ご存知のようにACとは、アフター・キリストの略であり、BC、ビフォアー・キリストの時代と分けて考えることができる「思考を整理しやすい」用語です。
私は、今までしつこいくらい「科学の科とは分けるという意味である」と教えてきました。「分別」とは「道理をよくわきまえていること。また、物事の善悪・損得などをよく考えること(大辞泉)」という意味であり、「分ければ分かる」「違いを分ければ、違いが分かる」と説いてきました。
今後は、政権交代前と政権交代後の違いを分かってもらえるように、政権交代後の「変化」について書いていきたいと思います。
表題のACのCとは、「CHANGE」のCです。つまり「交代」「変化」後をAC、アフター・チェンジとし、「交代」「変化」前をBC、ビフォアー・チェンジと分けて考えることにより、私たちの「思考」を整理することができるものと私は考えます。
反対に、ACとBCを分けて考えないと、その違いも理解できないだけでなく、変化についていけなくなるに違いありません。時代の流れの中で「孤児」にならないよう、ACとBCの違いをしっかりと分けて考えることが、個人や集団の成功への必須の条件であると私は確信しています。
第一回目は「日本国憲法」の精神について書きます。まずは前文をお読みください。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
<転載貼り付け終了>
二度と戦争を起こさないために人類普遍の原理に従いなさい、と言っていますが、私はあの戦争から60年以上経った今日の「日本国」に求められているのは、この憲法の前文の精神であると考えています。
「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」と書かれていますが、はたして今までのBC社会での政治道徳は普遍的なものであったでしょうか。私は違うと思います。
これまでの政治道徳は、とても「道徳」とは呼べるものではなかったのではないでしょうか。弱者を切り捨てる弱肉強食のこれまでの社会は、「国家の品格」にも書かれているようにケダモノの社会です。
<引用開始>
競争社会とか実力社会というのは、野放しにすると必要以上に浸透していきます。究極の競争社会、実力社会はケダモノの社会です。
<引用終了>
私は、政権交代後のAC社会の「道徳」とは、憲法の前文に表されているように「人類普遍的な原理」に基づくものでなくてはならないと考えます。権力者である政治家も、憲法に表されている「人類普遍の原理」に基づいた、権力の行使をしなくてはならないことも語るまでもありません。
お分かりいただいたと思います。BC社会とAC社会では、日本の「政治道徳」をチェンジさせなくてはならないのです。簡単に言えば「競争社会」の通念から「共生社会」をつくりあげる「道徳」へと深化させなくてならないということだと私は考えます。
それでは、AC社会の「政治道徳」とはどのようなものでしょうか。私は一言で表せば「友愛政治」であると考えます。
鳩山代表は、遊説で「民主党が政権を獲ったら一人の命も粗末にしない友愛の政治をつくる」と説いています。
ここがポイントです。BC社会では「一人の命」に目を向けてきませんでした。孤独死、餓死、凍死するのも「自己責任」の範疇でした。AC社会では、「一人の命」に目を向けます。この点が、AC社会とBC社会の最大の違いと言ってよいでしょう。
「一人の命」、つまり「個人」に目を向けることは、「その福利は国民がこれを享受する。」ことの、理にかなっています。
BC社会は、マス(大勢)に目を向けた「サービス」が、行政サービスの常識でした。AC社会では、反対に個人に目を向けた「ホスピタリティ」精神が、憲法の前文に示された行政サービスの「普遍的原則」「崇高な理想」として位置づけられていくに違いありません。
大勢を相手にしていた行政が、政権交代後のAC社会では、個人に目を向けた行政に大きく方向転換していくでしょうが、勤勉で真面目な日本国民ですから、必ずや「一人の命も粗末にしない友愛政治」は実現していくと私は確信しています。
言行や出来事は「思考」から生まれます。
冤罪事件の多発など「基本的人権」がないがしろにされてきたBC社会と、「基本的人権」の擁護を第一とするBC社会を明確に分けて捉え、私たちの「思考」も、古き「思考」を捨て、新しき「思考」を積極的に受け入れるという、前向きな姿勢が求められます。
「違いを分ければ、違い(本質)が分かる」のです。BC社会とAC社会を分けて考え、BC社会を省察し、「サービス社会」から「ホスピタリティ社会」へ、つまり友愛社会の実現に向け、国民一人ひとりが意識的にチェンジしていくことこそが、この国を再び光輝かせるのです。
友愛社会とは、個人を思いやり、互いに「富」や「豊かさ」を分かち合う、人間愛に満ちた「普遍的で崇高な理想社会」であると私は考えます。来る総選挙がこの国に暮らす全ての人々にとって「歴史的チェンジ」になることを祈りたいと思います。
次回は、「国民主権と三権分立」について書きたいと思います。