2009年 08月 02日
第32普通科連隊頑張れ!! 第34回富士登山駅伝競争大会


8月2日、いよいよ第34回富士登山駅伝競走大会がスタートとなります。

いつもお世話になっている奥宮俊祐自衛官、小河内吉哉自衛官、門倉輝明自衛官はじめ本レースに参加されます陸上自衛隊大宮駐屯地第32普通科連隊の選手の皆様のご活躍を心よりお祈り申し上げます。


われらが、なべさんも町田走友会の欠員で出るそうですのでみなさま、彼へのご声援もよろしく御願い申し上げます。テレビ放送はないので情報が入りにくいのですが・・。

御殿場市ホームページ

# by segl | 2009-08-02 07:41 | Ⅴ 登山の方法論
2009年 08月 02日
北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 記事目次と追記情報
記事目次

Sub Eight 版

北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。
・・・すべての情報をひとつの記事に集約してあります。

甲武相山の旅版 ・・・15の個別記事に分かれます(8月02日現在)。

北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 その1

その2(参照記事①)

その3(参照記事②)

追補

追補2

追補3

追捕4

追補5

追補6

追補7

追補8

追補9

追補10

追補11

追補12

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追記情報

※ 続報が入り、詳細な経過(特に最後までツアー客を引率したガイドの松本 仁さん(本文ではガイドCとして表示)がコマドリ沢分岐に倒れていたこと、等)がわかってきたので、記事の一部修正を行いました。 19日 AM1:30 追記
※ 十勝毎日新聞の記事を元に作成させていただいた遭難と救助の経過を時間を追ってまとめた記事、自衛隊の報告書、個人的な考察②を補いました。19日 AM11:30 追記
※ 2002年7月に今回の事故とほぼ同じ内容のガイド登山による遭難事故がヒサゴ沼~トムラウシ山~トムラウシ温泉を舞台に発生しております。詳細はこちらです。遭難事故 2002年7月トムラウシ山遭難事故 20日 AM01:00 追記
※ 考察③ トムラウシ山遭難の特徴、時間の計算、現場での判断の難しさ。を補いました。20日 PM01:00 追記
※ 考察②の文章をフェイル・セーフの概念を用い、読みやすいように一部書き直しました。20日 PM06:30 追記  
※ 考察④ ツアー主催会社社長、防寒対策の不備否定 を補いました。 20日 PM11:30 追記
※ 考察④の感想について、内容を補い、ルートイメージのリンクを付け加えました。 21日 AM07:30 追記
※ 考察⑤ 同時性多発性の問題~認識不足が偶然重なったのか?それとも、想定外の悪天候だったのか?21日 PM03:00 追記
※ 考察⑥ 山の計算(状況判断のダイナミズム)、ツアー登山の現実 22日 AM09:00 追記
※ 読売新聞18日夕刊の記事に、16日の経過が記載されているので、追加しておきます。ただ、この記事内容が、他社の記事と合致しない点を幾つか含んでいるので、全面的に信頼するのではなく両論併記のまま追加記載することにします。 22日 PM11:00 追記
※ すなわち読売新聞18日夕刊によると以下のようである。
「5合目まで下りた午後4時前にはガイドを含む3人が動けなくなった。ガイドは携帯電話で「動けなくなった」と道警に通報。残る8人がさらに登山口を目指したが、体力の消耗が激しい登山客の歩みは遅く、隊列も崩れ、最後は散り散りになって下山したという。」

注 この5合目とは前トム平を指す。この読売の記事を読む限りでは、前トム平までは11人が揃って下ってきたように読めるが、他社の記事を読む限りではそのようには把握できない。読売新聞の記事では、8人が前トム平から下山したように読めるが、実際に自力下山できたのは5名で、ガイドC(松本 仁さん)はコマドリ沢分岐で発見され、前トム平で4名発見うち3名死亡という他社の情報もあり、読売新聞の記事をそのまま信用できない。
また、「(松本 仁ガイドが自分自身が)動けなくなった。」と連絡したというのも初耳である。


追記 毎日新聞によると以下のようである。
■下山
 「(ツアー客)10人をまとめておりてくれ」「(トムラウシ)分岐で全員を確認してくれ」。32歳ガイドは別の38歳ガイドに伝えた。38歳ガイドを先頭に客10人は下山を目指した。しかし、隊列はやがて分裂していく。「ガイドのペースが速すぎた」との証言もある。
 38歳ガイドについていけた客は3人。その一人の戸田さんは心配になって戻ったが、後ろにいるはずの7人のうち、2人の姿は見当たらなかった。トムラウシ分岐付近では38歳ガイドの呼び掛けが聞こえたが、間もなく途絶えた。その後、一緒に下山していた味田久子さん(62)=名古屋市=が歩けなくなった。
 最終的には38歳ガイドと客2人だけが先に進み、5合目付近の前トム平に到着。携帯電話は通じるようになり、午後3時55分に38歳ガイドが道警に救助要請。最初の体調不良者が出てから約5時間半も経過していた。
 下山を目指した11人中、自力下山できたのは5人のみ。味田さんら女性3人と木村さんは途中で力尽きた。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20090723ddm012040002000c.html


更に18日読売新聞夕刊によると以下のようである。
「一方、午後4時30分頃には、山頂近くのビバーク先から、ガイドが携帯電話メールで「7人下山できません 救助要請します」などと連絡。更に30分後には、「すみません8人です。4人ぐらいダメかもしれないです」と伝えた。日没後の午後8時過ぎには、道警が登山客らの容体を確認するため、ガイドに定時連絡するように指示したが、午後11時18分、電話に応答しなくなったという。」

注 この記事で山頂のビバーク先から携帯メールで直接連絡があったというのは、初耳である。他の記事では、松本 仁さん(ガイドC)を通じてツアー会社や警察などと連絡がなされていたように受け取れるからである。また、なぜ7人ではなく8人なのか、誰が一人増えたのか?不明である。山頂付近では携帯電話は通じないようであるが、携帯メールなら交信が出来たのであろうか?ここのところも他の情報源とは違っている。
 とりあえずここでは両論併記するにとどめる。現場にいたガイドである多田学央さんの証言がいずれ真相を明かしてくれるだろう。 22日 PM11:00 追記


追記 毎日新聞によると・・
【午後4時45分】ビバーク中の32歳ガイドからアミューズトラベルにメールが届く。「すみません。7人下山できません。救助要請します。トムラの北沼と南沼の間と北沼の2カ所です」
【午後5時15分】32歳ガイドから再びメール。「すみません8人です。4人くらいダメかもしれないです。○○さん(61歳ガイド)も危険です」
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20090723ddm012040002000c.html

※上記引用の読売新聞記事と比較照合するべく毎日新聞記事情報を追記しました。23日 AM10:00 追記

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20090723ddm012040002000c.html


北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 考察⑦ 松本 仁ガイドの行動を考える。 を追補しました。 24日 AM12:00 追記 


北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 考察⑧ トムラウシ山と美瑛岳、遭難初期の捜索活動の比較 を追補しました。 26日 AM12:00 追記

北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 考察⑩ 低体温症発生回避のためのヒサゴ沼避難小屋からのエスケープルートについて、 を追補しました。 26日 PM23:30 追記

北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 考察⑪ 低体温症のタイムリミットは、5~6時間、トムラウシへのこだわりと行動ペースの誤算の可能性 を追補しました。 28日 PM17:30 追記

北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 考察⑨ ヒサゴ沼避難小屋からトムラウシ登山口に下山するまで18時間かかることについて、トムラウシ集団遭難事故に見る「行動不能に陥る確率」について、
を追補しました。 29日 AM07:30 追記

北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 考察⑫ ガイディング能力への過信、気象予測の難しさ、プロガイドのプロたるゆえん・・。を追補しました。 30日 PM23:00 追記

北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 今回の事故について戸田新介様のご意見 と 幾つかのご回答を追補しました。 31日 PM14:00 追記  

※ 上記記事に関して、質問①~⑨7月31日公開、⑩~⑱ A①~A⑦ 8月1日公開、19~19-8 A⑧~⑱  8月2日公開、



# by segl | 2009-08-02 07:40 | Ⅶ 省察
2009年 08月 02日
追補12 今回の事故について戸田新介様のご意見 と 幾つかのご回答 2
戸田様よりメッセージをいただきましたので原文のまま掲示させていただきます。


自分の言ってることはあくまで推理です。しかし当時のことを知ってる人は限られていて、責任の重さを感じています。ほかの人と話せるとはっきりするんですが。トムラウシ分岐で停滞したのが10:30~12:00とされているのも自分が言い出したことが独り歩きしたようです。1時間30分の長さは「少なくとも」という意味で言ったのですが、10時30分は出発時からのおおよそをのべたのです。それが確定した事実のように扱われてしまって誰が言い出したかわからなくなりそうで、マスコミの怖いところです。




遭難発生時の時間と場所についてお聞きいたします。

19. 最初の故障者が発生した北沼に到着したのは11:30~との認識でよろしいでしょうか。


トムラウシ分岐に着いたときです。ここで停滞しました。その始まりが11時30分と自分は今は考えています。北沼に到着したときは小川を渡ったときで、11時ごろかとおもいます。



19-2 そこで吉川さんが故障者に付き添いますが、その後一行が歩き出すのは何分後でしたでしょうか。


この故障者はすでにロックガーデンより前から吉川ガイドが付いていたようです。小川を渡るときも彼女だけ渡れず、32歳ガイドが別のところを探してきて手を伸ばしていました。この時38歳ガイドが水に入ったのだと思います。そして彼女をトムラウシ分岐まで連れてくる経緯が野首さんが語っているところでしょう。彼女をやっとトムラウシ分岐までつれてきて、十分に休ませるというのが停滞の原因だとおもいます。自分たちは何も知らされず彼女が来るまでと、彼女を休ませる時間を合わせて2時間待たされたのだと思います。1じ半に出発となりました。彼女を吉川ガイドのところに運ぶ予定で。



19-3 一行が前進を開始後、次の故障者が現れるのは場所はどこで何分後になりますか。


1時半に出発しようとしたら立てない人が一人出ました。低体温症が停滞中に発症したと思います。市川さんです。真鍋さんは彼女と一緒にツァーに参加したのですが、彼女が出発の時来なかったので心配していたと言っていました。
だから出発の時。出発のところで。彼女は32歳ガイドが機会をみつけて回収していったのでしょう。



19-4 32歳ガイドがテントを張って故障者を運び入れた地点と時間を覚えていましたら教えてください。
それは北沼から南沼方面にトラバースする道との分岐付近でしょうか。


じぶんたちはしゅっぱつしていたからわかりません。すぐではなく時間をかけて一人づつ運んだのでしょう。



19-5 32歳ガイドがケアに集中し始めた時点の一行の編成(各故障者とテントとの距離、故障していないパーティの位置)をご教示ください。


亀田   前田   真鍋  市川  岡  味田 竹内 長田   戸田  植垣 松本 第一故障者 植垣  斐品   野首  木村 女救出者 吉川
男生還 女生還 女生還  女亡 女亡 女亡 女亡 女生還 男生還 女亡 男生還 女亡     女亡 男生還 男生還  男亡 女生還  男亡
テントは32歳ガイドがあとで建てたのです。待機中はありません。



19-6 32歳ガイドが38歳ガイドに指示を出した時間と場所は第二の故障者収納テントと理解してよろしいでしょうか。


指示をだした時は出発から10分として1時40分。場所はトムラウシ分岐から70m下。テントはまだどこにもありません。吉川ガイドのところに2人を集めてどこにたてるかかんがえるということです。



19-7 1.5時間~2時間の滞在中に風や雨に変化はみられましたか。


始めより弱くなったと思います。雨はばらばらと降る感じです。風はむしろ乾くので心地よいにですが、のちに体が冷えると肌についた下着のあせでたえられなくなってくる。



19-8 滞在時間が長引いた原因は、32歳ガイドが故障者の搬送に追われていたからと理解してよろしいでしょうか。


動転していてなにをすべきか考えていないのだ。方針なるものがなく、全員を連れていくとの考えにしがみついたのだと思います。危機対応能力の問題です。できたことは後で考えることにして、現実に対し最善を尽くすのが普通の考えだと思いますが、かれはその点でじゅうだいな欠点をかかえていたということでしょう。搬送に追われたのは現象であり原因ではありません。さらに言えば、かれは頂上付近で電波が通ることを知っていたのです。4時30分に会社にメールをいれているのが証拠です。風雨が強かったからという説もありますが風雨はおさまってきています。かれは携帯を出して連絡しようともしていない。なお38歳ガイドに救援を依頼したというのもよくわからない。頂上でできるのになぜ下に行くのか。だれもそんな話は聞いていません。あれは38歳ガイドの行為が理解できずマスコミが作った仮説でしかない。かれは偶然によって110番に関与したが、自分の携帯で詳しく連絡を取ろうともしていない。さらに前トム平あたりでためそうともしていない。これが自分の仮説です。



20. 32歳ガイドが『トムラウシ分岐』で10名を確認してほしいと38歳ガイドに伝えたとのことですが
それは南沼キャンプ場の分岐のことですか。


トムラウシ分岐のことならそうですが、そこから70m下というところです。




とりあえず以上です。


毎度お手数をおかけいたします。

よろしく御願いいたします。

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戸田様

おはようございます。

戸田様の文がとても興味深いと、昨夜私の山仲間が電話をしてきました。
そのひといわく、ツアーにおいては延期が出来るわけがなく、ルートを変えることも先ず出来ないそうです。
理屈では、停滞するべきだとか、ルートを変えるべきだったといえるのですが、現実は、出来る相談ではなく、空論だそうです。

