,1986年のチェルノブイリ原子炉炉心溶融事故の後に原子炉建屋の屋根で測定された値を超えていたという。新疆の地元住民が受けた被害のほとんどは1960年代と70年代に行われた核実験が原因で,放射性物質と周囲の砂漠の砂が混ざり合って降り注いだ。広島型原爆の200倍にあたる3メガトン規模の核実験もいくつかあったという。高田はこれらの発見を『中国の核実験』(医療科学社,2008年。英訳は2009年)にまとめて出版した。
高田は米国と旧ソ連,フランスが行った核実験の放射能の影響を調べていた1990年代初めにカザフスタンの科学者から招かれ,隣接する新疆ウイグル自治区で中国が行った核実験でカザフスタンが被った影響の評価を依頼された。ソ連が記録していた爆発規模と,カザフスタンで1995年から2002年の間に測定された風速と放射能レベルの記録に基づいて放射性降下物の降下パターンを推定するコンピューターモデルを作成。中国への入国は許されなかったので,このモデルをもとに新疆の人口密度の情報を用いて,19万4000人が急性放射線被曝によって死亡したと推定した。約120万人が白血病,固形がん,胎児損傷を生じるのに十分な放射線を浴びた。「控えめな見積もりだ」と高田はいう。
続きはこちらに
http://www.nikkei-science.com/topics/bn0909_1.html#1
米国サイエンス
http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/06/post_d125.html
2009-07-25 01:06
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緊急シンポジウム
ウイグルで何が起きているのか?
日本ウイグル協会からのお知らせです。
http://uyghur-j.org/urumqi_symposium_090726.html
高田教授ブログより http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/
イリハムさん頑張れ!
驚きの分断事件が進行していますが、
私たちはイリハムさんたちの日本ウイグル協会を応援しています。
緊急シンポジウム
ウイグルで何が起きているのか?
【日時】
7月26日(日)
開場18:15 開会18:45
【場所】
国立オリンピック記念青少年総合センター
センター棟4Fセミナーホール(417)
※交通案内
【資料代】
2千円
【主催】
日本ウイグル協会 イリハム・マハムティ
2009年6月26日、中国広東省の玩具工場で6000人の漢人が200人のウイグル人労働者を襲撃する事件が起こりました。事件の現場では、警察が5時間以上虐殺行為を放置し、中国政府は事件をまったく報道しようとせず、犯罪者を逮捕しようとも事件を究明しようともしませんでした。世界中のウイグル人がその虐殺事件を知ったのはインターネットにあげられた事件の動画や掲示板への書き込みで、それは事件に関わった中国人たちが「ウイグル人を殺してやった」と喜び自慢する、あまりにも残酷な内容でした。
その事件に抗議するために7月5日、中国ウイグル地域ウルムチのウイグル人大学生が中国政府に抗議するデモを行い、多くのウイグル人がそれに賛同しました。しかし、中国政府は平和的な抗議デモを武力鎮圧し、電話、インターネット、報道、全ての情報を規制。ウルムチでそして他のウイグル地域で何が起きているのか分からない状況が現在も続いています。たくさんの死者、逮捕者、強制連行されたウイグル人たちの安否は分からない状況です。それだけではなくウイグル地域や中国全土に住むウイグル人が安全に生活できているのかどうか、確認するのは難しい状態です。
中国政府は漢民族が被害者であり、ウイグル人は暴徒だ、テロリストだと嘘の情報を世界に伝えています。私たちは中国政府が行ってきた大量虐殺と人権弾圧の歴史について知っています。何故ここまで悲惨な事件が中国によって繰り返されなくてはいけないのか? 私たちは現在入っている今回の事件の情報を中心に、真実を世界に伝えるためにシンポジウムを行います。
パネリスト
イリハム・マハムティ
世界ウイグル会議日本全権代表 日本ウイグル協会会長
ペマ・ギャルポ
チベット文化研究所所長
石平
評論家
永山英樹
台湾研究フォーラム会長
青山繁晴
独立総合研究所代表取締役社長
西村幸祐
ジャーナリスト、チャンネル桜キャスター
今、我々にとって一番心配することはこれからなんです。たくさんの若い者らが逮捕されて彼らの運命はどうなるか? これからウイグル地域でのウイグル人への弾圧は一層、厳しくなるのは間違いないです。
弾圧するためのいろんな口実を中国が作っています。それは何かというと「今回の事件を計画して実行した主な犯人はまだ逮捕されていない」。これはもちろん口実を作ったもので、これでその人の情報を得ているとか、誰々がその人と関係があるとか、そういう理由でこれからたくさんの人が刑務所に入ってしまう。殺される。
実はそういう逃げた人がいるかどうかが問題なんです。私たちの考えではそういう人はいないです。何故ならウルムチ全域、その日その夜、全面的にコントロールした中国政府はそんな一人二人を逃げさせるわけはないです。その夜に殺されて遺体を隠され、この世の中にいない人間を探すという運動をやってたくさんの人々を逮捕する。刑務所に入れる。これからたくさんの人が被害に会うとおもいます。
死ぬ人がこれから出るんです。ですから、今までこの件に関心を持たなかった全ての国の国際的な組織とか、いろんな宗教の団体とか、それから全ての民主主義の国々の国会とか、その国を代表する議員たちらがこの件に対してはっきりと意見を出して、そのウイグル人らの命を助けてもらいたいです。
もしそういう組織、あるいは議員、あるいはそういういろんな団体と関係がある方がいらっしゃったらぜひこのことをアピールしてくれて、たくさんのウイグル人の命を助けてもらえれば大変ありがたいです。ウイグル人はみなさんが助けてくれたこと、やってくれたこと、絶対に忘れません。どうかみなさんよろしくお願いします。
イリハム・マハムティ(ネットラジオ番組 RFUJラジオフリーウイグルジャパンより)
2009-07-25 00:53
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7.26 15時〜17時
札幌医科大学教授 高田純博士 時局講演会
会場: 北海道神宮参集殿
参加: 事前予約500円 当日700円
2009-07-25 00:39
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2009年07月21日(火)
宣伝用動画です。DVDよりも高画質ですw
شىنجاڭ ئۇيغۇر ئاپتونوم رايونى Shinjang Uyghur aptonom rayoni
by breno
この動画を見て泣いてくれた人がいます。
おつるも涙がでました。かっこいい動画、brenoさんありがとう
フリーウイグル、ウイグルラルガ エルリンリキ
************************************************************************************
Uyghur 新疆维吾尔自治区 日本 osaka Sherqiy Türkistan Jumuhuriyiti شەرقىي تۈركىستان جۇمۇھۇرىيىتى 我爱新疆*************************
2009-07-21 21:43
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大阪 第五回 東トルキスタンデモ A
今日は、天気予報では、午後から100パーセント雨となっていて
暴風雨に注意となっていました。
ものすごい風が吹く中での行進となりました。
私のすぐ後ろのN.Nさんとリコリスさんの横断幕が風を受けてたいへんなことに・・・・・
kinaさんの後に続いてみんなでコール!!!
