2009年 08月 02日
追補12 今回の事故について戸田新介様のご意見 と 幾つかのご回答 2
戸田様よりメッセージをいただきましたので原文のまま掲示させていただきます。


自分の言ってることはあくまで推理です。しかし当時のことを知ってる人は限られていて、責任の重さを感じています。ほかの人と話せるとはっきりするんですが。トムラウシ分岐で停滞したのが10:30~12:00とされているのも自分が言い出したことが独り歩きしたようです。1時間30分の長さは「少なくとも」という意味で言ったのですが、10時30分は出発時からのおおよそをのべたのです。それが確定した事実のように扱われてしまって誰が言い出したかわからなくなりそうで、マスコミの怖いところです。




遭難発生時の時間と場所についてお聞きいたします。

19. 最初の故障者が発生した北沼に到着したのは11:30~との認識でよろしいでしょうか。


トムラウシ分岐に着いたときです。ここで停滞しました。その始まりが11時30分と自分は今は考えています。北沼に到着したときは小川を渡ったときで、11時ごろかとおもいます。



19-2 そこで吉川さんが故障者に付き添いますが、その後一行が歩き出すのは何分後でしたでしょうか。


この故障者はすでにロックガーデンより前から吉川ガイドが付いていたようです。小川を渡るときも彼女だけ渡れず、32歳ガイドが別のところを探してきて手を伸ばしていました。この時38歳ガイドが水に入ったのだと思います。そして彼女をトムラウシ分岐まで連れてくる経緯が野首さんが語っているところでしょう。彼女をやっとトムラウシ分岐までつれてきて、十分に休ませるというのが停滞の原因だとおもいます。自分たちは何も知らされず彼女が来るまでと、彼女を休ませる時間を合わせて2時間待たされたのだと思います。1じ半に出発となりました。彼女を吉川ガイドのところに運ぶ予定で。



19-3 一行が前進を開始後、次の故障者が現れるのは場所はどこで何分後になりますか。


1時半に出発しようとしたら立てない人が一人出ました。低体温症が停滞中に発症したと思います。市川さんです。真鍋さんは彼女と一緒にツァーに参加したのですが、彼女が出発の時来なかったので心配していたと言っていました。
だから出発の時。出発のところで。彼女は32歳ガイドが機会をみつけて回収していったのでしょう。



19-4 32歳ガイドがテントを張って故障者を運び入れた地点と時間を覚えていましたら教えてください。
それは北沼から南沼方面にトラバースする道との分岐付近でしょうか。


じぶんたちはしゅっぱつしていたからわかりません。すぐではなく時間をかけて一人づつ運んだのでしょう。



19-5 32歳ガイドがケアに集中し始めた時点の一行の編成(各故障者とテントとの距離、故障していないパーティの位置)をご教示ください。


亀田   前田   真鍋  市川  岡  味田 竹内 長田   戸田  植垣 松本 第一故障者 植垣  斐品   野首  木村 女救出者 吉川
男生還 女生還 女生還  女亡 女亡 女亡 女亡 女生還 男生還 女亡 男生還 女亡     女亡 男生還 男生還  男亡 女生還  男亡
テントは32歳ガイドがあとで建てたのです。待機中はありません。



19-6 32歳ガイドが38歳ガイドに指示を出した時間と場所は第二の故障者収納テントと理解してよろしいでしょうか。


指示をだした時は出発から10分として1時40分。場所はトムラウシ分岐から70m下。テントはまだどこにもありません。吉川ガイドのところに2人を集めてどこにたてるかかんがえるということです。