思うことをご自由にお書きいただいて構いません。
ご遠慮なさることはありません。


今回の事故はアミューズの体制に問題があると思います。最大の問題はあの2人がガイドになったことです。北海道が初めてで、下見もしないガイドなんて単なる荷物運びですよ。だれがこういう人選をしたのか、各営業所の責任者がいると思います。また全体を統括する本社の責任者がいるわけです。

札幌営業所はアミューズにとって先兵というか、現地事務所でしょう。ドル箱路線ですよ、アミューズの山旅の「花」ですよね。その責任者が32歳ガイドだと思います。札幌営業所、さらにはアミューズのエースだったと思います。大学をでて10年、6年ほどフリーのガイドをしていて(そのような話を聞きましたが違っているかもしれません。)今は札幌営業所の職員です。生活の安定は格段の差がありますよね。そして営業所職員としての考えがしみついて、今回はそれを優先させたのでしょう。宿や飛行機とか客の苦情とかの苦労がわかると、安全優先で通すことができないということでしょうか。


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今回は、私が考えるご質問の続きです。swanslab様とは質問の傾向が多少異なりますが、よろしく御願い申し上げます。

なお、文中
頭にAがつく番号は前回(二回目)の私の質問からの続き(通し番号)です。
頭にAがつかない番号は、swanslab様のご質問番号です。


A⑧ 質問⑧のご回答にある風雨ですが、稜線で体験した暴風雨に近い状況を、過去本州のどこかの山行で体験されたご経験がありますでしょうか?このご質問の意図は、「このくらいの雨風は過去に経験したことがあり、なんとかやり過ごせる。」と戸田様に心理的余裕があったのかどうかにあります。


ありません。町で台風にあった時がそれです、ザックを担いで台風に出会えば同じだと思います。台風の時は山に登りません。


A⑨ これは確認ですが、質問⑧のご回答にフリースを着るとありますが、小屋を出るときは、質問A③のご回答にあります、モンべルジオライン3d長袖、と雨具だけだったのですね。


そうです。前日はそれで一日過ごしましたから。



A⑩ 質問⑩のご回答にある、カッパのボケットに入れていた非常食ですが、具体的にはどのようなものをどのくらい携帯しておられ、また補給されていたのでしょうか?


アミノバイタル3袋、これは天沼から日本庭園の間に立て続けに食べました。カロリーメイト2箱、全部たべました。


 
A⑪ 質問⑰のご回答に関して、ライトはお使いでしたか?それはヘッドライトですか、ハンドライトでしょうか?他のツアーメンバー斐品さんと長田さんは、ライトはお持ちでしたか?


3人ともヘッドランプです。長田さんは電池が弱くなったとかで誰かのあとに着きたがった。じぶんは彼女を道迷いに引き込んだので信用を失っていました。それで斐品さんの後についたようです。かれは前にこのコースを歩いたことがあると言っていました。



A⑫ 質問⑱のご回答に関連して、松本仁ガイドにお会いし、報告義務がある旨おっしゃられたときに、松本ガイドの体調はどうでしたか?低体温症発症の気配はございましたでしょうか?


彼は黙って聞いていたので分かりません。ただ一時間そこで休んでいたので回復していたようです。ということは低体温症でなく疲れか、または低体温症の軽度のものかそんなところだと思います。かれは本能的にここならなにもなしでもビバークできるとおもったと思います。痛々しいとか異常な感じはありません。風もほとんどありませんし。



A⑬ ガイドたちは、自分達が遭難状況にあるということを認めたくはなかったのでしょうか?
遭難騒ぎになるのを恐れていたのでしょうか?そのため、ことさらに110番通報に積極的ではなかったといえるふしは認められますか?


そうだと思います。大騒ぎになるのを嫌ったのでしょう。客に動揺を与えたくないと言っていますが。全員を下に連れていけると考えていたとしかおもえもせん。故障者がでなくても全員が降りるには夜遅くなると、コースを熟知していた彼なら分かると思うのですが。かれはそれでよいと考えたのでしょう。ビバークはありません。4にんようテントが1つですから。とにかく歩き続けるしかない。あるいは32歳ガイドはコマドリ沢でのビバークを考えていたのかもしれません。つまり故障者をここまで持ってくるとか。謎です。彼に聞いてみたいが言わないでしょう。かれはまじめすぎるのだと思います。社交的でもないとおもいます。花の知識は完ぺきです、色んなことを勉強したのだとおもいます。ただ机の上のべんきょうですね。本当はベテランガイドのもとで一定期間インターンとか研修をうけるとよいと思います。我流ではねえ。抜け落ちるところがありますから。



A⑭ ガイド3人の様子についてお伺いしますが、3人で幾度かあれこれ話し合っていたようなことはありましたか?ヒサゴ沼避難小屋でそういう状況を目撃したことはありますか?


普通はガイドはあまり相談はしないと思います。打ち合わせで済ますのだと。緊急時には相談するかというとどちらともいえない、今回はどうかというと32歳ガイドが客の不安の声に、天気が昼から回復するからといって説得したというところからは、他のガイドは32歳ガイドの判断にまかせたのだとおもいます。目撃はしていません。



A⑮ 戸田様がガイド3名について、それぞれに対する信頼を決定的に失ったのは何時頃でしょうか? あるいは最後まで、信頼できたガイドはいましたか?


38歳ガイドについては初めから期待をしていません。実は彼とは因縁がありまして、3週間前(6・20)に高妻山(戸隠の奥、百名山)に行った時彼が先頭のガイドだったが、かえりには途中から左の尾根に移るということになっていたところ、かれは分岐点で待っていず20m先で待つので、先行者のすがたを見失った客が直進してしまい「どこだどこだ」とさわいでるのです。それで動かないでといい、後詰めのガイドを待ったところ、すこしもどったところから降りるみちがあって合流できたのですが、後詰めのガイドに「分岐点では全員の数を確認してからおりてください」といわれていた。しかも帰りのバスのなかで彼がなにを言ったかというと「このコースは問題のコースで、先日もかえりが遅くなり終電に間に合わないといった騒ぎになり名古屋営業所で問題になったが、今回は一時間も早く着いた」と自慢げに話すのでこちらは絶句するだけでした。これはここではまだはなしてないとおもいます。


吉川ガイドはよくわかりません。ただ彼は添乗員の立場で参加していて(旅行業法で規制された国交大臣認可の資格だとか?)、その任務をつとめようとしていたようです。つねに最後をつめ客が隊列から抜け落ちるのをふせいでいたようです。ただし添乗員は客の様子に注意をはらい、そのうえでガイドと話し合うというのがすがただと思いますがかれが客のようすをきこうとしたことはありません。はやくに力を失って亡くなるというのは、最大の任務放棄だと思います。これは客の立場から言っています。彼の遺族からは別の意見があると思います。それを否定はしません。


32歳ガイドについてはよくやっていると思っていました。いまでも生還者のなかにはそういう意見があるでしょう。じぶんもずうとそうおもっていました。警察の調書の作成でもよくやっていたと言ったと思います。

ここで調書のことを述べておきます。事情を聞かれてよくじつ署名するのですが、まとめは事情をきいた警察官がするのです。そこには「一概にガイドたちを非難できない」という文言が最後にはいっているのです。じぶんはさらにだからと言って資質とか能力の点で問題がないわけではないと言ったつもりですがそれはなかった。自分はよくやったことはみとめるとして迂闊にもだきょうしてしまい署名をしてしまいました。宿に帰ってこれはまちがいだと気付き電話して取り消すと言ったのだが警察はとりあわないのだ。あとで道警から出張するか、地元警察に依頼することになるという。またいったん署名した調書は撤回できないという。そのあといちど道警にメールをいれたがそのうち連絡するというだけでいまだに連絡はない、このまま黙るのを待っているようですね。これが警察だとおもいました。そこで自分はどうしたらよいと思いますか、意見を聞かせてください。

32歳ガイドへの不信は事情をしらべて彼がすべて取り仕切っていたと気付いたからです。また4時30分のメールが頂上付近からだと、おしえていただいたからです。つまりかれは110番をできたのにしなっかたわけで人の命を考えないのだと気付いたからです。



A⑯ ヒサゴ沼避難小屋を出てから、コマドリ分岐に至るまで、ツアーメンバー以外の一般登山者と行き違ったり、追い越されたりしましたか。その際にその登山者と会話をなさいましたか?
もし差しさわりがなければ、どのような会話をなされたのか教えてください(例 今日は酷い天気ですねとか、どちらまで行くのですか?とか・・)。


自分は気付きませんでした。



A⑰ こちらでは、停滞するべきであるとか、ルートを変更するべきであったとか、いろんな議論があがっているのですが、 現場の雰囲気として、16日早朝、ヒサゴ沼避難小屋で、そういう議論はなされたのでしょうか?又もしなされたとして、実際に停滞または、ルート変更できたとお考えになりますか?


トイレに行っていて、帰ったら何もなかったから議論などなかったのでしょう。数人が中止をもうしでたというがこれもきいていません。自分はこんかいの山行についてなんの予備知識も身につけずに、2日まえに荷物一覧を書き出しバタバタとそろえたというていたらくでして、ツァーのよいところはそこにあると思っていました。じぶんでいくと一人ですからいつでも行けれる=いつもいけれないとなってしまいます。だからルート変更はしませんでした。停滞について、さきにすすむコースがどういう風なのかしらないので前日のように行けれると思っていました。ロックガーデンでこんなコースと分かっていれば自分なら止めるのにとおもいました。たぶん避難ルートを聞いてそちらに逃げたと思います。



A⑱ いわゆるトコロテン方式で、翌日は、同じアミューズツアーのグループがヒサゴ沼避難小屋に宿泊予定であった、であるから16日ツアーは出発せざるを得なかった、という意見があるのですが、これに関しては、どうお考えになりますか?


当然32歳ガイドのあたまにはそのことがあったでしょう。かれはこのばあいガイドの資格でありながら営業職員の考えで決めたのでしょう。営業職員としては次の客の不便も考えるでしょう。客は営業職員のかんがえの犠牲になったともいえます。客にとってはガイドの考えで動いていると思っていたから、これは裏切りに等しいと思います。彼は同じ義務と思っていただろうけれど。



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とりあえずは、以上で御願いいたします。
またよろしく御願い申し上げます。





# by segl | 2009-08-02 07:35 | Ⅶ 省察
2009年 07月 31日
追補11 今回の事故について戸田新介様のご意見 と 幾つかのご回答

※ 以下、戸田様から質問形式でお答えいただいた内容を原文のまま掲載させていただきます。
※ 原文に忠実に、一切の脚色を施さず、誤字脱字も修正しておりません。
※ 今回、ご質問を作成なさったのは、swanslab 様 なお、カッコ内は、私が噛み砕いて質問の趣旨を説明した文です。

※ 質問①~⑨7月31日公開、⑩~⑲8月1日公開

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今回の事故で、全国の山を愛する皆さんに対するメッセージのようなものがございましたら、ぜひお書き添えください。 私のところに掲示させていただき、皆さんにお読みいただこうと思っております。


自分が見たことをあまさずみなさんに知っていただきたいです。自分には知らせる義務があると思っています。
自己責任論が亡くなられた人に対しとなえられ、「ちょっと違うぞ」と思っています。不可抗力の要素はあると思いますが、それに対する一定限度のサポートはあってしかるべきとおもいます。それがツァー山行だと思います。突然サバイバルの場につれてこられて命を失った人に代わって、「それは違うぞ」と訴えたい。
後は低体温症の知識です。自分はガイドたちに低体温症の知識があったとは絶対おもいません。そして自分に低体温症の知識があれば、もっと早く対策を要求したのにとおもいます。


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以下ご質問事項です・・。


まず、ガイドの様子についてお聞きします。

①登山全体を通して、計画、状況、判断の説明をする人は、三名のガイドのうち誰でしたか。
(ガイドの名前は吉川ガイド 多田ガイド 松本ガイドのうち誰がリーダー格でしたか?という意味です。独りの人が全部決めていたのか、それとも、役割分担があったのかを知りたいのです。


32歳ガイドがすべてを決めていたとおもいます。北海道がはじめてで、気候やコースについて何も知らない人になんの決定権がありましょう。38歳ガイドとは行きの飛行機で相席となり、彼が「夏休みの代わりとして会社があたえてくれた」といっているのをきいています。つまり責任の軽いもので、お手伝いをすればよいとかんがえていたようです。吉川ガイドのことは分からないが、「雨は気にしないで歩けばよい」といったことをいう人です。(じぶんへの発言)また携帯は持たないとウソをいう人です。最終日には「今日は皆さんを下に送り届けるのがしごとです。」といっていたといいます。



②前日(15日)の天候をご教示ください。
(どのくらいの雨だったかとか、結構衣類が濡れてしまったとか・・、寒かったとか・・、避難小屋についても乾かなかったとか、そういった情報です。)


前日は朝から終日雨でした。風速は5mぐらいです。山の雨ですからはじめはそれほどには気にならなかったのですが、そのうちからだの芯からぬれたようにかんじました。眼鏡が外側は雨粒がつき、内側は曇り苦労しました。ただ着衣は上は春夏ようのジャッケトとゴアのカッパで十分でした。下着まで全部ずぶぬれです。靴はズクズクで靴下は絞れるほどです。自分は全部着替えましたが着干しの人もいました。女客のことは分かりませんが雨具以外を干しているようではなかったとおもいます。シラフをはんぶんぬらしシラフカバーを中にして寝ました。シラフを濡らした人は他にいると思いますが、どうしたでしょう。着替える場所はありません。
2階は別のグループと個人がつかい一階は私たちが使いました。干す場所がなくてこまりました。なおこの日は一時間早く小屋につきました。けっこう急がされたという感じです。それが翌日の判断ミスにつながったと思います。雨の中休む気にはなれませんし、平たんのコースで翌日の参考にはならんと思いますがねえ。