フリーウイグル!
フリーウイグル!
フリーウイグル!
中国は虐殺をやめろ!
中国は真実を隠すな!
ウルムチの惨劇を許さないぞ!
ウルムチの死者に謝れ!
日本は虐殺をやめさせろ!
マスコミは真実を放送しろ!
我々はウイグル人を助けるぞ!
ウイグルに人権を!
中国は弾圧をやめろ!
民族浄化をやめろ!
民族差別をやめろ!
ウイグルの若者をさらうな!
ウイグルの女性をさらうな!
ウイグルの子供を殺すな!
中国はウイグル人に謝れ!
ウイグルに平和を!
中国は侵略をやめろ!
奪った土地を返せ!
漢民族を中国へ戻せ!
ウイグルに自由を!
言論の自由を!
教育の自由を!
宗教の自由を!
ウイグルラルガ エルキンリキ!
ウイグルラルガ エルキンリキ!
ウイグルラルガ エルキンリキ! (ウイグルに自由を)
三連休で、夏休み、お中元の時期ということもあり
御堂筋は、子ども連れやカップルなど 買い物客でいっぱいでした。
おつるもコールを交代し、叫びました。
「ウイグルの子供たちを殺すな〜」のところでは、
中国の核実験によって、体に障害をおった子供たちや
強制的に中絶させられる女性の心を想い、涙が出そうになり
悲痛な声になってしまいました。
後ろから、大阪のジャンヌダルクと呼ばれる天使みたいなノアちゃんや、愛媛のジャンヌダルクたち、そして動物愛護のJellyさんという方、いろいろな女性の力強い声が響いてきて、
私を引っ張ってくれます、勇気が出ます。
関西にはジャンヌダルクがいっぱいいるんだ。
蒸し熱くて、読んでいる途中も汗が噴き出して、
目に汗が入って、文字が読みにくかったり、のども痛くなってきましたし、拡声器のひもが肩に食い込んで重かったけど、
ウイグルのひとの苦しみを想うとこんなことでしんどいなんていってられない。
とちゅうで、イリハムさんが何度も
「しんどくないですか」と声をかけて下さいました。
私たちのために、応援してくれる人がこんなに集まってくれて
感謝ですとも何度もおっしゃいます。
イリハムさんこそたいへんなのに、
自分のことより 人を思いやる優しさ・・・
これがウイグルの方々の民族性なのだと思います。
沿道には外人の方が、写真やビデオを撮ってくれたり
携帯で写真を撮ってくれる若い人も多く、
子供さんと若いパパが拍手をしてくれたり、真剣にコールを
聞いてくださる方がいっぱいでした。
ウイグル問題は、報道されているけれど、マスコミの報道では
いったいどういうことなの?? なぜあんな事件がおきたの??って
疑問に思っている方は多いと思います。
ですので、「女性、子供を軍用車でひき殺し」や
「暴動ではありません」「女性をさらうな」 というような
マスコミでは報道されていないところを 強調して叫びました。
強い風と蒸し暑さにも負けないで、参加者の方々が共に大きな声で叫んで下さることに励まされました。
長い距離を歩いたけれど、不思議と途中からは、疲れなど感じなくなりました。夢中だったからかもしれないな・・・
いつもデモの途中には、靖国の叔父さんの顔が浮かびます。
靖国の叔父さんが、生きていたらきっとがんばれって言ってくれる
デモするだけでは何も変わらないとか、思考停止だとか、自己満足だとか、動かないで、批判だけする人がいるけれど
デモに集まる方々は お金のためでも自分のためでもなく
なんとかしたい。なんとかしてあげたい。なにかできることをしたいと
つき動かされてきた方々。
デモで顔を出して歩くことは、
実は、それぞれの職場やご近所などのいろいろな目などもあったり
それこそ、中国の工作員に命を狙われるかもしれない。
しかし そんなことよりも 自分を捨てて
他人のために 日本のために ウイグルのために ・・・・
主義・主張・思想なんかで集まったわけでも動員でもない。
東京や名古屋や愛媛からの参加者さんもみんな交通費も自分持ち。
集まった方々は尊い、愛でいっぱいの 心の清く正しく美しい方々
気高い方々・・・ 心に傷を受けたことのある方もいます。
だからこそ人の痛みがわかるのです。
おつるは、そういう方々が大好きです
だから デモの時はみんなの顔を見て 涙が出そうだし
嬉しくてニコニコしているのです。 応援したいし、手伝いたい。
そしてその愛と祈りが 日本を世界を・・・中国を
ウイグルをチベットを 変えることができると信じます。
終わってからの解散場所で、
カトリックのクリスチャンの参加者さんが、声をかけて下さいました。ブルーリボンバッチをされていて、デモの前にあった、拉致被害者さんの救済のための活動を終えて駆けつけて下さったそうです。
私と同じように、大阪教区、カトリック正平教の暴走を憂いて、大阪の教会を離れ今は違う教会に通われている方です。
クリスチャンのご参加は本当にうれしいです。
カトリックは、カトリック正義と平和協議会やシナピス、ピース9
カトリック部落問題委員会、カトリック20条の会、難民移住委員会などの左傾化した活動により、未信者の一般の方々から
「共産主義者ではないか、カトリックは腐敗している
カトリックはカルトだ、カトリックは偽装平和団体、市民団体だ」などと、非常に誤解されています。
この方のように拉致問題に関わる方がいることは、私のクリスチャンとしての誇りです。
そしてウイグル問題もトルコ系民族との関わり、イスラム教とのかかわりもあり、実は、長い歴史の中で、お互いに弾圧しあったり
お互いの文化・宗教を守るための戦いをしたりという
軋轢もあったのですが
でもそんな過去のしがらみを超えて、こうして
私や、このクリスチャンの方がウイグルのためを思うこと。
そしてウイグルの方が、信頼してくださること・・・
これこそが平和への祈りだと思います。
ドイツなどヨーロッパ各国のクリスチャンの国でもウイグルを
支援する人たちがいるのです。
日本のクリスチャンも、ウイグルのために祈りたい。
殉教者の魂を思うとき、ウイグルの悲しみも理解できるはず。
他にも日本シルクロード科学倶楽部のメンバーのクリスチャンの
Tさんも参加して下さっていました。
そして解散となり
打ち上げのお疲れ会・・・
ビールはおいしかったけれど、明るくふるまうみんなだけど
でもやっぱりどこか 胸の中に秘めた思いがある。
参加された皆様 本当にお疲れ様でした。
マスコミはやっぱり来てくれなかったけれど
brenoさんが一生懸命撮影してくれた ニコニコ動画や
you tubeで世界中に伝わればいいな。
brenoさんは なんどもダッシュしていったりきたり
停車している車にぶつかったりしながらの撮影。
打ち上げでもほとんど飲まず、食わずでの撮影。 有難うございます。
最後に協賛して下さった日本ウイグル協会
そして、イリハムさん、日本シルクロード科学倶楽部の全国のメンバーさんや 全国から応援して下さった方々
本当にありがとうございます。 感謝です。