19-7 1.5時間~2時間の滞在中に風や雨に変化はみられましたか。


始めより弱くなったと思います。雨はばらばらと降る感じです。風はむしろ乾くので心地よいにですが、のちに体が冷えると肌についた下着のあせでたえられなくなってくる。



19-8 滞在時間が長引いた原因は、32歳ガイドが故障者の搬送に追われていたからと理解してよろしいでしょうか。


動転していてなにをすべきか考えていないのだ。方針なるものがなく、全員を連れていくとの考えにしがみついたのだと思います。危機対応能力の問題です。できたことは後で考えることにして、現実に対し最善を尽くすのが普通の考えだと思いますが、かれはその点でじゅうだいな欠点をかかえていたということでしょう。搬送に追われたのは現象であり原因ではありません。さらに言えば、かれは頂上付近で電波が通ることを知っていたのです。4時30分に会社にメールをいれているのが証拠です。風雨が強かったからという説もありますが風雨はおさまってきています。かれは携帯を出して連絡しようともしていない。なお38歳ガイドに救援を依頼したというのもよくわからない。頂上でできるのになぜ下に行くのか。だれもそんな話は聞いていません。あれは38歳ガイドの行為が理解できずマスコミが作った仮説でしかない。かれは偶然によって110番に関与したが、自分の携帯で詳しく連絡を取ろうともしていない。さらに前トム平あたりでためそうともしていない。これが自分の仮説です。



20. 32歳ガイドが『トムラウシ分岐』で10名を確認してほしいと38歳ガイドに伝えたとのことですが
それは南沼キャンプ場の分岐のことですか。


トムラウシ分岐のことならそうですが、そこから70m下というところです。




とりあえず以上です。


毎度お手数をおかけいたします。

よろしく御願いいたします。

___________________________________________________________


戸田様

おはようございます。

戸田様の文がとても興味深いと、昨夜私の山仲間が電話をしてきました。
そのひといわく、ツアーにおいては延期が出来るわけがなく、ルートを変えることも先ず出来ないそうです。
理屈では、停滞するべきだとか、ルートを変えるべきだったといえるのですが、現実は、出来る相談ではなく、空論だそうです。

思うことをご自由にお書きいただいて構いません。
ご遠慮なさることはありません。


今回の事故はアミューズの体制に問題があると思います。最大の問題はあの2人がガイドになったことです。北海道が初めてで、下見もしないガイドなんて単なる荷物運びですよ。だれがこういう人選をしたのか、各営業所の責任者がいると思います。また全体を統括する本社の責任者がいるわけです。

札幌営業所はアミューズにとって先兵というか、現地事務所でしょう。ドル箱路線ですよ、アミューズの山旅の「花」ですよね。その責任者が32歳ガイドだと思います。札幌営業所、さらにはアミューズのエースだったと思います。大学をでて10年、6年ほどフリーのガイドをしていて(そのような話を聞きましたが違っているかもしれません。)今は札幌営業所の職員です。生活の安定は格段の差がありますよね。そして営業所職員としての考えがしみついて、今回はそれを優先させたのでしょう。宿や飛行機とか客の苦情とかの苦労がわかると、安全優先で通すことができないということでしょうか。


______________________________________________________


今回は、私が考えるご質問の続きです。swanslab様とは質問の傾向が多少異なりますが、よろしく御願い申し上げます。

なお、文中
頭にAがつく番号は前回(二回目)の私の質問からの続き(通し番号)です。
頭にAがつかない番号は、swanslab様のご質問番号です。


A⑧ 質問⑧のご回答にある風雨ですが、稜線で体験した暴風雨に近い状況を、過去本州のどこかの山行で体験されたご経験がありますでしょうか?このご質問の意図は、「このくらいの雨風は過去に経験したことがあり、なんとかやり過ごせる。」と戸田様に心理的余裕があったのかどうかにあります。


ありません。町で台風にあった時がそれです、ザックを担いで台風に出会えば同じだと思います。台風の時は山に登りません。


A⑨ これは確認ですが、質問⑧のご回答にフリースを着るとありますが、小屋を出るときは、質問A③のご回答にあります、モンべルジオライン3d長袖、と雨具だけだったのですね。


そうです。前日はそれで一日過ごしましたから。



A⑩ 質問⑩のご回答にある、カッパのボケットに入れていた非常食ですが、具体的にはどのようなものをどのくらい携帯しておられ、また補給されていたのでしょうか?


アミノバイタル3袋、これは天沼から日本庭園の間に立て続けに食べました。カロリーメイト2箱、全部たべました。


 
A⑪ 質問⑰のご回答に関して、ライトはお使いでしたか?それはヘッドライトですか、ハンドライトでしょうか?他のツアーメンバー斐品さんと長田さんは、ライトはお持ちでしたか?