③最終判断をなしうるガイドはヒサゴ沼を出発するとき、理由を説明しましたか。そして、次にどこで天候の判断をすると説明していましたか。
(リーダー格のガイドさんは16日朝に避難小屋を出るときに、なぜ予定通りにトムラウシ温泉に向かうのか、メンバーに説明しましたか?天気が悪くなったらどうするとか、しばらくトムラウシのほうに進んで天気の様子を見るとか言っていましたか?ということです。)


自分はトイレに行ってて、その間に全部終わっていたようです。30分の延期はとなりに寝ていた木村さん(死亡)が教えてくれました。様子を見る、30分延期するというのです。妙だとおもいましたが、30分遅らせれば天気のピークをやり過ごせるとでも考えたのだとおもいます。それと30分以上は長い距離(予定タイムは10時間30分となていました)を考えると無理と思ったようです。だれかが中止を言い出したと報道にありますがそれは女客だとおもいます。だれが言い出したか知りたいのにいまだに分かりません、たぶん亡くなられたのだと思います。女客で生還した人なら分かるかもしれません。32歳ガイドが昼には天気が回復すると言って決行を決めたとの報道があります。途中での天気の判断なるものは彼(32歳)の頭にはなかったと思います。そのような話は誰からも聞いていません。途中で様子をみるという話もありません.そんなそぶりはありませんでした。りょうせんにでてからは前を見て歩くことだけ考えていました。



④出発時にガイドはお客さんの装備(アイゼン・防寒具)のチェックをしましたか。ヒサゴ沼避難小屋を出る時点で重ね着の指示はありましたか。(寒さ対策に中間着を着てくださいとか、フリースを着てくださいとかのアドバイスがなされましたか?という質問です。)


チェックはありません。ストックのゴムを抜くようにとの指示が32歳ガイドからありました。アイゼンはすぐに出せるようにというのは別のガイドの指示です。これは誰かが聞いたからでそうでなければ指示はなかったでしょう。重ね着の指示はありません、誰も聞かなっかたからだとおもいます。



⑤事故当日(16日)、先頭を歩いたガイドさんは誰ですか。最後尾を歩いたガイドさんは誰ですか。


先頭は今回を通じて32歳ガイドがつとめました,正ガイドの務めだそうです。最後は添乗員たる吉川ガイドがつとめ、サブガイドの38歳ガイドは中間に位置すると決めていたようです。



⑥ヒサゴの雪渓の登りで要した時間とアイゼン着脱に要した時間をおおまかにご教示ください。
(アイゼンを使うほどに雪がありましたか?雪がなくアイゼンを使わなかったのでしたら、お答えいただかなくって結構です。)


アイゼンをこのツァーで初めて使いました。一番長く勾配もありアイゼンがあれば安心という雪渓で、北アルプスのそれの小型のものだとおもいます。
雨と風があり少しガスっていたとおもいます。30分ぐらいかっかたと思います。ネパールのシェルパの人がスコップをもってステップを切ってくれて安心感を与えていました。
稜線まで計40分ぐらいと思います。着脱に時間はあまり掛からなかったと思います。




⑦雪渓を上りきった地点(コル)で、風・気温・雨等、天候の変化を感じましたか。疲労や体の不調を訴えるお客さんはいましたか。


コルに着いたときは風はありましたが、撤退とかいうことを考えるようなものではなっかたと思います。故障をいう人はなっかたとおもいます。
なおここで言うのが適当とはおもいませんが体調のことはここで初めて聞かれたのでここで言っておきます。最初の日にすでに一人の女客が旭岳から白雲岳へ行く途中でうつむいてゲロをはくこと、ゲイゲイとやっていた。体調をくずしていたようです、ガイドに連絡しなにかやっていたようですが、自分の視界からきえました。その日にもう一度目撃し、次の日に一度目撃しました。
彼女が延期を言ったのかもしれませんが、彼女が最初の故障者(歩けない人)だとおもいます。ガイドはだから低体温症の判断を誤ったかもしれません。前日、前々日の延長と考え休ませてなんとかやってきたから今回ももう少しだから、推測です、わかりません。彼女のサポートに足を取られ、大幅な時間遅延がしょうじ、それが誤算だったようにおもいます。



⑧雪渓を終えてからロックガーデン・天沼にいたるまでの天候状況は小屋出発時点と比べて劣悪と感じましたか。(小屋を出る頃に比べて、天気が悪くなっておりましたか?という意味です。)


どこかで急に風雨がつよくなりました。自分はそのまえに隊列から抜け、そのためにあらかじめ前に出ておいてフリースを着ました。雨があり雨宿りもないところでカッパを脱ぐと、肌についているシャツが濡れるのでイヤだったが強引に着ました。それで肌寒さというか汗と風による寒さ冷たさから少しは逃れました。天沼からロックガーデンにかけてに木道があるとおもいますが、そこが一番風が強かったと思います。体とザックにたいする風の圧力で木道から飛び出すことになります。32歳ガイドが(自分も真ん中にいたから)風向きに向いて立ち横に歩けと言っていました。風のつよいときは屈めとも言いました。それでほとんど進めなくなりました。低気圧が通ったのかもしれません。7時30分~10時と思いますが時間については後で述べたい。



⑨北沼に至るまではふらつき、転倒する風と報道されていますが、具体的には、行動後何時間経過した時点でそのような気象条件になったのでしょうか。ときおりふらつく、烈風でバタバタ音を立てる雨具のフードを手で押さえる、風上に顔を向けられない、など、具体的な状況もご教示ください。
(報道記事によりますと、天気がとても悪くなったそうですが、ヒサゴ沼避難小屋を出てから、何時間ぐらいしてから、ものすごい風や雨となったのですか?風や雨は、レインコートのフードを手で抑えないと飛ばされてしまうほどでしたか?)


ザックカバーがめくれあがって困りました。ゴムをきつくしておいたのに、一度は直したが、次からは横に丸めて持つことにしました。大型ザックのカバーはどうもよくないようです、ふくれにふくれバタバタと音を立て取れそうになるといったところです。カッパのフードはゴムを強くして、あごのところに来るベルクロをつければ対応できます。時間ですがピークは8時~9時と思います。低気圧の通過時刻はわかりませんか?トムラウシ分岐が10時30分とされていますが自分は11時~11時30分と思います。小屋から5時間でなく6時間(コースタイムは2時間30分)です、2倍ではなく3倍に近い時間を食ったと思います。そして分岐の下で停滞したのが1時間半とされていますが、2時間と思います。2時間は現場で自分が最初に考えた時間です。出発が1時半でそうすると4時前に先行者がコマドリ沢分岐で110番をいれた事と時間的矛盾が取り除かれます。出発が12時というのではコマドリ沢分岐まで時間がかかりすぎです。(地図では2:05です)



分からない質問には、お答えいただかなくって構いません。
なにとぞ宜しくお願い申し上げます。

__________________________________________________________


戸田 様

毎度お手数をお掛けいたします。
以下、swaslabさまから戴いている質問の後半部分です。



⑩北沼までの休憩回数と一回の休憩時間をお知らせください。


天沼かそのさきの日本庭園のあたりかよくわかりませんが、木道があってそこが一番風が強かったとおもいます。そこまでに3回ほど休憩をとりました。1回5分ほどのたち休憩です。休むひまはなっかった。32歳ガイドは日没を心配したのだろうとおもいます。それから一度休憩の指示が出て休もうとしたら大粒の雨ふってきてあわてて出発となりました。(2分)そのあとは一度も休憩の指示は出ていません。32歳ガイドにはケアのしごとがでてきたようです。もう32歳ガイドは隊を率いていくことはやめ、サポートに集中しだしたと思います。
以後休憩するとか、食事を取れとか、フリースを着なさいなどの指示はなくなりました。だれも何も言いません。自分はみんなは食事をきちんととったのだるうか、これが生死の分かれ目になったのではと思っています。今思えばですけれど。自分はカッパのポケットにたくさん非常食を詰め込んでいたのできちんと食べましたが食べないままの人もいたかも知れません。低体温症になれば判断力も低下するそうですから。



⑪北沼で最初に不調を訴えた登山客は列のどのあたりにいましたか。不調や疲労を表現できるタイプでしたか。遠慮するタイプでしたか。(苦痛を我慢してしまうタイプか、大騒ぎをするタイプかということです。)


一番最後です。彼女は最初の日から調子が悪かった人だと思います。だれも皆遠慮しました。ツァーはそういうものです。わがままは言えません。大騒ぎなど誰がするものですか。そんな質問を受けるとは思いませんでした。



⑫最初の行動不能者が発生したあと、パーティ待機の指示は誰が出しましたか。理由は説明されましたか。
(単に体調不良であるとか、頭がだるいとか、具体的に風邪ですとか、低体温症ですとか。)


だからそれは32歳ガイドがしました。添乗員の仕事とおもいますが、吉川さんはすでに低体温症にかかってていたのではとおもいます。32歳ガイドがふれ回ったと思います。理由の説明は一切ありません。みなを動揺させたくなかったとあとで語ったそうです。テレビだとおもいますが。



⑬低体温症との判断はどの時点で誰によりなされましたか。


誰も低体温症と知らなかったと思います。救急隊によって、マスコミの発表によって救助の時にというのが自分の回答です。



⑭低体温症であると判断されたあと具体的な処置はどのようなものだったと観察(推測)されましたか。


低体温症と判断したのではないと思いますが、最初の故障者が列の中ほどにいた38歳ガイドのところへ連れてこられ、彼が看護をすることになりました。これは出発40分前としておきます。サブガイドの仕事として看護があるといいますからそれに従ったのでしょう。彼は背中をさすり、大声で「元気を出せ」と叫んでいました。吉川さんがやってきてテルモスの湯を与えていました。ただそれだけです。もうしませんでした。



⑮報道によれば、戸田さんは遭難と認めて救援要請をしてほしい旨をガイドに伝えた とのことですが、どのガイドに伝えましたか。また、そのときの返答はどういったものでしたか。通信状況はどのようなものでしたか。


自分がどなったときの10分前に、吉川さんのところへ出向き「どうしますか」ときくと、「ようすをみる」とだけこたえました。妙な答えです。自分はもとの位置にもどり10分まちましたが何も動きはありません。その時自分はこのままではみんな死を待つことになると突然思いました。それで遭難と認めてどうしたらよいか指示を出せといったのです。それは隊のみんなに訴えたのです、ガイドのだれに言ったのではありません。だから返答もありません。
自分は携帯をもたなっかたので通信状況は分かりません。持っていたら一方的に110番したと思います。かれらに110ばんを迫らなっかたのはまだ信頼していたからです。ここではできないのだと。4時半に32歳ガイドは会社にメールをいれていたといいます。自分は前トム平へ降りてきてしたのかとおもっていたら、頂上でできると教えてもらいました。そうすると38歳ガイドに依頼する必要はない、つまり依頼の要請はなかったのではと思います。また風雨がつよく通信はできないというひともいますが、出発のころはあまり風雨は感じなかったと思います。ピークは過ぎていたと思われます。なお時間の問題があります、出発が12じでは、コマドリ沢分岐で110番したのが4時と確定しているから4時間もかかったことになり(地図では2時間5分)おかしい。出発は1時半ごろではないか、あの時自分は空腹を覚え時計を見て1時20何分だったと記憶しています。それと待機時間は少なめに見て2時間とおぼえておこおうとしましたが人に説明するたびに少なめになっていったようです。これらはみな仮説ですからきちんと検証をする必要があリます。だから1時過ぎの電波状況が問題となり風雨は問題ないとなるとおもう。32歳ガイドがメールを4時30分にいれているがいやいやながら入れたかんじで探そうとしていなかったと思います。認めたくなかったのではとおもいます。



⑯南沼→前トム平の天候について。どちら方面からの風が強かったですか。また天候に変化はありましたか。


下りでは風のことは忘れました。既におさまりつつあったと思います。



⑰コマドリ沢より急な新道を登り、カムイ天上より泥んこの道を下ったと思いますが、そのときの天候、時間、登山道の状況について概況をご教示ください。


この辺のことが自分にはよくわかりません。①新道へ上るところでビバークを考え場所を探していて長田さんをみつけビバークすると伝えてくれといったら一緒に帰ろうというので歩きだしたが自分はビバークの場所を探していてつながりをぎゃくにかんがえてしまいもとにもどりました。それで1時間のロスとなりました。②それから真っ暗な道を一人、どうも谷道を歩いたようでよくわからない。とにかく黒い筋を歩くようにしていました。障害物は分からないので転ぶだけです。カッパが穴があいたし泥だらけです。道の状況などまったくわかりません。それで向こうから2人がきてそれが斐品さんと長田さんで、自分はもと来た方に戻ろうとしていたところを助かったということです。よくわからない。10時ごろか?天候は風もなく暖かくなっていたと思います。



⑱報道では、松本ガイドは救助を呼ぶために、先を急いでいたとされています。携帯電話のつながるところに空身でとりあえずおりて登り返すといったことはされていましたか。(軽装でいったん下降し、110番連絡した後に、皆がいるところに戻ってきたとか、そういったことがありましたか?という意味です。)


まったくの誤報です。彼の行為が理解できないので作り上げた作り話です。かれのあたまは自分のサバイバルだけと考えれば説明がつきます。かれは北沼の小川で客のサポートに回っていて背を水につけたと聞きました。待機中は自分の前で顔をしかめジッとしていました。彼はサバイバルのため先を急いだのです。曲がり角で10人を確認するようにと言われ、20m下でおーいおーいと叫び、自分がおーいおーいと答えると一目算に下って行ったのです。救援依頼の使命が告げられたというのは自分はその横にいたが聞いていません 。コマドリ沢での110番も偶然によるものでかれが積極的にじぶんの携帯を出して連絡しようとした要素はどこにもない。だから上り返すというのは社長の願望がしゃべらせたフィクションです。かれはコマドリ沢分岐の上の草付きでねていて長田さんが見つけ目の前で電話しなさいといわれ5時に会社にメールを入れたのです。長田さんが自分にいったことです。そこへ自分が通りかかり義務があるという意味のことを言いました。彼は2人が去ってからハイマツ帯にもぐりこみ、翌朝の救援隊を避け最後の行方不明者となりそのご、道の近くに移動して登山客に見つけてもらったのです。救援隊にみつかるのはさけたっかたというわけです。じぶんのすいそくですよ。彼は命をつないだので非難は覚悟のうえとおもいます。


swanslabさんからのご質問は今のところ以上となります。
また追って、前回いただいたご回答に対するご質問も出てくると思います。


また、次の私の質問もよろしくお願いいたします。


A①ヒサゴ沼避難小屋を出るときに、屋外は、低体温症が起こるかもしれない気象状況であるといった認識が、ガイドにあったと思いますか?
また、ツアーの全体を振り返って、ガイドは、ツアー客に対して「低体温症」という言葉を使ったことがありますか?使ったことがある場合、初めて使ったのは何時でしょうか?(例 ツアースタート時、15日初めて倒れた女性が出たとき、16日に倒れた女性が出たとき、さらにそれ以降・・)


32歳ガイドにそんな認識はなかったのでしよう。全員を連れて帰れると思っていたでしょう。かれはその言葉は知らなかったと思います。さいごまで低体温症が原因と知らなかったと思います。



A②戸田様が16日にご着用になっていた雨具のメーカーと商品名を教えてください。また、ほかの御仲間が着ていた雨具はどのようなものでしたか?