でも戦いはまだまだ続きます。
これからも声をあげ、立ち上がりましょう
ともに・・・・戦いましょう。
みんなの思いがエネルギーとなって 何かが変わります。
2009-07-21 14:51
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大阪 第五回 東トルキスタンデモ @
暑い、暑い日でした。
ウイグルの女性の涙、ウイグルの子供たちの顔
殺された、血を流して倒れていたウイグルの人たち・・の事が
胸を痛くして、息苦しいほどの毎日でした。
主催者のkinaさんは、夜も眠れない、と言ってました。
私もずっと眠れない日々でした。
ずっとこの日を待っていました。
午前中は、女子サッカーの関西大会に2試合出場して
アップを含め5時間ほど太陽の真下にいてハードでした。
早くお手伝いに行きたかったのですが、兵庫県リーグを一年かけて
勝ちぬいたチームだけが出場できる 年一度の総決算の試合。
メンバーが11人ギリギリで、しかも 1試合めは、負けたので・・・
がんばるメンバー、そして暑い中頑張る監督やコーチを見ていると、どうしても帰れなかった。
ですので 大圓さんや kinaさんやリコリスさん、無名人さん
スタッフさんのお手伝いができなくて
本当に申し訳ない気持ちでした。
みなさんに甘えさせていただきました。
神戸の垂水から 高速を飛ばして自宅に戻り シャワーで体を冷やす時間もなく、汗だらけの体で浴衣に10分で着替えて、駆け付けました。大圓さんが、ぜひ浴衣でとおっしゃって下さっていたのです。
ですので到着時には足もと ふらついてましたが。。。笑
でも参加者さんが、頑張る姿を見て、気力で頑張りました。
到着してすぐに、主催者のkinaさんにご挨拶。
「イリハムさんが、来られるそうですよ」と教えていただいて感激
真夏の日差しの中、準備されていたkinaさんやリコリスさん
タナベさん、大圓さんたちは汗いっぱいかいてらっしゃいました。
天才カメラマンbrenoさんもすでにスタンバイ。
いつものNHK抗議のメンバー
チェ・ゲバラ皮肉TシャツをきたN.Nさん
(この方は陳さんのブログを通して知り合った騎士さんです)、
ハート眼鏡のたまちゃん
イケメンろーちゃんや
み〜んなにご挨拶。
フリーチベット関西のチベットデモの仲間もたくさん来てくれていて
とても嬉しかった
NHK抗議デモの時にいらっしゃった、チャンネル桜を支える会愛媛のお二人の女性が来られていて遠くからのご参加に感動しました。
優しい笑顔に元気づけられました。
他にも前回お会いした方々とごあいさつ。
みなさん、暑い中なのに、想いやりと愛の方々、笑顔がきれいです
日本シルクロード科学倶楽部京都のリカさんもご参加。
嬉しいです。
イリハムさん到着、固い握手を交わして、
そして集会がはじまりました。
イリハムさんのご挨拶は、涙が出そうでした。
イリハムさんは、今までお会いしたどの時よりも、
心に深く傷をおっていらっしゃるように見えました。
時おり見せる笑顔も悲しげで・・・私も胸が痛い。
イリハム・マハムティ氏によれば、インターネットでわかるウイグル情報は、中国共産党によるウイグル人虐殺の実態のほんのわずかにしか過ぎません。7月5日にウイグル人蜂起があった際に、中国共産党は、ウイグル人の住む地域の電気を消し一晩情報を遮断し、その間に、何千人ものウイグル人が行方不明になったのです。その真相を明らかにするためには全世界が中国共産党に圧力をかけなければなりません。
また、中国共産党のウイグル人弾圧は、一般市民だけでなく文化人にも及び始めています。
更に、現在でもウルムチ以外でのウイグル人の現状は全くわからない状態です。
7月5日以降、中国人には銃がくばられ、ウイグル人はこのままでは1週間又は1ヶ月でこの世から完全に抹殺されてしまう危険性に晒されています。
もはや中国共産党に対し、単なる圧力をかけるだけでなく、強い非難声明を出し、真相を解明するため調査団を受け入れるよう要請しなければなりません。そして、ウイグル人が抹殺されてしまえば、それは中国共産党の責任だけでなく全世界の責任でもあります。
私たちは、日本政府に対しても、声をあげるよう強く要請していかなければなりません。 (みやこさんレポート日記より)
つぎに、日本シルクロード科学倶楽部 会長の高田純教授からの
メッセージをことづかっていたので、読みあげさせていただきました。
7.19 ウルムチ弾圧虐殺を抗議する大阪集会での声明
みなさん、こんにちは、高田純です。
日本とアジアの現状と将来を心配されているみなさん、
みなさんの現状を打開したい熱い魂に、最初に、こころより敬意を表します。
本日は、東トルキスタンの首都ウルムチで7月5日からはじまった中国共産党による弾圧虐殺への抗議集会です。
お忙しい中、多数お集まりいただき、ありがとうございます。
今回もまた、声だけの参加をお許しください。
ただし、日本シルクロード科学倶楽部の大和撫子を代表する鶴姫に、私の声明文を読み上げていただきます。
シルクロードで発生しています人権人道問題は、遠い異国の出来事と見てはいけません。その意味はふたつあります。
第一は、人権人道問題に国境はありません。
中国共産党は、国際社会からの人権問題の批判・抗議を、内政干渉と決め付けていますが、それは違います。
人間としての、生存、宗教、職業、居住、婚姻などの基本的権利は、国家とは無関係に万人に保障されるべきものです。
この基本的人権を、中国政府はウイグル人から奪っているのです。
私は、中共の人権無視を批判します。みなさんはどう思いますか?
第二は、シルクロードでの人権人道問題は、対岸の火事ではありません。
日本にも大きな影響があります。
中共がシルクロードで148万人以上を死傷させた核の蛮行を隠蔽し、擁護するNHKや偽装反核平和団体が、日本国内に巣を作っているからです。
みなさん、織田信長が裏切り者の明智光秀に倒された本能寺の変を思いだしてください。
今、日本の足元には、こうした裏切りものがいるのです。
6月6日NHK会長に宛てたシルクロード犯罪番組に対する公開質問状に回答がありましたが、全くの嘘をついた呆れた内容でした。
現会長は、公共放送の代表者として相応しくないことが明確になりました。
NHKには、シルクロードでの人権問題を正しく報道する力はありません。
反省の全くないNHKは、解体するしかありません。
みなさん、どう思われますか?
人権人道問題には国境はありません。
シルクロードでの人権人道問題は、対岸の火事ではありません。このふたつの意味から、ウルムチの悲劇の問題を見ていこうではありませんか!!!
最後にコールしたいと思います。
シュプレヒコール!
・ 中国政府は、ウイグル人の人権を守れ!
・ NHKは解体するぞ!
・ 受信料を返せ!
