教育とはそもそも何をどうすること?
日本の教育状況を「公教育の機能不全」と表現した教育再生会議の2次報告が発表されました。
私にはとても「公教育の機能不全」を再生できる内容とは思えません。
今日は教育のそもそも論について書いてみたいと思います。
そもそも教育とは何をどうすることでしょうか。
普通に考えれば「教えて育てる」ということでしょう。
それでは育てる、育つとはどういうことでしょうか。私は職場の人材教育も小学校の教育も同じであると考えています。
それは「人を変化させる」「人が変化する」ことなのです。
どのように変化させるか。3つに分けられます。
1、できるようにすること(能力を変える)
2、悪い癖を直すこと(コミュニケーション力を変える)
3、心構えを変化させる(ものの見方、考え方を多様化させること)
「できるようになる」ことと、卒業することは違います。専門学校を含め卒業したからといって、社会にデビューできる力が備わったわけではありません。「できるようにする」教育とは自動車教習所のように、できるようになるまで卒業させない教育です。
現在、社会にデビューできない人がニートになっています。できるようにする教育をしてこなかった結果と私は判断しています。
悪い癖、小泉チルドレンのある女性議員は「傲慢だ」とたたかれました。コミュニケーション上の悪い癖があるため、相手(国民)に伝えたいことが正しく伝わらないのです。
まず、上目づかいで人を見る悪い癖です。官僚時代の部下とのコミュニケーションを彷彿させます。
次に、難しい英語を言葉の解説なしに使用する悪い癖です。言うまでもないでしょう。
私が上司ならば、官僚時代に身についたこのような悪い癖は即刻直させます。
ここでは説明しませんが、「いじめ」も同様に、いじめる人の「心の悪い癖」によりなされるものなのです。
最後の心構えを変えるということですが、心構えとは「物事に対処する心の準備。心づもり。気構え。(小学館国語辞典より)」ということです。人はそれぞれものの見方や考え方が違います。その違いに対処できる力を養いなさい、ということです。
教育の目的の一つは「できるようにすることである」と書きましたが、それでは教育により「どういうことができる人に」育てるべきなのでしょうか。教育再生会議の議論にはこのポイントが欠落しています。
もちろん「社会で行きぬいていける力を育む」ことが最終目的なのでしょうが、再生会議の多くのメンバーの本心は「競争できる人」「競争で勝っていける人」に育てたいと思っているのではないでしょうか。
しかしながら、この安倍政権が推し進める「競争主義社会」を構成する「競争ができる人」をいくら生み出す教育をしても、荒廃した日本社会は再生しません。機能不全に陥った公教育の再生もありえません。そう断言いたします。
「国家の品格」藤原正彦著より引用
実力主義を本当に徹底し始めたらどうなるでしょうか。例えば、同僚は全員がライバルになります。ベテランは新入りにノウハウを絶対教えなくなる。教えたら最後、自分が追い落とされてしまいます。したがって、いつも敵に囲まれているという、非常に不安定な、穏やかな心では生きていけない社会になってしまうのです。
<引用終了>
成果主義によりさまざまな格差が顕在化している今日の日本社会、事故や不祥事、殺人事件が多発する今日の日本社会、この不安定な日本社会に必要なのは「競争で勝つ人」ではありません。
今、求められているのは「協力できる人」です。職場や教育現場(教える人も教えられる人も同じです)において、協力し合ったり、教え合ったりすることができるWIN―WINのパラダイム(両者が勝つということを目指すものの見方や考え方)を持つ人です。
そして、再生会議の最重要な課題は「協力した人」をいかに評価するかのシステム構築であると私は考えます。
サッカーを考えると分かりやすいと思います。ゴールを決めた選手も高く評価されますが、同様にアシストした選手、サポートした選手、相手のゴールを死守した選手も高く評価されます。
同じことです。仕事や教育現場において協力した人やサポートした人を高く評価するシステムを日本社会に構築することこそが、この荒廃し不安定な日本社会を再生させる唯一の方法である、私はそう確信いたします。
まとめますが、教育再生会議は原点に戻り、「教育とは何をどうすることか」「どのような(ことができる)人間に育てるのか」を、段階別(例えば幼児教育、小学校低学年教育 〜 高校教育 大学教育)に分けて考え直す必要があります。
教育再生会議への苦言はこれからも続けて行きたい、私はそう考えております。
2007年06月02日