モンベルのゴアテックスでひとつ前のタイプと思います。北海道警察が死んだ人の雨具は全部ウィンドブレーカー等防水の弱いもので、生還者は本格的な防水透湿のものだったと発表した。歪曲です。竹内さんはゴアテックスをきていました。



A③また16日の戸田様のウェアは、どのようなものでしたか?

例 
上半身 速乾性の半袖Tシャツ+化繊の長袖シャツ+セーター(ないしフリース)+レインコート
下半身 下着+ズボン+雨具のズボン
このほか、帽子と手袋は着用なさっていましたか?


上半身  モンべルジオライン3d長袖、モンベル薄フリース、雨具
下半身  ブリーフ(廉価品)、ワコールタイツスタビライクス、ズボン、雨具
帽子なしでカッパのフード、手袋なし 反省しています



A④16日の朝は、ガスバーナーなどを使って温かい飲み物(コーヒー、紅茶)などは飲みましたか?16日に戸田様の魔法瓶(テルモス)に入っていたのは、温かい飲み物でしょうか?それとも、冷たい飲み物だったでしょうか?


バーナーで紅茶を作りました。湯はガイドがわかしてくれることになっていた。ただ朝食は夜のうちに作っておくようにというのだ。汁や紅茶などは湯をくれるというのだ。自分は北海道でボンベを買いこんろをつかった。



A⑤(大変失礼ながら・・)もし仮に、戸田様が、もう一度同じ暴風雨を体験するとしたら、今度はどのような装備、ウェアを持参なさいますか?何があったら、もっと楽に切り抜けられたとお考えになりますか?



A⑥ツアーの中には倒れた方とそうでない方がいらっしゃいます。生死を分けたのは端的に言って何であったかと考えますか?(体力、装備、寒さ慣れ?)


今はきちんとカロリーを取っていたかが気になっています。低体温症になると3倍のかろりーがいるそうですから。
防寒はもちろんですが、案外そんなところかもしれません。



A⑦美瑛岳で一パーティの一人と、南沼のテント場付近で単独の男性が一人、時を同じくして、低体温症で倒れてしまいましたが、これは、偶然の一致でしょうか?装備または体力とか、なにか共通する弱点があったのでしょうか?


オフィスコンパスはアミューズのもと社員が自分たちで作った会社で同根の要素を持つといいます。単独行の人もふくめ大雪の夏は北アルプスの秋山だとシラナッカったんだとおもう。低体温症のことも知らなかったと思う。北海道のツァーをやるにははやい。



もっとお聞きしたいことがあるのですが、このメールではここまでとさせていただきます。
また後日、よろしくお願い申し上げます。






# by segl | 2009-07-31 13:29 | Ⅶ 省察
2009年 07月 30日
北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 追補10
考察⑫ ガイディング能力への過信、気象予測の難しさ、プロガイドのプロたるゆえん・・。

「私にでも登れるかなぁ_?」と半信半疑な方を、適切にフォローして、足りないところを補って、登りたい山に登らせてあげるのが登山ガイドであると思います。
例えば、トムラウシに登るには10の力が必要であるとして、7とか、8とかしか力がない人でも、足りない分を補うのが、登山で飯を食う、プロたるゆえんでしょう。
実力がすでに、10や12ある人のガイドになって登らせても、それは単に道案内をしたにとどまると考えます。

甘やかせ登山である、といった皮肉も寄せられるでしょうが、尾根歩きのガイドの本質は、甘やかせ登山にあるのだと思います。
以前は、市井の山岳会に入って、いろんな山を経験したあとで、会の夏山山行として、大雪山系の縦走を行ってトムラウシに登るといった手順が、正統的段階であったと思うのですが、会務の雑用にしばられたり、自分の行きたい山に必ずしも行けるわけではないことなどで山岳会を敬遠し、個人、或いは気のあった仲間と気軽に山を楽しむといった人たちが増えてきました。

特に、自由な時間が出来てから山を始めたような中高年層には、その傾向が強く、そしてその(表現が悪いですが)「受け皿」が、公募形式のツアーになってきたという背景があると思います。
一人で企画して行くよりも、仲間もいるし、ガイドもつくし、道にも迷わないし安全・・というのが主たる理由でしょう。

その場合、道案内と、ペース配分を上手い具合にして、ばてさせないでなんとか、山頂を踏ませて、ルートを歩かせてあげるというのが、ガイドの役目です。もちろん、天候判断も含まれます。
さらに悪天候の場合には、「今日行動すると、悪天につかまって、疲労凍死するかもしれませんよ。」と適切な警告を与えて、計画を適宜修正、変更するのもガイドの役目でしょう。

そんなツアーに参加される場合は、基本的に「お任せ登山」でよいのだと思います。

今回の事故をあれこれ見てきますと・・

①当日の天候予測に失敗し、終日悪天候。
②ツアー客の疲労状態に失敗し、行程がはかどらなかった。
③低体温症の発症可能性の予測を間違えて、8名ものツアーメンバーを死なせた。
④それどころか、ビバークして、ガイド自身も死んでしまったり、ガイド自身も自力下山できなかったり・・。

特に④は致命的で、自力下山できないガイドはガイドとして致命的ミスであると考えます。
これらを評して、ひとことで言うならば自分達のガイディング能力への過信があったのだと考えます。

自力下山の価値

自力下山できないガイドツアーは失敗であります。
ルートをたどることよりもまず無事に自力下山することをより重視するべきであったと考えます。

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所見

さて、今回の事例ですが、私の現在の所見では、結局、プロのガイドであるならば当然知っておくべき2007年7月11日の事例、および、それを受けて、地元北海道の医師が書いた低体温症の記事(これも、検索すればすぐ手に入る情報である)、この二つをおよそ北海道で山岳ガイドをやろうという人間は当然おさえておかねばならず、その上で、当日(16日)のヒサゴ沼避難小屋スタート時点の風雨は低体温症の発症を招くに十分なものであると判断した場合、「低体温症の発症までのタイムリミットは、5時間~6時間で、その時間内に、安全圏(☆)まで下山しなければならない。」・・とガイドなら当然ここまで考えを巡らせねばならなかったのではないでしょうか。
(☆・・コマドリ沢分岐あたりが、一応「安全圏」であるとすると、そこまで制限時間内に下らなければならない。)

さらに、ツアー参加者各自の体力の程度は、14日、15日の行動から大まかにはわかっていたはずであるので、3名のガイドには、ヒサゴ沼避難小屋スタート時点で、5時間~6時間経過後に安全圏まで下れるか否かに関して、十分判断が可能であった筈である。

以上の読みに失敗して、漫然とスタートして、今回のような結果を引き起こしてしまった。

ところでこの場合、天気予報が好天に向かっていると報じたのを信じたというのは、非難を減ずる理由になるだろうか?

※天気予報は、あくまでも予報であり、余りあてにならないものだと思って行動するべきである。
※予報よりも実際は回復が遅れる場合もあると見込むべきである。
※ガイドである以上そういった予報が外れることは、経験上当然わきまえておくべき事柄であろう。

つまり、天気予報で天気が回復するとされていても、一般のハイカーならともかくプロのガイドとしてはまず疑ってかかるべきであった。その意味で、慎重性に欠けたといえると考える。
安全登山の見地からは、ヒサゴ沼避難小屋出発の時点で、天候はおいそれとは回復しないと消極的(保守的)に判断するべきであって、好天を予報する天気予報を信じたということは、責任を減ずる理由にはならないと考える。

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swanslab 様から指摘されたデータ

swanslab様によりますと、次のWebSiteに当日の天気概況が掲載されているそうです。
http://snowmania7.blog38.fc2.com/blog-entry-56.html

旭川地方気象台(16日5時発表)による上川地方の天気概況は、
天気予報
 今日
  南西の風 後 北西の風。上川北部では 南西の風 やや強く
  曇 所により 朝まで雨


 明日(7月17日)
  北西の風
  晴 明け方まで 曇

降水確率
 今日(06-12) 20% (12-18) 0% (18-24) 0%
 明日(00-06) 0% (06-12) 0% (12-18) 0% (18-24) 0%
というものでした。

つまり終日南西の風で降水確率が午前20%午後は0%です。
前日15日の概況では16日午前の降水確率が50%だったことから、
16日はやや早めに快方に向かうという具合に、天気概況が予測を修正したとの判断に傾かせた可能性があります。

天気図をみると風の通り道であるトムラ周辺は爆風が吹きそうです。
雨量については、微妙ですが、風は終始吹き続ける可能性がありますが、少なくとも雨は次第におさまるのでは、
との期待がなされたとしてもおかしくありません。
もしかりにガイドたちがそう判断したとすると、現実には倒れるような強風で雨も降っていたにもかかわらず
なおも前進をつづけた理由に雨だけは必ずやおさまるであろうという天気読みがあったと推測することができそうです。

天気予報に依存することがプロとして許されるか?

swanslabさまがお書きのとおり、この天気予報を見る限り、「今日の天気予報は曇 所により 朝まで雨で降水確率は午前中20パーセント、午後からは0パーセントだよ!稜線の風は強そうだけれど出発できるね。」ということになります。非常に元気付けられる天気予報です。

にもかかわらず、「いや山の天気は分からないから、その天気予報も完全に当てにはならないよ!今日は停滞か、エスケープで帰ろう。」と言い切るには、現地の小屋番並の豊富な気象経験を持つガイドでなければなりません。

そういった高度な判断力を、大雪山系の山々を舞台に働いているガイドのうち、どれほどのガイドさんが備えていたのでしょう・・。
例えば、100名ガイドがいて、80人はそういった天気予報に反するけれど結果的には正しい気象判断をなしうる能力を持っているのなら、今回のガイドは、表現は悪いですが、いわば、標準以下のガイドであったわけで、非難されても致し方ないでしょう。

でも、そうでなく、100名ガイドがいても、天気予報が外れることを自信を持って見抜けるほど現地の気象の特殊性に通じたガイドは、わずか一握り(数名)に過ぎないとしたら、今回のガイド3名の行動も、北海道のガイドのほとんどがやっている標準的な行動パターンに沿って行動したまでで、結果的に天気予報が外れたけれど、それほど非難される行動ではなかった。といえましょう。

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今回の事例が私たちに教えてくれるのは、ツアーガイド登山においては「体感気温マイナス5度の暴風雨状況下で、メンバー各自にレインコートと防寒衣料の準備が整っていない場合は、たとえ天気予報で、数時間後の天気の回復を報じていてもそれに従ってはならない。」という保守的な判断を行うべきである、ということになりましょう。

そして、そういう一見ありえないような保守的な判断を現場の状況判断で下せるのが、プロガイドのプロたるゆえんなのではないかなと考えます。

とはいうものの、今回の事例は、判断がきわめて難しいケースであったのは確かであり、天候予測の失敗だけをとらえて、三人のガイドを非難することは少し無理があると考えます。



# by segl | 2009-07-30 22:59 | Ⅶ 省察
2009年 07月 29日
北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 追補9

考察⑨ ヒサゴ沼避難小屋からトムラウシ登山口に下山するまで18時間かかることについて、トムラウシ集団遭難事故に見る「行動不能に陥る確率」について、

論点①

ヒサゴ沼避難小屋からトムラウシ登山口に下山するまで18時間かかることについて、

opt 様にご質問を受けた件なのですが、前田和子さん、亀田通行さんが、15時54分に110番通報してから、8時間も経ってようやく自力下山したのはどういうわけか? 何故そんなにかかるのか? についてすこし考えてみました。

この点につきましては、南北アルプスなどで長期の縦走をなさったことがある岳人や、積雪期登山でばてた経験がある方なら、体験でおおよそ見当がつくと思いますが、これからそういった山にいって見よう!といった方や、今のところは日帰りハイキングやトレイルランニングが主体である方にはすこし分かりかねるところがあるかもしれません。

