JAL123便の垂直尾翼が吹き飛んだと思われる相模湾上空の南40キロメートル高度一万五千フィート付近は、R116と呼ばれる自衛隊演習区域になっており、これは既に述べた雫石事故が起こされた空域として前科まであります。
事故当日、無人標的機を飛ばして演習を行っていた可能性も高く、しかも、海上自衛隊の所有する無人標的機5機のうち、一機が消息を絶っているといいます。
海自の護衛艦まつゆきから飛び立った可能性が指摘されていますが、事故当時、このまつゆきは性能試験期間中で、何かの訓練を行っていた可能性は否定できません。
無人標的機には鮮やかなオレンジ色の塗装が施されていますが、墜落現場にはオレンジ色の金属片が残されていたばかりか、それらが一箇所に集められた日航機の他の残骸とは別に、荷札をつけられることもなく機動隊の手によって運び出されている事実が指摘されています。
このオレンジ色の金属片、日航機の機体には用いられていないことも、航空機の整備関係者の証言によって明らかになっています。
DFDRのデーターを信じるなら、
”ドーン”の瞬間に前方に加速され、なおかつ機首を上げる動きをしています。
何かがぶつかったとするならば、後方から747以上の速度の物体が
尾翼にぶつかったような挙動
自動操縦を自動でも手動でも解除されたときは「プルルプルル」とか「ビービー」とか
かなり目立つ警報音が鳴るはずなのにCVRには入ってないのは
事故前はどんな事でも動揺しない強い根性の持ち主だったって誰もが言ってたから、 高濱機長
管制では、123便の話題を口にすることはタブーだ。
話に出そうものなら命すら危ないからな。
元関係者
> >オレンジ色の破片だけでは何とも言えないのですが、、
> >それが金属であるのかも記述されて無いし、どのような形状かも解らない
> >ので判断できませんが?
> 写真入り記事を見た記憶で書きますと、大きさは1mちょい、
>やや長細い破片で、形状は、素人が一見するとジャンボ機の破
>片と思ってしまうような、引きちぎられた外板のようなもので
>す。おそらく金属で、汚れなどはなく、ごく新しいものである
>と思います。
妹がCAの卵として入社の年でした。カーゴでの研修中に"HUMAN BODY"なる荷入力作業をさせられ、成田寮に帰ると主のいなくなった扉前には花束があったそうです。
無人標的機って全長3m、全幅2mくらいですから、1mの破片
が墜落現場に有ると云うことは、、 これが標的機の物であると
するとB-747 に標的機の大部分がメリ込む位の衝突があったハズ
なんですが? 爆発音は記録されてるけど、上記したように衝突
したとすると事故機にはかなりの機体振動があったことになるの
ですが??
※ちなみに事故発生時にもげちゃった尾翼の部品って、FRPとか
アルミハニカム材など比較的弱い所ばかりですね。ジュラルミン
で構成されてた垂直尾翼の主桁などは最後までちゃんと残ってた。
鶴のマーク自体残っていたわけですよね。
空中衝突事故といえば、通常は管制官の誘導ミスから引き起こされているケースが多いですが、実際にはそれ以外の衝突もあります。
記憶に新しいところでは、2001年5月、三重県桑名市上空で中日本航空の大型ヘリコプターとセスナが衝突し、六人が死亡した事故を挙げることができます。
このケースでは、事前に互いが互いを視認していたにもかかわらず、不可抗力的に衝突しています。
両機が一点へ向かって飛行する際、相手機を視認しづらくなる「コリジョン(衝突)コース」に入った可能性の高いことが事故調によって指摘されていますが、本件にみられるように、空中衝突事故は、我々が直感的に思うほど、極めて起こりがたい事態とはいえないのではないでしょうか。
本書は、新たに公開されたボイスレコーダーの記録から、後部損傷が生じる直前からコックピットが緊張状態に置かれていたことを指摘しているほか、遺品のカメラから現像された写真の一枚に、それらしき飛行物体の影が撮影されていた事実を挙げています。コックピットの緊張状態は、事故直前から無人標的機を視認していたために生じたものではないかというわけです。
少なくとも、JL123便の損傷原因が、圧力隔壁の損傷などではなく、外部からの衝突物体によるものである
フライトレコーダーの解析から、ドーンという音と同時に、機体は前方向と横方向に押された感じになっていることが明らかになっています。事故調の報告は、それを異常「外圧」によって励振された自由振動と解釈しています。垂直尾翼の一次的破損が原因で、そうしたことは起こりません。圧力隔壁損傷に伴う変化なのだとしたら、その際には人が吸いだされるほどの急減圧が生じていなければならないのではないでしょうか。
やはり、何かが「外から」衝突してきたと考えるのが自然であると愚考する次第です。
>乗客が右後方から迫る標的機を撮影したとの話があります。
>客席の窓から撮影可能なのは横に近い位置です。
>この場合、コクピットからは見えませんから、機長が視認していた論と食い違う
撮影可能な方向は、横だけではありません。体験的にいえますが、右前上下方、右後上下方とも、ある程度撮影可能で、不可能なのは主翼にさえぎられた方向と進行方向及び後方に限定されると存じます。
右前方から事故機の進行方向に対して鋭角的に衝突したのだとすれば、つじつまは合うはずです。
もっとも、その場合、写真も右前方に異常物体を捉えていなければなりませんが、「後方から」迫っている写真という情報のソースが問題です。
本書では、撮影者は機体右側威版後ろの座席から三列目、右側窓より席の通路側で、窓際は撮影者の奥方の席であり、飛行物体は右側45度「前方」方向に撮影されていると指摘しています。
このほかJL123便が炎を吹き上げた瞬間を地上から目撃した証言が複数あり、これは隔壁損傷にともなう現象とは食い違うことも指摘されています。