ありがとうございました。
高田純 理学博士 日本シルクロード科学倶楽部会長
2009年7月19日
途中に強い風が吹いて・・・風が私を包んで励ましてくれるようでした。
読みあげる途中で、参加者の方が
「そうだーー!!」と声をけてくださって、ますます勇気と元気が出ました。
kinaさんの挨拶も心らの叫びのようでした。
イリハムさんや高田教授やkinaさんの思いが、祈りが
届きますように・・・・・
そしてデモがはじまりました。
中之島公園からスタート
参加者さんは、
おつるは日章旗を持って、イリハムさんと
チベットパンダさんとで3人で歩くことになりました。
どなたかが、動画へのコメントで
月 と星 は、西へ行った。太陽 は東へ行ったと
書かれていましたが、
イリハムさんの東トルキスタンの旗と日章旗の日の丸は
そのシンボルのように思えました。
2009-07-21 13:55
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2009年07月17日(金)
動画詳細:東トルキスタン(شەرقىي تۈركىستان East Turkestan Doğu Türkistan Sherqiy Türkistan 东突厥斯坦)宣伝動画2発目。日本における活動をメインに。
私は東トルキスタンにおける中国政府による核実験被害を訴える日本ウイグル協会、日本シルクロード科学倶楽部を支持します。(norzguljpさんより)
7月19日(日)
集合場所:大阪市北区、中ノ島公園(女神像前) 地下鉄淀屋橋駅下車、大阪市役所隣
集会開始:16:30分
デモ出発:17時
コース→御堂筋を南下し、難波付近で解散。
*プラカードや3民族旗、日章旗の持込大歓迎!
*怖い服装は不可
●主催:東トルキスタンデモ実行委員会
●協賛:日本シルクロード科学倶楽部 日本ウイグル協会
連絡先 携帯080-3811-8631(kina) メール uighur_uighur_tm@yahoo.co.jp
2009-07-17 14:06
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●札幌医科大学 高田 純 教授
日本シルクロード科学倶楽部のページより
http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/07/post_8a6c.html
倶楽部誌創刊号ができました!
倶楽部誌を、日本シルクロード科学倶楽部の会員が作りました。
創刊号が、本日刊行しました。!
まだ入会されていない貴方、是非、ご入会ください
入会方法はこちらへ↓
http://www15.ocn.ne.jp/~jungata/NSSCMem3.html
お問合わせはこちらへ silkroad.science.club@gmail.com
2009-07-17 13:49
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2009年07月15日(水)
bureno.VGA さん作成の告知動画です
7月19日(日)
集合場所:大阪市北区、中ノ島公園(女神像前) 地下鉄淀屋橋駅下車、大阪市役所隣
集会開始:16:30分
デモ出発:17時
コース→御堂筋を南下し、難波付近で解散。
*プラカードや3民族旗、日章旗の持込大歓迎!
*怖い服装は不可
●主催:東トルキスタンデモ実行委員会
●協賛:日本シルクロード科学倶楽部 日本ウイグル協会
連絡先 携帯080-3811-8631(kina) メール uighur_uighur_tm@yahoo.co.jp
2009-07-15 13:51
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kinaさんより
ウルムチ虐殺事件に関して、東京でもデモが行われますが、1週間送れて、大阪では19日に行います。
昨年のチベット蜂起に引き続く、
悲惨な事件に対し精一杯抗議しましょう!
7月19日(日)
集合場所:大阪市北区、中ノ島公園(女神像前)
地下鉄淀屋橋駅下車、大阪市役所隣
集会開始:16:30分
デモ出発:17時
コース→御堂筋を南下し、難波付近で解散。
*プラカードや3民族旗、日章旗の持込大歓迎!
*怖い服装は不可
主催:東トルキスタンデモ実行委員会
協賛:日本シルクロード科学倶楽部
連絡先 携帯080-3811-8631(kina)
メール uighur_uighur_tm@yahoo.co.jp
東トルキスタンデモ実行委員会 主催7月19日のウルムチ弾圧事件抗議大阪集会デモに対して、日本シルクロード科学倶楽部は協賛いたします
当日、札幌医科大学高田純教授のメッセージも届けられます
日本ウイグル協会も協賛です!!!
つぎのページに天才カメラマン brenoさん作成の
告知動画をのせます♪
*******************************************************
ちなみに、その日おつるは、午前とお昼に
女子サッカーの試合に出場してから参加。
体力の限界は 気力で頑張るぞー
高田教授、東京の方々、ウイグルの方々
大阪でも頑張ります。 ご支援お願いいたします。
イリハムさん、がんばりますからね!!!
2009-07-15 13:19
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老兵さまに教えていただきました。
宮崎正弘の国際ニュースより http://www.melma.com/backnumber_45206_4543980/
イスラム諸国を「敵」に回してしまった中国
アルカィーダはマグレブ諸国で『報復』(中国人殺害)を予告
***************************************
全世界のイスラム諸国が立ち上がった。シーア派のイランでさえ中国に対して、やわらかに「調査団」の新彊ウィグル自治区への派遣を主張し始める。
人口の多いインドネシア、トルコでは連日、数万の抗議、とくにイスランブールは十万人の集会が開かれ、これまで中国の顔色を窺ってきたトルコ政府もカディール女史の訪問にヴィザを発給した。
中国の揚外相はトルコ外相と電話会談して、「あれは外部勢力と結んだ過激派の行動であり、イスラム教徒への差別ではない」と釈明した。
トルコのエルドガン首相が「あれはジェノサイトでは?」とした発言をトーンダウンさせた。
ところが収まらないのはトルコ議会である。
トルコは世俗イスラムとはいえ、ちょっと裏町へ入ればイスラム原理主義過激派がうようよいる。政局がかわればイスラムの爆発がある。過激派のテロ事件もかなりの頻度でおこることはエジプトに似ている。
「コーサル・トプタン国会議長はアンカラ駐在中国大使を呼んで『この目で何がおきたかを確かめたいのでトルコ議員団の視察団を受け入れてほしい』と伝えた。中国側は本省に問い合わせると回答を避けた」(トルコの英字紙、ディリーニュース、7月14日)。
湾岸諸国も調査団の派遣を検討し、米国の議会の一部にも同様の動きがある。
旧ソ連アゼルバイジャンにも反中国ムードが拡がり、中国大使館へ押しかけたデモ隊から逮捕者もでた。