ですので、いまさらながらの再考です。その過程で、コースタイムの意味についても考えたいと思います。

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モデルケース(家族5人のファミリー登山 テント泊 天気は晴天)

この場合、ヒサゴ沼避難小屋→4時間→トムラウシ山頂→2時間→前トム平→1時間→コマドリ沢分岐→3時間→短縮登山口で下山となり、今回前田さんたちが携帯電話で連絡をしたのが、コマドリ沢分岐であるとしますと、そこから3時間、悪天でもっとかかったしてもせいぜい4時間~5時間で抜けられそうです。それなのに8時間もかかっているのはかかりすぎと感じてしまうのも道理です。

そこで、自力下山者5名のデータを見て分析しますと・・

①短縮コース登山口に自力下山
戸田新介さん  17日午前04時45分 ビバークあり

②ユウトムラウシ第二支線林道で発見されたという
前田和子さん  16日午後11時49分 ビバークなし
亀田通行さん      同上

③国民宿舎東大雪荘付近で発見された
斐品真次さん  17日午前00時55分 ビバークなし
長田良子さん      同上

④また、ヒサゴ沼避難小屋を、今回同様の悪天候の中、午前5時30分にスタートし遭難した2002年7月の愛知中高年パーティのデータでは、二名がビバークありで午前5時半にトムラウシ温泉に下山したとあります。(※トムラウシ温泉とは東大雪荘のこと。)
http://www.ne.jp/asahi/slowly-hike/daisetsuzan/02taisetudata/04sonanjiko/20020711-13tomuraushi.html

分析
※今回のアミューズトラベルの5人の自力下山者相互の下山時刻を見比べる(②と③)と、下山した登山口こそ違えども、せいぜい1時間~2時間の範囲内でありそれほど差がない(ずば抜けて速く下山出来た者がいるわけでもなく、また逆にめちゃくちゃに遅く下山した者がいるわけでもない)。ビバークした者(①)は、ビバークをしている時間の分だけ下山が遅れたと考えられる。
※2002年の愛知の2名(④)と、今回のビバークした男性1人(①)も、トムラウシ温泉に下山と、短縮口登山口下山と、下山口こそ違えども、45分の差に収まっている。

つまり、データとして、①~④には一つのまとまりを見ることが出来るように考える。

それをひと言で言うならば、
要するに、「今回のような中高年パーティが、Ⅰ縦走三日目にして、Ⅱ悪天候(寒冷、暴風雨)のもとで行動し、Ⅲメンバー内に動けなくなった者が出たような場合には、ヒサゴ沼避難小屋を午前5時30分頃に出るとして、途中ビバークなしの場合は、当日深夜零時前後に短縮登山口もしくはトムラウシ温泉に到着し、途中ビバークありだと、翌日午前5時前後に到着する。」ということである。

これは二つのグループの4つのミニ・パーティ、計7人の登山者の実際のデータを踏まえた悪天候下でメンバー内に動けなくなった者が出た場合に過去のデータ上導かれる本コースのタイムであるということが出来る。

さらに遅延する具体的原因としては、

①縦走三日目で疲労が蓄積されて体力の限界がそろそろきている。
②当日の悪天候が引き金となって体調の変化(悪化)が起きている。
③10時間以上の行動により、時間が経過するに従って、消耗し、歩行ペースがますます落ちる。
④疲労したメンバーの介抱に全員が立ち止まり時間が経ってしまう。
⑤ルートが風雨によって歩きにくくなってしまった。

・・等が考えられます。

ちなみに、⑤でどこに時間がかかるのか?というと、2002年の愛知のデータのところに、「他の2人は、トムラウシ温泉に下山を継続、途中のカムイサンケナイ川源頭部は増水していて渡渉に苦労したようである。ここは過去にも、増水の川に流された死亡事故がある。その後の登り返しは、雨が降るとぬかるみの悪路になり、疲れた体には辛い区間だったであろう。」との記述があるのがヒントになりましょう。

モデルケースで私がよく指摘する「家族5人、晴天下で10時間」という標準コースタイムも、縦走三日目というのは同じですが、晴天下の歩きやすい状態でメンバー内に動けなくなった者が出なかった場合を前提にするもので、悪天候で、動けなくなったメンバーが出た場合には、介抱その他に時間がとられる一方、ルートが歩きにくい難ルートに豹変するといえるのではないでしょうか?

要するに、ヒサゴ沼避難小屋を出るときには、縦走三日目であることを踏まえ、もし天候が回復せずに、このまま暴風雨が続き、行程なかばでひとりでも体調不調者が現れると、その介抱で時間がかかるほか、他のメンバーにも蓄積されていた疲労が現れる者が出てきて・・・下山できるのは18時間後となる。(10時間の予定が18時間に一気に化けるということ。)この経験上のデータをリーダーは念頭におくべきであるといえましょう。

要するにこのルートは、好天を捉えて10時間すこしぐらいで一気に通過できてしまえば疲労も少なく安全であるのだが、それが出来ずに悪天候につかまったり、行動不能者が出て、介抱その他で時間がかかればかかるほど、危険なものとなること。そして、最悪の場合の下山予定時間は18時間後であるということ。

このようなデータ上の事実を受け入れるべきだと考えます。

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参考

ヒサゴ沼~トムラウシ山(百名山)~トムラウシ温泉
3日目
ヒサゴ沼避難小屋1700m 出発6:45 → 日本庭園 8:40 → 北沼分岐 → トムラウシ山 2141m 11:20 → こまどり沢出会い?1700m 14:00 → カムイ天上1143m 16:40 → 温泉コース分岐 17:30 → トムラウシ短縮コース登山口 17:55 → ユウトムラウシ第二支線林道(7キロ) → トムラウシ温泉 国民宿舎東大雪荘 20:15
http://blogs.yahoo.co.jp/macrotanpopo/35845786.html
短縮登山口まで11時間10分かかっており、ヒサゴ沼避難小屋から4時間35分かかってトムラウシ山頂、トムラウシ山頂から6時間35分かかって短縮登山口についている(休憩込み)。晴天時、家族5人のファミリーハイクで10時間(休憩込み)というのは、比較的早いタイムであるようだ。

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論点②

北海道大雪山系 トムラウシ集団遭難事故に見る「行動不能に陥る確率」について、

多少荒っぽい議論ですが、簡略化して捉えるために、あえて大雑把にデータを処理してみます。
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前提条件

①縦走三日目(または同程度の疲労状態)、②主に60歳以上の中高齢登山者、③年に一度あるかないか程度の暴風雨の気象条件(体感気温はマイナス5度)、

データ

体感気温氷点下5度に5時間さらされて行動不能になった登山者 女性1名(死亡)・・場所 北沼分岐

体感気温氷点下5度に6時間さらされて行動不能になった登山者 4名(女性2人、男性2人) 吉川 寛ガイド1名(女性2人、吉川 寛ガイド死亡)・・場所 北沼分岐

※体感気温氷点下5度の状況下で6時間行動させると、18人中6名が行動不能に陥る(30パーセント)。

体感気温氷点下5度に7時間さらされて行動不能になった登山者 1人(男性1人、死亡)・・南沼付近

体感気温氷点下5度に10時間さらされて行動不能になった登山者 4人(女性ツアー客3人、いずれも前トム平付近で死亡、松本 仁ガイド、コマドリ沢分岐付近にて倒れる 生存)

※さらに、10時間行動させると、18人中11名(61.1パーセント)が行動不能に陥る。

18時間以上の連続行動に耐えられた登山者 5名(自力帰還 生存)

※18時間以上の連続行動に耐えて自力下山出来たものは、18人中5人(27.7パーセント)にすぎない。

ビバークを含む24時間近い連続行動に耐えられた登山者 1名(真鍋記余子さん 生存)

(この他、ツアー客とともにビバークし救助された多田学央ガイド1名

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まとめ

夏の北海道大雪山系の2000m級の山で、主として60歳以上の中高年登山者が、縦走三日目で、荒天に見舞われると、

6時間後には、30パーセントの者が行動不能に陥り、
10時間後に60パーセントは行動不能に陥る。 
18時間行動して自力下山できる者は、3割以下で、他のものは死ぬか瀕死の状態で救助されるかである。

多少荒っぽい議論であるが、このように言うことが出来るだろう。


留保として・・
Q当日、同じルートを歩いている他のグループもあるのにそれらには死者が出なかったのはなぜか?
A足止めを生じさせる「最初の犠牲者」が出なかったため。
 最初の犠牲者が出る→介抱で立ち止まり他のものも風雨の中、立ち往生しなればならない→低体温症になる危険が増す→最初の犠牲者が誘引となる。

今後は、メンバーに低体温症が発生した場合の行動マニュアルを作っておくべき。
全体を立ち止まらせずに、大丈夫なものは引き続き行動し続けるのがよい(?)

(すこし脱線となりますが、)当日、あるいはツアー企画段階において、
低体温症発症の可能性についてどのくらい認識があったのか?
また、症状が出たときのツアーの行動マニュアルはあったのか?
・・などがおいおい問題となる。


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さて、論点①と論点②をあわせると、以下のような恐るべき結論が得られます。

中高年登山者による大雪山縦走三日目で、まれに見る荒天のなかヒサゴ沼避難小屋をスタートし、途中で行動不能者が出た場合に、18時間後に自力で下山できる可能性は、30パーセント以下であること。

※通常の登山ツアーに参加する平均的な体力を備えた中高年登山客を念頭におきます。
※今回のアミューズツアーの事例が「特異な事例」であるならば、この結論を一般化することは出来ないのですが、特異性を際立たせるような目だった特徴は今のところ情報として出てきておらず、今回の事例は特異な事例ではない(どのツアーにも起こりうるケースである)と考えます。

このようなすさまじい結論が出てきてしまうのは、裏返せば、そもそもこのルートは、それだけ難ルートであり、要求される体力レベルも高いものであること。
それに引きかえ、このルートを歩いてみたいと希望する登山者の体力レベルがあまりに低いということなのだと考えます。



# by segl | 2009-07-29 07:21 | Ⅶ 省察
2009年 07月 28日
北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 追補8

北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 考察⑪ 低体温症のタイムリミットは、5~6時間、トムラウシへのこだわりと行動ペースの誤算の可能性

低体温症

北海道の登山家で医師でもある方がまとめた低体温症の記事です。登山に関する部分を抜粋させていただきました。
http://www5.ocn.ne.jp/~yoshi515/teitaion.html
※赤文字、太字は管理人が強調しました。

IV.登山における低体温症の予防
 一旦体温が下がると、安静にしていても大量のエネルギーを消費(体温が0.61度低下すると酸素消費量は3倍)するため、よほどの状況の変化がない限り低体温から脱出することはできない。
 そのため、低体温症では治療よりも予防こそが大事である。

0.登山の一般的な原則を守る:
  1) 悪天候時の登山をさける。気象の変化を予測する。
  2) 行動日程に余裕をもつ。
  3) 疲労、寝不足時の登山を慎む。前日の深酒は禁。
  4) 登山前にコースや避難小屋、テント場など十分な下調べをする。

1.防寒具の準備:
 山、とりわけ北海道の山では、ふもととまったく気象が異なる場合が多く、気象の変化も予測しがたい。そのため、日帰りのハイキングでも全身をおおうことのでき、かつ保温できる衣類を携行するか、着用する。最低限、長ズボン、長袖シャツまたはセーター、ウィンドブレーカー、帽子、手袋、雨具が必要である。衣服特に下着の素材は木綿をさけ、ウール、ポリプロピレンなどの通気性、保温性のすぐれたものを選ぶ(資料2参照)。軽量のテント、寝袋、寝袋カバーがあれば万全といえるが、そこまでできなくても防水シートやツェルトは携行したい。替えの衣類や寝袋は濡れないようにビニール袋にいれておく。

2.早めの退避行動:
 悪天候下では普通、出発後5~6時間で低体温症にかかる。条件が悪ければもっと早い(最悪1~2時間)。 症状があらわれてから虚脱状態になるまで1時間、虚脱状態から死亡までが2時間である。したがって、天候が悪化しているときは、低体温症の症状があらわれる前に退却するか、ビバークの準備に入るべきである。
 ビバークする場合は風、雨、地上を流れる水から身を守れる場所を選び、衣服は着られるだけ着てその上から雨具をつけ、テントの中、または防水性のシートの下に入って身を守る。隊員が何人かいる場合はバラバラにビバークするよりも身体を寄せ合ってていた方が保温効果がある。天候がよくならない限り、救助を求めるための伝令も派遣すべきではない(ビバークのしかた)。

3.水分、栄養をこまめにとる:
 脱水、低栄養は低体温になりやすくする。水分はできれば電解質の入ったもの(水1リットルに塩5g)を、栄養は糖質(果物、カステラ、クッキー、キャンデーなど)、炭水化物(おにぎり、もち、パン、バナナなど)が望ましい。アルコールは低体温と脱水を助長するのでダメ。

V.まとめ
 低体温症の怖さは、主に次の5つ
  1.安静にしていても大量のエネルギーを消費する
  2.早い時期から判断力がおちる
  3.ふるえがおこらなくなると加速度的にすすむ
  4.単なる疲労と区別が困難
  5.低体温症の知識が普及していない
    (よく知られている医学書にも間違った対処法が書かれていたりする)

 低体温症で命をおとさないためには何よりも予防が大事であり、次に早めの退避行動である。パーティの誰かが低体温に陥った場合には、本人の判断力は落ちているため、仲間が判断し、対応しなければいけない。

VI.資料
1.登山に役立つ機器類
 1)2社以上の携帯電話を持つと通話不能範囲が狭まり、救援要請しやすくなる
  Cf)http://member.nifty.ne.jp/yamaonna/yaku-keitai.html
 2)携帯GPSは自分の正確な位置を簡単に知ることができ、救援要請に役立つ。
 3)腕時計型の高度計でも気圧の変化で天候の悪化を予測することができる。