3人ともヘッドランプです。長田さんは電池が弱くなったとかで誰かのあとに着きたがった。じぶんは彼女を道迷いに引き込んだので信用を失っていました。それで斐品さんの後についたようです。かれは前にこのコースを歩いたことがあると言っていました。



A⑫ 質問⑱のご回答に関連して、松本仁ガイドにお会いし、報告義務がある旨おっしゃられたときに、松本ガイドの体調はどうでしたか?低体温症発症の気配はございましたでしょうか?


彼は黙って聞いていたので分かりません。ただ一時間そこで休んでいたので回復していたようです。ということは低体温症でなく疲れか、または低体温症の軽度のものかそんなところだと思います。かれは本能的にここならなにもなしでもビバークできるとおもったと思います。痛々しいとか異常な感じはありません。風もほとんどありませんし。



A⑬ ガイドたちは、自分達が遭難状況にあるということを認めたくはなかったのでしょうか?
遭難騒ぎになるのを恐れていたのでしょうか?そのため、ことさらに110番通報に積極的ではなかったといえるふしは認められますか?


そうだと思います。大騒ぎになるのを嫌ったのでしょう。客に動揺を与えたくないと言っていますが。全員を下に連れていけると考えていたとしかおもえもせん。故障者がでなくても全員が降りるには夜遅くなると、コースを熟知していた彼なら分かると思うのですが。かれはそれでよいと考えたのでしょう。ビバークはありません。4にんようテントが1つですから。とにかく歩き続けるしかない。あるいは32歳ガイドはコマドリ沢でのビバークを考えていたのかもしれません。つまり故障者をここまで持ってくるとか。謎です。彼に聞いてみたいが言わないでしょう。かれはまじめすぎるのだと思います。社交的でもないとおもいます。花の知識は完ぺきです、色んなことを勉強したのだとおもいます。ただ机の上のべんきょうですね。本当はベテランガイドのもとで一定期間インターンとか研修をうけるとよいと思います。我流ではねえ。抜け落ちるところがありますから。



A⑭ ガイド3人の様子についてお伺いしますが、3人で幾度かあれこれ話し合っていたようなことはありましたか?ヒサゴ沼避難小屋でそういう状況を目撃したことはありますか?


普通はガイドはあまり相談はしないと思います。打ち合わせで済ますのだと。緊急時には相談するかというとどちらともいえない、今回はどうかというと32歳ガイドが客の不安の声に、天気が昼から回復するからといって説得したというところからは、他のガイドは32歳ガイドの判断にまかせたのだとおもいます。目撃はしていません。



A⑮ 戸田様がガイド3名について、それぞれに対する信頼を決定的に失ったのは何時頃でしょうか? あるいは最後まで、信頼できたガイドはいましたか?


38歳ガイドについては初めから期待をしていません。実は彼とは因縁がありまして、3週間前(6・20)に高妻山(戸隠の奥、百名山)に行った時彼が先頭のガイドだったが、かえりには途中から左の尾根に移るということになっていたところ、かれは分岐点で待っていず20m先で待つので、先行者のすがたを見失った客が直進してしまい「どこだどこだ」とさわいでるのです。それで動かないでといい、後詰めのガイドを待ったところ、すこしもどったところから降りるみちがあって合流できたのですが、後詰めのガイドに「分岐点では全員の数を確認してからおりてください」といわれていた。しかも帰りのバスのなかで彼がなにを言ったかというと「このコースは問題のコースで、先日もかえりが遅くなり終電に間に合わないといった騒ぎになり名古屋営業所で問題になったが、今回は一時間も早く着いた」と自慢げに話すのでこちらは絶句するだけでした。これはここではまだはなしてないとおもいます。