西側で最も抗議運動が盛んなのはドイツで、ウィグル組織があるうえ、数万の移民がウィグル人コミュニティを形成しているからだ。
また「サウスチャイナ・モーニング・ポスト」は「アルカィーダが北アフリカ諸国で働く中国人を殺害すると予告した」ことを伝えている(同紙14日)。同紙は北京寄りのメディアで、マレーシア華僑の郭鶴年が経営のため、北京への警告ともとれる。
しかし現実問題として、中国人技術者ならびに労働者は、マグレブ諸国にも溢れており、同時にイスラム過激派アルカィーダの支部が散らばるがアルジェリアが最大の拠点。
中国のアフリカ援助は建設現場、石油採掘サイトでも、現地人を殆ど雇用せず、プロジェクトが決まると中国人労働者を大量に連れてくるので、新植民地主義、侵略者=中国というイメージがアフリカ諸国では強まっている。
かくて中国はイスラム諸国を敵に回してしまったかのようだ。
2009-07-15 12:38
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2009-07-15 12:21
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2009年07月14日(火)
2009-07-14 12:43
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米流時評さん http://beiryu2.exblog.jp/9979670
の「中国武装警察・ついに始まった恐怖の人間狩り」の
記事より転載させていただきました。
おつるは、この女性たちの悲しみを黙って見過ごすことが
できません。
裏目に出た中国政府主催の取材ツアー
新彊ウイグル自治区ウルムチ市発 |ウルムチでのデモ弾圧虐殺から2日目の7日火曜、中国政府がジャーナリストのためにわざわざ組んだ、日曜の「ウイグル暴動」の現場取材ツアーが敢行された。しかし実際にはこの政府広報ツアーは、結果的には最初の取材地点で見事に裏目に出て、中国側の意図とはまったく逆の展開を見る羽目となった
写真:政府主催の取材ツアーの目的地、ウルムチ市南部のカーディーラーショップ周辺に集まってきたウイグル人市民
悲憤のウイグル人主婦が決死の抗議
ツアーバスの目的地は、暴動で焼き討ちにあった数台の車の残骸が残る、ウルムチ市南部にあるカーディーラーショップだった。ディーラーショップで被害に遭った担当者らにインタビューを行なった後、取材記者の一行が道路をはさんだ反対側のウイグル人所有のバザールへ向かおうとしている途中で、色とりどりの昔ながらのスカーフで頭を包んだ女性の一団が路上に立ち現れ、みな一様に悲憤慷慨の表情を浮かべていた。
写真:武装警察に銃を突きつけられ、前夜強制連行された夫や息子を返して!と泣きながら訴える、ウイグル人の主婦たち
「ウイグル人狩り」で300人強制連行
その中からアイニールさんというひとりの女性が声を上げ、こう叫んだ。
「月曜の夜になると、警察がやってきて、ウイグル人の夫や息子を片端から逮捕しました。その数は全部で300人近くにも達しました。」警察側は、デモと暴動に参加したしるしとなる真新しい傷やそれらしい証拠がある男たちを捜していたとアイニールさんは伝えた。
銃を突きつけられ拉致された夫たち
「私の主人は、銃をつきつけられて有無を言わさず連行されました。彼ら警察は、私たち(ウイグル人)を片端から殴りつけました。男たちを素っ裸にして傷を確かめました。最初うちでは恐ろしくて、入口のドアに鍵をかけたんですけど、警察はそのドアも打ち壊して、主人をさらっていきました。うちのひとは暴動になんかまったく参加してなかったと言うのに……」
漢人の自警団の襲撃でいつ殺されるか判らない恐怖で、抗議に出かけるにも子供を片時も離せないウイグル人の母親
武装警察、抗議の女性デモを挟み撃ち
取材記者団に訴えるために集まってきた女性の群衆は、およそ200人にもふくれあがり「ウイグル人に自由を!」とか「われわれの子供たちを返せ!」などとシュプレヒコールを上げながら、大通りを行進し始めた。しかし、彼女たちはたちまちのうちに、装甲車や放水車が待機していた道路の両側から繰り出した、数百人の武装警察の編隊に挟み撃ちにされてしまった
ウルムチ市南部で、夫や父親を返して!と素手で武装した兵士に立ち向かう、勇敢なウイグル人の女性たち
銃や警棒で武装した兵士に素手で立ち向かう女性
恐怖と緊張の余り失神した女性を介抱するウイグル人住民 デモ隊と呼ぶよりも自然発生的に集まった抗議の群衆
2009-07-14 02:09
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2009年07月13日(月)
7/12(日)は、猛暑の中、兵庫県レディースリーグ 第3戦でした。
4月 第一戦は 勝利
6月は 第二戦は 引き分け
そして 今日の試合は、桜ポッカーズさん
ベテランさんのチームです。
兵庫県リーグで最高齢、国体代表出身の70代の
めちゃくちゃ かっこいいフォワードさんがいらっしゃるチーム
キーパーさんとも顔なじみでいつも笑顔で挨拶してくださる方
わが バンヴェール兵庫は
フォーワードのひろちゃんが おめでたでしばらくお休み
とっても寂しいです。
さなえちゃんも出産したあとで まだ出られないので・・・
フォワード不足だけれど
新人の 元ヤンキー?? ニックネームが「センパイ笑」ちゃんと
セレブ?? の かつらちゃんの
背の高い二人も頑張ってます。
試合のアップ、トレーニングしてるだけで
汗だらだら・・・・
湿度も高いです。
監督は、新人が多く、お休みも多いから
今年度は、チームの形を新たに作っていくということを目標に
でも 決して負けないプレー、そして動きのあるプレー
そして 楽しくプレーしようと。
コーチは、いろんなアイデアを持って、ポジションにこだわらず
どんどん動こうと。
最近は、土曜日 まじめに練習に神戸に通っているので
今日は、おつるは、先発で出してもらいました。
いつもの右サイドバック!!
試合は、どんどん攻めてはじまりました。
でも さすが ベテランチームの桜ポッカーズさん
守備が堅いです。
おつるは、一番ベテランさんのマークです。
一度、コーナーキックから はねかえりのボールを
シュートしたつもりが 中途半端で失敗・・・・
走るーーーー
戻るーーーー
走るーーー
戻るーーーーーー
給水タイムあるはずが、審判さん忘れてるし・・暑い・・・・
おつるは ポジションがうまくいかなくて
たびたび 抜かれそうになって
監督に叱られました。
なんで そんなわざわざ しんどいプレーするんやーって
ラインを出て転がったボールを追って ひろいにいって
戻ってくる途中で なんでもないとこでコケた・・・
そのあと スローイン あせって ファールした・・・
失敗ばかりしてましたが
チームのみんなは、かっこよく
1点押し込んだーーーーーーーーーー♪
前半 1-0
ハーフタイムも監督にアドバイスをいただいて
そして後半へ・・・
後半 バテてきて 半分ぐらいのとこで交代でした。
もっと体力つけなくちゃー
そのあと、なんとチームのすごい連携パスからの
はまちゃんのスーパーシュートで 追加1点!!