何より、オレンジ色の塗装を施されたアルミ板の数々が事故現場に残されていた事実、事故現場以外の下田市須崎の海岸で発見された、日航機のものとは異なる機質の金属片の存在などは、無人標的機激突を示唆する根拠になりうると思います。
標的機との角度の問題ですが、前に書きましたのは反航の場合でして、方向としては富士宮のやや西あたりでしょうか。
これが同航ですと標的機の針路は215度となり典型的なコリジョンになります。
つまり、早くから視認していても相対位置が変化していないと錯覚する結果衝突してしまうのです
墜落した機体の損傷状態を実際にみた幾人かの専門家は、皆一様に右上方から何かの外圧が加わって破壊された疑いがあることを指摘しています。フライトレコーダーの記録とあわせて考える限り、衝突角度は右後上方からであると考えられます。無論、後方からの衝突といっても、同時に運動している物体の衝突なのですから、衝突物体を右前方上方に視認していたとしても、矛盾はありません。また、これは生存者の「天井部分が破壊された」という証言とも矛盾しません。
無人標的機が飛び立った可能性ですが、当初、無人標的機はファイヤービーが疑われていました。しかし、このファイヤービーを搭載できる艦は「あづま」や海自の自衛艦ASU81号などに限定されます。事故当時、あづまは呉基地に停泊していたことになっていますが、ASU81号と同型艦は全艦、事故発生空域近傍の横須賀基地にあったので、それらから無人標的機が飛び立った可能性もなくはないといえます。
1985年8月8日の読売新聞で、新たに無人標的機チャカUを偵察機に改良したものを導入するという記事が載っています。このチャカU、ファイヤービーを小型化したもので、発射台ごと艦に乗せかえることが可能であるといいます。つまり、発射艦は「あづま」である必要がないというわけです。「まつゆき」は護衛艦ですが、当時は性能テスト期間中であり、無人標的機としてではなく、無人偵察機としてこれを飛ばしていた可能性もあるというのが、本書の主張になろうかと存じます。
現場に残されたオレンジ色の物体が、事故機とは別に集められた旨の証言が紹介されています。
また、現場でそうした証拠隠滅を疑わせる自衛隊の活動を示唆する証言もあわせて紹介されています。オレンジ色の物体に関する出典はジャーナリスト吉原公一郎氏の「墜落現場から消えたオレンジ色物体のミステリー」という雑誌記事で、週間ポスト1985年9月20日号に掲載されたものです。
運輸省は15日、新たに回収された事故機の補助動力装置の吸気口は機体右側の部品であり、垂直尾翼の破片も右側の方が痛みがひどいことなどから、異常事態はいずれも機体の右側で起きていることをつきとめた。これは、機体右側の、尾翼と胴体の接続部付近で、何らかの大きな衝撃があったためとみられ、運輸省は破片の断面や傷み方などについて分析と解明を急いでいる。
事故機から「ドア・ブロークン」との連絡のあった右最後部の「5番ドア」は14日、墜落現場で、レバーが「クローズ」で胴体にちょうつがいでついたまま原型をとどめて見つかった。ドアそのものは壊れていなかったものの、同省は「機体の右側で何らかの異常があったことは間違いあるまい」と「右側」を重視している。相模湾で14日見つかった尾翼下にある補助動力装置の吸気口は、機体の右側にとりつけられていた部品。この部品は、胴体に内臓されているもので、よほどの力が加わらない限り抜け落ちない。この装置の本体らしいものは墜落現場で見つかっており、同省では、吸気口だけがなぜ、本体から離れて海上に落下したにかに注目していた。
このビデオテープに日航B747型機の機体とは明らかに違うオレンジ色の金属片が写っているのを発見したのだ。航空機の整備関係者にも見てもらって確認したから間違いない。
それは、垂直尾翼と水平尾翼が発見された墜落現場にあったのだが、明らかに垂直尾翼の外板ではない。
ビデオテープには、現場に散乱した部品や遺品を集めている機動隊員二人が、この金属片を見つけ、運んでいるところも写っている。
不思議なことに、これには一箇所に集められた日航機の他の残骸と違い、機体の位置を示す荷札もついていない。当初は後部胴体の外板の一部かも知れないと思ったが、日航機はオレンジ色を使用していないという。
1965(昭和41)年2月4日に起きた羽田沖ANA機(札幌発羽田行きB-727型機、機番JA8304)墜落事故で当時54歳だった父を亡くしました。乗客乗員133名全員が死亡という当時世界最大の航空機事故でした。政府事故調査委員会の座長は木村秀政日大名誉教授でした。パイロットミスを示唆しながら原因不明と結論を出して委員会は解散、ただひとり、調査委員会メンバーだった明治大学教授の山名正夫氏が、通常は着陸滑走時に立てるグラウンド・スポイラが飛行中に立って失速を起こしたことは間違いない、と著書「最後の30秒」(昭和47年 朝日新聞社刊)で自説を述べています。
JAL123便のニュース速報を聞いたのは勤務先から友人たちと新宿に向かう車の中でした。通常は伊豆大島まで南下してから本州の太平洋岸を西に向かうことを度々の出張旅行で知っていた私は、「羽田から大阪行きの飛行機が群馬県上空で行方不明?」と、咄嗟に航路を頭に描いて不思議に思いました。4人が生存していたとは言え、あの事故で500名以上の方々が亡くなったことが私の中で消えかかっていた当時の記憶を呼び覚ましました。数年前に刊行された「墜落遺体」は涙と慟哭なしに読むことが出来ませんでした。父の事故、そしてJAL123事故も重たい闇の中に真の原因が隠されてしまったように思えてなりません。
南側急斜面の上では自衛隊のヘリコプターが何かをつりあげているのが見え隠れしていた。

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