2.低体温症になりにくい服装
 ・通気性のある下着(ポリプロピレン、オーロン、ニット、ウール)
 ・次に湿気は吸収するが、熱を逃がさず保温効果のある生地(ウール、フリース)
 ・一番外に防水性、防風性の生地(ダウンやゴアテックス)
 ・雨具は防水性に加え、水蒸気を逃がす透湿性のある素材(ゴアテックスなど)
 ・手袋の素材にも注意

3.風速と体感気温(風速0.0は実際の気温と同じ)
風速(m/秒) 体感気温(℃)
0.0  10.0   4.4  -1.1  -6.7  -12.2
2.2   8.9   2.8  -2.8  -8.9  -14.4
4.5   4.4  -2.2  -8.9  -15.6  -22.8
6.7   2.2  -5.6  -12.8 -20.6  -27.8
8.9   0.0  -7.8  -15.6 -23.3  -31.7
11.2  -1.1 -8.9  -17.8 -26.1  -33.9
13.4  -2.2 -10.6 -18.9 -27.8  -36.1
15.6  -2.8 -11.7 -20.0 -29.4  -37.2
例)-1.1℃でも風速が11.2(m/秒)あれば体感気温は-17.8℃

4.高度と気温:100m高度が増すごとに気温は0.6度下がる
  Cf1)トムラウシの事故当時、東京30℃、札幌20℃、トムラウシ山頂8℃
     風速15(m/秒)として体感気温は-6℃くらい。(これは2002年7月の事故を指す。・・管理人 注)

  Cf2)5月下旬の羅臼岳の推定、東京25℃、札幌15℃、羅臼岳登山口8℃
     羅臼岳山頂0℃、風速10(m/秒)として体感気温は-15℃くらい

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以上を踏まえて、16日の行動を考えてみます。

ヒサゴ沼避難小屋を出発するに至った経緯

ガイドに十分な低体温症の知識があり、予防のための方策もわきまえているとします。

トムラウシを舞台にした2002年7月の事例については知っており、当日も漠然とした程度の低体温症発症可能性の認識はツアーガイド3人にあったものと推定できます。ただし、ガイド3名のうち2名が現実に発症していたことを踏まえると、ヒサゴ沼避難小屋出発時点で、切迫した具体的な認識があったとは考えられません。
ガイドが低体温症の切迫した具体的認識を得たのは、最初の発症者が現れる頃であったと考えられます。

さて、もし私がツアーガイドで、今回のツアーにガイドとして参加する場合、現場の判断は、swanslab 様のような現地に詳しいガイドに状況判断は任せると思います。それで、swanslab 様が、「エスケープしましょう!」とご提案なさったら、ツアーはエスケープすることに決定し、あとは(トムラウシに登れないので)不機嫌な顔をするツアー客を説得することに努力したことでしょう。

今回二名のガイドが現地に不慣れだったということは、その分、現地のガイドの意見が尊重される余地があったと考えます。
中途半端に北海道の山を知っているよりは全く知らないほうが、現地のガイドの意見も通りやすいといえましょう。

多田学央ガイドの現場での判断は今のところ不明ですが、ヒサゴ小屋では、今後のルートに関してガイド間で言い争いがなされた形跡もありませんし、ガイド間での意思決定はすんなりいっていたようです。

ルート変更をせずに予定通りにトムラウシ温泉に向けて出発した経緯に関して、あくまでも推測に過ぎませんが以下の諸事情が考えられます。

①状況判断(とりわけ天候予測と、低体温症発症可能性)を見誤り、ガイド全員ルート変更など思いもよらなかった。

②同宿した他のツアーグループ或いは個人で、エスケープするグループ、個人は皆無であったのでその流れに従った。

③多田ガイドはルート変更を考えたが、決定権があるほかのガイドに押し切られた(あるいは多数決で潰された)。

④いざという場合は、ガイドが3人もいるので今回のオペレーションシステム
△+ガイドA→→△△△△+ガイドB→→→○○○○○○○○○○+ガイドC→→→→トムラウシ温泉
故障者(△)が出たら都度、ガイドが付き添い、本隊は先に進むという方式でトムラウシ温泉まで引率できると踏んだ。

※結局、swanslab 様にご教示いただいた、かってのコマドリ沢が増水して、流される恐れがあるといったルートの危険性があるならまだしも、天候予測も、低体温症発症の予測もいずれも、エスケープルートを採らせるほどの説得力をもたなかったのだと考えます。

そして何よりも、トムラウシへのこだわりがあったように思います。

トムラウシ山は深田百名山のひとつであり名峰とされています。確かに3泊4日の大雪山系縦走の後半のフィナーレを飾る山でありますが、安全登山の見地からするならば何もヒサゴ沼避難小屋に停滞してまでして無理に登る山ではないとも言うことが出来るでしょう。(下記追補 参照)

暴風雨ではあるがまったく行動できないわけでもなく、雨具を着れば行動できる程度の雨天の中、ヒサゴ沼避難小屋に停滞するという判断は、どうしてもトムラウシに登ってみたいといったトムラウシに特別の価値を置いているならまだしも、上に書いたように大雪山の縦走を一通り無難にこなすことに重点を置く場合は、あまり出てこないのではないだろうか?

そんなふうに安全な縦走のほうにより価値を置く場合には「トムラウシは悪天のためエスケープしたんで登れなかったよ。」で済むはずであるが、トムラウシに是が非でも登りたいがためにこのツアーに参加したであろうほとんどのツアー客にとっては、まさにトムラウシに登ってこそ!の心境であったのだろう。本州から10数万円の旅費を払って参加するツアー客の心情はそんなところにあると考える。

その場合、エスケープルートを選ぶことは、言って見ればトムラウシから撤退を意味する。トムラウシ命!でやってきている本州のツアー客にとってエスケープは、登山ツアーそのものの失敗を意味する。

その心情をよく理解しているガイドは、たとえエスケープルートを知っていても心情的にエスケープルートは採れなかったのではないか?
いわば、トムラウシへのこだわりで、計画通りに進んでしまったということが出来ると考える。


では停滞はどうか?

しばしば指摘される停滞であるが、どうしてもトムラウシに登りたいのならば、あらかじめ停滞を予備日の形で計画に入れておくべきであった(そんなことはガイドだって百も承知である)。
されど、計画に予備日は入っておらず、停滞は予定外の行動である。よってエスケープルートを採る以上に停滞はしにくい・・。

(大体、登山の心得がある者(ガイド)にツアー計画を渡して、ひと目見て、予備日がないということは、つまりは、決められた日程のうちでツアーを終えることが、暗黙の大前提であったと言えるだろう。)

・・とすると、やはり当日は、
動かざるを得ない。

ちなみに地元の登山者やガイドにとっては、計画外のヒサゴ沼避難小屋での停滞とエスケープのどちらが望ましいかというと、安全な登山を心がけてトムラウシに格別な思い入れがないのならば、行動できる雨天であれば迷わずエスケープである(この点は、swanslab様のご教示に拠っています )。

でも、先述したようにエスケープは、ツアー客にとってツアー自体の失敗を意味する・・。

そんなツアー客の期待に、応えんがため、エスケープルートを選ぶこともなく、まして停滞することもなく、16日の早朝、3人のツアーガイドは、ツアー予定通りの、トムラウシ山を越えてトムラウシ温泉へ下山するルートを歩き始めたのではないだろうか。

その場合、勝算はあったのか?

逆説的に表現するなら、勝算があったからこそ、トムラウシを越えて温泉に下ろうと歩き始めたわけである。3人のガイド間でいかなるやりとりがなされたかは不明であるが、既定のルートを進む場合、

「特別なトレーニングを積んでいない一般ツアー参加者で、60歳前後の高齢者がほとんどで、縦走三日目で疲労も蓄積されているような場合に、暴風雨の中、北海道の標高1800m以上の吹きさっらしの尾根を、満足な防寒衣料も着ないまま歩かせた場合、ツアー客15名のうち1人、2人に、数時間後、遅かれ早かれ低体温症の症状があらわれる者が出てくるであろうことは、ヒサゴ小屋避難小屋出発の時点で、ガイド3名にとって十分予測可能であった。」ということが出来るだろう。

だから、低体温症が発症しないうち、せいぜいタイムリミット5時間~6時間のうちに安全圏に下山してしまうことが求められたわけで、ヒサゴ小屋出発の時点で3人のガイドもそれを念頭においていたはずである。

実際は、5時間~6時間のうちに安全地帯に下降することが出来ず、あのような結末になったわけだがそこにもうひとつの誤算があった。

行動ペースの誤算

すなわち低体温症が発症しないうち、せいぜいタイムリミット5時間~6時間のうちに安全圏に下山してしまうのが出来なかったという「行動ペースの誤算」があったと考えるのが筋である。

つまり、いざ小屋を出てみたら遅々としてまったく行程がはかどらなかったという事情である。
これはツアー客に残されていた体力の判断ミスといえるだろう。

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この流れを簡単にまとめると以下のようになる。

日程上、停滞は出来ない

トムラウシへのこだわりからエスケープも採れない

タイムリミットのうちに下山してしまえば何とかなる

行動ペースがガタ落ちで、遅々として進まず

5時間後、最初の、低体温症発症者を迎える

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追補

例えとして、北アルプスに置き換えてみると以下のようになる。
室堂から薬師岳を超えて、裏銀座を歩いて槍ヶ岳に登って、穂高に向かおうとした朝、天気は荒れていた。
天気の回復を待って、穂高まで縦走を続けるか、それとも、もう計画したルートの8割がたは歩いてしまったので、今回の縦走はほぼ成功したとして、穂高は止めて迅速に槍沢から上高地にエスケープしてしまうか?である。
穂高に格別の思い入れがある岳人なら、停滞してまで穂高まで歩くかもしれない(もちろんその場合は、あらかじめ予備日を組んであるだろう)が、山においてあまり欲張らず、8割がたの達成で成功とみなす岳人であるならば、さっさと下降してしまうだろう。

本ツアーの場合(本ツアーに限らず、トムラウシをめぐるツアーに参加する人は皆同じであろうが)、参加者はトムラウシに格別の思い入れがあったのであるが、ツアー会社が企画した日程では、停滞などできず、ガイドとしては強行するよりほかになかったのだと考える。
多少、2~3万円旅費が余計にかかってもツアー客のことを第一に考えて、ヒサゴ沼避難小屋で停滞できるような親切な計画設定を行うようなツアー会社を選べばよかったのであろうが、後の祭りである。

# by segl | 2009-07-28 17:15 | Ⅶ 省察
2009年 07月 26日
北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 追補7

北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 考察⑩ 低体温症発生回避のためのヒサゴ沼避難小屋からのエスケープルートについて、


このルートには逃げ場がないというのが一般的な新聞報道になっているのは周知の事実。たしかに、地図を広げてヒサゴ沼あたりから逃げられるところを探してもかなり歩かないと逃げられない。ところが現地の登山ルートに通暁されておられるswanslab さまがおっしゃるには、きちんとしたエスケープルートがあるとのこと、しかもそれは悪天の場合でも安全に使えるルートであるそうです。今回はそんなエスケープルートの考察です。

swanslab さまにいただいたコメントによると、以前は、前トム平から下った先にある、コマドリ沢の増水で通行困難となる危険があったため、ヒサゴ沼避難小屋からのいくつかのエスケープルートが縦走の際には常に念頭におかれていたそうである。しかし、今ではコマドリ沢から尾根に上がる新道ができたためか、コマドリ沢の増水による危険を理由にヒサゴ沼でエスケープする判断をしにくくなっているのかもしれません、とのこと。

つまり、新道が出来る以前はコマドリ沢の増水を理由にトムラウシを諦めてヒサゴ沼避難小屋からトムラウシ温泉以外の登山口に下山するエスケープルートがよく利用されていたのだそうだ。

新道が出来たためか、そういったヒサゴ沼避難小屋からエスケープルートをたどるという判断は以前ほどは行われなくなったらしい。
されど、今回の事故を契機として、今後、悪天の場合は、低体温症の発生回避を理由とする迅速なヒサゴ沼からのエスケープというのが、重要視され、低体温症発生回避のためのヒサゴ沼からの安全なエスケープルートの議論が脚光を浴びることになると考える。

見方を変えるならば、いままではコマドリ沢の増水を理由にエスケープしていたので、トムラウシ山頂付近は悪天候時に低体温症が発生する恐れがあるルートであることが陰に隠れていたのだが、新道が出来たことにより、悪天でもトムラウシを超えてトムラウシ温泉に下山しようという登山者が増えて、その結果トムラウシ山頂付近で低体温症による山岳遭難事故が続発、トムラウシを越えて行くルートは低体温症がきわめて発生しやすいルートであることが表面化してきたのだということが出来るのではなかろうか。

ともあれ今回の事件をきっかけに低体温症の認識も広がった筈ですので、悪天候の場合は、低体温症の発生を回避するために、ヒサゴ沼避難小屋からのいくつかのエスケープルートが登山計画に織り込まれねばならないでしょう。

では、実際、ヒサゴ沼避難小屋からどのようなエスケープルートがあったか、swanslab さまのご指摘にしたがって以下に二つのルートを検討します。

 これらのルートは、コマドリ沢沿いのルートが増水で危険なときでもこの道ならば大丈夫!として地元の岳人たちによって使われてきたものであり、当然、雨天でも安全に通過できるルートであるそうです。

zentaisetu
エスケープルートを検討する上で、この図表は周辺のルートが一発でわかり実に便利である。引用元は・・以下のアドレス。
http://www.ne.jp/asahi/slowly-hike/daisetsuzan/02taisetudata/11tozanguchi/00juusou.html

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エスケープルート①

tomuraushihisago
化雲岳、五色岳を経て沼の原(クチャンベツ)に下るルート(クリックで拡大します)

http://www.ne.jp/asahi/slowly-hike/daisetsuzan/02taisetudata/11tozanguchi/02kuchaunbetu.html

のんびりテント泊装備で9時間20分かかるとある。標準では、7時間といったところであろう。であるならば、トムラウシ温泉に下るのと時間的にはさして変らない。
ただし高度的には、ヒサゴ沼避難小屋から1時間20分かかって標高1954mの化雲岳、さらに、1時間20分で五色岳(1868m)となり、そこからは下るルートとなる。五色岳からは標高1600m付近まで木道があるそうである。標高1398mの五色の水場まで逃げることが出来れば、高度的には十分安全圏だろう。

ルート評価
のんびりテント泊装備で2時間40分ならば、18名のツアーで3時間30分ぐらいか?
そのくらいで五色岳を超えれば標高的には楽になる。
ヒサゴ沼避難小屋を5時30分に出て、4時間以内に五色岳を越えれば、朝10時ごろには、標高1800mぐらいまで下ることが出来て、安全圏に速やかにエスケープできたのではなかろうか?