吉川ガイドはよくわかりません。ただ彼は添乗員の立場で参加していて(旅行業法で規制された国交大臣認可の資格だとか?)、その任務をつとめようとしていたようです。つねに最後をつめ客が隊列から抜け落ちるのをふせいでいたようです。ただし添乗員は客の様子に注意をはらい、そのうえでガイドと話し合うというのがすがただと思いますがかれが客のようすをきこうとしたことはありません。はやくに力を失って亡くなるというのは、最大の任務放棄だと思います。これは客の立場から言っています。彼の遺族からは別の意見があると思います。それを否定はしません。


32歳ガイドについてはよくやっていると思っていました。いまでも生還者のなかにはそういう意見があるでしょう。じぶんもずうとそうおもっていました。警察の調書の作成でもよくやっていたと言ったと思います。

ここで調書のことを述べておきます。事情を聞かれてよくじつ署名するのですが、まとめは事情をきいた警察官がするのです。そこには「一概にガイドたちを非難できない」という文言が最後にはいっているのです。じぶんはさらにだからと言って資質とか能力の点で問題がないわけではないと言ったつもりですがそれはなかった。自分はよくやったことはみとめるとして迂闊にもだきょうしてしまい署名をしてしまいました。宿に帰ってこれはまちがいだと気付き電話して取り消すと言ったのだが警察はとりあわないのだ。あとで道警から出張するか、地元警察に依頼することになるという。またいったん署名した調書は撤回できないという。そのあといちど道警にメールをいれたがそのうち連絡するというだけでいまだに連絡はない、このまま黙るのを待っているようですね。これが警察だとおもいました。そこで自分はどうしたらよいと思いますか、意見を聞かせてください。

32歳ガイドへの不信は事情をしらべて彼がすべて取り仕切っていたと気付いたからです。また4時30分のメールが頂上付近からだと、おしえていただいたからです。つまりかれは110番をできたのにしなっかたわけで人の命を考えないのだと気付いたからです。



A⑯ ヒサゴ沼避難小屋を出てから、コマドリ分岐に至るまで、ツアーメンバー以外の一般登山者と行き違ったり、追い越されたりしましたか。その際にその登山者と会話をなさいましたか?
もし差しさわりがなければ、どのような会話をなされたのか教えてください(例 今日は酷い天気ですねとか、どちらまで行くのですか?とか・・)。


自分は気付きませんでした。



A⑰ こちらでは、停滞するべきであるとか、ルートを変更するべきであったとか、いろんな議論があがっているのですが、 現場の雰囲気として、16日早朝、ヒサゴ沼避難小屋で、そういう議論はなされたのでしょうか?又もしなされたとして、実際に停滞または、ルート変更できたとお考えになりますか?


トイレに行っていて、帰ったら何もなかったから議論などなかったのでしょう。数人が中止をもうしでたというがこれもきいていません。自分はこんかいの山行についてなんの予備知識も身につけずに、2日まえに荷物一覧を書き出しバタバタとそろえたというていたらくでして、ツァーのよいところはそこにあると思っていました。じぶんでいくと一人ですからいつでも行けれる=いつもいけれないとなってしまいます。だからルート変更はしませんでした。停滞について、さきにすすむコースがどういう風なのかしらないので前日のように行けれると思っていました。ロックガーデンでこんなコースと分かっていれば自分なら止めるのにとおもいました。たぶん避難ルートを聞いてそちらに逃げたと思います。



A⑱ いわゆるトコロテン方式で、翌日は、同じアミューズツアーのグループがヒサゴ沼避難小屋に宿泊予定であった、であるから16日ツアーは出発せざるを得なかった、という意見があるのですが、これに関しては、どうお考えになりますか?


当然32歳ガイドのあたまにはそのことがあったでしょう。かれはこのばあいガイドの資格でありながら営業職員の考えで決めたのでしょう。営業職員としては次の客の不便も考えるでしょう。客は営業職員のかんがえの犠牲になったともいえます。客にとってはガイドの考えで動いていると思っていたから、これは裏切りに等しいと思います。彼は同じ義務と思っていただろうけれど。



_______________________________________________________________

とりあえずは、以上で御願いいたします。
またよろしく御願い申し上げます。





by segl | 2009-08-02 07:35 | Ⅶ 省察


< 前のページ      次のページ >