やったー
というわけで 今日は 2-0
うれしいーーーーーーーーーーーー
監督も笑顔です。
おつるは・・・・もっと練習しなきゃ
来週は、関西大会です。 がんばるぞーーーーーー
で・・・・日焼けで鼻の頭 まっ赤っ赤なんですけどー
酒飲みすぎのおっちゃんみたい。
2009-07-13 22:08
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サッカー フットサル 大好き |
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2009年07月11日(土)
2009-07-11 02:00
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2009年07月10日(金)
巻頭言 2009年7月号
”私たちは神の乞食(こじき)です”
- 聖アウグスチヌス-
主任神父 和田 幹男
神は聖なるものだと言いました。
神が聖なるものであるなら、それに応じてわたしたちの生活も聖なるものでなければなりません。
パウロも言います。「これが神の御旨です、それはあなたたちの聖性です」(1テサ4の3)と。
そのためにまず祈らなければならないでしょう。 祈りとは神との「我と汝」、「わたしとあなた」の語らいと言えましょう(M・ブーバー)。
この祈りは、深い沈黙の中で行われます。 神は沈黙の友なのです(G.クルトワ)。
沈黙の中でこそ、わたしたちはその語りかける神の声を聞くことができます。
それは物理的な音声ではあ りませんが、全身全霊をもってその語りかけを受けとめます。
そのためには世の喧噪(けんそう)を避けて、静かなところに逃げ込む必要があります。 フーガ・エ・ムンド(世からの逃避)といいます。
初期の修道者たちの一つの精神です。彼らは信徒でした。それは各家庭の自室でもいいし、戸外の 自然の中でもいい。勿論、教会の聖堂もそのためにあります。特に小聖堂はそのために整えられています。
今日も一人、また一人と祈る人が来ていました。 どのように祈ればいいのでしょうか。主の祈りや天使祝詞、栄光唱など暗記している祈りを唱えてもいい。ロザリオの祈りを唱えてもいい。
昔からある 公教会祈祷文、あるいは最近の祈りの本でもいい。祈りの道に進歩すれば、個人的に瞑想的な祈りもできるようになるでしょう。
初歩のうちは既成の祈りの助けを受ければいい。また疲れて集中力に欠けるときにも、同じです。
ただし、祈りとは願い事だけはありません。たしかに、わたしたちも願い事をします。それは正しい。
聖アウグスティヌスは言いました。「わたしたちは神の乞食です」(mendici Dei sumus)と。
ですから、何でも願ってもいいのです。しかし、わたしたちの祈りは、ほかの宗教のように、願い事に終始しません。
わたしたちは神がわたしに何を願っておられるのか、にも耳を傾けます。
ここがほかの宗教の祈りと異なるところです。
神はわたしたちに嫌なこと、辛いことをお望みになるかもわかりません。ゲツセマネのイエスのように、父である神の御旨こそ優先します。
またわたしたちは神を賛美します。神に感謝します。罪の赦しを願います。主を味わって美味しいと味覚で感じるほどまで、祈りをとおして神に親しみたいものです。
Gustate et videte quoniam suavis est Dominus. (Ps.XXXIII,9,Vulgata)
主はなんと美味しいことか、味わって見なさい。
(詩編33の9、ラテン語訳)
2009-07-10 23:56
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キリスト教 カトリック |
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カトリック大阪教会区 tontonさんとRickさんに教えて頂きました。
ついに、7/9より
日本カトリック 大阪教区では、
セルフインティンクションが完全に禁止となりました!!!!!
セルフインティンクション
両形態による聖体拝領の方法として、司祭や聖体授与の臨時の奉仕から与えられたご聖体を、自分で手で持っておん血に浸して拝領(intinctio)したり、祭壇上に置かれたカリスを拝領者が自分で手にとって拝領をする方法
これは私にとって大きな喜びです。
カトリックの信徒さん以外のこのブログをお読みの方は何のことだか、なぜ、私が嬉しいのかわらないと思いますので簡単に説明しますと
現在、カトリックは、(特に大阪)は カトリック正義と平和協議会という カトリックの一部の団体の左傾化と世俗化によりどんどん崩れています。新生計画などという軽い言葉とともに・・・
聖徳太子のころに景教が伝わり、織田信長の時代に日本に広がり、
その伝統をかたくなに守ったために江戸時代〜に殉教した人々がいた
その思いを踏みにじり、どんどん世俗化、左傾化、共産主義のようになりつつあるカトリック・・・・・
私はその状況を憂いて、また 信徒以外の人々に カトリックのカルト化という誤解を払拭したいためにも 戦い続けています。
世俗化を元の伝統的で荘厳な教会にもどしたいと努力しつづける
カトリックアクション同志会や教会の政治的言動を憂慮する会にも
参加させていただいて勉強しています。
世俗化の象徴的な形としても、セルフインティクションは憂うべきことでした。
聖体拝領というのは、毎週、カトリックの聖なる教会において祈りとともに キリストの体をいただく 一番大切な儀式。
その形式を崩すということは、教会の聖なる存在 を崩すこと。教会が聖なるものでなければ、何の意味があるでしょう
中国では、バチカンに従う信徒は地下教会信者 として弾圧され、逮捕拷問をうけ、バチカンに背く教会が中国共産党の支持で天主教会 として公に認められていますが
バチカンが禁止しているのに、それに背く日本のセルフインティンクションの継続は、まるで中国共産党の天主教会のようです。
幸いなことに、私の箕面教会では、セルフインティンクションは行われていませんが
あまり左傾化していないと言われる北摂や阪神地区のある教会でもセルフインティンクションは行われ、敬虔な信徒がいくらやめてほしいと頼んでも禁止されなかったそうです。
ところが、本日づけで、下記の文書が各教会に通達されました。 ↓
Rickさんの感想
とても横柄な文章に思えるのは私だけでしょうか?
「わしら正しい事してんのに、なんぼ言うても聞いてくれへんねん。偉そうに・・・しゃあないわ、言う事聞いといたるわ」といった感じ!!!
おつるは、
このバチカンからの禁止に従わざるを得なかった大阪教区
私たちの願いが届いたことはすごいことだと思います。
セルフインティンクションは
日常的に行われていて、私たちの訴えるバチカンで禁止されていると
いう主張については
否定される信徒、信じない信徒も多かった。
はっきりバチカンから禁止されたのはすごいことです!!