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エスケープルート②

tenninkyo
化雲岳を経て天人峡温泉に下るルート(クリックで拡大します)

http://www.ne.jp/asahi/slowly-hike/daisetsuzan/02taisetudata/11tozanguchi/08tenninkyo.html

これは化雲岳から天人峡に下るルート、のんびりテント装備で8時間20分とある。
ヒサゴ沼避難小屋から1時間20分で化雲岳で、さらに1時間で標高1870mのポン沼まで行って、そこから3時間かけて標高1317mの第一公園に下る。
標高的には、第一公園まで下ると安全圏であろう。単純計算で5時間20分・・朝5時30分にスタートして、11時頃に第一公園となる。

ルート評価
これは一番安全なエスケープ・ルートではないのか?
ヒサゴ沼避難小屋に停滞できないのならば悪天を突いてこのルートを速やかに下山することになろう。
のんびりテント泊装備で8時間20分であるならば、18人のツアーでも、11時間ぐらいで余裕で下山できよう。
すなわち、午後4時30分頃には、天人峡温泉に下山できるはずである。

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さて、私はエスケープルート②がよいと判断したのですが、実際はどちらを選ぶべきでしょうか? 現地に通暁されておられるswanslabさまのご判断では以下のようになります・・。

ホテルバスの手配という面では天人峡ですが、若干森林限界での行動時間が長く距離もあります。風よけになる樹林帯にわりと短時間で入れる最短ルートという面では沼の原登山口がベストです。また、後続同社パーティは沼の原経由でヒサゴ沼に入ることになっているため、もし仮にエスケープの判断がなされるとすれば五色手前あたりで同社パーティ同士がすれ違う可能性のある、沼の原経由で下山することになったでしょう。

ここはひとつ、現地に詳しい方のご判断に従うことにいたします。


# by segl | 2009-07-26 23:19 | Ⅶ 省察
2009年 07月 26日
北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 追補6
考察⑧ トムラウシ山と美瑛岳の二つの山岳遭難事故に対する初期の捜索救助活動を比較してみます。

美瑛岳

※fusako@管理栄養士さまご提供の情報によりますと・・読売新聞北海道版 7月18日朝刊では

「緊迫の無線」
「すでに日没を迎え、通常なら捜索は困難だったが、救助隊は低体温症の遭難者がいることを重視。
「迅速な対応が必要」と入山を決め、午後9時20分頃、登山口を出発し、ヘッドライトを照らしながら、遭難現場に向かった。」

「避難小屋から南西に約1・5キロ離れた山道では男女3人がピバーグしており、救助隊は「早く救助しないと彼らも危ない」と現場に急行。うち男女2人は手足が震え、衰弱して歩けない状態だったが、隊員らは到着後「もう大丈夫だ」と励まし、テントを設営して夜明けまで保護したという。

とあるそうです。
これは、次の記事を裏打ちするものでしょう。

一方、美瑛岳で遭難したのは、兵庫県などの男女6人の登山パーティー。16日午後5時50分ごろに、「女性1人が寒さで動けなくなった」と、茨城県のツアー会社を通じて、119番通報があった。道警山岳救助隊ら12人が同日夜、救助に向かい、17日未明に同岳近くの美瑛富士避難小屋と山頂付近に別れていた6人と相次いで合流したが、このうち兵庫県姫路市の尾上敦子さん(64)の死亡が確認された。また、低体温症の2人を含む5人は命に別条はないという。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/177689.html

このように美瑛岳では、道警山岳救助隊による夜間捜索救助活動がなされたようです。
白金温泉の美瑛富士避難小屋登山口から2時間45分(標準コースタイム)で避難小屋に着くようですので、捜索救助隊は、おそらくこの登山口からアプローチをしたものと考えられます。
http://www.ne.jp/asahi/slowly-hike/daisetsuzan/02taisetudata/11tozanguchi/09shiroganeonsen.html

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一方、

トムラウシ山では・・


同6時ごろ  新得署員3人が同山短縮登山口に車両2台で到着
同8時半ごろ  男性2人、女性3人のグループから新得署に携帯電話で連絡。女性1人が意識不明で、近くに別に倒れている生死不明の男性を目撃したとの内容
同10時ごろ  グループから予定されていた携帯電話の連絡時間。連絡はなし
同10時15分  救急車が短縮登山口に到着
同11時すぎ  新得署に連絡があった携帯電話に電話するも不通
http://www.tokachi.co.jp/news/200907/20090717-0002084.php

17日未明から陸上自衛隊も加わり、道警も本格的に捜索開始

陸自
地上部隊40名
飛行部隊 2機

3.防衛省・自衛隊の対応
(1)派遣部隊
陸 自 第5戦車隊(鹿追)、第5飛行隊(帯広)

(2)派遣規模 
人 員 約40名
車 両   5両
航空機   2機
http://www.mod.go.jp/j/news/2009/07/17c.html


※16日午後6時に短縮登山口に3名の新得署員を向かわせ、さらに10時に救急車も向かわせたものの、こちらでは夜間捜索活動はなされなかったようです。

この点について

※fusako@管理栄養士 さまが読売新聞に問い合わせて確認された情報によりますと、トムラウシ山には捜索が入れなかった。
トムラウシ山は、天候が悪くて捜索隊は実は引き返したとのこと。 

だそうです。

標準コースタイムでは3時間15分で前トム平らに、4時間45分で南沼キャンプ地に到着できるようです。
http://www.ne.jp/asahi/slowly-hike/daisetsuzan/02taisetudata/11tozanguchi/01tomuraushi.html

もちろん、厳しく訓練されている山岳救助隊の隊員なら、時間的にはもっと早く現場に到着できたことでしょう。

山岳救助隊でさえも行動を差し控えた当日の悪天候が、夜間に多くの被救難者の命を奪う結果となり、今回の不幸な結末をもたらしたものと推察されます。

8人の死亡推定時刻は17日未明で、下山途中の雨と強風により、体の中枢温度が35度以下になる低体温症を発症、凍死したとみられる。
http://www.hokkaido-nl.jp/detail.cgi?id=1213

また、16日夕方には美栄瑛岳と、トムラウシ山の二箇所で山岳遭難が同時に発生したので、限られた人員と装備しか持たない北海道警察山岳救助隊の対応も極めて難しかったものと考えられます。山岳救助隊隊長も大変なご苦労をされたものと推察されます。


# by segl | 2009-07-26 11:41 | Ⅶ 省察
2009年 07月 24日
北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 追補5

考察⑦ 松本 仁ガイドの行動を考える。

※この記事において要となる情報は、貴重なコメントを寄せられた lb005 様 のご指摘によります、記して感謝させていただきます。


松本仁ガイドの行動に関しては最初から情報が錯綜していたのでここでまとめておきます。

キーポイントは、二点

☆警察への第一報をしたのは誰か?

☆松本ガイドはトムラウシ温泉へ自力下山できたのか?

これに焦点をあてて以下検討する。なお、検討に際しては、判断の客観性を保つために元の記事を掲げて、それを分析、検討する流れをとります。

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記事①
遭難時の様子については、「ガイド1人が付き添って下山を始めたが、ペースが速すぎてちりぢりになってしまった」という。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20090718k0000m040095000c.html?link_id=RSH04

記事②
残る16人でしばらく進んだが、さらに男女4人が体調を崩すなどして進めなくなり、ここにもガイド1人が残ることになった。5人はテントを張って野営した。
 この段階で、本隊はツアー客10人に対し、ガイド1人の11人。一行は下山を試みたが、ガイドが午後3時54分に5合目の「前トム平」から110番通報した内容は「ガイド1人、客2人の計3人がいます」というもので、ツアー客8人の行方を把握できなくなっていたという。
 その後、16日深夜から17日未明にかけ、3グループに分かれた計5人が自力で下山。17日の捜索では、山頂付近から登山道に沿う形で、「北沼」に7人、「山頂付近」に1人、「南沼キャンプ指定地」に1人、「前トム平」に3人、「コマドリ沢分岐」に1人と、登山客は5カ所に分かれて見つかった。
自力で下山した男性は「ガイドのペースが速すぎて脱落して1人になった」「山中で野営し、17日午前3時半に再び歩き始めたところで車が来て拾われた」と話した。
http://www.asahi.com/national/update/0718/TKY200907170469.html

分析 
☆ガイドが110番通報したとある。

☆ガイドが先行→散り散りに→自力下山した男性によるとガイドのペースが速すぎて脱落した。・・ということは、この男性よりも松本仁ガイドは先行したはずであり、(この記事でもそうであるが、他の記事でも、ガイドを含む3人が前トム平から警察に連絡してきたとあるので・・)ガイドは、自力下山した5名に含まれているのだろうとの推測が成り立つ。(極論するならば、ニュース初期は、松本ガイドは、ツアー客を見捨てて真っ先に下山してしまった・・といった情報が流れていた。)

記事③
16日午前に女性1人が低体温症になり、ガイド1人と山頂付近にとどまった。これとは別に、女性1人が意識不明となり、ガイド1人を含め男女5人がビバークしているもよう。残る男女11人は下山を続け、この中のガイドから携帯電話で110番があった。11人のうち、亀田通行さん(64)と前田和子さん(64)=いずれも広島市=ら4人は無事下山したという。
 このパーティーは、13日に北海道入り。17日までの日程で登山する計画を立てており、16日にトムラウシ山に登った後、温泉に宿泊する予定だった。(2009/07/17-02:21)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200907/2009071601013&rel=j&g=soc

分析 
☆見ての通り、ガイド(松本 仁ガイド)から携帯電話で110番があったとある。

記事④
道警によると、遭難の一報が入ったのは、登山ツアーを企画した東京都千代田区の旅行会社。遭難した18人のパーティーのうち3人が、携帯電話の電波が通じる5合目まで下山して通報した。携帯電話のメールでは、「4人の具合が悪い。かなり危ない」とガイドが伝えてきたという。
(2009年7月17日14時56分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090717-OYT1T00611.htm?from=nwla

分析 
☆記事内容は3人が前トム平まで下山して警察に通報してきたといった内容。ちなみに携帯電話のメールというのは頂上付近のビバークメンバーからのもので、ここに出てくるガイドとは多田学央ガイドであろう。

記事⑤

kikaku
http://www.tokachi.co.jp/feature/200907/20090718-0002104.php

分析
☆図表を見る限り松本仁ガイドはコマドリ沢分岐で発見されたようだ(つまり彼は自力下山できていない)。

記事①~④を前提にすると、何故、11人の先を切って歩き、前トム平から110番通報したガイドが何故こんなところで発見されるのか?と疑問になる。 
ツアー客のためにあえてここにとどまったのか?あるいはルートを間違えたのか?と推測がなされる。

記事⑥
同10時44分  登山客がコマドリ沢付近の雪渓で倒れている男性を発見し110番通報。男性は「マツモトヒトシ」と名乗り、ツアースタッフの松本仁さん(38)=愛知県一宮市=とみて救助、帯広厚生病院に搬送
http://www.tokachi.co.jp/news/200907/20090717-0002084.php

分析
☆記事⑤と一致する内容、これにより松本仁ガイドが自力下山できず、コマドリ沢分岐で発見されたのは事実であるようだ。

記事⑦
読売新聞18日夕刊(東京都多摩版 一面)によると以下のようである。
「5合目まで下りた午後4時前にはガイドを含む3人が動けなくなった。ガイドは携帯電話で「動けなくなった」と道警に通報。残る8人がさらに登山口を目指したが、体力の消耗が激しい登山客の歩みは遅く、隊列も崩れ、最後は散り散りになって下山したという。」

分析
☆ガイドがこの記事でも110番通報していることになっていて、目新しいのは、「(ガイド自身も)動けなくなった」と言う報告内容。ガイドの疲労状況に触れている記事は他になくこの夕刊の記事だけでは信憑性に疑問があった。もしこの記事の通りであるとしたら、松本仁ガイドは疲労してコマドリ沢分岐で力尽きたと推察できることになる。