この一番大切な部分を守ることは教会を守ること伝統を守ること
この禁止は、これから10年、20年、いや100年〜ずっと続くのです
神さま ローマ教皇ベネディクト16世様
駐日バチカン大使アルベルト・ボッターリ・デ・カステッロ大司教 ローマ典礼省の方々 有難うございます
実はあのI神父様の事件の後、
tontonさんが教皇大使にもバチカンにもお手紙を書き、
Rickさんもお手紙キャンペーンを呼びかけ
おつるもそれを受けて
3/21(土)に 大阪から東京のバチカン大使館に行き、(突撃訪問です笑) 秘書の女性に
この手紙を訳して大使様に読んでいただいて下さいと懇願しました。
その時の経緯はこちらです↓
ジャンヌおつる東京へ 番外編@ 〜ローマ法王庁大使館(バチカン大使館)訪問編〜
http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/754/
そのすぐあとの 4/1に 教皇大使様から、
禁止の文書が手渡されていたこと下記の文書に書かれています。
私の思いは届いたのですね
その手紙には、I神父様の件とともに、
セルフインティンクションや典礼の世俗化、左傾化が
特に大阪教区で蔓延していることを訴え禁止をお願いするものでした
私だけでなく、あの時、I神父様のことを想い、教会のあり方を憂うたくさんの信徒さんがともにバチカンや教皇大使様に手紙を出したと思います。
たくさんの信徒の真摯な思いと祈りが伝わったのではないかと思います。
これは偶然ではないと思います。
信徒の訴えや祈りは、バチカンにとどくのです。
教会を変えることができるのです。
私たちの勝利です
頑張れば、行動すれば、祈れば 思いはかなう
私たちは、あきらめないで、これらも左傾化・世俗化に声をあげて
戦い続けましょう。 カトリック正義と平和協議会の偏向政治活動をやめさせましょう
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ARCHDIOCESE OF OSAKA
カトリック大阪大司教区
Curia Osakensis
Prot.No.528/09
2009年7月9日
大阪教区の皆様
大阪大司教 池長 潤
信徒の両形態による聖体拝領の方法について
教区の神父様、修道会・宜教会の方々、そして信徒の皆様に、両形態による聖体拝領の方法について、お知らせいたします。
日本のカトリック教会では、これまで両形態による聖体拝領の方法として、司祭や聖体授与の臨時の奉仕者から与えられたご聖体を、自分で手で持っておん血に浸して拝領(intinctio)したり、祭壇上に置かれたカリスを拝領者が自分で手にとって拝領をする方法が比較的一般的に行われてきました。日本カトリック司教協論会・典礼委員会は、この方法を「日本の適用」として、再三、引き続き特別な許しを与えて頂きたいと、教皇庁・典礼秘跡省にお願いしてきました。
けれども、典礼秘跡省は、こ聖体もおん血も司祭や任命された奉仕者が、拝領者に手渡し授けることが、典礼上、定められた大切な規定として厳密に守らなければならないとの見解を強調し、2009年4月1日に駐日教皇大使を通して届けられた書簡においても、そのことが明示されました。日本カトリック司教協議会はこれを受け、今年6月の定例司教総会で、日本全体でローマの指示に従うよう確認いたしました。
つきましては、7月9日付けのこの手紙が届いた日から、大阪教区のすべての教会や修道会・宣教会でも、信徒(修道者を含む)が両形態による聖体拝領を行なう場合、以下の方法に従って行って頂きたくお願いいたします。
(1)司祭や任命された奉仕者から直接ご聖体およぴカリスを受け取って拝領する。
いったん受け取ったご聖体を、白分でおん血につけて拝領しない。
(2)ご聖体をおん血に浸して拝領(intinctio)する場合は、司祭や任命された奉仕者が直接拝領者の舌の上に置く。
役務を担う者の思いを謙虚に受け止め、日々主の死と復活を記念する教会が、いつもその永遠のいのちに満たされて歩み続けることができますように。
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つぎのページに 7月号のカトリック箕面教会の
神父様、和田幹男神父様の聖なる言葉をのせます。
2009-07-10 22:20
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札幌医科大学 高田純 教授 理学博士
日本シルクロード科学倶楽部 ブログより 転載
http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/
◆シルクロードを撮影したカメラマンが肺がん死!!!
シルクロード日本人核被害調査で、最初の情報提供がありました。ありがとうございます。
#1 男性 肺がん死
NHKスペシャル新シルクロードの撮影に参加したほか、20年に渡って
中国辺境部をテーマにしたカメラマン
この方の核放射線影響については、これから調査いたします。
別途、はやりシルクロードカメラマンの肺がん死を耳にしていますが、同一人物かどうかわかっていません。
この種の職業で、プルトニウム汚染のある核ハザードの危険地へ長期間いかれた人たちには、肺がんリスクが高まるのは、想定しているところです。
その他、
日本テレビの西遊記の現地ロケの場所をご存知の方、情報提供ください。
情報提供はこちら
http://www15.ocn.ne.jp/~jungata/SSP-J5-f1.html
http://www15.ocn.ne.jp/~jungata/SSP-J5.html
http://www15.ocn.ne.jp/~jungata/SSP-J5.html
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
NHKスペシャル新シルクロードの撮影に参加したカメラマンの
発がんと 死
これでもNHKは、撮影当時も現在も、核実験の危険性があるとは
認識していないというのだろうか・・・・
おつるは心配です。
シルクロード観光した日本人の方は、
定期的に癌の検診を受けられることが絶対必要だと思います。
癌は早期発見、治療せねばなりません。
もしご家族・ご友人にシルクロード観光に行かれた方が
おられたら癌の検査をすすめられたほうがいいと思います。
ウイグルの楼蘭遺跡やロプノル周辺だけでなく
中国西部、モンゴル南部、チベット北部などに旅行に
行かれた方も・・・
2009-07-10 15:13
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中国の核実験 /
日本シルクロード科学倶楽部 /
台湾 NHK抗議 |
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2009年07月09日(木)
●産経新聞阿比留瑠比さんのブログ
(政治部外務省兼遊軍担当。政治部の前は社会部、その前は文化部 生活班に所属。)
国を憂い、われとわが身を甘やかすの記 より
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/1123334/
ウイグル自治区での中国の核実験について
2009/07/09 17:28
中国・新彊ウイグル自治区で起きたウイグル人と漢族との衝突事件が大きな話題となっています。中国の胡錦濤国家主席は晴れ舞台であるサミットをすっぽかして急遽、帰国しましたが、他の地域にも飛び火しかねないこの問題の根深さ、重要性を強く意識してのことだろうと思います。胡氏は、自身もかつてチベットで弾圧を行い、それを出世の足がかりとしてきた人だけに、小数民族問題には特に敏感にならざるを得ない部分もあるのかもしれません。
現在、日本大使館員も各社の記者も現地入りし、状況把握に努めていますが、情報が錯綜していて、事情はよく分からないところもあるようです。まして、日本にいる私には、「又聞き」情報しか入ってこないので、本日はおそらく今回の事件の遠因の一つになっているであろう問題について書こうと思います。きょうはサミットの首脳声明でも「核兵器のない世界」を目指すことが盛り込まれたようですし。
私は以前、先日のエントリでも紹介した日本ウイグル協会代表のイリハム・マハムティ氏から一冊の本を献本されました。それは、札幌医科大の高田純教授 の「中国の核実験 シルクロードで発生した地表核爆発災害」(医療科学社)という著書で、イリハム氏は本に添えた手紙に、こう記していました。