記事⑧

第1報
 正午ごろ、松本さんは戸田さんら10人を連れて下山を開始。しかし「早く救助を呼ばないと」と急ぐ松本さんの足が速く、11人はすぐばらばらに。足がもつれ始めていた松本さんも、約5キロ先のコマドリ沢分岐付近で動けなくなった。前田和子さん(64)=広島市=が「起きて。子供もいるんでしょ」と声をかけたが、座り込んだまま。
 その時、前田さんの携帯電話が鳴った。午後3時48分、心配した夫(67)からだった。電話が通じることが分かり前田さんらは午後3時54分、110番。遭難の第一報だった。
 ろれつが回らない松本さん。そこに亀田通行さん(64)=広島市=が追いついた。松本さんから次の指示はなく、亀田さんは「2人で帰ります」。前田さんと亀田さんは暗くなった登山道を歩き、16日午後11時45分、下山。
 松本さんは17日、風を避けるようにハイマツの下にいたのを発見、救助された。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/090723/dst0907231350013-n2.htm

分析
☆この記事は生存者2名(前田和子さん、亀田通行さん)の証言に基づいている、2人の証言内容は矛盾していないので極めて信用性が高い。
☆この記事では、第一報の場所が、前トム平(標高1700m)ではなく、もっと標高が低い(標高1400m程度)、コマドリ沢分岐となっている。ちなみに、ここは、松本仁ガイドが翌日10時過ぎに発見された場所。松本ガイドはここで座り込み、そのまま一歩も動けずに、ここで夜を明かし翌日発見された模様である。
☆第一報は、ツアー客の前田和子さんによるものであるようだ。
☆松本仁ガイドは、現場で、ろれつが廻らず、次の指示が出せなかったくらい悪い体調になっていた。よって、彼が自ら110番通報したというのは、考えにくい。

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記事⑧の全文

dst0907231350013-p2

悪天候の山中、極限状態で次々と… 大雪山遭難ドキュメント (1/3ページ)
2009.7.23 13:46

このニュースのトピックス:航空・海難・山岳事故
 中高年の登山客ら10人が死亡した北海道・大雪山系の遭難事故は、23日で1週間。「アミューズトラベル」(東京、松下政市社長)のツアー客とガイド18人のうち、8人が死亡したトムラウシ山(2141メートル)では、自力で下山したツアー客の証言から、悪天候の山中で極限状態になった様子が明らかになってきた。


トムラウシ遭難 生存者が証言

 一行は14日午前に東川町の旭岳から入山。約12キロを歩いて白雲岳避難小屋に宿泊したが、夜から雨が降りだした。翌15日は約9時間で約18キロの縦走を続け、午後2時ごろ、ヒサゴ沼避難小屋に到着した。

 ぬかるんだ道を歩き続けてきたが、別パーティーの静岡県の男性(66)は「そのときは特別に疲れた様子もなく、わいわいと楽しそうにしていた」と話す。しかし小屋では干したレインウエアから滴が落ち、寝袋がぬれて、寝られない人もいた。疲れが取れる場所ではなかった。


奇声

 翌朝は3時半起床。雨と風が強く、出発予定が30分遅くなった。ガイドは「午後から晴れるから大丈夫」と説明し、午前5時半に小屋を出発。しかし稜線(りようせん)に出ると吹きすさぶ風に体力を奪われ、遅れる人が出始めた。

 午前10時半ごろ、約4キロ進んだ北沼分岐付近で歩けなくなる人が出た。座り込んだ人を囲んで風よけをつくった。ガイドは待機を指示したが、約1時間半後には「寒い、寒い」と奇声を発する人も。戸田新介さん(65)=愛知県清須市=は「これは遭難だ。救援を要請しろ」と怒鳴った。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/090723/dst0907231350013-n1.htm

悪天候の山中、極限状態で次々と… 大雪山遭難ドキュメント (2/3ページ)
2009.7.23 13:46

このニュースのトピックス:航空・海難・山岳事故

 ガイド3人が協議し、死亡した吉川寛さん(61)=広島県廿日市市=と多田学央さん(32)が、客5人とテントを張って残ることを決断。多田さんは松本仁さん(38)に「10人を下まで連れて行ってくれ」と頼んだ。


第1報

 正午ごろ、松本さんは戸田さんら10人を連れて下山を開始。しかし「早く救助を呼ばないと」と急ぐ松本さんの足が速く、11人はすぐばらばらに。足がもつれ始めていた松本さんも、約5キロ先のコマドリ沢分岐付近で動けなくなった。前田和子さん(64)=広島市=が「起きて。子供もいるんでしょ」と声をかけたが、座り込んだまま。

 その時、前田さんの携帯電話が鳴った。午後3時48分、心配した夫(67)からだった。電話が通じることが分かり前田さんらは午後3時54分、110番。遭難の第一報だった。

 ろれつが回らない松本さん。そこに亀田通行さん(64)=広島市=が追いついた。松本さんから次の指示はなく、亀田さんは「2人で帰ります」。前田さんと亀田さんは暗くなった登山道を歩き、16日午後11時45分、下山。

 松本さんは17日、風を避けるようにハイマツの下にいたのを発見、救助された。


生還と死

 一方、戸田さんは11人がばらばらになった後、コマドリ沢分岐から山頂方向に約1キロの前トム平の手前で、歩けなくなった女性に手を貸していた長田良子さん(69)=仙台市=に「手伝って」と頼まれた。もう1人女性がいたが、突然倒れて起き上がらない。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/090723/dst0907231350013-n2.htm

悪天候の山中、極限状態で次々と… 大雪山遭難ドキュメント (3/3ページ)
2009.7.23 13:46

このニュースのトピックス:航空・海難・山岳事故

 戸田さんらは2人を引っ張って雪渓を滑り降りたが、戸田さんは「自分のやれる範囲を超えている」と思い、歩き始めた。近くでは真鍋記余子さん(55)=浜松市=が別の女性を介抱していた。

 歩き始めた戸田さんはビバーク(一時露営)のための場所を探した。しばらくして追いついてきた長田さんに「ビバークしたら死んじゃう。一緒に頑張りましょう」と励まされ、また歩き出した。

 その後、長田さんは斐品真次さん(61)=山口県岩国市=と17日午前0時55分、自力で下山。戸田さんは途中で仮眠を取り、午前4時45分に下山した。真鍋さんは手を貸していた女性とビバーク。午前5時17分に道警ヘリに救助されたが、女性は冷たくなっていた。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/090723/dst0907231350013-n3.htm


※この記事情報は、貴重なコメントを寄せられた lb005 様 のご指摘によります、記して感謝させていただきます。

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まとめ

☆第一報は、16日午後3時54分の警察への110番通報はツアー参加者の前田和子さんによりなされた模様である。そして、通報の現場は、前トム平ではなく、コマドリ沢分岐であるようだ。

☆松本仁ガイドは、自力下山はおろか、コマドリ沢分岐で救助された。コマドリ沢分岐まで引率して力尽きたと考えられる。


考察

松本仁ガイドに関しては、当初、情報不足から、勝手に自力下山したのではないか?などといった流言蜚語がなされていたが、生存者二名の証言により彼の行動が、明らかとなった。

松本仁ガイド自身も、ツアー客同様に当日の悪天候のもと行動し続けて、体調が悪化しつつあったのである。それでも頑張って前田和子さんを引率してコマドリ沢分岐まで下降できたのは、不幸中の幸いだと考える。(そこで携帯電話が通じて110番通報がやっとできたのであるから・・。)
これがもし、前トム平あたりで、松本ガイド自身も倒れていたら・・どうなったか、他のツアー客への動揺が甚だしかったのではなかろうか?

それを思うと、松本仁ガイドは、体力の限界を感じつつも出来る限りのことをやったのではなかったか、とも思えるのである。

もちろん、当日の天候判断の予測に失敗し、ツアー客に残された体力の判断にも失敗し、引率のツアー客を18時間(人によってはそれ以上)行動させて生命の危険にさらす結果となったこと、ツアーガイドを含む18名のうち8名もの人間を低体温症で凍死させてしまったことへの社会的な非難は(たとえ、自らも倒れてしまったとしても)ツアー企画会社と、生き残ったもう一人のガイドともども受けなければならない。

ガイドというものは、たとえ自ら斃れても、客の安全を第一に考えなければならないものなのだと考える。
以前、テレビの映画で、ヨーロッパのガイドが、岩壁で墜落して、しばらくザイルにぶら下がっていたが、やがて自らザイルをナイフで切って墜死するシーンがあった。
そんな誇り高きガイド気質であるからこそ、ヨーロッパでは、ガイドへの信頼や山岳ガイドの社会的な地位が高いのであろう。

日本の山岳ガイドへの信頼は、ツアー価格の安さや、客が分担する荷物が軽いことによってではなく、そういったいざというときには自らの生命を賭してまで客の身を守ってくれた、といった客観的事実の積み重ねによって時間をかけてつくられてゆかねばならないものだと考える。


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その他の資料

トムラウシ遭難 「天候は回復」と判断 同行ガイド道警に説明 (07/22 06:44)
 【新得】大雪山系トムラウシ山(2141メートル)でツアー客ら8人が凍死した遭難事故で、同行したガイドの1人が道警の調べに対し、遭難した16日の早朝、雨模様の中で出発したことについて「前線が抜けたため、これから天候が回復すると判断した」と説明していることが21日、道警への取材で分かった。その後、天候はさらに悪化しており、道警は出発時のガイドの判断が適切だったか、慎重に調べている。

 道警などによると、説明したガイドは、同行した3人(うち1人死亡)のうち、無事だった札幌市内の男性ガイド(32)。ガイドらは天気概況から、天気が同日中に回復すると判断し、16日午前5時半、ツアー客と計18人で、ヒサゴ沼避難小屋を出発。当時、雨が降り、風も強かったという。
 札幌管区気象台によると、前日の15日午後9時の時点で、低気圧から延びる前線が道内を通過していた。しかし、同気象台は「(今回のような場合)前線が抜けても、雨量が減るだけで、むしろ風は強まり、気温は下がることの方が多い」とする。
 実際にパーティー出発後、風は横なぐりとなり、雨も勢いも増し、16日昼前にはツアー客が次々と寒さで動けなくなった。その後、計8人が凍死した。
 道警は出発の判断に加え、ガイドらの予測とは違って天候が一向に回復しないにもかかわらず、なぜ引き返さなかったのか調べる方針。愛知県内のガイド(38)についても体調が回復し次第、事情を聴く。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/178454.html


トムラウシ避難小屋新設を新得町が要請へ (07/23 07:06)
 【新得】十勝管内新得町のトムラウシ山で本州の登山ツアー客ら9人が死亡した事故を受け、同町の浜田正利町長は22日、同山への避難小屋新設やガイドの国家資格制度創設など再発防止策を、国や道の関係機関に要請することを検討する考えを明らかにした。

 トムラウシ山には、今回事故が起きたヒサゴ沼から短縮登山口まで、通常で8~9時間かかるとされるルート間に避難小屋がなく、以前から天候悪化や負傷などのため日暮れまでに下山できないケースがある。浜田町長は「避難小屋新設は環境への影響などを考える必要があるが地元として要請を検討する。ガイドについては登山者の命を守るために、より厳格な資格制度が必要だ」と話している。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/178662.html


7年前 トムラウシ山で遭難 母の死 なぜ学ばぬ
2009年7月23日 13時51分

 「あの時と同じルートで、同じ悪天候。なぜこんなにも犠牲者が出てしまったのか」。北海道大雪山系のトムラウシ山(2、141メートル)で、アミューズトラベル(東京都千代田区)主催のツアーに参加した客とガイドの8人が命を落とした惨事から23日で1週間。その同じ山で7年前、葛西あき子さん=愛知県東海市荒尾町、当時(59)=が逝った。遭難の知らせは、長男の功一さん(42)=同=に「あの時」を思い起こさせた。 (太田鉄弥)

 「えっ」

 十六日夜、携帯電話のニュース速報で表示された文字にくぎ付けとなった。トムラウシ。忘れられない名前だった。あき子さんは登山仲間三人とともに二〇〇二年七月、大雪山系を縦走。最終日の十一日朝、台風が近づきつつあったが、小屋を出た。

 下山まで十時間かかる長いルート。山頂付近は遮る物がなく、強風で歩けない。雨が容赦なく体温を奪う。体感気温は氷点下。あき子さんは低体温症で動けなくなり、命を落とした。近くで、別の一行の女性=当時(58)=も亡くなった。

 今回もまた、強風と雨が命を奪った。「小屋を出なければ、何も起きなかった」。悪天候で抜けられるようなルートではないという七年前の教訓は、生かされなかった。

 「本格的な山は、これが最後ね」

 出発前、珍しく電話をくれた母と、北海道新得町の遺体安置所で再会した。化粧を施された顔は、眠っているかのようだった。

 夜、父の義美さん(73)と弟の男三人で、警察が手配してくれた宿の温泉につかり、座敷でビールを飲んだ。会話らしい会話はない。頭の中は真っ白だった。

 翌日、ひつぎに入った母を連れて帰る空港で告げられた。「遺体は貨物の手続きとなります」。母の“運賃”は、キロ単位で計算され、八万数千円。現実を突き付けられた。

 明るかった母。息子二人、娘一人を育て上げ、四十代半ばで登山を始めた。日記に、日本百名山のうち訪れた九十以上の名峰と、出合った高山植物が記されていた。

 「好きな山で死んだ母は、本望だったんじゃないだろうか」

 何とかそう思えるようになったのは、四年ほど過ぎてから。当時の新聞記事の切り抜きを毎日眺めては悲しみに暮れる父も、「本望だろう」とようやく賛同してくれた。

 それだけに、今回の遭難で残された遺族や友人が直面する喪失感は人ごとではない。

 より安全であるべきツアー登山で、悲劇が繰り返された。功一さんは問う。「七年前のことに学んでいれば、小屋にとどまるという判断があったかもしれない。ツアー会社は安全の確保を真剣に考えてきたのだろうか」
(東京新聞)
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2009072390135105.html



# by segl | 2009-07-24 12:08 | Ⅶ 省察


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