《核実験を行った国は多数あるがそれなりに放射能拡散には気を使い、被害を最小限に抑えるための事前の対策を行っている。それでもソビエト連邦時代に事故を起こして被害が広がった。しかし中国共産党政府の核実験は情報の公開は勿論、放射線被害に対する処置や医療行為などを行っていることを聞かない。このことは人類に対する大犯罪であると言っても過言ではないだろう。第1回の核実験は1964年10月16日東京オリンピックに合わせておこなわれた。日本人の気持ちを逆なでするような、徳の無い行為は許すことが出来ない》
日本人にもっとウイグルの実態を知ってほしいというイリハム氏の気持ちが伝わってきます。また、高田氏 はこの本の「序」で次のように書いています。なにげに中共べったりで知られる某公共放送もちくりと刺していますね。
《実験場は、日本文化に大きな影響をもたらしたシルクロードの要所であった楼蘭の近くにある。日中の国交が1972年に再開し、日本人が好んで訪れる観光地でもある。筆者も、若いころに井上靖氏のシルクロードを舞台にした小説を読んでいたが、よもやそうした地で、中国が核実験を行っていたとは驚かされた。公共放送でも、しばし、この地の文明の遺跡を紹介してはいるが、この種の話題に触れることはなかった》
この本によると、中国は、ウイグル人の暮らすウイグル地区のロプノルで、1964年から1996年にかけて、地表、空中、地下で延べ46回、総爆発エネルギー20メガトンの核爆発実験を行っているそうです(うち、放射線災害として最も危険な地表核爆発を含む大気圏実験を、少なくとも1980年までに21回実施)。ウイグル地区の当時の平均人口密度の推定値6.6〜8.3人/平方キロメートルから、死亡人口は19万人と推定されるといいます。また、健康影響のリスクが高まる短期および長期の核ハザードが心配される地表の推定面積は、日本国土の78パーセントに相当する30万平方キロメートルに及び、観光などで現地を訪れる人は核ハザードのリスクも多少あることを知るべきだとしています。
中国政府は公式な実験データの公表をしていないので、上の分析は隣接するカザフスタンの報告資料や、中国研究者の平松茂雄氏が日中友好協会を通じて入手した資料などをもとになされています。高田氏は次のように指摘しています。
《中国の核爆発実験においても、周辺住民への健康影響の調査と必要な医療対応が、人道上求められるのはいうまでもない。はたして、実際に関わった科学者や軍人、そして実験に関与はしなかった周辺住民の被害に対し、中国政府はいかなる対策を講じているのか。中国政府機関からの放射線防護上の線量および健康影響についての報告が公開されていないので、気にかかるところだ》
《ウルムチおよびトルファンの人口は160万人および24万人である。その周辺にも集落が点在しているはずである。あるいは、遊牧民が暮らしているかもしれない。いずれにせよ、これらの地域へ夥しい核の砂が降下し、ウイグル人たちが危険な外部線量を受けた。さらに、汚染した農作物や乳製品、飲料水の摂取による内部被爆を受けたと考えることは、合理的である》
…詳しい科学的分析については、この本に直接当たっていただきたいのですが、それにしてもひどい、とんでもない話ですね。某公共放送も、シルクロードに大量の取材班を送り、大金を使い、長期滞在して取材を重ねていたわけですから、少しはこうした問題も取り上げたらどうかと改めて感じました。中国に対しては、政治家にもよく「多数の異民族をまとめて統治していくのは大変なんだ」と変な同情を示す人がいますが、何をバカなことを言っているのかと思います。同情、共感する相手が違うだろうと。
本日は都内で、昨年7月以来となる第5回日中人権対話が行われました。その席で中国側は、ウイグル自治区での衝突事件について「一部の不法分子による扇動があった。これに法律にのっとり対処した」と説明したとのことです…。
2009-07-09 23:41
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台湾 NHK抗議 /
中国の核実験 /
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NHKは 中国の核実験を知りながら危険性を隠ぺいし、
シルクロード取材によるシルクロード番組を報道し続け、
危険地域に 何十万人もの日本人観光客を呼び寄せた。
いまだに、シルクロードの核被害を隠した偽DVDを販売。
そして、NHK抗議における高田教授の公開質問状に対する
NHKの高田教授への返答は、
「取材当時も現在もこの地域で
核実験の放射能の危険地域だという認識はありません」??
というあきれた回答であった。
高田教授は、カザフスタン、ゼミパラチンスクの調査を過去、続け
そこで、カザフスタンとウイグルの国境の町での放射線被害を
実は、中国側の核実験の影響であることを調査。
旧ソ連の何倍もの威力の核実験を続け、
ウイグルの人々に核実験の事実を知らせず、健康被害を出し続けた
中国は健康調査も公開していない。
カザフスタンは、高田教授に依頼し
健康調査を実施し、被害の実態を明らかにしている。
今なお、隠ぺいし続ける中国の核実験の実態や被害を
一切、隠ぺいし、
この偏向報道を続けるNHKの姿勢は、許されない!!!
なぜ、中国の核実験のことを隠すのか。
NHKは、ウイグルやチベットや台湾の人々を
人間扱いしていない。
下記の下線の部分は、そのままこのように
おきかえることができるのだ。
住民たちは核実験の事実を知らされず、健康被害が明らかになったあとも中国 によって沈黙を余儀なくされた。そして実験は、30年間に渡って続けられた。実験場周辺では、今なお正常値の何十倍もの放射線が検出されている。核の脅威は、今なおウイグル(東トルキスタン)の人々の生活に静かに忍び寄っている
↓
ハイビジョン特集 フロンティア
セミパラチンスク 18年後の現実 〜カザフスタン核実験場跡〜
BShi 8月10日(月) 午後8:00〜9:29
ザフスタン北東部のセミパラチンスクで、1949年から89年までに約500回の核実験が行われた。91年の実験場閉鎖から18年が経過したが、今なお放射能汚染の影響は続いている。
核実験は、なぜセミパラチンスクで行われ、周辺に住む人々の暮らしや健康をどのように脅かしていったのか。番組は旧ソ連の原爆研究者や医師の証言をもとに、セミパラチンスクにおける核実験の歴史を辿る。住民たちは核実験の事実を知らされず、健康被害が明らかになったあとも旧ソ連によって沈黙を余儀なくされた。そして実験は、40年間に渡って続けられた。実験場周辺では、今なお正常値の10倍の放射線が検出されている。核の脅威は、今なおカザフスタンの人々の生活に静かに忍び寄っている。
カナダの制作会社、4 Square Productionsとの国際共同制作によるこのドキュメンタリーは、実験場周辺で最も被害が大きかったとされるサルジャール村を中心に、放射能汚染の実態を丹念に取材。被爆による重い健康被害を抱える人々の怒りと叫びに向き合い、核の恐怖と残酷さを明らかにしていく。
http://www.nhk.or.jp/bs/hvsp/
高田教授゛おっしゃるには
以前は旧ソ連に批判的だったけれど調査によって
旧ソ連の核実験と
中国の核実験を比べたところ・・・・
旧ソ連はまだまだ人道的、住民に配慮しているとさえ思えるぐらい
だそうですから
どれだけ中国の核実験がひどいかが わかると思います
2009-07-09 22:45
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台湾 NHK抗議 /
中国の核実験 /
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本日発売の週刊新潮7.16号に 4ページにわたって
札幌医科大学 高田 純 教授の 論文が
掲載されています。
高田教授、日本シルクロード科学倶楽部ブログより
http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/
NHKシルクロード犯罪番組を斬る!!!
NHKの呆れた回答を斬る!!!
NHKの反国民性を暴く!!!
週刊新潮7.16号(本日7.9発売)
http://www.shinchosha.co.jp/shukanshincho/newest/
【特別読物】
シルクロード「核汚染」を隠蔽し続けるNHKの大罪
札幌医科大学教授 高田 純
●チャンネル桜 放送ビデオ 「もうひとつのNHKの大罪」
http://junta21.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/07/nhk_8f0b.html
2009-07-09 22:35
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中国の核実験 /
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